『ブルーピリオド』に影響されて個展を観にいって「すずめの戸締まり」も観る

 知り合いに、絵の個展に誘われた。

 本当にその日は用事があったので行けなかったが、後日一人で見にいった。

 個展なぞというものに行ったことはない。だから通常では「行きません」と言うか、いろいろ口実をつけて行かないはずのものである。

 なぜ行ったのかといえば、『ブルーピリオド』の影響である。

 芸大生である主人公・矢口八虎もやはり個展というものには行ったことがない。

 矢口は

雑居ビルの1室って入りづら…!

大丈夫か? なんか買わされたりしないよな?

なんかみんな知り合い同士っぽいし…

と躊躇する。それはそのまんまぼくの躊躇なのである。実際、つれあいを誘ったが、「買わされたりしない?」と言っていたし、「話しかけられたらどう答えていいかわかんない」と言っていて結局行かなかった。

 だが、矢口は、最近出入りしている芸術集団のリーダーに気に入られたくて(話題を作りたくて)、その気持ちが優って、出かけるのである。

 これが矢口の観に行った絵であるが、ぼくには率直に行ってよくわからない。

山口つばさ『ブルーピリオド』12、小学館、Kindle171/196

 だけど、矢口は次のように感じる。

かっこい…

線とか力強いのに

細部が繊細で

めちゃくちゃ

素材感感じるのに

奥行きがあって…

 実物を見ていないから尚更感じにくいのかもしれないが、そう感じる矢口がかっこいいなとさえ思う。

 ぼくが誘われたのも抽象画だった。

現代アートには、決して一つの正解があるわけではない。いろんな見方があっていい」ということに気づけば、もはやあなたは、どんなボールが飛んできても受け取ることができるようになっているでしょう。それを繰り返せば、多様なものの見方ができるようになるはずです。(秋元雄史『武器になる知的教養 西洋美術鑑賞』大和書房p.227)

を頼りに、作品は作者からすでに手を離れているんだから、別にどう見ても構うものか。わからなければそれまでだ、と思い定めて出かけてみる。

 そして、実際によくわからなかった。

*1 

 『ブルーピリオド』みたいに「その手法、その素材でいいんですか?」などと内語してみても、やっぱりキャンバスに描いたものと、和紙に描いたものの違いはわからないのであった。

 だけど、その個展では、あわせて作者が撮影したアウシュビッツのカラー写真などが展示されていることからも分かる通り、現代に対する批判的な意識がある。そういう雰囲気の中で一つだけ目にとまった作品は、同心円を描いたと思しきものだった。

 格別その絵が心を打つというものではなかったけども、同心円っていうモチーフは、まず「原爆=爆心地」を思い出させた。他にも原発事故の際に影響が同心円でモデル化されたりする。

 さらに、911のテロの跡地も「グラウンド・ゼロ」でイメージされている。原爆のような影響が広がるわけでもないのに「爆心」というとらえられかたをしていることに改めて思いが至った。

 それから、地震である。

 地震は現代では「震源地」というものが概念化され、そこからの同心円的な影響(必ずしもそれほど一様に広がるわけではないらしいが)が視覚化される。

 そして、パンデミック。どこが感染の起点になるか、それは必ずしも同心円ではないにも関わらず、ぼくの心の中で同心円としてイメージされた。中国のある場所を起点にする/しないという話題が出ているように、少なからぬ人にとって、やはり感染症の爆発は「同心円」としてイメージされるのではないか。

 そういう意味で「同心円」というモチーフは現代的な厄災、禍々しさの一つのイメージの核にある。特にその中でもぼくは原発事故にはそのイメージが強い。「平和利用」しているはずのものが、人間の意志とあたかも無関係に同心円で被害を広げるその有様は、生き物のようでもあるが、無機質極まる機械のような気もしてくる。実際には人間が作り出した事故であり、「同心円」という形は近代以前にはあまりない災厄の姿ではないかと想像する。

 その個展を後にして、一人で映画「すずめの戸締まり」を観に行ったわけだが、期せずして、そこでの災害の姿はある起点から広がるというイメージだった(下記のPVの48秒あたり)。

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 「いやいや同心円じゃないやろ」というツッコミはあるかもしれない。

 災いが封印されているというのは昔からあるわけだけども、そこからエリア全体に広がって、きれいな同心円ではないが、地域全体が面として影響を受けるというその姿はある意味で現代的ではないのかと思う。昔の地震というのはもっと遍在感があるように思うのだが、ここでのイメージは一つの中心から這い出して、周辺に広がっていくというものだから。

 そんなわけで、観終わった後に、その個展の同心円の絵を思い出し、しかも絵の同心円には小さな矢印が糸のように同心円の中心に引かれていたから、「絵の作者は『すずめの戸締まり』を観たに違いない」などと妄想した。もちろん、絵の方が先に描かれたのであるから、そのようなことがあるはずはないのだ。

 

 「個展に行く」という行動は、ヤングケアラーの再生を描いた水谷緑『私だけ年を取っているみたいだ』にも影響された。

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 年を取ってくると行動が保守的になってくるから、これまでの生活や思考の様式を変えようとしなくなる。

 しかしあえてそこを逆らって、何かをやってみる。新しく面倒なことに飛び込んでみる(飛び込むべき新しいものは、自分でコントロールできるものに限るのだが)。

 そうすると確かに「新しい自分が出てくる」のだ。もしその面倒さを避けていたら、どれほど古ぼけた自分のままであったのかと思うとゾッとしさえする。

 

*1:ちなみにこの人の個展です。 http://igallery.sakura.ne.jp/aiga31.html

『現代思想』2022年12月号に寄稿しました

 『現代思想』2022年12月号の「特集=就職氷河期世代/ロスジェネの現在」で「変容期の新たな生き方を模索しようとした実験性――『ロスジェネ』マンガのスケッチ」を寄稿しました。

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 「『ロスジェネ』マンガ」という切り口、定義をなかなか苦労しました。

 北村隆志『ロスジェネ文学論』(学習の友社)の定義づけを参考にさせてもらいました。

 「ロスジェネ」世代というのは、新自由主義的なサバイバルの中で、とにかく生き抜くための生活を必死で構築してきた感があって、それゆえに、旧来的な家族像・職業観・ジェンダーを期せずして壊してきた実験性=革新性があります。(同時にこれが「ロスジェネ」が突きつけられた「自己責任」論の登場と克服とは近代の課題であり、「ロスジェネ」世代においてそれが先鋭化したという点にも触れています。)

 取り上げたマンガは以下の通りです。

 他方で、社会運動においても実験的な試みがあったのですが、マンガにはうまく反映していません。『セッちゃん』にわずかに触れました。そこがこの世代の課題であり、同時にぼくらの社会全体の課題でもあります。

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 というふうに「ロスジェネ」世代の社会運動を問題意識に感じていたところに、同特集の富永京子「運動としての『ロスジェネ』とマスメディア 『若者』が自ら語ることの社会運動論における意義」を読んでいたら、出し抜けにぼくの名前が出てきてびっくりしました。

『ロスジェネ』の編集委員浅尾大輔氏や大澤信亮氏、紙屋高雪氏はその後も執筆・評論活動、社会運動を続けており、増山麗奈氏がアクティビストとして二〇一六年に社民党公認で立候補したことは記憶に新しい。(p.206)

 その上で、次のように評してくれていることは、率直に言って嬉しかったです。

論壇がSNSの速さの中で顧みられていないかもしれず、論壇/運動インフルエンサー供給装置になってしまっているかもしれない今だからこそ、『ロスジェネ』や『フリーターズフリー』を自らの手で刊行し、無名の人々の言葉を集めようとした若者たちのすがたは印象に残る。(p.211)

 

山口つばさ『ブルーピリオド』13

 いやあ、どうなっちゃうんだろうねと思いながら読み始めた13巻だった。

 そんでフジキリオにアジられて、まんまと買っちゃっただろ、『美術の物語』…。9350円もしたわ。

 『ブルーピリオド』は現在美大生の生活を描いているが、藝大の生活やシステムに馴染めないでいた主人公・矢口八虎は知り合いに誘われて、反権威主義的な芸術運動団体・ノーマークスに出入りするようになる。そのリーダーであるフジにすっかり魅入られて1か月も大学生活をほっぽり出してノーマークスのスペースに入り浸ってしまうのである。

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 この「たまり場の魅力」は左翼運動でぼくがあこがれて、しかも体験し、今もその魅力に取り憑かれているプロセスそのものじゃん、と思いながら、前のエントリを書いた。

 「宗教*1だ」「カルトだ」「マルチでは?」と外からボロクソに言われるのも、左翼組織とよく似ている。

権威以前に

家族の悪いところを煮詰めたような集団ですよ

あそこはマジで

やめとけマジで!

 矢口は自分が操作されたり、強く影響されたりすることも感じる。しかし、こうも感じる。

でもノーマークスが“正しくない場所”なんだとしたら

そこで得たことって全部“正しくないもの”なのか?

そんなわけねーよな

だってノーマークスに行ってなかったら

俺 多分今も美術に向き合う気になれてない

 矢口はノーマークスを評価するのではなく、ノーマークスを通じて自分という主体が感覚したこと・認識したこと・判断したことに向き合い、それを信じることにしたのである。それは全肯定されるものでもなかろうが、かといって他人から全否定されるものでもない。

 ノーマークスがどんな場であろうとも、それを通じて自分が「これだ!」ってつかんだものは間違いないと、少なくとも自分は信じていい。

 なるほどこういうふうにオチをつけるのか、と思った。

 これは本来自分に影響を及ぼすものと自分との「正しい」結論だ。もっと言えば「自分に影響を及ぼすもの」っていうのものの中の一つが、「組織」であることは疑いない。ノーマークスも「組織」ではある。

 本作の場合、その組織は自分の方から解体して遠ざかっていってしまった。矢口は魅入られ続けずに済んだのである。

 しかし世の中の多くはそうはいかない。「自分に影響を及ぼすもの」、とりわけ組織や団体との距離をはかりかね、その関係に苦しむのが普通なのだけど。

共棲的結合の受動的な形は、服従の関係である。臨床用語を使えばマゾヒズムである。マゾヒスティックな人は、耐えがたい孤立感・孤独感から逃れるために、自分に指図し、命令し、保護してくれる人物の一部になりきろうとする。その人物はいわば自分の命であり、酸素である。自分の服従する者が人間であれ神であれ、その者の力はふくれあがる──その支配者はすべてであり、いっぽう自分は、支配者の一部だという点を除けば、無である。ただ、私は支配者の一部であるから、偉大さ、力、確実性の一部でもある。マゾヒスティックな人は、自分で決定をくだす必要がないし、危険をおかす必要もない。けっして一人ぼっちにはならない。ただし、自立しているわけでもない。

…その反対、つまり共棲的融合の能動的な形は支配である。マゾヒズムに対応する心理学用語を使えば、サディズムである。

…共棲的結合とはおよそ対照的に、成熟した愛は、自分の全体性と個性を保ったままでの結合である。愛は、人間のなかにある能動的な力である。(エーリッヒ・フロム『愛するということ』紀伊国屋書店、KindleNo.336-350、強調は引用者)

 だけどまあ服従や支配、自立の難しさに本作がフォーカスしてるわけではないので、そういう現実の夾雑物を描かないことにぼくが不満を持っているわけではない。物語としてはこれしかあるまいという着地の仕方をしていて、ぼくは大いに納得がいった。だから何度も読み返している。

 

 上記のようなことが、本作では単に理屈として述べられているだけではない。

 矢口の中に、ノーマークスで学んだことがどのように織り込まれて課題に反映され、課題をどう自分のものにしたかを、本作では展開として具体的に形にしている。それがすごいと思った。

 「罪悪感」ということで出された課題。

 評価が厳しいことで知られる教授の犬飼が、次々と学生たちの課題を、丁寧かつ的確に、しかし容赦ない言葉で講評していく。

 最初は「罪悪感」から「賽の河原」をテーマにした学生(藍沢彩乃)のところ。「覚えのない罪と何度も他人に壊される無駄な努力が繰り返される三途の河原です」と説明がされる。「この学年で一番展示がうまい」「こなれている」「テーマの選び方もいいな」など他の教員からの高い評価の言葉が並べられる中で、犬飼の酷評。

 画面から凍りついた瞬間が伝わる。

山口つばさ『ブルーピリオド』13、小学館、KindleNo.67/204

 こんなこと言われたら、トラウマだわ。

 他の学生に対する辛辣な評価も並ぶが、作品そのものはあまり示されない。

 大きく作品が描かれるのは、村井八雲である。村井は自分の作品を解説する。

事件でも受験でも生き残ったり続けられたり…残された側が感じる罪悪感

ただそれを感じること自体が贅沢でつまり「罪悪感」って贅沢品だなって思ったんすよ

山口前掲Kindle71/204

 他の教員からは「相変わらず村井くん うめーなあ絵が」などの高い評価が並びそうな中で、またしても犬飼が切り込む。

そのテーマを扱うのが本当にその絵でいいんでしょうか?

 この2つを見てぼくが思ったのは、確かに犬飼の評の通りなのである。

 藍沢の「賽の河原」というテーマは、少し考えて、ちょっと意表に出て…という印象が強い。要するに掘り下げが十分ではなく、通俗感(わかりやすさ・面白み)がすごいのである。

 村井の方は、はじめに「自分の展示したい大きな絵ありき」なのではないか。つまり、自分の描きたいものが先にあって、課題・テーマを強引にそこへ寄せていったのではないかということである。だから犬飼が「本当にその絵でいいんでしょうか?」と問うのだ。

 犬飼は他の学生にも「テーマを深掘りするのが苦手なくせに頑固ですね 相変わらず」という言葉を投げているように、現代アートにとってテーマを「深掘り」するっていうことがとても大事なんだろうね。

 普通はこんくらいで許してもらえるもんだと思うけど…。

たらちねジョン『海が走るエンドロール』3、秋田書店、Kindle49/167

 いや、ぼく自身も全然詳しくないので、それはよくわかんない。だけど、前にあいちトリエンナーレに行って初めて現代アートを自覚的に鑑賞した際に、秋元雄史の本を読んで、現代アートって「深掘り」する知的ゲームなんだなというざっくりした感触を得た。

kamiyakenkyujo.hatenablog.com

 

見慣れていない人にとって、もっと手強いのが現代アートかもしれません。子どもの落書きのようなグルグルした線が描かれているだけだったり、コンクリートの柱がただ立っているだけだったり、路上で拾い集めてきたゴミのような物体が置かれているだけだったり……。……現代アートはかつてのように一括りの様式で括れるものではな複雑なまでに多様化しています。これまでにあった絵画や彫刻だけでなく、素材や空間まで含むものが現れているので、どこから手をつけてよいのか、わからない人もいるでしょう。/また、政治や経済、人種といった現代社会の問題を問い掛けたり、アート自体の問題や美術史、美術批評について問い掛けたりする表現が主流ですから、そういった現代社会の問題や、美術史における文脈を全く知らなければ、わからなくて当然です。(秋元『武器になる知的教養 西洋美術鑑賞』大和書房p.224〜225)

 秋元は作家からどのようなボールが投げられているのかをまず感じることだと言う。

ボールを受け止めることができたら、今度はそれを言葉にしてみましょう。まずは「グルグルした線が描かれているな」と見たままで構いません。それから「なぜ作家は、こんな線を描いたのか」を考えてみてください。……/その後で解説を見て、作者の意図を確認してみましょう。作家の狙いとあなたの解釈が異なっていたとしても気にすることはありません。「そういう意図なのか。でも自分にはこう見える」と考えていいのです。(秋元前掲p.226

現代アートには、決して一つの正解があるわけではない。いろんな見方があっていい」ということに気づけば、もはやあなたは、どんなボールが飛んできても受け取ることができるようになっているでしょう。それを繰り返せば、多様なものの見方ができるようになるはずです。(秋元前掲p.227)

あなたは今はまだ、これまでに見たこともない現代アートに遭遇したら、違和感を覚えるかもしれません。/しかし、その違和感こそが新たな目が開かれるチャンスでもあるのです。美術鑑賞は、自分がそれまでに知らなかった価値観があることに気づいたり、「むむっ、私はこういうものに対して、こんなふうに考えていたのか」といったことに気づいたりできる絶好の機会なのです。/現代アートを楽しむことは、知的なゲームのようなもの。あふれかえる情報で凝り固まった頭のストレッチにもなります。(秋元前掲p.227〜228)

 『不快な表現をやめさせたい!?』でも書いたが、深掘りしすぎて、あるいは深掘りしているつもりが明後日の方角にいってしまったものは、「それがアート?」「ただのこじつけでは?」ということになってしまうのも現代アートなのである。

 しかし、テーマの「深掘り」「掘り下げ」ということが現代アートにとってはまず入り口として重要なことはその時なんとなくつかんだ。

 そうやって村井や藍沢の作品を見たとき、「深掘り」「掘り下げ」に失敗していることを感じるのである。

 この現代アート観は、ノーマークスで矢口にフジが語った、概説的なアートの歴史の中に埋め込まれている。

 フジは、布教アイテムとしての宗教画、王侯貴族の自己顕示として肖像画、記念撮影としての風景画などの絵画の歴史的役割を説きながら、しかしカメラの登場で絵画の役割が変わり、見えたものをそのまま描くことではなく表現者の中での改造を被ってアウトプットされる印象派キュビズムなどを経て、コンセプトを深掘りしていく現代アートへとつながっていく流れを「ざっくり」しめす。

そこで現代には現代にしかできないメディアや表現が登場するわけです

とのフジの説明に今さらながら感心する矢口。

 ノーマークスにいたときに、みんなでテレビを見ていると、1万2000本のマッチで作られた「本物そっくりの猫」と言う「アート」を、ノーマークスのメンバーの一人(鷹田)がくさす。

も〜〜!

なんで日本のテレビって

・身近な素材

・風景とか生き物

・リアルに作ったもの

だけをアートとして紹介すんだよ!

 リアルで身近なものはカメラで撮ればいいじゃん? という身も蓋もない意見を超えて、現代にしかできないアートというものが登場する、ということが一連の流れの中で強く刻み込まられる。

 だからこそ、「深掘り」「掘り下げ」が必要になる。

 そう考えると、「違和感」を覚えることが現代アートの入り口なら、シンプルでコンセプチュアルに、しかし「どういうことだよ?」と思わせるように出来上がった矢口の作品は一見してそれが現代アートとしての掘り下げに成功していることがわかる。

 だからこそ矢口の作品を見た教員(助手・櫻井)は、

矢口さんの「罪悪感」の作品

今までとは段違いによくなってますね…

誰か良き師に教わったような…

と心の中でつぶやくのだった。

 そして犬飼の評価。

 櫻井のつぶやきや犬飼の評価を聞いて、なんだかぼくは我が事のように嬉しかったぞ。そして「良き師」としていることもなんとなく心が弾んでしまうのはなぜだろうか。

 それはぼくが、ノーマークスを左翼組織的なものに心の中に置き換えて、外からさんざん悪口を言われたって、それを受け止める個人の中できちんと昇華されるんだったらそれは素晴らしいことじゃないのか? と言われているような気がしたからだ。いや、言われているような気がするんじゃなくて、山口はそう書いて本作を編んでいるわけなんだけどさ。

 フジの去り際もなんとも爽快で明るい。

 組織なり影響を与えるものに対して、個人が自立しているのであれば、何も問題はないのだ。もちろん昨今の統一協会問題のように、社会の現実はそうは単純にいかないからこそ、それでは割り切れないのだが、少なくとも自覚というレベルにおいては、主体の視線こそがまず重要になる。

 あー…でももう、フジって出てこないの…? さびしくて死ぬる。

*1:この場合の「宗教」とは「洗脳され理性を失って教祖に従う集団」という意味。

クリハラタカシ『名前のチカラ』

 月刊「たくさんのふしぎ」2022年12月号は、クリハラタカシ『名前のチカラ』である。

 「たくさんのふしぎ」は子ども向けに定期刊行されている月刊絵本だ。とはいえ、「たくさんのふしぎ」シリーズはかなり「読み応え」があって、大人でも十分面白い。いや、というより大人こそ面白いのではないか。「読み応え」というか「歯ごたえ」があって、大人であるぼくでも「難解」さを感じることもしばしばだ。

 今回は「名前をつける」という行為を

  • 概念化
  • 概念の段階
  • 立場による呼称の差
  • 民族による注目する概念の豊富・貧弱の差
  • 発見・発明による実体化

などにさまざまな角度から考えていく(もちろんこんな硬い言葉は使っていない)。

 途中に「街角名前採集家」の三土たつおが登場する。

 「何もない空き地」を写真にとって登場人物に見せるのだが、実は「何もない」のではなくこれほど多様なものがあるのだということを示す。名前を媒介にすることで、それらの実在性が急に我々の目の前に出現するのである。命名されるということは、概念として区分されるということであり、また、人工物(道具)の場合は何かの役に立つために世界に登場したことを突きつけてくる。

月刊たくさんのふしぎ2022年12月号、福音館書店、p.22-23

 まあ、特に工業製品だよね。「えっ、あの棒って、『一般構造用炭素鋼鋼管』っていうんだ」「あの塀にも『万年塀』っていう名前があるんだ…」と感心してしまう。

 「一般構造用炭素鋼鋼管」で調べると種類がいろいろあって、当然用途が様々なようである。上記の写真よりも太くて強そうな「一般構造用炭素鋼鋼管」は次のように使われている。

鋼管杭とは
建物の地盤が軟弱な場合に地中に打ち込む鋼製の杭のこと。
深度30メートルほどまで施工可能。

一般住宅では、外径Φ114.3ミリor139.8ミリ、肉厚4.2ミリの、
耐腐食性に優れた一般構造用炭素鋼鋼管STK-400を用いるのが最も一般的です。

 別のサイトでも「建築物には、主にSTK400を使います」とあるから、それが一般的なんだろうなとぼんやり思う。ではここで使われている「一般構造用炭素鋼鋼管」は何のために使うのか…?など様々な疑問が湧いてくる。

www.youtube.com

 命名することで概念化され、区別が生まれ、その用途による違いが意識に上ってくる。

 

 上西充子も語っていることだが、「ご飯論法」という命名があってその論法は可視化され、人口に膾炙するようになる。

 名前をつけること、名前を知ること、つまり概念を理解し、世界を区別するようになることで世界の解像度が上がる…ということを、子どもに向けて啓発する本であるが、ぼくも先ほどの図(写真)を見ることで何だか世界が豊かになったような気がした。

アキヤマヒデキ『ボクらはみんな生きてゆく!』4。

 川でウナギをとる話が興味深かった。

 ウナギは絶滅危惧種ではないのか、という問題があるが、その問題はちょっとおいておく。ぼくが興味を持ったのは、筆者(アキヤマヒデキ)の知識と実践力についてなのだ。

 『ボクらはみんな生きてゆく!』は都会から田舎に戻ってきた主人公(秋山)がまず狩猟をはじめ自然を相手にする様々な「ビジネス」で生活を立てていこうとする実話である。まさに無数の生業からなる「百姓」の思想である。

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 4巻前半は川で天然ウナギをとる話。

 まず、この冒頭にあるエピソード。小さい頃、川でウナギを見つけ、友達といっしょにあと一歩で捕獲するところまで追い詰めたのに、その騒ぎを横で聞きつけた大人(どっかのおっさん)が「ウナギか!」といって、あっという間に獲っていってしまった。アキヤマは呆然とし、そのことが悔しくて忘れられないのだという。

 わかる。

 なんだろう。ぼく自身もそんな体験をしたような気がする。よく思い出せないのだが。

 思い出す限りで思い出してみると「餅投げ」かもしれない。ぼくの実家の集落の秋祭りで、神社が餅投げをやっていた。餅には景品の札も入った「当たり」もある。しかし小さな子ども(小学生低学年)はなかなか取れない。100個くらい投げられて、1個拾えば御の字だっただろう。その1個を拾いに行って、取れそうだ! と思った瞬間に、大人に突き飛ばされて横取りされたことがある。

 その感覚に似ている。

 いいオトナが、子どもを押しのけて強奪していくなどみっともないではないか。まさに大人気ない振る舞いだ。それが子供心にもわかった。「目の前の欲」という利害のために、子どもなどかえりみることなく、平気で踏みつけられるのだ、という現実を押し付けられたような気がする。嫌なリアル。そして、子どもはそれに一切抗えないという、なんとも言えない無力感に苛まれる。

 たぶん、アキヤマが味わった嫌な感覚はそれに似ているのだろうと勝手に想像した。この、タオルを持ってくる、不快な周到さ、本人の無自覚さが絵柄にすごくよく表れている。

アキヤマヒデキ『ボクらはみんな生きてゆく!』4、p.25、小学館

 まあ、それは本筋のことではない。

 ぼくが感心したのは、アキヤマが天然ウナギを獲ろうと衛星写真ストリートビューでその場所の品定めをしていくことだ。

穴釣りに行くにあたり

まずは川のどんな所にウナギがいるのか?

それが問題だった。

ネットの衛星写真マップや

グーグルのストリートビューの画像を見てみた。

 

さて…ウナギはそのどの辺りにいるのか?

このテトラあやしいかも…

ここならあるんじゃ…

地図に目星つけて

行ってみるか!

 

 そこにネットで何か情報を仕入れるとかいうようなプロセスを経ていないように見えるのだ。単に省略されているだけなのかもしれないが…。

 そしてアキヤマは実際にウナギをたくさん釣ってしまうのである。

 いや、すごくない? 

 確かにネットを検索すると、ウナギの穴釣りについてはいろいろ動画や解説サイトがある。だけど、どの場所にいるかという情報は一般論以外にはほとんどない。

 例えば、ウナギをどこで釣ろうかという時に、一般情報を探してみる。 

funemaga.com

 

ウナギは街中の河川に広く分布していますが、特に海に近い汽水域(=淡水と海水が混ざった水域)に多く生息しています。

物陰に隠れる習性があることから、テトラポットや捨て石、水草の周辺など障害物が多い場所は特に釣れやすいポイントです。

また、川の流れが速い場所では大型のウナギを狙えるのに対し、流れが緩やかな場所では数釣りを楽しめます。

 一般的なことはわかる。だけど、ぼくであれば、これだけでは、どの川に行ったらいいのか、を選定はできない。「街中の河川に広く分布しています」とあるので、じゃあ、ぼくの住んでいるのは「街中」だから、近くの川の「汽水域」に行ってみるか…と思うのですが、近くの川の汽水域は相当川幅が広く、深くなっている。もう行く気力が失せてしまう。

 それでも勇気を持って汽水域の川に入ったとしよう。

 「テトラポットや捨て石、水草の周辺など障害物が多い場所」…近くの川の汽水域にはそういうものが見当たらない。ぼくならもうここで頓挫だ。

 しかしアキヤマはマンガでみる限りでは、ストリートビュー衛星写真で「目星」をつけてしまうのだ。

 そんなことができるのだろうか?

 確かに一般的な「ウナギはこういう箇所で穴釣りできる」という情報は使える。だけど、そうした一般論から実際に釣ることができるようになる現実まではかなりの距離がある。その距離を埋めてしまえるというのは、アキヤマに自然を対象化し、身体の感覚に落とし込んでいるという実践的蓄積があったに違いないと思うのである。

 『山賊ダイアリー』の岡本健太郎では、祖父を指南役として幼少期にかなりの実践的な蓄積があったように読める。ここでもアキヤマは幼少期に同様の蓄積をしていたことが、大きな影響を果たしているに違いない。

 ぼくも田舎育ちだから確かに川や田んぼでよく遊んだ。釣りもかなりやった。生き物もとった。

 だけど、遊びの中に目的意識性を持ち込むことは薄かったように思う。つまり何かの目的を達するために様々な工夫をして、その目的を遂げてしまおうとする努力である。釣りにしたって、釣り竿に糸と仕掛けと餌をつけて垂らして終わりである。どうしたらフナが釣れるのかとか、雷魚だけを狙うにはどうしたらいいかなどという思案は皆無だった。

 ぼくの父親はそういう目的を達するための実践的工夫という点で相当な力量がある。「地頭がいい」とはああいう人のことを言うのだろうと感心する。

 アキヤマが、ウナギの釣りでも、そしてイノシシやシカの罠量でも、工夫に工夫、思案に思案を重ねて他の猟師が羨望のあまり邪魔をしたりするほどに豊猟の成果を得られるのは、同じことなのであろう。

 アキヤマの姿をみていると、自分は自然という豊富・多様・複雑さの中で本当に実践的な工夫ができない人間だとつくづく思わされる。貧しい「理論」で現実を裁断しようとする、悪い意味での「頭でっかち」なのであろう。

 

 

「日本とコリア」に福岡市長選について書きました

 日本コリア協会・福岡の機関紙「日本とコリア」第265号(2022年11月1日号)に「ここがロドスだ! ここで跳べ!」という一文を寄稿しました。福岡市長選挙でどのような「合成力」によって市民と野党の共闘が実現したのかを間近で「観察」していた者として書きました。

 

 福岡において政治を観察・研究している人の中で、「市民と野党の共闘」について、沖縄とか東京とか、福岡から遠く離れたところのことばかりをマスコミ情報を通じて論じていて、「生々しい政治」を避けようとするあまり、肝心の福岡で起きている事象を一次情報で観察さえしない・できなくなってしまっているむきがありまして、それはちょっとばかりさみしいんじゃないかな…と思い、こんなタイトル(「ここがロドスだ! ここで跳べ!」)をつけちゃいました。

福岡市内で見かけたコスモス畑

 福岡市においてどうしてこういう共闘が成立したのか? は実はあまり解明されていません。興味深い知的現象のはずです。ぼくのこの一文もそうですが、議員や政治団体周辺の人間が雑駁に語ったものはありますが、学問的にはまだ手がついていない、ホヤホヤのホットな現象なのです。関係者の話を丁寧に聞いていけば、別に「政治」に生々しくコミットしなかったとしても、その知的好奇心を満たす形で解明できるだろうと思うんですよね。でも、それはやろうとされていない。

 ああ、もったいない。

 

 ただね。もちろん、市長選挙の運動に、誰がどういう判断で参加するかはその人の自由ですし、ご家庭やお仕事の事情もあるでしょうから、一概に言えることはないでしょう。だから大きなお世話、余計なやきもきなのかもしれません。

 

 

水谷緑『私だけ年を取っているみたいだ。』

 サブタイトルにあるように「ヤングケアラーの再生日記」である。

 

 ヤングケアラーをご存じない人はもう少ないとは思うが一応定義しておけば、

介護や病気、障がいや依存症など、ケアを必要とする家族がいる場合に大人が担うような責任を引き受け、家事や看病、感情面でのサポートなどを行なっている18歳未満の子ども

である(本書p.52)。

 ケアの対象が親である場合は、精神疾患や依存症の親を介護している子どもが多いことが、2021年の調査で分かっている(本書同前)。

 本作でも統合失調症の母親の感情面でのサポートや家事などを担うことになった小学生(そして大人に成長していく)の話が描かれている。

 そうしたヤングケアラーの実態だけではなく、「再生日記」とあるように、ヤングケアラーとなることで押し殺してきた自分が、やがて再生されていくプロセスを描いている。

 ぼく自身、ヤングケアラーはまず「家族の介護や病気の…」という定義が聞こえてきたために、「お手伝いの延長」のようなイメージができてしまい、それほど過酷なことなのかな…? と思ってしまった。

 しかし、本書にあるように、親が精神疾患や依存症にある場合こそが一つの典型で、それが子どもにとってはいかに過酷なことかが本書を読むとわかる。これは物語にならないと、しかもコミックのような体裁がなければ、なかなか伝わらないことなのかもしれない。そういう意味で本書を読むことは、ヤングケアラーという社会問題に気づく上で重要な啓発的役割を果たすであろう。

 

 ただ、ぼくが本書を読んでさらに感じたことは、ぼく自身ヤングケアラーでもなんでもないのだが、ケアラーだった主人公が再生する過程で気づいていくことが、ケアラーではない一般人の自分にとっても「刺さる」ことが多く、しかも再生の明るさの中でそれを指摘されるために、本書を何度でも読み返したくなる動機の一つになっている。

 それはどんなシーンか。

 例えば大人になった主人公・ゆいは、看護師になり、会議でもつい「他人が望む答え」を探し、それを言おうとしてしまう。患者から「殺して」と言われたゆいがそのことについて師長から問われる。

「音田さん、『殺して』って言われてどう思った?」

 ゆいは「なんていえば正解? 師長は何を求めてる?」と必死で心の中で探そうとする。しかしゆいはヤングケアラーの自助会に出る中で、「正解」を探すのではなく、自分の感情を正直に出すことの大切さを学んでいく。だから、その時も「正解探し」をやめて、自分の心に聞いてみる。

「私は… 困りました…」

 言ってから直ちにゆいは後悔する。プロの看護師として失格だと思ったからだ。

 しかし、師長はそれを受け止める。

そうよね… 困るわよね 

正直に言ってくれてありがとう

自分の正直な感情は認めてあげてね

自分の感情を無視していると

自分を信じられなくなっていくから

 ゆいは、ほっとする。

感情を出しても受け止めてもらえる…

出していいんだ…

 そして少しずつ自信がついていくのである。

 なんか…自分がかかわる仕事の会議のことを思い出した。「正解探し」をして当たり障りのない感想を出し合ったりすることがあるのだ。それって、自分も殺して、組織体も殺すんじゃないかなと、このやり取りを読んで感じた。正直な感想を「受け止める」ということがどうしても必要なのだ。もちろん受け止めるにはそれを受け止めるだけの大きさがなければならない。受け止めるつもりで形だけ真似しても、二、三のアグレッシブな「正直」さが続いたら、キレてしまうのでは全然ダメなのだろう。

 自助会でゆいが変化していく上で、日記を書くことが推奨されている。

 感情を言葉にするのをいきなり公で行うのではなく、自助会・日記などの「ハードルの低いところ」から練習することがいいとされているのだ。

 飲み会のグチなどもそういう役割を果たすのだろうけど、書くこと・口にすることによる客観視・疎外化は本当に大切で、一般の人の中でも、例えば仕事について、これが全くないという人がたくさんいるんじゃないかなと想像する。本来労働組合っていうのはそういう役割を果たすべきだろうし、政党や市民団体の集まりなども同種の機能を果たすべきなのだろう。

 娘が小学生のときに、「こども劇場」という観劇文化運動の親の集まりに出ていたが、「3分間スピーチ」が1時間以上に及ぶことがあり、それはこの種の役割を果たしていた。もっと小さな・恒常的な集まりにすれば、さらにその機能は高まるのだろう。

聞いてくれた…

というただそれだけのことをゆいが安心するコマがある。聞く技術ということについて我々はもっと自覚的であるべきだ。

 

 他にもこんなところのシーンが好きだ。

 精神の再生が進むゆいは、秋晴れや猫、花壇の花に目をとめるようになる。「周りのものが鮮やかによく見える」ようになり、「おもしろい」と感じるのだ。

 絵画教室を体験したり、一人でヨーロッパに出かけたりする。旅行先でドキドキしながら一人でご飯を食べる。

一人でドキドキしながら食べるごはんは味が濃い

新しいものに出会うと新しい自分が出てくる

 いやね、最近ホントにこれそう思う。

 年を取ってくると行動が保守的になってくるから、これまでの生活や思考の様式を変えようとしなくなる。

 しかしあえてそこを逆らって、何かをやってみる。新しく面倒なことに飛び込んでみる(飛び込むべき新しいものは、自分でコントロールできるものに限るのだが)。

 そうすると確かに「新しい自分が出てくる」のだ。もしその面倒さを避けていたら、どれほど古ぼけた自分のままであったのかと思うとゾッとしさえする。

 

 また、こういうシーンもある。

 ゆいの母親は、年を取り、町内会の夏祭りで氷の模擬店を頼まれる。

 張り切ってそれを引き受けるのだが、ときどき注文されたものを間違えて出してしまう。しかし、「ハハ おばーちゃん しっかりしてよー」「かわいー」と反応され、それを見たゆいは「おばあちゃんになったから多少変でも受け入れてもらえてる…!」と感動する。ケアされるだけで孤独だった母親は、社会の中で役割を得て、その仕事ぶりがやや緩くても受け入れられている。それは加齢の積極的な効果なのだ。

 ゆいは

年を取るのもいいもんだな

としみじみ思うのだった。先ほど退嬰に恐怖する自分について書いたが、仮に年を重ねていろんなパフォーマンスも落ち、「昔に比べて」ダメダメになったとしても、社会の側がそれを受け入れる力があれば、高齢者は幸せなのだろうとこの描写を見て感じる。

 

 本作の結末は、精神的な再生をゆっくりと果たしてきた主人公が、自分の家庭を持ち、子どもを持つようになってから、その髪を編むようになった時に、実は自分の母親が自分の髪を編んでくれていたことを思い出すのである。先ほど述べたように、精神の活力が再生される中で、昔の記憶の中で埋もれていたことが鮮やかに、そして再定義されてよみがえったのであろう。

 ヤングケアラーとして真っ黒に塗りつぶされていた子ども時代の記憶がそのように読み替えられて物語は閉じられる。まさに再生の瞬間である。

 

 「あとがき」にこうある。

ただ、取材して実感したのは、「子どもはプライドが高い」ということです。同情されたくないですし、誰が何に怒るのか、喜ぶのか、冷静に見極めて行動しています。子どものしたたかさを大前提にしながら描きたいと思いました。

 なんとなくわかるけど、この文章の意味する本当のところはよくわからない。ヤングケアラーを政治の課題として取り扱う機会は、ぼく自身にもあって、そのときにこの一文を感じながら取り組んでいる。

 

 例えば、「しんぶん赤旗」日曜版2022年10月30日号には、ヤングケアラーの当事者だった河西優が登場し、当事者団体(YCARP)を結成したという記事があり、その中で河西の次の言葉を伝えている。

 国はヤングケアラーをいち早く見つけ、支援につなげることや相談支援などを打ち出しています。河西さんは、支援の動きが加速するもとで「当事者の声が抜けていると感じる」といいます。

 「当事者の間では『ヘルパー派遣は家族が絶対に拒む』、相談窓口も『子どもの頃は絶対に行かないし、今でも抵抗がある』と話がでている」と明かします。

 ケースによっていろいろあるのだろうが、当事者の声としてこれは貴重なものだ。また、本作を読んでもこの2点は強く実感する。「相談窓口」については、本作で支援を求めようとして、大人の都合で幾度も手を振り払われた体験が書かれており、それをどうして克服できるかは当事者を含めたかなりの「技術」が必要になるのだろう。