『ママレ』の設定で考えるスワッピングと2家族同居


 「サイゾー・ウーマン」の記事、「実写映画化『ママレード・ボーイ』はスワッピング漫画では!? トンデモ設定なのに支持されるワケ」でインタビューを受けて答えた。
http://www.cyzowoman.com/2018/04/post_182449_1.html


 このインタビューに関連して、もうちょっとここで書いてみたいことは、スワッピングと2家族の同居についてである。


 もともと編集部からの質問は、

しかし、大人になった今、改めて『ママレード・ボーイ』を読むと、離婚した光希と遊の両親が相手を入れ替えて再婚する設定に、「これって、2つの夫婦のスワッピング物語じゃないか?」と突っ込まずにはいられない。さらに再婚後、2組の家族が一緒に同居してるなんて、もはや乱交パーティーだ。にもかかわらず、なぜ誰もこのぶっ飛び設定に触れようとしないのか。

なのだが、ぼくは、こんなきわどい設定がなぜ読者である子どもたちに支持されたのか、という角度から答えた。
 回答そのものは、インタビュー記事の通りだが、少しだけ補足をしておく。

「コミュニティ家族」

 「ぶっ飛んだ設定」はむしろ少女マンガで待ち望まれているが、その「ぶっ飛んだ設定」を持ち込むことで逆に子どもたちにとって魅力や理想や憧れが増すことだ大事だ。

ママレード・ボーイ コミック 全8巻  完結セット

 『ママレード・ボーイ』で「連れ子の同居の恋愛」にする場合、ひとり親同士の結婚という形や、2夫婦が同居せず子どもたちだけの同棲(よくある海外赴任。それがダブルで重なるとか)という形などがありえるが、わざわざ2夫婦(2家族)の同居というスタイルを選んだのはなぜか、ということを考える必要がある。


 『ママレード・ボーイ』読者である小学生女子がそこに魅力を見出すとすれば、それが「親しい友だち家族との楽しい同居」ではないか。
 ぼくの保育園や小学生の人間関係をみると、親同士が子どもを預けあって、家族同然の付き合いをして、子どもたちも親しいというコミュニティが結構ある。あのコミュニティが進化して一つ屋根の下での「家族」になってしまうという設定だ。「コミュニティ家族」とでも言おうか。
 親しい友だち家族で遊びに行ったり、お出かけしたりする時は、子ども心には、このままずっと遊んでいたらいいな、と思えるような時空間である。
 実際、『ママレ』には全巻通じて、2つの家族が家の中でゲームをしたり、宿題をしたり、テレビを見たり、食事をしたり、旅行に行ったりするシーンが描かれ続ける。つまり、家族が非常に仲がいいのだ。


 連れ子をお互いに持ったステップファミリー……という設定はよくあるが、『ママレード・ボーイ』のようなコミュニティ家族は家庭の雰囲気、楽しさの度合いが全く異なる。劇的に楽しいのだ。


 『サザエさん』のような2世代が同居する拡大家族が解体し、核家族となった80年代*1を経て、共働きが広がった90年代初頭に、普通の核家族の家庭ではそこに楽しさを作り出せないのである。

オトナ目線で『ママレ』のスワッピング・2家族同居を考える

 子ども目線を外れて(つまり子どもが納得するかどうかを全然別にして)、オトナの目線で、もう一度『ママレ』の家族を考え直してみると、ある種の合理性が浮かび上がる。


 もし仲の良い家族とコミュニティを作れたら、住居費・食費などの生活費用や家事労働コストは共有ゆえに低下するのではないか。

……例えば、メルシナ・フェイ・パースは一八六〇年代に協同家事(cooperative housekeeping)の概念を示していた。
 パースの考え方はひとことでいえば、協同組合組織による家事労働の集約化というものであった。一二人から五〇人の女性が協同組合をつくり、そこで、家事労働を集約的に行う。協同組合の建物や設備は、組合の会員によってまかなわれる。料理、洗濯、裁縫、育児などがおここでおこなわれる。彼女たちには夫たちから賃金が支払われることになる。協同家事が成立すれば、家族向けのキッチンのない住宅と単身者むけのアパートメントをつくることができるとパースは考えていた。(柏木博『家事の政治学』p.13)

 単婚家族にはない、賑やかさ。楽しさ。


 そして、2夫婦のスワッピングは、一夫一婦制のもとでのセックスのタイミングのズレ、セックスレス、パートナーに「飽きる」という問題に対して、一つの解決策を与える。
 スワッピングについては坂爪真吾が『はじめての不倫学』の中でも論じているが、簡単に言えばよほど条件が整わなければストレスなしには広く実行できない、という旨のことを述べている。
 だが、逆に言えば、もしお互いの夫婦で完全な合意があれば、理想的とも言える解決策となる。


 これはぼくの勝手な設定(つまり妄想)だけど、『ママレ』の2夫婦は、単純にパートナーを交換しただけじゃなくて、前のパートナーともセックスし続けてるんじゃないのか。つまり実は「2夫婦」じゃなくて「4人で1組の夫婦=セックスグループ」だったんじゃないのか、と思う。
 坂爪が紹介しているが、スワッピングが単なるセックスのための交換であるのに対して、複数の恋愛感情を許容する「ポリアモリー」というものが存在する。
 もし『ママレ』が前のパートナーにもいまのパートナーにも恋愛感情を持っていたら、それはすでにスワッピングを超えた、ポリアモリーであるとさえ言える。


 しかし……家でセックスするのは相当にきついな、と思う。何よりも物理的に。完全に防音でプライベートな空間が設定されていればいざ知らず、2つの夫婦がいて、高校生の男女の子どもがいる住宅で、セックスをするのは至難であろう。ホテルとかに行くしかない。それと、セックスしなくても家でイチャイチャするというのは厳しいような気がする。


 ここでも逆に、子どもたちがおらずに4人の夫婦だけしかいなければ、全く問題がないようにも思われる。


 いずれにせよこんな具体的なことは小学生女子は考えないはずである。
 オトナが妄想して楽しむにはもってこいだ。

*1:核家族が広がった……というのは統計上は単純に言えないと言われている。「核家族世帯は、実は戦前から『主流派』だった」(H18版少子化社会白書 http://www8.cao.go.jp/shoushi/shoushika/whitepaper/measures/w-2006/18webhonpen/html/i1511110.html )。ただ80年代から単独世帯の割合が急増し、拡大家族の割合が減っていったことは間違いない。

本を出します 『マンガの「超」リアリズム』


マンガの「超」リアリズム 4月に花伝社から『マンガの「超」リアリズム』という本を出します。マンガ評論の書籍は2冊目になります。連載当時から反響があって、連載をしていた雑誌の編集の方から書籍化を強くすすめていただき、花伝社での出版の運びとなりました。

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萱野稔人『社会のしくみが手に取るようにわかる哲学入門』

社会のしくみが手に取るようにわかる哲学入門~複雑化する社会の答えは哲学の中にある 「サイゾー」で萱野が連載していたものをまとめた本。
 ときどきの社会事象を、わかりやすく大もとから解説する。
 「わかりやすく大もとから」というのが、池上彰的なそれではなく、哲学的にやろうという態度。
 というのは、初心者の疑問というものはそもそもラジカルな、根元的な問いを含んでいる。そのことをきちんとわかりやすく説明しようとすると徹底的に考えざるを得なくなるからである。
 まあ、萱野の本書が結果的にその課題にうまく応えているかどうかは別問題であるけどね。


 「4 なぜ日本のポストモダン思想は不毛だったのか?」は次のような書き出しだ。

 私が大学に進学したのは1989年ですが、そのころの日本の人文思想界ではポストモダンが全盛期で、少しでも哲学や思想に興味のある学生はほとんどと言っていいほどポストモダン思想(として紹介されていたもの)に感化されていました。
 愛知県の某地方都市でさして文化度の高くない高校生活を送っていた私は、ポストモダンなどというものが思想界を席巻していることを大学に入るまでまったく知らず、したがって当時スタートしてあがめられていたデリダドゥルーズといった哲学者たちの名前も知らなかったので、大学で先輩や同級生がポストモダンの用語や思想家の名前をつかって議論を交わしているのをみて驚いたものです。(p.56)

 その上で、萱野は当時の状況を厳しく総括する。

ただ、その当時日本でなされていたポストモダン論議の大部分は、いまから振り返るとひじょうに空疎なものでした。そのころ日本でだされていた書物や論文をいま読むと、あまりの無内容さと独りよがりな物言いに「よくこんなものにみんな熱中していたな」と恥ずかしくなってしまいます(もちろんだからといってドゥルーズフーコーの議論が無内容だということではありません、あくまでも日本の思想界の話です)。(p.56-57)

 ポストモダン思想への嫌悪は、萱野の初期の著作『国家とはなにか』の頃からにじみ出ていて、その後の彼の著作を読むと端々にそれが感じられた。
 本書のこの部分では、岩井克人貨幣論』が槍玉に挙げられる。

ポストモダン思想における貨幣論では、往往にしてマルクスの『資本論』(第一巻:1867年)における価値形態論が引き合いにだされ、それが記号論的に読み替えられることで、次のように論じられることが定番でした。すなわち「貨幣が貨幣としての価値をもつのは、みんながそれを貨幣として使っているからである(つまり、みんながそれを価値あるものとして受け取ってくれるから、私たちは紙幣を価値あるものとして受け取るのである)」と。(p.58)

 “こんなものは何も説明していない、単なるトートロジーではないか”と萱野は批判するのである。
 岩井克人が最近新聞に引っ張り出されてきて話をしているのをみたが、それはビットコインなどの仮想通貨についてのコメントであった。


 仮想通貨は、それ自体は無価値なものである。
 この点は紙幣と同じである。
 そのことはぼくも過日のエントリで書いた。
http://d.hatena.ne.jp/kamiyakenkyujo/20171224


 無価値なものが流通手段機能を果たし、通貨として働くのはなぜか?
 端的に言えば、岩井は「みんなが受け取ってくれるから」というわけだが、萱野は、本書で、「徴税力こそが貨幣の価値の裏づけとなる」(p.61)と言っている。萱野は徴税力を次のように補足的に説明する。

 徴税力とは単に政府の権力の大きさや国民からの支持だけを意味するのではありません。税を支払う人びと(国民)の経済力も、その政府がどれぐらいの額の税を徴収できるかを決定します。
 要するに徴税力とはその国の「国力」全体をあらわすものなんですね。(p.61)

 マルクスは紙幣がなぜ流通するのか、という問いに対して、国家による強制通用力があるから、説明していた。つまり、権力を持っていたからだ、というのである。


 権力を持っているから通用する、というのは「ほら、受け取れよ」ということを暴力をバックに強制できる、という意味であるが、マルクスの時代はその説明で済んだ。なぜなら、紙幣は価値の実態を持つ金(gold)の裏づけがあり、交換を保証してくれたからである。紙幣は単に「私は金100グラムを持ってますよ」という証明のようなものだった。


 しかし、今は金の裏づけはなくなっている。
 それなのに、なぜ紙幣という無価値なものが通用し続けるのか。
 萱野があげた「徴税力」は、いざというときは、国家が「徴税」という形で価値の実体のあるものをどこからか集めてきて引き換えてくれる、という意味にとっていいんじゃないかと思う。ぼく流の解釈だけど。
 そのコアにあるのは、国家権力、国家がふるえる物理的暴力の脅しである。
 ただ、いくら棍棒を持っていても、棍棒を振るわれる国民の方が富を持っていないと話にならないので、萱野のいう「国力」とは、「国家の棍棒+その国民の富」の大きさ、ということになる。いざというときは、その「国力」で、紙幣と富を引き換えてくれるから、安心して使ってください――こういう理屈で紙幣は通用する。


 この説明はなかなかよくできている。
 単に「国家権力の裏づけがあるから」という説明だけだと、例えば貧しい国家の紙幣はあんまり信用されない理由がわからない。貧しい国家は、いくら棍棒を振るっても国民も貧しいので富が集められないのだ。


 この説明は、ビットコインのような仮想通貨と紙幣の違いをも説明する。
 同じ無価値なものであっても、仮想通貨には「徴税力」の裏づけがない。だから、資産価値がゼロになった時(つまり「欲しい」という需要がなくなった時)、本当に無価値になってしまう。


 他方で、ビットコインのような仮想通貨がなぜ流通するのか、という説明としては萱野の説明は苦しい。岩井の説明、「みんなが受け取るからそれは貨幣なのだ」がまさに仮想通貨を言い当てているかのようである。


 萱野が不換紙幣・管理通貨制度下の紙幣の根拠が「徴税力」=「国力」であるというなら、逆に言えば、仮想通貨のようなものは通貨たり得ない、と主張していることになる。
 これは萱野の予言ではないか?
 つまり、ビットコインのような仮想通貨は実は通貨たり得ず、やがて消えて行くのだ、という。今通貨としての通用力をもっているのは、一時的な現象に過ぎない……と。いや別に萱野はこんなことを言っているかどうか知らないが、萱野の主張を延長していくとこういうことが言えてしまうのではないか。


 紙幣自体は、金と違い*1、価値を持たない、無価値なものである。
 しかし、紙幣は国家が「徴税力」=国力の裏付けを持っているので、いざという時はなんとかしてくれるかもしれないという期待がある。
 ところが、仮想通貨はそうではない。
 仮想通貨は、それ自体は紙幣と同様に無価値なものである。だから「1万円」という表示がしてあっても、それ自体が1万の価値を持っているのではなく、「1万円の価値物との交換をしてくれる」証票のようなものにすぎない。価値の実体的な裏付けも、客観的な担保もないのに、「貨幣として受け取る」という合意だけで成立しているのが仮想通貨である。これほど岩井の想定を裏付ける存在はあるまい。
 岩井は、朝日新聞のインタビューで、仮想通貨が無価値な流通手段のままでいることをやめて、分不相応な資産的価値を持ってしまったことを嘆いている。

――貨幣になるには、何が不足しているのでしょうか。
「いえ、逆に過剰な価値を持ってしまったのです。あるモノが貨幣として使われるのは、それ自体にモノとしての価値があるからではありません。だれもが『他人も貨幣として受け取ってくれる』と予想するからだれもが受け取る、という予想の自己循環論法によるものです。実際、もしモノとしての価値が貨幣としての価値を上回れば、それをモノとして使うために手放そうとしませんから、貨幣としては流通しなくなります」

https://www.asahi.com/articles/DA3S13318005.html

 もし、今の仮想通貨バブルが弾ければ、仮想通貨は資産価値を持たなくなる。
 その時、初めてただの流通手段・決済手段としての純粋な通貨として仮想通貨が現れる可能性は確かにある。


 萱野的な予測が勝利するのか、岩井の理屈が勝つのかは、ぼくには今のところどちらとも軍配をあげにくい。


 なお、萱野は、本章を

国家は単に犯罪を取り締まり、市場での交換のもととなる所有権を保護することによって、外在的に市場とかかわっているのではありません。徴税をつうじて貨幣の価値を支えることで内在的に市場を構成しているのです。(p.63)

と結んでいる。
 これはマルクス主義を意識しているのだろう。
 つまり、資本主義国家は経済にとって外在的な存在なのだというアレだ。この点への批判もまた萱野が『国家とはなにか』から唱え続けていることだ。
 しかし、この萱野の考え(国家は貨幣という点で市場に内在的に役割を果たす)は、例えば近代初期において金・銀が国家の関わりなく国際的な決済に使われ、人々によって追い求められてきた、という歴史をうまく説明できなくなるマルクスは、商品経済の中で、貨幣が国家権力の媒介なく自立的に登場して「金」という形態を得ることを、萱野が参考文献として紹介したはずの『資本論』のなかで説明しているのだ。


 萱野の説明は、不換紙幣の説明としてはうまくできているが、それ以前の価値物としての貨幣、それ以後の仮想通貨を説明するのには向いていない、という気がする。

萱野は右傾化したか

 なお、萱野については「右傾化した」という批判がネットを中心に非常に多い。
 正直、本書でも各テーマのポジショニングだけを問題にすればそれは「右」の方にいるな、ということは言える。テレビや新聞で萱野の発言を見ていても、同断である。


 萱野は例えば『ナショナリズムは悪なのか』(NHK出版新書)でも表明しているし、本書でも上記のような物言いをしているように、自身の学生時代に自分の周囲にいたであろうポストモダン的な左派に非常に強い嫌悪感を覚えている。いったん、自身がそこに身を沈めつつ、違和感からそこを脱却したような感じであろう。
 ナショナリズムが俗悪な形で現れた時(例えばヘイトスピーチのような排外主義)、それは「反ナショナリズム」でいいのか、という問いの仕方は、ぼくは誠実なものだと考える。


 他に、萱野は例えばベーシック・インカムには批判的である。
 ぼくも現時点ではベーシック・インカムの現実的導入には課題が多すぎると感じていて、具体的な社会保障制度の改革が積み重なって結果的にベーシック・インカムのような「最低生活保障」に到達する、というのが一番現実的ではないかと思っている。だからベーシック・インカムに手放しで賛成する向きに批判的な萱野の気持ちはわからないでもない。


 萱野が結果的に「右」にきてしまっているのは、彼なりの知的誠実さの結果だと思いたい。むしろ萱野を乗り越えるつもりで左派は具体的対案を考えるべきで、萱野が「右」に行ってしまったこと自体を非難することに、あまり意味はないと思う。

*1:マルクスの説明では、金はその採掘に莫大な労働量を投下すし少ない量で大きな価値を表すとされている。

拙著が大学入試の問題に採用


(118)どこまでやるか、町内会 (ポプラ新書) さっき、出版社から通知が来ていて、ぼくの『どこまでやるか、町内会』(ポプラ新書)の文章が鳥取大学の小論文の入試問題に採用されていて、ついては過去問集に載せたいから著作権者として許諾をくれ、ということが書かれていた。


 ぼくは知らなかったのだが、著作権法第36条には次のような定めがある。

第三十六条 公表された著作物については、入学試験その他人の学識技能に関する試験又は検定の目的上必要と認められる限度において、当該試験又は検定の問題として複製し、又は公衆送信(放送又は有線放送を除き、自動公衆送信の場合にあつては送信可能化を含む。次項において同じ。)を行うことができる。ただし、当該著作物の種類及び用途並びに当該公衆送信の態様に照らし著作権者の利益を不当に害することとなる場合は、この限りでない。


2 営利を目的として前項の複製又は公衆送信を行う者は、通常の使用料の額に相当する額の補償金を著作権者に支払わなければならない。

 いちいち入学試験についての規定があるんかい……と驚かざるを得なかった。もともと学校教育で使うものは規制が緩和されていることは知っていたが、入試は後で付け加えられた条項のようだ。グレーゾーンだったから整理したのだろう。


 どんな問題か、興味はある。
 よく言われるように、著作者がうまく問題を解けない、みたいな話はある。
 その入試では、ぼくが新聞記事や政府の事例集などを引用している部分を使って問題を出していた。「そこを使うのか」と意外に思わないでもなかったが、たしかに「著者の主張」はそこにおいて出ている。
 町内会をめぐる問題を基本点から学生たちにわかるように、しかも著作権法上の規定を損なわずにぼくの著作から利用し、しかも著者であるぼくの主張のコアもきちんと汲み取らせるというのは、なかなかできることではない。出題者に脱帽である。


 ぼくが『どこまでやるか、町内会』で提起したこと――町内会活動の本当のコアはコミュニティ意識やお隣さん意識の醸成さえあれば良く、町内会の負担の抜本的リストラを行うべきである、それこそが町内会の自発的な担い手を増やし、町内会の本来的な発展の道だ――は、新自由主義のもとで市町村が次々に公的な責任を解除して仕事を町内会に下請けさせる流れがつよまる中で、ますます問われるテーマになっている。


 つい今しがた、隣町の元町内会長――彼はもう高齢のコミュニストである(仮にAさん、としておく)――から電話があった。隣町ではいまの町内会長が就任後すぐに病で倒れ、副会長がずっと代行していたのだが、隣町の会長報酬50万円(年間)は倒れていた会長に渡ったが、事実上会長の職務をほぼ1年間代行していた副会長には手当の増額も何もないのだが、今後もそれでいいのか、意見を聞かせてほしいという相談だった。


 Aさんが会長をしていたのはほんの数年前だが、その時に「これでは担い手ができない」というので会長手当を30万円(年)に引き上げたという。シルバー人材センターで働いても年間それくらいは稼ぐから、ということが根拠のようだった。
 Aさんは役所から持ち込まれる「依頼仕事」に抗しつづけてきたが、会長も代わり、今ではAさんの時よりもはるかにたくさんの仕事が行政から持ち込まれてきているという。そのもとで本当に会長の引受手はいない、という。
 業務量がリストラできればいいけども、もしそれができない場合は、会長や役員の手当を引き上げることは、町内会の合意さえあれば、致し方ないことだとぼくは思う。しかし、そうやってもやがては破綻するのではないかと心配する。


 資本主義のもとでの現在はもちろん、ぼくがめざしている、あるいはコミュニストであるAさんもめざしている共産主義の社会になっても、自主的な地域の活動の発展と、公的な行政の責任をどう組み合わせるかは問われざるを得ない。
 それは抽象的な理念や知的ヒップスターを追いかけることから生まれるのではなくて、現実との格闘からしか生まれるのだと考える。


 ところで、ぼくの町内会関係の本を読んで、批判の記事を書いた人がいた。

 この記事について、ぼくのマンガ評論(『オタクコミュニスト超絶マンガ評論』)を評価してくれていることには、まずお礼を言いたい。


 そして町内会関連の著作への批判については、少し時間をおいて考えてみることにしたい。
 3日で考えを終えることもあるかもしれないし、5年かかるかもしれないが、時間をおいて考えてみるつもりでいる。*1

*1:こう書くと、結局反省しないんだろ、と抗議する人がいる(無論、上記のツイートの人とは無関係である)。実際最近も、ぼくのマンガの解釈(こうの史代の作品論)に抗議して来た人がいて、それに対して「よく考えておく」という趣旨の返事をしたら「批判意見はスルーかよ」「クソ左翼」などといった激昂した再反論を送り返してきた「残念な人」がいた。

川崎昌平『編プロ☆ガール』


編プロ☆ガール (ぶんか社コミックス) 『重版未定』のような話をもっと読みてぇ……と思っていたところに、本書『編プロ☆ガール』が出た! 
『重版未定』 - 紙屋研究所



 『重版未定』は弱小出版社の話だが、『編プロ☆ガール』は編集プロダクションの話である。

出版社の刊行物における編集業務を手伝うのが主な任務。(本書p.9)

 『重版未定』の主人公が『重版未定』の舞台、漂流社に勤める前に編集プロダクションの会社にいたときの話で、本作の主人公は『重版未定』の主人公の後輩の新人女性・瀬拍子束美である。
 「フィクション」と断りをしているが、『重版未定』の主人公=作者・川崎の一部分身であり、本作も川崎の体験をベースにしている。


 『重版未定』の面白さを編集プロダクションでやっている、という感じで、まさに自分が望んだものだった。
 このテイストが痺れる。
 どうしても自分で書いてみたい。
 自分の体験ではないが、自分が聞き知った話を同じようなテイストで書けないか、ぼくも描いてしまった。カッとなってやった。後悔はしていない。

 オリジナルを見ずに描いた。
 むろん自慢ではない。そうすることで、自分の中でどこをこの川崎の作品の本質と捉えているのか、また、それがうまく再現できないことで、川崎のオリジナルの良さがどうやって保たれているのかもわかると思う。




※1:質問骨子
議会質問を作る際、地方議員あるいは会派ごとに全く流儀が違う。個人個人が勝手に作って、最後に全体の了承をもらうだけ、というものもある。会派の了承をもらわないところさえある。この会派では、個人が起草するが、集団で練り上げていくスタイル。「質問骨子(しつもん・こっし)」というのは、その議会質問のロジックの大筋を書いたものであろう。もちろん「質問骨子」などという呼び方が世間一般に共通しているものでもない。骨子で大筋を定めて、肉をつけていくのがここの会派の流儀のようである。


※2:質問3問
地方議会の質問は、市長などが出してくる議案を取り上げる「議案質疑」と、なんでも質問していい「一般質問」に大きく分かれる。本会議での一般質問は(1)演壇に質問者が立って、演説のような展開を述べて質問し、自治体当局が答弁する、というのを1回だけやるパターンの地方議会と、(2)この往復を3回繰り返す「3問3答」のパターンと、(3)短い質問と答弁を制限時間の範囲内で何回でも繰り返せるパターンとがある。この地方議会では「3問3答」なのだろう。1問目の質問が「この交差点での事故件数はどうなっているか」、市が「年間20件」ですと答えると、2問目が、他の交差点に比べて多いし、住民は「すごく心配だ」「早く信号をつけて欲しい」などと不安を述べ、アンケートでも8割が信号をつけてほしいと言っている、「住民のこの声をどう思うか」となる。市が「心配は聞いている。県警と連携し安全対策に万全を期します」と答えるので、3問目は「信号設置をすべきではないか」……という展開を丸めがねは考えたのであろう。


※3:県の予算
信号設置は県警の仕事。県が必要性を認め、県の予算で設置される。しかし、ここは市議会のようなので管轄外なのかというとそうでもない。市民の安全にかかわかることだし、信号設置で道路拡幅などが必要なら道路の拡幅は県道でもなければ市の予算で行う。よって、県と市は連携して信号設置について対処する場合が多い。丸めがねは「県の予算が乏しく、ここの箇所はなかなか実現しないのではないか」という趣旨のことを言っている。


※4:質問は本当に質問するのではない
そのテーマを取り上げるとき、議員は議場に到着したときには、すでにあらかじめの調査でそのテーマの全貌をおさえ、数字もつかんでおかねばならず、当日の議場の質問では、それを前提にして問題点を浮き彫りにしていくような論理の展開をしなければいけない。議会「質問」というので、「夏休みこども電話相談」のようにソボクに当局に質問する議員がいれば完全に当局の手のひらで転がされるだけであり、完全な敗北を意味する。ただの無能なアホ。もともと予算をたて、執行するのは行政当局であるから、議員はそれをチェックするしかないわけで、チェックの武器が質問である。質問によって事実上問題点を浮かび上がらせて要求することが求められる。当局は議場では「まいりました」とは言わないが、裁判と同じように明らかに問題が浮かび上がるかどうかが大事。


※5:住民のナマの声をぶつける意義
この会派の責任者と思しき議員が言っているのは、質問に難しい論理の展開がなくても、議員は住民の代表として住民の声を議会・行政に届けることにあるのだから、行政が知らないような住民の声・実態を届けることが大事だという指摘。特に新人議員は、問題点を浮き彫りにするような考え抜かれた質問はできなくても、まず自分がつかんだ住民の声や実態を行政に伝えるという基本の質問はできる。その原点を言っている。しかし、行政も認識を改めるような「住民の声や実態」でなければやはり行政は動かないので、とにかく「住民の声」っぽいものを質問に散りばめればいい、というものではない。


※6:1問目がヌルい
行政当局の問題を明らかにせず、ぼんやりとした質問になっていること。このベテランっぽい女性議員は、事故件数を尋ねるだけでは3問しかない中で、勿体無いと思ったのだろう。数字を聞くことは、議事録に公式に残るので意味がないわけではないし、単に統計書や行政の報告に出ている範囲ではない数字を行政に特別に計算させて初めて明らかにすることは意味がある。それがインパクトのある数字なら、新聞などでも報道されやすい(例えば異様に事故件数が多いなど)。しかし、もう行政もよくわかっているしちょっと統計を見ればわかるような数字を聞く意味は乏しいと感じられたのであろう。


※7:市の認識を聞く
議会質問ではよく使う手。例えば信号機の設置の場合、予算不足などなんらかの都合で実現していないけども、市は今の信号機がない現状を「問題がある」と思っている……ということをあぶり出す。現状が法令違反である場合はもちろん、何らかのガイドラインに照らしてまずい場合などがそれに該当するし、わかりやすく問題を浮き上がらせるので、そういう基準を持ち出すことが多い。


※8:3問目とダブる
2問目に「信号をつけるべきではないか」あるいはそれに近い質問をしてしまうと、3問目も同じような質問になってしまい、答弁もかぶるし、もったいないということ。1〜2問目は行政の部長・局長が答弁に立ち、3問目だけ市長が立つ……というようなケースの地方議会もあるので、あえて2問目と3問目に同じ質問をすることもある。


※9:担当者に電話
相手の基本的な認識がわからないと質問は作れない。それもわからずに質問をするのは時間の無駄である。ここの会派は担当者に電話で聞く、という簡単な「ヒアリング」をしたようだ。


※10:武器がない
ここで「武器」と言っているのは、質問において当局の対応の問題を浮かび上がらせる有利な材料のこと。例えばもし信号機の設置が「事故件数◯件以上なら設置」という国のガイドラインがあったとしたら、それ以上の事故件数があれば「未設置はガイドライン違反」は武器として使える。他にも過去の当局の答弁と矛盾するとか、学者や有識者の意見を持ち出すとか、統計や住民アンケートを使うなどがある。つまり「大事だからお願いします」というような質問ではなく、相手も認めざるを得ないような根拠を質問に入れること。もちろん「武器」という言い方は普遍的なものではなく、この会派だけでしか通用しないのではないか。


※11:当局に台本
会派によっては「当たり前」になっている。自分の読む部分が黒、当局の答弁が赤……のような色分けをしているケースもある。当局に原稿を書いてもらうために、当の議員が質問中に漢字が議場で読めなくなり、立ち往生してしまうというアホな話もある。
http://d.hatena.ne.jp/kamiyakenkyujo/20150521/1432151288


 という具合に作ってみたが、まず絵柄として「答え合わせ」をしてみたら、頭身が小さくなってしまうんだよな。川崎のオリジナルは手が大きく、独特のゆるキャラみたいな感じ。ぼくが描いたものはどうしても頭が小さくなってしまう。


 あと、結局全体が会話シーンになってしまった。
 会話シーンになってもいいんだけど、川崎オリジナルの会議シーンは、『重版未定』でも『編プロ☆ガール』でも読ませる。なんで読ませるのかといえば、『重版未定』ではやっぱりセリフが効いてる。「ちょっと待ってください。冗談でしょう? こんな企画」という殴り込みの論争を吹っかけるバケツの言い草がいい。まさにハードボイルド。『編プロ☆ガール』は短く要点を切り取っている。ダラダラとしていない。特に誤植シーンは誤植自体が笑えるので、うちの小5の娘も真似しているほどだ。


 やっぱり、会話シーンの連続、という普通に単調になってしまう展開なのに、そこをぐいぐい読ませているというところに『重版未定』『編プロ☆ガール』のすごさはあるよな、と思う。それはつまり本質をつくセリフ、夾雑物を排除しズバリと見せる思い切りがある、ということなんだ。


 というわけで、プロのすごさを改めて知る。


 ライターに逃げられた時、川崎自身が新書の半分を書いたことがある……って、『重版未定』2のあのエピソード、おおよそ実話なんかーい!

ビルトインされたポリコレ棒 『ゴールデンカムイ』をめぐって

ゴールデンカムイ 1 (ヤングジャンプコミックスDIGITAL) これなんだけどね。

「ゴールデンカムイは少女が性的搾取されないから良い!」という持ち上げ方に疑問を感じる人たち - Togetter

 明治時代に北海道で隠されたとされる金塊を争奪する物語、野田サトルのマンガ『ゴールデンカムイ』について。ヒロインのアシㇼパの「サービスシーン」「エッチ展開」がない=少女が性的搾取されないからよい、いやそんな理由で勧めるのはおかしい、的な論争。


 ある倫理基準がその人の中にしっかりとビルトインされている場合、ごくごく自然にその倫理基準に沿うかどうかで好悪を分けてしまうということは実によくあることである。そして、それは決して不自然な行為ではない。


 女性の人権をめぐって日々の生活の中でせめぎ合い・葛藤・闘争をしているようなセンシティブな毎日であれば、そのこと一つで作品に引っ掛かりを感じてしまう、あるいは作品全体がダメなふうに感じてしまう、というのはきわめて自然なことだ。


 別の言い方をすると、“本当は面白いと思っているんだけど「ポリコレ棒(政治的な正しさを基準にして物事を価値判断し、攻撃すること)」が自分の外側にあってその外にある基準で作品を裁いちゃってる”わけではないのだ。その人たちは、ポリコレ棒は自分の感情や生活としっかりと一体化していて(こう言ってよければ)、作品を読んだ時の自然な感情として湧き出てくるのである。
 政治的なこと(女性の人権はその一つである)に毎日懊悩していなければ、あるいはポリコレ棒が自分の中にあまり一体化していなければ、ポリコレ棒で外から叩いているように見えてしまう。


 例えば、「いじめられるやつはそいつに絶対悪いところがある」というような描き方をされているマンガがもしあったとして、いくら他の要素がよくても、そこが障害になって、全然入り込めないという人はいるだろう。その人の中では「いじめ」ということがものすごく大きな負荷になっているのである。
 前に『ママ友のオキテ』を人に勧めたことがあったのだが、その人は読むのが本当にしんどそうだったな。同作はママ友間の憎悪的・同調圧力的な空気のルポとしてすぐれていると思うのだが、言い方を変えれば「『空気読めよ』と非難する側の論理で充満」したマンガであり、非常に「下品」なのである。その空気を「あるある!」と楽しめずに本気で苦しみ、闘っている人には、気分が悪くなるしかない作品だっただろう。すまないことをした。


 フェミニズムというのは、ぼく流の見解を言わせてもらえば、女性がふつうに尊厳を持って生きる上で、現在の男権社会は抑圧や攻撃に溢れているので、「ふつうに」生きようと思えばそれと闘わざるを得ず、そのような解放思想なのだと思っている。
 だとすれば、日常の中にある抑圧や攻撃に敏感に反応し、そのことが他のテーマ・話題よりも突出しているのは、当然だと言える。
 だから、「『ゴールデンカムイ』にある殺人とか暴力はスルーかよ」という指摘は、まあ客観的にみればそうなんだけど、日々女性性への抑圧を気にしている人からすればそこに反応が弱いのは「自然」だとも言える。
 「いじめ」にセンシティブになっている人に、それ以外の話題への反応が薄いではないかと非難してもあまり意味がないのと同じである。


 正直、ぼくなんかも、すぐマンガの中にある性的な要素に(*´Д`)ハァハァするタイプだし、むしろその(*´Д`)ハァハァしたことを表明し、どうして(*´Д`)ハァハァしたのかを書いてしまうので、そういう意味では、下記のツイートでいうところの「錆びついたアンテナ」と言われるほうなのだろうと思う。


 ぼくとしてはマンガについての感想を書く際には、(*´Д`)ハァハァしたという事実、それはなぜ(*´Д`)ハァハァしたのか? を書いて、共感も批判も受けるべきではないかと思う。


 また、ぼくはコミュニストなので、確かにある程度自分の中にポリコレがビルトインしているんだけど、いわゆる反動的な要素や筋があったとしても「読めない」ということはないし、マンガとして面白ければ面白がれるほうである。槇村さとるのマンガに強い「自己責任論」を見てしまうことがあるが、それはそれでヒリヒリしながら読むのである。『皇国の守護者』だって、任務の是非を問わずそれを墨守する軍人像を描いていて、リアルにこんなやつの配下には居たくないぜと思うが、作品としては十分楽しんでいる。
 いや自慢ではない。「それだけお前は真剣に政治闘争をやってないのだ」と左翼仲間から言われそうな気がする。たぶん本当にささくれだって自己責任論とか命令の無条件実行とかを嫌悪している人なら、読めないはずだから。ぼくの心は、呑気なのである。

アシㇼパがエロ展開にならないのはマンガとして安易でつまらないから

 ただ、『ゴールデンカムイ』についていえば、少女アシㇼパと、主人公の元軍人・杉元は安易な恋仲とかにはならないでほしい、といつもハラハラしながら見ている。また、アシㇼパには性的な要素は感じないし(このマンガ全体にそれを感じないし、期待もしていない)、むしろアシㇼパに性的「サービスシーン」をこなさせる展開になることを恐れている。
 それは「ありきたり」で「つまらない」と思うからだ。
 前に、たかぎ七彦『アンゴルモア 元寇合戦記』の感想を書いた時、輝日姫の描き方に苦言を呈したのだが、端的に言えばああいう安易さを恐れるからである。

伊図透『銃座のウルナ』1〜4


銃座のウルナ 1 (ビームコミックス) 架空の戦役とその退役後を描く伊図透『銃座のウルナ』を今日4巻まで読んだ。
 本作はまだ結末を見ていない。ゆえに、作品全体をどうこう言うことは今の段階ではできない。


 だけど、結末がどうなろうとも、4巻までで、引き込まれるように読んだことは事実。
 この作品の何に目を留めたのか。
 正直に書けば、主人公・ウルナや戦友の女性たちの肉体、概して豊満なそれ、である。ウルナが縛られているシークエンスでも、縄からこぼれそうになっている乳房に目がいくし、交情が描かれるときのふくよかな肢体の質感に興奮する。


 人間は顎を引いたとき、ガリガリの人か、よほど若い人でなければ、「二重顎」のようなラインが入る。萌えを求めたりするようなマンガには当然そんなラインは入らない。そしてわざわざ入れない。*1


 本作では、律儀に顎に線が入ったり、入りそうになったりする(下図:伊図透『銃座のウルナ 4』KADOKAWA / エンターブレイン、KindleNo.109/238)。気になる。気になるというのは、ウルナが少しふくよかな女性なのだということが常に意識させられるということなのだ。もちろん他にも首や二の腕の太さが全体としてそういう印象を強く与えるのだが、顔まわり、顎は特に意識させられる。

 戦場は暴力に満ちた現場であり、そこでの強姦や各種の性暴力は対象への圧倒的な支配欲の表れであると思うが、本作で描かれている戦場のセックスは、そういう性暴力的な支配欲とは違うような気がする。
 死ぬこと、殺されることとの絶対的な対比としての生命力の表現のようにして肉体の交わりが、これでもかというほど肉感的に描かれている。復員後の銃後社会でのセックスも同じである。死の影がつきまとうかつての戦場と対比されるように、描かれている。


 こうした描写が結局何を意味するのか、どんな効果なのかは、作品の結末を読んだ時でないと最終的には何もいえない。
 ただ、4巻までで、ぼくはそこに目をずっと注いでいるという事実だけがある。


 ぼくは戦争を描いているマンガなのかどうかということに一つは関心がある。
 「戦争の悲劇」が描いてあれば戦争マンガだとは思えない。戦争はあくまでモチーフであって、何かのドラマや娯楽を見せようというマンガもある。もちろん、それがいけないとか、そういうものは駄作だということでは全くない。それが戦争マンガに比べて上だとか下だとかいう話でもない。単にジャンルが違うというだけの話なのだ。(そういうことを拙著『マンガの「超」リアリズム』でも書いたので、興味ある人は読んでみてほしい。)


 別の言い方をすれば、現実の戦争を詳細に調べていくことの豊かさに、フィクションが勝てるのか、という問題意識がある。
 戦争そのものを描きたいなら、現実を精緻に調べ抜いてその事実をリアルに描くことで圧倒的な力が生まれる。貧相な虚構など要らないではないか、と。もちろん豊穣な虚構が薄っぺらい現実を乗り越えていくことも往往にしてある。
 他方で、戦争ではなく、あくまで戦争を「ダシにして」、例えば何か美しいものが描きたかったのか、あるいは、何か不思議なものが描きたかったのか――それならそれでいいのだが、本作は結局どちらの作品になるのか、今後の展開を待っていたい。

*1:うさくん『マコちゃん絵日記』でママの口元にほうれい線のようなものを入れるか入れないかで騒がれたことがあったなあ。