松田道雄『育児の百科』(下)

 『ONE PIECE』については、コメント、SBMのコメント、ツイッタートラックバックでの意見はだいたい目を通したけど、すでに書いた2つのエントリで基本は言い尽くしているので補足はしない。
 『ONE PIECE』への批判は批判なんだけど、自分の感性が動かされない根拠を明らかにしたかったし、「個別は普遍である」という命題のとおり、ぼくの感性の根拠をさぐることで何かわかるんじゃないかと思ったので、そのへんの意図にかみあった批判は面白かったし、有意義だった。
 『君に届け』を批判したときは、「嫌なら読むな」「死ね」とかいうタイプのメールのみが次々来たから、今回はよほど生産的だったなあ。
 まあなんかあったら引き続き、コメント欄かトラバでお願いしたい。見てるので。

 さて、全然違う話題。娘の「偏食」について。

娘の偏食――量が少ない、食材による食べる量の違い、でもまだ入る

 娘は3歳になったばかりである。
 偏食といっても、それほどひどいものではない。

  1. 「もういらん」といって食べない。量が多い可能性がある。
  2. 食材によって食べる量に偏りがある(気がする)。
  3. といいつつ、好きなものはまだ入る感じ。牛乳とかお菓子とか果物とか。

 上の3つをミックスした状態を、ぼくは娘の「偏食」と言っていることにまず注意されたい。
 あと、たとえば、白飯や汁物は総じてあまり食べないのだが、よく食べる日もある。トマトは赤ちゃんの頃は好きだったが、今はあんまり好きではない。しかし、よく食べる日もある。1.と3.を常態としつつ、2.が日ごとに種類がかわる、といった感じなのだ。

 どんな対応をしているのかといえば、

  • 1品ごとの量を少なくして、平らげられそうな量を出す。
  • 出す品の順番を考え、満腹に近くなったころに嫌いなものが残る、というふうにしない。
  • 時間は30分、余裕があるときは1時間くらい待つ。
  • 食べきれなかったときは牛乳やデザート類を出さない(出してしまうときもある)

……というような感じである。

 まあ、そのあたりを前提にしながらだが、松田道雄『育児の百科(下)』を読んでいたら、次のようなくだりがあって、いろいろ考えさせられた。

参考:松田道雄『定本 育児の百科』 - 紙屋研究所
http://www1.odn.ne.jp/kamiya-ta/ikuji-no-hyakka.html

 子どもが偏食するのを、気ままをいうわるい子だときめつけるべきではない。また、母親として子どものしつけをあやまったと、自分をとがめるべきでもない。人間には、食物について好ききらいがあるほうがおおい。ある特定の食べものがきらいだということは、おとなにとっては、あまり問題でない。(松田道雄『育児の百科(下)』p.324)

 子どもにかぎって、食物の好ききらいが偏食などといって、とがめられねばならぬのはなぜか。これは母親の「栄養学」と、その道徳的信念による。よその子の食べるものは、なんでも食べないと栄養不良になると思っている母親がいる。そんな母親が、戸別訪問をして幼児の嗜好調査をしたかというと、そうでもない。うちの子は、なんでもいただきます、という近所の母親のことばを信じているだけだ。(同前)

しかし、なんでも食べるということが、はたして善であろうか。それは善悪をこえた、子どもの生理の問題だ。玉ねぎがきらい、にんじんがきらい、いもがきらいということは、その子のいまの持ち前なのだ。
 音楽や文学や絵画では、人の好みがみとめられるのに、どうして食物については好みがゆるされないのか。(同前p.325)

 「偏食の矯正」に成功したという「美談」は、子どものきらいの程度がそれほどでなかったか、次第に成長して好みがかわったか、または、子どもが耐えがたきを耐えているかだ。(同前p.326)

 人間は忍耐をまなぶべきである。しかし、食事というような基礎的な生理でそれを訓練することは、賢明とはおもえない。食事は、生きる楽しみとして、楽しくおいしく食べるほうがいい。そのほうが消化もいい。
 14〜15歳になって、からだのどんどんそだつ時代には、好きでなくても腹のたしになるものは食べる。この時代は満腹が食欲の充足だ。だが、4〜5歳のころは、成長のスピードがおそく、そんなに食欲のないときだ。あまりたくさん食べないのだから、質的に食欲をみたしてやりたい。栄養学的にみて不足がなければ、子どもの好ききらいにたいして、あまりつよい干渉をしたくない。
 野菜のきらいな子には、野菜をこまかく切って、焼き飯にまぜるとか、シチューにするとかで形をかえたり、味をかくしたりして与える。それでもだめなら、野菜のかわりに果実を与えておけば、栄養上はさしつかえない。魚も、煮たり焼いたりしては食べないのならフライにする。それがつづいてもいい。それでも食べなければ、他の動物性タンパクでおぎなえばよい。魚もきらい、肉もきらい、卵もきらいという子には、牛乳をたくさんのませればいい。(同前p.326〜327)

 引用に「4〜5歳のころは」とあるように、実は上記引用は「4歳から5歳まで」の項目にかかれていることで、3歳になったばかりのうちの娘に適用するには厳密を欠く。ただ、3歳から4歳までの記述を見ても、

 この年齢では、1年を通じて体重は1.5キログラムから2キログラムぐらいしかふえない。それにひきかえて身長のほうは6センチものびる。母親の目からみると、子どもはちっともふとらないようにかんじる。たいていの母親は、子どもがごはんを食べてくれないことを気にしている。しかし、母親が期待するほどごはんを食べては、食べすぎになる。(同前p.201)

あんまりながく食事についやすと、外にでてあそぶ時間がへってしまう。これは、茶わんによそった1ぱいのごはんを全部たべさせようとするからである。30分かかって食べきれないときは、もっとごはんを少なくして、副食を多くしたほうがいい。
 野菜を全然食べない子には、果実を与えていれば、ビタミン類の不足にはならない。(同前p.202〜203)

とあるように、おそらく基本思想は同じであろう。

定本 育児の百科〈下〉1歳6カ月から (岩波文庫)
 ぼくは基本的にいまの保育園にかなりあつい信頼をおいている。
 なので、前の担任にも、そして今の担任にも食事の問題でそれぞれ相談したことがある。
 前の担任は「量はあまり多くせず、順番を考えて出すといいですよ」というアドバイスだった。これは基本的に守っている。しかし、問題はそれでも食べないというときだ。前の担任は「何かから逃げるという体験を積ませるのはあまりよくないので、『これだけは食べてね』というくらいに減らして食べてもらうのがいいですね」と述べた。偏食については「牛乳でとれる栄養は限られてますし、この時期はいろんな食材を味わってもらいたいので、できるだけ挑戦するようにしてほしいです」ということだった。
 今の担任は「牛乳さえ飲めばいいというのは違いますよ」とクギをさしつつ(そういうことはぼくも言ってないのだが)、「食事は楽しいのが基本ですから」として、量はあまり多くせず、どうしても食べないものは『これだけは食べてね』というくらいに減らして食べてもらいましょうよ」という提案をした。「牛乳も腹をふくらませることになるから、食後や寝る前の牛乳は抑えて、『夕食を食べないとお腹が減るなあ』と思ってもらいましょう」とも言われた。

 ほとんど同じことを言っている、と思うだろう。
 いまぼくも文字にしてみて改めてそう思ったんだけどw

 しかし、ぼくは前の担任の「何かから逃げるという体験を積ませるのはあまりよくない」「この時期はいろんな食材を味わってもらいたいので、できるだけ挑戦するようにしてほしい」という発言がかなりの重みをもって頭に残ってしまったのである。

 つまり、基本思想は前の担任も今の担任もそうかわらないのだが、前の担任は偏食を批判し、挑戦するというポイントに重きをおいた。今の担任は、「食事は楽しいことが大事」という点にアクセントがおかれているように感じたのである。

 育児というものは弁証法そのものであって、相矛盾する側面が平気で同居し、めまぐるしくかわる条件のもとで正反対のポイントを強調・前景化することになる。なので、何かに1つの強調に固執したり、一面的にとらえすぎると大きく誤る。
 だが、そうだとはわかっていてもいったいどうすればいいのか迷うのである。

 現実に目の前にいる娘は、小さいスプーンで4杯ほどの白飯さえもなかなか平らげようとしないし、汁物も1センチも深さのない少量のものさえなかなか飲み干さない。「おとーさん、はんぶんたべて!」と言い放ち、たばこをくゆらすように指しゃぶりを始め、いつまでもぼーっとしているのである。これ以上減らすとなれば、本当に1口か2口になってしまうのだが、それでもいいのだろうか、とぼくは悩む。
 加えて、ぼく自身食事のおそい、ダラダラと食べるタイプの人間だから、娘に「早く食べようよ」とくり返し言いたくはない。そういう食事思想は自分自身が一番辟易してきたものではないか。
 1時間近く待ったことが幾度もあるが、「食べないなら終わりだよ」とくり返し警告したあげくに、最終的には「はい、もう終わり」といって、とりあげてしまう。そうすると大泣きするのだ。心を鬼にしてもう与えない。しかしこれでいいのか、迷うのである。

 松田はなおも書いている。

 母親が食事のたびに偏食をなおそうとして、がみがみいうと、子どものほうで、母親の最大関心は食卓にあると感じる。そうなると母親に反抗するのには、食卓でやるのがいいと思うようになる。子どもは、ある食べものが好きでないから偏食するのではなく、母親にたてつくためにハンストする。偏食にたいしては、あまりむきにならないほうがいい。食卓を母親と子どもとがけんかする土俵にしないことだ。
 子どもがよろこんで食べるものを与え、いつも楽しい話をしながら親子で食卓にむかうようにすれば、ほかで親子がうまくいかないことがあっても、食事の楽しみのなかで忘れてしまう。家庭は、人間がはだかで争うこともあるところだから、心のしこりをときほぐすクッションをいくつも用意すべきだ。(同前p.327〜328)

 「食事は楽しく!」と「偏食・食べない態度に挑戦する」ということは相反する問題となって現れる。そのとき一体どう対処したらいいものか。