たなかじゅん『ナッちゃん』

(第7巻までしか読んでいないという前提ですが)

 学生のとき、小関智弘のルポ『春は鉄までが匂った』を読もうとして、挫折した。しかもかなりとっかかりの部分である。あのとき、思想とか世界観とか、いわば「形而上」のものに心を奪われていて、現実の物質的な富がわれわれの生活をささえそれが「思想」や「世界観」を形作っているという実感がなかったのだ(いまでもない。ただ、あのころよりは、いくらかは明瞭につながりをみることはできるようになった)。

 

 

 たなかじゅんの『ナッちゃん』は、工夫の名人であった亡き父親の跡をついで、零細な鉄工所を母親と二人で切り盛りするという話である。数回かけてひとつのエピソードを完結させるという形式で、その一話一話にモノづくりの工夫がこめられている。
 「できない」と思われている難問を、発想の逆転のような仕方が説いていく手法は、ごく上質の推理小説のようで、これがモノづくりに興味のない読者をもふくめて作品に惹きつける源泉となっている。ただ、回を重ねるにしたがってパターンのように見えてくる弱点もあるが。

 小関の本をよんだとき、いちばん難渋したのは、機械や道具の名前がわからず、そのこととあわせて、作業や物質や「工夫」のイメージがまるでわいてこないことだった。
 『ナッちゃん』ではこの点は「絵」であることによって、クリアされてしまった。
 文字で読んだときとまったくちがい、瞬時にイメージ化される。

 ただ、それでも、素人のぼくには、理解がむずかしいということを言っておきたい。
 機械や道具が「絵」として出てくるには出てくるが、無前提に、突然出てくる。モノづくりの現場にいる人々には自明のことかもしれないが「旋盤」さえもイメージはしにくいのが、ぼくの到達点だ。

 工夫を説明する描写のなかで、筒状になった部分や棒状の部分などがあちこち出てきて、それらのどれがどの部分だったか、全体像を理解するのに一苦労ある。もちろん、文字ではもっと難しい(蝶結びを言葉で説明するのが不可能なように)ので、それよりははるかにマシなのだが。

 作者はここうした描写にかなりのページを割く。だいたい3~4ページほどである。これは蘊蓄系の漫画(失礼)としては破格である。しかし、それでもわかりづらいというのがぼくの現状である。煩雑になっても、「けらえいこ」ばりに、もっとじっくりと解説してくれたほうが、この作品の魅力を大きくするだろうと思う。必要なら「これがAの部分」「これがBの部分」とやってくれてもいい。
 『ヒカルの碁』では碁の中身は徹頭徹尾わからなくてもよいものだと扱われた。それはそれで大成功(読者は碁の雰囲気を敏感嗅ぎとり、ヒカルよろしく「オレもあんなふうに打てたら!」と思うのだ)なのだが、モノづくりはそうはいかない。
 謎解き自体がこの作品の魅力なので、もう少しきちんと展開してもらえると素人にはありがたい。ひょっとして、ぼくだけ?

 

 


 作者は、“これまでは零細な鉄工所の経営は、生活の悲惨さや労苦を語る手軽な道具としてあつかわれてきたことはあったが、モノづくりの楽しさや魅力にほんとうに焦点をあてたものはごく少なかった”というむねのことをのべ、どういう気持ちで自分が描きはじめたかを1巻のあとがきで語っている。

 たしかに、この楽しさはよく伝わってくる。

 作者の倫理観も明解だ。
 たとえば、ナッちゃんそっくりのいとこを配置する。人生に目標をもつことを禁じられるとか、合併先の息子との結婚を決められているとか、そういうベタな展開はあるのがだ、それはとりあえずおいておいて、次のシーン。
 ナッちゃんの汚い労働現場のあとに、このいとこがクラブで踊っている(正確には踊っていないが)シーンが出てくる。いとこの知り合いが、ダンスについてのうんちくを披露するのをいかにも軽薄で空虚な感じで描写する。
 また、同級生がコジャレたジャーナリストとしてナッちゃんの前に登場するのだが、ナッちゃんの姿をみてその姿勢を改心する。
 モノづくりの充質感や堅実に対比して、ダンスや文筆の軽薄を配置するのだ。

 尾瀬あきら夏子の酒』も広告業界という、農業・酒造業とはもっとも対極の業界を配置し、そこをぬけて実家の酒造りと稲作にとびこんでいくというストーリーだった。ここでは、“「世界の実体」であるモノとしての商品を忠実に宣伝する存在として広告業界があるならばよかったのだが、現実の広告業はその「世界の実体」をデフォルメし、転倒させ、あるときはまったくの虚偽によって、架空のものにしあげているではないか”という存在として批判されている。

 『ナッちゃん』では、もっと直截である。実体をうつしているだけの、あるいは実体から浮かび上がっている影だけのような「世界」を手厳しく批判する。

 『夏子の酒』は全編が一体の大河ドラマなので、日本農業の現状や酒造をとおした大量生産などのモノづくりの問題が、奥行きのある形でうかびあがってくる。人物の設定も、たとえば、大量生産の酒造を推進する企業家や、農薬散布にこだわる農家の描写も、経済効率至上主義や因習がねっとりと体にまとわりついた、陰影のある造形になっている。
 全体としては暗い。その暗さのなかに、ようやく光がみえる、という効果を使っている。
 他方で、『ナッちゃん』は、1話1話で完結しなければならないせいかもしれないが、モノづくりの工夫へとまっすぐに焦点をあて、そのなかに少しずつ中小企業のおかれた現状や労苦が折り込まれるという程度である(ただ、それは決して失敗はしていない。にじみ出てくるように伝わってくる)。人物の形象は、ひどく単純で、最初にナッちゃんを不自然なまでにバカにしたり、敵役のクムラ製作所の人間もいかにも悪役然といったふうである。
 作品の基調は、底抜けの明るさである。作者の、モノづくりの楽しさを知ってほしいという無邪気なまでの意図がストレートに伝わってくる。

 それは、『夏子の酒』とくらべたとき、直截さなのか、たんなる厚みのない短絡なのか(つまり作者の技量のなさなのか)は、ちょっと判断に迷うところではあるが。

 こう判断することもできる。

 バブル時代の『夏子の酒』は、実体経済を賛美しようとおもえば、手のこんだ奥行きあるストーリーがどうしても必要だった。しかし、いま、日本経済が低迷し、空洞化につぐ空洞化でモノづくりは壊滅的な打撃をうけていく。大資本は、リストラによって業務純益を見かけ上あげていくという邪道に走る。
 そのなかで、モノづくりの本体である中小企業はもとより、支配層=総資本の立場からでさえ、モノづくり大国としての復活が叫ばれるようになった。この切迫感は、バブル時代の比ではない。こうした時代には、単純で明快な労働倫理の称揚が許容される、というか、それこそが、もっとも求められている表現なのだということである。


 女性経営者=労働者としてのナッちゃんという問題にもふれておきたい。

 「女なんか信用でけっか」「なんやオナゴやないか」といわれてくやしがる、というシーンはたしかにたくさん出てくるが、この題材をこの程度でおわらせているのはいかにももったいない。女性が経営者として、あるいは技術者としての苦労は、このような薄っぺらいものではないはずである。

 女性漫画のなかにある、細やかで切実な苦悩にくらべて、いかにも男が外からかぶせたような苦労の描写だとおもう。

 たなかがナッちゃんの肢体、とくに胸と尻を不必要なまでに強調して描こうとして、しかもそこにエロさを発生させることにくり返し失敗しているのをみれば、この作者のあるいは編集者の限界というものがわかる(あるいはスーパージャンプの男性読者にはこれくらいのほうが「ウケる」のか?)。

 そんなことに気をとられず、もっとまじめなストーリーとして完成させることをのぞむ。人物の「色気」などは不要であり、いまたなかがリキをいれているように、工具と労働対象の質感を出すことに全力を注ぐべきだ。これは現時点でも非常によい。
 いい作品なんだから。

 

 

 

 第7巻までのなかで圧巻は、5巻の茶もみ機の話。(ネタバレあり)

 茶揉み機を大手のクムラ製作所と争い、クムラがコンピュータによる全制御型の機械をもってくるのにたいして、ナッちゃんは「人間の気持ちがこもる」ものとして、できるだけ簡単な原理の茶揉み機を作成し、コンペに勝利する。

 「ワシ、機械は使こても…… 機械に使われたぁ おまへんねん」

というセリフは、単純ながら、なんだか、しばらくぶりに聞くなつかしさと正しさがある。

「工場の全運動が労働者からではなく機械から出発する……。……マニュファクチュアと手工業では労働者が道具を自分に奉仕させるが、工場では労働者が機械に奉仕する。……機械は労働者を労働から解放するのではなく、彼の労働を内容から解放する〔内容のないものにする〕」

マルクス資本論』)