社会主義は遠い将来の話なのか
左翼の集まりで社会主義や共産主義の話をすると「自分たちが死んだ後の遠い将来のこと」という目をされる。
日本共産党は最近の綱領改定で、高度な生産力、経済の社会的規制・管理のしくみ、国民の生活と権利を守るルールなど、社会主義・共産主義に引き継がれる「5つの要素」をあげて、資本主義の今のたたかいと将来の社会主義が「地続き」であることを示した。
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共産党の人々であっても、果たしてそういう解明がされていても、例えば地方議員が自分の今の活動——一例をあげれば子どもの医療費助成を充実させる運動が、一体社会主義のどこにつながっているのか、などということは、考えたこともない、という場合もあるのだ。
そもそも、マルクスやエンゲルスが確立した科学的社会主義は、「理性によって人間の頭の中に発明される設計図としての社会主義社会」ではなく、古い社会の中から次第に生まれてくる新たな萌芽・要素があり、それが次第に社会の趨勢となっていき、新しい社会にとってかわるという、法則的な発展として社会をつかむものだ。その社会の発展法則を研究して知り、働きかけるところに「科学」を名乗るゆえんがある。
つまりである。
今の社会の中に現実に萌芽として存在しているものが大きくなるのでなければ、新しい社会などできようはずがないではないか。
その社会にガイド役たる政党が存在していようがいまいが、古い社会は紆余曲折を経ながら新しい社会に変わっていくのである。それこそが史的唯物論の確信のはずだ。「ガイド役の政党」はあくまでその発展を合法則的に促進する役割しかない。その政党が小さいからがっかりするとか、これじゃあ社会主義にはならねえなあと思ってしまうとか、そういうトンチンカンな思い込みはどこからやってくるのだろうか。
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もっとも、社会が苦痛の少ない形で、合理的に次の新しい社会を迎えることは、その社会一人ひとりの運命にとっては決して小さな話ではない。日本は封建的な遅れを残した戦前の社会から、資本主義のベースになるような戦後の民主主義社会へと発展・移行した。これ自体は歴史の必然であっただろう。しかし、そのために日本人は310万人の戦争犠牲者と国土の荒廃、そしてアジアの人々に計り知れない苦痛を与えて「民主社会」への移行を果たすという、多大な犠牲を払ってしまった。もっと苦痛が少ない、合理的な形で社会発展を促進できなかったのか、という厳しい問題がそこには残っている。「歴史は必然的に新しい社会に移行するから、私はそうした歴史をつくる作業には参加せず、寝ていてもいいんだ」というわけにはいかんのである。
社会主義の萌芽は資本主義の中で生まれている
おっと、おしゃべりが過ぎてしまった。
言いたいことは、今の資本主義の中に、次の社会——社会主義社会の要素が確実に生まれているし、その萌芽は大きくなっているということだ。そのような社会発展認識をもつことが、社会主義者にとってはめちゃくちゃ重要だと思うんだけど、それがなかなか育ってこなかった。
なぜだろうかと思うのだが、日本の左翼の最有力者である日本共産党は、民主主義革命と社会主義的変革という二つの段階をきっぱりと分けてきた影響があるんじゃなかろうかと考える。
例えば、志位和夫はこう語っている。
社会進歩のどのような道をすすむか、そしてその道をすすむ場合でも、いつどこまですすむかは、主権者である国民の意思、選挙で表明される国民自身の選択によって決定されることであります。このこともわが党の綱領に「国民の合意のもと、一歩一歩の段階的な前進」をはかると明記していることであります。「いったん日本共産党と政権をともにしたら、エスカレーターのように先ざきの社会まで連れていかれるのでは」と心配する声もあるかもしれません。しかし、私たちの立場は、「エスカレーター式」ではありません。社会の進歩は、階段の一歩一歩を、選挙で示された国民多数の意思にもとづいてのぼる。これが私たちの立場であります。「エスカレーター」でなく、「階段」ですから、どうか安心していただきたい。(笑い、拍手)
エスカレーターではなく階段なのだ、と。
私たちは、共産党ですから、人類は、資本主義という利潤第一主義の体制をのりこえて、未来社会(社会主義・共産主義社会)に発展するという展望をもっています。同時に、この変革は一足とびにできるものではありません。社会は、国民多数の合意にもとづいて、一歩一歩、階段をのぼるように段階的に発展するというのが、私たちの立場です。
社会主義に進む際には「今から社会主義に行きますよ」という社会合意をつくる…というわけである。これは共産党の綱領でも
社会主義的変革は、短期間に一挙におこなわれるものではなく、国民の合意のもと、一歩一歩の段階的な前進を必要とする長期の過程である。/その出発点となるのは、社会主義・共産主義への前進を支持する国民多数の合意の形成であり、国会の安定した過半数を基礎として、社会主義をめざす権力がつくられることである。そのすべての段階で、国民の合意が前提となる。
と記されている。
資本主義の枠内で行われる民主主義革命と、その所有にまで手をつけることになる社会主義的変革とを厳密に区別したくなるのは、理解できる。国民に恐怖心を持ってもらいたくはないのだろう。
だが…。
資本主義(体制)と社会主義(体制)を截然と分ける、というのは古い社会主義観じゃないかな、と思う。
戦後の日本の革命運動の中でこの問題は何度も論争になったし、例えばヨーロッパでもフランス共産党の「先進的民主主義」(シャンピニ宣言)は資本主義内での民主主義的改革を社会主義の突破口として位置づけるもので、社会党と組んだ連合政権を分裂させる一因となってしまったとも言われる。
だけどこういう社会主義観というのは、“国有化や協同組合が一定の比率に達したら社会主義”とか、“所有の根本原理を転換する立法を行えば社会主義”のような発想が根底にあるように思われる。その日を境に、その社会は「社会主義」になるというのだ。
そうではない。
資本主義とは「資本」、すなわちG-G'、利潤追求がその経済の基本原理となっている経済体制であり、その目的のために生産手段が所有され、使われる。
これに対して、社会主義とは、社会の必要のために生産が行われることを基本原理とする社会であり、その目的のために生産手段は社会が所有・管理・運営に関与する。
完全な利潤第一主義である資本主義から、修正資本主義や福祉国家などをへて、社会の必要のために経済を使う社会主義に至るまで、ゆるやかなグラデーションでつながっていることだろう。
利潤第一主義をおさえ、社会が経済をコントロールし、経済を社会の用に供するようになるために、資本主義の中にさまざまなしくみが生まれ、それを使う人間が育ち、それを運営する技術や思想が発展していく。資本主義の中に生まれてくる「しくみ」「人間」「技術」「思想」は次の社会を準備するパーツである。
こうした社会発展観にたてば、次の社会——社会主義の萌芽というものは、今ぼくらが暮らす資本主義のあちこちにあることが確認できるだろう。
そして、経済の原理が、利潤追求を目的としたものから社会の必要を満たすことに変わったときこそ、その社会は「社会主義」に変わった(到達した)と言える。
そのパーツの一つひとつが生まれ、育っていくさいには、なるほど確かに社会の合意、具体的には選挙を通じた議会(国会)での多数の形成と法律の通過を必要とすることになるだろう。
例えば、住宅に対する権利はベーシック・サービスであり、持ち家であるか借家であるかに関わらず、すべての国民に対して「住宅基本手当」を月3万円支給するという制度を作るとしよう。それは社会主義そのものではないが、社会主義の一つのパーツを構成するものだ。そのような「住宅基本手当法」を政党が公約し、多数をとり、法律として国会を通す手続きを通じて、「しくみ」や「技術」「思想」、そしてそれを運営する「人間」が育っていくことになる。
これが一歩一歩階段をのぼるように社会をすすませる、その階段の中身ではないのか。「明日から社会主義にします」というような階段ののぼらせ方はおそらくありえないだろう。
「住宅基本手当」だけに限らない。
「子どもの医療費無料化」だって、医療費の無料化、すなわちベーシックなサービスを提供していく社会主義のパーツである。小学校・中学校の完全無償化だってそうだろう。労働時間を短縮させるための法律もその一つだ。いや、NPOを支援して里山を保存する事業に予算をつけることだって、資本の利潤第一から環境を守る「しくみ」の一つであり、社会主義のパーツと言えるだろう。
そんなふうに考えれば、社会主義は、というか社会主義のパーツは、「ここにある」のだ。
本書における整理のための5つの視点は重要
そこまで書いていよいよ本書である。
本書の第1章は「ここにある社会主義」。そして最初の節は「社会主義はどこにでもある」だ。この把握はまったくぼくの実感に近い。というか、今こそこの感覚をコミュニストは誰もが持つべきであろう。
自分のやっている事業は未来のパーツを作っているのだ、と。
本書第2章で行なっている5つの整理は、その点で大変重要である。
社会主義についてはこれまでも思想・運動・体制という3つの観点で整理されてきたが、そこに「制度」「方向」を加えたのである。
ここでいう制度とは、体制を構成する部分です。たとえば社会保障制度は、それだけでは社会体制とはいえませんが、社会体制を形づくる重要な構成部分です。
制度は運動と体制の中間に位置します。運動によって最低賃金が引き上げられれば、新たな最低賃金が制度となります。そのような社会主義的制度が積み重ねられることによって、社会主義体制へと接近していきます。(p.20)
従来の「思想・運動・体制」という3区分では、このような「資本主義の中で育つ次の社会の萌芽」という視点がうまく汲み取れなかった。それを「制度」という整理を加えることで、そこが可視化されるのである。
著者の松井暁は、この「制度」という区分を重視している。
「ここにある社会主義」という本書の観点からすれば、制度としての社会主義は特に重要です。(p.20、強調は引用者)
なぜ重要なのか。少し長くなるが、ポイントとなる点なので、引用しておこう。
福祉国家といわれる現在の資本主義は、その中に社会保障制度や義務教育制度など、社会主義的な制度を多く取り込んでいます。特にスウェーデンのような北欧福祉国家では、労働者の経営参加や社会保障の面で、高度に社会主義的な制度が定着しています。民主的社会主義者を自称するアメリカのバーニー・サンダースは、民主的社会主義とは何かという問いに、北欧福祉国家を見ればよいと答えています。
これに対して資本主義派は、こうした福祉国家も資本主義的市場経済に基礎をおいているのだからサンダースの理解は間違っていると批判します。確かに北欧諸国は先進資本主義国の一員であって、社会体制としては社会主義には分類されません。しかし北欧諸国では社会主義的な制度が広範に確立していることは事実であって、この点でこれらの諸国が「社会主義的である」と判定することは間違っていません。
ですから、体制より分析対象を小さくして、制度に分け入ってみれば、その体制が資本主義か社会主義かという二分法から、社会主義的制度をどの程度に採用しているかという、より正確な問題設定に置き換えることができます。
後述のように、本書はソ連・中国のようなソ連型社会体制を社会主義とは認めません。この理解を前提にすれば、北欧諸国は今日の世界で最も社会主義に接近していると評価できます。このように、制度としての社会主義という視点は、現時点での社会主義の広がりを理解するうえで大いに有効なのです。(p.20-21)
これは非常に正しい。すばらしい解明と言える。
同時に、松井は「方向としての社会主義」という整理も加えている。
これは一言で言えば、革命と改良の関係を整理するものだろう。
松井はベーシック・インカムを例に出しているが、それがすべての人の「健康で文化的な最低限度の生活」を保障する橋頭堡になるのか、それとも新自由主義的に大企業や富裕層が自由勝手に活動していくための「雀の涙としての手切れ金」として渡されるのかでは、全然意味合いが違ってくる。
資本主義を永続させるためのものか、それとも次の社会のパーツとして第一歩を育てるかで、生まれた制度の評価、またそれを生まれさせようとする政治勢力の評価も変わってくるだろう。
もちろん、実際に生まれてくる制度は、そんな単純な思惑で生まれてくるものではない。安倍政権は「大学の無償化」を看板にして給付制奨学金を導入した。ぼくらからすればそれは国民の運動に押されてやむをえず作り出した、日本資本主義を永続させるための譲歩策でしかないように思えるが、そうやって生まれた制度が大きく育って、本当に総合的な高等教育の無償化につながっていくことだって十分にあるからだ。
ぼくの元々の問題意識からすれば上記の整理は「我が意を得たり」というところなのだが、本書の特徴はさらにそれを思想にまで及ぼしているということだ。
松井はもともと『自由主義と社会主義の規範理論』や『Socialism as the Development of Liberalism(自由主義の発展としての社会主義)』などを書いている(ぼくは未読)ように、自由主義の価値を批判的に継承したのが社会主義であるという主張をしている。
このエッセンスというか概説を、本書の第3章「自由主義と社会主義」以降の章で述べていて、これはぼくにとって勉強になった。自由主義は自由・所有・正義・功利・平等を価値としてうたうのだが、それが資本主義のもとでは不徹底もしくは逆に抑圧される事態を生み出すために、社会主義がそれを批判し、本当の意味で徹底させるというものだ。エンゲルスの『空想から科学へ』の第1章の展開に似ている。
この中で、社会主義といえば「平等」のように思われているが、平等原理は、社会主義の中では下位の価値であって、社会主義は共同と本質(自己実現)を最も高い価値としており、平等がそれに背く場合は遠慮なくそれを後回しにすることなどを解明している。
第4章から6章まではこうした思想史からみて社会主義の原理を明らかにしようとしている。ここは、多くの人にとってどれくらい興味が持てるのかはちょっと疑問のあるところだが、ぼくは長年疑問だったことが整理されたところでもある。
つまり「自己労働に基づく所有」——自分が労働してつくった富は自分のものとなる、というロックが明らかにした原理は、資本主義のどこで生かされ、どこで消えてしまい、どこで復活するのかということだ。
もちろん、おぼろげに『資本論』第1部の「いわゆる本源的蓄積」で「個人所有の再建」として取り上げられ、『空想から科学へ』でもその解明が生かされていることはぼんやりとは知っていたし、日本共産党はそれを綱領で生かしていることもなんとなくわかっていた。
だが、ロックからの流れで見ると、その途中で理屈が合わないところもあって、そのあたりがうまく整理できていなかったのである。しかし本書を読んで、生産手段説と労働説を対比させることで整理された。
とりわけ、マルクスの『ゴータ綱領批判』の2段階論(共産主義の低次の段階、高次の段階)をこう読むのか、というあたりは、非常に参考になった。
ただ、繰り返すが、社会主義オタクであればいざ知らず、社会主義に興味を持っているだけのもっと広い層にとってはこのあたりの解明は必要なのかなあと思ってしまう。ま、それは読んだ人が判断してくれればいいと思うけど。
シェアリング・エコノミーと社会主義
第11章「社会主義の予兆」は、「制度」が「体制」へと発展しかける萌芽を読み取ろうとするものだろう。その中で、「シェアリング・エコノミー」を挙げていることは卓見である。
シェアリング・エコノミーはライドシェアやエアビーアンドビーのような資本主義的サービスを想定してくれたらいい。
これを聞いて仰天する人もいるだろう。
「ライドシェア!? 資本主義的規制緩和の権化みたいな話じゃないか」「エアビーアンドビーだって? 民泊がどれだけ地域経済に害を広げているのか知らないのか?」というかもしれない。どちらもぼくが今いる福岡市では現市長・高島宗一郎が推進している、大企業の利潤追求を後押しする規制緩和の代表格のような話だからだ。
ただ、ぼくはレイチェル・ボッツマン、ルー・ロジャース の『シェア <共有>からビジネスを生みだす新戦略 』をもう10年以上にも前に読んだ時、「こういう共有の思想って、新しい社会の予兆ではないのか?」と思い、社会主義社会のパーツとして数え上げたものだった。
松井も同じだったのである。
松井は、シェアリング・エコノミーの現場での利潤第一主義としての問題点を挙げつつも、次のように記す。
こうした問題の反面、シェアリング・エコノミーは、資本主義から離れて社会主義に接近する要素ももっています。シェアリング・エコノミーの実践は、貸主・利用者いずれにとっても、私的所有を相対化する経験をもたらします。財にしてもサービスにしても、重要なのは所有ではなくて利用することであるという感覚を醸成します。
また、シェアリング・エコノミーにおける貸主の動機は、利潤追求よりも、自分のもっている資産を有効活用したい、さらには社会のために役立てたいという社会性にあります。
シェアリング・エコノミーにおいて、媒介的役割を果たすのはプラットフォーム事業者です。プラットフォームを私的に所有して独占しているのがプラットフォーム巨大企業ですが、プラットフォーム自体は共有しやすい性質を有します。(p.209-210)
他にも企業の社会的責任、社会的企業、自治体主義(ミニシュパリズム)を取り上げており、これらを次の社会への「予兆」としてとらえることはぼくも重要だと考える。
本書に対する4つの批判
その上で、本書に対する批判点を最後に書いておく。
第一に、生産手段の「社会的所有」という概念が狭いことである。これは前にも書いたことがあるが、「社会化」の方がぼくがいいと思っているのは、生産手段に対する社会の関与の仕方はかなり幅広くとらえられるもので、「所有」としてしまうことで非常に狭いイメージが生まれるからである。
「とりあげられる」という誤解さえ生まれると思う。
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民法では「所有権」は「自由に使用、収益、処分をなすことのできる権利」と定義されています。日本の憲法では、「財産権は、これを侵してはならない」(29条)と定めています(財産権は所有権を含むさらに広いものです)が、実際には社会権を実現するためにいろんな制限をかけています。「侵してはならない」などと大見得を切りながら、「絶対的に自由に使用・収益・処分してやるぜ!」ってことはできないわけです。
よくある例では、労働者保護のための規制、私的独占の排除、公害防止、文化財の保護……なんかがあげられますよね。「俺の財産をどう使おうが自由だろ?」と言って、工場つくって有害な煙をもくもく吐き出したらマズいわけです。
つまり、それは、現代の資本主義日本であっても所有(権)が実際には社会によって侵され、制限をかけられ、コントロールをされていることになります。
しかし、かんたんにいえば、その度合いはとても小さいものです。
いち企業の所有に対する制限・コントロールの度合いも弱いし、仮にある企業やある部門への所有に干渉して、かなりの制限・コントロールが効くようになってきたとしても、社会全体としては「もうけ最優先」「利潤ファースト」とも呼べる原理をくつがえすところまではいっていない。「社会的理性」が「祭り」の「前」から働くようにはなっていないわけです。
所有への干渉はいま現在すでにおきているわけで、それを見てもわかるように、所有への干渉の深め方、つまり生産手段の社会化のありようは、一律ではないはずです。
なるほど、会社が民主化されて、協同組合のようになることもあるでしょう。
しかし、そうではなくて、株式会社のままであったとしても、外から法令でコントロールすることもできます。
あるいは、政府や自治体が金融や財政(融資とか補助金など)で誘導することもできるでしょう。
強弱や範囲の大小はあっても、いま日本でも普通に行われているような、政府や自治体による「計画」によって企業行動を変えることもできるでしょう。
株主は株券を握りしめたまま、しかし、社会はすでにその企業の所有に、実際にはかなりのコントロールを効かせる、すなわち所有に大胆に干渉し、実質的には奪っている、というようなことができるのではないでしょうか。
このような多様なチャンネルあるいはハンドルあるいはスイッチによって、社会が合理的に経済を「運転」(管理・運営)できるようになって、「利潤ファースト」の社会のありようを覆すなら、すでにそれは社会主義社会だと言えます(マルクスが工場立法のようなものを「新しい社会の形成要素」と呼んだこともここにつながります)。「修正資本主義」ではありません。
第二に、社会主義の生産体のあり方が狭いことだ。協同組合のようなものしか想定されていないように思える。そうではなくて、今ある企業が民主化されていくルートも十分あり得るわけで、松井の場合、完全に自由な生産者の結合でなければいけないという固定イメージが強すぎる。
第三に、そのことにも関わるが、個々の生産体や事業体がいくら「民主化」されても、それだけでは、社会が経済を運用することにはならない。国会・国家が経済をコントロールし、自治体が関与し、生産・事業体が努力し、世論が動いて、そうして初めて社会としての意思が合力として貫徹されるだろう。そういう多様なチャンネルによって初めて社会的理性が発揮されるのではないか。
第四に、市場経済について否定的すぎる。松井は、市場は放っておけば市場から資本主義が成長してしまうし、「市場社会主義」というのは本来的にはありえないというほどまでに否定的に見ている。
しかし、市場経済と資本主義を明確に区別することこそ必要な整理だ。市場経済で起きる弊害については個々に対応すべきものであって、原理として否定的に見るほどではない。
以上がぼくが読んだ時に感じた問題点である。
しかしその批判点を補って余りある長所が本書にはある。「今ここにある社会主義」という感覚をすべてのコミュニストが持つべきなのだ。