石川雅之『もやしもん』9巻 浅川芳裕『日本は世界5位の農業大国』

 主人公は菌が見える! 農大マンガ『もやしもん』が字だらけ、解説づくめであることについては、いずれ論じるかもしれないが、今日は9巻で書かれている食料自給率論争について。

常識を覆す爽快感としての自給率政策批判

もやしもん(9) (イブニングKC) 食料自給率は低い、これを向上させねば、という議論は、ぼくが小学生のときからすでに「天ぷらそば」という「和食」が自給率20%なんだぜ、という例とともに喧伝されてきた。だから、自給率という考えやそれを向上させるという意識はすっかり国民に定着している。実際今度の参院選マニフェストや公約に「自給率向上」の言葉や政策がない政党は「新党改革」くらいなものだ。

 そういう「国民的常識」を覆すのは無上の爽快感がある。
 覆された方も「これで今日から俺も情報強者!」と意気込みたくなること請け合いである。

 主人公・沢木が出入りしている研究室の先輩院生・長谷川遙が、小坂なる学生の自給率研究にいちゃもんをつける

日本のカロリーベース食料自給率40%ってのは
その数字だけ見て
危機 盛り上げても
何の意味もないのよねー

要は食料自給率問題なんて問題は
存在しないとあたしは思うのよね
ただのブームなんじゃない?

 やはり長谷川と同じ研究室の学生である武藤葵は、「自給率ってそんなに意味ないモノなんですか?」という小坂の反問に次のように言う。

意味ないとはあたしごときが言えないけどさ
ひとくくりに40%って盛り上がるのは
無理があるとは思うのよ

 ここでは長谷川と武藤との間に人格的差異はない。どちらも作者である石川雅之の「代弁」をしているイデオローグとしてのキャラクターである。
 長谷川=武藤の論理はどうなっているのか。少し入り組んでいるので、きれいにそれを紹介することはできない。乱暴にまとめると以下のようになるだろう(さらにいえば、沢木が出入りしている研究室の樹慶蔵教授は、最後のコマでもっそ小さな字で自給率論批判を展開している。その趣旨もふくめる)。

  1. 自給率が低いっていうけど、それは飼料自給率を含んだ数字だから。米は100%だけど麦やトウモロコシを家畜飼料として大量に輸入するんでこんなに低くなる。小麦なんかこの10年で収量は倍増し、重量だけでいえばミカンやリンゴくらいはあるんだぜ。卵なんか100%自給なのに、飼料が輸入なんもんだから自給率は10%になっちゃうんだ。
  2. 食が欧米化したんだから、その欧米化した部分は輸入に頼るのは自然じゃね? なんで国産国産って目くじらたてんの?
  3. 食料自給率で騒いでるお前ら=消費者は食べ残しいっぱいしてるだろ? 食料輸入量の半分以上に相当する莫大な量捨ててるんだぜ。食べ残しを無くす方が、自給率の数字で一喜一憂するよりもはるかに実践的な態度だよね。
  4. カロリーベース自給率はカロリー(熱量)が基準であって、栄養ではないから、カロリーを満たした自給率100%の食事になっても、栄養バランスを欠くことになる。

となる。もう一つ、バーチャル・ウォーターやフード・マイレージも組み込んでしまう考えを批判しているのだが、これは1.と同じ。「理論がそもそもを離れ宙に浮き始める」という理由で樹=石川は非難しているのがわかる。

もやしもん』は自給率政策を批判しているのか?

 ただ、『もやしもん』の自給率政策批判は、何となくはっきりしない。

要は食料自給率問題なんて問題は
存在しないとあたしは思うのよね

とまで長谷川=石川は言っている。
 そして、“食が欧米化したんだから、その欧米化した部分は輸入に頼るのは自然である。国産にこだわる理由は乏しい”というロジックはかなり根源的な自給率政策批判のように聞こえる。ここまで言えば、「必要なものは輸入すればいい」という完全な開き直りになるからである。

 ところが、

意味ないとはあたしごときが言えないけどさ
ひとくくりに40%って盛り上がるのは
無理があるとは思うのよ

という武藤(「ごごごごめんね!」と謝っている)においては、さすがに自給率政策や自給率という数字そのものまでは否定しきれずに、自給率の細かい数字にこだわるな的な議論へとボカシをかける。

 あえて、武藤・長谷川=石川の気持ちを勝手にくみとるとすれば、次の2つにまとめられるのではなかろうか。

  1. 自給率を上げるために国産を神聖化し、何が何でも国産農作物の増産をし、消費者としての我々もそれを至上のものとして農業や市場に望むことは無理がある”
  2. “そもそも食の安全として国産を求めるというような態度は、我々(「アフタヌーンイブニング」読者層)の日常でそんなに強く考えてないでしょ? 外国農産物ばっかりのコンビニ弁当とか外食しているじゃない。むしろ食べ残しをしない、ということの方が食料問題にたいするはるかに役立つ、そして実践しうる態度ではないか”

 結論からいえば、ぼくが勝手にまとめた石川の2.の論点には賛同できるし、1.の論点にも「国産=安全」という無前提な神話を批判するうえでは賛同できる。だが、それに自給率批判をからめるのは、論理的な必然も乏しいし、昨今の流行に乗ったという批判を免れ得ない
 食べ残し問題は、自給率批判にふみこまなくても、国産神話への批判だけで十分に展開できるものである。自給率にまで懐疑的なまなざしを送るのであれば、もっとふみこんだ議論をしなければならないはずなのに不用意にその領域へ立ち入っているという印象をぼくは受けた。

 長谷川が、決めポーズをとって、

要は食料自給率問題なんて問題は
存在しないとあたしは思うのよね

などと宣告するようなものではないはずだ。

論争問題としての自給率

日本は世界5位の農業大国 大嘘だらけの食料自給率 (講談社プラスアルファ新書) 自給率という数値目標の政策化は、冒頭に述べたように、ほとんどの政治勢力の合意になっている。つまり日本における圧倒的多数派である。
 にもかかわらず、この政策には、以前より農業における「構造改革」派からの批判がある。自給率にこだわるような政策はちゃんちゃらおかしい、というわけである(ただ、依然として自給率政策は国民多数の合意を得ているので、この批判はあまり浸透していないといえるのだが)。農業問題としてはかなりデリケートな問題なのだ。
 最近、この批判を最も俗耳に入りやすい形で著作化したのは浅川芳裕『日本は世界5位の農業大国』(講談社)であろう。
 浅川は同著で、次のような自給率データおよびその印象にたいする批判を行っている。

  • 日本は世界最大の輸入大国ではない。輸入量だけみればもっと多い国がある。(輸入−輸出)が一番多いのである。
  • 農業GDPでみると世界第5位の農業大国である。
  • 食料自給率は日本人が実際に摂取しているカロリーではなく、供給されているカロリーで計算している。食べ残し・廃棄の分も入っている。摂取カロリーを分母にすれば自給率は56%になる。民主党政権の政策目標50%をはるかに超えるではないか。
  • 飼料自給率をカウントするやり方では、いくら立派な養豚農家でたくさんの国産肉を売上げ、雇用を生み出しても、飼料のすべてが輸入なら自給率にはまったく貢献できない。おかしい。
  • 野菜は農業GDPのかなりの部分を稼いでおり、重量換算の自給率なら83%をこえるけども、カロリーが低いために、カロリー自給率への貢献度合いが著しく低い。変だ。
  • 自給率が上がる=国産が増えるのではなく、カロリー自給率の計算式は(国産+輸出)/(国産+輸入ー輸出)になっているので、輸入量が減るだけで自給率があがる。国産量が減っても、輸入量の落ち込みがそれ以上なら自給率は上がるのだ。輸入がストップし戦後直後のような飢餓状態になると「自給率100%」が達成される。
  • 生産額ベースの自給率なら、先進国のなかで第3位になる。
  • 自給率計算をし、自給率を政策化しているのは日本だけだ。
  • 国産の増産=自給率向上というのは世界的に見てズレており、強い作物の増産→大量の輸出によって自然と自給率が伸びる、というのが市場経済のもとでの農業の健全な姿だ。

 浅川の文章は啖呵を切るような調子があって、読む者はぐいぐいと引き込まれていく。ホリエモンが推薦したというのもむべなるなか、と思う。ここまで正面切って自給率政策にケンカを売るのであれば、まあそれなりの覚悟があるのかな、という気がするんだけども、『もやしもん』9巻における自給率批判は、まことに腰砕けというか、腰がすわっていない感じなのである。
 『もやしもん』はマンガという影響力の強いメディアだけでに、この程度の覚悟で書いて、何となく自給率批判の空気だけ広げてもらうのは、あまりよくないとぼくなどは思うわけ。

浅川の自給率政策批判への疑問

 浅川の自給率政策批判への疑問をついでに書いておこう。

 一つは、浅川のロジックが“構造改革をして強い農家が主体となり、輸出攻勢をかけるようになれば自然と自給率は上がる”ということであれば、浅川は自給率政策批判をする必要はなくて、自給率を向上させる対案を示す、ということになるのではないか、ということ。
 なるほど、浅川からみると現在の農政は“輸入規制や保護によって国産を増やす”という間違った自給率政策になっており、自給率政策と反構造改革が一体のもののように見えるのかもしれない。しかし、よく考えると、ロジック上は両者は別のものである。

 もう一つは、浅川は「構造改革」派のなかでも提起されている食料安保論にたいして、ほとんど有効な反撃をしていないということである。浅川は同著p.88で「食料安保という偽善」として食料安保政策を批判している。しかし、この文章は浅川が日本の食料安保政策の現状を批判しているのか、そもそも世界的にみても食料安保政策そのものが間違っているのか判然としない。そして個別の小麦需要の話にとんでしまっているのである。
 浅川は、

国際社会に共通する食料安保の考え方は、「国民が健康な生活を送るための最低限の栄養を備えているか」「貧困層が買える価格で供給できているか」「不慮の災害時でも食料を安全に供給できるか」の三点である。(浅川p.89)

とのべ、

「将来食料が足りなくなるかもしれない。どうしよう」という漠然とした不安を前提に議論をしている先進国は日本だけだ。(同前)

と日本の農政を批判しているものの、前者の「国際社会に共通する食料安保」について検討した形跡は本書にはない。小麦を輸出してきたのは米加豪の3カ国で、重要な貿易国だから輸出がなくなるなんていうのはほとんどありえない。そういう「根拠のない不信感を丸出しにする姿勢は、好戦的ですらある」(p.89)と好戦的に批判している。

農業ビッグバンの経済学 これについては、最近やはり農業「構造改革」派としてブイブイいわせている山下一仁に語ってもらった方がいいかもしれない。

 本当にそうだろうか。次章で詳しく説明するが、基調としては過剰であっても、価格が高騰し、食料危機が叫ばれたときも何度かあった。自然を相手にする食料生産では、突発的に食料不足が生じる。しかも、わずか数週間でも食べられないと、生命・健康が脅かされる。また、価格上昇などの危機に直面すると、一九七三年のアメリカの大豆禁輸のように、各国とも自国民への供給を優先する。二〇〇八年に穀物価格が高騰したときには、多くの国が輸出を制限した。

 国民の食料危機に対する評価・期待値は、「危機が生じる確率に危機が生じた場合の損失(マイナスの値)を乗じたものに、危機が生じない確率に危機が生じない場合の利益(プラスの値)を乗じたものを加えたもの」と表現することができる。食料は生命の維持に不可欠であるため、危機が生じた場合の損失とは生命にほかならず、国民にとってそれは無限のマイナスの値をとることになる。したがって、危機が生じる確率が仮に〇・〇〇一%だったとしても、食料危機に対する評価は無限のマイナスの値をとる。

 食料は生命身体の維持に不可欠であるがゆえに、わずかの供給不安でも社会的・心理的不安は大きなものとなる。大正時代の米騒動もそうだったし、一九九三年の平成の米騒動の際は、七五年前の大正時代より食生活に占める米の比重が大幅に低下しており、また、パン、牛乳・乳製品、肉類などにはまったく供給不安がなかったにもかかわらず、米が足りないというだけで社会問題化した。(山下『農業ビッグバンの経済学』日本経済新聞社、p.26〜27)

 山下はこう書きつつも、その後に、食料安保論の角度から現在の食料自給率政策の「欺瞞」を批判していく。「構造改革」派としては、よほどこちらの方が筋が通っている。

米パンってうまいの?

 さて『もやしもん』に最後にもどろう。
 さっき述べたように、ぼくは、国産を無前提に安全だとして、高いお金を出して渇望するような消費態度には疑問を持っている。この点は石川とも問題意識を共有している。さらに、国産の増産運動よりも、ドギーバッグをはじめ、食べ残しの活用や廃棄ロスの削減の方が、はるかに(ワーキングプア的な)若者にとっては実践的じゃないのか、ということにも賛同できる。
 そこは自給率批判とは切り離して考えるべきだ、ともう一度言っておこう。

 そのうえで。
 最近自分が注目しているのは「米でつくるパン」のことである。
 三洋電機がだした、米粉ではなく米粒からつくるホームベーカリーが「はてなブックマーク」で注目を集めていた。

自宅でコメ粒→パンへ 三洋電機が世界初のベーカリー器を発売 - MSN産経ニュース
http://sankei.jp.msn.com/economy/business/100713/biz1007131315010-n1.htm
http://b.hatena.ne.jp/entry/sankei.jp.msn.com/economy/business/100713/biz1007131315010-n1.htm

 ご存知のとおり、米は値崩れを起さないために、生産を調整している。単純に作らない(減反)というのではなくて、田んぼで米ではなく麦とか大豆とか別の作物をつくっているのである(転作)。ただ、

今では讃岐うどんの原料が豪州産小麦であるように、品質の劣る国産小麦の生産を拡大しても製粉会社は引き取れない。(山下、日経2010.5.13)

といわれるように、転作で低い自給率の作物をつくろうとしているが難しい。そこでやはり田んぼでは米をつくろうということで新たにおこなわれてきたのが、これを米粉飼料米にすることだった。さっきも書いたけど、日本の畜産の飼料は輸入穀物が多い。がんばってはいるものの、なかなか伸びない。そのあたりのことは『もやしもん』9巻でも、卵の黄身がトウモロコシなら黄色だが、飼料米だと白さが増すとか書いてあるし、浅川の著作でも安定的に安価に供給されないかぎりはなかなか使わないだろうと書いている。
 米粉は、すでに家庭用ベーカリーの原料として存在しているが、米粉が割高のようである。
 米粒からパンが直接できるようになり、もし味の方もパンに劣らなければ、かなり普及するのではないか。非常に単純にいえば、食料自給率を下げた直接の大きな原因はパン食だから、食料自給率を上げる力にはなる。まあ単純すぎるけど。
 だから、最近、ぼくは米からつくられたパンについて、味がどんなものなのか、関心を寄せている。市場化されていないのは、単にコストの問題なのか、それとも味がまずいせいだろうか。
 ぼくが手に入れた市販のものは、小麦(国産小麦)が85%も入っていた。
 

 だれか「コメからつくったパンはうまい/まずい」って教えてください。