「ザ・スニーカー」2010年12月号の書評連載「コミック前のめり!」で吉富昭仁『地球の放課後』について書きました。同誌をただちに買って読み、そしてぼくにではなく編集部に「すごく面白い書評だった」「天才ではないか?」という手紙&メールを送って下さい。
世紀末を快楽ととらえることについて書いたんですが、吉富のような瞳の描き方についても書きました。
機微のある感情を搭載しない瞳。
きづきあきら+サトウナンキ『いちごの学校』にもこの種の瞳の話が出てくるんですが(きづきの瞳の描き方はしかし全然こうじゃありません)、ある種のエロゲ系の美少女の瞳というものは、まさにこうです。
白目を少なくする、という技法によってます。
人間以外の目は目のまわりが曇っていて、自分の視線がどこに向かっているかをまわりに悟られないようにしているわけである。
人間の場合でも、たとえば剣道だとか、相撲だとかの闘いの場にたつと、自分の視線を相手に悟られないほうが有利になる。実際、私たちは、視線の見極めのつかない人、たとえば、わざとサングラスをかけて目を隠している人に出会うと、なんとなく不安な感じを抱く。この不安な感じを生存競争・闘争の場で生かそうとして、動物たちは、瞳を際だたせる白目をあえてつくらなかったのである。
ところが人間はあえて白目をつくり、自分の瞳がどこに向かっているかを浮きだたせ、わざわざ周りに自分の視線をさらけだすようになった。これはいったいなぜなのか。
私の知る限り、その答えは人間相互のコミュニケーションにある。
(二宮厚美『保育改革の焦点と争点』p.214-215)
あらゆる人間的しがらみ、すべての社会的苦役から解放された「放課後」を永遠にすごす伴侶は、リアル女性ではなく、まさにこんな瞳の女性がいいのではないでしょうか。