娘が絵本を読まなくなってしまった


 5歳の娘は今年、年長である。絵本を読まなくなってしまった。
 どうなっているかというと、マンガばかり読んでいるのである。

児童マンガとしての『よつばと!』 - 紙屋研究所 児童マンガとしての『よつばと!』 - 紙屋研究所

 実験的に与えたのだが、さすがにこれはどうなんだという不安の気持ちで見ている。つれあいが、お前がマンガなど与えるからという目で見ている。
 図書館に行かなくなってしまった。「いかない」と言う。しつこく誘うが行かない。買い物のついでに寄ったりするとそれなりに楽しんで過ごすくせに、「いく」とは言わないのである。


 ちょっと待て。整理しよう。
 ぼくは一体、何を不安に思っているのか。
 そもそもそれは本当に「不安」なのか。

ぼくの不安の中核「このままマンガ漬けになって、字の本を読まなくなったらどうしよう」

 ぼくはいま自分が本好きだから、本好きの子どもに育ってほしいという願いを持っている。そこで出てくる不安は「このままマンガ漬けになって、字の本を読まなくなったらどうしよう」という不安である。


 ぼくは、幼児期にほとんど絵本を読まなかった。そのあとの児童文学と呼ばれるものにもほとんどお世話にならなかった。家にまったくなかったのである。
 小学校の中・高学年になってマンガばかり読んでいた。
 小学校高学年になって、ようやく歴史系の物語、落語の本などを読むようになった。
 活字の本をよく読むようになったのは中学生になってからである。


 つまり、幼年期から小学生時代の大半がマンガで占められていたわけで、絵本からスムーズな文字の物語への移行をまったく体験していないのである。だから、自分の中で心躍ったという絵本も、児童文学も、ないのである。
 だから、自分の体験に引き寄せた移行を導けない。

絵本から活字本への移行はどうやって果たされているのか?

 娘はいろんな点が、(つれあいではなく)ぼくによく似ているような気がする。
 だから、このままいけば、小学校期はマンガで占められて、活字の本に出会うのは中学以降、早くても小学校高学年以降となるのではないか。
 それは遺伝的・運命論的にそう言ってるわけではない。
 マンガの面白さを超えるような面白さを、活字に見出しにくい、とぼくは思うのである。それは主に活字本の側の責任ではなく、児童側の条件の問題として。


 絵から受ける刺激というのは強い。この直接的な刺激とは別に、活字を読んで独自の想像世界を働かせる楽しみが生まれるのは、もっと後になってからだ。ぼくでいえば、小学校高学年くらいになってから
 活字を主体的に読みおこして、そこからわりと自在にイメージを起動させることは、かなりの労力と能力を要する。まず、エネルギーがいる。オトナだって、ヘトヘトに疲れて帰ってきて、活字の本を開きたくない、という気持ちになることがあるだろ? プチッとテレビのスイッチ、とかいうアレ。そして、言葉という概念から、いちいちイメージを召喚させる作業は、学校や生活での経験が積み重ならないと難しいだろう。能力が必要なのだ。


 たとえば、いぬいとみこ『ながいながいペンギンの話』という児童文学は、書いてある言葉はかなり平易かつ具体的で、保育園児が接してもイメージしやすい言葉ばかりである。

ルルは、とくいのこおりすべりで、いちもくさんに、にげました。でも、おそろしい鳥のはばたきは、もうすぐうしろにせまってきました。ルルのあたまの毛はさかだちました。みわたすかぎりまっしろいゆきと、小石だらけのはらっぱには、かくれるところがありません。(理論社p.24)

 これほど平易な言葉の集合においても、「ルルのあたまの毛はさかだちました。」の一文は5歳児にとって、何を意味しているのかわからない可能性がある。


 だから、マンガと活字本をそれぞれ読みふけるような条件が今はない、とぼくは思っている。早い話が、幼稚園児・保育園児が、活字本を読みふけっている……というのは、ちょっと想像しにくい。そういうことなのだ。*1
 だから、「このままマンガ漬けになって、字の本を読まなくなったらどうしよう」というぼくの心配は、いまの時点で杞憂である。杞憂ですね。杞憂です。だから杞憂だって言ってるだろ!?

小学校低・中学年にぴったりの活字本は無いというのか?

 つれあいは、この点について、自分がマンガを読むことを一定制限された中で、小学校の早い段階から活字本をよく読んだことから、「高学年以降」説をきっぱり否定する。
 そもそもぼくの説からいえば、小学校4年生くらいまで活字本に夢中になる人間はこの世にいないことになり、いくらなんでもそれはないだろう、ということである。
 うむ。そういわれてみるとそうであるな。


子どもに本を買ってあげる前に読む本―現代子どもの本事情 児童文学評論家である赤木かん子は、小学校低学年・中学年むけの児童書の現状について次のような一文を書いている。

 そしてその下の[小学校――引用者注]中学年、低学年はともに本が極端に少ない状態です。なぜかっていうと、まだ新しい書き手、新しいスタイル、新しいシリーズが確定していないので。今このジャンルを書いているのは八〇年代九〇年代を生き抜いてきた書き手たちで、この大波を乗り越えてやってきたのは、“かいけつゾロリ”シリーズの原ゆたか、“きつねのかぎや”シリーズの三田村信行、“おはなしめいろ”シリーズを書いている杉山亮、“ドルフィン・エクスプレス”シリーズの竹下文子、『竜退治の騎士になる方法』の岡田淳、そうしていまだに第一作の『ルドルフとイッパイアッテナ』が健在の斎藤洋、あたりがある程度かたまりで「これ面白いよ」という棚を作ることができる書き手で、ですから冊数的にはないことはないのですが、文学ジャンルの棚を頭の中で作ってみると、それぞえミステリー、ホラー、ファンタジーなどに吸収されて、あとにはほとんどゾロリしか残っていないのです。(赤木『子どもに本を買ってあげる前に読む本』ポプラ社、2008年、p.70)

 書影として、那須正幹『それいけズッコケ三人組』、佐藤さとるだれも知らない小さな国』がそえてある。そして、小学校の低・中学年の本の現状を次のように総括している。


 つまり、高学年は完全に世代交代が完了した……。だから新しい書き手が現代文学を書き、今までのものは現代古典になった……。
 低学年、中学年は新しい書き手はまだいず、荒波を乗り越えてきた作家たちが数は少ないが、頑張っている……。でもあまり読まれなくなった……ということになります。
 「え〜〜っ?」といわれても、ないものはないのです。子どもたちだってないものを読め、といわれても困るのです。(赤木同前p.71)


 5歳で活字本を読みふける、という姿を想像するのは、親のエゴだということにしよう。では6歳では? 小学校1年では? 2年では? それはわからない。子どもの1年、2年の飛躍というのは目を見張るものになるだろうし、ぼくは親としては未体験のゾーンだから。
 ただ、上記のような赤木の話をきくと、やっぱり低学年で夢中になれる本は少ないのかなあと思ってしまう。

小学校2年生男子が夢中になれる本を探しています。 : 趣味・教育・教養 : 発言小町 : 大手小町 : YOMIURI ONLINE(読売新聞) 小学校2年生男子が夢中になれる本を探しています。 : 趣味・教育・教養 : 発言小町 : 大手小町 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)

 こういうところで回答として出てくる本は、実際に現代の子育ての中で試された回答と、自分が小さい時に出会った昔の経験とが混同されている。ただ、この中でも「ゾロリ」シリーズはけっこう回答に顔を出している。


では「絵本を読まなくなった」ことはいいのか?

 活字本は無理だとしても、絵本を読まなくなっている現状をどう考えたらいいだろうか。
 マンガを保育園時代から読ませることについて、園の先生に聞いたとき「刺激的すぎる」と言ったことが、今ではよくわかる。本当に刺激的すぎるのだ。絵本を読まなくなったというだけでなく、他の遊びの時間が消えてしまうほどである。


 おそらく、園側の危惧は、絵本そのものとマンガそのものの比較、という狭い話ではないのだろう。だから、マンガの世俗性と対比させて、絵本の情緒うんぬんを議論することは、あまり意味がない。
 園としては、幼児期、とりわけ5歳児期に遊びの中で得てほしいものがたくさんある。縄をなって手先を器用にすることだったり、ルールや目標ある遊びをきちんと楽しむことで友だちとの共同や民主的合意形成だったり。
 他の遊びを削るほどの集中を得ることで、そういう遊びの中で得るものを奪ってしまうのではないか、ということである。マンガを読むことで得られる集中や獲得物が、保育園の課題設定とあまり合っていない、ということなのだろう。
 それゆえに「俗悪」などの言葉ではなく、「刺激的すぎる」という評価となって表れたのではないか。


 「マンガは絵本のような親子コミュニケーションがないのではないか」という批判もあろうが、ザンネンでしたー。ヴァーカヴァーカ。この批判だけは根本から外れている。親子コミュニケーションありまくりだよ。娘から1日に何度も読み聞かせしてほしいってもってこられるのはマンガばっかりだよ。その場でもメシのときでも保育園の帰り道でも風呂場でも寝る前でもオタトーク炸裂だよ。『けいおん!』の下級生たち(梓以下の学年)のことがぼくの方がよくわからなくて、押されっぱなしだよ。


 結論。絵本を読まなくてマンガになったとしても、それ自体は悪いことではない。
 あと、こういう本が5歳児、6歳児、7歳児には面白いよってあったら教えて。


 それにしても、『苺ましまろ』で「淫乱ってなに?」とか「ボン・キュッ・ボンってなに?」「どうして笹塚は立たされてるの?」とかいう質問から考えると、やっぱりどうもあのマンガは5歳児にはよくない。与えるマンガは考えた方がいい。家庭内青少年健全育成条例

*1:「いーえ、うちの子は3歳ですけど、活字本を熱心に読んでおりますことよ」というケースがあることを否定はせんけど。