批評という行為

 11月14日に東京堂書店で開かれたぼくと斎藤美奈子さんとのトーク&サイン会に、いっぱいお運びいただきましてありがとうございます。

 斎藤さんとの「かけあい」はジャズのセッションのようだと思った。

 前にもそういう比喩で書いたことがある。それは全然別のものだったが。

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 質問をお互いに3つ用意していたので、ぼくはそれにどう答えるかをあらかじめ考えてきた。

 トークが始まって、用意されたものを答えようとしたのだが、どうも違うなと喋っているうちに思い直し、用意したものを放棄して、がぜん斎藤さんに振るようにしてしまった。斎藤さんという大家の胸を借りるつもりで、もっとセッションを楽しみたいと思い直したのである。もともと斎藤さんはそういうふうにしようぜと言ってくれていたんだしと。

 結果として、斎藤さんの“ライブ力”とでもいうべきベースの力に乗せられて、「演じさせられてしまった」みたいな感じ。

 まさに最近読んだ『BLUE GIANT MOMENTUM』6巻だな、と思った。

 サックスのコンペで、決勝に残った3人のうち、最初に演奏するノアは、設計された完璧な演奏をすることを試みようとしていた。

 それに対して、主人公の宮本大(ダイ)は、あくまでそこでライブをやろうとする。

 セッションによって相乗作用が起き、お互いに予定されていないものが引き出される。その時の、そこで生まれた勢いとノリで生まれる、その瞬間で火花が散るような時間芸術を展開するのである。

 ダイがたった1つの、しかし桁外れに長く、勢いのあるロングトーンを吹くことで、一緒に演奏していたバンドは「3年に1度できるかどうかの演奏をやらされちま」ったりするのである。

 あるいは、ダイが属する、レギュラーのバンドのベーシスト「よいどれのジョー」のように、「オレのベースに誰でも乗せちまう」(6巻p.21)的な斎藤さんの演奏に乗せられたそんなライブだった。

 


批評とは何か

 トークは終わったのだから、今さらそれに付け加えることは野暮を承知で書くけども、終わった後に、複数の人から、ぼくが斎藤さんに出した質問、「なぜ斎藤さんは批評をやっているのか? あるいは批評の意義は何か?」という問いに対して、斎藤さんの「批評とは何か」の答えが興味深く、全体として「批評という行為」を考えることに、注意を引かれた人がそれなりにいたようだ。

 その中で、斎藤さんは「文学賞というのは批評的な行為ですよね」とぼくに確認してきたが、ぼくはちょっと考えて「ある意味そうだと思います」と返した。

 なんだか自分でも歯切れが悪いなとは思ったのだが、斎藤さんから問われてすぐにうまいフレーズで返せなかった演奏みたいな感じである。用意していた原稿のせいで、自分のマンガ評論のことばかりが頭にあったのである。

 しかし、そもそも「独習指定文献」としてリスト化する行為やリストから外す行為そのものがきわめて批評的な行為ではないか。そこにすぐに思いが至らないところに、ぼくの未熟さがある。

 そして、そうして指定されてきた文献を、自由に、批評的に読もうというのが、そもそもぼくの本(『正典で殴る読書術』)の趣旨であったはずである。そちらの方には全く頭がいかなかった。硬直していたのである。

 共産党は「独習指定文献」リストという批評的な行為によって、メンバーにそれを読むように求める。しかし、メンバーはそれを批評的には読まない。読んで「知は力」にして自分の中にビルトインすべき「与えられた良書」として扱うことしか事実上許されない。そこに現在の共産党をめぐる病理がある。

 志位和夫が「赤本」「青本」を書いて、それを全党で読もう、というのはそれ自体問題はない。前にも書いたが、むしろ奨励されていいくらいだ。

 しかし、それらをたとえ組織内であっても、大いに自由に批評することが、もしできれば、そのような批評精神そのものが共産党を立て直す大きな力になるに違いないと信じる。斎藤さんから「共産党をどうしたいのか?」と聞かれたので、このことも付け加えておきたい。

 しかし、そうなっていない現状がある。

 つい先日も、ある共産党の大きな会議で、「『自由に処分できる時間』や『時短』を前に掲げたのは、選挙ではあまり噛み合わなかった」と発言した直後に、会議主催者によって「不適切発言」とされて会議が中断し、再開後、発言者が自己批判させられたという話を聞いた。しかも後日、「再教育」のために呼び出され、多人数でこんこんと詰られたのである。わずかな「自由で批評的な精神」さえも見逃さずに摘み取ろうという、党幹部の並々ならぬ決意を感じる。

 ぼくは、党幹部のいうことに反発しろ、と言いたいのではない。志位和夫が斎藤幸平との対談で述べた言葉を使えば、「自分の頭で考えよう」ということだ。

 共産党の100周年記念での志位和夫講演を、ある県の共産党組織で学習した際、その講演に沖縄の本土復帰のことが書かれていたことから、ある党幹部は、その学習会で自分の沖縄での思い出をベラベラとしゃべりだしたことがある。

 しかし、あの100周年の記念講演でなぜ沖縄の本土復帰の話が書かれていたかと言えば、それは中北浩爾『日本共産党』への批判が意識されていたからである。中北は連合政権を組むつもりなら安保条約破棄は現実的ではない、と述べている。これに対して、志位は、サンフランシスコ条約で沖縄の占領は固定されていてその本土復帰など全く「現実的」ではないと思われていたが、沖縄人民の闘争によってアメリカの対日支配を動かし、ついに本土復帰を実現させてしまった歴史を持ち出して反論したのである。それはぼくからみて、なかなか見事な、説得力のある反論だと思った。

 志位講演を批評的にとらえるというのはそういうことではないのか。

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 志位が講演で沖縄の歴史を持ち出したのは、昔話をするためではない。

 今そこで現実に問題となっている政治の課題に向き合うために、志位はそのモチーフを選び構成したのだと思う。学習会はそこをとらえて議論すべきである。ところが、その党幹部は、やくたいもない自分の沖縄での思い出話を長々と語ったのである。

 テキストに向き合い、それが現実の政治とどう切り結んでいるのか、あるいは切り結んでいないのかを自分の頭で判定することこそ、「講演の学習」なのであって、最高幹部様のお話はごもっともでございますなあと揉み手をしておいて、ろくにテキストも読まずに、講演の中で目についたワードだけを抜き取ってそれにまつわる世間話や思い出話をして時間を潰すというその「反批評」行為に、党幹部たちの精神的な退廃を見る思いがしたものである。

批評(家)がなければ文化は死ぬ

 斎藤美奈子さんは、批評がなければ文化は死ぬ、と述べていた。

 いや、もっと舌鋒鋭かった。批評家がいなければ、読者だけでは、死にますよ、と述べていた。

 そんなバカな。

 と思いたくなるが、「この作品はこのように読めるのだ」という示す存在がいることで、読者は作者は作品に新しい可能性や本質的な欠陥を見出すことができるのだ。

 左翼組織において、そのような「批評家」の不在、つまり自由な批評を行える無数のリーダーが地域にいないことが、「文化を死なせている」という現実を我々はまさに目の当たりにしているのではないだろうか。

 「赤本」「青本」を読むのが悪いのではない。批評的に読まないことこそ問題なのだ。批評的に読もうとしない「読み」を五万回やったって、何の意味もないだろう。いや、無意味どころか有害ですらある。

 今必要なのは批評的精神だ。

 

 

『小学館版 学習まんが 日本の歴史12 開国と幕末の動乱 江戸時代Ⅳ』

 『小学館版 学習まんが 日本の歴史12 開国と幕末の動乱 江戸時代Ⅳ』を読む。

 慣習が高埜利彦・学習院大学名誉教授、マンガが新井淳也である。

 一言で言って、いやあこれすげえマンガだなって思った。

 何がって、高校の教科書(山川)のイメージづくりにバッチリ対応しているのに、マンガとしてバッチリ成立しているんだよね。*1

 この場合「マンガとして成立する」というのは、よくありがちな「ドラマとしてエモいシーンをなんとなく貼り付ける」的なものじゃなくて、「イメージづくり」、つまり教科書を読むだけ、参考書を読むだけでは印象に残らない生徒に対して、「流れや構造をイメージさせる」ということをすごくしっかり作ってあるという意味である。

 以下のリンクをクリックすると、サンプルが出てきて、大体どんな紙面なのかがわかる。

shogakukan.tameshiyo.me

 

 高校生の娘に依頼されて『山川一問一答 日本史』から問題を出して答えさせるということを時々やっているのだが、幕末から近代にかけてが本当に細かくて覚えることが多くてややこしすぎるのである。ぼくも知らない用語が腐るほどあるし、問題出しながら「よくわからん」と思ってしまう。娘自身が「ややこしい」と嘆いている。

 

 

 娘は受験生であるから、日本史については、何十年もまともに更新していないぼくなどよりすでに知識量としては凌駕している。しかし、日本史自体にはあまり興味もない。

 小学館の日本の歴史の学習マンガといえば、あおむら純のすぐれた版があるのだが、高校生が受験対策として使うには「簡単すぎる」のである。

 そしてこの12巻、「開国と幕末の動乱」を読んで、ぼく自身の徳川慶喜のイメージが大きく変わった。「相当有能な人間」というイメージになったのである。

 いや〜なんで最後、大政奉還しちゃうの? というくらい結構やり手だったんだなという感じ。

 また、幕末に政治の実権の重点がどう目まぐるしく動き、「尊王攘夷」というイデオロギーの解像度が解説的にグッと上がった。

 まあ、他方で、小学生や中学生が「歴史に興味を持ちたい」と思った場合には、あまりにも詳しすぎて投げ出してしまうと思う。不向きだ。

 あえていえば、「大学受験に特化したすぐれた学習マンガ」ということになる。

*1:山川出版社が編集協力している。

不破哲三『科学的社会主義と執権問題』

 私こと・紙屋高雪斎藤美奈子さんとのトーク&サイン会は本日(2025年11月14日金曜日)午後6時からです。拙著『正典(カノン)で殴る読書術』と斎藤さんの『絶望はしてません』のことだけでなく、幅広く政治・社会・文学について語り合います。

 オンラインや録画がありませんので、ぼくとしては「ここだけ」の話もぜひしたいと思っています。多くの方のご参加をお待ちしています。

 

日本共産党は「プロレタリアートの独裁」という概念をどう見ているのか

 ぼくの『正典(カノン)で殴る読書術 「日本共産党独習指定文献」再読のすすめ』で、紙幅の都合で取り上げられなかった1冊について書いておきます。

 

 

 不破哲三科学的社会主義と執権問題』です。

 皆さんは「プロレタリア独裁」とか「プロレタリアート独裁」というマルクス主義の用語を聞いたことがあるのではないでしょうか。

 「マルクスは『プロレタリアート独裁』を掲げた。だから、旧ソ連も中国も他の社会主義国独裁国家なんだよ」というような具合に。

 これは実際に起きている現象と、それが書いてあるマルクスレーニンの文献をみたら、疑問の余地がないほどに「それはその通りだろう」と思うに違いありません。

 じゃあ、やっぱりマルクスを理論的な下敷きにしている日本共産党も、将来は独裁をめざしているし、今の党の体質もそこから出てきているんだな、と納得してしまうのではないでしょうか。

 

マルクスが使った『プロレタリアート独裁』は一党独裁の意味ではない”

 これに対して、「マルクスが使った『プロレタリアート独裁』という考えは、一党独裁という意味ではない」「だから一党独裁というのはマルクス主義の本来の立場ではない」と主張したのが、日本共産党であり、その理論的根拠としたのが本書です。

 

 本書『科学的社会主義と執権問題』は、最初に書名と同じ、不破によるこの問題での文献研究の長い論文が載っています。論文の終わりに1976年4月27日〜5月8日付の赤旗に載せましたよ、という記載があります。字の小さかった当時の赤旗日刊紙にこんなに長く載っていたのですから、相当です。実際文庫で116ページもあります。

 いま赤旗誌面での志位和夫青本」「赤本」キャンペーンに対して「毎日毎日個人の研究をこんなに長く載せるな」「個人著作を全党に読ませるなど前代未聞だ」との非難が起きています。2025年の日本でそういうやり方でいいのか、それで「しんぶん赤旗」の魅力になるのか、という問題はありますが、実は1970年代にもこうした個人の署名を冠した研究を毎日毎日載せるというスタイルはあって、独習指定文献として、指定もされています。それはまあ事実の問題として言っておきます。

 

この理論的態度を見習うべきでは

 さて、それにしてもなかなか長い論文です。

 しかし、この論文は、当の「プロレタリアート独裁」についての研究をのぞいても、共産党として「このマルクスの概念はどうなんだ」という問題が起きた時は、どういう態度で臨むかという一般論が最初に書いてあり、共産党として、今これくらいの心構えでやはりことに当たる必要があるんじゃないかと思っています。

 『正典で殴る読書術』にも書きましたが、フェミニズムや環境の理論と「共闘」する機会が増えてきたのですが、それに対して理論面で原則的な態度をとりながら「共闘」するという心得がないと共産党本体が「溶融」していってしまいます。

 斎藤幸平の「脱成長」を志位が批判したのは良かったと思いますが、それを対談でちょこちょこというんじゃなくて、きちんとさかのぼって体系的に解明すべきだというのが、こういう論文を読むとよくわかります。まあ、もっといえば、「搾取とか労働者とか言っているけど、共産党職員は労働者じゃないの?」とか「共産主義は自由だと言っているけど、共産党内部で異論を次々排除しているんじゃないの?」みたいなことにはきちんと答えるべきだと思います。それがないと足元の現実を覆い隠したまま議論していることになりますよね。

 

 さて、本書ですが、本書のエッセンスは、実は本書に収録されている、赤旗日曜版での「『プロレタリアート執権』問題について」という不破インタビューに、非常に短く、しかし完全に表現されています

 こんな問題を日曜版に載せるんだ! と今の感覚なら思うかもしれません。

 でも読んでみると本当に要領よくまとまっています。書いてある疑問も、「そうすると、三権分立はみとめないということになるのでしょうか」という、当然の疑問が載っていて、今志位が「Q&A」でやっているような、「まったくQ&Aになっていない」「どこからその疑問出てきたの」みたいな疑問・質問はほとんどありません。

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 まさにそれが読者が読みたいことですし、理論的にも潔いと思います。

 いまの党幹部、なかんずく志位は見習うべきでしょうね。

 

プロレタリアートのディクタトゥーラは労働者階級の権力獲得のことだ”

 簡単にいえば「プロレタリアート独裁」の「独裁(ディクタトゥーラ)」は権力獲得のことであって、ブルジョアジーの政権のもとで改良するんじゃなくて、労働者が独自に権力を獲得しないと革命はできないよ、という概念を表したものだ、というのが共産党の主張です。だから「プロレタリアート独裁」は「労働者階級の権力(獲得)」と同義なんだ、というわけです。それゆえ、「ディクタトゥーラ」というラテン語に、「独裁」ではなく「権力獲得」=「執権」という言葉を当てることにしたんだ、と。

 だから「プロレタリアートの独裁」ではなく「プロレタリアートの執権」だと。

 おいおい、「執権」とか鎌倉時代かよwと思ったあなた、その通りですね。でもまあ、辞書には「政治の実権を握ること。また、その人」という語義があり、そこまで無理矢理ではないのです。

 いやいや「ディクタトゥーラ」って、英語では「ディクテイト」の語源だろ? チャップリンの「独裁者」って「ディクテイター」じゃん、おかしいよ…というのはごもっともです。

 この語はもともとローマの独裁官(ディクタトゥル)が非常時に全権を掌握したことをイメージしている、という解説が不破の研究には載っています。不破はこの「ディクタトゥル」を「執政官」と訳しています。だから、「執権」はちょうどいい訳語なんだ、と。*1

 じゃあなんでそんな概念を使ったんだ、という話になりますよね。「労働者階級の権力獲得」でいいじゃん、と誰しも思うわけですよね。わざわざ独裁的なイメージのある政治概念を使ったってことは、やっぱりそういうつもりがあったんだろ? と。

 不破によれば、いやいや、1848年のドイツ革命では、おかざりの議会だったけど、革命勢力が議会の多数を取ったんだよ、だけどそこで規約解釈とかのお喋りをああでもないこうでもないってやっているうちに、旧権力側の武力部隊がやってきて、簡単に放り出されてしまったんだ、だから、革命をやるって言っても、議会だけ握ればいいんじゃなくて、実力・武力を含めた国家権力の全体を握らないといけないんだ、パリコミューンはそれをちゃんとやったんだ、というその「議会だけでなく国家権力の全体を掌握する」をイメージするためにこの概念を使った、というわけです。

 そして、レーニンスターリンが使った「プロレタリアートのディクタトゥーラ」概念はおかしかった、ということも言っています。

 だから、「日本共産党としてプロレタリアートの独裁概念を今でも支持するんですか」と正面から聞かれれば「一党独裁という理解やソ連流の理解は間違いですが、マルクスの本来の意味では支持しています」ということになります。

 ただ、解説がないとわかりづらいので、今は使っていない、ということです。「人民の民主主義的独裁」という言葉が日本共産党の過去の文献に出てきますが、これだけみると本当にわけがわかりませんよね(笑)

 

“新ライン新聞はマルクスの執権だった”

 当時の日本共産党は本当にあらゆる文献から「独裁」の用語を追放しました。

 大月書店の『レーニン全集』の「独裁」用語も変えさせようとしたようですが、さすがに研究者の著作物なので、注釈を入れて赤旗に広告を出したりしていました。

 

 学生時代、不破が学生新聞での連載で、「新ライン新聞の編集局はマルクスの独裁だった」というエンゲルスの回顧文章まで「新ライン新聞の編集局はマルクスの執権だった」に変えてしまっているのを、先輩が教えてくれて、大笑いしたこともあります。

 不自然にもほどがあります。

不破『古典への旅』新日本新書p.38

 まあ、ここの訳語を持ち出されて「ほら、独裁って訳しとるやん!」と追及されても困るので、不破としては泣く泣くこうしたのかなと今になれば思います。

*1:そしてコンスルを「統領」と訳しています。コンスルを「執政官」として非常的に権力を集中する存在をディクタトゥルというはずだが、という理解もあると思いますが、そこはぼくにもわかりません。

斎藤美奈子さんとトーク(&サイン)イベントをします

 私こと紙屋高雪が、文芸評論家・書評家の斎藤美奈子さんと"現場は本の中にある"と題して、トーク&サイン会やります!

 『正典(カノン)で殴る読書術——「日本共産党独習指定文献」再読のすすめ』(かもがわ出版)&『絶望はしてません——ポスト安倍時代を読む』(筑摩書房)刊行記念です。

 場所は東京堂書店(東京都千代田区神田神保町1丁目17)

 日時は2025年11月14日(金)18時~(開場17時30分)

 参加方法など、詳しくはこちらです。

 

 

村上研一『日本経済「没落」の真相』

 リモートの読書会のテキストになったもので、ぼくはこの著作を全然知らなかった。

 読後「これはとてもいい本だ」と思った。

 一言で言えば、ぼくにとっては「共産党の綱領では解像度が低かった、1980年代から『失われた30年』が大企業支配と対米従属を基軸にコンパクトにまとめられている」からだった。

 「あとがき」で本書の成立事情について次のように筆者は書いている。

研究所として上梓した2つの拙著『現代日本再生産構造分析』(日本評論社、2013年)と『衰退日本の経済構造分析——外需依存と新自由主義の帰結——』(唯学書房、2024年)の内容を中心に、多くの人が読みやすいように簡潔に書き下ろしたものである。後者の拙著の刊行後に、いくつかの学会・研究会で拙著の内容を報告させていただく機会をいただいたが、その際、多くの先生方より、一般向けの著者にまとめ直して刊行するようおすすめいただいた。(p.147)

 専門書の内容を、140ページほどに短縮してわかりやすく書いたものだということだ。

 コミュニストとして革命運動をやってきたぼくは、戦後日本の資本主義がどのようなものだったかのかを概括して理解しておくべきだという気持ちがある。なーんて大見得を切ったものの、気持ちがあるだけで、全然勉強していないのだが。

 共産党は2004年に新綱領を制定して、そうした叙述をしている。しかし、不破哲三が起草しているせいであろうか、戦後からの経済構造の基本的なことが書かれているという感じで、1980年代以降の資本主義はぼんやりとしてしまうのである。

 共産党綱領には「『逆立ち』財政」の記述が未だにあるのだが*1、これ自体はいかにも1990年代からせいぜい2000年代くらいまでの認識がそのままになっている。*2

 そして、共産党の現場でも需要面からの把握や理解が多い。労働者に分配されていない、という話である(これはこれで正しい)。

 企業サイド、つまり資本主義の蓄積がどのようにヤバいことになっているか、という点からの把握や理解は断片的である。

 もちろん、2022年ごろに共産党は「やさしくて強い経済」という打ち出しをしていてその中で本書で書かれている話の一部を断片的にしている。

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 本書を読んでぼくはどのような認識を持ったのか。

 高度成長期の構造も確かに輸出依存型だったが、1980年代はそれとは構造的に区別されさらに歪な形となっていた。

 鉄鋼などの素材系産業はすでに衰えていたが、自動車・家電が中心となり、その集中豪雨型の輸出を、減量経営やME(マイクロエレクトロニクス)化などのコストカットによる国際競争力強化によって実現した。賃金はそれなりに上がったが、雇用自身は増えない。逆に言えば、減量経営による人減らしの中でも、一応企業の外には放り出さず、企業の中に抱え続けた。

 問題は、これを90年代も追求しようとしたことである。自動車・家電などをコストカット経済によって乗り切ろうとしたために、リストラと非正規化が大規模に起こった。

 さらに、アメリカは冷戦構造の崩壊とともに、これまでのような庇護ではなく、日本をライバルとして扱おうとし、日本に対する要求を次々と突きつけ、致命的なことは、アメリカ式の経営を持ち込み、日本企業は、株主のために「短期的利益」を上げることが至上命題となった。
 1980年代と違い、日本の輸出はアジアとの競争にさらされ、アメリカは中国をパートナーにすることで回復・成功したが、日本がやったコストカット経済は失敗した。そして、リストラと非正規化により人材が流出し、産業がすごい規模で没落していった。

 需要面では、コストカット経済によって国民・労働者が貧しくなり、供給面では短期的利益の追求が至上命題となった結果、長期的視点での経営・研究開発が痩せ、人材流出が続いた。
 政府のお金の使い方がまともな競争力強化や産業支援ではなく、「官製市場」化、つまり既得権益や縁故に利権を与えるだけのいわば「甘やかし」をしている政策が中心になった。

 アベノミクスはこの構造を改善するどころか、一層強化した。

 本書では「既得権優先の経済政策」としてこれを批判している。金融政策は円安と金融利得(株高)を拡大するためのものでしかなく、輸出産業の支援、しかも「甘やかし」的な支援でしかなかった。

 

アベノミクス」以来の経済・産業政策は、円安誘導による輸出産業支援、公共事業や公的部門の民間開放・官製市場化を通じたビジネスチャンスの提供、原発・火発を温存するエネルギー政策など、旧来技術に立脚した既得権益の温存をはかり、大手企業に短期的収益を保証する性格のものが多かった。(p.113)

 日本の一人当たりのGDPは2000年代に米国を下回った。つまりそれまでは日本が上回っていたのであるが、今や44.5%にまで低下している。

 下図は本書に載っているグラフだが、国内需要も国内供給力も衰退しているのがわかる。これとあわせて、貿易特化係数がマイナス、つまり貿易赤字となる都市が増えていっていることを見れば、日本の資本主義としての衰退がよくわかる。

 そのような衰退の中で、大企業の経常利益だけが異常に伸びているという歪さも。

村上本書p.11より

 筆者(村上)はこのような構造を作り出した「根因」=規定的要因を「外需依存、対米従属、長期政権」という3要素にまとめている。

 

 さらに筆者による次の指摘は重要だ。

持続可能な国内供給能力の形成を欠くことはできない。貿易赤字が常態化し、国内市場への輸入品の浸透が広がっている今日、供給力拡充を欠いた内需拡大策は、さらなる円安と物価上昇を招く要因となり得ることに留意が必要である。(p.146)

 例えば給付金や減税で仮にいくら国民にお金をばら撒いても、そのお金で買うエネルギーや食料が輸入でしかなければ、ますます円安と物価上昇を招いて意味がなくなってしまうというわけだ。

 

 書物としての本書をどう使うかについてだが、左翼、なかんづく共産党界隈の活動家は、ぜひこの本を読んで、1980年代から失われた30年全体にわたる概略的な日本資本主義像をつかむべきだ。そうした認識の形成にものすごく役に立つ。

 特に参考文献として注に書かれているものは、学者ではなく、素人左翼である我々にとって勉強していく上で実に好都合なリストになっている。個人的に興味を惹かれた文献・論文を以下に数冊挙げておく。

  • 平野健「現代アメリカのグローバル蓄積体制と中国」(『季刊経済理論』2020年1月)
  • 河音琢郎・平野健「アメリカ資本主義の現段階」(『経済』2024年11月号)
  • 萩原伸次郎『日本の構造「改革」とTPP ワシントン発の経済「改革」』(新日本出版社
  • 関岡英之『拒否できない日本』(文藝春秋
  • 島弘之「株価高騰と株主〈投資ふぁんど〉主導型コーポレート・ガバナンス」(『経済』2024年9月号)
  • ロナルド・ドーア『誰のための会社にするのか』(岩波書店
  • 菊池信輝『日本型新自由主義とは何か』(岩波書店
  • 柚木澄「アメリカ式経営の導入と日本的経営」(『経済』2020年11月号)

 また、著者は高校の教諭から大学の研究者になった(現在、中央大学教授)というユニークな経歴の持ち主で、高校卒業者の進路指導の現実などから表象を得て本書を書いていることも興味深い。

 余談だが、ぼくはこの本を読んでからしばらくして、自分自身が少し前にこの著者に会って長く話をしたことがあるのを、ようやく思い出した。

 

 処方箋についても書かれているが、大きな方向しかない。

 ただ、村上ではないが、この本を読書会で紹介した人が、原丈人『「公益」資本主義』と同じ方向性であることを述べていた。もっとも原がヒントになった岸田政権の「新しい資本主義実現会議」は高市政権になって廃止されてしまったようだが…。

 

 本書は、一般人向けにわかりやすく書かれたとはいえ、それでも難しい記述は少なくない。

 この本で述べていることが理解できるように学習会をやったらいいと思う。ぼくもまだわからないことが多いので、ぜひ地元でやりたいものだと思った。

*1:「日本の財政支出の大きな部分が大型公共事業など大企業中心の支出と軍事費とに向けられ、社会保障への公的支出が発達した資本主義国のなかで最低水準にとどまるという『逆立ち』財政は、その典型的な現われである」(共産党綱領)。しかし実際には公共投資は大きく減っている。  https://honkawa2.sakura.ne.jp/5165.html

*2:もっとも「社会保障の公的支出が国際比較で少ない」という意味では認識は依然正しい。それを「逆立ち」という言い方で表現し続けるかどうかは問題がある。

志位和夫・斎藤幸平「対談」動画を見る

 共産党議長の志位和夫が斎藤幸平と対談をしている。

www.youtube.com

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 ぼくは、このブログでも志位は斎藤と議論すべきだと言ってきた

 近年論点となっている「脱成長」との異同や概念上の整理もない。

 そこに踏み込めないのか、踏み込まないのか。

 斎藤幸平あたりと討論してみてほしいものである。

 そして、志位はこの「対談」(後編)において、斎藤と「脱成長」について斎藤と議論している。まさに、ぼくの提起をちゃんと志位はやったわけだ! なかなかエラいぞ!

 

 この「対談」を聞いてみてどうだったろうか。

 ぼくの感想を以下に書いてみよう。

 

実質的な「志位インタビュー」になってしまった

 まず、残念ながら、動画の多くの部分が「志位和夫による共産党の見解紹介」になってしまっている。そのため、期待していたような議論の緊張はあまりない。議論(論争)は「脱成長」と「AI(技術)」の問題のところだけに限られてしまっている。

 どうしてこうなったのだろうか。

 実は「対談」のように見えて「対談」ではないのだ。斎藤自身が述べているように、斎藤はインタビュアーであり、志位はインタビューイである。この役割分担では、「志位和夫による共産党の見解紹介」になってしまうのはしょうがないだろう。

 まずは「お近づき」ということでこうなったのか、それとも志位側(あるいは斎藤側)が条件をつけたのかわからないが、残念というほかない。

 例えば、志位による「共産党流の共産主義解釈・マルクス解釈」に対して、斎藤が違和感を持ったとしても、1回くらいツッコむ程度で、2回、3回といわゆる「更問い」ができないのである。

 インタビューイの主張を明らかにさせる「報道」であればこれでいいのだが、ぼくが見たかったのは、共産主義マルクス主義についてのライブ感のある議論だった。 

 

「脱成長」論争は面白かったが…

 後編で「脱成長」についてどう思ってますか、と斎藤から問いただし、聞かれたから答えますよという体で志位がそれを批判したのは緊張感があった。

 これは間違いなく良かった。

 良かったのだが、食い足りない

 脱成長論への疑問は、ぼくもある意味で志位と共通している。

kamiyakenkyujo.hatenablog.com

 ただし、「脱成長」をどう定義するか、「生産力」をどう定義するか、という問題によってはその答えは変わってくる。

 浪費を削って、必要な経済部門・地域を成長させることであり、質的な発展を勝ち取ることでそれを実現させるというのであれば、斎藤とも志位とも近いものになる。

 ヒッケルの『資本主義の次にくる世界』を評したときぼくは次のように書いた

本書の立場をぼくなりに要約しておけば、

  1. 現在の成長主義はGDPという数値全体を引き上げることが自己目的になっており、その場合、社会にとって何が必要かという視点が失われ、とにかくなんでもいいからGDPをあげればいいということになってしまい、そうなると貧困などの解決に役立たないだけでなく、地球環境を破壊し限界に追い込んでしまう。
  2. ゆえに、GDP引き上げを自己目的にする成長主義を脱却すること=脱成長をはかり、地球環境を守りながら、貧困の解決、社会保障の充実など社会にとって必要な分野を特定してその原資を作り、増やすことを経済の目的にすべきだ。
    というものではないか。

 これは「価値の自己増殖」「利潤追求を自己目的とする経済」である資本主義からの脱却をめざし、社会の必要のための経済に変えるという(ぼくなりの)コミュニズムの理解と整合的である。具体的にどう実践するかはおいておくとしても、原理的には問題が整理されている。

 斎藤幸平は動画の中で聽濤弘の名前をチラリと出していたが、斎藤と聽濤は対談して議論している。もっと踏み込むべきだったろう。

adayasu.hatenablog.com

 どう踏み込むべきかと言えば、志位は気候危機打開をしながらグリーン・リカバリーやグリーン・ニューディールのような形で成長と両立できるんだと主張しているわけだが、斎藤はそもそも『人新世の「資本論」』でそれを欺瞞だと言って厳しく批判しているはずだ。いくら志位が「両立できる」というテーゼを言ったとしても、斎藤がそれを数字も出して批判するのであれば、どちらが正しいか議論になるはずである。

 この問題は単に政治的立場の問題ではない。事実や数字という証拠を示して、成長と気候危機打開が両立するかどうかを具体的に検証できる問題のはずだ。

 本当にグリーン・リカバリーやグリーン・ニューディールは欺瞞なのかどうか、検証してほしかったと思う。

 そして、同じことの裏返しだが、志位が斎藤批判としてあげた1点目——企業を巻き込むために「脱成長」は言いたくないなあ、というのは、おかしな話である。

 企業がいい気持ちで乗ってくれるかどうかとかそんなレベルの話ではないはず。他の課題と違うんだよ。

 というのは、前述の通り、「経済成長を続けたら地球が滅亡する」という証拠があるなら、それをはっきりと突きつけるべきであって、自分たちが死んでしまっては元も子もないからそれなら気候危機打開のための強権政治=気候毛沢東主義すらありうるはずである。だって死ぬんだよ? しかし、グリーン・リカバリーやグリーン・ニューディールで成長と両立するなら、そのロジックで企業を説得すればいいだけの話であって、1点目を論点にする必要はないように思う。だって、いくら企業が自主的に参加しても、やってることが「おままごと」だったら、人類みんな死ぬんだよ? 強制的にでも必要なことやらせるだろ。やらないと死ぬんだから。

 

他にツッコんで欲しいと思った点

 志位から斎藤にツッコんでほしいと思った点は以下の通りだ。もちろん、志位自身も答えねばならないが。

  • 企業・商品・市場・分業はなくなるのか? 協同組合以外にはどんな形態が残るのか?
  • 3.5%が変われば社会が変わるというが、そんなことはないのでは?
  • マルクスが晩年「脱成長」派だったっていうけどホントか?

 他方で、斎藤から志位にツッコんでほしいと思った点は以下の通りだ。もちろん、斎藤自身も答えねばならないが。

  • 搾取をなくすって一体どういうこと? どうやってなくすの? どうなれば「なくなった」って言えるの?
  • 「なんでそんな立派な共産党の支持が広がらないの?」という斎藤の質問に志位は「民青が増えている」「赤旗電子版は増えている」と言ったけど、じゃあなんで民青から党員は増えないのか? 赤旗電子版の数千部程度の「増加」(新契約)は単に志操堅固な党員が(もう1部)とっているか、紙からの切り替えじゃないのか? 赤旗事業トータルではどうなのか? 長い間機関紙読者や党員が減り続けているのはどうして? 地方議員数は? なんで国政選挙で大きくどんどん減ってるの? とさらにツッコんでほしい。
  • 4時間が必要労働、残り4時間が剰余労働と言うけど、じゃあ、剰余労働のうち、生産的労働以外の部門(公務・商業・金融)に振り向けるぶん、拡大再生産・社会保障・公共事業に振り向けるぶん、労働者の直接の賃上げに回すべきぶんはいくらで、ここから時短に使える分は現状ではいくらなの?

 

政治共同と学問論争の腑分け

 動画の最後に志位が、マルクス解釈などの学問的立場は大きく違うけど、政治的な共同はしたい、と呼びかけたのはとても良かった

 すごく大事な点だと思う。

 拙著『正典(カノン)で殴る読書術』でレーニンの『唯物論と経験批判論』を紹介したが、レーニンは、哲学論争が政治的な分裂を招かないように配慮したという話を書いている。そういう態度はとても大事だ。

 

 ひょっとしたら、志位は「自分があまり挑みすぎると学問への介入になる」と思ったのかもしれない。それはそれで必要な慎みかもしれない。

 しかし、斎藤からの問題提起とはいえ、すでに論争してしまっているではないか。「お前の脱成長論はダメだ」って。今さら「介入しないモン」とか言っても仕方ないだろ。そして実際に論争してしまっても、政治共同をきちんと忘れないという今回の「対談」の締めのスタイルが踏襲できるなら、遺恨は残るまい。もっと自由にできるはずである。

 そもそも学問研究として『日本共産党』を発表した中北浩爾には敵愾心を剥き出しにしながら、斎藤にはこんな感じではあまり説得力はあるまい。志位が自己満足で斎藤と中北の扱いの差に細かな違った条件をつけたとしても、国民には全くその違いはわからないのだから。「斎藤とは握手しているのに、中北は叩いている」としか見えない。

 「学者に何もいうな」というのではない。理論については穏健に反論しながら政治課題では共同する——その程度の政治技術の運用がなぜできないのか、ということである。

博多ポートタワーの夜景

細かい点で

 「原子力」「原子力エネルギー」一般を危険であり採用すべきでない「悪の技術」であるかのように志位は述べていたが、それは不正確なのではないか。

 共産党の立場は現在の原発技術は本質的に「未完成の技術」であるという見解だったはずだ。「未完成の技術」であるがゆえに「異質の危険」があり、「放射性廃棄物」の問題があるからだと主張していた。

 もともと共産党原発は「総点検で危険なものは停止」論から「段階的撤退」論をとり、東日本大震災後に「即時撤退」論に変わった(2011年6月)。しかしいずれも共通して、「原発は未完成の技術である」という考えをベースとしていた。

www.jcp.or.jp

 このテーゼ(規定)は、第二次大戦で核兵器の惨害を味わった一方で、自主・民主・公開の原則のもとで「原子力の平和利用」を考えていた多くの党員研究者・良心的研究者の戦後の声を反映したものだ。「今は未完成だが、将来は平和利用をしたい」というニュアンスを込めて。だから、科学・技術としての可能性を否定することには、しつこく留保をつけるほど共産党は慎重だった。

 そして、原子力エネルギーについてはその将来の可能性は否定せず、科学・技術としての開発や研究は閉ざしてはならないというのが本来的な立場であった。

核軍拡ともうけ本位の原発増設という二重の暴走をやめさせて、原子力の利用を新しいページに切り替える。核エネルギーの引きだし方も、できあいのやり方を固定して考えないことですね。(不破哲三不破哲三対談集 自然の秘密をさぐる 宇宙から生命・頭脳まで』新日本出版社、1990年、p.82)

核兵器開発とはかかわりのない原子力エネルギーの平和な研究開発の中で、安全を保証できる炉材料や高レベル放射性廃棄物の消滅技術の開発がすすんだ時に、小型で安全に制御できるタイプの原子力エネルギーの利用の可能性などは将来あり得るものです。その可能性を否定するのは科学の立場ではなくなります。(吉井英勝『原発抜き・地域再生の温暖化対策へ』新日本出版社、2010年、p.196-197)

 例えば、共産党核融合技術についてはその研究開発の可能性を、「原発即時廃止」に政策を変える前も変えた後も、主張している。*1

 もう一つ、核融合原発と比べて安全性が高いわけなんですけれども、しかし、リスクがないわけじゃないと思うんです。
 例えば、核融合炉での爆発というのはまずないわけですけれども、電気系統などからの爆発なんかは想定されるんじゃないかと思うんです。もちろん、高レベルの放射性物質が拡散される原発に比べて被害は桁違いに少ないわけですけれども、リスクはゼロじゃないと思うんです。安全神話をもとに進められた原発の苦い教訓もあります。
 核融合炉の開発に当たって、原発との違い、あるいは安全性を強調することとともに、さまざまなリスクも想定して、国民の皆さんにも示して、理解を得ながら進めていくということの必要があると思うんです。(島津幸広衆院議員、2017年6月6日、衆議院 科学技術・イノベーション推進特別委員会)

 

核の平和利用について問われた吉井氏は「米国が兵器に利用し、出発点がゆがめられてしまいましたが、核分裂核融合は科学の研究として続けなければなりません」。

https://www.jcp.or.jp/akahata/aik11/2011-07-10/2011071004_01_1.html

 

核融合の研究開発については、将来の人類にとっての恒久的エネルギー源を確保する一つの選択肢と考えております。同時に、核融合についてはなお多くの課題が残されており、イーター計画とブローダーアプローチの実施は、安全の確保、基礎研究に財政的なしわ寄せを寄せないことなどに十分な注意を払い、国民の理解を得ながら進めるべきものだと考えております。(緒方靖夫参院議員、2007年5月8日参議院 外交防衛委員会

 

 現在の原発は撤退すべきだろうが、「原子力」の否定という括りにしてしまうと、おかしなことになる。

*1:ただしこれを当面の脱炭素の切り札のようにして投資する性急なやり方には反対している。

藤原ハル『元気でいてね』

それから

幼少期に親から言われたこと

すべて忘れた方が

いいですよ

何の役にも立たない

 

 「すべて」ですか。

 「何の役にも立たない」ですか。

 すごくシンプルな方針だけど、それくらいシンプルにすると、逆に実践できてしまうかもしれない。

 

 作中で、エレベーターにいつも挟まれてしまう女性社員が、恥ずかしそうに

親がよくおまえはぼんやりだって言ってました

子どもを産んでからますますぼんやりしちゃって

家事や仕事やっても全然追いつかないし

と告白する。

 それを言われた男性社員は

寝不足なんじゃないですか

単純に

とクールな顔つきで、しかしあたたかみのある言葉で返すのである。

 その後すぐ、冒頭に述べた提案をする。

 

 幼少期に親から言われたことが「呪い」になっているという人はたくさんいるようだ。

 俺はそんなことはない。

 …と言いたいところだが、そうとも言い切れない。

 確かに自分の性格を規定されるような親の言葉に拘束されたことはない。しかし、よく考えてみると、父が望んだ結果を出したい、父にがっかりされたくない、という思考様式はどこかに残っている気がして、無意識にそういうものを選んでいたりする気はする。政治的にはあまり近くない考えなのに。

kamiyakenkyujo.hatenablog.com

 本作『元気でいてね』はオムニバス形式の短編集である。離婚、出産、結婚、育児、仕事をめぐる女性や男性の選択についての後悔・解放・回復の物語だ。

 ぼくが読んでみて、全体を大きく貫いているのは、「私」がどうあっても何かに抑圧されていて、そこから解放されるために「私」を主語にして「私」の真意をまず言葉にしようと多くの登場人物が格闘していることだった。

 解放された「私」が現れたとしてもそれは正解でもないし、解決でもないよ、とこざかしく言いたくなるが、まずはそこからではないか、そのスタートラインに立たせてくれよ、という息苦しさをなんとかしたいのである。

 「case6. ハクウンボク」で休日に散歩していた四十代の姉と、その妹が、行き先のわからない水上バスに乗るくだりがある。姉には行き先がわからない、というのが「いい」と思えたのだ。

 姉は会社を辞めてもいいと思えるようになった。

 会社に不満がある的な話、というよりも、何かにとらわれないで選択ができるということの自由さを感じたのである。

慎重派のお姉ちゃんらしくなくていいねー

と妹が励ます。

先日つれあいと船に乗って旅行しました

 ぼくも勤めていた団体で、全く不当な抑圧を受けた上で、お前が悪いのだから悪うございましたと謝れ、赦しを乞えば考えてやらなくもない、という人間を馬鹿にした抑圧を受けた時、それを否定してさんざんハラスメントという暴力を受けた挙句に放逐されたのであるが、今いろんな人の励ましを受けながらその抑圧に屈しなかったことには「自由」であることを感じざるを得ない。

 仕事を奪われて、裁判などやる羽目になったのは気の毒だね、と思われているかもしれないが、一面当たっているものの、一面では全くそうではない。

 団体から追放されたことで、自分が参加する社会運動も著しく制約を受けるようになってしまったのだが、何よりも裁判闘争によって壊れつつある左派の牙城を立て直すという歴史的なたたかいを、多くの人の支援を受けながらその中心になって進められるようになったわけだから、これほど巨大な意義のある社会運動もあるまい、という思いも他方である。

 

 「自分で新たな団体を作れ」という人がいるけど、いやいやいや、ぼくを不当に追放したルール違反の幹部が出ていけばいいのでは? と思うし、「ネットでうだうだ言ってないで紙屋はリアル社会運動でもしろ」という人には、ぼく自身すでにいろんな運動やってるし、何より裁判闘争で世の中をよくするっていうこの上ない巨大なリアル大衆闘争やってますけど? と心の底から思う。

 たしかにぼくは自由なのであり、何かに囚われた人たちが悪罵を投げようとしている。奇妙な構図だなあと思わざるを得ない。

 

 作中で、都心の狭い川の水上バスに乗っているはずなのに、目の前にはまるで広大な海原にいるかのような光景が広がっている。

 この姉が感じている自由さに、なんとなく自分の心象にある自由さを重ねてみた。