『南Q太傑作短編集 ぼくの友だち』

 ぼく自身はこれまで外国で生活してみたいと思ったことはない。なんとなく「逃げ出す」みたいな、今の人生に負けたみたいな、そんなイメージがあったからであるが、どう考えても偏見である。そもそもつれあいは外国で暮らしていたが、何かから逃避するために外国に行ったわけではななく、明らかにキャリアを積むために行っていたので、そんなイメージとは程遠い。そんな人が身近にいるのに、である。

 いや別に逃げ出すために行ったって何にも問題ないじゃん。

 気詰まりな土地で自分を腐らせるよりよっぽどいいだろ、と言われると、なるほどそうかもしれないな、とも思う。

 なるほどそうかもしれないな、とも思うのは、今自分の人生上の転機が訪れているからだろう。子育てもそろそろ終わりが見えてくるので、別に今いる土地に拘束される必要はない、という事情も手伝っているのだろう。

 あいつら俺の人生をめちゃくちゃにしやがって、俺は年寄りのおもちゃじゃねえよ、というような怒りとともに、「その夜おれと山嵐はこの不浄な地を離れた。船が岸を去れば去るほどいい心持ちがした」という夏目漱石の『坊ちゃん』で松山をけなしたような心持ちで今いる土地を離れるのだろうか。

 

 

 

 『南Q太傑作短編集 ぼくの友だち』はタイトルの通り南Q太の短編集である。

 どれもなかなかいい作品ばかりだったが、中でも、「キリフィッシュ」という短編は心に残った。それは、主人公が最後に外国で暮らすことにする心境が、なんだかとても身近なもののような気がしたからである。

 

 主人公の下田潮(しもだ・うしお)は母親と二人暮らしをする36歳の独身の男性である。スポーツで活躍していたが怪我をしてリタイアしてからあまり人生がうまくいってないという自己認識を持ち「クソみたいな会社でクソみたいな仕事をして だるいけど他にやりたいこともないし 生きることに向いてないのかなと思います」と吐き捨てるように言う。

 潮が隣に越してきた、はるかに年上の画家の女・カオルと知り合う。

 カオルは人に何かを求めたり、押しつけたりしない。服装も、言うことも、態度も、他人からの評価を気にしない。

 そういうカオルと一緒にいることが、潮には次第にラクだと思えてくる。といって、恋愛感情が芽生えるわけではない。性的な感情を自分は起こせない人間なんだと自覚しながら、カオルと一緒にいることを楽しむようになる。

 「オレもカオルさんみたいになりたいな」

って言える36歳は素晴らしいと思う。憧れる力が生まれてくるというのは、人生に対する活力が湧き上がってきた証拠だ。そんなふうに潮が言うコマが好きである。赤ちゃんみたいな生命力を感じる。

 しかしカオルは突然いなくなってしまう。夫に見つかったのか、見つかる前に逃げたのかわからないが、とにかく行方が分からなくなってしまう。

 だが潮はもう変わっていた。

 ページが改まって描かれる潮の容姿も雰囲気も本当にさっぱりしたものになり、そのグラフィックを見ただけで「クソみたいな会社でクソみたいな仕事をして だるいけど他にやりたいこともないし 生きることに向いてないのかなと思います」と毒づいたあの人生とはおさらばしたんだなということが読むものに迫ってくる。

40を過ぎて海外の会社に転職した

語学の勉強をしながら海外のエージェントに登録

ようやく決まった

新天地でエンジニアとして働くのだ

 すごいじゃないか! 潮!

 40過ぎてもそんなことができるんだ、と思う。勇気付けられる。いやいやこれ、フィクションですから、というツッコミはあっても、そんな潮がいかにもそこにいそうだと思わせた南Q太の勝ちである。

 そして50を過ぎたぼくである。

 人生をクソみたいなものにされた、という怒りから、そのことは必ず決着をつけるつもりではいるけども、人生そのものをそこからまた再スタートさせられるというような希望をこの作品からもらった。

 

 潮は外国でカオルの絵が売られているのを見つけて作品は閉じられる。

 表題の「キリフィッシュ」とはメダカの種類らしく、冒頭でベランダにてメダカを飼っている潮がカオルに声をかけられるシーンで始まったことに由来する作品名であろう。

 なお、アフリカに生息するターコイズキリフィッシュは、乾季に池が干上がると、自分から仮死状態というか休眠状態になって、土の上で乾季を乗り越えるそうである。

 そんな意味も込められているような気もするタイトルである。

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