読み込み能力欠如もほどほどに


世界に恥を晒した「憲法9条ノーベル平和賞」申請 戦争放棄をうたった憲法は99カ国に存在、知識欠如もほどほどに:JBpress(日本ビジネスプレス) 世界に恥を晒した「憲法9条ノーベル平和賞」申請 戦争放棄をうたった憲法は99カ国に存在、知識欠如もほどほどに:JBpress(日本ビジネスプレス)


 この記事の言いがかりはちょっと度を超えている。
 この記事を書いた織田邦男は、日本国憲法第9条をめぐってノーベル平和賞を申請した文章を引用したすぐ後に、

 そもそも、「戦争放棄」条項は、今や大多数の国の憲法にうたってあり、決して日本固有の規定ではない。

 ある憲法学者の調査によると、日本国憲法のような戦争放棄をうたった平和憲法条項を盛り込んだ憲法は、既に99カ国に存在するという。憲法9条の規定をあたかも世界の中で唯一の規定だと思い込んでいるのは大きな誤解である。〔強調は引用者〕

と書いている。「この申請には著しい誤認識がある」と織田ははっきり書いている。
 しかし、少なくとも引用された申請文のどこにも「日本固有」「世界の中で唯一の規定」という類いの文言はない


 織田の文章の核心はまさにここにある。「戦争放棄」条項を持つ国は世界に山のようにあって、「日本固有」「世界の中で唯一の規定」ではないんだよ、ということを知らしめて「知識欠如もほどほどに」などというタイトルをつけているのである。だから、この核心部分が崩れてしまうと主張として成り立たなくなってしまうのである。

 パリ不戦条約と日本国憲法は瓜二つだと指摘して

戦争放棄」は日本国憲法の専売特許でも何でもない。ましてノーベル賞に申請するような類のものではないのだ。

と述べているように、ノーベル賞申請の理由が「戦争放棄一般条項を日本国憲法が持っているからであるかのように描いている。


 いや、それが申請理由じゃないことは、申請文を読まなくても予想がつくし、申請文を素直に読めばなおさらハッキリするだろ。
 織田が言うように、「戦争放棄」条項を、99カ国もあるかどうかは別としても、世界のいろんな国が持っているのは、よく知られた事実だ。たとえばイタリアの憲法はこう定めている。

第11条 イタリアは他の人民の自由を侵害する手段および国際紛争を解決する方法としての戦争を否認する。

 そして不戦条約にさかのぼらずとも、現在の国連憲章のもとでは武力行使は禁じられているのであるから、そういってよければ、国連加盟の195カ国が「戦争放棄」のルールを持っているといってよい。


 日本国憲法の特異性は、これも織田が指摘するように9条1項ではなく2項を持つことによってである。
 つまり戦争の放棄を徹底するために戦力も放棄しているからだ。
 そして申請はそのことを正確に表現している。

日本国憲法は前文からはじまり 特に第9条により徹底した戦争の放棄を定めた国際平和主義の憲法です〔強調は引用者〕

 「戦力不保持」を「徹底した戦争の放棄」と表現することはごくありふれたものである。

第9条における戦力および交戦権の放棄は、こうした不戦条約の範囲をも超えて、最も徹底した軍備廃止を誓った点で、多くの学者が指摘したとおり、「比類のない画期的」なものであり、「世界史的な意義」をもつ「独自」かつ「卓抜」な規定だといわなければならない。/第9条は、憲法の平和精神の実現のために、一般的な戦争放棄を規定し、さらにより具体的に軍備・戦力を放棄し、交戦権を否認するにおよんだのである。(小林直樹憲法講義』上p.189-190)

2項によって、戦争放棄を現実のものとするための軍備廃止を宣言している点で、これら国際条約や諸国の憲法の範囲を超えた、徹底した平和主義に立っている。この点に、日本国憲法の平和主義の世界史的な意義があるのである。(浦部法穂憲法学教室』全訂第2版p.400)

 なのに、織田は、あかたも“申請者は戦争放棄一般をうたっているから世界的に唯一でスゴいと言っている”かのように描き出そうとしている。読み込む能力が欠如しているのか、改憲主義の首相が授賞式に呼ばれる恥を世界に晒したくないという意図的な気持ちからか、どちらかわからないが、申請の「読み違え」をしているのである。

現実の平和をつくりだす存在としての9条

 巨大な自衛隊ができているので、「戦力の放棄」は、実際には大きく傷つけられている。ゆえに、その特異性をそのまま真っ正直に受け取るわけにはいかないので、これを理由にした受賞は難しいだろう。
 しかし、現実政治の中での9条というのは、単なる条文でもないし、死文ではない。
 生々しく生きて動いて、日本の「平和」をつくりだしている存在である。

 よく9条批判論者が「戦争しないと言っておけば戦争しなくてすむのか」という批判をしているが、現実政治の中で形成された9条の規範はそういうものではない。


 織田が書いているように、9条には不戦条約に見られるような理想主義が流れこんでいる。しかし、それと同時に、戦後、占領者であったアメリカが「日本は牙を抜き、同盟者には中国を選ぶ」という意図も加わり、戦力不保持まで徹底された。戦争でうちのめされた日本国民は、これに反発するどころか、政界ふくめて歓迎してこれを迎えたのである。
 そして、中国革命によって中国がアメリカの同盟者でなくなったために、日本をかわりに同盟国にしようとして、再軍備を要求した。
 しかし、日本国民の改憲反対の世論はもとより、保守政治の中にも「自衛はいいけど同盟国として戦争するのはダメだ」という意識が強かった。だからこそ、9条は「戦力ではない自衛隊というものをもって、専守防衛はするけれど、海外には絶対に出て戦争はしない実力組織をもつことまでは認める規範」になったのである。


 「攻めてきたら自衛隊を使え」「海外に戦争しにいくのはダメ。絶対」というのが現実政治の中で生きて動いている9条なのだ。これこそが長年つちかわれた日本の現実の9条であり、現実の日本の平和主義なのである。

 この合意はじりじりと変質はこうむったものの、基本的にはこの線を維持した。様々な思惑がぶつかりあいながら絶えず選びとられてきた合意であり、まさに生きて動いている平和主義なのである。*1



 9条のもとで集団的自衛権は拒否して、個別自衛権による専守防衛だけを認めた、という戦後の平和主義は、9条のまっすぐな解釈からみれば相当にいびつだが、いびつながらこういう形をとってきたのは、そんなに悪いことじゃない。なにせ、日本にとって一番の戦争の危険、殺し殺される危険というのは、アメリカの同盟国として海外に出かけて戦争してしまうことなのだから(韓国がベトナム戦争で5000人の死者を出したり、NATO諸国がアフガン戦争で1000人をこえる戦死者を出したり)。その手をしばってきたという点において非常によく機能していると思う。


 この点、石原慎太郎大先生のおっしゃるとおりである。

私の祖国日本は、第二次大戦の後自ら招いた戦争への反省のもと、戦争放棄をうたった憲法を採択し、世界の中で唯一、今日までいかなる大きな惨禍にまきこまれることなく過ごしてきました。

http://www.shochi-honbu.metro.tokyo.jp/TOKYO2016_intro_01.pdf

 もし9条をかえてしまい、自衛隊国防軍化してしまえば、集団的自衛権に関する拘束が消えるので、集団的自衛権ラクラク発動できるようになり、アメリカとの戦争に巻き込まれる危険は非常に高まる。集団的自衛権行使を禁じる長年の政府の憲法解釈は、平和運動や保守政治の良識によってつちかわれてきた労作である。


 ノーベル賞に値するかどうか別として、現実の9条にもとづく日本の平和主義は、たしかに日本が戦争に巻き込まれるのを抑止してきたといえる。

*1:現在も実効支配をしている尖閣諸島は別として、竹島や千島の事態が示すものは、個別自衛権を発動できるはずの自衛隊の無能ではなくまさに外交によってしかこれらの問題は解決しないということである。発動しないのは、賢明な政治の判断だ。むしろ日米同盟が軍事的に機能しないことのほうが、その「役立たず」ぶりをさらけだしているといえよう。いや、機能してくれなくていいが。