きょう(2011年8月3日)付の「しんぶん赤旗」にこうの史代のインタビューが載っていた。被災地で感じたことなどをしゃべっている。
最近、『この世界の片隅に』は新装され、書店に並んでいる。5日にテレビドラマとして日テレ系で放映される(すず役は北川景子、周作役は小出恵介)ことを受けてのものかもしれない。
改めてこの作品を読み直したが、実にいい作品だと惚れ直した。だからこそ、左手で描かれたゆがんだ世界や世界が色彩と「まとも」さを回復するしかけなど、漫画表現を縦横に駆使したこの作品の魅力を「終戦記念スペシャルドラマ」としてどこまで伝えきれるのか、正直とっても不安である。
戦災については、記録文学や体験手記は優れたものがたくさん残されています。けれども文章を残す能力や時間がある方は、限られています。私は、そうじゃない「普通の人」の人生も見てみたくて、『この世界の片隅に』を描くことにしたんです。
「普通の人」の言葉をたよりにその心象風景をさぐりだし、ひとに伝わるように組み立て直すことは、「優れた」記録文学や体験手記を読むよりもはるかに困難をきわめる作業だ。『この世界の片隅に』はたしかにそのような問題意識につらぬかれた作品である。
しかし、テレビドラマである以上、こうのの秀逸な漫画表現の仕掛けは抜き去らざるをえない。
そのうえ、テレビには大きな制約がある。かつて評論家の関川夏央は、テレビと漫画の差についてこう語った。
テレビドラマはおそるべき俗論の支配する世界である。見るひとを選ばず(選べず)、誰もが脇見をしながらでもわかるようにつくるのだから無理もない。なにしろタダである。読者に一定の緊張と思考をもとめ得る表現ジャンルであるマンガが、テレビの真似をするのはいかがなものか。
(関川夏央『知識的大衆諸君、これもマンガだ』p.131〜132)
漫画表現的なしかけを抜き去ったうえで、こうのが言葉と絵に組み立て直そうとした「普通の人」の言葉にならない言葉、見えていた風景というものを平板に直してしまったら、もう『この世界の片隅に』は、「広島に暮らしていた女性が呉に嫁にいき、空襲や原爆で貴重なものを失ってしまう話」という「あらすじ」しか残らないのではないか。ベッタベタのドラマである。
そのような作品のファンにありがちな心配(「この作品の真価をわかっているのは自分だけだ」という思い込み)といってしまえばそのとおりなのだが、このような不安がどうぞ良い意味に裏切られることを祈っている。
追記 なかなかにひどい出演者の登場人物理解
さっき、「コミックナタリー」を開いて、小出恵介(周作役)のコメントを見たが、なかなかにひどい登場人物理解でワロタ。
小出のコメントは、分量的にも北川景子(567字)と比べると5分の1ほど(118字)しかなく、やる気のなさがだだ漏れ。止めようとしても止められない「マネージャー執筆によるFAXインタビュー」っぽさが全開で見ちゃおれません。
まあ分量はよしとしよう。最大の問題はその中身で、「『北條周作』に対しての印象は?」と問われ、
ひたすらに、すずを守り、国に尽くす、真っ直ぐな青年だと思っています。
http://natalie.mu/comic/news/51160
と回答。おかしいだろ、この周作理解。
平板な理解というのを通り越して、異常な理解である。お前は本当に原作を読んだのかと問いたい。問い詰めたい。小1時間問い詰めたい。