2冊目くらいに読む本
ロシアとの領土問題交渉にあたってきた外務官僚・東郷和彦が日本がかかえる3つの領土問題を解説した本だといってよいが、ノンフィクション作家である保阪正康がそれに少々のツッコミをいれる対談を入れて共著の形をとっている。
いちおう3つの領土問題を簡単に解説していることになってはいるが、領土問題にはじめてとりくもうとしているシロウトからすると、いかにもテクニカルタームが多くて、読みづらい。前に紹介した松竹伸幸の『これならわかる日本の領土紛争』(大月書店)のような本を1〜2冊読んだ後であれば、当事者の書いたものとして興奮を味わいながら読めるだろう。
不破の本と対比させながら読むと味わい倍増
そういう前提でこの本を読んだとき、やはり白眉は「北方領土」問題のところだといえる。
ぼくはこの本を不破哲三の『千島問題と平和条約』(新日本出版社、1998年)と対比させながら読んだ(および、2001年の同党政策委員会の見解・提案)。この読み方をすると、外交当事者の官僚の気分と、サヨクの「正論」がどこで交差し、どこで対決するかが躍動的にわかる。とくに、90年代以降の日ロ・日ソ交渉の評価。それは本記事の後半から書いてある。前半がまどろっこしい人はそっから読んで。
外務省は結局公正さの拠り所が不明
まず、「北方領土」問題における主張の正当性である。
東郷は、
大西洋憲章とカイロ宣言に従えば、一八七五年の千島樺太交換条約によって日本領であることが確定した千島列島全島ですら放棄する必要はない。ましてや四島を放棄する理由など何処にも見出せない。(東郷p.34、強調は引用者、以下同じ)
とのべている。
前半部分、「大西洋憲章とカイロ宣言に従えば、一八七五年の千島樺太交換条約によって日本領であることが確定した千島列島全島ですら放棄する必要はない」という東郷の主張をみると、ソ連もふくめた連合国がさだめた戦後処理ルールの大原則が「領土不拡大」原則であったという点に、日本が攻めていくべきポイントをおいていることがわかる。
じっさい、東郷はこのポイントを繰り返す。
戦後の連合国側の「領土不拡大原則」に当時のソ連の態度は明らかに反しています。(東郷p.176)
東郷がソ連課長としてくわわった、ゴルバチョフ来日にさいして7回おこわなれたという日ソの平和条約作業グループの討論では、
として、重要な論点としてあげられている。
しかし、東郷の主張の奇妙さは「千島列島全島ですら放棄する必要はない」ということが最大の公正であることを示しながら、「ましてや四島を放棄する理由など何処にも見出せない」としていることで、結局日本の領土の公正な範囲というのは本当のところ「千島列島全島」なのか「四島(国後・択捉・色丹・歯舞)」なのかがまったく不明瞭だということだ。
さらにいえば、サンフランシスコ会議で日本側が南樺太を侵略によって奪った土地ではないと主張し、日ソ交渉の最初の場では南樺太までを要求していたことを東郷ははっきりと評価していない。
千島列島及び南樺太の地域は日本が侵略によって奪取したものだとのソ連全権の主張は、承服しかねます。日本開国の当時、千島南部の二島、択捉、国後両島が日本領であることについては帝政ロシアもなんら異議を挿まなかったのであります
という発言をひいて、
敗戦国の代表として、ロシアが択捉・国後をもっていくことはけしからないという趣旨はギリギリまで伝えているという議論は正しいと思う。(東郷p.37〜38)
としているのは、南樺太の取得をそれほど問題視していないということであろう。*1
南樺太は、日本が日露戦争によって帝国ロシアから奪った領土である。日本が従うべきことになったポツダム宣言、そのポツダム宣言の中に履行がうたわれているカイロ宣言では「日本国ハ又暴力及貪欲ニ依リ日本国ガ略取シタル他ノ一切ノ地域ヨリ駆逐セラルベシ」とあり、南樺太はこれにあたる。東郷にも日本外交にも南樺太をどう位置づけるかがまったくはっきりしていない。そして、本書を読んでも、ロジックのうえでは、千島全島が本来の返還の筋なのか、四島のみにとどめるべきなのかも結局よくわからないままである。
ここには、戦後の日本外交というものが、自国の主張の正しさについてそれほど頓着していない様子がうかがえる。
特に、「日本の侵略戦争」ということについての認識が非常に弱いということだ。
「いや、日露戦争は侵略戦争じゃないよ」っていう人もいるわけだけど、近代に入って戦争や暴力で割譲させた土地は結局国際的にはこういう扱いを受けている。
尖閣諸島についてもそうなんだけど、日清戦争で割譲させた土地と、そうでない土地という区別が弱いものだから、日清戦争で中国が奪いとられたところの「台湾と附属島嶼」という扱いを尖閣諸島について中国がしていることについて立ち入った反論はできていない。この間、新聞でくり返し尖閣諸島問題の解説が出るが、これを論じた説明をほとんど見ないのである。
千島問題に戻ると、日本はサンフランシスコ講和条約で、南樺太と千島の放棄を宣言している。この宣言のうち、南樺太は日本が暴力で奪った土地であるから、ロシアに返すのが筋であり、ロシアは「本来返ってくるべき領土」であるから「領土不拡大」にはあたらない。
しかし、千島はそうではない。千島列島全体が千島樺太交換条約で日本が平和的に取得した土地だから、そもそもサ条約で放棄すること自体が戦後処理原則に反する。ゆえに、東郷がチラリと述べているとおり、千島全体が日本の領土といえるものになる。そして、「領土不拡大」をうたった連合国の一員(の後継国家)として、ロシアは千島を領有する正当性を持たない。
このようにすればロジックの上ではこの上なく明瞭である。実はこのロジックは日本共産党の全千島返還論とほぼ同じものである。東郷にも日本外交にもこの明快さがない。
公正さの拠り所をもたない外交の無戦略ぶり
ロジック上の明瞭さをもつ日本共産党の目からみた、ソ連との国交回復・領土問題交渉にのぞんだ日本外交の原則のなさは、不破哲三の本書『千島問題と平和条約』に活写されている。
ソ連との国交回復・領土問題に全権としてたずさわった外務官僚・松本俊一の回顧録『モスクワにかける虹』(ゆまに書房)には領土交渉にのぞむ日本外交の「弾力性」、といえば聞こえはいいが、実際は単なる無原則っぷりが交渉にあたる方針として次のように書かれている。
歯舞諸島、色丹島、千島列島及び南樺太が、歴史的にみて日本の領土であることを主張しつつ、しかしながら交渉の終局においてこれを全面的に返還させるという考えではなく、弾力性をもって交渉にあたる(松本p.31)
これについて不破は次のような痛烈な言葉をあびせる。
いずれにしても、日本政府が、最初から今日のような択捉、国後論を用意して、日ソ交渉にのぞんだわけでないことは、明白です。もし初めから日本側が、千島と択捉、国後は別だと考えていたとしてら、会談の最初にソ連側にしめした覚書では、領土問題は「歯舞諸島、色丹島、千島列島及び南樺太」となっているのですから、択捉、国後はその帰属を問題にしなかったという、奇妙な結果となります。実際、交渉の過程での日本側の発言をみても、千島列島を南と北とわけて議論したという記述はまったくありません。(不破p.76)
重大な国交回復交渉を日ソ間でやろうというのに、全権が交渉にのぞむ出発点ではなんの相談も議論もなかった話が、交渉のいわば最終段階――当の全権自身が「終結も間近い」と判断するようになった段階で、いきなり政府の訓令として飛びだしてくるというのは、たいへん驚くべきことですが、こういう唐突なやり方で、一九五五年に千島放棄条項の解釈変更がおこなわれたということは、記録に値するでしょう。(同p.77)
はじめに無理筋の高めの要求をしておいて、適当な譲歩を重ねて取れる線でおさめる……って、あまり能力の高くない労働組合の交渉じゃないんだから。
もちろん、領土交渉においても、妥結点をさぐることは十分ありうる話だ。しかし、労使交渉とちがう決定的な点は、公正さが基準として命であること。不破のこの記述は日本外交がそこを欠いていることを浮き彫りにしている。
近代国家としての交渉が基準
この公正の基準を浮かび上がらせようとする不破の提唱も面白い。
不破は近代以前に千島列島が「ロシアの領土」であるという実態を、ロシア側の言い分に照らして全然持っていないことを先に明らかにしつつ、
第三の問題は、領土問題解決の内容の基準についてです。これにも、いろいろな議論があり、ソ連なども、最初に千島列島、とくに択捉、国後に上陸したのはだれかとかの議論をよくやりますが(この歴史も、別にソ連にとって有利な結論になるわけではありません)、いま領土交渉をやるときは、双方が近代国家として接触しあったときに、その平和的交渉でどういう国境線に到達したかということ、これを基準とすべきであって、これも国際的な原理に属することです。
択捉にだれがいちばん最初に上陸したかということになると、江戸時代のはじめにオランダ人が先だという話もありますから、オランダに権利があるなどという議論も出てきます。ですから、近代国家として平和的な交渉で国境の画定をした到達点を、領土問題解決の基準とするのでは、当然のことです。(前p.117)
とのべる。
もちろん、平和的取得の最終地点を問題にするのであるから、仮に千島を近代以前に取得したのがロシアであったとしても、何にも問題がないのであるが。
サンフランシスコ条約の破棄の仕方まで考える
不破は、日本側の最大の弱点であるサンフランシスコ条約(2条c項)をどうするかという問題について、立ち入って議論をしている。
不破は、1981年の段階では、「条約法にかんするウィーン条約」で、不公正な条項を破棄する手続きについて言及し、同時に、サ条約で沖縄の施政権を米国に入れることしか書いてないサ条約を事実上変えさせた歴史的経験(不破によれば「立ち枯れ方式」ともいうべきもの)を紹介している。
本書の後半で共産党が開いたシンポジウムでウィーン条約にそった破棄はなかなか難しいですよという国際法の専門家(松井芳郎)からの提起をうけ、共産党はあまりウィーン条約はほとんど言わなくなり、「サ条約を不動の前提としない」という言い方に変わっていく。
また、千島引き渡しを決めたヤルタ協定についても、そもそも日本は当事者ではないから拘束される必要はないんだけども、不破はわざわざヤルタ協定の中で中国条項にふみこんで、中国での戦後のソ連の権益を定めた条項を中ソ合意で破棄しているんだから、ヤルタ協定自体も不動のものではないではないか、と念の入った反論の用意をしている。
これくらいガチガチに「公正」というものを固めて領土交渉にのぞむ必要がある、ということを、不破の著作を読んで教えられる。
90年代以降の日ロ交渉の評価は左翼と外務官僚でこれだけ違う
この外務官僚の視点と日本共産党的な「公正」の視点が対比されるともっと鮮やかに食い違ってくるのは、ソ連崩壊前後から今日にいたるまでの交渉の評価であろう。
東郷はゴルバチョフ訪日からソ連崩壊のころの日本側の戦略を次の3点にまとめている。
- 国後・択捉については、文書で交渉の対象であることを認めさせる。
- 歯舞・択捉については、六〇年声明を撤回させ、五六年日ソ共同宣言どおりに引き渡しを実施させることを確認させる。
- この二つが、実現されれば、いよいよ、国後・択捉についてこれをどうするかという実質論に入る。
ちょっと説明がいるだろう。
1.は、そもそもソ連・ロシア側は歯舞・色丹だけは交渉にのせていたが、国後・択捉については交渉対象にさえしていなかったのである。2.は日ソ共同宣言では歯舞・色丹を平和条約締結後に返すとうたったが、その後の六〇年声明では「日本からの全外国軍(米軍)の撤退」をしてからでないと返さん、という条件を付け加えたのである。
東郷はこれを練りに練った三段階作戦として描き、91年の海部・ゴルバチョフ声明では1.が実り、93年の東京宣言(細川・エリツィン)では2.も少し動き、2001年のイルクーツク声明(森・プーチン)では2.が実り、3.が開始された、と評価するのである。
つまり、着実に日本の外交はロシア側を動かしてきたものだということになる。まあ、それが結局小泉政権下の田中眞紀子・鈴木宗男をめぐる騒動でむっちゃくちゃにされてしまう……というふうにとらえるわけだが。
他方、同じこの自体を日本共産党の側からみるとどうなっているのか。
これはすでに不破の著作ではなく、共産党の政策委員会の見解・政策になるのだが「日ロ領土問題と平和条約交渉について」という文書では、イルクーツク声明を厳しく批判している。
http://www.jcp.or.jp/web_policy/2001/04/post-296.html
まず、「はじめから北千島は放棄かよ」という批判。まあ、これは共産党の原則から主張される批判である。
次に、「歯舞、色丹の早期返還の道を閉ざす」という批判。日本共産党の主張は「もともと歯舞・色丹なんていうのは、サ条約で放棄した千島ですらなくて、北海道の一部なんだから、即時返還して当たり前だ」ということになっている。日本共産党は政府の「四島一括返還」は性格の違う二つの問題(南千島である国後・択捉と、北海道の一部である歯舞・色丹)を一緒くたにしていると非難し、歯舞・色丹はすぐ返させろ、必要なら中間条約を結べ、と言ってきた。
ところがイルクーツク声明では「平和条約締結後」つまり、国境線が確定してから返ってくるということになってしまう。
日本側にとっては、平和条約以前に歯舞、色丹の返還問題を解決する道を閉ざすという意味をもつものです。それはまた、ロシア側には、歯舞、色丹の返還を領土交渉の終着駅にしようとする思惑に有力な根拠を与えることになります。
http://www.jcp.or.jp/web_policy/2001/04/post-296.html
東郷からすれば、「いやいや、それは領土交渉上のきわどい譲歩であって、六〇年声明を撤回させた、むしろ画期的なものなんですよ」「実際、国後・択捉は交渉の対象にするっていう相手側の譲歩を勝ち取ったわけで、終着駅でも何でもないですよ」ということになる。
そして、この点、すなわち国後・択捉の交渉での譲歩を勝ち取ったとする日本政府のや外務官僚の「凱歌」について、日本共産党はこう批判している。
国後、択捉についても今後の交渉への新たな具体的手がかりはなんら得られませんでした。そればかりか、一方的な譲歩だけが残りました。
http://www.jcp.or.jp/web_policy/2001/04/post-296.html
日本政府は一九九八年の川奈での日ロ首脳会談のさい、択捉と得撫のあいだを想定した「国境線の画定」だけの合意で平和条約を締結し、国後、択捉の「施政権」はロシア側に残してよいという一方的な譲歩の提案をおこないました(橋本首相の「川奈提案」)。
しかし、「施政権」問題の解決は先送りするといっても、いったん平和条約を結べば、戦後国境・領土問題は最終的に解決したと見なされ、施政権の返還の保証はどこにもありません。これは事実上の放棄論に等しいものです。この川奈提案は今なお当時の両国首脳会談の記録に残っています。それどころか、昨年十一月のブルネイでの日ロ首脳会談のさい、森首相は「川奈提案は今でも最良の案だと考えている」とのべて、それまで非公開の交渉で内々の提案とされていたものをみずから公表し、再確認してしまいました。こうして、ロシア側は何らの譲歩もしないのに、日本側が施政権放棄という一方的な譲歩の言明をおこない、その言明だけが日ロ交渉の記録に既定事実として残るという、重大な事態を招いてしまったのです。
この足元を見すかされたのが、今回のイルクーツク会談です。日本側は、「日ソ共同宣言」を“初めて公式文書で明記したことにより歯舞、色丹の返還は法的に確認された。今後は国後、択捉の帰属問題の交渉をおこなう”などといっています。
しかし、ロシア側の解釈はそうではありません。対日交渉を担当しているロシュコフ外務次官は四月四日、「宣言」にもとづいて歯舞、色丹を「引き渡す」場合、残りの国後と択捉の帰属にかんする交渉を継続することは意味がなくなるとの立場を示しました。もし歯舞、色丹を返還したら、もう国後と択捉の帰属問題は交渉しないというのです。
このように、ロシアへの日本側の譲歩につぐ譲歩というのが、森・プーチン会談の実質だったのです。
東郷の方の言い分を読むと、事態はまるで逆である。
いま引用したところにも書いてあるが、ロシア側は川奈提案(国境線だけ確定し、実際の施政権は当面ロシア側)のような日本側の提案に食指を動かし、それから7年後のイルクーツク声明で国後・択捉について交渉開始を拒否せず入口に入ってくる構えをみせた、というふうに描かれている。
東郷は「四島一括返還」の矛盾を感じつつ、外務官僚としてそれを公式には崩すわけにはいかないが、しかし実質的にそれを崩そうとした。まさにイルクーツク声明とそれ以後の歩みは「四島一括返還」を脱した新しい日ロ合意が生まれる瞬間だったのだア、という具合に事態をダイナミックに書いてみたのである(それをマキコ騒動が壊してしまった、というわけだ)。
どちらが本当だろうか?
合意の積み重ねか、公正さか
みてきたように、日本外交の90年以後の積み重ねには、確固たる公正原則は見当たらない。しかし、ロシア側を大きく動かしてきた力があり、もはやこの積み重ねから撤退はできないとする立場をとれば、この90年代以降の合意の積み重ねから出発する他ない。
しかし、日本共産党は、こういう立場を前述の政策の中でこう厳しく批判している。
自民党の領土返還交渉がなんらの大義もなしにおこなわれていることは、三月二十七日、衆院本会議でのわが党の山口富男議員の質問でも鮮明になりました。森首相は、山口議員が「いったいどういう根拠と大義を示してロシアとの領土交渉にあたったのか」と質問したのにたいし、なにひとつ大義を示すことができず、北千島を最初から放棄した一九九三年の「東京宣言」など日ロ間の合意事項を交渉指針としていると答えるだけでした。ロシアとの領土交渉にあたって、そのロシアとの合意事項を指針にするなどとは、外交とは何であるかも知らないものの議論としかいわざるをえないものです。
http://www.jcp.or.jp/web_policy/2001/04/post-296.html
「合意を積み重ねてきたからもはやその流れからは撤退できない」「いまさら『千島全島を返せ』という基準で議論するわけにはいかない」という態度は、ここでいう「ロシアとの領土交渉にあたって、そのロシアとの合意事項を指針にするなどとは、外交とは何であるかも知らないものの議論」ということになる。
判断が難しいところである。
ぼくがシロウト目に思うのは、2000年代に入ってロシア側の態度硬化が進む中で、やはり原点に返った大義の押し出しがどうしても必要になるということだ。つまり、1991〜2001年の日ロ・日ソ交渉の到達にあまりこだわらない方がいい、ということである。
東郷はすでにゴルバチョフ来日の段階における日ソ間の外務官僚間の議論をスケッチしたあとで、
法理論による説得が限界に達し、なんらかの政治決断を求める局面に入った(東郷p.47)
という評価をしている。これがそもそも間違いではないのか。こうやって「政治決断=政治駆け引き」の時代に突入していったわけだが、結果的には何も事態は変わっていないし、客観的にみて、国後・択捉への開発投資が強まり、ロシア大統領の訪問など、むしろ悪くなっている。
やはり大義を大きくかまえて出発しないと、交渉において足場を失う。
そのさい「最終決着」が必ずしも千島全島返還にならないこともありえるが、そこは柔軟に考えてもいい。不破でさえ、本書『千島問題と平和条約』のなかで次のように述べていることはおそらく参考になるだろう。
日本共産党としては、領土問題の最終的解決は千島全面返還を内容とする平和条約の締結であって、日本共産党のこの方針に変わりはありません。ただこれは、党の方針であって、日本共産党がこう決めているから、交渉のすすむなかで日本国民がどう判断しようが、党の方針が絶対だというわけにはゆかないのです。この問題でも、主権者である国民が、交渉の到達点についてどう判断するかが基本です。(不破p.138〜139)