NHKスペシャル「フリーター漂流」

 土曜日(2005年2月6日)に放映されたNHKスペシャル「フリーター漂流」を観た。

 

 

 フリーターのなかでも、モノづくりの現場での「請負」と呼ばれる種類の労働にしぼって描いたもので、監督官庁もなく法規制も弱い分野であるために、現代の「合法」的世界のなかでももっとも苛酷な搾取がおこなわれている分野の一つだ。

 請負(業務請負)は、派遣に似ている。
 ある工場で人がほしい。そのとき、工場をもっている発注元の企業は、業務請負会社にたのむ。請負会社にはフリーターが大量に雇われており、それらが隊伍をくんで発注元の企業におくりこまれる。
 派遣とちがうのは、派遣のばあいは、おくりこまれた先の企業が、その労働者を指揮・命令することになるのだが、請負のばあいは、請負会社がまるごと仕事をひきうけ、請負会社の指揮・命令のもとで労働者たちは働くことになるのだ。
 派遣のばあいは、派遣法などもあって法の規制もあるが、請負の方がその規制がよわい。
 いまや求人の30%ちかくが業務請負である(派遣は5%)。地域によっては、モノづくりの求人の6割が請負だ。

 NHKは舞台をまず札幌にえらんだ。
 もっとも高い失業率だからである。
 そこの請負会社から栃木の工場におくりこまれた3人のフリーターを追っていく。
 どのような動機から求人をし、いかに働かされ、使い捨てられていくかを克明に追っている。

 最初にでてくるYさん(番組では実名)では、「中卒」という肩書きが彼にとって桎梏になっていることを語った場面が心に残った。彼はアパレル関係で働きたいという夢をもつが、かなえられない。どこにいっても「あ、中卒なんだ」といわれることを、平然をよそおいながら、しかし悔しさをにじませながらYさんは話す。
 そのこととちょうど対をなすかたちで、請負会社での面接・テストの模様が映る。ここでは学歴や経験はほとんど問われない。細かい手作業ができ、「五体満足」かどうかをチェックされるだけなのだ。

 Yさんは栃木の工場で携帯電話の組み立てのラインにつかされる。
 ぼくからみて、本来機械がやるべき工程のような、細かい作業だ(番組ではモデルチェンジが頻繁なために機械化では採算があわないといっていた)。機械にかえて低廉な「ヒト」をもってくることで、逆にコストが下げられるのである。
 Yさんが疲れたように体をほぐしている様子が映し出される。
 「これは疲れるだろうなあ」と思う。

 つぎに出てくるTさんは夫婦で「送り込まれ」てきた。
 実は、請負ではカップルで引き受けられている例が多い。日本各地を転々とさせられ、山の中の工場にまるで閉じ込められるように生活するからだ。会社もカップルを歓迎する(この番組のTさん夫婦は少しちがうようなのだが)。
 Tさんは、今はこれは夢を追うための仮の姿なのだと語る。
 Tさんは、経験も一定あるので現場のリーダーをつとめさせられるのだが、別にリーダー手当がでるわけでもない。リーダーとしての調整をこなしながら、自分のぶんのノルマもこなさねばならず、なんの役得もない。

 苛酷なのは、工場側の要求によって、まさに自由自在に、労働内容も、労働場所も、労働条件も、一瞬で変更させられ、それを拒否する自由はまったくないという現状である。
 番組では、工場側が急きょそのラインは不要になったといって、まったく別の場所に飛ばす様子が出てくる。冷酷にそれを言い渡す工場側にたいし、請負会社のまとめ役の人間でさえ、「え、これから、ですか。今ですか」などと目を白黒させるのだ。仕事をもらっている請負会社は、それを受け入れるしかない。

 Tさんは、シンナーをあつかう塗装にまわされる。
 そこは、換気扇がひとつまわっているだけで、窓もないただ壁だけの狭い部屋に、数人がおしこめられて作業をしている。しかも、塗装作業の必要上、真っ暗なのである。やはり小さい基板を塗り分けていく細かい作業で、かなりの神経をつかうだろうとみていて思う。
 これにくわえて、山のように塗るべき板が押し寄せてくるという悪条件が映し出される。
 リーダーのTさんは、調整役をつとめながら、自分のノルマをこなさねばならない。

 彼はけっきょく疲労やストレスで1週間倒れてしまう。
 病気明け、残業をして取りかえそうとするが、仕事じたいが大幅に減ってしまい、残業することさえもできない。
 給料日に彼は給料をみて愕然とする。
 家賃や光熱費をひかれた手取りは6万7000円しかなかったのだ。
 お金をためるどころか切り詰めねばならないといって、呆然とするSさん夫婦。「ひど…」と絶句するそのSさんの妻の呆然としっぷりが、あまりにリアルに映像におさめられていた。

 請負は残業によってどうにかこうにか生活していけるというしくみによって成り立っている。
 けっきょく、Tさんは、請負の仕事をやめてしまう。仕事の変更はイキナリなくせに、彼が仕事をやめると言い出すと、請負会社側は「2週間前にいわないとだめだろ」とグズる(その後、彼らは工場と直接かけあって夫婦でアルバイトとして直接雇用されるのであるが)。

 最後に出てくるHさんは35才という年齢。
 年齢からくる切羽詰まったかんじが随所に出ていて、映像はそれを見事にとらえていた。
 Hさんもやはり他の業種で求職したがどこにもひっかからなかった。いま自分がいる位置は一番下であり、あとは「上」をみるだけだ、という、決意とも焦躁ともつかぬ言葉が紹介される。

 Hさんは、失意のうちに職をやめて札幌の実家に帰る。
 彼の札幌の実家も、小さな運送業をいとなんでおり、競争で激しく売上がおちこんでいた(月7万のことも)。
 哀しかったのは、父親に説教される場面だった。
 昔気質の父親は、請負という労働の実態をしらない。
 「じっくりと我慢して(働くべきだ)」「そうしているうちに上の人に見初められる」と昔の雇用形態を前提にした説教をくり返す。Hさんが説明してもまったく伝わる様子がない。
 Hさんが、一瞬ギロッと父親をにらむのが映像におさめられている。
 Hさんは、たいへんおとなしそうな人なのだが、父親の無理解に怒っているのだ。

 けっきょく彼はふたたび請負会社をたずね、愛知の自動車工場のキツい仕事を割り振られる。
 こんどは請負会社の社員から、かなりキツい仕事だといわれ、Hさんはできるのかと不安を口にするが、「馴れです。というか、こういうような仕事をHさんするしかないですよね」――“おまえの歳ではえりごのみなんかしている場合じゃないんだぞ”といわれてしまうのである。
 Hさんが、雪の中、愛知に旅立っていくところで、番組は終わる。

 通して感じるのは、この働き方を続けていく先に、なにかその人の人生にとって希望があるのか、という絶望にも似たものである。まさに資本の都合によって、時間でくるくると労働内容が変えられたうえ、正社員にも昇進も開ける道がない。必要な金がほしければ体をこわすまで残業する道しかない。
 途中で、バスにのって連れていかれる若者たちの映像が出てくるが、どの人も目が死んでいる。

 もうひとつは、こうした働かせ方が資本の側の露骨な論理によって生まれているということだ。
 請負会社の部長(パウエル似)は「われわれが調整弁となる」と番組でのべる。「われわれ」といっても、そいつが調整弁になるのではなく、体よく調整弁にされているのは若者たちである。「毎日が戦争。一名でも多くタマを送りたい」。若者は兵士ですらない。撃たれるタマだ。
 工場の社長は「フリーターのいいところは正社員とちがってそのときどきに対応できること」とのべる。むろん、「対応できる」とはクビをきれる、または配置がえできるという意味でしかない。
 そして、大手のメーカーのモノづくりは、このような苛酷な搾取のうえに成り立っている。前半で出てくる工場も大企業の下請である。危険なものは別の会社がやってくれる。大手はそのキレイな上澄みだけをとればいいのだ。


 全編を田中邦衛の哀切こもるナレーションが覆う。
 ひじょうによくできたドキュメンタリーである。

 なぜなら。
 フリーターがかかえる典型的状況を典型の「対象」をさがしだして描きつくしているからである。

 その最大のものは、いまのべたとおり、働き方、そしてその先にみえる人生に希望が見えない、という状況である。山田昌弘は『希望格差社会』(筑摩書房)のなかで、収入の格差がやがて希望の格差へのつながっていくことが「最も深刻」と警鐘をならす。
 戦後の高度成長の時代は、もちろん工員という働き方はあった。
 しかし、それはHさんの父親がのべたように、小さな階梯ではあるけども経済的な希望へとつながっていた。「中学や工業高校を出て企業に入社した若者は、機械の使い方を学びながら、徐々に仕事に習熟し、熟練工から現場責任者、更には、技術者や工場長になるのも夢ではなかった」(山田前掲書)。
 渡辺治は1960年代になって「ブルーカラー層でも経験を通じて昇進をくり返せば一応観念上は最上級まで到達しうることになった。八幡製鉄に導入され鉄鋼産業に広がっていった作業長制、そして“青空のみえる昇進制”というスローガンこそ、かかる競争的昇進構造の成立を意味するものであった」(『「豊かな社会」日本の構造』)とのべる。
 この階梯がはずされ、大量の若者は先の見えない働き方を強要されている。
 そう、まさに「強要」されているのだ。
 現象的には、Yさんが中卒であること、Hさんが面接にうからないことなど、「個人の責任」「自己責任」として彼らのうえにふりかかる。山田昌弘は『希望格差社会』のなかで、近代はリスクを低減させる社会だったが、現代のグローバル化のもとではリスク化がすすみ、社会のもたらすひずみが、社会にまとまってではなく、個人の上に確率的にふりかかるようになると指摘する。それゆえに、「自己責任」原則が強調されていくとのべている。
 この番組でも、中国などのアジアの企業に対抗するために、徹底したコストダウンをはかる話が出てくるが、このような働かせ方の出現は、まさに大きくはグローバリゼーションにもとづいて起きている。番組でも指摘されたように、それにあわせる形で、政府は働かせ方を「緩和」させた。

 山田は、フリーターは不況の産物で景気回復とともに解消されるという見解と、若者はしばられる生き方をきらって好きでフリーターになっているという見解を批判する。「この二つの誤解は、現在職業世界に起こっている変化が『構造的』変動であることを見落としている。……一時的な不況のせいではなく、産業システムの構造変動にこそその理由を求めなくてはならない。……若者に関しては、不安定な職を『選ばざるを得ない』状況に追い込まれている。若者の意識変化は、そのような状況に適応した結果生じたのであって、その逆ではないことを強調しておきたい」(山田前掲書)。
 番組では、3人とももともとなりたいものや夢があったことを伝えている。
 山田は、フリーターを「夢追い型」「やむを得ず型」などとわけることを「あまり意味がな」い、とのべる。「フリーターが、将来の希望がもてる定職に就いていないという事実が重要ではないかと思っている。……フリーターをしながら『自分の理想的仕事や立場』に就くまで待っている状態が、フリーターの真の姿なのである。……いつか、自分の理想の仕事や立場に就けるはず、と思いながら、単純労働者である自分の姿を心理的に正当化するのが、フリーターの抱く夢の本質ではないだろうか」(山田前掲書)。

 番組ではTさん夫妻が出てくる。最後に妻も働くように、フリーターのカップルである。山田はこれを「弱者連合」とよぶ。しかし「フリーターという弱者同士で結婚しても、それは、『連合』とはならず、お互いがお互いにとっての『リスク』となってしまうのだ」(山田前掲書)。
 反対に、経済的・職業的強者は強者と結婚し、強者連合をつくる。それによって、二極化は加速していく、と山田はのべる。
 これまでその緩衝材だった「家族」という中間集団が、リスクを逆に増幅させかねないというのである。


 NHKはこういう番組こそ、もっとつくってほしい。

 


鎌田慧自動車絶望工場

 番組をみて思い出したのは、鎌田慧の『自動車絶望工場』だった。

 

 

 鎌田の代表作で、日本のルポルタージュの古典の一つである。
 1972年から自ら「季節工」としてトヨタのラインで実際に働き、その体験をもとに書いた日記形式の「潜入ルポ」だ。

 鎌田のこのルポの最大の特徴は、「コンベア労働」の苛酷さを、綿密な筆致で描いたことであった。

「コンベアはゆっくり回っているように見えたが、とんでもない錯覚だった。実際、自分でやってみなければわかるものではない。たちまちのうちに汗まみれ。手順はどうにか覚えたのだが、とても間に合わない。軍手をしているので、小さなボルトを、それも使う数だけ掴み取るだけでも何秒もかかる。うまくいって三台に一台やるのが精一杯。違った種類のミッションが来ると、それは難しくてお手上げ。カバーをはめるのにコツがいるので、新米ではできないのだ。喉はカラカラ。煙草どころか、水も飲めない。トイレなどとてもじゃない。だれがこんな作業システムを考えたのか。息つく暇のないようにギリギリに考えられているのだ」
 その隙間のない作業でさえ、やがてそれに「習熟」し、多少の余裕をもてるようになる先輩の様子が描写される。

 鎌田はそのなかで「充実感」をおぼえる瞬間をとらえる。

「働いている以上、どこかに喜びを見つけないではいられない。……ロックに六本のボルトを通し、ナットランナーで締めつける。これは慣れないと、六本のボルトがいっしょに回らない。それがうまくいって、一気に締めるのに成功すると、『やったぁ!』と大きな声で叫ぶ。自分でやっていても、なんの無駄もなく二、三秒で締め終えた時には、小気味いい音をたててボルトがすべり込む。たしかにその時、“充実感”があるのだ。こんな限られた労働の、二、三秒の動作の中にさえ、充実感を感じとらないでは、やっていけないのも事実なのだ」

 充実感が逆により大きなむなしさをひきよせる様子を、鎌田は放さない。

 しかし、それだけではない。
 鎌田は働いている同僚の風貌の描写や、生活のなかでもれてくるつぶやきをとらえ、生活や気分の全体を描き出す。深夜1時の始業前の「さあ、やるか」という労働者のつぶやきさえ、鎌田はそこに「さあ、やろう」ではなく「さあ、また地獄が始まるか」というニュアンスを嗅ぎとるのだ。
 自衛隊から流れてくる人間の描写の中にも、貧困のなかでそれらが一つにむすびついているさまを、にじませる。

 さらに、そこにトヨタという企業体の全体像や、企業ぐるみ・組合ぐるみの選挙の実相が重なり、ルポは労働の現場から日本の政治経済の全体像に迫っていくのである。

 鎌田は、言葉の力によってそこに迫ることができた。

 今回、「フリーター漂流」をみて、鎌田のしとげた仕事を、映像によってもまた迫ることのできる可能性をみた。映像は言葉がつたえ切れない、微妙なニュアンスを一瞬で伝えてしまう。父親の言葉に怒りを感じたHさんの瞬間の表情や、仕事をしているときの高い緊張度をもったTさんの顔、給与明細をみて絶望するその妻の気持ち……そうしたものを映像はまことに雄弁に語る。

 もし、もっと多くの時間を与えられるのであれば、さらに鋭く、そして広範囲に全体像を明らかにすることができただろうと思う。

 

「単純反復不熟練労働は、それに従事する労働者を企業から離れ難くさせる。一定の年齢に達し、一定の生活内容を作りそれを支える一定の賃金を受け取ると、もうかれはいまの企業から出れなくなる。その労働がどんなに退屈極まりないものであっても、いまの企業にいるからこそ通用するのであって、他の企業ではもう通用しない。若く、さまざまな可能性を持っている一人の人間が、ひとつの器官だけを激しく使う労働に囲いこまれ、人為的に未発達な人間にされてしまう。何の特長もない、代替可能な、従順な労働力でいる限り、かれには一定の報酬が保証される。かれは閉鎖社会の中で飼い殺しになる」

 鎌田のこのトヨタの描写は、いまみれば「牧歌的」ですらあるかもしれない。

 フリーターには囲い込まれる権利、飼い殺しになる権利さえなく、使い捨てにされるだけなのだから。