双葉社から出ている雑誌「EX大衆」の2018年1月15日号に、桂正和『電影少女』について書きました。
一つはグラフィックの点から。
もともと編集の方からは、少女論としてのご依頼があったんですが、桂の場合はどうしても絵柄から魅力に迫るという点が外せないと思いました。
年末年始に稀見理都『エロマンガ表現史』(太田出版)を読んでいたら、『電影少女』についての言及があって、稀見は「おっぱい表現」の歴史叙述の中でササキバラ・ゴウの『〈美少女〉の現在史』(集英社)を参照する形で次のように書いていました。
「エッチな肉体を持った、内面的キャラクター」において、その顔は美少女の内面を写した象徴としてマンガ的に描かれているのに対し、ボディは写実的で読者の肉体への欲望を象徴しているとし、両者の融合を試みた(稀見p.54)
原稿でも書いたんですが、80年代末はすでに写実的なエロ劇画が衰退しているところに「ロリコン=美少女」ブームの流れでしたから、両者は矛盾する関係として存在していました。「ジャンプ」でいうと『シティーハンター』のような「お色気」と、『きまぐれオレンジロード』のような「美少女」が分裂していたわけです。
その統一を果たそうとして技術開発が行われ、努力の結晶の一つが桂正和の『電影少女』なんですよね。
ササキバラ・ゴウは両者の融合を「キメラ」的、つまりアンバランスなものとして規定していますし、稀見もこれを受け継いで『電影少女』という作画開発を「試行錯誤段階」(p.56)としているんですが、ぼくはそうは思いませんでした。これだ、って思ったわけです(笑)。
平面的だった「ロリコン」*1系美少女が写実的で立体的な、質感のある肉体を持ったんだ、と。
稀見は『エロマンガ表現史』の後半で桂の乳首描写の描き直しへの執念について触れていますが、そこで
桂正和の真骨頂は、単に隠された表現を解禁させるということではなく、美しい表現をより美しく読者に届けたいというクリエイターとしてのこだわりであろう。(稀見p.316)
と述べているように、「美しい表現をより美しく読者に届けたいというクリエイターとしてのこだわり」に桂の「真骨頂」を見ています。
ここはまったく同意。ぼくが『電影少女』を論じようと思ったさいに、まずグラフィックを、と思った点と重なるなと感じて読みました。
稀見の本は脱稿後に読んだので、答え合わせをするみたいな感覚になりましたけど、原稿執筆の段階では、永山薫『エロマンガ・スタディーズ』で作画の潮流の整理などを参考にさせてもらいました。
もう一つの論点は、編集の方からの依頼のあった少女論としてなんですが、夢とか才能の発見・肯定という点の新しさをそこに書きました。
これはのちに、例えば河下水希『いちご100%』につながるような、オタク男子讃歌だと思いました。
稀見は『エロマンガ表現史』でアダルトビデオ(AV)とエロマンガの相互作用についても随所で触れているんですが、稀見の記述のなかに、桂についてはそういう指摘は具体的にはありませんでした。
ぼくは、1980年代後半から90年代前半にかけて隆盛となった宇宙企画=英知出版系の美少女と桂正和の親和性について触れました。宇宙企画=英知出版系の美少女は実体・内実・主体がない、いかにも80年代の空気をまとった形象だと思うんですが、そこに実体を与えたい、というのが桂の欲望だったのではないかと考えました。
実体を与える、つまり魂=愛(あい)を埋め込むということです。
作画として平面から質感を持ったリアルへの移行という意味でも、また物語として美少女に実体を与えるという意味でも、桂はこの作品のテーマにしたわけです。
てなことを、この雑誌のテイストで語っていますので、よろしければお読みください。