杜康潤『坊主DAYS』


まんまんちゃん、あん。 1 (バーズコミックス) 天堂きりん『おひさまのはぐ』を読んでいて急にイケメンの住職が準主役で登場した。そんなに普通に僧侶が出てくるのに少し驚く。どうも一部に「住職ラブ」みたいな流れがあったようなことは、本屋に平積みされたマンガを散見すると気づかされる。そもそもわざわざ住職の「物語(虚構)」を読もうというフックがないので、手にとったマンガが偶然僧侶モノだったという以外にはふれあう機会もない。そういうなかで手にとってよかったのは、きづきあきら+サトウナンキ『まんまんちゃん、あん』くらいなものだ。


ぼくと寺システム

 うちの実家は寺とのつきあいが深い。
 盆だけでなく、年中頻繁に住職を呼んで供養している。親の様子をみているといわゆる「信仰心」が篤いというわけではなさそうだが、土地と家を先祖から伝えられて預かっているという農民的自覚がそのような厳格な自己戒律を内に立てるのであろう。いや、それこそがまさに日本的信仰なのだろうが。
 うちの田舎には、住職がいるいないの別はあるけども、だいたい集落に一つ以上の寺があり、集落ごとに宗派の色が違う。うちの集落は浄土宗と浄土真宗に二分されているが、同じ小学校区でも母親の実家の集落は法華宗一色である。
 母親の実家がある集落の寺(Q寺)の住職が、ぼくがコミュニストだというので大変興味を持ち、盆正月でぼくが墓参をするたびに会って話をしていたことがある。ところがその人がどうも駆け落ちのようなことになってしまってQ寺に住職がいなくなってしまったことがある(無住)。そのとき、集落の人々は、近くの同じ宗派の寺から住職を派遣してもらい、その集落の檀家たちはそこでまとめて面倒をみられるようになったという。
 うちの集落も3つほど元々寺があったのだが、すべて無住となってしまい、近くの同じ宗派の寺を菩提寺とするようになった。

 小さい頃は寺で遊んでそこで悪さをしていたので、住職たちと激しい抗争状態に陥ったり、先代が死んで新住職が誕生すると「息子はいなかったはずだよな…」と不思議な気持ちになったりしていた。
 うちにくる坊さんにも、どういう来歴か聞いてみたが、もとはトヨタ関連の会社で技術者をしていたらしいのだが、後を継ぐためにそこをやめたという。さらにその子どもは京都大学に今行っているが、やがて家を継ぐのだという。この前、お盆のときにお経読みにきたけど、ホント高校生みたいだったぜ! 有り難みもないわなあ。


 あと、ぼくの中学の同級生が、ぼくが大学くらいのころに、その同級生が住む集落の女性僧侶と深い仲になり、子どもをもうけた。
 そこで同級生は急きょ修行という名の研修を受けて、住職にならねばならなくなった。

 このようなプロセスが身近にあったので、寺というシステム自体には興味があった。だから、葬式や寺に関するルポは機会があれば読みたいとは思っていた。


ドン引きの「僧堂」入りという名の研修

坊主DAYS (ウィングス・コミックス・デラックス) (WINGS COMICS) 本作『坊主DAYS』は、作者の実家が寺であり、その住職となった兄に聞き取りをする形で書いたルポルタージュのコミックである。
 『ダンナは海上保安官』の感想でも述べた通りで、採取された事実自体が興味深いものだから、マンガの味付けが多少荒っぽくても十分に堪能できる。加えて、本作はおそらく兄という直接の観察者が、かなりすぐれたサーチアイをもっているのだろうと推測できた。

 著者の兄は臨済宗の僧侶になるための研修=修行として「僧堂」(研修所)入りをするのだが、一読して強く印象に残るのは、その苛酷さである。
 本書を読んだ松尾慈子が「漫画偏愛主義」において、本書についての感想を残しているが、やはりこの大変さが最も印象に残ったようだ。

本書のメーンは寺の住職である実兄の修行時代。起床は午前3時、その後は座禅、読経、老師との問答、作務。寝られるのは夜中の11時だから睡眠時間は約4時間。持ち物は修行に最低限必要なものだけ、もちろん携帯電話は禁止。それが基本的には最低2年は続くというのだから、俗世にまみれた生活をしている私にはとても耐えられそうにない。

http://www.asahi.com/showbiz/column/manga_henai/TKY201002180306.html

あまりの修行の厳しさにすっかり尻込みした私

http://www.asahi.com/showbiz/column/manga_henai/TKY201002180306.html


 ドン引きだったのは「臘八大接心(ろうはつおおぜっしん)」と呼ばれる修行最大の山場で、1週間にわたる特別修行である。

期間中は禅問答の応報と食事・トイレを除き、全て坐禅で過すという僧堂最大の難関にして最重要の行事です。

 「トイレを除き」とあるので、「トイレに…」といって頻繁に抜けだせばいいんじゃないかと思うのだが、あにはからんやトイレに自由には行けない。定められたトイレ休憩だけである。そのために地獄の苦しみを味わう話も出てくる。
 驚くべきことに睡眠時間は2〜3時間。しかも坐禅したままの「仮眠」なのである。肉親に不幸があってもやめられない。遺書まで書かされる。やめてくれ。

 この特別研修の最終段階で、幻覚を経て、急激に五感が研ぎ澄まされていくという。釈迦が悟りの最終段階で様々な悪魔の誘惑に遭い、それをはねのけて悟りを開いたという説話と符号するわけだ。

 まあ、あれだよ。
 限界までの苦痛の後、急激な陶酔や解放、意識の先鋭化がやってくるのっていうのは、現代でも自己啓発とか企業研修で聞く話だ。そこで到達する「頂点」というのは、なるほど日常では決して得られない視野や世界というものになるのかもしれない。
 強制されれば問題だろうけど、自己選択的にそこに乗り込んでこういう体験を得るっていうことが必要なときもあるから、これ自体がいいとか悪いとかいう話ではない。ただし、ぼくはごめんこうむりたい。


本書はなぜすぐれたルポたりえたか

 本書は寺の様々なシステムについても書いているが、何よりこの「僧堂」での研修に重点をあて、それに絞り込んで描いているのが、功を奏した。
 また、前述のとおり、著者の兄がすぐれた観察者であった。
 著者の兄は、他の僧侶たちの例にもれず、自分の先生にあたる「老師」に深い愛着をもっている。この人的なつながりを通じて、寺や仏教の体系への愛着をよせており、同時にオタク的な観察眼を持っているのだ。
 それゆえに、一つひとつの記述が愛着的であると同時に、きちんと仕分けられていて、詳細で豊かな世界が紹介されることになった。
 無論、著者・杜康が寺の子どもとして、その要諦を正しく伝えていることがこのマンガのベースにあることはいうまでもない。