「わが青春つきるとも」のトークイベントに出演しました

 映画「わが青春つきるとも 伊藤千代子の生涯」の神戸でのトークイベントに出演させていただきました。(伊藤千代子は戦前の共産党員で、天皇制権力の弾圧により若くして獄中で亡くなりました。その映画化です)

 

 声をかけてくださった民青同盟兵庫県委員会の皆さんに感謝します。なんかぼくが同人誌で書いた小説(ドリン・ドリン!)まで手に入れて読んで面白がっていただいて、感激しました。

 

 初対面であったワタナベ・コウさんと対談しました。

 会場からどう見えていたかわかりませんが、ぼくは「シロウト代表」として、この映画の感想・コメントとしてはけっこうチャレンジングなというか「異端」的な発言をして、制作にも深く関わってきたワタナベさんがそれを大きく包み込むように受けていただく感じで進行しました。だから、個人的には緊張感のあるトークになっていたと感じます。

 例えば、ぼくはこういうツイートをしていますが、これはそのまま話しました。

 「前半が粗いのでは」というのは挑発的な発言のようにも思えますし、後半についても、「伊藤千代子の不屈の意志こそが我々が受け継ぐべきものだし、そこに映画のポイントもある」というのがオーソドックスな解釈ではないかと思います。つまり前向きな光の部分です。

 しかし、ぼくはこの映画のポイントを暗黒の部分の方に力点を置いて感想として述べました。

 これに対するワタナベさんの返しはどうだったか——。

 

 また、会場で若い方4人と年配の方1人が感想を発言されましたが、若い人たちは総じて弾圧の激しさと、「自分はとても伊藤のようにできないのではないか」という「ためらい」を口にされていたように感じました。他方で年配の方は「不屈性」に着目しそこをまっすぐに称賛するコメントをされていました。

 聴きながら、やはり若い人と年配の方ではこの「不屈性」に対して受け止めが違うのではないかという一つの確信のようなもの得ました。

 確かに伊藤は不屈でした。

 しかし、伊藤があまり期間をおかずに獄死してしまった事情と、比較されているのはどうしても変節した夫の浅野晃ですが、そこだけで「不屈」さをはかっていいのか、はかれるのだろうか、という思いがぼくにはありました(例えば宮本顕治徳田球一のように長い間獄中非転向を貫いた人の場合には成り立つのではないかと思うのです)。そしてその「不屈」の強調が若い人たちには「とても私にはできない」という思いだけを与えないかという迷いもありました。

 そういうあたりを迷いも含めてコメントしました。

 それにワタナベさんはどういうコメントをされたでしょうか?

 

 ひるがえって、では伊藤千代子から何か学ぶべき点があるのか、ということについては、ぼくはすでにワタナベ・コウさんのマンガの感想のところで書いたように「全体性」について発言しました。

kamiyakenkyujo.hatenablog.com

 この点はむしろ映画ではなく、マンガや藤田廣登『時代の証言者 伊藤千代子 増補新版』(学習の友社)などから得た思いでした。(いや、映画にもその一端はもちろん出てくるわけですが…。)

 

 最近読んだ中北浩爾『日本共産党』(中公新書)の中に戦前の共産党が大きな知的影響力があったことの解説に次のくだりがあります。

マルクス主義が持つ最大の魅力は、政治・経済・社会はもちろん、歴史や軍事や科学に至る理論的な体系性であり、明快な現状認識と将来に向けての実践的な指針を与えることにある。(中北p.98)

 丸山真男も戦前のマルクス主義の魅力を次のように書いています。

マルクス主義が社会科学を一手に代表したという事は…第一に日本の知識世界はこれによって初めて社会的な現実を、政治とか法律とか哲学とか経済とか個別的にとらえるだけでなく、それを相互に関連づけて綜合的に考察する方法を学び、また歴史による個別的な事実の確定あるいは指導的な人物の栄枯盛衰をとらえるだけではなくて、多様な歴史的事象の背後にあってこれを動かしていく基本的導因を追求するという課題を学んだ。こういう綜合社会科学や構造的な歴史学の観点は、…知的世界からいつか失われてしまったのである。マルクス主義の一つの大きな学問的魅力はここにあった。(丸山『日本の思想』p.55-56)

 つまりマルクス主義は世界を一つの体系に落とし込み、生きる方向や実践の指針までをそこから導くというトータルな世界観として示され、また、新しく起きてくる事実や課題をその体系=世界の中に位置付けていく(当然その場合に世界像そのものも修正されていく)という、人の心を鷲掴みにする全体性を備えています。

 不破哲三は、ソ連が崩壊したころに「あなたにとって共産主義とは」とインタビューで聞かれ「世界観です」と答えていますが、それは言い得て妙だと思います。

 

 伊藤の中で理論を学ぶことと、実践の距離が極めて近く、おそらくトータルな世界観として鍛え上げられていくプロセス、面白さを伊藤は(そして戦前の共産党員の多くは)味わっていたのではないかと推察しました。

 いまぼくのなかでは、こういうものがともすればバラバラになってしまいがちです。その全体性を備えている、生きた理論として伊藤が学んでいたという姿勢を、ぼくらはもう少し学び取った方がいいなと思っていたのです。

 これについてワタナベさんはどう答えたでしょう?

 

 さらに、映画の筋に絡めて言えば、

(1)学費を山本懸蔵の選挙に使うシーンで伊藤は泣き通しだったのか、それとも意志的に自分で選択して選挙費用に当てたのか

(2)拘禁性精神病になってからの伊藤が回復し、意志的な姿を一瞬でも取り戻したかどうか

などを質問的にワタナベさんの意見を求めました。

 

 弾圧の暗さ、不屈性、伊藤から何を学ぶか、学費問題、伊藤の最期…これらのぼくの身勝手な問いに、ワタナベさんがどう答えたか

 以上のぼくの問いに対するワタナベさんの意見については、この対談が動画として公開されるので、それを見ての「お楽しみ」にしてください。 

 

 ワタナベさんと意見が一致したものもたくさんあります。

 戦前の天皇制の評価をセリフとして挿入することで、現在の天皇制への評価と誤解されてしまわないか、という点などはその一つです。

 

 あと、会場からの発言で2人の人が「ロシアの革命記念日に獄中で『赤旗の歌』を歌ったが…」とおっしゃられました。

 ぼくは5月中旬に見ていたので細部を覚えていなかったのですが、トークの時にワタナベさんに「え? あれってロシア革命の記念日でしたっけ?」と尋ねました。弾圧を受けた3月15日を記念しての獄中での反抗イベントだったのでは? と思いましたが、これはどうだったのでしょう。

 

 聞けなかったこととしては、伊藤千代子関連の史料には「伊藤千代」という表現がいろんな人から出てきます。文部省史料でもそういう表現になっています。これは単なる誤記なのでしょうか。ひょっとして戸籍名は「伊藤千代」だったりしないでしょうか、という疑問があったのですが、あまりにマニアックすぎるし、ワタナベさんは歴史考証家ではないので聞くのも変だなと思い、これは聞きませんでした。*1

 

 というようなぼくの無茶な議論にも、ワタナベさんは粘り強く付き合っていただきました。感謝しかありません。ありがとうございます。

 

 なお、ワタナベさんのパートナーのツルシカズヒコさんも来場されて楽屋でお話ししました。福岡市出身の伊藤野枝についてあれこれ聞くことができました。この点ももう少しお話ししたかったなと思いました。

 

 

*1:橋本淳治・井藤伸比古『「子」のつく名前の誕生』を読むと「子」を「女史」的な敬称としてつける場合があった。

「PTAはどう変わるべきか」:雑誌「教育」に書きました

 教育科学研究会編集の雑誌「教育」(旬報社)2022年6月号に「PTAはどう変わるべきか」というタイトルで執筆しました。

 この文章は「保護者の願い、学校の現在」という特集の中の一文です。

 編集後記に次のようにあります。

保護者が学校という場で他の保護者とつながったり、子どもと教育について教師と語り合ったりする機会がコロナ禍によって少なくなった。いやコロナ禍前からそんなつながりはなく、PTAは不要だという声もある。保護者にとって学校はどういう場になり得るのか、特集1で考えた。

 

 西郷南海子「わたしたちのPTAが生まれるまで」、今関明子「ようやく見えてきた保護者の役割」の二つの文章とともに、拙稿を含め、合計で体験的文章が3本載っています。これに一橋大学の教員である山田哲也の「『知識基盤社会』像をどう編み直すか」という巻頭論文が組み合わさっています(これ以外にもリレートークや論文がありますが)。

 前述の編集後記は続いています。3つの体験的文章をまとめつつ、そこに共通するテーマを次のように描き出しています。

西郷さんは、学校での不十分な性教育が学習指導要領の縛りによるのならPTAでやろうと保護者と子ども対象の2段階で学習会を行なった。今関さんはの共著者『PTAのトリセツ』には管理職と一緒に学校運営に参加するPTA改革が報告されている。木川南小学校の保護者たちは数字で成果を求める大阪の教育改革ではなく、一人ひとりの子どもに寄り添う久保校長の教育を支持している。紙屋さんは教育の共同の組織になっていないからPTAに加入していない。ここに共通している願いは、学校の下請けではなく、「知識基盤社会」像を揺さぶるような、教育のあり方を問いつつ学校を教師とともに創っていく親の学校参加である。

 

 PTAに加入していないことを知ってのぼくへの依頼でしたので、ぼくは最初、任意加入問題を中心に退会の経緯などを書いたほうがいいのかと思いながら第一稿を渡しました。

 しかし、編集の方からは意見があって、メールでのやり取りを読みながら、保護者と学校の共同のあり方を軸にしたものを求められているのだと思い直し、二度ほど書き直しました。

 したがって、今回の原稿は任意加入問題というより、教育要求に対応する組織としてぼくがPTAに感じている「失望」を書く形になりました。

 簡単に言えば、PTAで話されることは形式的な議論に流れてしまい、自分が本当に聞きたい、あるいは共同の中で検証され批判されたい教育上の悩みには応えてくれない、という不満です。

 例えば、受験に代表されるように「自分の子ども」という視点からだけ孤立して捉えられがちな親の教育要求があります。親が学校や教育に感じている不満や要求は大事だけど、それはそのままの形でいいのか、ということです。その要求は他の保護者との対話の中で批判されたり、検証されたりして、見つめ直されるべきだし、もっと言えば専門家である教師からの意見で批判されたいという気持ちがあるのです。

 そういう深い議論がなかなかできないという悩みです。

 巻頭の山田論文に次のようにあります。

不安をベースに「自分の子どもだけはサバイバルして欲しい」とよりよい子育て・教育を求めると、社会的な分断が生じ、「子育ての罠」*1に陥ってしまう。それを回避するためにも、利他主義をわが子だけに適用するのではないかたちで、知識の習得・産出の別ような道筋を模索しなければならない。

 

 そして、そういう議論は、保育園の時はあったなあと思ったし、それはそもそも戦後の教育改革がPTAに求めていたことではなかったかと思いました。

 他方で、そんなふうにPTAが変わるとは思えない(特に役員にならずに「いち会員」という立場のままでは)という不信も書きました。

 その迷いのまま、文章を閉じています。

 

 

 

 機会があればぜひお読みください。

*1:高等教育へのアクセスがより良い雇用条件になっていき保護者がそのための教育を求めると政策介入なしには格差が一層拡大するテコになってしまうこと。

民主青年新聞で「水木しげる生誕100周年」特集でコメントしました

 5月16日付の民主青年新聞で「水木しげる生誕100周年」特集があり水木しげるのマンガについてコメントしています。

 水木の3冊のマンガもお勧めしました。

 

 
 
 

リアルということについて

 当の水木自身は、「戦争コミック」と対比して「戦争想像コミック」というものしか日本にはない、と述べたうえで「真実の『戦争コミック』は描きづらい」と述べています。*1

そもそもコミックというのは、オモチロイ(面白い)ことが第一に要求されるから、そこであまり面白くもない戦争の真実なんてものを描くと第一、編集者に「コレハナンデスカ」と言って質問された上、編集会議で「これはちょっと止(や)めておこうじゃないの」ということになる。

と、くだんの人を食った調子で述べています。

 これは、貸本時代の水木の描いた戦記物は、史実に忠実なものではなく、娯楽性を高めるためにフィクションを意識的に相当加えたということです。したがって、この時期の水木の「戦争コミック」は「真実の戦争コミック」ではなく「戦争想像コミック」だったのです。

 しかし一般週刊誌で仕事をするようになってからは自身の体験に基づいた「真実の戦争コミック」を描くようになります。水木的リアリズムはここから発揮される、とぼくは規定します。

 

 

水木の何を勧めるべきか

 ぼくは取材に際して「『鬼太郎』や貸本時代のマンガは少ししか読んでいません。語れるものは限界があります」とエクスキューズを入れましたが、もし若い人が今水木の作品に触れるとすれば、圧倒的に「自伝系」「歴史もの」「戦争体験」という三つのジャンルから触れるべきです。

 コミックの『鬼太郎』を今の若い読者が読んでもおそらく面白くないと思うでしょう。そして「それが水木しげるなんだ」と思ってもらったら、もったいないと思います。

 それに対して、『水木しげる自伝』『劇画ヒットラー』などは今の若い人が読んでも断然面白いと思ってもらえます。今の巷に溢れる現代のコミックスとフラットに競争して十分勝機があります。

 

 取材をしてくれた太田良真記者がコラムを載せていますが、水木の『劇画ヒットラー』を読んだのが太田記者の「水木初体験」だったようです。

登場人物の一人ひとりの描写に、こんな人がまるで知り合いにいたんじゃないかと思わされるようなリアルさを感じたことを覚えています。

 というわけで、『水木しげる自伝』『白い旗』『劇画ヒットラー』の3作品をお勧めしました。

 

 

『白い旗』をなぜ勧めたか

 

 

 『白い旗』は硫黄島での玉砕を描いたマンガです。

 

 

 この作品は、水木的リアリズム…「フハッ」に象徴される水木自身の飄々とした生きる姿勢、ぼくがコメントで述べた「奇妙で野暮ったいリアリズム」という角度からではなく(それは「水木しげる自伝」などで味わってください)、今のような「自衛戦争」を考える上で読んでほしいと思ってお勧めしました。

 

 『白い旗』は組織的戦闘が終了してのちに戦闘を続けるのか、投降するのか、という選択を迫られる兵士たちの物語です。

 少し前まで「投降するのが当たり前」「命あっての物種」ということをおそらくほとんど大多数の人が考えていたと思います。

 しかし、いまロシアからの侵略を受けたウクライナ自衛戦争を目の前にみて、連日飛び込んでくるニュースに感情を揺さぶられています。

 「自衛戦争は正義の戦争である」という意見があります。ぼくもその意見のグループの一人なわけです。あるいはベトナム戦争のようにベトナム側から見れば民族解放戦争、あるいはアメリカの侵略に反対する戦争があります。

 いまウクライナ自衛戦争に対して「犠牲者が大きくなるばかりだから早く降伏したほうがいい」という意見があります。特に、マリウポリの製鉄所に包囲されて立てこもっている部隊(5月14日段階)などにそうした意見が向けられることがあります。これに対して「ロシアに支配された場合はとんでもない仕打ちをされる」という反論があるわけですが、これらを仮に認めるとしても、組織的戦闘を終えて兵士がどういう態度を取るべきなのかというのは極限状態として問われる問題となります。

 

 日本の場合は侵略戦争の結末として硫黄島では悲惨な戦闘をやらされたわけですが、当時の日本兵はそんな意識は持っていません。『白い旗』にも登場するセリフで言えば、

我々がここで最後の「ささやかな抵抗」がこの島にできる米軍の飛行場を一日でもおくらせる結果になれば日本は一日だけでも空襲をまぬかれることになり(ここで降伏によって助かる23人の兵士の命である)二十三以上の生命を救うことができるではないか

という理屈もあるわけです。

 

 ぼくは軍事力による自衛のための反撃をやむを得ないものと考える立場にありますが、兵士が犠牲となり、さらに組織的勝敗が決した個々の局面の状況を見たとき、この議論はなかなか軽々にはできないなと思わざるを得ません。

 

 この問題は突き詰めると絶対平和主義に行き着き、さらに、日本国憲法第9条を最も徹底して「非戦」として解釈する立場にたどり着きます。ぼくは9条支持者ですが、その立場に今立っていません。しかし、やはりこうした絶対平和主義は、主張としては聞くべきものを持っていると考えます。

 

 そういうことを今考えてほしいと思ったので、民青新聞の読者に向けて『白い旗』をお勧めしました。

 
 

 

*1:終戦50周年 ビッグコミック特別増刊号 戦争コミック傑作選(小学館、1995年8月20日発行)

「カエルの大岩」は天然記念物なの?

 伊藤野枝のふるさとは福岡市西区今宿である。

 ぼくも福岡市在住者として近くを通ることがある。

 その今宿の海岸に「カエルの大岩」があるという西日本新聞のこの記事。

www.nishinippon.co.jp

 有料記事なのでネットからは読めないと思うが…。

 旧国道202号を走っていると、あるいはそれと並走するJR筑肥線に乗っていると、西区の中で唯一海がきれいに見えるスポットが出現する。それがこの長垂海浜公園の東側の一帯である。

 そこに1箇所、旧202号のガードレールの外側に「出島」のような領域がわずかにある。ここに巨大な岩が残されている。前は松のような植物や草、土に覆われていて、それが除去されて今はこの岩だけが残っている。

 この岩は一体なんなのか、を追ったのが紹介した記事である。

大岩の正体はやはり国の天然記念物らしいが、名称が分かりにくく書き取るのに時間を要した。「長垂(ながたれ)の含紅雲母(がんこううんも)ペグマタイト岩脈」。

と記事にある(強調は引用者、以下同じ)。え、この岩が天然記念物なの? と思うではないか。

 しかしその後に

調べると、一帯は珍しい鉱物があることから、1934年に福岡市初の国の天然記念物に指定されていたことが確認できた。

とある。「一帯は」が主語だ。

 新聞についていた地図でも下記の通り、当該の岩だけでなく、まさにその「一帯」が「天然記念物」という書き方になっている。

西日本新聞の同記事より

 そして記事の終わりに

大岩の出現後、改めて専門家が調査したが、大岩周辺で珍しい鉱物は確認されなかったという。

とあり、「ん? じゃあ、あの岩はペグマタイトではないの…?」と首を捻ってしまう。大岩そのものがどのような鉱物であるかは実はこの記事には記されていない。あくまで大岩周辺を調べたということに過ぎない。

 だとすれば、やはり「一帯」が天然記念物であり、大岩も、どのような鉱物なのかはわからないが、「一帯」=天然記念物の全体の一部を構成しているものなのだろう。

 つまり、「大岩は天然記念物の一部である」ということなのではなかろうか。

 謎解きをしているはずの記事だが、謎が多い記事であった。

 

追記

 西区に行った際、つれあいと同区にある愛宕神社に行ったが、そこで次の動画とそっくりの、「何かの鳴き声」を聞いた。

www.youtube.com

 動画のタイトルにあるように、人間のうがい、あるいは飲み物に口をつけて音を出しているような音によく似ていたのである。

 それで、つれあいは「あのうがいをしているみたいな声は一体なんであろうか」とぼくはもとより、人に聞いて回っていた。

 つれあいの知り合いは「カエルではないのか」と述べ、ぼくもそれはなるほどと思っていた。しかし、カエルなのか、鳥なのか、それも判然としなかった。

 上記の動画のコメントに「コサギの繁殖地での鳴き声」とあったので、つれあいはそれを手掛かりにネットで検索してみた。そうしたら、やはりコサギの声であった。求愛の際の独特の鳴き方のようである。

www.youtube.com

上間陽子『海をあげる』

 リモート読書会で、上間陽子『海をあげる』を読む。

 

 

 エッセイ集である。

抗議集会が終わったころ、指導教員のひとりだった大学教員に、「すごいね、沖縄。抗議集会に行けばよかった」と話しかけられた。「行けばよかった」という言葉の意味がわからず、「行けばよかった?」と、私は彼に問いかえした。彼は、「いやあ、ちょっとすごいよね、八万五〇〇〇は。怒りのパワーを感じにその会場にいたかった」と答えた。私はびっくりして黙り込んだ。(本書p.177)

 他の参加者もまずここを取り上げて「違和感」を表明した。同断である。

 上間は指導教員のこの物言いに「強い怒りを感じた」とまでいう。

 なぜか。自分の住む東京で集会を開くでもなく、遠くの沖縄の集会を「ひとごと」、いや、「社会運動に参加する自分」の「癒し」であるかのように扱うだけだ。まずやるべきことは自分の生活圏を見直すことではないのか。それは沖縄と本土の関係そのもの、つまり沖縄に基地を押し付けて平然としている本土のあり方そのものではないのか、と上間は言いたいのである。

 ぼくは冒頭の、上間のパートナーが不倫をしていて、その相手は上間の友人であり、その友人は上間が提供する料理を平然と食べていた話にも強い違和感を覚えた。

 上間が友人に会い、どういうことかあなたの口から説明してといい、友人がどういう経過でそうした関係になったかを話したにも関わらず、そういうことを聞きたいんじゃないんだ、と否定するくだりである。

 説明をしろと言いながら説明し始めたら、そういうことが聞きたいんじゃない、と怒る。それはあまりにも説明をさせた側に対してひどくないだろうか。被害者の権利としてそこまで甘えられるものだろうか、という違和感がぼくを襲ったのである。

でも、私が聞きたいのはそういうことではなく、私のつくったごはんのことだった。なぜ私のつくったものを食べに来ていたのか、何を思いながらごはんを食べていたのか。日常生活に侵食して、ひとの善意を引き出すのはどういう気持ちなのか。(上間p.13)

 別の参加者が「でも、これはまさに本土と沖縄の関係の比喩のようにも読める。何食わぬ顔で付き合いながら、『基地負担を押し付ける』といううまい汁だけ吸っているという」と言っていた。

 まさにそういうことなのだろう。

「陽子、ほんまにごめん。今日、包丁で刺されるって思っててん」

 へぇと思い、また頭の芯が冴え冴えとする。包丁で刺されるくらいで許されることなのかな、これ?(上間p.14-15)

 パートナーの不倫相手を「刺す」のではなく、4年間優しくし続けた自分を刺してやりたい、と上間は言う。激しい暴力性は、かろうじて他者へは向かわず、自分の中に封じ込められ、しかし自分を殺すかもしれないほどの強い怒りとなって抱え込まれる。

 こう言われて、ぼくは戸惑うばかりだ。

 これは、あるフェミニストから四半世紀も前にぼくが言われたことへの戸惑いにも似ている、と思った。

 ぼくはポルノを見たことがある、とあまり重大視せずにこぼしたことがある。そしたらその言葉を聞いた、そのフェミニストである女性は「カミヤもそうなのか」と絶望し、死にたくなったと怒った。結局、進歩的な顔をしながら女性を差別する側にいるのではないかとぼくを激しく非難したのである。

 言われていること、批判されていることの中には、ある程度の道理がある。だから、ぼくはその批判を受け止める。しかし、その批判があまりに激しく、そして道理がないことも含まれていて、反発を覚え、全てを受け入れるわけにはいかなくなる。つまり「批判を受け入れられない」となる。

 したがって、告発されたぼくは「戸惑い」になってしまう。

 上間の告発を読んだ時、その時の「戸惑い」そっくりだと思った。

 ぼくは「もっとみんなに受け入れられる批判をしようよ」と言いたくなる。しかし、長く抑圧し差別されてきたという側には、そのように「配慮」させられること自体が耐えられないに違いない。怒りを率直にまず表明する。表明せざるを得ないのだ、というのが本人の気持ちなのだろう。このエッセイ集の冒頭で、不倫そのものとそれを黙っていた友人の関係に、気持ちが不安定となり、体調がおかしくなるほどの憤りを感じた上間は、その憤りをソフィスティケイトさせている暇などはなかったに違いない。

 「そんな形で発露することは権利ではないではないか」と言いたくなるが、他方で「それもわかる」と言いたくもなる。どうしたらいいのだろうか、という「戸惑い」で終わらざるを得ないのだ。

 

 不倫の話を聞いた、別の友人、真弓の言説にも違和感があった。

それまでうれしそうに私の話を聞いていた真弓は突然しんと静かになって、「あのな、陽子、ぜんぶ忘れていい」と言った。私がびっくりしていると、「本当に陽子は頑張ったんやなぁ。でもな、もう、ぜんぶ忘れていい。あのときあったことをぜんぶ、陽子の代わりに、真弓が一生、覚えておいてあげる」ときっぱり言った。(上間p.20)

 ぼくは、こんなふうに言うこともできない。相手がそんなことを望んでいないと拒否するかもしれないし、もしぼくが言われたとしても、全然心に響かない。何がわかるというのか? と言いたくなるような独りよがりの言葉にしか聞こえないからだ。

 しかし、これとて本土と沖縄の関係の比喩のようにも読める。

 沖縄に全ての負担を押し付けて涼しい顔をするのではなく、全て「引き受ける」ときっぱり言ってくれる。そこに上間は心打たれるのである。上間はこのような関係こそ期待をしているのだ。

 ぼくは「基地は一掃されるべきで、どこにもいらないではないか。本土と沖縄をなぜことさら対立させるのか」という思いを抱いてしまう。ますますぼくは「こんなふうには到底接することはできない」とやはりここでも戸惑うのである。

 沖縄で平和運動をしている元山仁士郎に最初つらく当たる話も出てくるのだが、のちにはすっかり元山を受け入れる。どう言えばいいのか、上間は良くも悪くも直情径行な人なのであろうか。しかし、沖縄が、本土が、という次元の話ではなく、上間という人物とリアルで近くでは生活できないのではないかと思った。

 

 本書には、風俗で働くことや妊娠のことなど、沖縄での貧困の調査についても描かれている。

 その聞き取りの細やかさは、本当に頭がさがる思いで読んだ。

 絶望的とも思える沖縄の貧困の具体的なありようがそこに提示されているが、もしぼくが同じような聞き手であったらおよそこんな話は引き出せないだろう。他の読書会参加者が巻末に記された聞き取りについての細かい日時の記録に驚いていた。研究者としての冷静さをそこにみる。

 けがの具合を聞いたとき、和樹はためらうことなく服をめくり、自分の身体を私にみせた。こういう、一見すると相手の意のままにふるまってみせる受動的なパフォーマンスはおなじみのものだ。

 こんなふうに自分のセクシャルな価値をよくわかり、それを使ってその場の空気を統制しようとする女の子や女のひとと私はこれまで何度も会ってきた。どこかで痛々しいと思いながら、そのひとがつくりだしてくれた空気に私はのる。それがそのひとのいちばん安心するコミュニケーションの取り方だからだ。(上間p.54)

 このようなスキルにぼくが感心していると、読書会参加者の一人であるぼくのつれあいは、「あなたはナイーブすぎる」と呆れられた。

 

 娘に性教育をする話、誘拐の話、祖父母の話などが書かれているが、それらはどこかで「沖縄」につながっていく。ぼくたちが日常で抱くいろんな感情がどう「沖縄」につながっていくのかを描くのである。

 

 次回の読書会は村上春樹『女のいない男たち』。

坂月さかな『星旅少年』1

 星から星を調査目的で旅をする(星旅人〔ほしたびびと〕の)主人公(?)の物語である。

 

星旅少年1

星旅少年1

Amazon

 

 主人公はPGT(プラネタリウム・ゴースト・トラベル)という旅行会社の社員で、同社の文化保存局の一員だ。PGTは旅行会社なのであるが、最近は「なんでも屋」になってきており、文化保存局の特別派遣員は

住民のほとんどが眠った星を「まどろみの星」と言って

ぼくはその文化を記録するためにこの星に来たのです

という仕事内容になっている。

 主人公は原付バイクに大きな羽根がついたような「スクーター」に乗って旅をしている。

 

 ストーリーについては、決して「ほのぼの」では終わらせない、不穏なラストで1巻を閉じる。でもまあ、ストーリーは読んでもらえばいいので詳しくは紹介しない。

 ぼくがこの本をパラパラめくりながらゆったりと付き合っているのは、この本の画面の多くが「夜」、しかも「静かな夜」だからだ。

 ひとけのない静かな夜。

 ただ自分ともう一人か二人だけ話している人がいる。

 ぼくは、今あまりそういう時間を味わえない。いや、まあ、ごく断片的にはある。しかし、そういういわば静謐な夜というものは、田んぼに囲まれた田舎で過ごしていた記憶の中にこそある。

 特に、本作ではしばしば「夜のラジオ」が登場する。

 「episode.02 シガリス」では、まどろみながらラジオがついている光景が描かれる。

 ぼくは小学校4年生くらいまで祖父母と寝ていた。祖父がラジオ好きだったので、寝るときにはいつもNHKラジオがかかっていた。豆球のわずかな明かりの中で、深夜のラジオが流れるのをぼんやりと聴きながら眠るというのは、ぼくにとって「原初的」な光景である。

 「episode.02」、p.62からのシークエンスは、夜の闇の「海」と、向こうに見える小さな明かりの列が広がり、そこにラジオを聴いている誰かがいて、その背中を見ながらうとうとしている。さすがにぼくはそんな中で眠ったことはないのだが、「ラジオを聴きながら眠る」という自分の歴史を、盛大に、美しく理想化したら、たぶんこんな感じではないかと思いながらその画面を眺めた。

人はまだ どこかで起きている

と、主人公と知り合った住民は眠りながらぼんやり思う。それは読者であるぼくにとっても「久しぶりだな この感じ」なのだった。

 

 この本は電子でなく紙で手元においている。

 装丁がいい。

 青みがかった表紙とカラーの口絵。そして作品本体は単色なのだが、モスグリーンの…いやもっと深いボトルグリーン(C100M20Y100C50くらい?)で印刷されている。

 そういうところまで含めて、絵本のように何度か見返している。

 

 

部落問題は解決したか、他の人権問題でも活かせるか:「地域と人権」4月15日号を読む

 今年は全国水平社創立100周年である。

 人権連(全国地域人権運動総連合)は機関紙誌でくり返しこの特集を組んでいる。人権連は全解連(全国部落解放運動連合会)が発展的改組したものだ。

 2022年4月15日の同団体機関紙「地域と人権」では、100周年記念事業の記者会見が載っている(2月22日)。

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部落問題は解決したか

 誰もがまず疑問に思うことは、「部落問題は解決したのか?」ということであろう。おそらく多くの国民にとっては自分の身の回りで「部落」と呼ばれる地域の出身者に差別感情を抱くなど「部落差別がある」という実感はあるまい。しかし、では問題がなくなったと言いきっていいのだろうか? という疑問もあるに違いない。

 人権連は「今日では基本的に解決したと言える状況だ」と明言する。

 人権連は「解決」したかどうかの4つの指標を示す。

 

 人権連の前身である全解連の第16回大会決定「21世紀をめざす部落解放の基本方向」(1987年)では、「4つの指標」は次のように規定されている。

部落問題の解決すなわち国民融合とは、①部落が生活環境や労働、教育などで周辺地域との格差が是正されること、②部落問題にたいする非科学的認識や偏見にもとづく言動がその地域社会でうけ入れられない状況がつくりだされること、③部落差別にかかわって、部落住民の生活態度・習慣にみられる歴史的後進性が克服されること、④地域社会で自由な社会的交流が進展し、連帯・融合が実現すること、である。

 人権連の丹波正史・全国人権連代表委員はこの「4つの指標に照らし、現在どこまで解決してきたのか分析」し、こう述べている。(ちなみに③についてはぼくも初めて聞いた時「な… 何を言っているのかわからねーと思うが」状態であったので、人権連の活動家に話を聞いたり、資料を送ってもらったりした。)

①「生活環境や労働・教育などで周辺地域との格差がなくなる」状況にするために、33年間の同和対策事業で16兆円の資金が投入され、格差は大きく縮小し、基本的に格差はなくなった。②ときに「非科学的認識や偏見にもとづく言動」が起きても、地域社会がそれを許さない民主的な力を持ち、差別的発言をすること自体が恥ずかしいという社会状況になっている。③パンツ一丁で出歩くといった「生活態度・習慣にみられる歴史的後進性」はみられなくなった。④「地域社会で自由な社会的交流が進展し、連帯・融合が実現」している。このことから、今日では基本的に解決したと言える状況だと述べました。

 この場合の「解決」というのは、「差別事象が全くなくなる」のではなく、社会問題として解決され、個々の差別事象が起きてもそれを許さない社会状況になっているかどうかだという意味である。

 改善の事例については、全国での具体的な自治体名を挙げての事例は部落問題研究所の書籍などに詳しい。例えば2017年に出された同研究所編『ここまできた部落問題の解決』の第二部「部落問題の解決はどこまで進んだか」において豊富な事例がある。

 

 

 

 

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 「1件でも差別落書き・ネットの書き込みがあれば『差別がある』とするのか」という問いに対して、人権連の示す原則的な回答はこのようなものである。

 

 同号では、こうした人権連の見解に対する批判的質問を載せている。

質問 在特会が水平社博物館の前で差別的な街頭宣伝(2011年1月)した5年後に、こうした事実関係があるにもかかわらず、人権連は「部落差別はヘイトスピーチ問題と異なり、公然と差別的言辞と行動をおこす状況にありません。そうした行為が時として発生しても、それらの言動を許さない社会合意が強く存在しています」と見解を出している。今もその認識は変わらないか。

 鳥取ループはずっとアウティング行為を続けている。アウティング行為に関して「権力規制一辺倒ではなく、議論を通じて国民合意をすすめ、差別を受け入れられない状況を作り出していく」(全国人権連第9回大会決議)との認識も変わらないか。

丹波 修正していないということはそういう認識です。

 ヘイトスピーチ問題との異同については、社会合意の存在以外に、表現の自由を規制しなければならないほどの人権上の危機が迫っているかどうかなども含まれていいかもしれないと思う。

 同号の1面には、別の記事として、福岡県の人権連が地元紙である西日本新聞と懇談し、西日本新聞の水平社100年報道の姿勢が「まだ差別は根強い」という方向に偏っていて、問題が解決された点を見落としているのではないかという人権連側とのやりとりを載せているのが興味深い。

 西日本新聞側は鳥取ループの地名暴露動画・地名総鑑の販売、ネット上の差別について言及し、「人権連さんはネット差別に楽観的では」「ネット差別軽視では」という批判をする。

 人権連のスタンスは、悪質なものは(現行の一般法による)法的措置で責任追及するが、基本的にはオープンな言論によってそうした差別を批判し、駆逐していくという方向を述べる。「単なる落書きは無視して騒がない」という瑣末なものへの対応も述べていて、ネットにおける「スルー」と同じだなと思いながら読む。

 ぼくも基本的には人権連の立場に近い。

 部落問題はそれを生み出す客観的な要因に目を向ける必要がある。

 その根源は、封建的残滓であったから、戦前の寄生地主制などが解体されたことで、大きく前進する道が開かれ、そこに多くの「同和対策予算・事業」が投じられてきた。その結果、基本的には解決されたと考える。あとに残った問題(貧困など)は一般行政を充実させることで国民全体と力をあわせる、というのが基本だろう。

 残った差別事象については、言論による闘争を行うべきだ。

 加えて、人権連がいう「新しい差別」が逆に困難を新たに持ち込んでしまう危険があり、むしろ部落問題を完全に一掃するためには、こうした「新しい差別」こそなくしていくことが大事だ。

 この点について同号での次の丹波指摘、および、記者とのやりとりは注目すべきだ。

また部落差別には「古い因習にとらわれた差別」に加え、不公平乱脈な同和行政や同和教育によって生じた恐怖心・偏見から生み出される「新しい差別」があり、今日的問題の主因は「新しい差別」にあると指摘しました。

質問 「新しい差別」とは具体的に何か。

丹波 一つは、1969年ごろから〔部落解放運動の〕分裂騒ぎがおき、自治体等々に対し糾弾が行われました。暴力的なやり方で相手を屈服させる。たくさんの人を集め、人民裁判のようなことをする。その光景を見た人は震え上がります。人々に「怖い」という意識を受け付けました。この意識はなかなか払拭できません。今、派生的にいろんな問題が出てくる場合、こうした残像が出てきます。例えば八鹿高校事件などです。

 二つ目は、未だ同和対策を行なっている自治体があります。法律がなくなったにも関わらず、自治体が特定の地域を指定し、特別な対策をやることは問題があります。それは「特別扱い」という意識を生み出し、市民の中に広がり「新しい差別」となります。

 

部落問題が示した他の社会運動でも活かせる教訓

 水平社100年にあたって、部落問題は、単に部落問題として考えるだけでなく、今日のジェンダーやマイノリティ問題などさまざまな新しい社会課題を考える上でも重要である。

 

 一つは、差別問題は、差別表現との闘争がメインなのではなく、差別を生み出す社会の客観的構造そのものをなくしていく社会的政策こそが必要なのだということだ。

 二つ目は、差別的表現との闘争は、法的な規制を行うのではなく、表現・言論の自由をベースにして、出来るだけオープン・自由に行うことが必要だということ。しかも一般社会の中では「糾弾」のような恐怖をベースにしたものではなく、対話理性の発揮のような形が望ましいということだ(もちろん、差別的表現をなくすように求める社会運動そのものを否定してしまうのは行き過ぎである。社会的な圧力も一定程度必要なものである。その圧力の量的基準も存在しない。各自が判断する以外にない)。

 この点でも同号で丹波が「融合の道」と「糾弾の道」を対比させたことは重要である。

また100年の歴史の半分が「融合の道」か「糾弾の道」かで分裂してきたことに触れ、「糾弾の道ははじめは差別的言動は影をひそめるが、結果的には反感をかい、いろんな分野に弊害が現れる」と指摘。八鹿高校事件は、人々に恐怖心を植え付けたと批判しました。

徹底的糾弾からはじまった水平社運動が、差別を残している根本的な要因に目を向け、労働者、農民と共同して部落差別の解決を図る道を探り、国民融合論につながる人民融合論を1935年に唱えていたこと。こういう歴史的教訓が正しく受け継がれなかったと指摘。