川崎二三彦『児童虐待―現場からの提言』

 児童虐待の問題を調べていくと、児童相談所の役割や権限についてわかりやすい解説がないことに気づく。児童相談所というのは児童虐待だけを扱っているのか? そもそも国の機関なの? 市町村の機関なの? などという初歩的な質問に始まり、新聞などでよく見る「臨検(強制立ち入り調査)」と「立ち入り調査」はどこが違うの? いや「一時保護」と「立ち入り調査」は違うの? 「一時保護」は「施設入所」と同じなの? などの問題を一定程度、体系だって説明してくれる本がほしいと思うのだ。

児童虐待―現場からの提言 (岩波新書)
 本書はその役割をよく担っている。

 加えて、たとえば児童相談所長が一時保護の判断の権限を与えられる。だが、それが重荷になってしまい、本当なら司法を介在させるべきなのに、そんなことをやっている体制も時間もないというジレンマ。あるいはケースワーク主義と介入の葛藤の問題など、現在児童虐待対策をめぐる「対立・論争」点の基本が大づかみにわかるようになっている。

見覚えのある虐待の言い訳

 本書で、ぼくが興味をひいた問題はいくつもある。そのうちの一つが、「体罰と虐待」の問題だった。

「最初から叩くわけありません。勉強のことでも、本人が「がんばる」と言うので信じてやるでしょ。でもすぐに約束を破る。「今度は叩くよ」「次はこんな叩き方では済まないよ」と順を追ってやってるんです。本人だって「わかった」と言ってるし、納得しているはずです。歴史があるんです」(p.25)

 これは眼窩骨折で入院手術までにいたった小学生の保護者が語った弁解である。
 他にも本書には次のような親の言い訳が記されている。

「ワシの子ども時代はもっと殴られましたぜ。でも文句一つ言わなかった。悪いことをしたんやから当たり前ですわ。それでも別に非行に走ったわけでもないし、こうやってまともに暮らしていますやろ」

「暴力だ、虐待だとあんたらは言うけど、じゃあ、子どもを叩いたらすべて虐待というんですか? だったら、私らは虐待されて育ったことになります」(同前)

 こういう意見は非常に根強い。
 とりわけ、自分が殴られたり体罰を受けたことのある人の中で、それが自分の「悪さ」を自覚させる契機になった、という体験を持つ人は、その信念たるやぬぐい去りがたいものがある。

 著者=川崎は、しつけと虐待は概念としてはっきりと分離しているのに、何かがその境界をあいまいにさせているとして、その両者の間で境界をぼやかせているのが「体罰」であると指摘する。
 著者は通信制大学に通う学生(実際は社会人)たちにとったアンケートで実は体罰肯定が少なくないこと、児童相談所や市役所など公的なホームページでさえ、虐待としつけの区別の困難にしばしば言及しておりその原因として「体罰」の存在が両者のグレーゾーンに存在することを紹介している。
 著者が紹介する学生の次のような意見は、一度はどこかで聞いたことのあるロジックのはずだ。

  • 人は身体で痛みを知るからこそ人の痛みもわかるのだ。
  • 叱られて当然のことをして頬を叩かれた時、頬は痛かったけど心は痛くなかった。
  • 今の社会は、子どもの頭を叩いただけですぐに「体罰体罰」と言い、体罰を絶対にしてはいけない犯罪のように言う風潮があるが、私はそうは思わない。私も幼い頃、親や学校、塾の先生に叩かれたことがあるが、一度もそれを恨んだことはない。それは私が悪いことをしたからであり、それまでに何度も口で注意されていながら、その約束やきまりを破ってしまったからだ。何度言ってもきかなかったり、約束を守らなかった場合には、最終的な手段として体罰を行うことは必要だと思う。
  • 私自身も先生や親からひっぱたかれて成長した人間です。おかげで人の痛みもわかるようになりました。体罰を受けないで、犯罪もなく目立った悪いところもなく、大変立派に育ったという人を、私は今まで見たことも聞いたこともありません。(p.36〜37)

民法における親権者の「懲戒権」

 学校では、学校教育法によって体罰が公式には禁じられている。

第11条 校長及び教員は、教育上必要があると認めるときは、文部科学大臣の定めるところにより、児童、生徒及び学生に懲戒を加えることができる。ただし、体罰を加えることはできない。

http://www.houko.com/00/01/S22/026.HTM

 では家庭ではどうか。
 民法では、次のように規定されている。

第八百二十二条  親権を行う者は、必要な範囲内で自らその子を懲戒し、又は家庭裁判所の許可を得て、これを懲戒場に入れることができる。

http://law.e-gov.go.jp/htmldata/M29/M29HO089.html

 この「懲戒権」に体罰が含まれるのである。

親権者等は、必要な範囲でみずから懲戒することができる。懲戒のためには、しかる・なぐる・押入に入れる・禁食せしめるなど適宜の手段を用いてよいであろうけれども、いずれも「必要な範囲内」でなければならない。(於保不二雄編『注釈民法(23)』p.94、強調は引用者)

暴力についての二重基準

 著者は虐待問題にかんして、この懲戒権が国会審議でどう扱われたかを追っていく。その結果、懲戒権の行使において暴力=実力行使がふくまれることが今も正式に認められていることを明らかにするのである。

 著者はいったん、虐待と体罰の区別について、小児科医・坂井聖二の見解、

子どもの虐待という概念の本質は、加害者の動機・行為の質にあるのではない。「子どもが安全でない」という状況判断がそのエッセンスである(p.39、強調は引用者)

――これを厚労省もひきついでいる、と解釈し、そこにこの区別を見出す。いかに愛の鞭という動機にみちて教育的計画に緻密にのっとったものであろうと、子どもが危険にさらされていたら、それは虐待ですよ、というわけである。
 とはいえ、そのような区分は現場ではあまり役に立たないのではないか、とぼくは感じる。なるほど子どもが激しく衰弱するような激しい暴力はわかりやすい。だが、身体的に急激な危機をもたらないけども、ゆっくりと暴力への屈従を植えつけられ緩慢に子どもの心を殺していくような恒常的な「低度」の体罰はどうであろうか。概念的にはそれは「安全ではない」といえるのだが、区分はつきにくいだろう。

 川崎自身もそうしたことへの危惧があるのではないか。
 懲戒権によって暴力行使が認められているという現実は、「微妙な二重基準」だとして、

換言すれば、これは児童虐待とは何かについての社会的な合意形成がまだできていないことを示しているといえよう。それは保護者の混乱を招き、児童相談所の実務においても、陰に陽に困難さをもたらす要因になっているのである。(p.43)

と批判的に書いている。著者は川崎市で(家庭をふくめた)体罰禁止の条例(川崎市子どもの権利に関する条例)

第19条 親等は,その養育する子どもに対して,虐待及び体罰を行ってはならない。

http://www.city.kawasaki.jp/25/25zinken/home/kodomo/jourei.htm

がつくられたことを肯定的に紹介しているように、基本的には家庭教育においても体罰という暴力を公式には追放すべきだ、と考えているのだろう。

体罰に絶対に効果がないとは言わないが公式には禁止すべき

 この問題はどう考えるべきだろうか。
 かくいうぼくだって、個人体験でいえば、小さい頃、家にあった貯金箱からお金を勝手に使って(ある意味「盗んで」)親にバレ、激しく叩かれた経験がある。それが「盗み」という行為への絶対的恐怖や悪の観念を、自分の体に刻み込んだ、というふうに解釈(教訓化)してきた。だからぼくには「体罰によって立ち直ることがある」という主張がものすごく「理解」できてしまうのだ。
 しかし、同時にそう主張する人たち自身の多くは暴力が文化土壌にあり、手軽な屈服の武器、自らの教育的未熟を糊塗する便利な道具として「体罰」という名の暴力を頻繁に使うのを見る。カッとなって叩く以上のことはやってないだろお前ら、というような状況だ。

 ぼくは言葉や態度によって子どもに諭すべきだと考えているし、一般にも体罰は使うべきでないし、自分でも使わないと決意している。体罰を使う人間は言葉や態度によって教育する力や自信がないのであろうとも思っている。

 そのうえで。

 ぼくは事実の問題として「体罰という暴力が教育的懲戒としての役割を果たすことはどんなことがあっても絶対にない」というふうには言えないと思う。本当に悔い改めるという人がいるんだろう。ぼく自身もそうであったように。ただし、それは教育における決定的な重大事にのみ発動されるべきだし、しかもそれを受けとめることのできる子どもの水準が必要になると考える。
 だとすれば、公式には(親であっても)体罰は禁止しておいたほうがいい。
 もしどうしてもそれが言葉や態度で示せない、暴力(体罰)を使うしか教える道がない、という周到な計画と強い決意があるなら、親自らが法で罰されることを覚悟して体罰を行使すべきだろう。もしそれが本当に教育的効果をもつのなら、子どもは告発しまい。

「暴力を受けた人間の方が他人の痛みが分かる」?

 いわんや、「暴力を受けた人間の方が他人の痛みが分かる」などというのは悪い冗談にもならないテーゼである。もしこれが本当なら、虐待で瀕死の子どもたちこそ最も痛みがわかる人間であるし、戦争で暴力をうけた人間こそ痛みがわかる人間だし、コンゴ民兵の集団強姦を受けた女性たちこそ一番痛みが分かる人間であろう。ひとは、ぜひともこうした暴力を積極的に受けることで、「大変立派に育」つべきだというわけである。
 「暴力を受けた人間の方が他人の痛みが分かる」というテーゼがなぜか正しく思えてしまう瞬間があるというのは、暴力を受けた人間が深い傷を抱いてその痛みを感受する場合が確かにあるからだ。なるほどそれは他人では言い表せないほどの傷の深さからその暴力を告発しうる。たとえば戦争体験者が自らの体験をもって「もう二度と戦争はしてほしくない」と証言するような場合だ。だが、話者はそれを聞いた人々に戦争暴力を体験せよとは決して言うまい。言葉=ロゴスによって理解し、実行できるからだ。癒えがたい深い傷を抱く必要などどこにもない。
 他方で、暴力を受けた人が痛みが分かるどころか、憎しみをもってその痛みを他人に転嫁させることもまた山のように事例がある。児童虐待でいえば、世代間連鎖を起すことがしばしば言われているし、戦争でも「二度と戦争しないでほしい」などという感情など微塵も生まれず、加害民族に対する報復感情となって凄惨な暴力を再現してしまうことは枚挙にいとまがない。

 体罰は公式に禁止されるべきだし、ぼくも決して使わないだろう。