鎌谷悠希『少年ノート』

 うつくしいシーンをみたい。きれいなことばをききたい。
 そういう動機で漫画を読み、あるいはその漫画に憑かれるということがある。


 鎌谷悠希『少年ノート』はまさにそういう漫画である。

「恥ずかしげもなく」

 引っ越しをしてきて入学式前に会った男の子。昨日出会ったその男の子が自宅の二階の窓から顔を出して歌うのを聞いた町屋翠(まちや・みどり)は、

天使だ


とつぶやく。


あんなに純粋に恥ずかしげもなく
音と遊ぶ人を見たことがあるか? 


歌うことに真っすぐな
人を見たことがあるか?


少年ノート(1) (モーニングKC)
 この「恥ずかしげもなく」がいい。
 よく効いた言葉だ。
 自分の下手さを恥ずかしがるというぼくレベルの感情もあれば、ひとにうまく聴かせようみたいな功名心がからむ場合もあるだろう。そうしたもろもろの感情をひとつもまとわずに真っすぐに歌うことを「恥ずかしげもなく」と言い表したことがその妙である。


 続けてその様を「音と遊ぶ」と書いている。
 たとえば自動車の中で窓を閉めて一人きりで歌おうとも、自分の技巧では音はうまく「操られ」ない。そこに羞恥がうまれる。ぼくらのような大人は、たとえ一人であったとしても、だ。しかし、無心に遊ぶ子どもは技巧を考えないという意味にもとれるが、完全な技巧をもっている子どもならば、その羞恥さえ覚えずに音と戯れることができるのかもしれない。


 ぼくがボーイソプラノときいてすぐに思い浮かべたのはボーカロイドである鏡音レンがうたっているJ-POPのいくつかだった。「レベル低すぎ」「それはボーイソプラノじゃないよ」とか言う奴は許さん。今までに生身の少年が歌うのびやかな声を聞いたことがないのかと問われたら困ってしまうが、とにかく真っ先に思い浮かべたのは、それだったのである。


 外国の男の子が歌う外国語の歌ではなく、日本人であるぼくのような人間の俗耳に入りやすい「日本の歌謡曲」。とくに徳永英明の「夢を信じて」のような前向き、夢、ボジティヴさを歌い上げてきた曲については、大人ではなく少年がそれを「恥ずかしげもなく」、「真っすぐ」に、歌うことで、原曲にはない無垢さが生まれるのだと思ったものだ。



 さそうあきら『神童』を読んだとき、主人公の少女(うた)が楽しげに歌うのとは違う、さらに突き抜けた無垢なイメージが本作にはある。とくに主人公の少年・蒼井由多香(ゆたか)が自宅の窓をあけて歌うことが楽しくて仕方がないという調子で歌い、それを聴いていた町屋が何かに撃たれたように見入るこのシーンからは、たしかに音が聞こえてくるのである。

「失われてゆくもの」


 町屋が防波堤でゆたかに会ったとき、


興味があるんだ
いずれ失われていくものについて――

と内語し、ゆたかの才能にやはり惹かれる女性音楽教師・大橋が


今の彼の声は変声前の
少年特有の瑞々しさを持つ
素晴らしいものです

素晴らしいとともに
今にも失われるという
危うさをはらんだ声……

と述べるように、ボーイソプラノの魅力は「失われるあやうさをもったうつくしさ」をめぐるものかもしれない。
 無垢なものは必ず失われる
 今ここで歌われている少年ののびやかな声は、もう明日にはなくなっているかもしれない。無垢が失われれば、「夢を信じて」などとはもう決して歌えないはずではないかと。


 まあ、実際にはそんなことはない。
 そんなことはないけども、そういう透明感あふれる幻想をつないで、ひとつのきれいなものを紡いでいこうとしているのが本作である。


 この作品の透明感を支えているのは、絵だ。
 主人公・ゆたかにまるで魅入られたかのように興味と好意をよせる少女・町屋翠のひたすらクールな造形が玉乱わー。
 もしこの物語が、町屋のような少女を主人公にして、そのミステリアスさに少年や男たちが惹かれるような展開であれば、ぼくはありきたりなものとして退けたかもしれない。自分を「中二病満点」などと客観視する冷徹な女性があやういバランスでこの少年に引き込まれてしまうっつうのが、もうアレだよ。


 この少女のもつ冷ややかな感じが、鎌谷の絵で存分に描かれている。
 物語はゆたかを軸に展開されているが、ぼくの目は町屋ばかりを追っている。


 37ページでゆたかの肩を抱きながら、それでいて凛と紹介する町屋。
 41ページでまっすぐにゆたかを見つめる町屋。
 42ページのラストで「音の中で息をする男の子に私は出逢った」とナレートするときに静かに歌う町屋。
 59ページで、男子ソプラノなど誰が嬉しがるのかという同級生のつっこみに、「少なくとも私は嬉しがる」と毅然と、しかし少しの甘さをもった表情で言い返す町屋。
 68ページで、やる気のない顧問教師に冷ややかに言い返す町屋。
 70ページで靴を履きながら目を閉じて髪をなびかせて帰る町屋。
 111ページで素っ気なさそうに私服でゆたかについていく町屋。
 120ページで少し恥ずかしそうに「いえ 素敵です」と答える町屋。
 122ページで「私も聴きたいな」と少しだけ表情を明るくして告げる町屋。


 そういうクールビューティの目を通して、少年を愛でようという大いなる野望があるんだろ、とか言うな
 

思春期や青春をうつくしく描くのはなかなかむずかしい

 思春期や青春期のうつくしさというものを描き出そうとする作品は様々あるが必ずしも成功していない。たとえば児玉ユキ『坂道のアポロン』はどうにも芝居がかっているように思える。いかに大学紛争時代とはいえ、高校生がこんなふうには恋愛しないだろ、と。
 『櫻の園』や『オクターヴ』のような「百合」作品にそのうつくしさをぼくがしばしば見出すのは、おそらく(物語としての)女性の同性愛を「やがて失われるもの」とみなす偏見にとらわれているせいでもあろう。
 同じような感覚のうえに本作もある。