中間団体が行政の下請になる瞬間

 町内会の地域の連合体を中間団体と仮に呼ぶとして、田中秀臣さんが書評の中でぼくの本『“町内会”は義務ですか?』について注目を払ってくれたこの中間団体の問題を、前回に引き続き書いていく。

 政府は、介護度がそれほど「重くない」とされている「要支援」の人々の一定部分を介護保険から外して(現在の半分くらい)、自治体の事業にまわそうとしている。介護保険から出すお金が減るからである。自治体はまわされた人々を専門のヘルパーではなく、NPО・企業そして町内会に面倒をみさせようとしている。このあたりの事情は『“町内会”は義務ですか?』でも書いた。

見守りとかを町内会に

 福岡市は、小学校区単位で町内会と地域団体の連合体を構成している「自治協議会」に補助金を出して、これまで介護保険でケアしていた、このような「見守り」の一部を、町内会などにやらせるという案を出した。
http://www.city.fukuoka.lg.jp/data/open/cnt/3/37610/1/20131010iinkyougikai-simin.pdf
 現場、つまり個別の町内会長からは猛反発があった。
 今でも校区の自治協議会からたくさんのイベントや仕事が割り振られて大変なのに、さらに高齢者の見守りまでできるか! という感じの。
http://www.city.fukuoka.lg.jp/data/open/cnt/3/41770/1/20140127iinkyougikai-simin.pdf
 市側の案は、よく読むと「これまでは、『校区の自治協議会が、市の定める8つの事業(防犯や防災、リサイクルなど)をすべてやらないと補助金はあげません』だったけど、これからは『全部やらなくてもいいですよ』にかえます」ということが書いてある。「全部やらなくてもいいよ」方式だ。


 町内会長はこの市の案をよく読んでいないのだろうか?


 そうとも思えない。
 現場からの意見では、「全部やらなくていいよ」方式に反発している人たちがいて、これをやられると、まっさきに自分たちの事業が「やらなくていい」とされてしまうのではないかと心配をしている人たちだ。
 こういう反発もあるから、現場では8つの事業をしぼりこむということはなかなかできないだろう。せいぜい1つか2つ絞る程度だ。多くは、8つの事業に高齢者見守りを新たにプラスした9の事業を、個別町内会などに課していくことになる。

行政の下請になる瞬間

 このとき何が起きているのか。
 国は「こんなやつら介護保険から金を出さなくていいよ」と思っていたであろう「軽度の要支援者」をさっさと介護保険から外すことができる。コストが下がるので、介護保険料を引き上げて国民から文句を言われたり、税金を投入して財界から文句を言われる必要はなくなる。
 下請けにだされた自治体のほうは、さらにそれを下請けに出す。補助金を渡して町内会などに「見守り」をさせる。
 現場で「見守り」をだれがするかといえば、町内会メンバーである。これまでの8つの事業がすべてそうであるように、福岡市では人件費には補助金は出されない*1だから、見守りをやったメンバーに報酬が支払われるわけではないだろう。見守りをする人の報酬はゼロだ。せいぜい見守りのための事務費用、紙の印刷代とかそんなものに補助金があてられることになるんじゃないか。これまでの8つの事業の先例を見ていたら。
 つまり「補助金」ではあるが、実際には事務などの費用の一部にあてられるだけで、無報酬のサービスが現場では行われる。かなり安上がりで「見守り」は実現するのである。
 町内会メンバーが組織できないような弱小町内会は、役員がやらざるをえなくなる。他の校区の仕事も減っていない中で、これはなかなかの重い負担になることが予測される。

中間団体の決めたことにこんなふうに逆らえない

 弱小町内会は、この不満を福岡市にぶつけることができるだろうか。
 答えはノーである。
 「校区のほうでよく話し合ってください」といわれるだけなのだ。なぜなら、高齢者の見守りを引き受けるかどうか、それをだれがどのようにやるのかは、校区の自治協議会の会議でまさに各町内会長が「よく話し合えば」いいからである。
 しかし、校区の会議の場で、「うちは見守りできないので勘弁してください」と言えるか。さんざん「超高齢社会への対応」「絆づくり」「地域による地域のためのまちづくり」(福岡市の資料より)ということがあおられたあとで、そもそも言い出すこと自体が難しい。「絆」ですよ? 「超高齢社会」ですよ? 「地域のためのまちづくり」ですよ? その理念に反対している、サボろうとしているみたいじゃないですかぁ。
 しかも、体制や組織がしっかりしている町内会が校区の幹部であることが多いから(だからこそ校区の幹部がつとまる)、「自分たちのところはできる」という思いですすめる。弱小町内会のことまで想像は及ばない。
そのうえ、補助金をもらうのに、弱小町内会が「できません」といったら事業の体裁をなさなくなってしまう。大慌てで「超高齢社会をむかえ、自分たちだけできないというは許されない」となってしまうのである。
 これはただの「妄想」ではなく、これまでの8つの事業がたどってきた道なのだ。
 以上のことは、「自治協議会の中」で起きている出来事であって、行政は預かり知らぬこととして「介入」しないでいることができる。「校区でよく話し合ってください」とはこのことだ。


 行政がコストを削減した分が、現場での巧妙な住民負担の押しつけになっていることがわかるだろう。そして、そのさいに、補助金と、校区の自治協議会という中間団体を経由して行政がそれをコントロールする様子もわかってもらえると思う。

「専門的サービスは実際いらないだろ」について

 そもそも「軽度の人なら専門ヘルパーなんかいかなくてもよくね?」という意見については、『“町内会”は義務ですか?』でも書いた。
 国会で参考人質疑(2014年5月13日参院厚労委)が行われているが、「要支援者ほど、専門家の丁寧なケアが必要だ」「ヘルパーは単なる家事代行ではない。頭の後ろの目、体すべてで(利用者の)状況を見ている」(京都ヘルパー連絡会)と答えている。ヘルパーの専門性について問われ、「利用者の複雑な心境に配慮しながら観察し、状況を判断する力」と答えている。6月16日の参考人質疑では、認知症の人も介護保険給付から外されることがあるとして、家族の会から「ボランティアでは対応できない」として重度化させない初期の対応の大事さが訴えられた。


 つまり利用者のちょっとした変化や兆しをみとって、ケアやサポートにつなげていく、というのがヘルパーの専門性なのだ、ということである。「ボランティア」にそれができるのか。


 むろん誤解がないように言っておきたいが、専門的サービスのすべてが町内会に丸投げされるわけではない。その一部だ。NPOや企業などに解体される部分の一つである。ゴミ出しのような「生活支援」をやらせている自治体もある。
 社会保障を削るっていう動きが、重層的な下請をへて「ボランティア」である町内会に押しつけられていく。そのさいに、行政から問題を切り離す道具として中間団体が使われている。

2つの問題──共助と中間団体

 ここに2つの問題がからみあって存在しているよね。
 「自助・共助・公助」っていう場合の「共助」は、なんか新しい時代の「絆」ってことでものすごく持ち上げられるっていう傾向があるけど、予算の切り捨ての末端現場として体よく使われる危険があるという点。明確な目的をもって、補助金をわたされて事業をまかされた時点で、もうそれはボランティアとしての町内会じゃないんだよね。行政の仕事をうけた企業やNPOと同じなんだよ。行政サービスを代行していることになる。
 もう一つは、中間団体の問題。
 中間団体が事業をひきうけてくるのはいいんだけど、個別町内会や個人がそこから簡単に参加しないしくみ、離脱できるしくみがないと、ホントに押しつけになる。連合体の決める事業はたしかに話しあいで決まるけど、それは「連合体が事業をすることについての決定」でしかなく、「その事業に個別町内会と町内会員はすべて参加しなければならない」という決定はふくまれていないはずなのだ。そのへんがあいまい。あいまいだからこそ、離脱や不参加は許されない。
 

*1:福岡市活力あるまちづくり支援事業補助金交付要綱の「別表第1」には「補助対象外経費」のリストがあり、その第一が「人件費」である。