ドラえもんの道具のなかで、もっともぼくが興奮したものが、これ。15巻に登場する。
気に入らない人の名前をつげてスイッチを押すと、その人が消えてしまうというスイッチで、独裁者のためのスイッチなのである(上図)。のび太は、親や友だちに責められている夢をみて、「だれもかれも消えちまえ!」と寝言をいったために、街じゅうの人が消えてしまう。
さいごは、気に入らないからといってどんどん消していったら、そこには孤独だけが残るという、「独裁者の孤独」というテーマと、粛清の行き着く先を寓意にこめた、たいへんオトナな話なのだが、子どもはそんなアダルトな説教など知ったこっちゃないのである。
とにかく、ぼくが小学生だてらに興奮したのは、街じゅうから人が消え、お店のものがとり放題で、なにをしても叱られないという世界設定だった。
「プラモデルが山のように……!」「どんなにアイスクリームをたべてもお金もいらないし、だれも文句いわん」「エッチな本も読み放題!」
ぼくは、寝床に入って、このどくさいスイッチによる孤独な世界について、かなり詳細に妄想した。自分が死ぬまで食料がもつか? とか考えて、それはカンヅメでだいじょうぶだろう、などと勝手な結論をだした。
とにかく、かなり長い期間にわたってぼくはこの妄想の虜になっていた。
ドラえもんの道具については、小学校の登下校のさいちゅう、友だちとかなり熱をこめて議論した。
「ドラえもんの道具でほしいものは?」とか、まさにそういうことを熱心にやっていた。ぼくらが学校の行帰りにだした結論は、「もしもボックス」があれば、原理的にすべての道具を手に入れることができるのではないかというものだった(「もしもタイムふろしきがあったら」とかいう具合に)。子どもらしくない、かわいげのないオチだが。
大学時代、大学の壁に、「あんなこといいな できたらいいな♪ ――潜在的ファシスト・ドラえもん」というラクガキがあって、腹をかかえて笑ったことがあった。
『ドラえもん』は、たとえば、「海底二万マイル」とか「指輪物語」のように、「あちらの世界」に行くSFではない。ぼくは、『ドラえもん』を読んで、一度として「あちらの世界」にトリップしてしまったことはない。逆に、『ドラえもん』の世界の道具を、「こちらの世界」にもちこんで、それによって、あれこれと日常生活の妄想や想像を広げたことは幾度となくある。
手塚治虫のSFを堪能するには、「あちらの世界」にいく力が必要だが、『ドラえもん』にはそういう力は不要である。だれでも『ドラえもん』の世界から道具をとりだして、自分の日常を舞台に妄想をひろげることができる。その意味で、『ドラえもん』がもつSF的な解放力は、破壊的ともいえる量と質をもっているのだ。