児童虐待問題でのネット上の論争を読んで

 3歳の娘がいる身にとって、児童虐待事件の報道はただちにそれを自分の娘に起きたこととして置き換えさせてしまうものである。つれあいはどれもつらくて読めないようで、記事について話題にしているだけで本当に涙ぐんでいる。
 大阪の2児餓死事件は、一人が娘と同じ3歳だけあってなおさらだ。
 餓死という状況だけでなく、暑くて服をぬいで全裸で死んでいたとされる。自分の娘を見ていると3歳児で上着を脱ぐことはなかなか難しく、にもかかわらず脱がねばならなかった状況とはよほどの灼熱地獄だったに違いない。飢餓と暑さの責め苦を長期間受けて絶命していく2児の姿を、自分の娘に置き換えてしまうともう涙が止まらない。胸塞がる思いである。

加害の母親に責任があることはまったく当然である

 別に子持ちの親でなくとも、こうした虐待に対して、加害者への憎しみは強く掻き立てられる。おまけに母親がその間にホスト遊びに狂っていた、という情報があれば、特段ネットの反応を証拠として示さなくてもそのことは容易に想像できるだろう。

大阪2児遺棄事件 下村早苗容疑者のmixiやブログには幸せだった過去が - にゅーす特報。
http://news109.com/archives/3443160.html

 まずこの問題を考えるうえで、「自己責任」論を批判する立場から、母親の責任を言い立てたりすることを「おかしい」という議論があるが、それは明確におかしい。2児を遺棄したという明確な罪を犯した以上、母親の行為は責められて然るべきものだ。犯罪という要素は決定的である。「派遣切り」や生活保護など貧困の問題で個人に責めを負わせるかどうかという話とは、明確に区別される。どのような社会背景があるにせよ、この母親には2児を遺棄したことへの社会的制裁の言葉を浴びる義務があるとぼくは思う。

二つの問題関心:発生予防と初期対応

 しかし、市民(公民)たるぼくらは、この母親への罵倒を連ね、理解不能な事件として終わらせるわけにはいかない。実際、多くの人々は、「こういう事件は防げないのか」という思いを強くしたに違いない。それは「DQNには出産を禁止すればいい」などという無責任な対策を放言してフタをするわけにはいかないものである。

 「こういう事件は防げないのか」という思いは、さらにその思いに分け入ってみると、次の二つの問いになっていることがわかる。
 第一は、飢餓と暑さに苦しむ2児の前に児童相談所の職員がほんのドア1枚前まで到達しながらなぜこの事件を防げなかったのか、ということ。第二は、児童虐待事件の報道が続いており、そもそも児童虐待自体をなくしていく(減らしていく)ことはできないのか、ということ。

 この2つの関心は、児童虐待への対策の分野でいえば、第一の問題は初動・初期対応の問題であり、第二の問題は発生予防にかかわる問題である。どちらも独自にきちんと考えないといけないことだ。

 ネット上では、児童虐待の問題をめぐって、いくつかのエントリが話題になった。

誰が何をネグレクト? - Chikirinの日記http://d.hatena.ne.jp/Chikirin/20100801

児童虐待を減らす為に - 俺の邪悪なメモhttp://d.hatena.ne.jp/tsumiyama/20100802/p1

 これにどちらもかみついたのが、切込隊長こと山本一郎である。

ちきりん女史が、今度は育児ネグレクトで幼児2人死亡の事例で釣魚記事http://kirik.tea-nifty.com/diary/2010/08/2-b512.html

罪山罰太郎氏の「児童虐待を減らす為に」議論を、保守主義的観点から否定する
http://kirik.tea-nifty.com/diary/2010/08/post-9158.html

 そして、切込隊長の批判をさらに批判した地下猫がTwitterで論争をする。

切込隊長と地下猫氏、育児放棄の事件についての深夜のやりとり - togetterhttp://togetter.com/li/39714

 この一連の論争は、非常に大ざっぱに分けると、山本一郎vsその他という構図になっており、山本の関心が「初期対応」であるのに対して、その他の人々の関心が「発生予防」にあることがわかる。しかも「発生予防」提案の重点が貧困対策におかれており、社会的排除をなくす問題とあわせても「貧困・福祉政策の充実」というのが回答になっている。

 結論的に言えば、この二つは児童虐待対策として、どちらも独自分野として必要なものであって、どちらかを否定すべきような性格のものではない。山本がいちいちかみつくような問題ではないと思うのだ。じじつ、山本自身も、

大枠の貧困への対策は生活保護など政策的枠組みを用意するにしても、児童虐待などピンポイントの問題については、飲酒運転への徹底取締り同様に(もしどうしてもそのような虐待を減らさねばならない、という社会的コンセンサスができるならば、の条件付で)厚生労働省警察庁の立ち入り権限を強化する方向で解決するほうがコスト的にも件数・事案的にも望ましいと考えます。

http://kirik.tea-nifty.com/diary/2010/08/post-9158.html

と述べているように、「大枠の貧困への対策」の必要自体は認めているのである。


発生予防における貧困対策の重要性

 貧困対策・一般福祉の充実は、すでに上記エントリを書いたブロガーたちが述べている通りであるが、いくつか付け加えさせてもらう。

子どもの貧困―日本の不公平を考える (岩波新書)
 国立社会保障・人口問題研究所の阿部彩は『子どもの貧困』において、児童虐待につながった家庭状況を複数回答で担当者にきいた、東京都保健福祉局のデータ分析を見ながら、

「孤立」や「育児疲れ」が、虐待の原因として着目されることが多いが、一番多い回答は「ひとり親家庭」と「経済的困難」であり、一位に「育児疲れ」とした場合においても、「経済的困難」が複合的な状況として挙げられている。「育児疲れ」や「孤立」というと、幼い子を抱えながら、まわりに相談相手もおらず、ひとりで深夜にしか帰ってこない夫を待っていて、精神的に追い詰められる主婦を連想するが、そのようなケースはむしろ少ないと考えられる。

 日本で、貧困と虐待の関係性が議論されてこなかった理由の一つには、「貧困者=児童虐待者」というイメージを固定させてしまうような差別を避けたいという配慮もあると考えられる。しかし、虐待を発生させてしまうような家庭の経済問題に目をつむってきたことにより、虐待を防止する本当に必要な手段が講じられてこなかったといえる。(阿部p.12-13、強調は引用者)

と指摘。そのうえで児童相談所職員を中心につくられている全国児童相談研究会の提言(2004)を紹介している。この提言では

 虐待をおおもとから防ぐ施策、条件整備こそが必要です。児童虐待の背景には深刻で複雑な養護問題、広い意味での貧困問題が隠されています。安定した仕事がない、低賃金で長時間労働、不規則な深夜勤務、家賃が高く狭い住宅、子どもを一時保護できる施設や保育所の不足、高い保育料、等々の問題が虐待の背景にあるといっても過言ではありません。児童虐待対策そのものの充実とあわせ、児貧困対策・労働対策など広く国民生活全般を支援することに思い切って「社会的コスト」をかけねばなりません。

とふみこんでいる。
子どもの貧困 阿部が参照した川松亮(東京都の児童福祉司)は、

 たとえ遠まわりに思えても、生活全体に関わる施策を充実させることが、家族の困難を解決し、ひいては子ども虐待を解消する道だと考える。たとえば、非正規雇用の解消などの雇用対策、生活保護の充実、就学援助の拡充、ひとり親家庭に対する経済的な支援を含めた対策の拡充、保育の充実、無償の医療の提供、住宅対策の拡充、教育機会の拡充等、まさに幅広い施策が子どもの虐待のリクスを減らすための基盤となると考える。
浅川春夫・松本伊智朗・湯澤直美編『子どもの貧困』p.107-108

として、提言でのべられたような

 この「社会的コスト」をかけるという社会的合意を形成していかなければ、児童虐待解消は現実のものになっていかないと考える。
(同前p.109)

とまで言い切っている。
 この視点が薄いことは、たとえば最近、児童虐待の相談が「急増」(西日本新聞10.7.29)し、死亡・重体ケースが目立つ福岡市の「新・福岡市子ども総合計画」を見ても、児童虐待の対策項目にはこの視点がほぼ皆無であることからもわかる。

新・福岡市子ども総合計画http://www.city.fukuoka.lg.jp/kodomo-mirai/k-kikaku/shisei/sinkodomokeikakusakutei.html

 8月10日に福岡市で開かれた、市が中心になっている推進委員会主催の、子ども虐待防止シンポジウム「虐待死ゼロのまちをめざして」でも貧困対策という角度はほどんどなかった。

 だから、ぼくは、児童虐待の発生予防対策として、貧困対策・福祉の充実をあげることは決して「低質」な議論ではないと思う。

 切込隊長は、そんなことをいえば、多くの犯罪は貧困と結びついているじゃないか、それは「体調が悪いときにはビタミンCを飲みましょう」という程度の主張にすぎないというむねのことを主張する。

 しかし、たとえ犯罪一般の問題として考えたにしても、「治安対策として貧困の削減をする」ということは果たしてくだらない一般論だろうか。さっきも述べた通り、結局山本自身も大枠での貧困対策の重要性を認めているのだから、こういう噛み付き方はいかがなものかと思う。
 山本の比喩で何か「いかにも役に立たなそうな正論」のように思わされてしまうのだが、これはあくまで比喩であって、別の比喩を用いるなら「ゴキブリにはホウ酸だんごやゴキブリホイホイ、殺虫剤が有効ですが、そもそもゴキブリが出ないようにするには残飯と水をきちんと処理することが必要」と説くことに似ているのではないか。まあ比喩なんでどうでもいいんだけど


初期対応を論じないことへの危惧

 だが。
 他方で、山本は初期対応というか、虐待が起きてから、あるいは起きつつある、起きてさらに継続しそうだ、というような状態のときに、何をなすべきかをもっと議論した方がいいのではないか、ということに焦燥とまでいえるほどの情熱を傾けているように見える。
 そういう問題関心を強く持っている人にとって、たしかに「貧困削減」というような方策は「役に立たない」議論のように思われるのだろう。さっきの比喩でいえばゴキブリが今そこで出ているのに「残飯と水をきちんと片づけましょう」とか言われても、という気持ちに違いない。

どんな犯罪者だって、犯罪にいたるまでの状況や経過、心理というものはあり、情状酌量の余地があっても犯罪を犯したからには犯罪者であり、犯罪を犯さなくて済む心理的状況を社会的に作り上げるべきと言われても、「じゃあどうすればいいんだよ」という話になります。で、結果が上記の「貧困をなくそう」というのは議論として極めて低質で、釣り要素満載だと思います。一番防犯に役立つのは地域パトロール(警邏)だった、というオチでありまして。

http://kirik.tea-nifty.com/diary/2010/08/post-9158.html

大枠の貧困への対策は生活保護など政策的枠組みを用意するにしても、児童虐待などピンポイントの問題については、飲酒運転への徹底取締り同様に(もしどうしてもそのような虐待を減らさねばならない、という社会的コンセンサスができるならば、の条件付で)厚生労働省警察庁の立ち入り権限を強化する方向で解決するほうがコスト的にも件数・事案的にも望ましいと考えます。

http://kirik.tea-nifty.com/diary/2010/08/post-9158.html

 山本は、そもそも児童虐待が目に見えてかわるほどの規模での貧困対策を充実させる財源なんてないんだから、初期対応での介入をきちんとさせた方が効率的だ、と考えているわけである。
 ゆえに、山本は個別事案の検討の分析にこだわる。
 Twitterでも

個別事例を積み上げて対応策を考えていくことが最善の方策であると私は主張している

http://twitter.com/kirik/status/20238394559

と述べている。

 まず、発生予防の方にだけ話がいってしまい、初期対応をどう効果的に行うか、という議論が忘れ去られてしまうのは、たしかに片手落ちだ。そこに警鐘を鳴らす山本の問題意識は共有しうる。そこの議論もせずに貧困対策で話を「終わらせてしまう」ならば、なるほど山本の気持ちになってみれば「低質」な議論のように思えてくる。


個別事案を教訓化するのはいいがなぜ悲劇は後を絶たないか?

 ただ、その中身についてはどうか。
 「個別事例を積み上げて対応策を考えていくことが最善の方策」と山本は言う。
 実は、児童虐待防止法は、4条5で、

国及び地方公共団体は、児童虐待を受けた児童がその心身に著しく重大な被害を受けた事例の分析を行うとともに、児童虐待の予防及び早期発見のための方策、児童虐待を受けた児童のケア並びに児童虐待を行った保護者の指導及び支援のあり方、学校の教職員及び児童福祉施設の職員が児童虐待の防止に果たすべき役割その他児童虐待の防止等のために必要な事項についての調査研究及び検証を行うものとする

として、自治体や国に分析する責務を負わせている。
 福岡市でもたとえば重大事件のたびに検証報告書は出ている。
 一つ例をあげてみる。
http://www.city.fukuoka.lg.jp/data/open/cnt/3/21796/1/220519.pdf

 この事件では、福祉事務所家庭児童相談室を母親が訪問した翌日に子どもを殺している。
 ところが報告書では、

今回は、事件前日の12月24日に1回相談を受けているが、相談内容についても家庭の問題に関することであり、翌日の心中企図(死亡事例)を予測できるものではなかった。相談機関として虐待防止は困難であったと思われる。

家庭問題についての初回の相談であるため、翌日の心中企図(死亡事例)を予測できるものではなかった

とくり返している。いやいやいやいや。そこじゃないんじゃないか。この責任回避の言葉の後に来ている、

相談員や職員が相談内容等から子どもの視点に立った虐待リスクアセスメントの技術向上が求められる

という点にこそ、教訓が求められるんじゃないのか。別の言い方をすれば、見抜く目を持った専門性の向上ということだ。事件が起きた2008年の福岡市の児童福祉司は22人だったけど、すべて行政職。専門職は1人もいなかった(2009年から専門職は1人、10年に4人に)。つまり、昨日まで土木部署にいたような職員が転勤でやってきてにわかに通信教育で「児童福祉司」の資格をとり、2〜3年でまた転勤していく、というような状況である。
 児童虐待の専門家である関西学院大学教授の才村純は、

児童虐待で一人前の担当者になるには10年かかると言われるが、実際には2、3年で担当がころころ変わり、経験の蓄積もノウハウの継承も難しい状況にある。素人集団と思わざるをえない児相もある。(読売新聞10.8.17)

と指摘する。責任があるのかないのかという話じゃなくて、児童虐待を教訓化しようというなら、そここそ掘り下げるべきではないのか。
 さらに相談室には来たけど、本当の困難を話していない、ということについて、同報告書は、

困難を抱えているにもかかわらず相談援助を求めない親

などと括られている。行政まで来てSOSを出しているのに「求めない親」の問題かよ。違和感を抱かざるをえない。
 さらに、事件の「分析」として挙げられている3項目のうちの一つは、

心中に関する日本人の特性として、心中を企図する親は 「子どもを残したらかわいそう」という子どもと一体化、子どもを私物化している心理状態にあり、すべての子どもは固有の生きる権利を有するとの認識に欠けることが上げられる。

「すべての子どもは固有の生きる権利を有するとの認識に欠けている」とか言われても。そりゃ、ぼくもこのケースの何を知ってるの、と言われたら何も知らんよ。でもこの検証報告書の「おざなり感」はどうしてもぬぐえないんだよ。
 検証報告書は山積みされる。そこには教訓や反省点も載る。だけどそれは本当に生かされるのだろうか? なぜ児童虐待はくり返されるのだろうか?
 福岡市の場合、2010年2月に3歳の女児を継父が暴行して死亡させる事件がおきた。ところがその4月にやはり別の3歳女児が母親の暴行で意識不明の重体になる事件がおきた。

同市こども総合相談センターが「再婚家庭への重点配慮が必要」と話し合った直後の事件だった。(西日本新聞10.4.13)

人員と専門性の圧倒的な不足――教訓が血肉にならない体制

 福岡市の上記の報告書がクソであったにせよ、仮に「まともな分析」ができていたにしても、そのご立派な教訓は現場で生かされるのか。生かされないのは、やはり人員が圧倒的に不足しており、かつ上記でのべたように専門性が低いせいではないのか。つまり、教訓を血肉にする量と質が決定的に乏しいということだ。

児相の現場から「今の4〜5倍の人員が必要」との声をよく聞く。実際、児相は「あっぷあっぷ」の状態だ。米英やカナダ、韓国のケースワーカー1人当たりが抱える児童虐待件数は平均20件。これに対し、日本の児童福祉司は107件という研究結果がある。長時間の張り込みや頻繁な訪問をしたくても、案件が次々舞い込み、1件1件に時間をかけられない。まず児童福祉司の人員増が急務だ。(前出、才村)

最前線レポート 児童虐待はいま―連携システムの構築に向けて 個別分析を重ねていく、という方法自体は否定されるものではない。イギリスの虐待対策でも、この点が効果的であると指摘されている。

第3は児童虐待調査報告書の重みである。……すなわち、問題が起これば調査を実施し問題点をあいまいにせず明確にする。そして具体策を講じその結果を評価して軌道修正していく。イギリスの児童虐待防止制度の発展は、このような粘り強い軌道修正の積み重ねからきたものだ。(津崎哲郎・橋本和明編著『児童虐待はいま』p.199-200)

 報告書に魂が入ってなければ何の意味もないという前提は当然クリアしてもらうとしても、問題は、その軌道修正を血肉にする量と質がなければならないということである。


立ち入り権限強化は事態を解決するか?

 さらに、山本が提案する、「厚生労働省警察庁の立ち入り権限を強化する方向で解決」を検証してみよう。山本がよくやるように、「大阪の2児遺棄事件にかぎって」問題を考えてみる。
 前出の才村はこの事件について、

結果論で言えば、児童相談所(児相)の対応が甘かった。通告を受けて訪問しているが、子供の安全を確認するための張り込みや近所への聞き込みが不十分だった。(読売前掲)

 これを行えば、児童福祉法にある「立ち入り調査」へとつなげることができただろう。仮に部屋にカギがかかっていたとしたら、そこで現行の児童虐待防止法の「臨検」(強制立ち入り調査)を使うことができる。この制度は家庭裁判所の許可がいるために使用のハードルが高い、という議論がある。しかし、才村はこの点を批判して、

より緊急性が高いと判断すれば、保護責任者遺棄容疑で警察に立ち入ってもらう方法もあり、現行の仕組みを駆使して対応できた可能性がある。(才村、前出)

と述べる。聞き込みを前提としなければ、「立ち入り権限を強化」は「誰が住んでいるかもわからない状況で公人がカギをぶちやぶって入る」ということになろうが、「通報→返答がない→いきなりドアをぶちやぶって入る」という流れになる。そんな途方もない権限強化が可能だろうか。もちろん法改正すれば何でもできるといえば何でもできるが、法体系上、相当な飛躍が必要になる。

 それは人命よりも法体系を重視するからではなく、こうした権限強化は、まず、児童相談所の「福祉警察」化をすすめることになるという危惧からである。もう一つは、権限強化だけあっても、体制がなければただ業務がふくれあがるだけだという危惧からである。

 児童相談所は長い間、ケースワーク主義の流れにあった。つまり問題のある家庭とじっくりと信頼関係をきずくことで粘り強く問題を解決していくというものだ。現場にいる専門家たちもこれで育てられてきた。しかしこの流れだけでは、子どもを緊急かつ効果的に救済できずに死なせてしまう事件が続発し、権限を強化された「介入型」とよばれる解決方法が登場した。
 いわば福祉的機能と、警察的機能という、少なくとも表面的には対立する二つの機能を兼ね備えることになったのである。学校で言えば「生活指導」の強面の教師と、お悩み相談をする「保健室の養護教諭」が一体になったようなものだ。

現行の児童虐待防止法では、介入機能とケースワーク機能を児童相談所の役割と位置づけている。しかし、社会的介入(親子分離)と援助(親指導・支援)という互いに矛盾する役割を児童相談所だけに担当させることにはもともと無理がある。二つの機能を委ねることで、相互の牽制も働かない。社会的介入は子どもの安全確保をなによりも最優先にした対応である。危機介入の権限については、警察の役割としても位置づけるべきでる。(岩城正光/NPO「日本子どもの虐待防止民間ネットワーク」理事長・弁護士/朝日新聞10.8.12)

 ぼく自身は、この両者は本質的には矛盾するものではなく、ケースワーク主義を基本にしながら、緊急の場合に効果的に介入をおこなう、という統一をすれば、十分有効な救済策になると考える。事実、「子どもの迅速な安全確保という点では飛躍的効果を発揮することとなった」(津崎・橋本前掲書p.20)。
 しかし、同時に、

親との摩擦・トラブルという点では新たな困難を招致することになった。いきなり外部から介入を受け、状況によっては職権で子どもを保護されることになった親が、すんなりとそれを認めることは少なく、多くの親が児童相談所に押しかけ、何時間あるいは何日にもわたって職員への恫喝や押し問答が繰り広げられる事態が全国的に蔓延している。この結果、職員がノイローゼに陥ったりバーンアウトしてしまって職務を離脱し、それを補完するために他の職員が一層苦境に立たされるという悪循環が生じているのである。(同前)


 「警察だ」といって手帳を見せれば、ふつう、人はふるえあがる。たとえ警察がやる違法めいた強引な捜索や聴取だって、「たぶんそんな権限をもっているんだろうな」というあきらめのもとに、警察のやることに普通の市民は悄然と従ってしまう。警察とはザ・権力だからである。警察の機能の強化とはそういうことである。
 「児童相談所だ」といって手帳をみせるや否やふるえあがるような時代がくれば、たしかに効果的にふるまえるケースはあるだろう。しかし、そんな人たちに悩みの相談などなかなかできるものではない。圧倒的多数をしめるケースでは親との関係がこじれてしまう危険の方が大きいのである。ましてや、多くの場合めざされている「家族統合」など夢のまた夢になってしまう。

 実は、この点は切込隊長自身が地下猫との論争なかで心配していることであった。

過去8年間、児童養護施設を支援する活動を続けてきて思うのは、本当に施設に入る生活が子供たちにとって幸せなのか、介入するべきだったのか、という部分。自分に子供ができたというのもあるが、そのあたりがどうしても割り切れぬ。

http://twitter.com/kirik/status/20240325273

どちらかというとアフター、つまりDVからの保護を進めるとその子が血縁から切り取られる感覚もまたあるからで、一方的な保護だけではなく回復も考えねば対策にならぬ。

http://twitter.com/kirik/status/20240449758

 

権限が強化されても体制がなければ仕事が増えるだけ

 さて、ぼくが述べた第二の点については、前出の才村の言葉をそのまま引用しておこう。

児相の権限強化を求める声もあるが、新たな権限を与えても、児相の業務が膨れあがるだけだ。現在の体制では、子供が命を落とすケースをなくしたくても限界がある。必要なのは児童福祉司の増員と専門性の向上。一度に両方は難しくても、今こそ乗り出すべきだ。(読売前掲)

 山本は、

今後、児童関連福祉の予算拡大や人員強化が進むとは考えづらい。

http://twitter.com/kirik/status/20240670626

とあきらめている。あきらめているからこそ、そこに期待はしないロジックをたどるのかもしれないが、山本の期待はこの問題を避けては絶対に実現しない類のものだ。


 一番最初の問題意識に立ち返って、もう一度まとめをすれば、まず発生予防という点で「貧困対策」は決してくだらない一般論ではなく、重要な対策であるということ。初期対応という点では、さまざまな改良点があるが、権限強化よりも現行法での手だてを効果的に活用でき、また個別事件の反省を行かせるような人員増強と専門性の向上が不可欠だということ。児童相談所の警察的権限の強化ではなく、警察自体が福祉への理解を深め、児童相談所との連携のもとで、効果的に介入すること――などがぼくの考えた結論である。

 ちなみに、「貧困対策という一般施策を充実していくことが虐待対策になるというロジックにはどうにもひっかかりを感じる」という点ではイギリスの改革が参考になるかもしれない。イギリスでも児童虐待防止の観点から制度改革をおこない、そのうちの一つとして、サービスの統合と早期予防介入が指摘されている。

 イギリスでは「子どもの潜在能力の開花・達成を阻害するあらゆる要員からの保護」という形で、一般的なサービスの中に「早期介入」という役割をもたせ、

児童虐待の原因となる児童貧困や社会的排除の予防策として低所得者層をターゲットにした総合的な家族支援や経済的支援を実施する。
(津崎哲郎・橋本和明編著『児童虐待はいま』p.200)

 いわば、一般的な貧困対策と児童虐待防止対策を、論理上、整合的におこなえる視点を導入しているのだ。

 



そもそも児童虐待数は増えているのか?

 さて、最後に児童虐待の問題で、「そもそも児童虐待数は増えているのか?」という問題もネットを賑わわせたのでこの問題も考えておく。これまでの話とも関連する。
 「少年犯罪データベース」で、管理人(管賀江留郎)は、幼児他殺被害者数が戦後全体を通じて、劇的ともいえる傾向的下落をしていることをデータにもとづいて明らかにしている。

児童虐待についての基本データ - 少年犯罪データベース
http://blog.livedoor.jp/kangaeru2001/archives/52175200.html

 児童虐待は暗数の顕在化や人権意識の高まりで基準が変化したりするので、長期の一貫した統計がなかなか出にくい。「統計の中でも時代による基準のぶれがないのは他殺統計くらい」(管賀)なので、幼児他殺被害者数の動態は児童虐待の傾向を考えるうえで一つの参考になる(あくまで参考である)。

貧困削減と人権意識の高まり、と推測する

 このデータからは児童虐待そのものが減っているとは言えないのだが、幼児他殺被害者数が対極的に減ってきていること原因は、大局的には(1)絶対的な貧困が緩和され、(2)人権意識が高まってきているせいではないかと思う。殺人が戦後最低ラインを記録しているのも同じ理由ではないか。このデータ自体はそれらについて何も語っていないが、ひとつの自然な推論のはずである。*1

 山本は児童虐待問題というものを、

個人的には、核家族問題の一種だとも思っている

http://kirik.tea-nifty.com/diary/2010/08/post-9158.html

と考え、Twitterでも

貧困ライン以下に落ちている理由は母子家庭も含む核家族化が極度に進行しているから

http://twitter.com/kirik/status/20205221541

と述べている。断片的で論旨が汲み取りにくい……つーか俺の頭が悪いだけかもしれないのだがw、おそらく核家族化が貧困化と孤立化をすすませやすくしてしまっているのだと言いたいのではないか。貧困化と孤立化は奥底に核家族化を含むというわけだ。
 しかし、核家族化は戦後一貫して進行しているが(1960年には世帯当たりの人口は4.14人、2005年には2.55人と半減している)、幼児他殺被害者数は長期的に下落している。他方で、1人当たりの名目GDPは1960年の17万円から2008年の402万円へ大幅に伸びている。

 貧困の削減が児童虐待に効く、ということをこのデータは述べているのではないかと推察できるがどうだろうか。まあ、くどいようだが、山本も大枠での貧困対策は認めているんだから、ここであんまりしつこく主張する必要はないんだけど。加えて、ホントに「推論」というか直感にすぎない、穴だらけの議論なので、ここは突っ込まれても困る。

 ただ、これはあくまで大局的な考え方、感触である。
 たとえばここ10年で児童虐待数が果たして絶対的に減っているか増えているかはわからない。統計でどんどん数値が増えているのは、よく「暗数が表に出てきただけ」というけども実際に増えている可能性もある。そして仮に増えているにしても、その背景に、この10年での貧困の広がり、もしくは相対的貧困の増大という問題が存在する可能性もある。いずれにせよ、その真相はよくわからない。*2

 ましてや、管賀のデータを見て「児童虐待は減っている。たいしたことはない」と結論づけることこそ早計である。今述べたように、他殺以外の児童虐待は減っているかどうかわからないし、仮に「減っていた」としても、今まさに虐待で殺されようとしている子どもにとっては統計が増えたか減ったかなどはどうでもいい問題だからである。

*1:ちなみに管賀は同記事で昔の殺害理由は「貧困」ではなかった、というような「余計」なことを書いているが、そういう粗暴さも含め「貧困」なのであり、管賀自身がよく言っているように、それこそ「おしゃべり」をやめるべきだろうと思う。

*2:この10年でいえば児童虐待による児童死亡数はほぼ横ばい。 http://bit.ly/bnOFnc児童相談所が関与していながら児童が死亡する事件は、2003年50.0%、2004年31.3%、2005年19.6%と着実に減少しつつある」(才村純/津崎・橋本前掲所収