左派は成長が嫌いか?

何で日本の左派なひとは「成長」が嫌いか: hamachanブログ(EU労働法政策雑記帳) 何で日本の左派なひとは「成長」が嫌いか: hamachanブログ(EU労働法政策雑記帳)


 (日本の)左派って成長が嫌いなの?
 まず日本の代表格的左派の一つである共産党はどうか。
 
大企業応援から くらし応援へ 日本共産党の「成長戦略」
http://www.jcp.or.jp/tokusyu-10/10-syouhizei/02.html

日本共産党版「成長戦略」
http://www.jcp.or.jp/tokusyu-10/05-jcp-qa/a010.html

志位さん「日本共産党版“成長戦略” 」語る
http://www.jcp-osaka.jp/2010/04/post_612.html

 はいー、ストップストップ。もういいです。もうお腹いっぱいです。
 つい先日の共産党の中央委員会総会でも、日本の現状を「成長が止まった例外国家」という規定をしているくらいだし、彼らの「消費税増税をしなくてすむ」という試算の前提は、富裕層課税とともに内需主導による平均2.4%の名目成長(垣内亮『消費税が日本をダメにする』)だから、成長大好きっ子だよね。

http://www.jcp.or.jp/web_policy/2012/02/post-141.html


 同じく日本の社会民主主義の中心勢力、社民党はどうなのか。
 今回の衆院選挙政策をみてみよう。

経済成長による税収増をめざします

http://www5.sdp.or.jp/policy/policy/election/2012/manifesto2012_03.htm

ってはっきり書いている。2010年の参院選挙政策だって、

新成長戦略の推進による新たな雇用創出と安定的な名目成長の実現

http://www5.sdp.or.jp/policy/policy/other/100622.htm

ってまず政策のトップに記すくらいだから、どんだけ成長を重視してんだよ、ってことになる。


 だから、濱口桂一郎が「何で日本の左派なひとは『成長』が嫌いか」って書くのは、言いすぎ。最近のよくある新書のタイトルみたい(例「近しい相手ほど許せないのはなぜか」「日本人はなぜ英語ができないか」「日本ではなぜバカだけが出世するのか」)で、そう決めつけることでもう既定事実みたいな扱いをする戦略なのかな。


 でもたしかに、そういう人たち、そういう左派はいる。10年くらい前に環境派の人たちとゼミをしていたとき、成長批判というものに初めて出会った。そういう洗礼をくぐってきた人たちは、左派でも成長批判をするよね。
 それから、成長を追い求めることは資本主義的利潤追求である、という論点から、成長批判をするタイプの左派。
 さっき、社民党は成長追求左翼だと言ったけど、雑多な潮流の混成部隊だから、それ一色ではない。その証拠に、社民党の公式ウェブにはこういう政策文書も入っている。

内需主導に転換すると、大企業の利益縮小などで資本主義の尺度で計る経済成長は鈍り、後退さえするかもしれない。しかし社会の必要性を満たす足るを知る経済のもとで、安心して働くことのできる職場と、暮らせる賃金・年金制度があり、誰にも開かれた教育の場があり、いざという場合に、すぐ頼ることのできる社会的セーフティーネットがあれば、それで充分とはいえないだろうか。利潤・利益のあくなき拡大追求や経済成長至上主義と縁を切る内需主導経済は、それ自体、おのずと「地球に優しい」エコ経済となろう。

http://www5.sdp.or.jp/policy/policy/economy/finance081015_6.htm

 この、常体で書かれた個人論文チックな文章は一体なんであるかはだが、まあそういうことである。*1そして、この文章自体は成長しないケースがありうるとは言っているが、成長そのものを否定してはいない。

 左派の一部にある成長批判のムードは、一つには濱口の言うように成長が資本主義的利潤追求と同義とみなされることに由来するものと、もう一つは環境負荷を批判する立場のものからとあるように思う。
 西欧左翼が成長をどう扱っているかはおいとくとして、この2つの問題はきちんと理論的に整理が必要なことは確かだ。
 

 第一の問題については、理論的には、富の一方の階級への独占や偏在が他方の階級の搾取によって成り立っているという問題と、富そのもの、パイ全体を増大させることはまったく別の問題だということだ。公正な社会制度が実現されたら、富はどんなことがあっても増大しないわけではなかろう。
 まあ、両者が二律背反だとまで極論する人は少数だろう。
 経済成長を前提にしなくてもシェアや古いストックの活用で社会問題の解決は図れる、という立場をどうみるかということだが、その場合は解決のレベルというのはかなりの制約をうけるんじゃないか。
 たとえばいまの富の総量を前提にして、それを組み替えるだけで社会保障の水準をどこまで引き上げられるか。
 GDPにしめる社会保障の割合をみると、
http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/2798.html
日本が低いことがわかる。日本が18%なのに、フランスは28%である。これが意味するのは、もし富の使い方をフランス並みにすれば日本のGDP500兆円のうち、あと10%は社会保障に使えるということだから、50兆円は増やせるということである。
 だけどさあ、ある程度まではできると思うけど、50兆まるまるってわけにはいかないよね。どうやったらその組み替えができるかという社会図全体を示さないと、「成長しなくても社会保障はよくできる」とは言えないと思うね。
 ええっと、くり返しになるけど、組み替えで社会保障は一定改善できるというのは、ある程度までは同意できるけど、経済成長をしなくてもよいとまではいえない。


 第二の問題については、理論的にはエネルギー量と経済的価値量を混同、エネルギーのコストと経済のコストを混同している、ということだと思う。
http://www1.odn.ne.jp/kamiya-ta/kankyou-uso.html

 別の言い方をすれば、経済成長しても、環境負荷がより低い経済というのはありうる、ということ。
 ま、でもそれは単純じゃないけどね。
 エコ家電にしました。だから環境負荷は低いはずです。みたいな話じゃないだろ。
 だから、環境負荷から経済成長に慎重になる意見については、一概に切って捨てられないものがある。


 つまり何が言いたいか。
 ぼく自身は、成長は必要だしそのための政策をすべきだという左翼である。しかし、成長を批判する左翼の意見にはどれも耳を傾けるべきものがある、ということだ。

*1:「政策審議会コラム」、つまり政策部門のコラムってことだけど、それって一体なんだ? 政策スタッフのエッセイってこと?