PTAに入って活動したいと思える2条件を総会で述べた

 娘が通うことになった公立高校のPTAに、現在ぼくは加入していない。

 にもかかわらず、PTA総会に出かけ、「加入していないですが、1年生の保護者です。参加してもよろしいですか」と受付で声をかけて参加した。

 今年度の事業計画案の審議に入ったので挙手をして発言した。

 私は今PTAに加入していません。

 しかし、次の2点がクリアされれば、加入して積極的に活動したいと思っていますが、検討をお願いできませんか。具体的には、事業計画案を修正して検討することを加えてほしいのです。

 第一は、加入が任意であり、入会と退会の手続きを明記することを検討してほしいのです。もうこれをやらないとコンプライアンス的にまずいと思います。

 第二は、入学して3・4月だけで25万円も現金が必要になりました。過大な負担だと感じました。本会の規約では「目的」の第一に、「教育振興についての調査・研究」とありますので、初期に支払う教育費負担について調査・研究できるような小委員会を設けることを検討してもらえませんか。もしそういうものができれば、私は喜んでPTA活動をしたい。

 大筋、こういう旨の発言である。

 第一の点については、事業計画案の修正ではないが、「5月に検討します」という答弁が会長さんからあった。個別にぼくに連絡をくれるとのこと。大変前向きで素晴らしいと思った。

 第二の点については、学校事務が挙手をした。指定品の入札などで軽減の努力をしているという趣旨の発言だった。「これでご理解いただけますか?」と言われたので、ちょっとびっくりして「はい、今のお話の意味は理解できましたが、それ自体にもお聞きしたいことがありますし、調べてみたいこと、考えてみたいことはもっと多岐にわたっておりますので、今のお話だけで了とするわけにはいきません」と答えた。その上で、PTA(役員会)として特に検討するという答弁もなかった。前述の個別の連絡の際に、そのことについての言及があるかもしれないので、あまり期待をせずに様子を見ておく。

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 ぼくが教育費について調査・研究をしてみたいと思った活動は、こんな感じである。

(1)「県高等学校保健会費」「県体育連盟負担金」「地区高等学校生徒指導協議会費」などをいきなり払わされるが、それがどんな団体なのか、保護者はどういう関わりがあるのか全く不明である。これらの費用について、実際に、「県高等学校保健会」「県体育連盟」「地区高等学校生徒指導協議会」などに出かけて、お話を聞いてみたい。めっちゃ興味ある。インタビュー自体が楽しそう。どんな活動をしているのか、保護者はどう関われるのかなどである。その上で、費用の求め方を研究すればいい。

(2)保護者にアンケートをとってみたい。1年生の3・4月に費用を払ってしまえば、その人たちはもうその費用に関わることはない。来年度新しい保護者が突然その費用負担に驚かされる…この繰り返しである。だから、すでに払い終わってしまって自分には関係がなくなったぼくらが、ここでひと肌ぬいで、後の人たちのために残すのである。

  • 費用負担を高いと思うか。
  • これを指定品として扱うのは妥当だと思うか。
  • 生徒氏名のゴム印を保護者負担にするのは妥当だと思うか。

などである。また、その根拠についても校長・事務・教育委員会・学識者にインタビューなどをしてみたい。これも楽しそうではないか!

(3)教科書や教材については現在私費負担になっているが、他の国や他の地域ではどうなっているか。小中学校はどういう経緯で無償になったか、あるいは教材負担がない自治体があるが、それはどうなっているのか。そうしたことをみんなで学びたいし、調べたい。

 主にこの3点だ。どれもすごくワクワクするぜ! こういうPTA活動ならホント、進んでやりたい。

 

 

 総会が終わってから、役員の方がぼくの連絡先を聞きに来られた。そのついでに役員の方から問いを投げかけてこられた。

  • 役員「PTA会費から生徒の冷暖房代が出ているのでPTAに入らない人がいると不公平になりますから、どうしたいいのかと思っております」
  • ぼく「それは公費で出すべきではないでしょうか。学校教育法〔第5条〕という法律で『学校の設置者は〔、その設置する学校を管理し、法令に特別の定のある場合を除いては、〕その学校の経費を負担する。』とありますからね」
  • 役員「うーん。そういう大きな話になるとPTAではどうにも…」
  • ぼく「それはきちんと『大きな話』をすべきと思いますよ。他にも…」

といったところで別の役員の方が「まあここではなんですし」と引き剥がしにこられた。なんだかぼくが議論をふっかけているみたいな構図になっていたので、ちょっと心外であったが。

 

 PTAに関わって「不公平」論(一種のフリーライダー批判)をリアル現場で聞いたのはひょっとしてこれが初めてかも。

 ぼくが続けようとした議論は3点あった。

 一つ目は、仮にPTAからの自発的な募金でやるにせよ、必要な冷暖房代が100万円として80万円しか集まらないなら80万円でやるしかないわけで、「子どもたちがかわいそうだから保護者が残りの20万円も強制的に出せ」とはならない。

 この学校のPTAは、校長が公式に充て職で役員に入っている団体である。いわば公的に関与している団体なのだ。そういう公的関与が明確な団体が、「子どもたちがかわいそうだから保護者が残りの20万円も強制的に出せ」という挙に及んだら、地方財政法4条の五、

地方公共団体は…住民に対し、直接であると間接であるとを問わず、寄附金(これに相当する物品等を含む。)を割り当てて強制的に徴収(これに相当する行為を含む。)するようなことをしてはならない。

に反してしまうことになる。

 二つ目は、学校の冷暖房が機能しないのは、「学校環境衛生基準」が定める教室の温度「18°C以上、28°C以下であることが望ましい」に反することになり、「校長は、学校環境衛生基準に照らし、学校の環境衛生に関し適正を欠く事項があると認めた場合には、遅滞なく、その改善のために必要な措置を講じ、又は当該措置を講ずることができないときは、当該学校の設置者に対し、その旨を申し出るものとする」という学校保健安全法の規定に反することになる。「サービスが足りない」というレベルではなく、法律違反になってしまいませんか? という指摘をPTAとしてちゃんと校長に教えてあげるのだ。

 三つ目は、PTAはメンバーだけが恩恵を被る互助会・共済会・福利厚生団体ではない。そういう事業もあっていいが、すべての子どもたちの教育振興をめざすことが基本のはずである。交通安全の見守りをするときに「あの子の親はPTAに入っていないから、危険な状況を見かけても声をかけない。車にはねられても自業自得」という人はいないだろう。

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 「もし私から事情を聞きたい場合は呼びつけてください」と申し上げたけど、うーん、望み薄かなあ。でも、5月の連絡に期待しておく。PTAで活動したい意思は示したし、条件も伝えた。

 任意の団体に加入しようと思ったら、条件をつけて交渉をすることは大事なことだ。丸ごと受け入れなければならないわけではないから。

大江健三郎『芽むしり仔撃ち』

 中学3年の終わり頃、高校の下見に遠くの街に電車で出かけた。遠くの高校に行くかもしれなかったのはぼくともう一人の生徒だったので2人で出かけた。親友というわけではないが、生徒会の役員を一緒にやる程度には友達だった。

 その街はぼくの中学のあった田舎とは格段の差のある「都会」で、景色に圧倒されながらその街を歩いていた。

 その時、前の方から自転車に乗った若者、おそらくぼくと同じ年頃の一団が奇声を発しながらやってきた。10人くらいの集団だっただろうか。彼らは自転車に乗ったまま、ぼくらとすれ違いざまにぼくの腹をわざわざ蹴って通り過ぎていった。

「何すんだこのやろう!」

と大声をあげたのはぼくであった。

 その罵声を聞きつけ、彼らは自転車を止めた。

 そして、降りてこっち向かって走ってきたのである。

 ぼくは青くなって逃げ出した。

 ところが、もう一人は駈け出さなかった。自分が発言したのではないと考えたのだろう。

 しかしその一団にそんな「道理」は通用しない。たちまち友人は取り囲まれ、殴られ、蹴られ始めた。

 ぼくは見捨てて逃げるわけにもいかず、戻るしかなかった。今考えれば110番通報したり大人に助けを呼んでから戻ればよかったのだと思うのだが、そんなことを考える余裕はなかった。

 戻るや否や、ぼくもボコボコにされた。

 「金を出せ」と言われた。

 「ありません。勘弁してください」と弱々しくぼくは哀願した。結局財布を巻き上げるまではしなかったが、ふんという感じで彼らは立ち去った。鼻血が出たので、派手な絵面となった。ただ、「全治●ヶ月」というようなことはなかった。

 どうやって帰ったのかもあまり覚えていないが、その友達とはあまり話さなくなってしまった。二度と思い出したくない、つらい記憶となったのだ。

 ぼくは優等生意識の裏返しもあったのだろうが、「不良ども」を心の底から軽蔑していた。「そんな奴ら」から暴力を受け、屈服させられ、哀れがましく許しを請うたことで、プライドがズタズタになった。はじめにイキがっただけに、その落差を思うと、その時は震えるほどに悔しかった。早く忘れよう、なんでもなかったんだ、という思いが交錯した。

 直接的な暴力はなおさらだろうが、人を理不尽な力によって屈服させること、それによってどう尊厳がが踏みにじられるのかということを、そんな経験からも少しばかりわかるような気がする。もちろんレイプ被害はその何倍・何十倍も苦しいものなのだろうが。

 繰り返すが、直接的な暴力に限らない。

 圧倒的な力の非対称性を背景に、押さえつけられるということの屈辱感を想像するとき、体が熱くなる。

 

 リモート読書会で読んだ大江健三郎『芽むしり仔撃ち』で最も印象的な箇所はラストの第十章「審判と追放」である。

 

 戦争中、感化院の少年たちが疎開ということで送られた村で、感染症が流行り、少年たちは感染した動物の死体の処理の仕事をさせられた挙句、村人たちが計画的に避難する中で村に強制的に隔離される。やがて村人たちが戻ってきて、村長は、少年たちをなじり始め、一緒にいた脱走兵の行方などを糾問する。

「この汚ならしい感化院のがきども」と村長が突然怒りくるって叫んだ。「お前らは何一つ正直に白状しない。俺たちを甘く見るつもりか。俺たちは、お前らの痩せた首を一締めでつぶしてしまうことができるんだぞ、叩き殺すこともできるんだぞ」

大江健三郎『芽むしり仔撃ち』新潮文庫、p.170 Kindle 版)

 しかししばらくして戻ってくると村長は恩着せがましく、お前らを許してやると述べた。感化院の教官が戻ってくるので、少年たちを置いてけぼりにして閉じ込めたことを他人に言うなと少年たちを脅すのである。

 主人公の「僕」は、許してやると言われた一瞬は心を開きかけたが、急に態度を硬化させた。

 僕の心の中で開きかかっていた蓋が急速に固く閉じた。そしてそれは僕の躰のまわりへ伝染し、僕の仲間たちみんなが村長への硬く対抗する態度、しっかりした姿勢を取戻した。僕らはうまくはめこまれようとしていたのだ。そして《はめこまれる》ことほど屈辱的でのろくさでみっともないことはないのだ。…

 「おい、いいな。そういえよ」と僕らの無反応にその装われた冷静さをかきみだされた村長が僕らを見まわしていった時、僕ら仲間たちはすっかり態勢を挽回し、内部の同志としての固い結束をとり戻し、村長に対して挑戦的に胸をはり眼をきらきらさせていた。(大江p.173)

 しかし結束は長く続かなかった。村人が圧倒的な暴力を見せつけた後、従う者は握り飯を食わせてやると言い出した。次々に崩れ、最後に抵抗の意思を示し続けるのは「僕」一人になる。鼻先に熱い汁と握り飯を出すが、「僕」はそれをはたき落とす。

「ふざけるな」と村長は喚いた。「おい、ふざけるな。おいお前は自分を何だと思ってる。お前のような奴はほんとの人間じゃない。悪い遺伝をひろげるだけしかない出来ぞこないだ。育ってもどんな役にもたたない」

 村長は僕の胸ぐらをつかみ、僕を殆ど窒息させ、自分自身も怒りに息をはずませていた。

「いいか、お前のような奴は、子供の時分に締めころしたほうがいいんだ。出来ぞこないは小さいときにひねりつぶす。俺たちは百姓だ、悪い芽は始めにむしりとってしまう」(大江pp.178-179)

 

「いいか、おい?俺たちはな」と村長は喚いた。「お前を崖から追い落すこともできるんだぞ、お前を殺して誰一人それをとがめる奴はいないぞ」

 彼は短く白髪を刈りこんだ頭を振り、怒りにみちた声で叫んだ。

「お前たち、俺がこいつを殺してそれを巡査にうったえるものがいるか?」

 首をしめつけられてのけぞった僕のまえで僕の仲間たちはおびえて黙りこみ僕を裏切った。

「分ったか、おい、これでわかったか」

 僕は眼をつむり、苦い涙を睫にからませてうなずいた。僕には自分が最後の土壇場でまで見すてられたことがわかりすぎるほどわかっていた。僕の胸ぐらをしめつけていた腕がゆるみ、僕は深い息と小さい咳をして躰をたてなおした。(大江p.179 )

 そして「僕」は追放という審判を受け、追放される。しかし、実際には追放ですらなく、いつまでも抵抗し続けていた「僕」を、村人たちは他の少年の見えないところで殺してしまおうとしていたのである。すんでのところで「僕」はそれを免れるが、一瞬免れただけで、逃げられたのかどうかすらわからないまま結末が閉じられる。

 逆らった者を、徹底的に力で封じ込め、ジャッジし、追放し、抹殺する。

 抵抗に立ち上がった人々が崩れる無様で情けのない瞬間、どうやっても逃げきれない力の網の中で抵抗を続ける無力感、悔しさが活写されている。

 

 次回の読書会はその対極にある文化について。桑野隆『生きることとしてのダイアローグ バフチン対話思想のエッセンス』(岩波書店)である。

 

 

事実婚と高校無償化

 娘が進路を決めたタイミングで、同じように公立高校に子どもを通わせることになった知り合いAさんの相談に乗る。

 相談とは「自分の家庭は高校無償化の制度の適用を受けるか?」ということである。

 公立高校については授業料相当のお金(高等学校等就学支援金*1)を支給するタイプの「無償化」が行われている。

 しかし、これには所得制限がある。

 目安であるが、高校生1人の子どもがいる場合は、両親が共働きなら年収1060万円、一方が働いているだけなら年収910万円が上限となる。

 Aさん夫婦はどちらも働いている。

 Aさん夫婦の家庭は、「両親が共働きなら年収1060万円」という条件をクリアしないのではないかという心配がAさんにはあった。

 高校のこの無償化制度を使えるかどうかは、行政が勝手に判断して通知してくれない。保護者側が申請をしないといけないのである。

 しかし、実際には「高等学校等就学支援金オンライン申請システム」(e-Shien)に、全員が書き込んで申請をさせられる。そして、収入が基準を超えているかどうかは行政が判断してくれる仕組みになっているので、実質的には保護者が自分の家庭は所得制限の基準をこえているかどうかをいちいち調べる必要はない。

 ただしこの申請サイトでは、申請者である「保護者等」の情報を入れることになる。

https://www.mext.go.jp/content/20230322-mxt_shuukyo03-000020144_2.pdf

 この「保護者」についての情報を入力するところで「親権者」が2人いるかどうか聞かれる。

 親権者。

 ぼくも、このAさんもハタと迷ってしまった。というのは、Aさん夫婦はうちと同じ事実婚の家庭だからである。事実婚の場合、「親権」はどうなんだっけ? と。

 それで、最初は高校の事務に電話して聞いてみたのである。申請案内に「わからなければ事務に聞いてくれ」という趣旨が書いてあって、電話番号が載っていたからだ。

 ぼくが「事実婚なんですけど親権者のところはどう書けばいいんですか」と尋ねると「そっち(申請者)の方で決めてほしい」と言われたのである。

 

 え? あ。そうなの? 任意で決めて記入していいってことなの? と思い、ぼくは「親権者2人」でいったん申請した。

 しかし、申請してから「いや…それっておかしくないか?」と思い直し、自分で親権について調べた(いや、前にも調べたけど、正確にどうだったか忘れていたのである。)

 答えは、事実婚の場合は、親権者は1人しかいない

 それで県の教育委員会事務局に問い合わせることにした。県教委は「確認します」と言って、制度を調べ、ついでにぼくが娘を通わせる公立高校の事務にも確認の連絡をしてくれた。

 その結果、ぼくが「親権者2人」で申請したのは間違いであったことがわかった。県教委ははっきりと「一般的に事実婚の場合は親権者は1人です」と回答してくれて助かった。

 県教委からの折り返しの電話によれば、高校の事務も「そっち(申請者)の方で(親権者に人数を)決めてほしい」と言ったつもりはないとのことであった。“お前らの事実婚についての具体的状況とか知らんし、込み入った親権の紛争とかがあったりしたら断定するのはイヤなので、申請者がよく判断して決めてくれ”という趣旨だったらしい。(まあでも「一般的に事実婚の場合は親権者は1人です」と県教委のように答えてほしかったのだが…。分からないから聞いているのであって、そう言ってくれないと書類が記入できないからね。)

 高校の事務に再度ぼくの方から電話して、真意を確認し、ぼくの方からぼくの質問が悪かった旨を謝った。

 結局最初の申請を取り消して、新たに申請をし直すことにした。これは高校の事務に骨を折ってもらった。

 

 ということがあったので、ぼくからAさんには「親権者は1人です。だから、ご夫婦の収入は合算されずに、親権者お一人の方の年収だけで判断されると思いますよ」と答えた。Aさんのところは、夫婦の収入を合計すると明らかに年収1060万円を超える。ところが、どちらか片方なら910万円は超えないのである。

 まあ…まだ審査中なので、結果を見ないと分からないが、Aさんは大いに安堵した。

 

追記

 これを聞いて、釈然としない人もいるかもしれない。 

 所得制限というものは、線引きの境界でいろんな不公平感を生んでしまう。

 だから、ぼくとしては日本が最近(2012年)ようやく批准(留保の撤回)した国際人権規約(社会権規約)の13条通り、「無償化」を完全に果たすようにして、小中学校同様に誰でも無償で高校の授業を受けられるようにすべきだと思う。

 

*1:この支援金制度で私立高校に対しても授業料支援がある。

映画「BLUE GIANT」について

 映画「BLUE GIANT」について。

www.youtube.com

 単行本が出るのがもっとも待ち遠しい作品の一つである。

 仙台の男子高校生・宮本大が独学でジャズ——サックスを始めて、上京し、仲間と組み、やがて世界に向かって挑戦していく姿を描いた物語である。

 この作品が映画になるって聞いて、いろいろ気をもむことはあった。

 宮本が仙台で一人で、あるいは師について修行しているまでの苦労をどうやってあの尺で描くつもりなのか、とか、主に、そうだな、そういう「時間」と映画の長さに関することだ。エピソードを削り込んで伝わるのかな、と。

 まあ、だけど観て思った。

 そういう無数の懸念はあったけど、一番大事なことは「音」。音の説得力。ただその一点なのだということ。宮本が、雪祈が、玉田が演奏する音楽が、「スゲエ」と思わせてくれる音かどうか、この映画はその一点にかかっている。他はある意味でどうでもいいのである。

 そして、その説得力はあった。十分に。

 そうか、宮本大はこんな音で吹いていたのか、とか、雪祈はこんなピアノを奏でていたのか、とか、玉田がうまく叩けなかったドラムってこんなふうで、勝負をかけたソロはこんな感じだったのか、とか。

 あのシーンが現実の音楽になっているのだ。

 これはすごいことではなかろうか。

 もちろん、ぼくはジャズも音楽もよく知らない。だから、音楽、とりわけジャズをよく聴く人にとってあの音が説得力のあるものだったのかどうかはわからないけども、よくこの作品で描かれる宮本の「強い音」、その表現に齟齬はないように思われた。

 「かがみの孤城」の映画を観て、そのあとマンガを読んだときもそう思ったのだが、もしぼくが監督ならついいろいろ詰め込んじゃいそうになるけど、「この映画はここが勝負ポイントだ」と思う一点にグッと切り込んでいくことが作品にとっては大切なのかな、あるいは大切な場合があるのかなと思った。

 あと、ネタバレになるので詳しくは言わないけど、ラストでこういう運びにしたことは、原作の「納得のいかなさ」を覆してくれた。

 ま、その上で2点だけ。

 雪祈が初めて宮本の演奏を聴くシーンの、宮本の演奏だけは「ん…?」と思ってしまった。要するには、ぼくはサックスだけの音では説得されないってことだよな。いや、音だけじゃなくて、映像と一体になってあの説得力があったということだ。だから音楽単体ではなく、映画として観てはじめてぼくに訴えかけるものがあったわけである。

 もう一つは、演奏シーンの3Dっぽさ。それまでの物語のアニメと急にトーンが変わってヌルヌルした動きと画面。違和感がハンパなかった。

「自己責任の教科書のような言葉が出てきて…」

 首都圏青年ユニオンニュースレター262(2023年2月28日)号を読む。

 この号もまた面白かったし、どの記事も興味深かったが、特に2つ。

 一つは「スーパーのレジへのイス設置を求める店舗前行動 Vol.2」。

 スーパーを展開する企業ベイシアの店(埼玉県深谷市)の前での行動、具体的にはシール投票(シールでのアンケート)なのだが、「レジの店員がイスに座っているのはあり? なし?」を聞いたもの。

 100人に聞いて、99人がイスに座ることに「賛成」。1人だけが「反対」。

反対した方に理由を聞いたところ、「いやなら転職すればいい」という自己責任の教科書のような言葉が出てきて、その方は土木作業員のような服装をしている40代男性でしたが、新自由主義の呪縛から早く解き放たれてほしいと願いました。

のコメントが可笑しかった。このコメントに「他者を切断せずもっと対話を…」とかウエメセの横柄なツッコミをしたくなるが、そもそもこの行動自体がものすごくアクティブな対話の試みで、敬意を抱くしかないほどの素晴らしさである。

 その上で記事では「勇気づけられた言葉」を紹介。

70代女性「もちろんOKですよ、当たり前です」

60代男性「レジ打ちに支障がなければ全然いいですよ」

70代女性「(イスが)あった方がいいですよね、海外だと多いしね」

60代男性「(スーパーを選ぶのに)座ってるかなんて関係ないよ!商品の価格と品質だよ」

20代女性「座るのでよくね?」

70代男性「人間大事にしない会社なんてダメだよ」

 

 シール投票に応じてくれた一番多い年齢層は70代以上とのことである。

若い男性の一人の客には、声をかけた瞬間に目をそらし、説明を聞いてくれない方が複数名いました。

 最初の「自己責任の教科書」の男性の例もそうなのだが、行動中に出遭うネガティブな反応についても共有してしまっているのがいい。短期的には解毒的な作用があるし、中長期的には「なんでそうなるのかなあ」とか「自分の行動や表現に課題があるのかなあ」と思う対話的なきっかけにもなる。

 

 もう一つは、「コロナ禍を経て、厚みを増す『社会的発信』」。

 首都圏青年ユニオンのような「組織的裏付け」がない労組が「社会的発信」をすることの意義や効果を論じている記事だ。「社会的発信」というのは労組が行う労組固有の仕事としての団交や争議そのものではなくて、そうしたことを記者会見したりSNSなどで社会に広げる行為のことだろう。 

www.jcp.or.jp

 ユニオンとしては以前から社会的発信はしてきたというが、

コロナ以前はこれをきっかけに相談の誘発に成功したことはありませんでした。

という。これはちょっと驚きだし、ぼくの認識が少し変わった。

「社会的な問題として位置付けてたたかい、記者会見を打って成果を広げる」。こうした「社会化」が相談を誘発し、交渉を経て制度改善につながり、さらに交渉力を上げることにつながっていく。そこで得た成果を1つの争議にとどめず、全体の交渉力につなげる。こうした好循環が、コロナになりワンランク上昇したイメージでいます。

「問題告発」に「たたかい」がなければ、何も変えられません。「たたかって勝ち取るものだ」という姿勢を可視化するため、ユニオンとしては当事者もエンパワメントしつつ、たたかう姿を発信することを意識しています。

 要求運動を「宣伝」のレベルだけでとらえてしまう人、「街頭でビラを撒いているだけで要求運動だと思ってしまう人」が、高齢化したベテランの左翼活動家の向きに少しあるのが気になっていた。やっぱり「本気で変える」っていう姿勢がない運動はまずいですよね、ということをぼんやり思った。

 あわせて、問題の社会化にあたって、記者との関係を書いた、次のような一文も注目した。

やっぱり記者会見を打つことです。ただ記者会見を打つのではなく、世論を味方にして、流れを変えるような「取り上げられ方」も大事です。「記者が食いつくようなプレスを出す」「会見前に、記者のところへ行って事前に知りたいことを聞いておく」など、気をまわした上で取り組んでいます。

 同じことをプレスリリースする、情報発信するのでも、そのパッケージを変えるだけで受け取り方が全然違うことはよくあることである。まあ、ビラなんかもそうなんだけど、その研究をしておけということ。

news.yahoo.co.jp

 

監督に必要なことは「めちゃくちゃ気を遣えること」?

 NHK番組「ドキュメント『シン・仮面ライダー』~ヒーローアクション挑戦の舞台裏~」を視る。

togetter.com

——殺陣=段取りじゃなくて、殺し合いをやってほしい。

——意外性を見せてほしい。

 …という庵野秀明の注文。まあ、そういう注文もわかる。

 わかるんだけど。

 

 横山旬『午後9時15分の演劇論』で主人公・古謝は締め切りのどん詰まりになって他人から投げ捨てられた劇の脚本を押し付けられ、青息吐息で作り上げた芝居で、友人・宮本が「感動した」と素直に告白するシーンがある。

 芝居の中で、脚本である古謝がワンシーンだけ出演する箇所がある。自分の出番を忘れていて出来が悪いまま当日を迎えたことをあれこれ考えていたその時に、出番がやってきてしまい、即興で、最近若くして転落死した友人に当てて電話をかけるという想定で、アドリブのセリフを叩き込む。下図を視てもらえば、何かわけのわからない迫力が生まれていることが分かるであろう。それが観客から期せずして拍手をもらうのである。

横山前掲、3巻、KADOKAWA、Kindle181/240

 もちろん、そのシーンだけではないのだが、「中身のない」舞台に、それぞれの役者が奇妙な合成力を働かせ、何だか異常な迫力が出てしまう。

 宮本が芝居の後で、古謝をねぎらうセリフ。

わかってないよオマエ “感動”てのはさ

本当の“感動”っていうのは

なんかわけわかんないもんじゃねーかな?

脚本だー演出だーで

人の心の“感動スイッチ”ポチポチ押そうってのは…

所詮は下劣な行為だと思うぜ

そうじゃなくって…

なんもかもわけのわからん中から

“本当のこと”を引っぱり出そう出そうと必死で格闘する

瞬間瞬間のギラつきだけが…

結局は本当の感動なんじゃないかな

 だから…元に戻る。

 『シン・仮面ライダー』の撮影現場ドキュメントの話に戻るけど、庵野が伝えたいことはわかる。段取りすんなと。ハプニングもない、予定調和じゃ面白くねーだろと。わかる。わかるわ。

 わかるけど、現場の雰囲気は最悪になる。実際なったし。ブチ切れ寸前になる現場全体。特にアクション関係。

 

 たらちねジョン『海が走るエンドロール』4で、主人公の一人・海が監督になって自主映画を撮るのだが、現場の雰囲気を悪くしてうまくいかなくなる。その直後に、海は有名な監督に「監督に必要なことってなんだと思いますか」を尋ねるシーンがある。(この話自体は、前にも紹介したけど…)

 その有名監督は「うーん」と少し考えた後に、

「めちゃくちゃ気を遣えること」

というシンプルな教えを伝える。

 「まず怖い監督の下で最高のパフォーマンス出せなくない?」というのだ。監督の周りは「なんか夢がないなぁ…」と呆れ気味。「監督に必要なことってなんだと思いますか」という問いなら、もっと「それっぽい映画論」を語るべきだと思ったのだろう。

 しかし、海は、天啓のようにその言葉を受け止める。

kamiyakenkyujo.hatenablog.com

 『午後9時15分の演劇論』の1巻で、古謝は自分が目指す芝居のために、現場をぶち壊してでも持論を通そうとするが、ギリギリでそれをやめて「オッケー!オッケー!」と全てを許してしまい、激しく後悔する。

 しかし芝居は逆に全ての人のパフォーマンスを引き出して、周囲から絶賛されてしまうのである。

 いやー。庵野は正しくなかったのではないか。

 などとは思ってみるが、じゃあ、『シン・仮面ライダー』は面白くなかったのかといえば、面白かったのである。世の中、わからない。

 

 

近藤ようこ『高丘親王航海記』

 「今こういうものが読みたい」と体が欲していたのだろう。染み透るように読めた。もちろん、発売当初に買って読み、楽しんで読んだのだが、この時期に再読して面白さが格別だった。

 近藤ようこ『高丘親王航海記』は、澁澤龍彦の同名小説を原作にしたマンガである。「薬子の乱」で有名な藤原薬子に、幼い頃に出会った経験が忘れられない高丘親王は、長じて唐に渡り、薬子から教えられた天竺を目指して船の旅を続ける。物語はその途上、主に東南アジア各国で出会う不思議な体験を綴ったものだ。

 

 

 親王は67歳であるが、「どう踏んでも五十代の半ば以上には見えない」という風貌である。それはすなわち50代の物語であろうと親王に勝手な親近感を抱く。

 そして、恐ろしく沈着で思慮深い物腰。かといって迷いがないわけではなく、むしろ幼い頃に薬子にそそのかされたことをはじめ、さまざまなことに思い惑っている。ぼくが理想としている像と今の自分の未熟で不安定な現状を、体現したかのような、その矛盾した姿に魅入られてしまう。

 荒れ果てた後宮に案内され、その奥の部屋に閉じ込められている女たちの奇怪さ。

 修行したまま砂漠で亡くなった死体を「蜜人」と呼んでその死体を漁る仕事。

 夢を食う獏の陰茎を大切そうに撫でて精を放たせる美しい姫。

 犬の頭をした人間。

 

 

 そういう幻想的なエピソード、シーンが連続する。「なにをしょうもない作り話を」とはおもわずなぜか「そんな不思議なことがこの世にあるんだ…」などと感じながら、ページを繰っていくことになる。

 その合間に挟まれる、薬子やそれに似た姫、そして男装の伴である美少女との、時には微細な、あるいは大胆にエロティックな関係。

 要するにぼくは浮世を忘れるのだろう。隔絶された別の世界に深々と入り込む。

 もちろん、すぐに家庭の雑事や仕事が待ち構えているのだが、なんとなく高丘親王になったような心持ちで、人と受け答えしたくなるのである。

 例えば下図を見てほしい。

 どうということのないコマだと思うかもしれないが、落ち着き払った親王の風貌と、ゆっくりと冷静に事を分けて話すその様が活写されている。

近藤ようこ前掲、2巻、KADOKAWA、p.176

 このような人になりたい。特に今…。などと心の底から願うのである。

 

 怪異と幻想を描くこの作品に、近藤の作風はまことにふさわしい。

 その当否を巖谷國士は解説で次のように述べている。

描き方も組みたて方も、強調や誇張が少なく、淡々としている。よくある細密な描きこみや過剰な装飾や、飛び散る汗や、感情のどぎつい表現もない。花や星につつまれもしない。人物の表情や仕草はさりげなく、内面をしつこく説明したりしない。それでいてくっきりと読者の心にのこる。/そういう漫画のスタイルこそが、じつは『高丘親王航海記』にふさわしいはずである。(近藤前掲、1巻、p.189)

 蜜人を採集しようとして、砂漠で美女の幻想を見て、無限に射精させられる男を描いたコマの「ピッ」「ピッ」「ピッ」という射精の擬音の、手書きによる簡潔な書き込みなどは読んでいて可笑しいし、また、実に「心にのこる」。確か筒井康隆ではなかったかと思うけど、「射精中枢」を物理的に刺激させられてそれを繰り返させられる、おぞましさと快楽のようなものを思い出す。

 あるいは杉浦日向子

 

 

 あるいは様々な縁起絵巻。

 古の奇譚を思い起こさせるのにこういう絵柄がふさわしいのであろう。

 

 直接は関係ないのだが、その解説を聞きながら、次の話題についても、すなわち「好みのイラスト」を描く人の「マンガ」が面白くない件について、ふと関連して思いが至った。

togetter.com

 

 

 

 親王南詔雲南)の朽ち果てた石窟で、ミイラとなった僧に出会い、かつて使えた空海に出会えたと感じるシーンは、『ナウシカ』を思い出す。あるいは、『暗黒神話』を思い出す。『暗黒神話』を呼んだのが小学生の頃だったので、ぼく自身がなぜか親王のように懐かしい気持ちにさせられるのである。

 

 

 ぼくに会って、なんかふだんと喋り方が違うなこいつ、と違和感を覚えたら、それは間違いなく「高丘親王」の真似をしているので「みこは…」と呼びかけてあげてください。