原子力発電についてこれだけ議論になっているのだが、初歩的なところから知りたい場合、いったい何を読めばいいのだろうか。
原子力発電の基本的なしくみを知りたい
「原子力発電の基本的なしくみを知りたい」という場合、たとえば電力会社にいって無料のパンフレットをもらってくるというテもある。「そんなの推進派のプロパガンダではないか」と思うかもしれないし、まあ実際いろいろ問題をおこしているわけだが、推進したいがゆえに基本的なしくみをわかりやすく問いたりするものだ。
ぼくも「九州エネルギー館」という福岡市内にある九電の資料館(PR館)にいってきたが、もしこういう施設が近くにあるなら、そこにいくのが手っ取り早い。もう原子力関係のパンフレットが山のようにあるから。模型とか映像とかもあるし。
受付の女性が不審な目でパンフレットを抱え込んで出て行くぼくをみていたが、そうやって集めたパンフレットを眺めて思ったことは、図解や写真なんかはずいぶん豊富だけども、基本的なしくみを知る上で「かゆいところに手が届く」という点であと一歩のものばかりだ。
西尾漠『新版 原発を考える50話』(岩波ジュニア新書)では、チェルノブイリ事故のあと、ソ連「プラウダ」の科学部長が来日し、原発の資料館をみて日常的に住民に啓蒙されている! と目を見張ったというエピソードが紹介されている。西尾は、こうした電力会社がつくるバラ色ばかりの資料館に批判的なまなざしをむけつつも、
ともかく一度はどこかの原発のPR館を見学してみて、いろいろと考えてみるのもよいかもしれません。(西尾前掲書p.165)
そこにも書いてあるように、原発とは関係のない子どもむけの劇や工作教室とかもいっぱいあるしね!(ぼくの左翼友人で先輩パパは、子どもが小さいとき、職場の近くのこうしたPR館に子どもを遊ばせて休日出勤させたと言っていた。)
ちなみに西尾の本は原子力発電の全体像を入門的に学ぶうえではちょっと読みにくい。ここにある全体像がそれなりにわかってからエッセイ的に読むのがいいだろう。
まずごくごく基本的なところをやさしく知りたいと思うなら、舘野淳監修『原子爆弾から原子力発電まで原子力のことがわかる本』(数研出版、2003)をおすすめする。
この本は、「修学旅行や社会見学の準備に、調べ学習に最適」「子供から大人まで一緒に読める!」というオビのとおりで、「そもそもどうやって電気ってどうやっておこすの?」という初歩的な疑問からプルサーマルや高速増殖炉の解説にいたるまで実に平易にやってのけている。
推進派の論調をベースとしながらも、反対派の意見ものせており、等距離的公平さという点でもおそらく満足のいくものだろう。
本屋にいくと、この本とならんで売られているのが、榎本聰明『原子力発電がよくわかる本』(オーム社、2009)である。
しかし、この本は、パラパラとめくってもらえばわかるが、ぼくのような市井のおじちゃん・おばちゃんにはちょっと難しい。やさしく書こうとしているものの、専門用語や概念があちこちに出てきて、くじける人が多いことは請け合いである。
くわえて、著者は東電の副社長を経験した人物であり、そういう人物から何を教わるというのか、と息巻く人もいるだろう。実際、この本は推進を前提としたトーンで描かれている。
ただ、『原子力のことがわかる本』とあわせて、この本が推進派のものであることをふまえつつ、「辞典」のようにして使う分には役に立つ。
たとえば、放射線が体になぜ悪いのか、ということについて、『原子力のことがわかる本』ではあまりよくわからない。放射能や放射線についての啓蒙書は、すでに書き方がパターン化しているのだが、どういうわけか、この点についての叙述は少ない(たいてい、放射線の種類ごとに透過能力が違うことを示す図はついているのだが、これだと「体をつきぬけるから悪い」、という理解になりそうだ)。
この点について、本書では、
放射線とは、X線のような電磁波や運動している粒子で、一般には物質を透過する際、その物質の原子の軌道電子をはぎ取る、すなわち電離する能力のあるものをいっています。したがって、放射線が生体に当たると、生体の重要構成部分である水などの分子を電離したりして他の分子と反応しやすい活性化した「ラジカル」を作り、それが細胞膜やDNAを傷つけることになります。細胞は自己の力で、傷を修復する能力を持っていますが、一部は修復できずに死滅します。
問題は、たまに修復ミスを犯すことです。特に、DNAでそれが起こると、DNAの遺伝情報に誤りを残したまま生き残るため、後に細胞に突然変異が起こったり、がんが発生したりする原因になるといわれています。(榎本前掲書p.92)
という記述がきちんとある。
また、後で述べるように、原子力発電の弱点の一つは、冷却する水がなくなりやすいことであるが、それは暴走事故もさることながら、制御棒が差し込まれたあとでの「崩壊熱」をめぐる問題なのだという認識がなかなか得られにくい。
そのことについて、本書では、
チェルノブイリ原子力発電所のような原子炉の暴走事故を別とすれば、原子炉の安全性のほとんどは、このような原子炉の停止後に出てくる熱との戦いといって過言ではないのです。(榎本前掲書p.99、強調は引用者)
とズバリ書いてある。
さらに、プルサーマルがなぜ問題かということについて、実は反対派の書いたもののなかではなかなかうまく見出すことはできなかった。*1これにたいして、本書では推進派的な歪め方をしているものの、一応書かれている。
原子炉にある熱中性子は、いろいろな物質にねらわれています。ウラン、プルトニウム、冷却材、制御棒、構成材などが奪い合いをしています。制御棒の強さとは制御棒を動かしたとき、熱中性子人口にどれくらいの影響を与えるかということですから、結局全体の熱中性子のうち、制御棒がそもそもどれくらい奪い合っていたかに依存することになります。プルトニウムは熱中性子とよく反応します。つまり、中性子を強く奪い取ります。結果として、分裂もよくしますが、吸収しっぱなしも多いということです。いずれにしても、制御棒から見ればプルトニウムのおかげで、自分の影が薄くなってしまうようなことです。(榎本前掲書p.179)
このように、論点を少し深めたい、というときに、この本を開いて意見を聞いてみるという使い方がいいのではないだろうか。
基本点を知ったあとで、基本的な問題点を知る
しくみのことがだいたいわかった後で、では原子力発電に対する批判派は何を問題と考えているのだろうか、ということを知るうえでは何がいいだろうか。
ぼくは、安斎育郎のかもがわブックレットシリーズの2冊をおすすめする。
まず原子力発電そのものについては、同ブックレット14の『原発 そこが知りたい〔増補版〕』(1988)がよい。目次は以下のとおり。
原発はどういう原理ではたらくの?/原発の種類は?/日本の原子力発電の現状は?/放射線は浴びないのが一番?/自然放射線以下ならOK?/原発はなぜ温排水が多い?/原発労働者の放射線被曝は?/原発周辺の放射能汚染は?/チェルノブイリ原発事故の放射能放出量は?/チェルノブイリ原発事故の犠牲は、どれくらい?/厳しい安全審査だから大丈夫?/出力調整試験の意味は?/世界の原発政策はどうか?/イタリアの国民投票の内容は?/経済開発優先主義ではないか?/地域開発と原発立地の関係は?/軍事利用の心配はない?/核燃料サイクル基地とは?/原発の高レベル廃棄物はどうする?/大量の低レベル廃棄物の行方は?/公開ヒアリングは民主的?/原発批判は村八分?/原発はどのように開発された?/日本の原発開発はアメリカ依存型?/稼動中の原発を全部止めるには?/使い終わった原発の処分は?/東京都や大阪市は電力会社の大株主?/労働組合や生協と原発のかかわりは?/核エネルギー利用の将来は?/電力は貯蔵できる?/代替エネルギー技術の将来は?/私はこう思う
基本的な論点がほとんど入っていることがわかるだろう。
同じシリーズで同ブックレット12『改訂版 放射能 そこが知りたい』(1988)もおすすめする。
安斎の本がいいのは、比較的冷静に書かれていることである。たとえば、低線量の被曝について、安斎は次のように書いている。
放射線によってDNAが傷を受けても、生体の修復機能が作用するためあるレベル以下の被曝では癌は起こらないという見方も提起されています。しかし、従来、国際放射線防護委員会は、「よくわからないことは安全側に立つ」という考え方で、「あるレベル以下では癌は起こらない」という「しきい値仮説」は採用せず、「低い線量でも線量と癌の発生は比例する」という仮定をとってきました。近年、この仮説の妥当性について見直すべきだという意見が出されています。(『放射能 そこが知りたい』p.9)
また、安斎の書き方は解説としてもわかりやすく、味がある。原発関連の入門的解説のなかでは一番面白い文章だったといえる。
ところで、核分裂反応を起こさせるには、スピードの遅い中性子(熱中性子)が好都合なのですが、核分裂で生まれたての中性子は「高速中性子」と呼ばれるものすごいスピードのものです。高速中性子は速すぎて、核分裂を起こす能率がたいへん悪く、核分裂を起こさせるためには、生まれたての中性子を水などの媒質中でウロウロさせ、エネルギーを失わせてスピード・ダウンさせてやる必要があります。(『原発 そこが知りたい』p.3)
たとえば一〇〇レム(最近使われている新しい単位では一シーベルト)浴びて白血病になった人と、一〇レム(〇・一シーベルト)浴びて白血病になった人がいたとしましょう。この場合、一〇レムの人の白血病は一〇〇レムの人の白血病よりも、被曝が少ないだけ軽い白血病で済むかというと、そうはいきません。一〇〇レム浴びて白血病になろうが、一〇レム浴びて白血病になろうが、白血病としてのひどさは同じです。何が違うのかというと、一〇〇レム浴びた人の方が、一〇レム浴びた人よりも、それだけ白血病にかかる可能性が高い――確率が大きい――ということです。宝くじを一〇〇枚買って一等が当たろうが、一〇枚買って一等が当たろうが、一等には違いないから同じ賞金をもらえるが、一〇〇枚買った人の方が一〇枚しか買わなかった人よりも、余計に買った分だけ当たりやすいでしょう。放射線被曝による癌の誘発の場合もよく似ているので、私は「確率的影響」のことを「癌当たりくじ型障害」とたとえているのです。(『放射能 そこが知りたい』p.9)
ところで、この本を書いた安斎育郎は、最近『まんが 原発列島』(大月書店、1989)の増補版(2011年)の解説を書いている。『まんが 原発列島』は、原発の問題点の指摘というより、「原発利益共同体に逆らって生きていくことの苛酷さ」を描いたマンガである。安斎は東大工学部原子力工学科といういわゆる「原子力村」の中枢にいた人物で、そのころに受けたいやがらせについても、パンフレット『原発 そこが知りたい』の中で書いている。
東京大学で助手を一七年間つとめていた頃、私も国の原発政策を批判する社会的活動に従事していたがために、ずいぶん“村八分”的な体験をしました。原発立地地域の住民に呼ばれて講演に行くと、たいてい電力会社の担当者がいてテープをとり、時にはその日のうちに東京の主任教授に届けられました。教育業務からははずされ、口をきくな、指導を受けるな、一緒に飯を食うな、並んで道を歩くな、同じ写真に入るなと、さまざまな孤立化政策がとられました。週刊誌に談話が載れば、肩書きに研究室名が入っていることが問題になりました。人は社会的な存在なのですから、たとえ個人的な見解を述べる場合でも肩書きをつけることは社会一般でなされている習慣にすぎません。ある時には、他に職を見つけて何年以内に出ていくようにといった示唆を受けたこともありました。
外に職を得ようと他大学の公募人事などに応募すると、おもしろいことに、週刊誌に「原発反対運動のリーダー」といった扱いの記事がタイミングよく掲載され、それが選考委員会に送りつけられるようなことも起こりました。(『原発 そこが知りたい』p.44-45)
原子力発電にたいする批判のポイント
原子力発電の基本点、およびその問題点の基本がざっとわかったところで、それをもう少しつっこんでみる。
岩見隆夫が毎日新聞のコラム「近聞遠見」(2011年5月21日付)で「トイレなきマンション」と題して共産党の元党首・不破哲三がおこなった原発問題での最近の講演を紹介している。「日本の原発について歴史的、体系的に振り返り、なにしろわかりやすい」「原子力への理解を深めるためにも、不破講義の一読をおすすめしたい」「出色」と高く評価する。
その講演はこちらだ。
「科学の目」で原発災害を考える/社会科学研究所所長 不破哲三
この講演の面白さは、岩見が述べているような国会でのやりとりの妙にもあるのだが、日本の科学者のなかでの古典的ともいえる原子力発電批判の要点――「原発は未完成の技術である」という点を2点にわたって簡潔に紹介していることだ。
原爆を体験した日本の科学者にとって、原子力の軍事利用への反対は、その平和利用への関心と結びついていた。たとえば、同じ共産党の吉井英勝も、自分が原子力にかかわるきっかけは、小学生時代に京都で開かれた「原子力の平和利用展」への参加だったと自著で述べている(吉井『原発抜き・地域再生の温暖化対策へ』新日本出版社、2010、p.9)。
あるいは、「これまで原子力を提案し推進してきた立場」と自ら述べている住田健二・元原子力安全委員長代理は、自身が原発を推進してきた「思い」をこう述べている。
日本に惨禍をもたらした原爆を克服し、原子力を「いい方向に使えるようにしたい」とやってきましたから。私の周囲にも広島で原爆にあって命をとりとめ、「くやしいから原子力の平和利用を研究する」という人がいました。(「全国革新懇ニュース」No.329)
それは保守系の立場からの言葉だが、戦争が終わりあらゆる科学技術を軍事ではなく「平和利用」をしたいという思いは当時科学者の間で、かなりの強さをもっていたはずだ。
しかしアメリカへの従属のもとで、いびつな形で始まった「平和利用」にたいし、日本の科学者たちは苦しんだ。その理論的到達が「原発は未完成の技術」という論立てだった。不破と共産党はその到達を引き継いでいる。
「未完成の技術」だという理由は二つ。
- 原子炉の構造そのものが「不安定」
- 使った核燃料の後始末ができない
以前はこれにくわえて、3.資源量の乏しさを挙げたりしていた*2が、今回はこの2つに限っている。
1.を詳しくみてみる。
運転を止める時には、制御棒を挿し込んでウランの核反応を止めるのですが、その状態でも、ウランから生まれた核分裂の生成物は膨大な熱を出し続けます。だからそれを絶えず水で冷やしておく機能が必要なのです。ところが、普段、条件が整っている時なら、そういうコントロールができるけれども、いざという時、水の供給が止まってしまったら、膨大な熱が出っぱなしになって暴走が始まるのです。そうなると核燃料の熱がたまり、どんどん高温になって、核燃料が壊れ始める。30分もたったら融けだしてばらばらになり、2時間で原子炉がめちゃくちゃになるといわれています。水を止まらないようにしたらいいだろうと思うかもしれないけれども、あらゆる場合を考えて水が止まらないようにするということができないのですね。アメリカのスリーマイル島の原発事故も、操作の誤りから水が止まって起こったことでした。今度の福島の原発も同じように地震と津波の影響で電源が全部失われて水が止まって起こりました。
やはりこれは、軽水炉がもっている構造上の本質的な弱点、これは難しい言葉でいうと「熱水力学的不安定性」ともいいますが、その表れなのです。
http://www.jcp.or.jp/seisaku/2011/20110510_fuwa_genpatsu.html
ここで注目されるのは、反応が止まらないという意味での暴走それ自体ではなく、むしろそれが終わったあとの崩壊熱との戦いの問題こそがこの本質だとみていることだ。さっき、東電副社長だった榎本が、『原子力発電がよくわかる本』で、
原子炉の安全性のほとんどは、このような原子炉の停止後に出てくる熱との戦いといって過言ではないのです。(榎本前掲書p.99)
と書いていることを紹介したが、まさにこの点にこそ重大な問題がある。
くわえて、不破は、この「未完成の技術」だという第一の理由のなかで、
さらに、原子炉そのものの危険性という点で、いま深く考える必要があるのは、今回の福島の原発災害が、軽水炉という特定の型にとどまらない、より深刻な問題を提起していることです。(強調は引用者)
http://www.jcp.or.jp/seisaku/2011/20110510_fuwa_genpatsu.html
とつっこんでいる。
いま開発されているどんな型の原子炉も、核エネルギーを取り出す過程で、莫大な“死の灰”を生み出します。どんな事態が起こっても、この大量の“死の灰”を原子炉の内部に絶対かつ完全に閉じこめるという技術を、人間はまだ手に入れていません。軽水炉でいったん暴走が起こったら、それが社会を脅かす非常事態にすぐ結びつくというのも、根底には、この問題があります。福島原発は、五重の防護壁なるものを看板にしていましたが、現実にはたいへんもろいものでした
http://www.jcp.or.jp/seisaku/2011/20110510_fuwa_genpatsu.html
つまり、死の灰(放射性物質)を絶対・完全に閉じこめる技術はない、という問題として提起しているのである。もちろんこうした指摘そのものは数多くあったが、「未完成の技術」論を「閉じこめ」の不完全性として提起したのは新しいことだろう。
第二点については、特に説明は要るまい。
最近、池田信夫が、
池田信夫 blog : 核のゴミ問題は解決できる - ライブドアブログ
というエントリを書いていたけども、かなりひどい。
「海の底に捨てれば、大気中と違って人にあまり会わずに希釈してくれる」というざっくりした感覚でモノを言ったのだろうが、ざっくりしすぎである。希釈されないまま集中的な影響がでる危険性がないことが何も説明できていない。反論的にも記されていない。
モンゴルに捨てればいいという議論にいたっては、「世界には人の立ち入らない砂漠や山地はいくらでもあり」などと、いくらなんでもダメすぎる意見だろう。
いずれにせよ、数万年にわたる管理に責任が持てるのかという基本的論点に何も答えていなさすぎる。条約の離脱をすればいいなどというのは、当座の話でしかない。
「未完成の技術」という論点を深めるために
さて、この不破の根底にある、日本の原子力発電批判派の科学者たちの意見を集大成した古典が武谷三男編『原子力発電』(岩波新書、1976)だ。チェルノブイリはおろか、まだスリーマイル島の事故さえも起きていない段階で書かれたものだが、民主党の議員(中塚一宏)が
少々古い本(1976年)ですが、今読んでもとても新鮮。というか、35年前に書かれたこの本に、今起こっていることがすべて書かれています。
と書いているのはむべなるかなである。
本書は原子炉の暴走について、大胆にもこう書いている。
炉が暴走状態に陥って出力がどんどん上がり出しても、それが何時までも際限なくつづくことはない。たとえば軽水炉をとりあげるならば、冷却水の温度・圧力がどんどん上がると、原子炉を入れた圧力容器が一次冷却水のパイプやバルブを破って水が外に吹き出てしまうだろう。こうして減速材の水がなくなってしまえば連鎖反応は自動的に止まるのである。
このように、発電炉が暴走状態になっても、核爆発的なエネルギーの放出にはならない理由が明らかとなった。出力がそのレベルに達するはるか手前で、一次冷却回路のどこかが破壊され、中性子の減速と冷却の役割を果たしていた水が外に吹き出してなくなるか、あるいは炉心の燃料棒が吹きとんでばらばらになって連鎖反応が止まるからである。(武谷前掲書p.97-98)
本書はこう続ける。
だが、これで安心というわけにはゆかないのである。(同前p.98)
水を減速材に使った原子炉では、たとえ暴走がおこっても水がブレーキの役をして、水のなくなったところで連鎖反応が止まってしまうことを見た。ところが、水は中性子の減速材であると同時に、炉心の熱を外に運び去る役をしている。水がなくなると、ブレーキは効くが、同時に原子炉は空焚きの状態になる。
たとえ連鎖反応が止まっても、炉心の発熱はすぐには止まらない。核分裂が止まっても、死の灰の放射能による発熱が残る。たとえば電気出力一〇〇万キロワット、熱出力では三〇〇万キロワットで運転されていた原子炉は、その連鎖反応が完全に止まっても、三秒後にはその十分の一の三〇万キロワットの発熱をつづけており、一時間後になっても百分の一の三万キロワットの発熱がつづいている。こうして、小出力の原子炉ではあまり重大問題とはならなかった放射能による発熱が、大出力の発電炉の場合には大変な熱量となって原子炉を破壊する。(武谷編『原子力発電』p.99-100)
アメリカの原子力委員会の報告を参照しながら、この崩壊熱による「空焚き」が何をもたらすのかをリアルに描き出していく。
冷却水のパイプが切れて水の循環が止まるやいなや、炉内の水は水蒸気になって急激に切れ口から吹き出し、五―一〇秒以内に炉心は空になる。冷却材のなくなった燃料棒は放射能による発生熱で毎秒一〇度ぐらいずつ温度をまし、三〇―五〇秒のちには危険な一〇〇〇度をこえた領域に入る。こうなると、燃料棒のさやのジルカロイは炉内に残った水蒸気と反応して、水素ガスの発生とともに発熱をする。その発熱による温度上昇がさらに反応を進めるという悪循環がおこる。
一分ぐらいののちに、燃料棒のさやはジルカロイの融点一八五〇度をこしてとけはじめ、やがて燃料棒はばらばらになって炉の圧力容器の底に落ち込んでゆく。炉心が崩壊し一〇―六〇分後には、燃料棒が酸化ウランの融点二八〇〇度をこえてとけはじめる事態がおこるだろうが、その時の状況はさまざまに考えられる。とけた燃料棒の塊りが容器の底をいっぺんに落ち込むことがあると、底にたまっていた水は瞬時に沸騰して水蒸気となり、溶融した塊りを吹き上げて圧力容器をこわすことも考えられよう。
幸いにして、そのようなことがなくとも、容器の底には重量一〇〇―二〇〇トンもの溶融金属塊ができるわけだ。一―二時間ののちに、金属塊は圧力容器の底をとかして貫通し、外側の格納容器の底に落ち込む。そこで格納容器にたまっている水との反応が、格納容器を破壊するおそれは充分にある。
(武谷編『原子力発電』p.99-100)
放射能・放射線をめぐって、被曝線量の「限界」を「がまん量」だと喝破している点も、本質的で明快なものだ。
原水爆実験に反対する全国民的な平和運動に科学的な武器をあたえたのは武谷三男であって、その主張は『原水爆実験』(岩波新書)に詳しく述べられている。
晩発性、遺伝性障害の発見と比例説*3の出現によって科学的な根拠を失った許容量をはなれて、放射線障害について新しい考え方を構築する必要に迫られていた。武谷は、この要求にまさに応える考え方を提出したのである。
障害の程度を正確に科学的に推定することが不可能な場合、こと安全問題にかんしては過大な評価であっても許せるが、過小な評価であることはあってはならない。この原則的な立場に立てば、「しきい値」の存在が科学的に証明されない限り、比例説を基礎において安全問題は考えなければならない。ちょうど具合のよい所に「しきい値」があって、それ以下は無害と都合よくいっている根拠は何もないからである。
そうすると、有害、無害の境界線としての許容量の意味はなくなり、放射線はできるだけうけないようにするのが原則となる。そして、やむをえない理由がある時だけ、放射線の照射をがまんするということになる。どの程度の放射線量の被曝まで許すかは、その放射線をうけることが当人にどれくらい必要不可欠かできめる他ない。こうして、許容量とは安全を保障する自然科学的な概念ではなく、有意義さと有害さを比較して決まる社会科学的な概念であって、むしろ「がまん量」とでも呼ぶべきものである。(武谷前掲書p.70-71)
すでに書いていることだし、この『原子力発電』にも書かれていることだが、この低量の被曝について「比例説」と「しきい値説」は激しく論争がなされている。ぼくが指摘したいのは明確な自然科学上の安全量ではなく、「がまん量」として問題を考えているその明快さだ。
福島の子どもたちの被曝線量の限度を20ミリシーベルトにひきあげたり、原発作業員の限度を250ミリシーベルトにあげたりすることを政府が「平気」でおこなっているのは、まさに「利益」との比較にすぎないからだ。
他にもこの『原子力発電』には示唆にとむ論点が多い。「未完成の技術」という視点がより深まるものになるだろう。