南Q太『ひらけ駒!』

 子どもに「お稽古ごと」をさせるのは、単に「好きなことをやらせたい」という心性にもとづくものか、それとも「眠っている才能があるかもしれない。機会を与えて開発し人生の選択肢をふやすのは親の責務」というような責任感からだろうか。あるいは「他のお家もやってるので」というはなはだ消極的な理由もあるのだろうか。


 親の方に聞けばたぶん「いやあ、こいつがやってみたいっていうもんでね」と答える人が多いのでは。「オレはそんなに子どもに過大な期待はかけてないよ、負担は押しつけてないよ、軽いノリでさ、ほら、あくまで自発的なさ」という体裁を演出するに違いない。そして少なくとも自意識の中ではそうなっているのだろう。格差と貧困が話題になるなかで、子どもに何か資源を与えたいという気持ちの強まり、「お受験」の過熱があるにせよ、「教育ママ」みたいなのはまだまだ「みっともない」ことだとされているからだ。
 だけど、やっぱりあるんだろう。子どもの「能力」や「才能」を開発しておきたい、という気持ちは。


 開発される能力は、学力型のものが最上階に来るのだろう。計算とか英語といった、学校社会のなかで高い地位につける能力があれば、「もうあんまりそういうのは通用しない」と言われながら、学歴と高い社会的地位を獲得できる可能性を広げると思われているからだ。


 ついで、プロへの道が開けているものだろう。ピアノ、バレエ、水泳といったようなものだ。
 しかし、これは前者に比べると、打算としてはかなり微妙になる。上手になる人は一定数で、うち、それで食べていける人=プロになれる人は本当に限られていくからだ。その道を真剣に歩み始めてしまうことは、前者の道、すなわち学力=学歴社会で王道を歩んでいくことと物理的に矛盾することが多い。
 だから親としては、「たぶんまあ無理だと思うけど、ひょっとしてひょっとするかもしれないじゃないですかあ」という愚にもつかない微量の打算(脳内に取り込んでもただちに人生には影響しない程度の打算)を込めている。


 この下位に、「おけいこごと」としては存在し得ないものへの「熱中」がある。たとえばウルトラマンシリーズの全怪獣の特徴を熱心に覚え、その絵が描けるという類いのものだ。変なもので、子どもが「ステゴサウルス」「パキケファロサウルス」「デイノニクス」という実在した恐竜の名前を覚えることは「自然科学に親しんでいる」気がするのに、「ケムラー」「アントラー」「レッドキング」「ガラモン」というウルトラマンの怪獣の名前を覚えていくのは「しょうもない知識で脳のメモリを浪費している」という気になるのだ。




ひらけ駒!(1) (モーニングKC) 南Q太『ひらけ駒!』は、珍しい将棋マンガである。
 というのも、「母親から見たフツーの子どもの将棋ハマり日記」のようなものだからだ。主人公の小学4年生の男子・宝(たから)は、少なくとも1巻においては「スーパー棋士」に将来変貌していくような片鱗を見せはしない。ただし、「道場で初段」に早々となるという、素人にはどれくらい強いのかよくわからない、でもまあけっこうイケるんだろうね、くらいに思われる腕前なのだ。

 宝は、少なくともグラフィック上は美少年である。
 中性的顔立ちをして、表立っては勝敗で大騒ぎはしない。
 将棋への愛を語る時だけ、うれしそうになる。 

息子が将棋にはまった…


ではじまる物語だが、続いて、

子どもが将棋をやっているときくと
じゃあ算数とか得意でしょうなどと言う人もいるが
全然そんなことはない
いたってフツー


とある。小学校の先生に一流棋士の夢をちょっとだけそそのかされて母親が惚けてしまうシーンがあるけども、冗談のようなコマとして挿入されている。
 この先に、将来を約束するもの何一つとしてない。そういう「おけいこごと」である。息子がハマって楽しそうだからそれを後押ししている。その親心から、息子を愛おしい視線で描いているマンガのように思える。

 宝の小学校の先生(女性)が

かわいいですよね宝くんは

と母親にむかって面談でホメるシーンがあるけども、本当にかわいい。率直にいって性的な魅力さえある。高橋女流三段と真剣な将棋をしたあと、感想戦をおこない、


きれいないい将棋だったよ


と微笑まれた宝は、興奮のあまり鼻血を出してしまう。そこにまつわる性的な空気は、好ましいほどに、作者が、少々バランスの悪さをまじえながら、この「息子」をかわいらしく感じ、描いているのだということが伝わってくる。

 さっきも述べた通り、将棋の先に将来を約束する「何かがある」というわけでもない。
 にもかかわらず、南がこの将棋にハマる子どもへの好感を抱くのは、「集中力」ということではないのか。先ほどのべた小学校の先生は、宝を次のように評価する。

たしかに
あきっぽいかな?って
とこはありますけど


これと決めた問題に
とりくむ時の集中力は
すばらしいですよ!


 南は自分がマンガを描くときに「集中力」を発揮し、それがいかに大事な能力であり、汎用性のあるものかということを知悉している。だからこそ将棋のさいに発揮される「集中力」が、後の人生にとってたとえようもないほど大事なものであることを感づいているのだろう。将棋に集中する息子は、宝の母親にとって見守りたい好感度の高い存在であるし、それを南も描きたいのではないか。

 ウルトラマンの怪獣を覚えるのだって、たとえばカネにあかせて怪獣のおもちゃを身の回りにはべらして「名前を覚えてしまった」というと不健全な気がするけども、たとえそうであったとしても熱中して集中して覚えてしまったという情熱を感じれば、きっと「将来に役立つ」ことをしているような気がする。*1

 結局そんな視線で「子どもの熱中しているもの」を見てしまうのは、やはりよこしまな心なのであろうか。