学校へ行きたくないという娘の理由


 大西巨人神聖喜劇』の小説版につきあっている。
 時間はかかるが、正面からやってみたい。
 現在文庫版の3巻に入った。


 さて、4月に小学校に入学した娘のこと。
 昨日まで、学校での給食の様子や字の書き順の話などを楽しげに報告してきたので昨夜娘が寝静まってから、つれあいと「うちの娘は大過なく学校に順応できて、まずはよかったね」などと話しあっていた。


 ところが今朝になって、お腹が痛いと言い出した。本気で痛がっているふしがない。がんばっていこうよとなだめすかすが、うじうじしている。


 思い切って「なんかヤなことがあったの」と聞くと、「あのね、いじめとかじゃないけどね」などと言い出す。「学校に行きたくないというのはいじめのサイン」みたいな定式が娘の頭にあるのだろうかとびっくりした。「あのね、いじめとかじゃないんだけどね」と言うのでどんな言葉が続くのかと固唾をのんで待っていると「学校の帰りに、前を歩いているコとかがね、楽しく話しているのが…」とかいう。


 「独りぼっちで、さみしいってこと?」と問うと、うなずいた。


 他には何かあるかと聞くと「朝、(クラスで)一人ひとり『元気です』とかいうのがムダ」とか言い出した。朝一人ひとりに点呼をするようである。娘にとって意味のないと思える時間が長く、そのような時間が苦痛だということだろうか。「学校に行きたくない」という。


 今日休むとして、明日も行きたくないのかと聞くと、「明日は遠足だから行く」という。


 夜ふとんで話をしていると「クラスの担任の先生はブスだからいやだ」と言い出した。「●組の先生だったらよかった」「絶対にいわんけどね」。


 うーん……親としてそんな文化や価値観を口にしたことは一度もないと思ったのだが。友だち由来もあるかもしれないけど、一緒に読んでいるマンガとかでそういう価値観って知らずに侵入してくるってことだろうか。たとえば『ドラえもん』ではジャイ子との結婚は「ぼくはもう生きてるのがいやになっちゃった」とのび太が泣き出すほどの不幸だとされ、しずかちゃんとの結婚は希望ある未来として描かれる。


 どうしようかなあ。
 とりあえずは一つひとつのものは重大視しない。その発言が本人の中でどれくらいの比重を占めているかわからないからだ。