久野秀二「環境問題と史的唯物論」

 ある有名なモノ書きのメールに、

マルクスは合理的な資本主義をめざしていたと思う」

という一文があった。それはちがうだろう

 この人は、おそらく旧ソ連の実態から直接にマルクスをイメージし、「どちらも同じ19世紀思想」と考えて、「大量生産、大量消費」という点では、資本主義も社会主義も同じだ、という先入見から出発しているのだろう。『資本論』やマルクスの著作からは考えてはいまい。


 ソ連を念頭において、マルクスエンゲルス近代主義者の一人に数え上げ、「自然から搾取する思想」の代表者の一人とみなす見方はひろくある。本論文で紹介されているメアリ・メラーらのマルクス主義評価はその典型である(「生産第一主義」「工業主義的社会主義」)。
 そりゃあ、チェルノブイリとかみりゃ、社会主義なんてあんなもんだとだれでも思うわなあ。

 チェルノブイリだけにかぎらない。
 日常的にスターリン型体制下での環境破壊はひどいものである。以下は、スターリン型体制下の最末期のポーランド(カトヴィツェ県)での大気汚染の状況である(1984年)。右は同時期の日本の全国平均である(1988年の日本政府のポーランド調査団報告書)。
 ●浮遊粉じん221……日本は80
 ●二酸化硫黄89~420……日本は60
 ●窒素酸化物116~620……日本は106~646(東京一般)

 まあ、そんなこんなで、ソ連・東欧ではご立派な環境汚染防止原則があるのだが、全然機能しておらず、これがマルクスのめざした社会の結末かとおもえば、「生産第一主義」「工業主義的社会主義」という悪態をつくのは、むしろ人間の当然の情というものであろう。

 この点でも、ソ連共産主義というドグマから解放されないかぎり、マルクスと素直にむきあった対話は不可能になってしまう。

 人間の生存条件を破滅させる地球規模での環境問題は、もちろんマルクスの時代には想定されていなかった。しかし、マルキストたちは、公害闘争などで、資本の本性をあばいたマルクスの理論が大いに役立ったことを感じている。
 はたして環境問題を考える上で、マルクスは古いのか、それとも有効なのか。
 本論文では、

(1)マルクスもともと自然とどうむきあおうとしていたのかということをクリアにする、
(2)マルクスエンゲルスの思想をゆたかに発展させることで、理論の豊富化をめざす、

という課題をはたそうとしている(※この論文自身が自己規定している論文の課題は別にあるのだが)。


 ぼくが、この論者(久野)の理論態度としてすばらしいとおもうのは、一つは、マルクスの絶対化にも相対化にもおちいることなく、マルクスの思想原像を描出しようとする態度である。マルクスがいまの問題を頭に描いていたかのような無理な荷をマルクスに負わせる必要はないし、かといって、マルクスソ連のプリズムからながめてゴミ箱に捨ててしまうという態度もとらない。
 そのこととかかわって、久野はマルクスのいったことをくり返す「自己防衛」態度をとらず、積極的な理論展開をして新たな体系をしめすことによって、理論の豊富化をめざそうとしていることも注目にあたいする。この作業は、マルクスをいったん断ち切ってあらたにそこに別のものを注ぎ足すという安易な方法をとらない。マルクスの思想じたいを内在的に発展させる方法だから、「エコマルクス主義」「エコ共産主義」などの造語にたよらずに、理論をすすめていく。


 マルクスの社会把握のカテゴリーのうち、久野が注目するのは、「生産」と「物質代謝」の概念である。

 

現代に挑む唯物論

現代に挑む唯物論

 

 



 マルクスにおける「生産」の概念を吟味する


 「生産」概念は、マルクスのカテゴリーのうち、もっともソ連のイメージとダブらせやすく、「自然からの搾取」を連想させやすい。
 そうですねえ、『資本論』第1部でザセツしたヒトなんかは、どうもマルクスがモノを時間内にたくさんの個数つくったらそれで「生産性があがった」とヨロコんでいるみたいにみえるんじゃないすかねえ。それでソ連のいけいけどんどんみたいな経済実態と重ねりゃ、もうイチコロですよ。

 ハーバーマスが危ぐする「道具的理性」、テクノクラートによる支配という考えがみちびきだされるとき、ハーバーマスの頭のなかには、「生産」についてのこうしたイメージがあったんじゃなかろうか。ハーバーマスはマルクーゼの次の言葉を肯定的に引用する。「たえずいっそう有効な自然支配へとむかう科学的方法は、ついで、自然支配を媒介にした人間の人間にたいするたえずいっそう有効な支配のための、純粋な概念および道具を提供することになった。……こんにちでは支配の永続化と拡大は、工業技術を媒介にしておこなわれるばかりでなく、工業技術としておこなわれるのだ」。
 「いまや生産力は現存体制の批判の基礎として政治的啓蒙運動に味方するものではもはやなく、それ自身体制の基礎となっているのだ」(ハーバーマスイデオロギーとしての技術と科学』)。

 生産関係をつきやぶるのは生産力だ、という「史的唯物論の公式」とおもわれていることを念頭におけば、生産力は労働者にとって、体制をつきやぶる未来の味方になっていくはずだ、という発想がハーバーマスの頭のなかにある。ところが、自然支配をつうじてそれは人間支配となり、体制のいまや基礎となっている、とハーバーマスはイメージした。

 「自然の支配」。

 これはエンゲルスが多用した言葉で、ここから、一足飛びに自然搾取を連想する論者も多い。「生産手段が社会によって掌握されるとともに……人間は、自分自身の社会化の主人となるから、またそうなることによって、はじめて自然の意識的な真実の主人となる」(『反デューリング論』)「人間は自分がおこす変化によって自然を自分の目的に奉仕させ、自然を支配する。そしてこれが人間を人間以外の動物から分かつ最後の本質的な区別であって、この区別を生みだすものはまたもや労働なのである」(『自然の弁証法』)。
 きゃー、主人ですって。支配ですって。
 この、「社会支配→自然支配」というのは、ちょうどマルクーゼやハーバーマスがえがいた図式の逆で、彼らは明らかにこのエンゲルスの命題を意識している。

 久野は、マルクスの「生産」概念をふりかえり、これを物質的財貨の生産だけに限定する考えは、せまい、と批判する。マルクスは、『経済学・哲学手稿』のなかで「生産」を「類生活」の(再)生産であるとのべ、人間の生活や生存そのものを再生産するところにその本質がある、とみていた。物質的財貨の生産は、その一部でしかない、というのである。
 つづいて久野は「人間は直接に自然物である」ではじまる『ドイツ・イデオロギー』の一節をひき、マルクス人間を自然の一部としてとらえ、自然によってすっげえ制約されている、しかしなおかつ、自然に制約されたままではなく自然に働きかける能動的存在だと考えていたとする。
 つまり、まとめると、

(1)人間は自然の一部で、自然に制約されている
(2)人間はただ自然のなすがままの存在じゃなくてそれに積極的に働きかける
(3)自分が生存をつづけていけるようなかたちで自然とむきあう、

というのがマルクスの自然観だというわけである。
 (1)(3)がポイントである。
 自分が自然の一部だという自覚があれば、逆にいうと、めちゃめちゃなことをすれば自分が生きていけなくなるという認識に当然結びつく。自分が生きていくために自然から富をとりだすやり方も、人間じたいの生きる条件をほりくずすのであれば、そのとりだし方を工夫するのが人間である。
 少なくともここには、人間を自然にとって対立した、外的なものとみなす思想はない。

 早い話が、「自然の性質をうまく知って、自然とうまくつきあっていかないと、自然にヤられてしまう」ということをマルクスエンゲルスも自然観のうちにふくんでいたのである。
 したがって、評判の悪い「自然の支配」という考え方も、実は自然にたいする奴隷主人、搾取主としての振るまいではなく、その法則的認識、つまりおつきあいの仕方を学ぶ、というものであった。これがマルクスエンゲルスの生産概念、自然観である。

 「うそだろう。それこそ後知恵ではないのか」

とお思いのかたもいるかもしれない。
 しかし、さきほど紹介したエンゲルスが「自然支配」を言及したすぐそのあとの言葉をみれば、思い直してもらえるだろう。

 

「しかしわれわれは、われわれ人間が自然にたいしてかちえた勝利にあまり得意になりすぎることはやめよう。そうした勝利のたびごとに、自然はわれわれに復讐する。なるほど、どの勝利もはじめはわれわれの予期したとおりの結果をもたらしはする。しかし二次的、三次的には、それはまったく違った、予想もしなかった作用を生じ、それらは往々にして最初の結果そのものをも帳消しにしてしまうことさえもある。メソポタミアギリシア小アジアその他の国々で耕地を得るために森林を根こそぎ引き抜いてしまった人々は、そうすることで水分の集中し貯えられる場所をも森林といっしょにそこから奪いさることによって、それらの国々の今日の荒廃の土台を自分たちが築いていたのだとは夢想もしなかった。アルプス地方のイタリア人たちは、北側の山腹ではあれほどたいせつに保護されていたモミの森林を南側の山腹で伐りつくしてしまったとき、それによって自分たちの地域でのアルペン牧牛業を根だやしにしてしまったことには気づかなかった。またそれによって一年の大半をつうじて自分たちの山の泉が涸れ、雨期にはそれだけ猛威をました洪水が平地に氾濫するようになろうとは、なおさら気がつかなかった。ヨーロッパにジャガイモをひろめた人々は、この澱粉質の塊茎と同時に腺病をも自分たちがひろめているのだとは知らなかった。こうしてわれわれは、一歩するすたびごとに次のことを思いしらされるのである。すなわち、われわれが自然を支配するのは、ある征服者がよそのある民族を支配するとか、なにか自然の外にあるものが自然を支配するといったぐあいに支配するのではなく、――そうではなく、われわれは肉と血と脳髄ごとことごとく自然のものである、自然のただなかにあるのだということ、そして自然にたいするわれわれの支配はすべて、他のあらゆる被造物にもましてわれわれが自然の法則を認識し、それらの法則を正しく適用しうるという点にあるのだと、ということである」エンゲルス『自然の弁証法』より「猿が人間化するにあたっての労働の役割」)

 

 エンゲルスはほぼすっかりいいつくしている。
 ここには「自然対人間」どころか、人間は自然と一体のものであり、まさにその「つきあい方を心得る」ということが、自然にたいする接し方であるというエンゲルスの姿勢を伺い知ることができる。そこには無制限な自然の搾取などという考えはない。

 「江戸えころじー」「江戸りさいくる」などでヒットをとばす石川英輔の次の一文とくらべてみるがいい。

「人間と環境と書けば、まるで人間は環境の外にいるか見物人のようだが、実際は人間も他の動物と同じように環境の一部分にすぎないから、環境の悪化の影響を同じように受けている」(『大江戸えころじー事情』)

 

マルクスにおける物質代謝の概念


  マルクス・エンゲルスの思想が、19世紀の先進であったことは、ここにとどまらない。
 久野があげるもうひとつのキー概念が、「物質代謝」である。

 

 「労働は、まず第一に人間と自然とのあいだの一過程である。この過程で人間は自分と自然との物質代謝を自分自身の行為によって媒介し、規制し、制御するのである」マルクス資本論』)

 

 久野は、ここで、物質代謝という概念によって、生産から消費、廃棄というプロセス全体をマルクスが視野におさめていたことを指摘する。むろん、地球規模での環境破壊が問題になっていない時代であるから、その視野は限定されているにしても、それがもっとも端的にあわられるのが農業の分野である。

 

「資本主義的生産は、それによって大中心地に集積される都市人口がますます優勢になるにつれて、一方では社会の歴史的動力を集積するが、他方では人間と土地とのあいだの物質代謝を攪乱する。すなわち、人間が食料や衣料の形で消費する土壌成分が土地に帰ることを、つまり土地の豊穣性の持続の永久的自然条件を、攪乱する。したがってまた同時に、それは都市労働者の肉体的健康をも農村労働者の精神生活をも破壊する

「資本主義的農業のどんな進歩も、ただ労働者から略奪するための技術の進歩であるだけではなく、同時に土地から略奪するための技術の進歩でもあり、一定期間の土地の豊度を高めるためのどんな進歩も、同時にこの豊度の不断の源泉を破壊することの進歩である」マルクス資本論』)

 

 

 


 ここには、はっきりと、土地という自然の豊かさを搾取する資本主義への批判がある。
 そして、「資本主義的生産は、ただ同時にいっさいの富の源泉を、土地をも労働者をも破壊することによってのみ、社会的生産過程の技術と結合とを発展させる」とのべ、その原因を資本の本性に見い出し、「同時にそれ(資本主義的生産)は、かの物質代謝のたんに自然発生的に生じた状態を破壊することによって、それを、社会的生産の規制的法則として、また人間の十分な発展に適合する形態で、体系的に再建することを強制する」マルクス資本論』)というふうに、社会主義、つまり物質代謝の合理的規制と共同管理による解決をめざす。

 ハンバーガーの肉を生産するために、グァテマラやホンジュラス熱帯雨林を伐採して牧場をつくりだす。あるNGOの試算によれば、ハンバーガー1個で、森林5~15平米が破壊される(地球危機管理委員会編『地球が危ない!』)

 まさに、土地=自然の「豊度」を奪いつくす資本主義的農業生産を、合理的、社会的な規制をくわえるときではないのだろうか?
 久野のいうように、マルクスは、カップらの「社会的費用論」のように、こうした考えをかれの経済学に充分におりこむことはできなかった。しかし、そこには、現代につうじる視点を充分にかねそなえているのではないだろうか。

 


余談:マルクスとウンコ または江戸

 

 余談であるが、マルクスは、『資本論』のなかで、農業における廃棄物の利用、つまり人糞を肥料につかうことについて、江戸時代の日本について何度か言及している。

 一つは、第三部第5章第4節「生産の排泄物の利用」では、ロンドンの大量の人糞の廃棄(「消費の排泄物は農業にとって最も重要である。その使用に関しては、資本主義経済では莫大な浪費が行なわれる。たとえば、ロンドンでは450万人の糞尿を処理するのに資本主義経済は巨額の費用をかけてテムズ河をよごすためにそれを使うよりもましなことはできないのである」とふれたあと、「ロンバルディアや南シナや日本で見られるような小規模な園芸的に営まれる農業でも、たしかにこの種の大きな節約がおこなわれている」として、人糞肥料が使われていることを「不変資本充用の節約」と呼んでいる。

 もうひとつは、第一部第23章で、イギリスの農業プロレタリアートが、便所もない一室に10人が閉じ込められ、戸棚にウンコやおしっこをしていっぱいになれば外に捨てるという例を紹介したあとで、「日本でも生活条件の循環はもっと清潔におこなわれている」と、日本の人糞利用をここでも披露する。
 マルクスは江戸日本の人糞利用農業に注目している。

 石川英輔を思い出すではないか(つーか彼が典拠にしている鯖田豊之)。
 下水システムがないロンドンでは、数百万人分の下水をすべてテムズ川に流す。悪臭、病気が蔓延する。パリでは上水道用の水源に流すから、薄めた下水を市民は飲んでいた。これにたいして、江戸では、人糞(下肥)が商品として高値がつくほどに売れる。農家が金や作物とひきかえに、下肥を買っていき、それで農業が営まれたという完璧なリサイクルであった。ゆえに日本では都市の近くでも清流が保たれていた(『大江戸リサイクル事情』)

 マルクスがロンドンの糞尿廃棄を「莫大な浪費」として批判し、江戸日本のリサイクルを「大きな節約」「清潔な循環」とよんだのと似ている。
 石川はリービヒが日本の下肥活用を賞賛しているのを紹介しているが、マルクスは地代論を書くうえで、農化学を研究し、リービヒを大いに研究にした。つまり、マルクスの「物質代謝」概念には、リービヒを介しての江戸日本の概念があったと推察できる。

 さて本題にもどろう。

 

 

マルクスの生産力概念を豊富化する

 久野は、こうした「生産」概念と「物質代謝」概念をふまえて、「生産力」概念を今日的に豊富にすべきであると強調する。

 すなわち「人間と自然とのあいだの物質代謝を人間が媒介し、規制し制御する能力」であり、それは「人間の生存条件の再生産を可能ならしめるもの」として、「人間による諸法則の認識と意識的活用にもとづく自由の獲得に支えられるもの」である。

 これは、マルクスエンゲルスの思想を外在的に「つけたす」というやり方をとっていない。
 あくまで、彼らの思想を内在的に深化させている。
 悪くいえば上記のことは、マルクスエンゲルスの言ったことを一歩も出ていない
 しかし、それは、一歩も出ていないがゆえに、見事な内在的豊富化たりえている。

 それは、「自然を使いこなす力」であり、こんにちでいえば、「人間が生きられつづけるように自然とつきあう力」、昨今の流行り言葉ふうにいえば(すいませんね、造語しちゃって)、「つきあい力」とでもいおうか。そこには、もはや物質的富を自然からとりだすだけという狭い生産力概念は消えている。

 よみがった「生産力」概念は、ハーバーマスやマルクーゼが危ぐしたように自然を搾取し人間を支配する道具的理性でもないし、生産関係をつきやぶるという「イノセントな」量的なだけの規定でもない。「搾取するための自然ではなく、同胞としてつきあえる自然」として「自然を可能な技術的処理の対象としてあつかうのではなく、可能な相互行為の相手としてこれに接する」(ハーバーマス)ことができるのである。

 技術や科学を道具的理性として、コミュニケーション的行為と対立させてしまえば、脱出は不可能になる。両者はどちらも必要にならざるをえない。技術や科学は資本主義的な形態から解放されることによって、そのありようを変え、自然とのコミュニケーション的行為へ奉仕するものとなる。

 いや、小理屈いうまえに、だいたい炭酸ガスをどう規制するかを考えたとき、コミュニケーション的行為だけでいいわけねえだろ。

 IPCCという国際組織が炭酸ガスについてだしたレポートでは、西暦2300年に大気中の炭酸ガス濃度をどれくらいに設定すれば、その値ごとに、どれくらいの努力は必要になるかといういくつかのシナリオをだした。いま360ppmのものを300年後に450ppmでとどめようとすれば(シナリオ=S450)、排出量を3分の1まで落とさないといけなくなる(炭素換算)。3分の1にまで化石燃料生活レベルを落とすというのは、並み大抵の苦労ではない。
 東大工学部の月尾嘉男教授は、『縮小文明の展望――千年の彼方をめざして』のなかで、このシナリオについて「地球にとって三〇〇年は一瞬であるが、人間にとっては異常に長期の政策である。それほどの努力をしなければ環境問題は解決しないのである。……所詮、人間が見通せる未来は数十年先程度であり、実際には数年で変更せざるをえないのが現実である。しかし、地球規模の環境問題を解決しようとすれば、一桁拡大して百年単位の構想を立案して実行しなければ解決しない」とのべている。


 まさに、そこには、エンゲルスの視点が必要となる。そこには、自然とコミュニケーション行為をする力とともに、資本主義形態から解き放たれた科学や技術もそこに奉仕する。

 

 

「われわれは日ごとに自然の法則をいっそう正しく理解し、自然の昔ながらの歩みにわれわれが干渉することから起こる直接間接の影響を認識してゆくことをまなびつつある。ことに今世紀(19世紀)にはいって自然科学が長足の進歩をとげてからというもの、われわれはしだいに、すくなくともわれわれの日常的な生産行動については、その比較的遠い自然的影響をも知ってこれを支配することをまなびとりうる立場になってきている。しかしそうなればなるほど、人間はますますまたもや自分が自然と一体であるということを感じるばかりか知るようにもなるであろうし、また古典古代の没落以来ヨーロッパで擡頭して、キリスト教においてその最高度の完成を見た、あの精神と物質、人間と自然、魂と肉体の対立という背理で反自然的な観念は、ますます不可能になってゆくであろう。……これまでのすべての生産様式は、労働のごく目さきの最も直接的な有用効果を達成することしか眼中におかなかった。それからさきの、もっと後になってはじめて現われ、漸次繰りかえされ累積されることによって効果を生ずるような労働の諸結果は、まったく等閑視されていた」

「このような規制を実現するためには、たんなる認識以上のものが必要である。そのためには、われわれのこれまでの生産様式と、またそれとともにわれわれの今日の社会秩序の全体を完全に変革することが必要である」

エンゲルス『自然の弁証法』)