坂井恵理『逃げるA』

 セックスに責任があるだろうか。*1

 避妊していても失敗する危険性はあって、そのリスクは女性が負うんだから、それで子どもができれば責任が生じるだろ。

 じゃあもし挿入しないセックス(性行為)を楽しんでいたら、それは責任がないってことだろうか。

 AとBがセックスするとして、AとBにはそれぞれCとD(つまりA-C、B-D)というパートナーがいたとしたらどうか。もしAとBがそれぞれCとDに合意を得ていれば問題はないように思える。合意がなければ、現代の性道徳の下ではパートナーへの裏切りであるが、見方を変えればそれ限りのことである。

 じゃあ、CとDの後ろに子どもや家族がいたらどうか。A-CやB-Dの関係が壊れることで、家庭もバラバラになってしまう。

 少なくない場合において、やっぱり挿入はするだろうし、子どもができるリスクはあるだろうし、家庭が壊れるリスクもあるだろう。責任はあるのだ。

 いくつかの条件を設ければその責任を回避(もしくは極小化)できるような気もするが、それは大変な隘路だ。

 

 本作は、妻子があり家庭を持つ、大手企業らしいサラリーマン男性・安藤和人が浮気をしたり、高校時代に彼女を妊娠させてしまった過去を持っていたりする話で、それをその場面ごとに居合わせた女性たちの視点から描いたオムニバスである。

 

 「あとがき」にこうある。

『逃げるA』が生まれたきっかけは、打ち合わせの雑談でした。

「望まない妊娠の末、子どもを殺した母親は罰せられるけど、父親はどこで何を考えてるんでしょうね」

罰せられないばかりか、ニュースや新聞などで父親が特定されることもない。

こういった表に出ないことこそ、創作で描きがいがある。

 可視化された男としての安藤は、アプリで知り合った女性にコンドームをつけずに挿入するし、妻子がいるし、立場の弱い派遣社員をホテルに誘うし、引きこもりの娘の存在を恥ずかしいと思っているし、高校時代に彼女が妊娠したと告げたらバックレるし、女を馬鹿にするときに最高の笑顔をするし、「償いをさせてほしい」と言ってお金を出すことにひそやかな優越感を感じているし、はっきり言ってクズである。

 しかし、高校時代に安藤にやり逃げされてやがて生まれた娘が大きくなって出会った「安藤」に対し、その娘は

ええ

彼らはみんな

あなたにとても似ています

と内心でつぶやく。

 「あなた」って誰だよ。

 責任を取らずに逃げている男性たちのことなのか。それとも男性一般なのか。

 「少女A」のように匿名性=一般性を表すこのタイトルは、「安藤」という形象を通じて問題の普遍性を訴えている。

 

 だけど、ぼくなどはどうしても「じゃあ逆に、例えば挿入しないで、パートナーの合意を得て、相手とも割り切ってするような婚外交渉だったらいいんじゃないのか?」っていうことばかりが浮かんでしまう。

 なので、本作#4に出てくる女性役員の青枝が、わざわざ安藤のトラップにかかりに行って、お互いのことを分かった上で、ホテルに行くくだりなどは、「この関係ならいいと思うんですけど!?」みたいなことしか考えられないのだ。

 つまりこの作品を「どうすれば安藤和人は道義的責任を追及されずに人生やセックスライフを満喫できるのか」みたいにして考えて読んでしまうのである。

 ダメっすかね。

*1:ここでは異性愛を前提とする。

志位和夫『Q&A 共産主義と自由──『資本論』を導きに』(5/5)

 志位和夫『Q&A 共産主義と自由──『資本論』を導きに』を5回シリーズで書評してきたが今日はその5回目、最終回である。

 批判点ばかり書いてきたが、今回は最後なので、志位の本書の積極的な意義を書いておきたい。

今回の記事の要旨

 今回も要旨を先に書いておく。

  1. 志位の本書で述べている基本点はすでに不破哲三が解明し、2004年綱領で盛り込まれているのではないか。
  2. 志位の本書の新しさがあるとすれば第一に、労働時間の短縮の問題を遠い共産主義の話とせずに現代の労働運動や社会運動の課題としてとらえなお、未来社会と地続きの問題として提起したことにある。
  3. 志位の本書の新しさがあるとすれば第二に、生産力主義というマルクス主義への非難に対し、生産力一般ではなく「資本の生産力」が問題なのだと整理したことにある。

 今回もまず要約を載せる。その上で、体力や時間がない人はそこまで。詳しく知りたい人はそのあとの本文を読んでほしい。

 

1. 志位和夫の本書に「新しさ」はあるか

 さて4回にわたって書いてきた「忌憚のない」書評だが、どうも批判が目立ったかもしれない。

 

 

 残念ながら、志位の本書の基本点は、すでに2004年の共産党綱領の改定、その前後に不破哲三が自身の研究で明らかにしたことに尽きている。労働時間の抜本的短縮によって自由な時間を創造し、それによって人間の能力の全面的発達と人間解放を実現するということ——これを共産主義がめざすべき、あるいは実現するであろう中心に据えたという点である。そこからほとんどハミ出ていない。

 この点は、すでに以前から研究者の中では注目されてきた論点ではあったが、ここを深めて、政治の中心、綱領の中心においた不破の研究(および当時の共産党大会)の功績は本当に大きいと思う。

 だが、そのインパクトに比して今回の志位の本書の新しさはほとんどないと言っていい。いくら文献学的な装いをこらしたり、あるいは複雑な理屈の構造に仕立てたりしてみても、それはかえって理論の密教顕教的性格を強めるだけで、多くの党員はそこについてこられなくなる役割しか生み出さない。「本当のことがわかるのは、『草稿』をちゃんと読んだ一部の幹部だけ」ということになってしまう。

 もちろん、本書を使っての学習会や宣伝は盛んなようだ。それはそれで大いに結構なことである。

 しかし、中身を見ると本書のどの点が役立っているのかはよくわからなくなる。

 例えば24年9月20日付の「しんぶん赤旗」には党滋賀県委員会の宣伝の様子が書いてある。

共産主義社会になれば、自由な時間が増える」と聞いた女子高生は「趣味に時間を使いたい」と。

 うーん、それはすでに2004年に解明されたポイントについての反応ではないか…。

 そしてこの女子高生は自分の趣味の時間確保を共産主義社会の実現まで待つ気なのだろうか。共産主義社会は今日あなたがバイトから自宅に帰る頃には出来上がっているものではないのだよ。

 

2. 志位の本書の新しさ(1)——今の「時短の取り組み」とつなげる

 それでも、志位が本書で強調した点で、新たに重要だと思える点はある。

 一つは、労働時間短縮の取り組みは、共産主義社会になって初めて行われるものではなく、現在労働運動が進めている時短の取り組みが将来の抜本的時短と地続きになっていることを強調した点である。

 これによって、時短の話は遠い共産主義での話ではなく、今この時代で取り組むべき問題として引き寄せられたことである。

 本書ではQ25(「『自由に処分できる時間』を広げることは、今の運動の力にもなるのではないですか?」)やQ33(「今のたたかいが未来社会につながっていると言えますね?」)あたりにそのことが書かれている。

 このように現代の課題として引き寄せることで、共産党労働組合などと懇談をして運動を進めようとするテコになっているのはとてもいいことである。

www.jcp.or.jp

 街頭での対話でも現代の労働時間の長さを短くすることと結びつけてその対話が進んでいることは喜ばしいことだろう。

 しかし、残念ながら、Q25もQ33も、その答えは、現代の取り組みとどう「地続き」になっているのかは具体的には解明されていない。

 すでにこのブログの1回目で書いたことだが、剰余労働の処分についての社会の関与が資本主義下でも進むことで、生産力の向上によって生み出された余剰分を時短に回す取り組みがヨーロッパなどでは進んでいる。そのような取り組みを評価する視座がないのだ。志位が欧州訪問の報告をしていて、なるほどフランス労働総同盟の週32時間労働制を交流するくだりはあるし、『資本論草稿集』に言及するくだりもあるけれど、その動きがなぜ未来社会のパーツとなるのかという本質的な言及はない。

www.jcp.or.jp

 “共産主義になって社会の全構成員の生産参加と、経済の浪費部門の削除がなされない限り労働時間の抜本短縮は起きない”という理論前提を作ってしまったために、資本主義下で育つ「時短を生み出すパーツ」が理論上うまく評価できなくなってしまっている(事実としては認めても)のだと言える。

 

3. 志位の本書の新しさ(2)——生産力が悪いのではなく「資本の生産力」が悪い

 本書のもう一つの新しさは、生産力が悪いのではなく、「資本の生産力」が悪いのだという整理である。

 もちろん、こうした解明は以前から行われていなかったことではない。

 ただ、気候危機など環境問題が大きな焦点になってくる中で、マルクス主義は依然として「近代の悪しき生産力万歳の考えを引きずっている」と批判されることがある。この点について本書ではQ28(「『高度な生産力』の大切さはわかりますが、生産力って害悪をもたらす面もあるのでは?」)での記述がそれに答えている。

悪いのは生産力一般ではなくて、「資本の生産力」が問題なのです。マルクスは、「資本の生産力」に対しては、一貫して厳しい批判者でした。「資本の生産力」から抜け出して、本来の人間的能力としての「労働の生産力」の姿を取り戻していこう。これが私たちの展望です。(p.115)

 こうした整理は、例えば環境問題に関心を持つ若い人たちにとって本来はマルクス主義に新たな魅力を付与するものになるはずだ。

 ただ、志位自身の整理は本文を読んでいくと、ややおぼつかないものになってしまう。その理解で大丈夫? と。

資本主義社会のような、生産力の無限の量的発展をめざすものでなく——、新しい質で発展させるものとなるだろうということです。(p.111)

浪費がなくなることは生産力の質を豊かなものへと大きく高めることになるでしょう。その量がたとえ少なくなっても、質も含めた生産力の全体はより豊かなものへと発展するでしょう。(p.114)

 ここでは量と質が対立したままになっている。

 志位の念頭にはまさに無尽蔵に量を浪費し拡大していく資本主義の現状があるのだろうが、例えばエネルギー使用は「無尽蔵」であってはいけないのか。なるほど化石燃料であれば確かに「無限の量的発展」をさせることは問題になるが、再生可能エネルギーに代替した場合に「無限の量的発展」は否定されることだろうか。あるいは、安全に原子核からエネルギーを取り出す技術が生み出された場合はどうか。

 また、近年論点となっている「脱成長」との異同や概念上の整理もない。

 そこに踏み込めないのか、踏み込まないのか。

 斎藤幸平あたりと討論してみてほしいものである。

 ぼくが第2回で書いたようなエンゲルスの自由観はプロメテウス主義(自然の支配・制御という人間中心主義)であり、生産力主義(生産力の発展が自由を実現するという立場)の一味だとする見方がある。

 斎藤は『マルクス解体』(2023年)の中で、マルクスはプロメテウス主義とは決別しているとして、

そのことがはっきりと現れているのが、『資本論』における彼の「資本の生産力」に対する批判である。この批判によってマルクスは、資本主義における生産力の発展が、必ずしもポスト資本主義への物質的基盤を準備するものでない・・とはっきり認識するようになったのである。(斎藤『マルクス解体』p.18、強調は原文)

と述べている。脱成長、「資本の生産力」をめぐる解釈、プロメテウス主義批判……いやあ、志位と対談させたら、実に面白そうではないか!

 

 長くなったが、以上がぼくが本書の新しさとして評価する点である。

 もちろん、共産主義が自由に処分できる時間の抜本増、それによる人間の全面発達をめざすのを国民に広く知らせることは、悪いことではない。どんどんやるべきだろう。

 ただ、本書が持つ問題点・不十分点にも目を向けてほしい。党内の学習会などでは様々な意見が自由に飛び出すことを歓迎したい。本書は共産党の決定ではないが、志位個人はこれを「社会科学の文献」だと思っていることだろう。社会科学の文献である以上、それは容赦なく、徹底的に批判される義務を負う

 

 マルクス『経済学批判 序言』のラストの言葉をここに掲げておこう。

経済学の分野における私の研究の道筋についての以上の略述は、ただ私の見解が、これを人がどのように論評しようとも、またそれが支配階級の利己的な偏見とどれほど一致しないとしても、良心的な、長年にわたる研究の成果であることを示そうとするものにすぎない。しかし科学の入口には、地獄の入口と同じように、つぎの要求がかかげられなければならない。

「この先に踏み入るのをためらう気持ちはこの場でぜんぶ捨てろ どんな臆病もここで死ね」

 科学は冷酷だ。自分に都合のいい結論なんか出てきやしない。マルクスはダンテの言葉を用いて、批判され炎上することへの「ためらい」「臆病」をぜんぶ捨てろというのである。

 「学び、語りあう」にはその覚悟が必要なのである。

 以上、本書を「学び語りあい」、「忌憚のない意見」を出させてもらった。


 感想は以上の通りだが、最後に一言。

 志位和夫は本書の最後で次のように呼びかけている。

私は「なぜ」という問いかけは本当に人間にとって大事だと思います。(p.148)

理不尽なことを見逃さないで、みんなで「なぜ」と問いかけよう。(同)

 まことにその通りである

 なぜ不当解雇したり不当に除籍したりするのか。

 なぜ「共産主義と自由」というテーマで目の前で起きているそのことに答えないのか。

 ぜひ問うていきたい。

問題をたてるということはそれ自体が、答えに向かっての大きな前進になると思います。(同)

 以上で連載は終わりである。どっとはらい

志位和夫『Q&A 共産主義と自由──『資本論』を導きに』(4/5)

 志位和夫『Q&A 共産主義と自由──『資本論』を導きに』を「学び、語り合う大運動」を共産党が「絶賛展開中!」なので、ぼくも参加させてもらおうと思って書いている。5回シリーズの、今日はその4回目。

今回の記事の要旨

 今回も要旨を先に書いておく。

  1. 共産主義と自由」というテーマで書くのなら、第一に、「共産主義になって人間は初めて経済の主人公になって自由になり、経済を利潤目的ではなく人間の役に立つように使い、①貧困の根絶(社会保障の充実)・②時短・③環境保全などのコントロールをめざせるようになる」ということを書くべきだ。「これが共産主義だ」という明確な目標を綱領にそって3つにまとめろ。
  2. 社会保障を充実させることで、労働時間の短縮が起きる。パート労働者でも暮らせる最低賃金の引き上げ、大学までの学費無償化、住宅手当の支給(低廉な公的住宅や家賃補助含む)を実現すれば、長時間労働の正社員を選ばなくてもすむ。これこそ日本の今の政治で問われていることであり、地続きとして将来の社会主義を準備する部品を作ることにつながる。
  3. 共産主義と自由」というテーマで書くのなら、第二に、共産党が政権を取ったら市民的自由はどうなるのかを書くべきだ。(1)ソ連や中国は遅れた国だったからというが、ドイツはどうなのか? (2)共産党で起きている党内民主主義の実態は国民から見て疑問を引き起こしていないか? (3)表現の自由ジェンダー、結社の自由と出版の自由の関係など、現代の市民的自由をめぐる問題に共産党はどう答えるのか? そのあたりこそ「共産主義と自由」「共産党と自由」で国民が一番知りたいことであり、まずそこに答えよ。

 

 今回もまず要約を載せる。その上で、体力や時間がない人はそこまで。詳しく知りたい人はそのあとの本文を読んでほしい。

 

 

1. 「共産主義と自由」のテーマで何を書くべきか(1):自己決定としての自由

 

 「共産主義と自由」のテーマで書くべきことの第一は「共産主義になって人間は初めて経済の主人公になって自由になり、経済を利潤目的ではなく人間の役に立つように使い、①貧困の根絶・②時短・③環境保全などのコントロールをめざせるようになる」ということである。

 ぼくのこの連載の2回目でも述べたとおり、共産主義になって、人間は利潤第一主義に振り回され自己決定できなかった時代を終え、社会の法則をつかんで自己決定・自己支配ができる新しい時代に入っていくという話を述べた。

 つまり人間と経済の主人公になり、経済は利潤のためではなく、はじめて人の役に立つように使われるようになる。

 その時、「どのように人間の役に立つのか」ということを、国民にわかりやすく示す必要がある。

 これは「共産主義社会主義とはどんな社会か」という答えでもある。国民から「共産主義社会主義とはどんな社会か」と聞かれたらどう答えるか、という問題でもある。

 ぼくは、まず「資本主義つまり利潤(もうけ)ための経済から、社会の必要のために営まれる経済になること」だと答える。

 そしてその「社会の必要」とは、端的に

  1. 貧困をなくす(全ての人が「健康で文化的な最低限度の生活」を保障される)
  2. 労働時間の抜本的短縮による人間の全面発達
  3. 環境保全など経済の合理的な規制

となる。社会保障の充実、時短、環境保護などの規制と単純化して言ってもいい。それをめざすのが共産主義社会主義である。この3つのために経済を使うのである。

 これは実は、日本共産党の綱領に生産手段の社会化の効能*1として書かれていることでもある。

 生産手段の社会化は、人間による人間の搾取を廃止し、すべての人間の生活を向上させ、社会から貧困をなくすとともに、労働時間の抜本的な短縮を可能にし、社会のすべての構成員の人間的発達を保障する土台をつくりだす
 生産手段の社会化は、生産と経済の推進力を資本の利潤追求から社会および社会の構成員の物質的精神的な生活の発展に移し、経済の計画的な運営によって、くりかえしの不況を取り除き、環境破壊や社会的格差の拡大などへの有効な規制を可能にする

 生産手段の社会化は、経済を利潤第一主義の狭い枠組みから解放することによって、人間社会を支える物質的生産力の新たな飛躍的な発展の条件をつくりだす。

 だから「共産主義社会主義ってどういう社会ですか」と聞かれたら、「資本主義つまり利潤(もうけ)ための経済から、社会保障の充実、時短、環境保護などの社会の必要のために営まれる経済になること」という答えになる。

 この3つ(社会保障の充実、時短、環境保護などの規制)のうち、もっとも核心的な目標は2番目の時短である。労働時間の抜本的短縮によって人間の全面発達の土台をつくるという目標こそ、「ここにマルクス未来社会論の核心がある」(不破前掲『古典教室第2巻』p.237)と言えるものだし、志位も本書で力説していることではある。

 哲学者の松井暁は『ここにある社会主義 今日から始めるコミュニズム』(大月書店、2023年)で、自己実現こそが人間にとって最高の価値だという思想は完成主義・卓越主義と訳され、諸個人が有する潜在能力が納得するまで発揮されることを指すとのべる。そして、完成主義は本質主義とも呼ばれ、マルクスが社会の共同の中でこのような自己実現することを人間の本質としてとらえていたとして、社会主義の原理を共同主義と本質主義から成っていると述べている。まさに、時短による自由時間の創出が人間の全面発達を促すという見通しこそ本質主義であり、そこにマルクスの思想の核心を見ているのだ。

kamiyakenkyujo.hatenablog.com

 ただ、時短こそが核心的な社会目標であるとしても、今あげた3つ(貧困の根絶、時短、経済の合理的規制)全体の達成のために、剰余価値の処分に対して、労働者や社会が関与し決定を行うことこそ、共産主義なのである。

 志位の本書には、共産主義が経済への自由を獲得することによって、何を達成するのかという観点が一面的である(時短のみが強調されている)。

 

2. 社会保障と労働時間の抜本的短縮

 もっと具体的に考えてみよう。

 日本共産党が綱領で「生産手段の社会化」つまり社会主義になってめざすべき方向として掲げる3つのうちの2つ、社会保障の充実と労働時間の抜本的短縮は、お互いに補い合いながら、社会主義共産主義を準備する。

 もっともシンプルな例はベーシックインカム(政府による最低生計費の現金支給)であろう。一例であるが、「健康で文化的な最低限度の生活」のために月15万円の現金が、所得に関係なく全ての個人に支給された場合、短時間労働でも生活、結婚、子育て、介護も見通せるようになるから、短時間労働が当たり前になる。

 これらは例えばルトガー・ブレグマン『隷属なき道』(文藝春秋)を読めば簡潔にわかる。

 ただ、ベーシックインカムは依然論争的な制度であり、あくまで思考実験である。

 ではベーシックインカムの代わりに、ベーシックサービスの提供、もう少し表現を柔らかくすれば、社会保障の充実をすることで、ぼくらは過労死寸前の長時間労働を耐え抜いて必死で賃金を稼がなくても済むようになる。

 日本の正社員(しかも男性正社員)が依然として年功序列賃金のしばりがかけられているのは、教育費と住居費の負担が40代、50代で非常に重くなるからである。つまり、子どもを大学で学ばせるための学費と、住宅ローンである。

 この費用を社会保障に移す。

 つまり、大学までの教育費を無償にし、月3万円の住宅手当(低所得者への低廉な公的住宅の整備や家賃補助も含む)を支給することによって、給料でその費用を稼がなくて済むようになる。

 日本では全体の総労働時間は長期的には減っている。

 しかしそれはとてもいびつな形で減っている。

  日本の労働者は正社員の長時間労働がなかなか解消されず、他方でパートやアルバイト、派遣などの短時間労働者が人員としては以前に比べ大幅に増えている。男女共同参画白書 令和5年版』で、「フルタイム労働者の一人当たり労働時間は、90年以降の景気後退期全体を通してみても大きな変更はない」「非正規・パート職員の増加が労働時間減少の主な理由となっている」と述べているが、この両極端が平均されて日本の労働時間は傾向的に減っている。非常にいびつな「労働時間の短縮」が起きているのである。

 正社員には一定の賃金が保障されるが、それは他の先進国と比べれあまりにも長い時間残業することと引き換えにである。

 他方、非正規社員は短時間労働であることが多いが、その賃金は、「健康で文化的な最低限度の生活」が営めないほどに低く、結婚し、家庭をもち、子どもをうみ、その子どもを大学にやれるような見通しは持てない。身分が不安定でしかも賃金は低いのだ。

出典 https://www.nissay.co.jp/enjoy/keizai/99.html

 ここに社会保障の充実(学費無償化、住宅手当支給)を間に噛ませ、なおかつ最低賃金を他の先進国並みに時給1500〜1700円にすれば、パート労働者であっても子どもを大学にまでやることができるようになる

 短時間労働でも住宅を手に入れ、子どもを大学にまでやれるなら、どうして正社員になって長時間労働を好きこのんで耐え忍ぶだろうか。短時間労働は、貧困の象徴ではなく、自由な働き方の入り口となるのだ。

 共産党の議員や共産党員は、いま学費の無償化の署名をがんばっているのではないか? 各地の自治体や国会で家賃補助や公営住宅の増設のために奮闘しているのではないか? 

 そうだ!

 それこそが、社会主義になった時のパーツ(部品)を作るということなのだ。将来と今は地続きなのだ。

 これこそ資本主義の下でのぼくらの社会運動のとりくみと、社会主義共産主義が地続きであることを示す雄弁な証拠ではないのだろうか?

 「共産主義になったら資本家など社会のメンバーがみんな生産に参加したり、証券や金融などの社会の浪費部門がなくなるから、労働時間が抜本的に短縮する」などといった、よくわからない、キツい説明を軸にするのをやめるべきである。

 

 

3.「共産主義と自由」のテーマで何を書くべきか(2):市民的自由はどうなるか

 「共産主義と自由」というテーマで考えた場合に、本当に国民が知りたいのは「共産党が政権を取ったら今ある市民的自由がなくなる/大幅に減らされるのではないか」ということではないだろうか。

 いくら「共産主義になったら抜本的な時短が進み、自由時間が増えて、人間の全面的な発達が可能になるんですよ!」と言ったところで、「でも自由時間がいくら増えても、家でフルート吹いてるぶんにはいいけど、当局がバリバリ監視して体制批判とかできない社会なんスよね」とか思われたら意味がないのである。

 もちろん、これに対応する問いと答えが本書にはある。Q34「旧ソ連、中国のような社会にならない保障はどこにあるのでしょうか?」(p.131-133)だ。

 志位は旧ソ連と中国が遅れた状態から革命を出発させたとして、生産力、自由・民主主義の水準、識字率などを挙げて、現代日本はそれらとは「まったく条件が違う」(p.133)と述べた上で、

日本の社会主義共産主義の未来が、自由のない社会には決してならないという最大の保障は、発達した資本主義社会を土台にして社会変革を進めるという事実そのもののなかにあります。(p.133)

と結論づける。国民が自由・民主主義の点で昔の旧ソ連や中国よりもはるかに成熟しているので、仮に共産党政権がおかしなことをしても、そんなときは国民自身がそういう政権を批判し、下野させるから、旧ソ連や中国みたいなことは起こらない、心配するな、という意味であろう。

 これはこれで一つの道理ではあると思う。

 しかし「そうなりにくい」というほどの話であって、絶対にならないという保障ではない。

 

 三つ問題を挙げておこう。

 一つ目は理屈の上から。

 「発達した資本主義国」であったドイツではファシズムが生まれ、戦後も東ドイツでは長らく「社会主義」を掲げる政権のもとで抑圧的な体制が続いた。

 ズザンネ・ブッデンベルク、トーマス・ヘンゼラー『ベルリン 分断された都市』(彩流社)は東ドイツ(東ベルリン)の脱出をめぐるルポのコミックだが、東ドイツ社会の抑圧をその中で見事に描いている。

 19世紀後半のドイツ(プロイセン)の識字率9割だったとされる。また、20世紀になって王政を打倒し先進的なワイマール憲法を生み出した。経済力も第一次世界大戦前は世界第2位であった(1913年時点で、世界工業生産に占める割合は米国が35.8%、独が15.7%、英が14.0%/『新版西洋経済史』有斐閣双書、1997年、p.255)。

 その国が「社会主義」を掲げる道に踏み出したことは事実であろう。

 しかし、その国は自力で革命を起こした後にナチス体制の成立を許してしまったし、ナチス体制を打倒した後にできた政権は「社会主義」を掲げる道に踏み出したが、結局1989年まで数十年間はスターリン体制を模した抑圧体制に転化してしまっていたのである。国民が例えば数年でその誤りをただすことはできなかったのだ。

主要国の工業生産指数

 志位は東ドイツも「遅れた状態からの出発だった」というのだろうか。今の日本と比べれば相当に遅れている、というかもしれない。しかし、それでは一体どこまで行けば「遅れていない」と言えるのだろうか。

 現代でも、例えば「発達した資本主義国」、例えば「先進国クラブ」と言われるOECDの中で権威主義的な体制をとっている国はないだろうか。

 例えばハンガリーはどうか。同国のオルバン政権は移民やLGBTを敵視し、その独裁ぶりから「ハンガリープーチン」と言われる。英誌エコノミストシンクタンクが発表する「民主主義指数」では「欠陥民主主義」のレベルになっている。

 あるいはトルコ。エルドアン政権もやはり「独裁者」と言われ、弾圧と抑圧を進めてきた。民主主義指数でも「混合体制」(非自由主義的民主主義)という「欠陥民主主義」よりさらに低い評価をされている。

 つまり、現代の「発達した資本主義国」であっても日本国民が十分に危惧するに値する民主主義抑圧は起こりうるのだ。別の言い方をすれば「中国や旧ソ連ほどには確かにならないかもしれないが、トルコやハンガリーくらいにはなってしまうかもしれない」ということだ。

 それでもなおかつ「いやいや日本の民主主義は相当に進んだものだ。日本国民の民度も高い。決してトルコやハンガリーほどにも許すまい」というだろうか。

 日本共産党は日本資本主義がヨーロッパなどに比べて国民を守るルールの整備が遅れていることを綱領でも問題視している*2。そして、その原因を不破も志位も国民のたたかいではなく、戦後に「上からの改革」によってルールが持ち込まれたことに求めている。*3つまり国民のたたかいが十分ではなく、それゆえにヨーロッパと比べて資本主義を規制するしくみがいちじるしく遅れているという認識なわけで、共産党自身がそのような認識を持っている以上、決して楽観視できないものだと思うがどうだろうか。*4

 そして、「日本共産党は民主主義を掲げて権力から弾圧された政党だから、民主主義を抑圧するわけがない」という人(日本共産党員や支持者)がいるが、中国共産党ソ連共産党ボルシェヴィキ)もまさに革命前は徹底した弾圧を受けてきた政党であったという単純な事実を見ればそういう理屈は通用しないことはすぐわかる。

 

 二つ目は、現代の日本共産党の党内民主主義のありようから不安に感じてしまうということだ。

 「いや、党内の規律と国家統治の問題を混同してはならない!」と共産党員や支持者はいうかもしれない。

 なるほど原則的にはそうであろう。結社の自由が保障されており、その結社に自主的に入る市民には市民的自由において一定の制約がある。その制約が嫌なら結社から自主的にまた抜ければいい、という理屈である。結社の自由の範囲内でその結社が何をしようが自治ではないかと。

 しかし、その区別を仮に認めるにしても、そこに透けて見える党幹部らの人権意識はやはり十分に一般市民に疑問を惹き起こさせるものではないのだろうか。

——不当な解雇をしていないか? 自民党総裁選で話題になっている「解雇規制の緩和」を共産党は批判しながら、自身の党職員を「客観的合理的理由」もなく、あるいは「社会通念上妥当」とも思われない理由で、サクサクと首を切っていないだろうか? それは「セルフ解雇規制緩和」ではないのか?

——党職員の働く人の権利を認めているのか? 同じく大企業の「サービス残業」や、ウーバーイーツで働く人を「労働者」と見なさないやり方を批判しながら、自分の党の職員については「労働者」とは認めずに、残業代の支払いも、労働組合を結成する権利も否定してはいないだろうか?*5

——ハラスメントが横行していないか? 自衛隊や宝塚でのハラスメントを厳しく批判しながら、自分の党の中では、ルールで禁じられているはずの自己批判を強要し、自己批判しなければ追放すると脅して職員を精神疾患による休職に追い込んだりはしていないだろうか? 精神疾患で休職していた職員を排除して、「党の撹乱者と同調する人間」だとか、調査中なのに「規約違反」だと決めつける話を他のメンバーに秘密裏の会議でわざわざ流したり、ハラスメントを訴えている職員の仕事を全て取り上げて、他の党職員との接触を禁じたりしたことはなかっただろうか? 法律で義務化された2022年4月から長らく相談窓口さえ置いていないというようなことはなかっただろうか? また、加害者として告発された幹部が調査もせずにその場で否定し県党会議(県大会)でハラスメントの事実を否定する決定までしてセカンドハラスメントを助長させたりはしていないだろうか? ハラスメントや不当解雇などの人権侵害を組織外に告発することに対して「内部問題を外でしゃべるな」と言って黙るように圧力をかけているようなことはないだろうか?

——民主主義的に組織は運営されているのか? 党自身が定めたルールを党幹部が踏みにじって、ルールを都合よく「運用」し、異論を唱えるメンバーに対して不当な排除が行われていないか? 県党会議(県大会)で、党役員の選挙において、「決定や計画を実践する責任と気概がない」と(選挙人が選挙で判断するのではなく)党幹部が会場で宣告した立候補者が選挙直前に一方的に被選挙権を剥奪されるという、民主主義ではあり得ない運営をしてはいないか?

——追放した一個人を圧倒的な非対称性のもとで傷つけていないか? 1人の除名者・除籍者に対して、本人の人格を傷つけかねない執拗なキャンペーンを、組織を挙げて、大変な物量で行なってはいないか?

 そんな事実がないのであればいい。結構なことだ。

 しかし、もしこうしたことが、国民の目の前で展開されていれば、国民はどう思うだろうか。「ああ、共産党職員は労働者じゃないからね。残業じゃなくて自由時間に好きで活動してるんだよね。労働組合とかなくて当たり前だよね」とか「あれは党内問題だからね。党内を統制するためにはそういう国民から見てもよくわからない特殊なやり方も当然だよね」とか思ってくれるだろうか。

 思わないだろう

 「共産党内が非民主的だとか、そんなことを不満に思っている人など、まわりにはいない」と感じている共産党員もいるかもしれない。しかし、それは党への支持という広い視点で考えた場合、薄い支持をしてくれていた人、時々は共産党に票を投じてくれていた人、支持には至らないが関心を寄せていてくれた人がことごとく去り、どんなことがあってもついてきてくれるコアな熱狂的ファンのみが残っている姿なのではないのか。熱狂的なファン層が何も言わずについてきてくれるからと言って、その外にいる、圧倒的に広い層から、自分たちの党の「民主主義」の姿がどう見えているかについて反省がなければ、要するに新規のお客は増えないということだ(そもそも選択肢にも入らず、関心も寄せていないのかもしれないのだし)。

 党への支持という広い視点ではなく、党に入って活動するという層を考えたらどうだろうか。ぼくは自分のまわりの若くて熱心に活動していた党員たちが、このような党幹部の非民主的な姿勢に呆れ、失望し、党を去っていったケースをいくつも見てきた。それどころか、そういう若い熱心な党員たちを、少しでも反抗的な態度をとると排除して回っている姿さえ見てきた。自分なりの意見を言い、耳の痛いことも述べる、もっとも自主的で、もっとも確保すべき若い有能な人たちをうるさがって、去っても追わず、自分たちの組織の在りようを見直すこともせず、別の「何も事情を知らないナイーブな人を新たにリクルートすればいいや。そういう人はたくさんいるもの♪」——そんなふうにやっていったら先細りするばかりで、本当に誰も残らなくなるだろう。

 

 共産党への投票数がガタガタと減り、必死の入党キャンペーンにもかかわらず党員が増えずに減っているという現状は、残念ながらこれらのことを裏付けてしまっている。

 「共産主義と自由」は実は「共産党と自由」の問題なのである。

 国民にとっては間違いなくそうだ。

 まず党の今の姿・活動・組織のありようがどんなふうに国民には見えているのか、その目の前の自分たちの現実の改善から始めないことには、いくら「自由に処分できる時間を増やして人間解放します」とハンドマイクで叫んでみても、聞いている国民の心には響くまい。もし「戦略的課題」として取り組むのであれば、そこに着手すべきではないのか(なお、共産主義における自由時間の話が無駄だとは全く思わない。それは共産主義のイメージの刷新にはつながるだろう。だがそれに熱心に取り組むよりももっと「自由な共産党」というイメージの改善のためには他に取り組むべき問題があるのではないかという話だ。)

 目の前の共産党幹部や共産党組織が、自由で多様性にあふれ、寛容で、民主性に富んでいる様子を実際に国民の前に示さなければ、私も入って活動したいなあとか、俺も票を託してみようとか、そんなふうには思わないだろう。

 

 

 三つ目は、現代における市民的自由の問題で理論的に結論を出すことだ。

 例えば表現の自由と不公正。「共産党政権では女性差別的な表現は禁止されるんですか?」という問いにどう答えるのか、ということだ。

 ポルノをはじめ、女性に対して差別的だと思えるような表現が存在した場合、あるいは民族的な差別と思えるような言論に対して、日本共産党はあくまでそれを克服する世論の力に訴えるのだろうか。それとも一定の条件で規制をかけるのだろうか。

 規制のあり方だけでなく、例えばなぜポルノは問題だと思うのか(あるいは思わないのか)について党としてまとまった方向を出す——キャンセル・カルチャーやポリティカル・コレクトネスが話題になっている中で、そういう方向で答えを出すことこそ、国民が一番知りたい問題で、共産党が自由というものをどう考えているのかを、さし示すことになるのではないだろうか。

 もう少し言えば、共産党という政党は、自分とは反対の立場の勢力や自分が不快に思っている存在、特にその表現を、社会でどう扱うつもりなのか、ということを理論的に示してほしいと思っているのである。

 

 あるいは、政党の自律性。

 いま共産党は、同党を除名された松竹伸幸からその処分の撤回を求めて裁判を起こされている。

 しかし、除名処分の手続きが妥当だったかどうかを裁判において説明を求められても「党内問題だから答える必要ない」「司法が口を出すべき問題ではない」という態度をとっている(2024年9月19日時点)。

 政党がどんなルールを定め、それをどう運用するかは、政党が自分で決めるべき問題だ。それが結社の自由というものではないか——これは原告の松竹さえも認めるところである。松竹は共産党の戦前の弾圧の歴史を振り返り、特に共産党がこのことを大事にするのはすごくよくわかるとまで言っている。

 だが、だからといって、なんでもかんでも組織が自治をし、ルールを決め、運用でき「嫌なら出て行け」と言えるわけではない。いったん共産党に入ったら憲法もクソもない、好きで入ったんだろ、というわけにはいかない。

 松竹は自分は綱領に反する出版を行ったことはないとして、次のように主張している。

結論として私が主張したいのは、綱領と規約、大会決定の範囲内では、党員の出版の自由は最大限に尊重されるべきだということだ。綱領と規約、大会決定への批判を含まない本を刊行した為に処分されるべきではないし、そのような処分は憲法の出版の自由に反し、結社の自由の範囲を超えたものとして、裁判の司法審査が及ぶというものである。(松竹『私は共産党員だ!』p.109)

 「結社の自由」を無制限に認めるのではなく、憲法が保障する別の自由である「言論・出版の自由」とのバランス=均衡点を探るべきだという主張である。

 それに対して共産党がどう答えるのか。それは公党として責任をもって回答すべきことのように思える。松竹の意見に賛成するか反対するかは別として、裁判で共産党がそれを自信をもって答えることが、まずは「共産主義と自由」「共産党と自由」について、共産党が果たすべき責任ではなかろうか。

 ところが、言論・出版の自由との均衡どころか、共産党側は松竹事件の裁判において、除名手続きが正しかったかどうか、それさえも答えることを拒んでいるというのだ(2024年9月19日時点)。さすがにそれはどうなんだということで、裁判所から共産党側に「ちゃんと反論してね」との声かけがあり、共産党側は「検討する」と回答したようではある。(動画の11分あたりから14分あたりまで)

www.youtube.com

 こうした市民的自由をどうするかについて、理論的に答えることこそ、共産党の幹部には求められている。

 1970年代につくられた日本共産党の「自由と民主主義の宣言」(96年に改定)は、近代民主主義をブルジョア民主主義として乗り越えられるべき、つまり否定されるべき民主主義とする見方を一掃し、近代民主主義の価値の積極性を評価しつつ、共産主義者こそがその発展的継承をめざすことを理論的に明らかにした。これはこの時代における一つの新しい解明だった。

 それを今日繰り返しても意味はないが、現代は現代なりに答えが出ていない(あるいは不安に感じられている)市民的自由に関する問題が存在する。そのような問題に共産党としてどう答えるかを出すことこそ、本当に国民が求めている「共産主義と自由」あるいは「共産党と自由」という問題なのではないだろうか。

*1:生産手段の社会化によって起きる「社会の変化」というのが正確。

*2:「大企業・財界の横暴な支配のもと、国民の生活と権利にかかわる多くの分野で、ヨーロッパなどで常識となっているルールがいまだに確立していないことは、日本社会の重大な弱点となっている」(共産党綱領)。

*3:「私は、そこには、一連の改革が『上からの改革』だったことと結びついた、日本社会の重大な弱点がある、と見ています。『過労死』とか『サービス残業』とか、世界の他の資本主義国ではありえないような、ひどい搾取形態が生まれるのも、その根底には同じ弱点があります」(不破『新・日本共産党綱領を読む』p.135)、「日本の場合には、残念ながら、いまの八時間労働制は、敗戦後の民主化の時期に、『上からの改革』で与えられた、という歴史があります。そのために、それをかちとった労働者の側の権利意識が、階級闘争でみずからその道を切りひらいてきた国ぐにとくらべれば、はるかに弱い」(不破『「資本論」全三部を読む 第二冊』p.141)、「一連の戦後の民主的改革がおこなわれたわけですが、『上からの改革』という側面が強くありました。国民がその権利を使いこなすようになるためには、日本でもたたかいが必要だったのです」「ヨーロッパ社会と対比して痛感するのは、ヨーロッパ社会では、労働運動が非常に大きな社会的地位を占めていることです。…日本はここで大きな遅れがあるということを痛感します」(志位『綱領教室 第2巻』p.80〜88)

*4:最近の志位和夫欧州左翼諸党訪問でも「私たちが一番知りたかったのは、雇用でも、社会保障でも、教育でも、ジェンダーでも、欧州の到達点と日本の到達点にはたいへんに大きな開きがあるのはなぜなのかということでした」と問い「欧州の同志たちから返ってきたのは、労働者・国民の長期にわたる粘り強いたたかいによって『社会的ルール』をつくってきたし、いまもそうしたたたかいを続けているということでした。たたかいこそ『社会的ルール』をつくる。このシンプルな事実にこそ真実があるということでした」と答えている。

*5:「四六時中、党機関の活動を自分の中心任務として担っているのは、常任活動家です。この意味で、「全生活を共産党の任務においている活動家」ということが言えるわけです。…だから会社と雇用契約をむすんでいるサラリーマンとはまったく違うわけです」(浜野忠夫『時代を開く党づくり』p.200)

志位和夫『Q&A 共産主義と自由──『資本論』を導きに』(3/5)

 志位和夫『Q&A 共産主義と自由──『資本論』を導きに』を「学び、語り合う大運動」を共産党が「絶賛展開中!」なので、ぼくも参加させてもらおうと思って書いている。5回シリーズの、今日はその3回目。

今回の記事の要旨

 今回も要旨を先に書いておく。

  1. 志位は原始共同体の時代が長かったことが、生産手段の共有が人類にとって当たり前の社会の証明だとしているが、志位が消化したイロクォイ族(アメリカ先住民)の社会や三内丸山遺跡の例を見たところで、原始共同体の時代に「自由」があったとは言えないのではないか。
  2. 本書は「Q&A」って書いてあるけど、実際にQ&Aをしているのって、ほとんどなくない? 
  3. 本書が「たちまち7刷決定」とかうたってるけど、かなり強引に買わせてない?
  4. 資本論草稿集』を読んで初めて豊かな全体が語れるというなら、『資本論草稿集』をちゃんと普及する形で発行すべきじゃないのか?

 

 今回もまず要約を載せる。その上で、体力や時間がない人はそこまで。詳しく知りたい人はそのあとの本文を読んでほしい。

 今回はちょっと箸休め的な内容だが。

 

1. 原始共同体(原始共産制)の期間が長かったことが「自由」の証明?

 

 志位和夫は本書(『Q&A 共産主義と自由』)のQ16で、

「生産手段の社会化」と「自由」は深く結びついているということですね?

との問いに答えるために、「いろいろと考えてみた」(p.67)あげく、人類史のあけぼのである原始共同体(原始共産制)の時代が長く続き、人類の歴史の圧倒的期間を占めることをもって

生産力が低い水準ながらも、自由で平等な人間関係の社会(p.70)

が長く続いたという例証とし、

人類の長い歴史でみたら、生産手段を共有する自由な社会こそが、当たり前の社会だ(p.71)

と述べている。

 いやあ、この論建てはかなり無理がある

 まず、原始共産制の時代は志位自身が

この社会では、個人は共同体と“へその緒”でつながっており、共同体の一部であり、共同体の規則に無条件で従わねばならず、本当の意味で独立した個性とはなりえなかった(p.70)

と述べているように、きわめて制約の大きい社会であり、それが長い期間続いたからと言って、「自由で平等な人間関係の社会」が「当たり前の社会」だなどと結論づけることは到底できないことである。

 別の言い方をすれば、「生産手段を私有ではなく社会全体がもつような社会が自由で平等で当たり前だということは、縄文時代をみてください、旧石器時代をみてください」と主張しているわけで、これで「はあそうですか」と言う人はなかなかいないのではなかろうか

 志位が原始共同体の社会が「自由で平等」であったという例示として、アメリカの先住民であるイロクォイ族をみよ、そして日本の縄文時代三内丸山遺跡をみよ、と述べている。

 19世紀のイロクォイ族は原始共産制の段階にあり、自由で平等な社会である、という志位和夫の観察は、何を根拠にしているかといえば、モーガン『古代社会』をマルクスがノートに取ったもの(マルクスモーガン『古代社会』摘要」)からである。

 モーガンマルクスによれば、そこには「人格的に自由」「相互に自由を守りあう義務」「自由、平等、友愛」「独立精神と個人的威厳」などが観察できるのだという。

 うん。

 だけど、19世紀に現存する部族は原始共産制の段階にあるとみなしてそこから古代社会を類推するというやり方は、19世紀には一定の意義があったが、21世紀の今日、そのまま無批判に採用するわけにはいかない。

 実際、北米東部の「インディアン」はモーガンが観察していた19世紀の時点で、すでに原始共産制段階を過ぎて、国家を持つ階級社会に到達していたとする研究*1が出されている。

 モーガンの観察したイロクォイ族社会にたとえ「自由」の気風があっても、それはもはや原始共同体が示す自由とは言えない、ということとなる。

 要するに、19世紀のイロクォイ族の観察を根拠に、原始共同体は自由で平等だったと結論づけることはできないのだ。

 志位の記述は、不破哲三『講座『家族、私有財産および国家の起源』入門』(新日本出版社、1983年)によるところが大きいのだが、不破はあくまでモーガンマルクスがどのようにイロクォイ族の社会をとらえていたかを文献的に明らかにすることに重点があり、歴史事実としてイロクォイ族がどういう社会だったのかに踏み込むことには相当に慎重である。それは今日までの研究をきちんと追わなければ到底言及できないもので、“マルクスのノートに書いてあるから正しい”というわけにはいかない、ということをよくわきまえていたのであろう。(実際、『入門』ではモーガンが「歴史的事実」としてとらえていた「プナルア婚」=兄弟姉妹同世代婚を不破は明確に否定しているし、不破は、不破の時代の研究の最新到達点としてセミョーノフ『人類社会の形成』を紹介する努力をちゃんとやっている。)

 また、志位は三内丸山遺跡で共同生活が営まれ、そこでは老人・子ども・障害者に食料が平等に分けられていた、経済は民主的に管理されていた、という話を書いている。これは残っていた骨などからの類推ではあるのだが、仮にそれが正しいとしても、その話はあくまで「平等」の話であって、「自由」の話ではないはずである。

 三内丸山遺跡の例についていえば、少なくとも志位が書いていることは、「生産手段の社会化と自由が深く結びついているのか」というQ16の問いの答えにはなっていない

 このQ16は個々の知識はともかく、全体として問いに答える企ては失敗している

三内丸山遺跡

 

2. 「Q&A」形式になってなくない?

 そして、これはまあ趣味の問題なのかもしれないが、本書は率直に言って「Q&A」形式になっていない。少なくともその形式を採用した良さが何も生きていない。

 「Q&A」形式に対比されるのは、叙述風、もしくは教科書風であろう。自分が述べたいことを誰かにジャマされずに整然と体系的に述べたい場合はこちらの方が向いている。

 叙述風形式がふさわしいのは、例えばもともと聞き手(読み手)の側にほとんど知識がないような場合である。「高校で学ぶ物理学についてあなたの疑問に答えます!」と打ち出して「Q&A」形式をやろうとしても、そもそも多くの人は高校で学ぶ物理学のイメージすらあるまい。質問や疑問など出て来ようがない。

 これに対して、「Q&A」形式は、すでに相手(聞き手・読み手)の側に一定の知識はあるけども、実はよくわからないとか、ホンネのところを聞きたいとか、細かいところを聞く機会がないとか、そういう場合にうってつけなのである。

 「共産主義と自由」の場合はどうだろうか。

 実はちょっと判断に迷う。

 多くの人、少なくとも本を買って読もうかという程度の人にとっては、「共産主義と自由」についてはすでにイメージがある。ソ連や中国などだろう。ひょっとしたら日本共産党についてかもしれない。もともと本書の意図は、国民の中に沈殿している共産主義と自由についてのイメージの払拭を戦略的に担おうとするものなので、ある程度のイメージが相手(聞き手・読み手)の側にあることを想定していると言える。

 ただ……。

 他方で、その払拭したい共産主義のイメージが、日本共産党が伝えたい共産主義像と乖離しすぎているので、「Q&A」で誤解を解くやり方だと、部分的な像しか相手に伝わらないといううらみがある。全体像を伝えるために、イチから体系的に話したくなってしまうのである。

 「共産主義と自由」というテーマは、このジレンマに晒されている。

 そして、志位和夫は、まさに一番良くない形でこのジレンマに引き裂かれてしまっているのだ。

 まあ、本書のQ&Aの構成を見てくれたまえ、諸君。

Q1「社会主義共産主義」のイメージが変わるお話になるということですが?

Q2「資本主義」や「社会主義共産主義」とは経済の話なのですか?

Q3そもそも資本主義はほんとうに自由が保障された社会なのでしょうか?

Q4貧富の格差の拡大はどこまできているのでしょうか?

Q5気候危機がとても不安です。危機はどこまできているのでしょうか?

Q6社会主義への新しい注目と期待を感じます。世界ではどうでしょうか?

Q7「『資本論』を導きに」が副題ですが、どういうことでしょうか?

Q8「人間の自由」と未来社会について、日本共産党大会で解明がされました

Q9そもそも「利潤第一主義」とはどういうことでしょうか?

Q10「利潤第一主義」は資本主義だけの現象なのですか?

Q11「利潤第一主義」はどんな害悪をもたらすのですか?

Q12資本主義のもとでなぜ貧困と格差が拡大していくのでしょうか?

Q13「あとの祭り」の経済とはどういうことですか?

Q14どうすれば「利潤第一主義」をとりのぞくことができるのですか?

Q15「利潤第一主義」から自由になると、人間と社会はどう変わるのですか?

Q16「生産手段の社会化」と「自由」は深く結びついているということですね?

Q17「生産手段の社会化」と「自由」を論じたマルクスの文献を紹介してください。

Q18ここでの「自由」の意味は、第一の角度の「自由」とは違った意味ですね?

Q19「人間の自由で全面的な発展」とはどういう意味かについて、お話しください。

Q20「人間の自由」についてのマルクスの探求の過程をお話しください。

Q21搾取によって奪われているのは「カネ」だけでなく「自由な時間」ということですね?

Q22今の日本で、働く人は「自由に処分できる時間」をどのくらい奪われているのですか?

Q23『資本論』では、「人間の自由」と未来社会について、どういうまとめ方をしているのですか?

Q24第一の角度の自由と、第二の角度の自由の関係について、踏み込んでお話しください。

Q25「自由に処分できる時間」を広げることは、今の運動の力にもなるのではないですか?

Q26「利潤第一主義」がもたらすのは害悪だけなのでしょうか?

Q27資本主義の発展のもとでつくられ、未来社会に引き継がれるものをお話しください。

Q28「高度な生産力」の大切さはわかりますが、生産力って害悪をもたらす面もあるのでは?

Q29「経済を社会的に規制・管理する仕組み」とはどういうことですか?

Q30「国民の生活と権利を守るルール」も未来社会に引き継がれていくのですか?

Q31「自由と民主主義」についてのマルクスの立場、未来社会になったらどうなるのかについてお話しください。

Q32人間の豊かな個性と資本主義、社会主義の関係についてお話しください。

Q33今のたたかいが未来社会につながっていると言えますね?

Q34旧ソ連、中国のような社会にならない保障はどこにあるのでしょうか?

Q35発達した資本主義国から社会主義に進んだ例はあるのですか?

 まず目につくのは、「〜についてお話しください」「〜を紹介してください」という「ください」形式。7つもある。

 そもそもこれ質問じゃねーだろ

 指示もしくは命令である。テストの出題っぽくさえある。

 「Q8『人間の自由』と未来社会について、日本共産党大会で解明がされました」に至っては、何かを求めてすらいない。司会者のつぶやきだ。「え? だからどうしたの?」と言いたくなる。

 そして「Q16『生産手段の社会化』と『自由』は深く結びついているということですね?」や「Q18ここでの『自由』の意味は、第一の角度の『自由』とは違った意味ですね?」「Q21搾取によって奪われているのは「カネ」だけでなく『自由な時間』ということですね?」「Q33今のたたかいが未来社会につながっていると言えますね?」あたりになると、もう質問者が質問で答えを言っちゃってる

 徹子の部屋」の徹子かよ

 「なんでもあなたは小学生のころ八百屋さんにお買い物に行くにもスーツとネクタイをしていたんですって?」「はい」「それでお店の人がいつも笑って10円おまけしてくれたっていうんですってね」「はい」。

 質問形式になっているものも、若い人の素朴な疑問に答えるというより、「Q23『資本論』では、『人間の自由』と未来社会について、どういうまとめ方をしているのですか?」とか志位和夫が今から自分の体系的な議論を導き出すための単なる呼び水であったり、「Q6社会主義への新しい注目と期待を感じます。世界ではどうでしょうか?」など共産主義に疑問を抱いている人の質問ではなくむしろバリバリに反資本主義の人の気持ちを代弁しているような質問が目立つ。

 

 本書の「はじめに」によれば

「学生オンラインゼミ」は、民青同盟のみなさんが、社会主義共産主義についての学生からの疑問や、同盟内での学びのなかで出された疑問を35の質問にまとめ(p.5)

たものだという。

 しかし、その中には「共産主義では給料はみんな同じなんですか?」とか「共産主義では起業して大もうけすることはイケないことになるんですか?」とか「共産主義では競争はなくなるんですか?」「共産党政権ではポルノや差別的な表現は禁止されるんですか?」「松竹伸幸さんの除名とキャンペーンを見ると日本共産党もやっぱり自由を抑圧するんじゃないですか?」をみたいな質問は一つもない

 まあ、こうやって学生や民青内部から出てくる疑問をまとめたというのは本当なのかもしれないけど、どうしてそれとは別に「素朴な質問」を入れないのだろうか。自分と立場が全く異なる相手からのアプローチには臨機応変に答えることができず、答えやすいものや自分の話の流れに合うだけをあらかじめ厳格にセレクトしてもらい、それに答えることしかできない——そういう体質を嗅ぎ取ってしまうのは、ぼくの考えすぎというものなのだろうか。

 

 本来「Q&A」、とりわけ、今回のように若い人向けに、若い人の素朴な疑問に答えるというところに「Q&A」形式の醍醐味というのはあるのではなかろうか。その当意即妙のうちに、生き生きとした思想の真髄が現れる——バフチン的なダイアローグの発想がここにはないように思われる。

 もちろん、それはあくまで「趣味」の問題なのかもしれない。

 こんなふうにQ&Aで本を組み立ててもそれ自体は「間違い」なわけではない。本人(著者)の好みでやればいいことだ。でも、だったら、教科書風・叙述風にしても全然問題はないんじゃないかなと思うんだけど。

 

3.「たちまち7刷決定」というけど…

 新日本出版社からはぼくのタイムラインに本書の増刷を告げる投稿が流れてくる。「たちまち7刷決定」。


 しかし、共産党都道府県委員長会議で、小池晃書記局長は、本書の普及に消極的な地区委員会に対して次のような厳しい批判をしている。

 第五に、「『共産主義と自由』を学び、語りあう大運動」をどうすすめるか。県委員長のアンケートでは、「ここから突破していける希望が見えた」との報告も寄せられている一方で、ほとんどこの問題に触れていない県もありました。

 まず党機関が、この「大運動」の「戦略的課題」の位置づけを深くつかむことが必要ではないでしょうか。

『Q&A』の注文は、地区で300部、500部というところもあれば、10部、20部のところもあります。率直に言って10部、20部では「大運動」になりません。書籍の抜本的な普及をよびかけます。

 全国にある300の地区委員会が500部購入したら15万部。そりゃ「たちまち7刷」も行きますわ…。(ぼくの書いた新書なんか10年経ってようやく8刷だもんね。)

 本書は党の決定ではない。

 党の代表者の一人が書いた著作、「研究書」である。

 普及を都道府県委員長会議では決定したが、大会や中央委員会では決定していない。

 決定ではないから著作そのものに「集団的な英知」が反映されているのかどうか、反映されていたとしてもどのように反映されているのか、ぼくにはよくわからない。*2むしろこれまで見てきたように、いろんな批判点がぼくには目についてしまう。しかもかなり根本的な。このような個人のマルクス研究について、党員が外で批判を述べることは「党の見解と異なる意見を勝手に発表すること」や「内部問題を外部に持ち出すこと」になるのだろうか?

 不破哲三は、委員長をおりてから、さまざまな研究を発表した。講演の形をとったこともある。だが、彼は自著を300部、500部買えと地区に“圧”をかけたであろうか?*3

 ぼくはどうも違和感を覚えてしまうのだ。

 共産党として、志位和夫個人の研究(著作)の扱いが、不釣り合いなほどに大きくなっているのではないか、ということに。

 

4. 『資本論草稿集』を普及しないの?

 さらに、本書の「理論的な背景」を話したとされる、志位和夫「『自由な時間』と未来社会論」という講演は、全国都道府県学習・教育部長会議の「第1部」として、つまり党において指導部が身につけ、徹底すべき中身として扱われた。*4

 志位によればこの講演は、『資本論』だけでなく、『資本論』を書く上でマルクスが長年書いてきた草稿を集めた『資本論草稿集』を研究したものなのだという。『資本論草稿集』は本に生かされた部分だけでなく、マルクスのたくさんの没稿などが含まれていて、全集版と同じ分厚い本にして9冊にもなるという膨大な量になる。

 ところが志位は、この講演で、

資本論』と『草稿集』をセットでつかむということが必要になるだろうと思います。(志位「『自由な時間』と未来社会論」/「前衛」2024年9月号p.50-51)

未来社会論については、『草稿集』の解明と『資本論』での解明をセットでつかんでこそ、はじめてその豊かな全体像をつかめるのではないかというのが、マルクスの足跡を探求してみての私の結論であり、今日、分量をいとわず、『資本論草稿集』の該当箇所を紹介したのも、そのためです。(同前p.51)

として「セットで理解する重要性」を強調した。

 「セットでつかんでこそ、はじめてその豊かな全体像をつかめる」ということは、セットでつかまないと豊かな全体像はつかめない、ということだ。『資本論』だけ読んでいてもダメだというわけである。

 ぼくは志位の「『自由な時間』と未来社会論」を聞いても、そういう気持ちはあまり起きなかったが、それでも党首である志位が党の全国的な正規の会議=全国都道府県学習・教育部長会議でわざわざそんな強調をするのであれば、党として、『草稿集』全体を手に入れられるように普及版を用意すべきではないのか?

 志位はさすがに党の正規の会議で『草稿集』を読まないとダメだという結論になってはマズイと思ったのかもしれないが、

もちろん、一般的に言って、『資本論草稿集』の勉強をするということは、なかなか難しいと思います。だいたい『草稿集』は手に入れること自体が困難でしょう。(p.51)

という言い訳はしている。しかし、「難しい」「困難」だと言ってもそれを読まないと「豊かな全体像」はわからないというのが、党としての正式な結論なんじゃないんですか?

 そうである場合に、志位が今回抜粋したところだけ読めば未来社会論の「豊かな全体像」はわかるというのだろうか? そんなことは、実際に草稿の全体にあたってみなければわからないではないか。そうしたら、思わぬ発見や気づきがあるかもしれないではないか。

 普及版を用意できないのであれば、「セットでつかんでこそ、はじめてその豊かな全体像をつかめる」というのは余計な判断だ。志位が紹介した草稿の部分だけを読者が読んで、「『資本論』ではわからなかったほど豊かだなあ」と実感してもらえればそれでいいではないか。実感してもらえないのだとすれば、志位の紹介が悪いか、実際にはセットでつかまないとわからないなどということはないか、どちらかなのだ。

 個人の研究としてそういう感慨を述べるのは全く自由だが、党の正式の会議でこういう位置付けを迂闊に与えることに、志位はもっと慎重になるべきだろう。

 

*1:大西広「北米東部インディアン研究の到達点とエンゲルス『起源』」2003年

*2:もちろん、例えば常任幹部会や幹部会で一言一句に至るまでチェックされた可能性がないとは言えないだろう。知らんけど。

*3:不破の本の中で最近大会決定(2024年の第29回大会決議)で学習が呼びかけられたのは『「資本論」全三部を読む 新版』くらいではなかろうか。

*4:「党機関、指導的同志は『前衛』9月号『「自由な時間」と未来社会論――マルクスの探究の足跡をたどる』とセットで学習することをよびかけます」(都道府県委員長会議への報告)。

志位和夫『Q&A 共産主義と自由──『資本論』を導きに』(2/5)

 志位和夫『Q&A 共産主義と自由──『資本論』を導きに』を「学び、語り合う大運動」を共産党が「絶賛展開中!」なので、ぼくも参加させてもらおうと思って書いている。5回シリーズの、今日はその2回目。

実家ででた料理

 

今回の記事の要旨

 今回も要旨を先に書いておく。

  1. 国有化や協同組合など「生産手段の社会化」のイメージが非常に狭い(本書Q24など)。資本主義の下で資本家の所有に干渉し、社会が剰余労働の処分決定にかかわることの一つひとつが、生産手段の社会化のパーツを今ここで構成していると見るべきだ。
  2. 本書の「『利潤第一主義』からの自由」(「〜からの自由」)という表現は消極的自由を意味してしまう。しかし、剰余労働の処分を資本家が独占せず社会が決定できるようになることは、経済に対して人間が主人公となり、自由になることであり「〜に対する自由」「〜への自由」を構成するもっと積極的なものだ。そのような自由観こそヘーゲル以来の自由観を受け継ぐ、マルクス主義の自由観の本領だ。

 体力や時間がない人は以上の要旨だけ読んでくれればいい。時間がある人はその後も。また、「要旨のこの部分はどういう理屈だろう?」と興味を持った人は下記でその部分だけでも読んでほしい。

 

 

1. 「生産手段の社会化」のイメージが全くないか、狭すぎないか?

 

 本書は、“「資本主義は自由」と言われるが、資本主義の基本原理である利潤第一主義によって貧富の格差の拡大や、気候危機が生じ深刻に人間の自由が脅かされているではないか”という導入になっている。

 これに対してQ12で「どうすれば『利潤第一主義』をとりのぞくことができるのですか?」との問いを立て、志位は、マルクスの答えとして「生産手段の社会化」だとのべる。

マルクスが出した答えは、「生産手段の社会化」——生産手段を個々の資本家の手から社会全体の手に移すということでした。(p.62)

つまりここの資本家がもうけを果てしなく追求する「利潤第一主義」にかわって、生産の目的と動機が「人間と社会の発展」のためということになるじゃないですか。(p.63)

 ここで多くの人が「『社会全体の手に移す』とは具体的にどういうこと?」と疑問に思うのではないだろうか。

 志位はそのイメージについて国有化を

唯一の方法とは考えていません(p.63)

とのみ答えている。えっ? 「唯一の方法」ではないのであって、国有化ということが基本なのかな? とも受け取れる答えである。

 他方で本書の終わりでは質問に答え、

協同組合は「社会化」の一つの形態になりうる(p.137)

と答えている。

 “国有化もそうかもしれないが、それだけではなく、協同組合はその一つのカタチだ”…。うーん。これでわかるだろうか?

 その形態を具体的にしばらない、つまり青写真を描かない、というのが日本共産党の伝統的な答えなのでこういうふうになってしまうのだ。

 だが、多くの国民はそこを聞きたがっている。また、そのイメージなしに利潤第一主義が具体的にどう克服されていくのかわからないではないか。

 生産手段を社会に手に移すことによって利潤第一主義を抑え、どのように貧富の格差や気候危機が克服されていくのだろうか、と疑問に感じるわけである。

 そこで国有化や協同組合を仮にイメージしてその克服を考えてみる。

 例えば貧富の格差。国有化した場合を考えてみよう。

 国有化によってもし企業体が1つしかない場合、なるほど剰余価値(もうけ)をどう処分するかは労働者や社会が関与して決められるに違いない。誰かが独り占めすることなく、もうけを社会保障、拡大再生産、労働者の生活向上、そして時短に公正に振り向けられるだろう。

 しかし、ではそうだとしたら、企業体は1産業に1つしかないのだろうか? それとも複数存在し、競争しているのだろうか? 国民は企業を起業することはできないのだろうか? 没落を含めた競争によって技術の発展が起きるという可能性を否定するのだろうか? 国有化はむしろこれらの問題にほとんど答えることができない。

 協同組合なら、複数の主体が自由に設立することが可能だろう。しかし、協同組合はその事業体の中では民主的な分配や参加が可能だとしても、ある協同組合が社会全体に対してエゴイスティックな振る舞い——例えば利潤追求一辺倒で環境を破壊することを防げるわけではない。また、過剰な生産を防げるわけでもない。

 結論を言えば、このように狭い意味での企業の「所有」形態をいじることで、問題が解決するかのように考えるのは、論理的に物事を考え抜いていないのだと思う。また、資本主義の下で発達してきた、経済に対する社会の関与の仕組みを生かし、発展させることに無頓着すぎると思う。

 別の言い方をしよう。「生産手段の社会化」のイメージが貧困なのだ。古い社会主義のイメージに自らとらわれてしまい、狭い意味の所有をいじること(個別企業や株主から取り上げること)しか考えていないのである。

 例えば貧富の格差を是正するという問題の解決を考えてみよう。

 現代の資本主義の下で、貧富の格差を是正するために発達しているものは何かと言えば、一つは課税であろう。企業のあげる莫大な利潤を、法人税課税などによって社会(政府)が吸い上げ、それを社会保障拡充・社会資本建設などに回すという制度設計である。

 利潤第一主義に囚われた社会(資本主義)では、政権はその利潤第一主義を擁護する形で政治を行う。だから、法人課税は「ほどほど」にしか行われない。これに対して、社会主義政権では、この法人課税、あるいは所得への累進課税を徹底する。そのことによって、資本家が搾取した剰余価値を、再び社会が取り戻し、社会のために使わせることができるのである。

 別の言い方をしてみよう。社会主義政権が50%の課税を提案する。「いや、法人課税の税率を50%まで引き上げたら企業活動や経済は活力を失ってしまう。30%で止めるべきだ」という資本家寄りの反対意見が野党から出されるとする。世論などの力関係で結果的に40%ということで落ち着いた。後から考えてみれば50%に引き上げて社会保障や社会資本の拡充に回すことが、企業の活動も活性化させ、国民の生活向上も実現させる、最適な結論だったとする。しかし、その時には40%で妥協するしかなかったのである。このようにして、社会的な理性は一歩一歩実現していき、50%になったときに初めて、貧富の格差を大幅に是正するポイントに達し、その分野で「利潤第一主義は克服された」ということができるはずだ。

 生産手段に対する「所有権」とは何かを改めて考えてみると、民法206条にあるように

所有者は、法令の制限内において、自由にその所有物の使用、収益及び処分をする権利を有する。

ということだ。社会(政府)は、生産手段によって生み出される収益に対して、積極的に関与し、その所有権を「侵害」し、収益の処分の権利を法律(法人税所得税)によって一部奪っている。これは「生産手段の社会化」の、(この分野における)部分的な実現ではないだろうか

 このような道筋で貧富の格差の是正を考えてみると、今ある企業を否定したり、競争や市場の存在を否定したりする必要がないことがわかる。そして、今の資本主義から、この分野での利潤第一主義の克服までが「税率」というシンプルなもので地続きであることが理解できるはずだ。

 古い社会主義者たちがやりがちなことは、本書Q12で「資本主義のもとでなぜ貧困と格差が拡大していくのでしょうか?」という問いの答えでマルクスが『資本論』で明らかにした富と貧困の蓄積の法則にその原因があるのだから、その原因そのものを除去すること、原因を廃絶することに熱中してしまうようなやり方だ。そのために資本=企業体を否定してしまおうとする。いくら口で「いや、資本の否定ではなく止揚だ」と言ってみても、やっていることは狭い意味での所有をいじり、資本を資本家・株主から取り上げてしまおうとする。そうしないと社会主義ではない、修正資本主義になってしまう、改良主義になってしまうという思い込みがあるのである。

 そうではなく、資本のもとで問題を引き起こしている原因があったとしても、原因を直接廃絶するのではなく、その原因によって引き起こされてくる結果を緩和したりコントロールしたりする制度や仕掛けをどんどん大きくし、繁茂させることで、害悪を大幅に弱めたり、無効化させるというイメージを持つことが大切なのだ。

 問題の解決は、今なされている努力の先にしかない。狭義の所有いじりで解決する魔法など存在しない。

 貧富の格差の是正という問題に、「利潤への課税の拡大」を解答にすることを「修正資本主義」「生産を変革せず分配だけを問題にしている改良主義」だとする「呪い」=思い込みから解放されることが必要だろう。

 気候危機への対策も同じである。

 すでに資本主義下で脱炭素の方策は様々に出揃っている。再エネ、化石燃料の規制、省エネなどである。日本共産党自身が示している提言は、いずれも資本主義下での対策である

www.jcp.or.jp

 問題は、それを完全に実行できるかどうかにかかっているのであって、利潤第一主義からの妨害に負けて妥協してしまうか、それともそれと徹底してたたかうか、である。

 この気候危機の問題でも、社会主義——生産手段の社会化の具体的な姿は、現状の資本主義下での努力を拡大するのかどうかが問題であって、社会全体の企業の所有形態を大幅に変更することなどほとんど問題になっていない(地域の再エネを扱う際に、住民による協同組合形式が奨励されるということはあるだろうが、例えば自動車メーカーの企業形態をいじったり、鉄鋼産業をどうしても国有化しなければならなかったりする必要はまるでない)。

 競争を否定したり、企業形態を社会で丸ごと変えたりする必要などどこにもないのだ。

 法律や、税制や、自治体の計画・指導などによって、生産手段の使い方(「所有物の使用」)に対して社会は関与できるのである。これがこの分野での生産手段の社会化の実現なのである。

 かつてぼくは古い左翼の中にある「生産手段の社会化」のイメージの貧困さについて批判したことがあるので、詳しくはそちらをみてほしい。

kamiyakenkyujo.hatenablog.com

 

 本書Q13では恐慌を取り上げ、資本主義の下での「あとの祭り」、事後にしか社会的理性が発揮されない問題について論じている。また、p.139では資本主義の下で恐慌をなくす制度はつくられていないとも述べている。

 完全になくすことはできないが、資本主義の下で、恐慌の影響を緩和し、景気の変動をある程度管理する仕組みは発達してきた。不況時には公共投資や減税を行い、過熱期には金融引き締めを行うことによって景気の谷を浅く、また山を低くするというのがオーソドックスな説明だ。

 もし恐慌を完全になくそうとすれば、企業や市場を廃絶し、全生産物の需給を国家が一元的に計画して管理する以外になかろう。

 どちらがいいかといえば、前者のような仕組みをもっと成熟させることを多くの国民は望むはずである。例えばリーマンショックの引き金になったサブプライムローンをめぐる加熱に対して、利潤第一主義にとらわれずに国際的な銀行規制の枠組みを強化するなどを対策をとるべきであろう。そうした仕組みづくり以外に、社会主義は一体どんな対案を示すというのであろうか。

 

2. 「『利潤第一主義』からの自由」?

 本書は「共産主義と自由」を考えることをテーマにしている。

 その場合「自由」という概念について、ある程度吟味しておく必要がある。

 もっとも基本的な問題で言えば、ぼくたちがまず「自由」という言葉でイメージされるのは、束縛がない状態である。しばられたり、押さえつけられたりするものが何もないということだ。われわれをしばったり、押さえつけたりするものからの自由

 これが一番最初にイメージされる自由だろう。

 例えば表現の自由は、表現を抑圧しようとする国家権力からの自由がイメージされている。営業の自由は、「こんなところで商売しちゃいかん!」という不当なしばりから自由であることがイメージされている。

 しかし、この束縛からの自由という考えはただちに反省を迫られる。あらゆるものが野放しになれば、結局力の強いものが弱いものを支配することが自由のもたらす結果となってしまうからだ。そこで自然や社会をコントロールしながら使いこなしていくことで、自分たちにとっていちばん良い結果をもたらそうとすることを「自由」として発展させていこうとする。

 自動車の仕組みや使い方を知らない人は、自動車に対して自由になれない。めちゃくちゃにいじっても、自動車は動かないし、動いても悲惨な事故をもたらす。自動車というものがどんな法則や必然性によって動くのかを十分理解し、それにそって自動車に働きかけることで、初めて人は自動車に対する自由を獲得する。自動車に対する自由、自動車への自由である。

ブレーキってどこだっけ…

 志位は、本書で「共産主義と自由」を考える上で、貧富の格差や気候危機は利潤第一主義がそれをもたらしているとして、その解決策として生産手段の社会化を対置する。

 それ自体はぼくも賛成なのだが、志位はそれを「『利潤第一主義』からの自由」としてまとめている。また、マルクスの「フランス労働者党の綱領前文」を使い、「搾取からの自由」「抑圧からの自由」(p.76)という言い方もしている。

 これは表現として違和感を覚える。

 「〜からの自由」という表現は、消極的な自由を意味してしまうからである。ここでいえば利潤第一主義のくびき(搾取・抑圧)から逃れるというニュアンスが出てしまうからである。

 だが、生産手段を社会化するということは、もっと積極的な意味を持つ。

 生産手段を社会化することによって、労働者や社会は、剰余価値の処分に積極的に関与でき、自己決定ができるようになる。それは利潤追求を最優先にする経済に振り回されていた存在から、社会に対する自分の運命を自己決定できるようになったことを意味するはずだ。

 社会の法則(必然性)に振り回されていた人間は、法則を知り、それに正しく働きかけることによって社会に対する主人公となり、自由を獲得する。

 マルクスの盟友だったエンゲルスは「科学的社会主義の入門書」として位置付けた『空想から科学へ』というパンフレットの中で次のように述べている。

人間自身の社会化は、これまでは自然と歴史によっておしつけられたものとして人間に対立してきたが、いまや人間の自由な行為になる。これまで歴史を支配してきた客観的な、外的な力は、人間自身の統御のもとにはいる。そのときからはじめて、人間は人間の歴史を十分に意識して自分でつくるし、そのときからはじめて、人間によって作用させられてきた社会的諸原因は、ますます大きな度合いで人間の欲したとおりの結果をもたらす。それは必然の国から自由の国への人間の飛躍である。(エンゲルス『空想から科学へ』新日本出版社、p.92)

 こうした社会と自然の法則を知り、働きかけ、社会と自然への自由を獲得するというのは、「自由とは必然性の洞察である」とするヘーゲルの影響を受けたものである。

実は、この文章の背景には、ヘーゲルの自由論、必然論がありました。(不破哲三『古典教室 第2巻』新日本出版社、p.192)

 生産手段の社会化はまさに労働者階級と社会がこうした社会と自然に対する自己決定=自由を獲得するポイントになるものである。そのことを「利潤第一主義からの自由」という消極的自由として表現するのは、その画期性を過小評価するものではなかろうか。

 むしろ共産主義社会主義における自由の最大のポイントとして、この社会の主人公になるという意味での自由がある。人類は初めて自己決定・自己支配としての自由の道に踏み出せるようになる。

 このような過小評価に志位が陥ってしまう理由は二つある。

  1. 「生産手段の社会化」についてのイメージが貧困で、具体的に経済をどうやってコントロールしていくのかを語れないからである。国有化や協同組合のようなイメージしかないために、国民の前でそれを語ることが躊躇されてしまうのだ。現代の資本主義の中に「地続き」になって社会主義に引き継がれていく萌芽がどのように生まれて育っているのかを十分に観察できていないのだとも言える。
  2. もう一つは、先輩の不破哲三が「必然性の国から自由の国への飛躍」というエンゲルスが定式化した概念の意義を弱めて、労働時間の抜本短縮による自由時間の獲得と人間の全面発達というマルクスが定式化した「必然性の国と自由の国」の方の強調に置き換えてしまったためであろう。あたかもエンゲルスのこうした定式の意義が失われてしまったかのように一面的に受け取っているのではないか。

 というように推測する。

志位和夫『Q&A 共産主義と自由──『資本論』を導きに』(1/5)

 日本共産党志位和夫ローザ・ルクセンブルク財団本部で理論交流を行い、「共産主義と自由」について、自著(『Q&A 共産主義と自由――「資本論」を導きに』、『「自由な時間」と未来社会論――マルクスの探究の足跡をたどる』)を献本し「懇談の素材を提供」した上で、「ぜひ忌憚のないご意見をいただければと思います」と述べている*1

 

 「忌憚のない」とは「遠慮のない」という意味である。

 そもそも日本共産党は本書を使って「『共産主義と自由』を学び、語りあう大運動」を呼びかけているのだ。「学ぶ」とは学んだ対象が絶対でありそれを盲信すべきと考えるのではなく、徹底した批判的な目で読み込み、それを「学んだ」党員であれ市民であれ、厳しい批判も含めて自由に語り合うことも含まれているだろう。当たり前だ。

 ならば、依然としてコミュニストではあるが、今や一般市民となったぼくがこれらの本について多少批判したところで「攻撃」だの「敵対」だのと言われることもないだろう。志位自身が「忌憚のない意見」や「学び、語りあう」ことを大いに歓迎しているのだから。共産党員のみなさんも批判を含め大いに自由に議論すればいい。

 ぼくもいっちょ、その「大運動」とやらに参加してみることにする。「しんぶん赤旗」あたりで「『私もコミュニスト』 大運動に一般市民が飛び入り参加」というタイトルでぜひとりあげてほしいものだ。

 さすがに長いので5回に分けて書こうと思う。まず最初に批判点を指摘する。最後に本書の積極的な点をお伝えしたい。

 

今回の記事の要旨

 とはいえ、1回分も長い。だから、要旨を先に書いておく。

  1. 本書Q24が、共産主義になって起きる2点(資本家などが生産に参加する、経済の浪費部分をなくす)をもって労働時間の抜本的短縮の条件としているのは、相当に厳しい。大幅な時短が起きるのは、この2点ではなく、生産力の向上の成果を資本が独占せず、社会がそこに関与し、社会に還元させるからこそだ。
  2. 本書Q22の説明は、現代日本の搾取部分(剰余労働分)を全て「自由時間」=労働時間短縮に回せるかのような説明になっていて、大きな誤り。この剰余労働分の中には、社会にとって不可欠の、社会保障の拡充、社会資本の建設、経済発展の原資などが盛り込まれていて、かなりの分をそれに使わないといけないはず。
  3. 本書がこのような立場にしばしば落ち込むのは、「搾取をなくす」についての明快な整理がないから。「搾取をなくす」とは、剰余労働について資本家だけでなく労働者や社会全体がその決定に関与できるようになることである。

 体力や時間がない人は以上の要旨だけ読んでくれればいい。時間がある人はその後も。また、「要旨のこの部分はどういう理屈だろう?」と興味を持った人は下記でその部分だけでも読んでほしい。

 また、以下の記事には4.と5.もあるが、それは本筋ではなく、付属的な論点なので、必ずしも読む必要はない。

 なお『Q&A 共産主義と自由』のテキストと動画は下記で無料で見られる。

www.jcp.or.jp

 

 

1. 本書のテキストとしての最大の問題点——労働時間抜本短縮の2条件のまずさ

 本書のテキストとしての最大の問題点は、労働時間の抜本的短縮が共産主義社会になればなぜ起きるかという説明のまずさである。

 志位は、この点を本書のQ24(p.100-102)で2点紹介している。

 1点目は「社会のすべての構成員が平等に生産活動に参加するようになる」ことで「一人当たりの労働時間は大幅に短縮されます」(p.101)というもの。

 2点目は「資本主義に固有の浪費がなくなり」「それらに費やされている無用な労働時間が必要でなくな」(p.102)るからだというもの。*2

 この2つによって、共産主義社会になれば、労働時間の抜本的短縮が起きるというのだ。

 しかし1点目についていえば、仮にそれが「資本家の生産参加」を意味するとしたら、資本家階級は就業人口の0.5%*3しかなく、大ざっぱに経済価値を生み出すものが、労働人口×労働時間×生産性という計算式で求められるとすれば、理論上も0.5%しか労働時間は短縮できないことになる。

 また、2点目についていえば、「資本主義に固有の浪費」をなくすといっても、それは労働時間の抜本的短縮を引き起こすほどのものなのかという根本的な疑問が生じる。例えば労働時間を半減させたいなら、半分の経済活動は無駄だと立証する必要があり、それはGDPを半減させることを意味するが、いくら資本主義に浪費がつきものだとはいえ、そんなことをして大丈夫なのか、ということである。*4

 詳しく知りたい人は以下の記事を読んでほしい。*5

kamiyakenkyujo.hatenablog.com

 このような「まずい説明」はむしろ共産主義になって起きるはずの労働時間の抜本的短縮の展望を見失わせ、失望させる結果となる。「ホントに短縮できるの…?」と。

 これは労働時間の抜本的短縮そのものを、“何が何でもマルクス自身の書いたものの中から典拠*6を引き出そうとする無理”がたたって起きているものではないかと思う。

 では、志位があげたような理由ではなく、共産主義になれば労働時間の抜本的短縮が起きる本当の根拠はなんだろうか。それは生産力(生産性)向上の成果を資本が独占せず、社会が享受できるようになるからである。こうした説明は実は不破哲三も2004年の講演で行なっている。しかしそれ以後その説明は消えてしまったのだが。(そのことは7月のぼくの記事でも触れた。)

 その記事でも書いたことだが、資本の下では生産性が向上して労働時間の抜本的短縮の条件が生まれると、資本は、労働時間の短縮をするのではなく、直ちに労働者のリストラして「もうけ」にしてしまおうとする。生産性の向上により前と同じ時間でより多く生み出される価値を、労働者に分け与えず、「もうけ」として資本が独り占めしようとするからである。

 しかし、共産主義になれば——いや、少なくとも大資本家に遠慮することがない政権ができるようになれば、その「もうけ」分に対して、労働者や社会が関与し口を出せるようになる。「その分は資本が独り占めにするな。労働者や社会のために回せ」と。

 したがって、生産性が向上したことでより多く生み出された価値を、例えば課税によって資本からたくさんとりあげ、社会保障に回すこともできよう。さらなる時短の法律を作って、労働時間の短縮に結びつけることもできよう。

 もっと単純にいえば、今の日本で6000万人の就業者が平均8時間働いて500兆円の経済価値(GDP)を作り出している。生産力(生産性)が向上すれば、その結果、同じ6000万人だけど平均6時間でやはり同じ500兆円が生み出せるようになる。その時に、社会主義であれば、その2時間を時短に回すことができる、ということだ(資本主義ではその2時間を使ってGDPを例えば600兆円に増やし資本家がその多くを独占しようとする*7)。

 大資本家に奉仕する政権ではそこはなかなか通らないけども、労働者と社会のことを第一に考える政権であれば、そういう法律や課税は通りやすいのである。だからこそ、社会主義政権(左派政権)のもとでは、労働時間の短縮は抜本的にすすむ可能性があるのだ。

 このように説明してこそ、いまヨーロッパなどの先進資本主義国で起きている労働時間短縮の流れを説明しうるし、今の日本での時短や社会保障充実のたたかいがどう「地続き」なのかも説明できるというものだ。

 志位は本書で「今のたたかいが…未来社会に地続きでつながっている」(p.129)としていて、そこはぼくも大事なポイントだとは思っているのだが、資本主義下での時短運動と共産主義での労働時間短縮とが、どう「地続き」なのかはあいまいなままである。*8

 共産主義になって、あるいは共産主義社会主義の政権になって、剰余労働をどう処分するかということについて、(大)資本家だけがそれを独り占めして考えるのではなく、社会が本格的に関与できるようになり、それをある部分は社会保障に、ある部分は労働時間の短縮に、ある部分は環境破壊の制御に、またある部分は経済の活性化・効率化に使ったりできるように自己決定がすすむのである。

 「資本家の生産への参加*9や浪費の一掃で労働時間の抜本短縮がもたらされる」という説明は部分的には正しいとは思うが、共産主義のもっとも重要なポイントを説明していない。あたかも共産主義になれば自動的な過程で起きるようにさえ見える。

 剰余労働の処分への社会の関与・自己決定——それこそが共産主義における自由のポイントではないだろうか。もちろんそのことによって、労働時間の抜本的な短縮がすすみ、人間の全面発達が促されるというのは、その結果としてもらたらされる、人類史におけるもっとも貴重かつ本質的な成果ではあるのだが。

 

2.本書のテキストとしての問題点その2——必要労働と剰余労働の区分

 テキストとしての問題点は他にもある。次にあげる問題点としては、“剰余労働を全部なくす”かのように扱ってしまっていることだろう。

 本書Q22(p.92-94)では、研究者である泉弘志の試算を用いて、現代日本では(8時間労働に換算した場合)必要労働が3時間42分、剰余労働が4時間18分であると示す。

 志位の聞き手(中山歩美)が「今の日本で、働く人は『自由に処分できる時間』をどのくらい奪われているのですか」という問いをと立て、志位は特に留保もせずに、

そうですね、8時間働いた場合、およそ4時間以上は、本来、労働者が持つべき「自由に処分できる時間」が資本家によって奪われているということになります。(p.93)

ド直球で答えている。

 これは、現在日本での労働時間のありようをそのまま共産主義社会に適用し、半分は「自由時間」、つまり労働しなくていい時間(労働時間の短縮)に当てられると述べていることになる

 しかし、現在日本の剰余労働時間には、例えば年金や医療といった社会保障を担う費用や、橋や道路などの社会資本を建設する費用、資本家の純粋なもうけのためだけではなく、新たな社会的必要のために確保すべき生産拡大の原資などが、含まれている。

 さらに言えば、この剰余労働分で、価値や剰余価値を生み出さない労働者の生活費用(可変資本価値)を担っている可能性もある。*10

 それが一体どれくらいの規模に及ぶのか。

 このやりとりは、そのことを全く無視しているのである。

 あたかも、今すぐにでも4時間の労働時間短縮ができるかのようなやり取りになってしまっている。

 共産党の田村智子委員長はこれをナイーブに繰り返している(動画33分あたり)。

研究者の中では4時間切って働けば十分幸せになれるだけの生産力・経済力はあるだろうと言われています

www.youtube.com

 うん、まあ、身内の小さな学習会とかでこういう「乱暴」な物言いをすることはあるよ。ざっくりとね。でも、党首が動画で拡散するような中身としてそれを街頭で言うのはどうなのかと思ってしまう。

 党のトップをしてこのような理解をさせしめてしまうのが、志位の乱暴とも言える本書でのやり取りなのだ。

 実はこの泉の試算は、ぼくも今をさかのぼること15年前、2009年に『理論劇画 マルクス資本論』(かもがわ出版)で取り上げたことがある*11

門井文雄原作・紙屋高雪構成『理論劇画 マルクス資本論かもがわ出版、p.127、2009年

同前p.128

 ぼくの場合、そこでは今に現代では労働者が搾取されているかという現状認識にとどめ、それをそのまま共産主義での時短の根拠にはしなかった。本来泉の試算はそのようにして使うのが適切なはずである(剰余労働の4時間は、いったん産業資本家が搾取し、その後、商業資本家・銀行資本家・地主、税金などに分配される)。

 ただし、志位の名誉のために言っておけば、志位は次のようなことは本書や関連する本では書いている。実は、志位自身は、搾取されている剰余価値や剰余労働時間が、労働者の直接の生活費用のためだけでなく、社会保障や社会資本、必要な生産拡大の原資になることを、本書の他の箇所ではきちんと認めている(Q30、p.119-120)。

 また本書を解説した『「自由な時間」と未来社会論——マルクスの探求の足跡をたどる』(「前衛」2024年9月号所収)では、『資本論』第1部第15章の文章を典拠にして「予備元本」(社会保障や社会資本など)、「蓄積元本」(拡大再生産の原資)について触れ、

剰余労働の一部は、必要労働に、「社会的な予備元本および蓄積元本」を獲得するのに必要な労働に組み入れられるからです。(志位、同誌p.54)

資本による搾取がなくなった場合、必要労働の範囲が拡大することになるが、それを考慮しても、資本による「自由に処分できる時間」の横領がなくなります(同前p.55)

と述べている。つまり社会保障や社会資本のための原資は、必要労働の概念を拡大して、その中に組み入れていく、と言っているわけである。

 しかし、「必要労働の範囲が拡大することになるが、それを考慮しても」とはいうが、それは一体全体の何%に当たるのか。介護・医療・年金の拡充、学校や水道管・橋・道路の拡大や老朽化の更新などは、決して小さな費用ではない。それを「考慮」してどれほどの時短=「自由に処分できる時間」が創造できるかを示さなければ、この志位の論理構成の場合、ずいぶんと無責任な話になってしまう。

 また、「しんぶん赤旗」に哲学研究者である牧野広義の本書への感想として、上記の『資本論』第1部15章を根拠にしながら、未来の社会(共産主義社会)では、“剰余労働はなくなる”という見通しを載せている。資本主義では社会保障などを剰余労働が生み出すものとしてカウントしていたけど、共産主義になったらそれを必要労働の方でカウントするというのである。*12

 「だって社会保障は生きていく上で必要なものになるんだもーん」というわけだ。カテゴリーの移し替えをするわけである。これは上述の志位の主張を補強するものだと言っていい。

 だが、もともと「労働者とその家族の生活費用を稼ぎ出す労働」に限定されていたはずの「必要労働」の概念を、どんどん拡大し、「剰余労働」から「必要労働」にカテゴリー区分を移動するという「操作」によって「はいっ! 剰余労働は消えて無くなりました!」とやるのは…手品みたいなのもじゃないか? 仮にマルクスがそういう見通しを立てていたとしても、社会保障もろくに知らなかったマルクスの言い分をそのまま適用することに強い危惧を覚える。「必要労働」の概念を無意味化してしまうものだ。

 いずれにせよ、この部分で志位が「正しい」ことを言っていたとしても、本書Q24の記述——現代日本の剰余労働分を全て「自由に処分できる時間」に回せるかのような叙述は明らかに誤っていると言わねばならない。

 

3. 志位の混乱の大もとには「搾取をなくす」ということの未整理がある

 こちらの方も、本当に問題を解決するためには、どうすればいいのか。

 それはやはり同様に、剰余労働をどう処分するか、つまり現状の労働者の生活費にさらに補填して生活水準を上げるのか(賃金アップ)、社会保障や社会資本を拡大するのか(法人税課税の拡大)、生産の拡大の原資にするのか、それとも労働時間の短縮に使うのか——それを大資本家だけでなく、労働者や社会全体が関与して決定すること。これこそが、搾取の廃止という本当の意味であり、労働者や社会が経済の上でもまさに主人公になれるということである。

 剰余労働分を全部「労働者」のものにしてしまったり、どんどん時短に使ってしまったり、果ては単に「必要労働」にカテゴリーを移し替えたり、そんなことでは問題は全く解決しないだろう。

 数理的マルクス経済学者であった置塩信雄の次の言葉は至言だと言える。

搾取をなくすとはどういうことか

 …ところで、搾取とは何だろう。これがはっきりしなければ、搾取があるとかないとか言っても内容がはっきりしない。労働者が8時間働いて、一定の生活資料を受け取る。この生活資料を生産するには労働者が直接・間接に3時間働かねばならないとしよう。すると、労働者は5時間の剰余労働をしたことになる。これが労働者が搾取されているということだろうか。

 労働者が剰余労働を行なうということは、直ちに、労働者が搾取されていることを意味しない。どのような社会形態のもとでも、拡大再生産や労働できない人びとの扶養などを行なおうとすれば、剰余労働は絶対に必要であることは、直ちにわかる。労働者が剰余労働を自主的に行ない、それによって生産された剰余生産物を自分たちがきめた使途にあてるのであれば、そこには搾取という人間関係は存在しない

 問題なのは、剰余労働を行なうのかどうか、それくらい剰余労働を行なうのか、剰余労働で生産された剰余生産物をどのような使途にあてるのかなどについて、労働者がその決定を行なうのではなく誰か他の人びとが決定し、労働者はそれに従わねばならないという点にある。そして、そのようなとき、労働者は搾取されているのである。(置塩信雄『経済学はいま何を考えているか』大月書店、1993年、p.173-174、強調は引用者)

 今、本書(『Q&A 共産主義と自由』)のテキストとしての最大の問題点ともう一つの問題点、以上の2つの問題を挙げてきたが、そうした問題が起きる根源には、ここで置塩が述べている視点を欠いていること、すなわち志位が「搾取をなくすとはどういうことか」についての明快な整理がないことがあるのではないかと考えられる。

 実践的に言えば「搾取をなくすってどういう意味ですか?」という問いにすぐ答えられなければいけないのだが(皆さんも身近にいる共産党員に質問してほしい)、志位はその問いにパッと答えられないのではないかということである。(この問いへの答えは「剰余労働分の処分を資本家が独占するのではなく、労働者を含めた社会全体がそれに関与できるようになること」となるはずだ。)

 もしこの視点を明確に持っていれば、自分があたかも社会主義政権下の労働者階級になったつもりで「剰余労働分をどう処分しようか?」「何と何に振り分けようか?」と真剣に悩むはずだ。

 時短に過大な比重を置きすぎて剰余分をすべて時短に回してしまおうとする早とちりをやってしまったり、あるいは、共産主義になって資本家が全員生産に参加してくれることや経済の浪費部分をなくすことを待ち望んだりして、それがないと労働時間の抜本的短縮が引き起こされないと思い込んでしまうのは、この視点を欠いているためだろう。その根本の整理がないために、ある箇所では大きく間違い、別の箇所では正しい叙述に近づく、という混乱が生じてしまうのである。

 

4. ディルクやマルクスの表面的な言い分に振り回されすぎている

 そこがないために、マルクスが「自由に処分できる時間」のヒントとした著述家・ディルクの言ったこと(パンフレットで書いたこと)や、マルクスの表面的な主張に振り回されすぎているのではないだろうか。

 最初にあげた、労働時間抜本短縮の2条件(資本家など全構成員の生産参加や資本主義経済の浪費部分の一掃)について、マルクスから典拠を探し、それにとらわれてしまうというのは一つの典型である。

 またディルクは自分のパンフで「資本に利子が支払われない」、つまり資本が自分のもうけ分(剰余価値分)を追求せず、必要労働時間分だけにすること、12時間労働を6時間労働に短縮する例をあげ、

富とは自由であり——休養を求める自由であり——生活を楽しむ自由であり——心を発展させる自由であるのです。

と述べている。

 志位は本書でディルクのパンフレットの主張を

このパンフレットは、1日の労働時間を12時間から6時間に短くすることを提起し、富とはこうして人々が得ることができる「自由に処分できる時間」という主張を行なっていました。(本書p.85)

と紹介している。半分は自由時間にしてしまえる、という印象を強く受ける。

 マルクスはディルクのパンフレットを要約して、

富とは自由に処分できる時間のことなのであって、それ以外のなにものでもない

と書き付けている。

 富=自由時間(自由に処分できる時間)。

 確かにこう書くことによって、自由時間というものの貴重さが浮かび上がる。そして、共産主義が単なる物質的な富の充足(貧困克服と生活向上)を超えて、労働時間の抜本短縮による自由時間の創出とそれによる人間の全面発達をめざしているというポイントも強調される。

 だけど、それは一種の文学的な強調である。

 いわばデフォルメだ。

 「物質的な富」と「真の富(自由時間)」を分けて対立させ、後者の一面的な強調に及ぶなら、これは「富」という概念の濫用になるし、不正確な理解に導いてしまう。

 マルクスはディルクにも影響されて、物質的な富を「真の富ではない」と強調する記述をノート(草稿)にしばしば書き付けているのだが、さすがにちょっとそれは言いすぎたと思ったのであろうか、いろいろと動揺している。

 例えばマルクスは「1857〜58年草稿」では

直接的形態における労働が富の偉大な源泉であることをやめてしまえば、労働時間は富の尺度であることを、だからまた交換価値は使用価値の〔尺度〕であることを、やめるし、またやめざるをえない。…『富とは剰余労働時間(実在的な富)への指揮権ではなく全ての個人と全社会のための直接的生産に使用される時間以外の、自由に処分できる時間である』(『 』はディルクの抜粋)

と述べているが、「1861〜63年草稿」では

労働時間は、たとえ交換価値が廃棄されても、相変わらず富の創造的実体であり、富の生産に必要な費用の尺度である。しかし、自由な時間、自由に利用できる時間は、富そのものである。

としている。

 つまり「1857〜58年草稿」では「物質的な富なんかホントの富じゃないぜ!」というニュアンスが強いが、「1861〜63年草稿」では「いや…まあ…物質的な富も富っちゃあ富だけど、ホントの富は自由時間なんだぜ?」という、いくらか弱気な言い方になっている。

 志位はこうした差分はあまり振り返らず、「真の富=自由に処分できる時間」というポイントだけを強調しようとするので、

マルクス資本論草稿』(1857〜63年)の研究から(本書p.86)

というタイトルをつけてこの2つの草稿グループを強引にまとめてしまっているのだ(一応2つの草稿グループがあることはこの直前の本文には書いてあるが)。

 志位は本書の解説である『「自由な時間」と未来社会論』(「前衛」24年9月号)では、「1857〜58年草稿」と「1861〜63年草稿」のそれぞれの解説はあるものの、両者のニュアンスの差について志位が指摘している箇所はない。(関係ないが、「前衛」24年9月号p.32上段の「マルクスは、『1861〜63年草稿』を書き終えたあと、…」という志位の記述は「マルクスは、『1857〜58年草稿』を書き終えたあと、…」の間違いだと思われる。)

 

 物質的な富は富であるのか、あるいは真の富であるのか、そうでないのか、などという問題は、資本主義に生きているぼくたちに、なかんずく貧困や格差にあえいでいる国民にとっては、どうでもいいことだし、そんなデフォルメのニュアンスにいちいち引きずられるのはあまり意味のないことではなかろうか。

 

5. 自由時間概念について(家事・育児時間との関係など)

 マルクスの「自由時間」(freie Zeit/free time)あるいは「自由に処分できる時間」(disponible Zeit/disposable time)にはなおも検討すべき問題がある。

 非労働時間は全て自由時間なのかといえば、必ずしもそうとはいえないということだ。

 よく「8時間は仕事のために、8時間は休息のために、残りの8時間は自分のために」がメーデーの出発点のスローガンとしてあげられるが、ここでいう「休息」の時間、例えば睡眠・入浴・食事などはその時間だと言えよう。

 では家事や育児はどうなのか。あるいは、ぼーっとテレビやネットを見ている時間はどうだろうか。パラパラとマンガを読んでいる時間は?

 そして「自分のため」の時間とはそれとどう区別されるのだろうか。

 志位和夫は本書Q25で

「自由に処分できる時間」を取り戻し、広げていくことは、互いに交流しあい、団結を広げ、社会進歩の運動をすすめるうえで、決定的な力となります。民青の活動も「自由な時間」がないとできませんよね。

と述べている。活動時間も「自由な時間」なのである。

 共産党小池晃が24年8月3日の都道府県委員長会議

そしてお盆は休まなければなりません。「自由に処分できる時間」を満喫していただいて、そしてまたお盆明けは、「自由に処分できる時間」のためにたたかっていく。そのために全力をあげることをよびかけて、会議のまとめといたします。ともに頑張りましょう。

と言っていたが、活動時間も「自由に処分できる時間」なのだから、お盆休みは「自由に処分できる時間」で、活動に戻ればそうでない時間であるかのように述べた、この区分の理解は本書に照らせば「おかしい」ということになる。本書の党幹部の理解が問われるところであろう。

 

 それはともかく、家事・育児・介護などの時間を短縮する、例えば社会化することが個人の「自由に処分できる時間」を1時間、2時間、3時間と大きく増やしていくことにもつながる。「社会化」とは、個別家庭の無償労働(特に女性にだけ)に委ねられていたものを、例えばヘルパーを頼んだり、惣菜を買ってきたり、そういうふうにすることである。

 そのあたりの解像度が低いままに本書が議論されているのも気になるところではある。

 志位がローザ・ルクセンブルク財団での理論交流について報告した際に(2024年9月20日付「しんぶん赤旗」)、

そのなかには「ケア(労働)」と「自由に処分できる時間」との関係をどうとらえるかなどの重要な問題提起もありました。私は知恵をしぼって一つひとつしっかりとお答えました。

と述べている。たぶんぼくが疑問に感じたような上記のことが問われたのではないかと想像する。中身は書かれていないのだ。「私は知恵をしぼって一つひとつしっかりとお答えました」とあるので、いや考えてなかったんかい、と思った。

*1:ベルギー労働党本を渡した時にも志位はこの言葉を述べた。

*2:この2点についての解明は本書で初めてのものではなく、すでに志位自身が『綱領教室』などで何度も述べてきた点であり、もっと言えば、それ以前に不破哲三が各種の著作で、マルクスの『資本論』を典拠にして繰り返し述べてきたことを引き継いだに過ぎない。

*3:日本共産党市田忠義副委員長は『日本共産党の規約と党建設』(新日本出版社、2022年、p.53)で「資本家階級」(2015年)を「154.5万人」とする数字を挙げている。これは2015年の労働力人口の0.25%しかなく、私が挙げた0.5%よりさらに少ない。

*4:志位和夫自身は本書では述べていないが、志位が参照している不破は一掃されるべき浪費部門について具体的に言及し「経済が資本から解放されたら不用になるような経済部門」として「証券業はもちろん、金融関係のかなりの部門など」(不破哲三マルクスと友達になろう』民青同盟中央委員会、2015年、p.53-54)と述べている。証券や金融部門の大半が「浪費部門」として「不用」にされてしまうのだ。

*5:これは共産党や志位のことについて書いたものではなく、一般的に存在する議論について検証した文章なのだが、たまたま本書にもこの批判の一部が該当するものになっている。

*6:マルクスが『資本論』でこの問題をどう述べているかは2024年7月19日のぼくのブログ記事にメモってある。

*7:もちろん社会主義でも、1時間を時短に回し、残りの1時間で50兆円の経済価値を増やして社会保障の拡充に回すことなどができる。

*8:Q25で「『自由に処分できる時間』を広げることは、今の運動の力にもなる」としていて、『資本論』第1部第8章での時短が労働運動に活力を与えた話などを引用しているのだが、これは現在の時短が現在の社会運動に与える好影響の話であって、今の取り組みが将来の共産主義の部品=パーツを形作るという話になっていない。

*9:「社会の構成員の平等な生産への参加」という問題は単に「資本家への生産参加」というだけにとどまらない可能性もある。マルクス経済学では、価値・剰余価値を生み出す生産的な労働は限定的なもので、その生産的な労働が社会全体を支える富を担っていると考える。例えば、マルクスは商業は価値を生み出さないとした(他方で例えば輸送は価値を生むとした)。同様に、公務や金融も価値を生まないとするのがマルクス経済学界隈での有力な議論である。志位が紹介した泉の試算でも、商業・公務・金融部門は計算から除かれている。不破哲三も、介護労働者の「私の労働からは価値が生まれない」という悩みを紹介した後で、「経済学的には『価値』を生まない労働もあれば、『価値』を生む労働もあり、さまざまです」(不破『古典教室 第1巻』新日本出版社、2013年、p.80)と述べている。もしこれを機械的に適用すれば、「公務労働者が金融労働者、商業労働者は、共産主義では平等に工場などの生産的労働にたずさわる」という話になってしまう。

*10:泉は試算の際に正確に商業・公務・金融労働者を除いている。

*11:セリフの一部や泉のデータ全体は門井の原作にはなく、ぼくが挿入したものである。

*12:なおマルクスは『資本論』の別の箇所(第3部、新日本出版社版13巻、p.1433)で「剰余労働一般は、所与の欲求の程度を超える労働として、つねに実存し続けなければならない」と述べており、不破は「マルクスは、この文章では、「必要労働」および「剰余労働」という概念に多少の変形をくわえて、人間とその社会の直接的な欲求をみたすための労働を「必要労働」、その範囲を超える労働を「剰余労働」と呼ぶことにしています。ここでは、こういう意味での「剰余労働」は、搾取社会だけでなく、人間社会一般に存在すること、つまり、人間による人間の搾取がなくなった未来社会にも存在することが、指摘されているのです」(不破『マルクス未来社会論』新日本出版社、2004年、p.189)と解説している。「多少の変形をくわえて」じゃねーだろww

8月15日午後8時の戦死

 西日本新聞は「うちにも戦争があった あなたの家族の軌跡」シリーズが掲載されている。8月16日付同紙夕刊では「終戦あと1日早ければ 記者の大伯父 旧満州で地雷の犠牲 秘めた無念 祖母切々」として1945年8月15日における満州での戦死の記事が掲載されていた。

 見出しにあるように、記者の大おじ(祖父母の兄弟)について書いたものだ。

 戦死者の妹にあたる、記者の祖母のコメントが載っている。

「あと1日、戦争が早く終わっていたら。兄さんは帰ってきちょったかもしれんな」。快活な祖母の悲しげな顔を見るのは、祖父の葬式以来だった。(同紙)

 戦死そのものはつらいものだが、とりわけ8月15日の戦死には特別な感情がつきまとう。本来死ななくてもよかったはずではないかという思いが拭えないからだ。

 

満州では8月15日以後も戦闘

 もっとも満州での戦闘は、8月15日以後も続いた。日本側(関東軍)にうまく停戦命令が伝わらなかったのと、ソ連側との会談に時間がかかったことで19日頃まで本格的な停戦が行われなかった。そして、何よりも占領地を増やしたいソ連側の意図と相まって実際には、正式な降伏(9月2日)まで続いたようである。

 下記のNHKの番組では8月29日まで戦闘が行われ、1300人の命が失われたことが証言として残っている。

www2.nhk.or.jp

8月15日、日本では終戦が伝えられた。しかし107師団には、終戦とそれに伴う停戦命令が伝わらなかった。軍の命令を解読する「暗号書」を処分していた107師団は、停戦命令を受け取ることが出来なかったのだ。

敗走する107師団は、ソ連軍に進路を阻まれ、大興安嶺(だいこうあんれい)の山中に入った。飲まず食わずの行軍で、疲れは極限にまで達していた。
8月25日、山中を抜けた107師団は、ソ連軍と号什台(ごうじゅうだい)で遭遇、武器のないまま、捨て身の攻撃を仕掛け、さらに戦死者を出した。

8月29日になって、飛行機からまかれたビラでようやく終戦を知った107師団は戦闘を停止。終戦後も続いた戦闘と行軍で、1300人の命が失われた。

 

ぼくの大おじも8月15日に戦死していた

 実は、ぼくも家系図を作るために一族の除籍簿(死亡者の戸籍)を集めていたのだが、その中で祖母の弟(大おじ)も、1945年8月15日に満州開嶺(ソ満国境の砂漠、標高983m)で戦死していたことを知った。下記画像はその除籍簿である。

 しかも除籍簿には死亡時刻まで書かれていて、戦死したのは15日の午後8時0分。「戦争は終わっているはずではないか」という気持ちがこみ上げてきた。

 西日本の記者(そしてその祖母)と同様に、「終戦あと1日早ければ」という思いになった。

 

 しかし時刻や日付について、少なくとも生きている親族は誰も知らなかった。祖父母の代やそれより上の代、つまり戦死の報に直接触れた人々は認識し、関心をもって聞いたのかもしれないが、その下の世代には何も伝わっていないようだった。

 

祖母の大おじも日清戦争満州にて戦死

 実は、ぼくの家族には戦死者がおらず、母の実家にもおらず、祖母の実家を調べてようやく戦死者がいることがわかった。祖母の実家はもう一人「戦死者」がいて、それは日清戦争での戦死者だった。やはり祖母からみた大おじ、つまり祖母のそのまた祖父の弟で、名前からすると僧侶だったらしいが、1905年に「清国盛京省孤家子東北方高地戦死」とある。現在の瀋陽あたりである。

 除籍簿を細かく眺めていると、色々と気づく情報が少なくない。

 戦死は当時としても大変な出来事だったに違いない。しかし、その一族は当事者がいなくなれば、誰も認識も関心も寄せていないことが少なくないのだろう。戦死を媒介にした戦争が伝わっていないことが少なくない。ぼくの父は記憶力もいいし、彼の聞き書きをしているのだが、一族や関心外のことをまるで知らない。もちろん祖母の実家の戦死者のことなど何も情報を持っていなかった。

 「うちにも戦争があった あなたの家族の軌跡」というこの西日本新聞のテーマを考えたいなら、あなたの家の除籍簿を取り寄せて、眺めてみることをお勧めする。確かに戦争はぐっと身近なものになった。これは戦後世代が戦争にアプローチする一つの重要な入り口になると思う。