鈴木謙次『ある日本共産党地区委員長の日記(一九七七年〜一九八四年)』

 鈴木謙次様。

 ご著作『ある日本共産党地区委員長の日記(一九七七年〜一九八四年)』をご恵投いただきありがとうございました。私は鈴木さんには一度もお会いしたことはなく、この贈呈を通じてが初めての連絡であり、鈴木さんに、よほどの思いがあったのではないかと推察します。

 そして、大変興味深く読ませていただきました。

 というのも共産党参院議員渡辺武の妻で、自身も地域の有力な党員だった渡辺泰子の自伝『息子たちへ : 母の生きた八十八年』(本の泉社)や、福岡の活動家・地方議員であった吉田鹿雄の自伝メモなどを読んで、共産党員としての人生や活動を自由にふりかえった書籍には魅力があると感じていたからです。

 

 一つは、公式記録の生硬さではない、共産党の良い点も悪い点も率直に書いてあるところです。もう一つは、昔の党活動の肌触りのあるナマの記録として。それは近代史、近代社会運動史の個別的記録であるとともに普遍的な歴史を反映したものでもあります。特に、党活動や社会運動に生き生きと取り組んでいる瞬間がどこにあったのかがわかる材料として、重要な証言だからです。それは共産党が再生する上でも、はかりしれないほど貴重なものです。

 

肉声で書かれた共産党専従の回顧

 この点については鈴木さんも

私は学生時代も含めると四〇年間、民青と党の常任・専従生活をしてきた。戦後だけをみても党や民青の常任活動家は、一時期の人も含めるとかなりの数になるだろう。とくに敗戦からの一〇年間の高揚、分裂、混乱の時期を含めると予想を超える数になるのではないか。しかし、それらの時代に、彼らがどんな思いで活動してきたのか、その記録、証言は意外に少ない。(p.3)

として、小説になったものは党の活動や思想を「伝染病」みたいに扱っていて「観念の記録」だと嘆いた後、

 党自身の記録といえば決定集や大会での討論(発言)集は驚くほどあるのだが、そこにあるのは、基本的に党への賞賛であってホンネや肉声はなく、そこから生々しい共感や感銘を受けることはない。むしろ、改めて『日本共産党の五〇年問題資料文献集(全四巻)を読んだのだが、この文献の方がはるかに生々しくその当時の党員の、混乱した状況ではあったがさまざまな肉声がよく伝わってくる。

 私が知らないだけなのか、それ以降、七〇年代の党常任活動家の肉声を書物で見ることがない。なぜか、党に関する書物は、一方的な共産党攻撃か、党への手放しの礼賛かに分かれる。そうではなく、その運動の渦中にある、ある部署を担ってきた人たちのまっすぐな声が聞こえてこない。なにか現実を担い責任をもつ場所にいれば、必ずきしむものがあり、その声と音があるものなのだが。(p.4)

と書かれていますが、それは素直な実感なのでしょう。

 

本書の構成の3つの部分

 本書は主に3つの部分から成っていますよね。

 第一は、日記そのもの。

 第二は、鈴木さんが講演した時に集めた感想文。鈴木さんは「あとがき」で、まず感想文を読んでほしいと読者にお願いしています。しかし講演の中身もわからないので、賞賛や驚嘆の言葉が並んでいる感想文だけを読まされると、一見すると著者の自慢のようにしか見えません(失礼)。ところが、本書を読み進め、鈴木さんが中央に勤務してからの話を読んだ後では、その意図がすごくよくわかったのですが、まず読者にここから読んでもらおうとするのは悪手だと思いました。

 第三は、今の鈴木さんの筆で、その時期の経過や特徴をまとめている文章。実は読み物としてはここが一番面白く、かつ読みやすい。読者にはここから読まれることをお勧めしたほうがいいと思いました。

 

もっとも印象に残る藤原事件と、藤原という人物の描写

 もっとも印象的に残ったのは、上記の「第三」の部分に当たる箇所(今の鈴木さんの筆で、その時期の経過や特徴をまとめている文章)にある「藤原事件」です。党中央の幹部会の一員であった藤原隆三が宮城県委員長として赴任してきて、それを鈴木さんは党の県の常任として見ておられました。鈴木さんの藤原という人物の描写が、あまりにある種の党幹部にありがちな官僚性を生き生きと(?)再現しています。

藤原氏は幹部会員として派遣されたのであるから、徹頭徹尾成績主義に凝り固まって、ひらすら県党の成績(数、すなわち点数で優劣がはかられる)の向上だけを願っていた。(p.21)

普通の対話ができない。自分の考え、指摘したいことが頭の中に充満しているのだろう。ひとの話は真面目には聞いていない。自分は上級からの命令者、ほかのすべての人はそれを当然のこととして受け入れるべき下級者とおもっていたのだろう。対話が成立しない。ほとんどの会話の語尾に〈〜ですなぁ〉がつく。機械的な幹部型人間が目の前にいる、という気がしていた。(p.21-22)

県のさまざまな会議はつねに決定をいかに実践するかの決意表明の場所になり、数や形となって現れる成果の報告会のようになる。結果と成果だけが評価され、実践の過程と内容は二の次になる。いやむしろ、成果がなければ〈やる気、決意の不足〉〈消極性のあらわれ〉とこっぴどく批判される。藤原氏からはつねに〈まだ自己分析が足りませんなぁ〉と指摘される。「決定」は全党の知恵を結集して民主的に討議されたものであり、すでに決められており、あとは実行あるのみで、そこには民主的な討議は必要ないとされているようだった。残されるのは幹部のやる気、指導部のやる気、断固たる決意と絶え間ない反省が求められるのみである。会議はいつも重苦しかった。(p.23)

だが一体、その中央の理論的到達、およそマルクス主義とは藤原氏の頭のどこに潜んでいたのだろう。彼のそばに二年近くいて、いちども社会主義共産主義の理論の話、自らの共産党への思いの一片も聞いたことがない。(p.27)

 ひらすら上を向き、上のご機嫌ばかり伺い、上の命令、指示には忠実に従い献身的に努力する。そういう人物がいかなる組織にも必要なことは理解できる。しかし、その組織の指導部全員がそうなれば、下の人々が反発、抵抗する。やがて必ずいうことを聞かなくなる。面従腹背が常態になる。まさに藤原問題はその証明みたいなものであった。数や形を最優先に追い求めれば、やがて内実、魂のない数や形となる。もっとも重要なことは、ひとりひとりの党員が主体的に判断する力をつけることであり、活動に能動的、自覚的に参加できる人間の隊列を構築することである。(p.27)

 党(党組織)、ことにその上級機関に対して限りなく忠誠であることは決して彼が共産党員、すなわち真正の共産主義者であるということの証明にはならないこと。私はこのことを肝に銘じた。(p.27-28)

いまでも印象的なのは、藤原氏がもっとも鋭くその意向を伺っていたのは宮本〔顕治〕委員長だった。それはあたりまえの一面だが、かれはしばしば党中央の宮本氏の指導のきびしさについて、いくらかの嘆息をまじえてポツリともらしていた。そこに至らぬ自分と、その意向に汲汲としている自分をかれは永く感じつづけていたのかもしれない。だとすれば、これもまた水準と視野のレベルの問題で、あわれというほかない。(p.33)

 いる。

 こういう共産党幹部は党のどこかに今でも実在する。

 そういう気持ちで読みました。

 「普通の会話ができない」という点で、パワハラが組織の構造的問題で起きるということとは別に、それを助長させる要因として、当該上司のパーソナリティについて「しんぶん赤旗」(2023年5月12日付)で「最近の研究ではサイコパスナルシシズム(自己陶酔)、マキャベリズム(上昇志向)の三つを備えたパーソナリティー(ダークトライアド)がDVに関係するとわかってきたといいます。/『そういう人がリーダーになると組織や企業にダメージを与えるという研究結果がある…』」と報じていました。

 そのうちの「サイコパス」は相手への共感が全くなく、自分の言いたいことや命題・図式だけが頭にあるようなケースだろうと思いました。地区に電話して「聞き取りだ」と言いつつ、実は押し付けだけをする。現場の個別性や特殊性から普遍を汲み出すのではなく、先の自分の頭にある図式や結論を、押し付けようとして、現場の党員と「会話」を交わすのです。実は何も聞いていない。自分の言いたいことを押し付ける場所としての「会話」。そういう幹部。

 それだけでなく、「マキャベリズム(上昇志向)」、つまり上ばかり見ている。「党のトップは途中の送迎の車でこうおっしゃっていた」とか「党のトップから電話があった。これこれこういうことをご所望だ」とか。そんなことをマジメな顔で会議で発言する。

 「ナルシシズム(自己愛)」。中央の会議で自分の発言がどう他を圧したか。どう結語に取り入れられたか。そんなことを自慢げに会議で話す幹部。

 そんな幹部は今でも実在するのではないか…との思いに至りました。

 

 傲然が常態の藤原が突然弱気になった日も活写されています。

ところがある日、出勤してまもなく藤原氏は珍しく親しげに、私に向かってポツリと云った。〈スズキくん、もう俺は駄目だよぉ〉と、がっくりしたような表情だった。…そんな弱々しい疲労困憊した顔をみたのは初めてだった。まるで今にも泣きそうな表情になっていた。(p.28)

 そのあとに党中央から幹部が県常任委員会へ調査に乗り込んでくる様子や、その後の県党会議の描写も緊迫感に満ちています。

十余人の、レッドパージを乗り越え、五〇年分裂の過酷な経験も経てきた五〇代、六〇代の人々全員が、恥も外聞もなく、話し始めたとたんにしゃくりあげ声をあげて泣きながらしゃべった。その声が会議室に充満した。それは、それぞれが、藤原氏の官僚的指導でどれ程悩み苦しんできたか、それに勇気をもって立ち向かい、変えられなかった己の非力と責任を心から反省する言葉だった。(p.28)

やがて県党会議(県の最高議決の会議)が行われた。…いつもは各代議員の活動報告会のようなのだが今回は様相が一変した。そんな悠長な、準備した報告を読み上げるような発言はなく、発言者は違う言葉で、この四年余の藤原氏官僚主義的指導の実態を思いをこめて告発し、県常任委員会の指導の責任を問うた。発言者はあとを断たなかった。(p.29)

 それでも、まだ中央はこうした地方の官僚主義を除去できる意思や力があったのだなとは思います。ただ、それが組織全体が抱える構造的な問題であるという可能性については考えが及んでいないようではありますが。「個別に現れた非行」「行き過ぎ」としてだけ処理されたのではないかという思いも持ちながら、この箇所を読みました。

 

 それ以外にも、鈴木さん自身がまとめられた「第三」の部分には、興味深い箇所がたくさんあります。例えば、本部に移ってから、自分の創意工夫でアレンジした講演を行なったことが、「大幹部にでもなったつもりか」として、その「増上慢」「最悪の我流」を「批判」されるくだりなどは、個性というものを許そうとしない一部の党幹部のメンタリティ、それに追随する人々の姿がやはり生き生きと(?)描かれています。

 

共産党員・マルキストとして個別に普遍を見出し全体的な世界観に仕上げる

 鈴木さんのご著作の大半を占めているのが、「第一」の部分、すなわちタイトルにある通り「日記」の部分です。

 この部分は、正直なところ、3分の1くらいはよくわからなくて、3分の1くらいはなんとなくわかり、3分の1くらいは興味深いものでした。

 鈴木さんの日記には、ほとんど毎日のように読んでいる本について書き込まれていて、鈴木さんが読んでいる本の抜粋と感想がたくさん出てくるのですが、ヘーゲルだったり、シェリングを批評した初期のエンゲルスだったり、ミリバンドだったり、クラウゼヴィッツだったり、グラムシだったり、丸山眞男だったり、林達夫著作集だったり、数巻もある経済学の講座本だったりします。

 「よくわからない」のは、例えばヘーゲルなどは抜粋部分に書いてあること自体がぼくはわからないのですが、それ以外に「どうしてこの箇所を抜粋して日記に書きつけているのか」がわからなかったり、解説がしてあっても、たぶん何か想定している事態や意見が鈴木さんの頭にはあるんだろうけど、それははっきりとはわからないので、意図がくめないというような場合です。申し訳ないのですが、そこは難渋しました。

 しかし、「なんとなくわかる」部分、「よくわかる」部分が3分の2ある。「なんとなくわかる」というのは、鈴木さんの一貫したテーマのようなものが、本書にはあるからです。最初は「よくわからない」と思ったことも、実はこのテーマについて書いているのではないかと読み直すと、「なんとなくわかる」のです。少なくともぼくはそのように感じました。

 そのテーマとは、ぼくらの日常の目の前で起きているさまざまな個人の体験・現実というもの、そこにある複雑さや個別性の中から、普遍的なものをつかみとって、理論、もっと言えば全体的で統一的な世界観に落とし込んでいく・まとめあげていこうとする志向です。

 鈴木さんの日記の中では、ある時は、この志向は、借り物の輸入された理論と土着的な文化を前にした現実との乖離として書かれ、またある時は、杓子定規な理論・指導と自分や仲間が体験した現実との分裂として書かれ、別の時は、特殊と普遍、個別と普遍の問題として書かれて、また別の時は、決定された方針と現実の目の前の党員の生活や現実と結びつけながらそれを納得してもらえるように指導することの違いとして書かれています。

深い説得の力とは、深い人間的共通感覚に根拠を持つ。そして、その説得の力が実際に人間を動かし、変革するためには、自らの生活体験と試練が不可欠な条件であり、かつ知識の広さと質にもとづくたしかな理論が必要である。(p.50)

〈政治〉と〈思想〉、あるいは文化全般、〈政治〉と各層分野の大衆運動、これらとの関連、結びつきについて、はたしてどれほどの納得をひろめうる道理と、思想の内実を保持しているであろうか。(p.78)

レーニンのように実践的な政治家であればあるほど、いかなる意味においても、大衆の日々の些細な問題に対する普遍的、類型的な対応を知悉していなければ一歩も進み得なかったはずである。(p.80)

問題はつねに具体的だ。ということは、人間にとっての問題は、たえず〈個人的〉にしか解決しえないということである。個人においての解決が、人間全般の問題の解決の、決定的な様式に他ならない。(p.158)

あらゆる歴史現象は〈個性的〉である。その発展は自由のリズムに支配される。したがって、探求は一般的必然性であってはならず、特殊的必然性でなければならない。(p.159)

たとえばわれわれが、日々抱える問題は、そうやすやすとは理論、決定文書の範囲の内に収まりきれないわけで、理論のタテマエ、カッコよい形式性は、しょっちゅう現実の総体との間に軋轢をきしんでいるのが実相であるだろう。…この点でもレーニンは、はるかに大人物であった。彼は政治と革命を、偉大な人間の芸術であると信じていた。生身の大衆の感性をなにより重んじ、寄り添い、その具体的意識の具体的変革をこそ、自分の政治活動の中心にすえつけた。(p.215)

一般の党員の生活と活動の現実をどのようにでもリアルにつかみ、そこをふまえた評価を、たえまない方針の徹底とともに行わなければ、話はすすまないのである。(p.254)

理論は抽象的、一般的でありうるが、現実は絶対的に抽象的、一般的ではあり得ないということ。しかもその現実を構成し、それを動かしている人間主体は、何十億人いようが、千差万別の有り様をしているということだ。その生きた人間の現実を、ほんとうに知ること、知ろうとして必死の努力をすること。これは党の指導の大前提、大鉄則と言うべきなのである。(p.255)

 

マルクスは偉大であり、その行動は生産的だった。…断片的なもの、不完全なもの、未成熟なものを、かれの中で成熟させ、体系化し、意識化したからである。(アントニオ・グラムシの引用、p.155)

 このような志向はマルクス主義者のもっとも基本的な態度であり、本来このようにして政治の指導も行われなくてはならず、理論もそのような姿をしていなければならないはずです。

 

 例えば、こういうことではないでしょうか。

 目の前に子どもの不登校で悩んでいる親御さんがいます。

 ぼくの好きなマンガ家の一人に志村貴子という人がいますが、彼女が描くマンガには不登校や引きこもりになった若い人がよく登場します。不登校や引きこもりをしている子どもたちにはなんとなく今の状態ではいけないような気分が漂っている。と言っても何が原因なのかは、なんとなくわかるけど、よくわからない場合もある。別にこのままでもいい気もする。そんな感じなのです。どうしてこうなったのか、どうすればいいのか、本人も親もわかりません。

 また、最近では「かがみの孤城」というアニメ映画で不登校の子どもたちが主人公になりました。不登校をどう見て、どう考えるかは、心をざわつかせる、最もヴィヴィッドな問題の一つなのです。それをマルクス主義者はどう捉え、どう関わるのか。

kamiyakenkyujo.hatenablog.com

 その不登校という行為の中に、日本の資本主義のどういう現実が反映しているか、どういう政治が貫徹しているのか、そして、それに対して若い人たちが反応していることはどういう進歩的な意味があるのか、あるいはないのか、が解析できなければいけません。

 その上で、目の前にいる親御さんや子どもとの会話を紡ぎ出し、さらに、どういうスパンかはわからないけども、そうした会話や働きかけがやがて何かの共同につながっていく、そういう道筋を描ける力がコミュニストには本来必要なはずであり、そこに理論の力が介在していなければならないはずです。

 目の前の親御さん、子どもの意識や行動と、日本資本主義の現実を、統一した世界観の中に仕上げていこうとする態度こそ、マルクス主義ではないかと思っています。

 これはたくさんの現実に触れることはもとより、様々な理論を学んで、その個別性をまとった現実から普遍性を汲み出す作業をしていく必要があります。そのために多くの理論に触れるべきですし、もっと言えば本を読むべきです。個別性を普遍性に仕上げようとする点で、ドラマやマンガも大いに役立つべきものです。

 昔のマルクス主義者、共産党員には、こうした全一性を目指す志向統一的な世界観を打ち立てようとする志向がありました。戦前の活動家である伊藤千代子の映画などを見ても、彼女たちが理論を学ぼうとする意欲と活動を組織しようとする意欲が一人の活動家の中でしっかり確立しているのは、こうした全体性を志向していたからだと思っています。

kamiyakenkyujo.hatenablog.com

 近年このような全体性が失われ、理論は上のエライ人が考えること、地方機関は党勢拡大だけやっていればいい、大衆運動は署名の数だけ気にしておればいい、というような「バラバラ人間」の志向がマルクス主義の運動の中に、あるいは党組織の中に生み出されてしまっていることに深い危惧さえ覚えます。

藤原氏の頭のなかには一体何が渦巻いているのか考えたことがある。そこには日本革命のことなど二の次なのではないのかと思えた。自分に与えられた宮城県党強化を、これまでのぬるま湯的な状態から一気に活性化することしかないようだった。(p.26-27)

という分裂的人間の登場はその走りだと思います。そして「理論」を「学んで」いるけども、ただ「与えられた正しいもの」として読むのみで、批判的にそれを読み、目の前の現実と全体的な統一した世界観に仕上げるための武器、あるいは緊張感のある対決としていない惨状がしばしば散見されます。

 鈴木さんの日記に驚くほどたくさんの読んだ本が出てくること、その本の中身と現実や自分の指導を結び付けようとしていることは、こうした全体性を失わず、目の前の個別的な現実を必死で世界を変える統一的・体系的な理論の一部に落とし込もうとする作業そのものだったに違いないと思って読みました。

 こちらは鈴木さんではなく、ぼくがよく引用するヘーゲルの言葉ですが、次のような言葉があります。

体系を持たぬ哲学的思惟はなんら学問的ものではありえない。非体系的な哲学的思惟は、それ自身としてみれば、むしろ主観的な考え方にすぎないのみならず、その内容から言えば偶然的である。いかなる内容にせよ、全体のモメントとしてのみ価値を持つのであって、全体をはなれては根拠のない前提か、でなければ主観的な確信にすぎない。(ヘーゲル『小論理学』)

 

中国軍による高野功記者の射殺

 ぼくは鈴木さんの本書を「当時の活動家の活動習慣・思考の生きた記録」としても読み、歴史的事件をどう受け止めていたか、という点に興味がありました。

 袴田里見除名事件、ソ連アフガニスタン侵攻、42議席への躍進、社公合意などさまざまあるのですが、中国軍による高野功射殺事件だけ感想を書きます。

一九七九年三月九日

 昨日、わが赤旗ハノイ特派員、高野功氏がベトナム国境のランソンでの取材中、中国侵略軍に狙撃されて死去したニュースが衝撃的に報道された。高野氏の実家はこの地区内、川崎町にあり、父君はれっきとした党員であり、しかも実兄が、あの三菱樹脂闘争、高野事件の高野達男氏である。

 ぼくはこの事件自体は知っていました。

 ただ、まず高野氏がまさに鈴木さんが地区委員長をしていた宮城県仙南地区の出身であり、実兄があの最高裁判決になった有名な三菱樹脂事件の原告であったことを知りびっくりしました。

 そして、はっきりと中国を「中国侵略軍」と規定しているところにも当時の感覚を感じました。鈴木さんが引用している通り、赤旗では連日「中国のベトナム侵略糾弾」と報じられていたので、その感覚は染み渡っていたのでしょう。すでに長年「文革」問題と「毛沢東盲従分子」との闘争をへて中国共産党への強い不信を感じていたのでしょうが。

 1970年代、80年代の日本共産党の活動家の日記であるにもかかわらず、鈴木さんは、随所に「スターリン主義」という規定を平気で使っています。また、朝鮮戦争における北朝鮮側の侵略や、社公合意時点での安保環境の変化による革新勢力の側の政策科学探求の必要性を述べておられます。

 これは、ぼくの知っているその時代の専従活動家の意識からすれば相当に自由なものです。

 仙台地区委員会に異動した際に、地区委員長だった「ヤマチャン」こと山本良との付き合いが書かれていますが、東北大卒で労組委員長出身だった山本とともに、お互いが相当な読書好きだったことが描かれています。当時の専従活動家が広い見識を持ち、全体性を失っていなかったことを示すものとして感慨深く読みました。

 

当時の中央と地方の給与差

 鈴木さんが共産党本部に行くことになった時、仙台の地区にいた時との給与差について驚くくだりがあります。

一番驚いたのが、本部勤務員になった途端に、給与が地区委員会の倍を超えたことだった。そのことに何よりも驚いた。なるほど、本部勤務の待遇はこの位でないと、優秀な人材が集められないのだなと、他人事のように感心したものだ。地区の常任給与があまりにも少なかったというだけの話ではあったが。(p.278)

 2000年代の前半に東京都委員会から福岡県委員会に異動した、ある非役員の専従職員は、東京では月収が30万円弱だったのに福岡に来たら数万円も減ってしまったことに驚いたという話があります。その頃は東京都委員会>本部>地方という話を聞いたこともあり、物価なども反映していたのだろうと思いました。

 それにしても「倍」というのは驚きです。いくら地方の給与が少ないとは言っても、あるいはいくら本部に優秀な人材を集めるためとは言っても、これはないだろうと思わざるを得ません。

 

現在の鈴木さん

 鈴木さんは1943年生まれで、現在80歳を超えておられると思います。

 共産党専従、しかも本部の勤務員であった鈴木さんが、こんなに「自由」な出版物を出して、大丈夫なのかなとは思いました。

 現在の鈴木さんのお立場やポジションは、「現在無職」という以外に、明確には本文やプロフィールには書かれていません。

 しかし、本文には、幹部会委員であった石灰睦夫が、鈴木さんに対して本部の食堂の万座の前で

この人は必ず党を離れる人だ、それは私が断言しておく!(p.284)

と叫んだことが書かれています。

 そんなことを大勢の前で叫ぶ幹部の品性について驚かされますが、鈴木さんがその次の段落で

やがてそれからおよそ一〇年後に、石灰氏が、自分の人を見る目と予言のたしかさについて、会心の笑みを浮かべながら周りに話したかどうかは、私の関知するところではない。(p.285)

と述べているのは、何事かを暗示しているものとして読みました。

 

 ともあれ、鈴木さんのご著作が公式本や攻撃本にはない、「肉声」を伝え、「正直な記録」になっていることは間違いないと思いました。鈴木さんが「書いて公表すれば、相当な批判、追及があることを恐れ」(p.5)ることもない立場になったからこそ上梓できたという側面もあるのではないかと思い、その意味でも貴重な記録だと思わずにはいられませんでした。

 他にも本書について書きたいところ、紹介したいところは、たくさんありますが、あまり紹介しすぎて、本書を読む代わりになってしまってはいけないのでこれくらいにしておきます。

 ともあれ、本を贈っていただき深く感謝します。

 季節の変わり目ですので、どうぞご自愛ください。

 

追伸

 追伸。

 89ページの上段の日付が「一九七年一〇月四日」になっているのは「一九七年一〇月四日」の誤植ではないでしょうか。同じく95ページ下段の「一九七年一〇月二六日」は「一九七年一〇月二六日」の誤植ではないでしょうか。

 287ページの下段の『日本共産党の一〇〇年(一九二二〜二〇二二)』とあるのは『日本共産党の百年 1922~2022』と表記するのが正しいのではないでしょうか。同様に同じページにある『日本共産党の六〇年史』は『日本共産党の六十年——1922〜1982』もしくは『日本共産党の六十年』と表記するのが正しいのではないでしょうか。