杉浦日向子『百物語』

 

百物語 (新潮文庫)

百物語 (新潮文庫)

 

 「すべての年齢、すべての階層に文句なしに面白いと思ってもらえるマンガはなにか」と問われれば、迷うことなくこの1冊をあげる。だから、病院などへお見舞いに行く時には必ずこの本をもっていって贈呈する。

 杉浦日向子はNHKコメディー「お江戸でござる」の解説者として有名なように、江戸文化についての深い教養と知識をそなえた漫画家(現在は漫画は廃業)で、この『百物語』もそれを十全に駆使して、著者独特の世界を創作したもの。
 もちろん似たような話、源流となるようなソースはあるわけだが、見事にそれを料理し、再構築している。往々にしてこうした「奇譚」は収集資料の垂れ流しになってしまうのだが。

 この百の短編(1話5~6ページほど)は、まったく色とりどりなので、ぼくがここで1、2話紹介することはきっとそのイメージを限定してしまうと思うのだが、あえてその暴挙をおこなおうと思う。

 ぼくがいちばん気に入っているのは、「魂呼びの話」。「義姉」の臨終にまつわる不思議。
 義姉は死際になって「アケヤイ(開けてくれ)」と叫び出す。それは魂がその部屋から飛び出そうとする叫び、つまり死のうとする合図であり、臨終の場にたちあっている一同は絶対に開けまいとする。ところが、義姉の子が階段の上から長押障子をあけて部屋をのぞいていたことに、一同が気づく。そのとたん、義姉は「厭々(いやいや)をしながら事切れた」。家族が屋根に登って、魂を呼ぶ儀式をおこなうが、義姉は蘇生しなかった。
 そして棺桶におさめる段になって、遺体の首と脚を挫かねばおさまらないということになり、折ることになった。このときの、婆さまと爺さまの会話が次のようにある。
「首と脚を挫かねば」
「おみつが可哀想だ。あれが何をした」
「ああ。仕方ねえ。収まらにゃあ皆そうする」
「むごいのー」
 杉浦日向子の絵は、いわゆる「うまい絵」ではない。ところが、この爺さまと婆さまの線だけで描いた絵のすごさは、息をのむほどである。爺様の家長としての冷静さ、冷酷さと、個人の情を代表し抗議する婆さまの無力さや切なさが一瞬にして伝わってくる。
 婆さまは切ながって表へゆっくりと出ていく。そのとたん、義姉が蘇生する。
 逆に、婆さまの姿がその日のうちに消える。
 近くの川へはまったらしいのである。
 船頭とおぼしき男の証言が一こま入る。
「まさかに、河太郎かと思った。黍がらみたく、つーと真っ直ぐ流れて行った」。
 「黍がらみたく」――この即物的な表現もものすごい。リアルだ。
 当然、婆さまの魂が義姉の魂を呼び戻したのだと人々は噂し、義姉は四年後に死ぬが、亡くなる頃には「がったり老けて、婆様に瓜二つだった」と終わる。

 ここには、怪奇が江戸の時代の人々にとってどんな姿で存在し、それがどのように言説化されるか、つまり「奇譚」がうまれるその現場、その瞬間、そのプロセスをみることができる。
 ぼくの実家は、田舎の農村だけど、たとえば交通事故で死んだ現場で、また一人死ぬと、うちの母親などは平然と「ありゃあ、呼んだんだよ」とサラッと言う。死者が新たな犠牲者を呼んだというのである。そういうメンタリティーがあの閉ざされた農村の空間に満ち満ちているのである。

 人々がそこではどのように不条理や怪異、不思議とむきあってきたかがわかる。この本には、そういう江戸期の「ふしぎ」と向き合ってきた庶民の精神が、その庶民の精神で見事に描かれている。ぼくらは、この本を読めば、江戸期の一人になれるし、その気分で何度も何度もこの不思議を味わうことができる(事実、ぼくはこの本を何度読んでも面白いし何度も読んでいる)。

 だから、この本を合理的な怪異の解釈として読めなくもない――そう読むことは絶対的に不粋であり野暮であり、この本への冒涜なのだが。
 口から抜け出た魂だと思っていたものはネズミだったとか、妻や子どもや家臣が牛や蛙、芋虫にみえるのはノイローゼではないかとか、書斎にいるもう一人の自分をみたのは離人症統合失調症(いわゆる精神分裂病)ではないかとか、要領を得ない言葉を喋り出す「狸が化けた」僧侶とは実は痴呆老人ではないかとか……むろんそんな小賢しい解釈をまったくよせつけない不思議な奇譚も多く入っている。

 こうした合理的解釈がお嫌いな方は、まったく別な読み方で、ぜひこの独特の世界をあじわってほしい。


新潮文庫

 


採点98点/100
年配者でも楽しめる度★★★★★