山崎童々『BET.』


※以下、一部ネタバレがあるわけですが。


 週刊アスキー2013年3月12日号に「私のハマった3冊」を書いた。
【私のハマった3冊】ハンパな自分を殴りつける 仕事の厳しさがわかるマンガ 【私のハマった3冊】ハンパな自分を殴りつける 仕事の厳しさがわかるマンガ


 3冊のうち2冊までが山崎童々。どんだけ好きなんだってことですが、あー、今けっこう好きかも。つれあいは「ヤマシタトモコの亜流みたいじゃん」「人物の描き分けできてないだろ」などと言いたい放題だし、アマゾンのカスタマーズレビューなんかでもヤマシタトモコが〜とか書いている人いて、まあ一度くらいはヤマシタトモコのことが頭をかすめたことはあるけど、いやそんな……そこまで言うほどか? っていうのが正直なところだ。


BET. 1 (Feelコミックス) 「アスキー」にも書いたんだけどね。
 この人の『恋するサバンナ』と『BET.』はどっちも、ヌルい仕事をするやつが制裁を受けるっていうのがテーマになっているわけですよ。制裁っていうか天罰っぽいやつ。
 

 『BET.』の方は続きものだけあって、そのテーマがより際だってるよね。
 連載が勝ち取れない、鳴かず飛ばずの漫画家・武松スナオが主人公。そこに、超売れっ子(「蜜蜂はなを」名義)だったのに失踪しまたマンガを描き始めるという梨田かのが現れ、その実力差や覚悟や貪欲さの違いを否が応でも比較され続けるという苛酷な設定


 人気少年マンガ誌「ジャガー」で連載がなかなかとれないスナオは、飼い殺しみたいになっている。それで編集部も白黒はっきりつけさせようと、ベテランの病気で穴があいたところをうめるべく、スナオに連載の話をもちかけるのだ。
 もちろん、連載するかどうかはスナオの作品の出来次第。
 しかし描き上げた作品は、今までよりはいいけども、なんかこうちょっと…というところが残る水準。そこへスゴい原稿をもって梨田があらわれ、スナオの連載は一体どうなってしまうんだという騒然とした雰囲気で散会。

「タチ悪いよな
 何だよ 売れっ子の道楽?
 そりゃ面白いだろうな
 売れてない奴が四苦八苦しているのを上から見るのは」

と梨田にグチるスナオ。しかし、梨田に反撃される。

「…もしアタシがいなくなって
 それでスナオのマンガが明日から急に面白くなるなら
 消えてあげよっか?
 でもそんな話じゃないよね
 言ったじゃんアタシ
 “マンガ家同士の殺し合い”
 タチが悪いだなんてそっちこそ
 今更何言ってんの?」

 スナオが繰り出す再反撃の一言はこれだ。

「…皆
 お前みたいに何か持ってる奴ばっかじゃねーだろ
 俺はただ真面目にやってんだよ……!」

 どうですか。
 才能勝負のこの世界で、梨田のまぶしいほどのこの正論。それに抗うスナオの「真面目に努力しております」というだけの情けない反論


 貧困をめぐる「自己責任」論議論のなかで、努力している・していない、とか、「額に汗してまじめに働いたことが報われる社会」とかいう議論が出てきた。そういう議論に浸かってきた身としては、梨田のような競争原理むき出しの言説っていうのは、何となく不安を覚えるわけだけど、明らかにこれは別の話だよね。


 貧困に陥らずに生きていくために何が必要か、誰の責任かっていう話じゃなくて、どういう生い立ちであろうがハンディがあろうが、出てきた作品の出来が全てであってそこで残酷な競争がなされるっていう、それだけの話。


 そういう世界で

「…皆
 お前みたいに何か持ってる奴ばっかじゃねーだろ
 俺はただ真面目にやってんだよ……!」

ってどんだけみすぼらしい反撃なの。だけど、この「まじめに努力しています」っていう言い訳をそれなりに見栄えよく(「まあちょっとはスナオの言うことも理解できますよ」的な)示したうえで、その中途半端なカクゴの瀬戸際をこれでもかと見せられるっていうのは、アレだね、中途半端にしか生きていないやつが大半のこの社会のなかでは、もうホント、毒っていうか、なんでこんな読者自身にハネかえってくるようなものを好きこのんで読んでいるのかっていうことなんだよ。ぼくも含めて。


 「アスキー」ではさ、なんでそんなものを読んでいるのかっていうことについて、

誰でも、いつも納得できるまで仕事を徹底できるわけじゃない。どこかにハンパさは残している。だからリアルでこんな打撃を受けると、たぶんものすごくツラい。でも虚構だから何とか読める。その危うい、ギリギリな感じを楽しんでほしい。

http://weekly.ascii.jp/elem/000/000/129/129974/


って書いたんだけど、そもそも自分がハンパだっていう自覚なんかカケラもないって人も多いだろう。そういう人にとっては、こういう設定の作品自体が面白くないのかもしれないね。
 ぼくなんか、モノを書くってことをやっているので、一度くらいは必ずそういう自分のハンパさについて考えたり思い当たったりするフシがある。だから、ちょっと間違うと自分自身のことを鋭くつきつけられてしまうようなラインに行っちゃったりするわけだけど、そのへんのギリギリさをスリリングに楽しんでいるんだよね。「あ、俺のことだ…」ってときどきポワンと頭に思い浮かべながら。

中途半端さから抜けだそうともがくのは、実に「みっともない」

 んでこの「アスキー」の書評を書いた直後に『BET.』の2巻が出て、それを読んで思ったのは、山崎童々っていうのは、そういうハンパさから脱出しようとあがく描写がまたいいなと思ったりする。
 ひとことでいうと、みっともない。
 みっともないことにまみれないと、とても抜けだせないだろうという主張がそこにはある。


恋するサバンナ (Feelコミックス) たとえば『恋するサバンナ』では、いつも機嫌を損ねた作家に謝罪するために、むっちゃむちゃな好条件を提示してホントに機嫌を直してもらったりするのだが、当然会社は大混乱。いわばヒドい出来の収拾策を打ったわけだけど、ある意味でそれは「中途半端」ではなかった。自分が非難され陰口を叩かれるという責任を引き受けたのであり、突き抜けていく暴走だった。おそらく主人公はそんな不格好な格闘をはじめてしたのだろう。


BET. 2 (Feelコミックス) 今回『BET.』2巻では、スナオは他誌の「原作つき連載」を引き受ける。
 しかし、有名誌「ジャガー」で連載をとるのとはわけが違って、シロート同然の意味不明の小説のコミカライズを、経験ゼロっぽい編集者に頼まれるという展開。「ジャガー」からは体よくフェードアウトされかけるし、作画のうちあわせも「吸血鬼を登場させろ」と突如言いだしたり、自分のテイストとまるでちがったりと、混乱をきわめる。
 「大丈夫かよこれ…」という不安がよぎる感じがよく出てる。スナオならずとも、顔に手をあててバタバタと転げ回りたくなるのがわかる。
 みっともないのである。


 こんなふうに、みっともない形でしか脱出できないのだという山崎の主張は、うん……説得力がある。いやだけど。見たくないけど。でも見ちゃうっていう。

これって山崎童々自身の話じゃねーの

 ところで、「全然テイストの違う」マンガを描いたり、原作つきを描いたりって、そのまま山崎童々自身の話じゃねーの。
木暮荘物語 (FEELコミックス) 三浦しをん原作の『木暮荘物語』も読んだけど、最近出たヤングガンガンの「制服DUTY」も読んだよ。日常の学園生活を送っているやつらが急にとんでもない兵器でバトルするってやつ。「オタク女」と「イケてる少女」っていうスクールカーストの序列が、バトルでは逆転するという爽快感がある。
 けっこうよくできてると思ったけど、うーん、あと一歩なんだな。
 バトルはよく描けてるよ。真面目に努力した感じ。
 遮断機や自動販売機なんかが兵器になるのは面白かったよ。
 やっぱりバトルそのものよりも、バトルに至るまでの二人の関係性をもう少し描いてほしかったよね。それがあると爽快感がハンパないと思う。
 なーんて、編集者っぽいこと言ってますけど。編集者っぽいけど、本当の編集者はそんなこと言わないと思いますけど。そしてそんなことを偉そうにご教示しているぼくは一体何様なんだって話なんですけど。