シーニア「最後の1時間」を理解する

 『資本論』を若い人たちと読むことを続けている。

 先日も合宿で読んだ。再び、高速道路のサービスエリア・パーキングエリアごとに止まってその場で30分〜1時間読み合わせするという狂気のやり方。

 いよいよ次は第1部8章である。

 その前は、もちろん第7章であった。その第三節は有名なシーニアの「最後の1時間」が登場する。このマルクスの説明がどうにも長ったらしくてわかりにくい。不破哲三でさえ、

ただ、マルクスが第三節でやっている反論は、あまり分かりやすいものではありません。テレビ討論会で、こんな調子の議論をやったら勝ち目はなさそうな気がします(爆笑)。(不破『「資本論」全三部を読む 第二冊』新日本出版社、2003年、p.88-89)

と述べるほどだ。

 ぼくは、再構成を担当させてもらった門井文雄『理論劇画 マルクス資本論』(かもがわ出版)において、この部分を紹介したとき、要は“いま労働して作り上げている価値(価値生産物)は可変資本分と剰余価値分しかないのだが、その中に機械や原料などの価値=不変資本部分も含めてしまっている”ということでざっくり済ませてしまった。不破の『全三部を読む』も基本的にはその解説なのだ(というか、ぼくが不破の解説に啓発され、大いに参考にさせてもらったのだが)。

 

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門井前掲、p.112-113

 

 しかし、実際に『資本論』を読むと、マルクスはかなりいろんな数字を出してくる。その理屈がわかりにくいのである。学習会でもファシリテーターであるぼくはうまく説明できなかった。そこでリベンジを兼ねて以下に記す。

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 これは、第一節にある

この総価値は二〇重量ポンドの糸という総生産物で表されているのであるから、そのさまざまな価値要素もまた当然、生産物の比率適所部分で表されうるはずである。(『新版 資本論 2』新日本出版社、p.380)

ということの理解が必要である。

 生産物価値(生産物として作られた全体の価値)はc=原料・道具9.5万ポンド、v=労賃1万ポンド、m=剰余価値1万ポンドとなる。紡績労働の現場で加えられた価値生産物(価値として新たに生産されたもの)はvとmしかないが、出来上がった商品の価値総額(生産物価値)は移転されたcも含め11.5万ポンドとなる。

 工場主(経営者・資本家)は、はじめの9.5時間の労働が終わると、c分の製品が生産でき(さらに売れ)れば、「c分は回収できた」と考える。次の1時間で「v分が回収できた」、最後の1時間で「m分が回収できた」と思考する。マルクスは、まあここまでは「正しい」というのである。しかしそれを紡績労働の労働時間に「換算(翻訳)」してしまうと「間違う」とマルクスは言う。(マルクスは「無知な観念」と罵る)

 

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 というわけである。

 ところで、不破哲三の『全三部を読む』はこの理解のために本当に役に立ったのだが、他方で、

シーニアは、生産物の構成部分についての先の表式を、労働時間に翻訳して、次のようにつくり直したのです。

1時間の労働時間=不変資本の補填分+可変資本の補填分+剰余価値

12時間  =  9時間3/5    +  1時間1/5     +  1時間1/5

(不破前掲p.88)

という計算例に戸惑ってしまった。

 ぼくは、この時間計算の例を見たとき、「えっ? シーニアってこんな計算例を出してたっけ?」となんども探してしまったのである。

 しかし、この「12時間」の計算例は、実は第二節でマルクスが持ち出した例であって、シーニアが出した労働時間ではない。三節では、マルクスはシーニアの計算例を11.5時間という数字を使ってやっているので、この「12時間」という計算を「シーニア」のものだというのは厳密に言えば間違いである。不破は新版でも訂正していないので、勘違いしているのではないか。

 まあ、あえて言えば、「第二節の計算例をシーニア風に直せばこうなる」というわけであって、もし不破がそう言いたかったのであれば、そのように書いてくれないとわかりにくい。探しちゃったじゃん。 

 

 え? お前が再構成したマンガでも、そんな断りなく「12時間」をシーニアの例で出してるって? う……。

 いいんだよ、俺は!

 だって、「10億円」とか明らかに日本の通貨単位が使ってあって、シーニアが出している例じゃないんだから! な?

 

 

磯谷友紀『ながたんと青と』

 最近よく読むマンガは、磯谷友紀『ながたんと青と いちかの料理帖』であろうか。

 戦争から6年たった、日本の「独立」のころの京都の老舗料亭の話……と書くだけで、実はげんなりしてしまう。往々にして時代設定、京都という土地、料理などといった「小道具」を雰囲気で描くことに重点がおかれ、というか作者が酔ってしまい、肝心の物語のドライブがないために、読む方はまことにつらい……そういう作品が想起されてしまうからである。

 しかし、本作は全くそんなことはなかった

 料亭の料理長が新しい経営方針を認めずに立ち去り、婿の実家は料亭の乗っ取りを企図するという危機の中で、どういう立て直しを図るか、というビジネスの論理が物語の主軸に座る。もう一つ、34歳の主人公・いち日(いちか)と19歳の周(あまね)との結婚は、当初政略とも偽装とも言える「形だけ」の夫婦として出発しながらそれがどう本物の恋愛へと発展していくのか(それともしないのか)という軸が座る。どちらの軸も、読ませる。骨太の作品である。

 いち日は、周から「ぼくのこと どう思ってますか」と問い詰められ、「か かわいい」と言ってしまう。その言葉に周はショックを受けるのである。

 いち日は周の仕草をいちいち「かわいい」と内語する。

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磯谷前掲4巻、講談社、p.157

 ぼくはこの4巻の、いち日の(内心の)つぶやきのコマがとても好きで、いち日が漫符的な表現を一切纏わずに、純粋な内語として、表情を動かさずに、「かわいい」という感想を述べる描写が、心底周のこの仕草を、いち日が「かわいい」と思っているんだなとぼくに思わせてしまう。

 

 

 この場合の「かわいい」には、おかしみがある。

 シェリー酒という洋風で洒脱なものを、才気走った若者が生真面目な顔で、なぜか半纏というどっぷり和風な、どちらかと言えばややだらしないほどに生活感のあるものを着ながら出すというアンバランスが「かわいい」のである。

 

 連合赤軍事件で、大塚英志は「かわいい」という言葉の使い方が、男性指導者たちのそれと、女性活動家のそれでは根本的に対立し、その対立こそが「連合赤軍事件」というものの深層だったのだと指摘する。

 

 

 リーダーである森恒夫をはじめとする男性指導者たち(植垣ら。その陣営に属する永田洋子も)は、「かわいい女」「かわい子ちゃん」のような、男性支配から見た従順さにこと寄せた使い方をする。そしてそれに抗えない女性たち(小嶋・大槻)。他方で、一人の女性活動家(金子みちよ)はその意味を逆転させてしまう。

 

 このように女たちが男たちの「かわいい」という視線に従順だったのに対し、ただ一人、この視線を男たちに投げ返した女性がいる。妊娠八カ月の身重であり、女性として四人めの犠牲者となる金子みちよである。

 例によって森のねちっこい女性批判が始まりその矛先が金子に向けられる。森の批判は彼女が自分に色目をつかっている、というものだった。永田の『十六の墓標』から引用してみよう。

 森の発言があまりにおかしいと思った私は、わけのわからない怒りがわきそれを否定しようとして、金子さんに、

「森さんをどう思う?」

と聞いた。金子さんは、少しとまどっていたが笑いながら、

目が可愛いと思う・・・・・・・・

といった。(傍点筆者)

 金子は女たちを「かわいい女」として抑圧してきた森に対し逆に「かわいい」の語を投げつけるのである。男女間の支配関係の語としてのみ作用していた「かわいい」を最高指導者である森に投げ返した彼女の発言はそれこそ革命的、なものだったとぼくは思う。

 この金子の「かわいい」の語法は重要である。何故なら、この「かわいい」はそれまでの「かわい子ちゃん」—「かわいい女」という男女の支配関係を肯定する語として連合赤軍内部で使われてきた「かわいい」とは決定的に異なるからだ。(中略)

 ちょうどこの連合赤軍事件の前後の時期を境にして「かわいい」という語法に大きな変化が起きる。植垣が「かわい子ちゃん」と言ったときその「かわいい」は男性の側から発せられ男女の支配関係に収斂していく。小嶋や大槻の「かわいい」私は、男女間の支配関係に抗すことができない。しかし、金子の「かわいい」は明らかに、森と金子との間の関係を転倒しているのだ。この新たな「かわいい」の語法は女性たちの口から発せられた瞬間逆に眼前のあらゆる事象をこの「かわいい」の一言で包括してしまうものとして現れる。女性を支配することばとしてあった「かわいい」が、逆に女性たちが彼女たちをとりまく世界を「かわいい」の一言で支配し直してしまうことばへと変容していったのである。(大塚英志『「彼女」たちの連合赤軍 サブカルチャー戦後民主主義』角川文庫、p.25-26)

 

 いち日と周の生きている時代は、日本の占領の終結、「独立」の時期であり1950年代初頭だ。だからこの用法はあり得ない。が、これはフィクションである。磯谷が1950年代の歴史上の人物の内面を必ずしも精確に描出しようとしているとは思えない。

 むしろこの時代に仮託して「現代」を描こうとしているように思える。

 周は男権主義的ではない。むしろ、当時はタブーに近かった、料亭の料理長に女性であるいち日をすえるなど、ジェンダーを乗り越えている。

 さらに、いち日と周は一種の「仮面夫婦」なのであるが、ある明確な利害で一致した、ビジネスライクな「契約としての夫婦」というものは、『逃げ恥』でもそうであったが、現代の男女関係あるいはパートナーシップにおける、かなり質の高い関係ではないのだろうか? なぜなら、関係の目的性が非常に明確であり、両者は対等平等であるということが明確だからである。ゲマインシャフトではなくゲゼルシャフトとしての夫婦。

 

 

 だからといって、完璧に「理想」なわけではない。

 確かに料亭「桑乃木」は事業体である。いち日と周はその事業体のメンバーである。しかしその事業体は家産制事業体である。すなわち純粋な会社ではなく、二人は純粋な社員ではない。家庭であり、夫婦であるという前提での関係は、愛情=心情という問題をどうするのかという問題・矛盾を残してしまう。

 むしろ政治や経済のような生硬な言葉・関係としてではなく、そうかといっていきなり直接に恋愛ではないところから、相手への真情を始める必要がある。

 それが「かわいい」なのである。

 周を「かわいい」と思うのは、ビジネスの思惑でもなく、恋愛感情でもなく、いち日の心に自然に湧出した気持ちである。それこそが、周を理解し「愛おしい」と思えるようになる、第一歩なのだ。

 

 別の言い方をすれば、ビジネスとしての関係を被っている周・いち日の関係をいったん破壊する力を持っているのがこの「かわいい」なのである。その意味では、男女関係の支配的言説に抗した金子の「かわいい」に似た作用をここでは及ぼしている。

 

 

英語で「宣伝」は何というのか

 前にも書いたが、英語の勉強のために、手帳(手書き)にスケジュールを書くとき、一部の予定を英語で記すようにしている。

 さて、予定の一つとして「宣伝」と書きたいことがある。

 「宣伝」というのは左翼政党や労組などの独特の用語で、駅頭・街頭でマイクでスピーチをしながらビラをまくとかいうような取り組みのことである。

 こういう感じ↓のやつ。

www.youtube.com

 

 いわば「街頭宣伝」なんだよね。

 「あした宣伝やろうよ」などと左翼の仲間内で使ったりする。

 はじめ、和英辞典で「宣伝」を訳してみると、

advertisement

と出るのだが、これじゃあ企業が出すような「広告」だよな、と思う。

publicity

というのがあるが、うーん、これも「広報」という感じかなあと思った。

propaganda

は「(国家などが組識的に行なう主義・教義などの)宣伝」とあって、「あっ、これじゃね?」と思ったが、すぐ「いやいやいやいやいやいや、『プロパガンダ』っていくらなんでも…」と考え直した。「その通りじゃんww」とか皮肉られそう。

 

 

 ぼくが参考にしているのは「Japan Press Weekly」なのだが、試しにこのサイトで「propaganda」を検索すると、

anti-communist propaganda(反共宣伝)

とか

As the reason for this decision, the organizers explained that the “Kyokujitsu-ki” flag is widely used in Japan and that the display of this flag does not constitute political propaganda.(この決定をした理由として、組織委員会は「旭日旗」は日本では広く使われており、この旗を表示することは政治的宣伝を構成するものではないと説明した。)

など、否定的な意味しか出てこない。

 

 「Street Speech」ではないかと思っただが、これは「街頭演説」であって、街頭宣伝の一部分の要素しか表していないような気がする。

 「Japan Press Weekly」で「Street」を検索してはどうだろうかと思ってやってみた。

 「street actions」「street speech rally」

 だいぶ近いけどちょっと違うなあ…。

 すると「street campaign」が出てきた。

 あ、これじゃね?

The Japanese Communist Party together with young eco-activists held a street campaign near Shibuya Station in Tokyo on September 23 as part of the “Global Climate Strike”, a worldwide movement appealing for the need to take immediate action to tackle the climate crisis.(日本共産党は若い環境活動家たちと一緒に9月23日、東京・渋谷駅近くで、気候危機を打開するための緊急行動を起こす必要を訴える世界規模の運動、「グローバル気候マーチ」の一部として街頭宣伝を行なった。)

https://www.japan-press.co.jp/s/news/index.php?id=13771

 

というわけで、街頭宣伝は「street campaign」だと思うのだが、どうであろうか。

〘名〙 (campaign) 何らかの主張、あるいは宣伝のために、組織的、継続的に広く社会や大衆に訴える活動。広告・啓蒙・普及活動などにみられる。(精選版 日本国語大辞典

 

 

追記:

 ブコメ欄。

id:BUNTEN

愛用のぐぐる翻訳に街頭宣伝を食わせたら「Street promotion」と出た。合ってるかどうかは見当も付かない。

 確かに自動翻訳だとこれが出る。

 ぼくのイメージでは「promotion」というのは、もともと「促進」であり、販売促進の戦略というか、例えばある化粧品を売るために、広告を打つだけでなくて、試供品として使ってもらうとか、一緒に買うとポイントが増えるとか、そういう戦略全体を指すような気がする。

 

 

 

 

『オーイ! とんぼ』37

 『オーイ! とんぼ』37巻は、プロゴルファーである有働二子女(にこめ)が停滞し鳴かず飛ばずの現状を打破し、殻を破るために、これまでの自分のスタイルを崩して…というかある意味破壊・否定し、新しいスタイルを確立しようと悪戦苦闘する巻である。

 

 

 幼い時から父に躾けられて体に染み付いてきたゴルフのスイングを破壊するのは至難である。自分の否定であり、自分を形作ってきた父の否定であるから。

 

 破壊を続け、創造のプロセスを歩んでいる間は、成果が出ない。

 スポーツでもビジネスでもそうだろうが、残酷な順位となって「成果」が示されるから、周囲は騒ぐ。本人は動揺する。

 

やっぱりオレは反対だ

ゴルフが壊れちまう

ゴルフのスウィングとは完成された豪華客船みたいなもので

インディアンのカヌーみたいなものとは違うんだ

壊れた後で元に戻そうとしてももう戻らないんだ

 

 兄であるハジメは二子女の挑戦に否定的である。

 この道でいいのだろうか? いいのだ、と言い聞かせて進むしかない。なにせ途中なのだから。

 

ばってん いままでと同じやり方を続けていても

きっと同じ結果しか得られない

なにか違うことを試さなきゃ

試してダメだったら 壊れちゃったら

もうそれでいい

 

私はそれまでの選手だったんだって

そう覚悟を決めてるの

そして違うやり方っていうのが

いまの打ち方なの

お父さんが教えてくれたゴルフを

アップデートするんじゃなくて

パソコンごと新しくする覚悟なの

 

お父さんと作ってきた

骨格に肉付けするんじゃなくて

もう丸ごと取り替えるつもりなの

お父さんを捨てるつもりなの

 

 この物語はいまぼくの心を打つ。

 なぜかといえば、それは左翼組織になぞらえてこれを読んでいるからである。

 組織のあり方や政策の方向を、これまでの経験の延長ではなく、大胆に変えなければ再生産ができないのではないか、生き残れないのではないか、という二子女と同じような問題意識があるからだ。

 これまでの成功体験にすがろうという気持ち。

 改革の途上で「成果」が出ないことへの周囲の喧騒。

 これまでの方法への「否定」=侮辱として受け取られる改革。

 もちろん、これは「お話」である。比喩がそのまま政治組織の方法に当てはまるものでもない。しかし、やはりこの巻が心を揺さぶるのは、まさに今「ぼくの物語」として読まれるからなのである。

 

 

今年度の中学英語が大変になっている可能性はないのか

 中2の娘の定期テストの結果を見る。

 英語の最下位クラス(0〜29点/100点満点)にかなりの人数がたまっている。他の教科と比べても段違いだ。1学期・2学期・3学期とこの傾向は変わらない。

 グラフにしてみた。

 

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 この学校だけ、英語の授業が悪いのだろうか?

 そういう可能性もある。

 しかし、今年から中学校の英語が変わった、と前に記事で書いた。

kamiyakenkyujo.hatenablog.com

 そのエントリで紹介した、日経新聞2021年9月28日付の「受験考」欄記事「ついていけず悩む生徒」を一部引用する。

 学校の授業の流れはまず英語の歌を歌い、英単語ビンゴをする。そしてチャット(2人1組で決まったフレーズを言い合うが、細かな発音指導などはしない)。さらに教科書本文の音声を聞き、簡単な和訳を教師が言う。これで授業終了。
 教科書本文はおろか受動態や現在完了形といった文法の丁寧な解説はない。しかも授業自体が英語で行われるので、A子はついていけなくなった。

 昨年の10月22日付「しんぶん赤旗」でもそのように書かれていた。

blog.goo.ne.jp

 

 

 娘に話を聞いてみると、娘が受けている授業は決して「英語で全部話している」わけではなく、日本人の先生がふつうに日本語で話しかけてくる授業だということである。娘は英語の授業に不満があるのだが、その不満の中身を聞くと、「文法だけ教えるみたいな…」と、赤旗や日経の記事とは逆のことを述べている。

 テスト結果に保護者が何か書いて担任に返す通信があるのだが、そこで「どうして学年全体でこんなに英語の出来が悪くなってしまっているんですか」と疑問を書いたのだが、担任から返事はなかった。

 

 このことについて、共産党の福岡市議である山口湧人議員が3月10日の福岡市議会(条例予算特別委員会の教育こども分科会)で質問していた。

 

山口(湧) 中学校の英語教育について、複数の保護者からほかの教科と比べて英語の成績が悪いという相談を受けた。学習指導要領が改訂されたことに伴い、令和3年度から英語の授業内容はどのように変更されたのか。

教育委員会 聞くこと、読むことは、話すこと、書くこと、言語活動を通して簡単な情報や考え方を理解し、表現し、コミュニケーションを図ることを目標とし、特にコミュニケーションを行う目的、場面、状況などに応じて日常的な話題、社会的な課題について考えたり、理解したりすることなどに重点を置いている。

 コミュニケーション重視になった→文法などが軽んじられているのでは?

 というような疑念が湧いたがどうであろうか。

山口(湧) 令和2年度から小学校5、6年生は英語が必修科目となり、単語を600〜700語学び、中学校では1600〜1800語学ぶこととなった。中学校で学ぶ単語は従来よりも大幅に増えており、また、文法についても増えているため、中学校の英語教育は難易度が高くなったと思うがどうか。

教育委員会 学習内容は大きく変わっていないが、学習する単語及び文法が増えていることは事実である。

 ここでの教育委員会の認識は、日経のそれとは違う。赤旗の指摘とは重なっている。

山口(湧) コミュニケーション能力を重視する学習内容に変わったことにより、文法の基礎を学ぶ機会が減っているが、定期テストでは文法や単語の問題が出題されるため、矛盾していると言われている。そのような状況についてどのように認識しているのか。

教育委員会 指導と評価は一体のものである必要があり、学習指導要領改訂後のテスト結果を踏まえ検証していきたい。

 ここでは、山口議員が「コミュニケーション重視と、出されているテストが文法重視で、矛盾してない?」という趣旨の質問をしていて、教委側は「一体の必要性があるのでよくみていきたい」と返している。

 しかし、そもそも、英語の成績が全体としてガタ落ちしているというのが、自治体全体に広がっているのではないか、という認識については教委は特に示していない。

山口(湧) 学習指導要領が改訂されたことに伴い、学習内容が増えたことで、教員と生徒の負担が重くなっていると思うが、所見を尋ねる。特に、小学校から中学校に入る移行期がコロナによる一斉休校と重なり、教える量が極端に増えたと思うがどうか。

教育委員会 学習指導要領に示された学習内容はしっかりと教える必要があるが、資料等の活用や様々な指導方法を共有することで教員の負担を軽くするとともに、子どもたちにとって分かりやすい学習となるよう取り組んでいきたい。

 ここでは、教委は「指導要領に示された分はしっかり教えろよ」という姿勢を崩していない。必要量は子どもに教えるというのだ。その上で「分かりやすく」と言っているに過ぎない。

山口(湧) 令和4年度は各学校の状況を把握しながら、基礎学習を重点的に繰り返すことを助言していくことが重要であると思うが、所見を問う。

教育委員会 英語や数学など積み重ねが重要となる教科については、つまずきによって子どもの学力に影響があるため、学校と連携しながら実態の把握に努め、対応していきたい。

山口(湧) 子どもたちの実態を把握した上で、授業内容を精選し、また、基礎学習の徹底に時間を割くよう各学校に助言されたい。

 結局、教育委員会としては現状の認識は「検証する」というところにとどまり、英語が特段悪くなっているという認識を示していない。

 

 結構重大なことだと思う。なぜなら、事前に「これは悪くなるぞ」という予想が出ていて、それを裏づけるかのような結果が出ているからである。

 しかし、あくまでそれは「1つの学校のデータ」に過ぎない。

 また、個別の取材(娘)では懸念されていたことが現実の授業では起きていないようにも考えられる。

 うーん、これが全市・全国のトレンドかどうかもわからないので、何かそれを検証するデータがあればいいんだが…。誰か取材してくれないだろうか。(人任せ)

 

ウクライナ問題と憲法9条

 福岡市議会は3月3日に全会一致でロシアのウクライナ侵攻を非難する決議をあげた。

ロシアによるウクライナ侵攻を非難する決議

 ロシアは去る2月24日、外交手段による問題解決を模索した国際社会の努力を踏みにじってウクライナへの軍事侵攻を開始し、主要都市の占拠に向けた、軍事施設の破壊を始めとする一方的な軍事行動を展開している。こうしたロシアの攻撃により、ウクライナでは多くの国民が犠牲となり、また数多くの難民が生じている。

 ロシアによる軍事侵攻は、領土の一体性の侵害と武力の行使を禁じた国連憲章及び国際法に明瞭に違反するものである。また、力による現状変更の試みは、平和を希求する国際的な秩序への明らかな挑戦であって、断じて許されるものではない。

 さらに、ロシアは、我が国を始め国際社会が連携して実行している経済制裁に反発し、戦略核兵器の使用を示唆した。こうした威嚇や挑発は、全ての人類と文明社会への敵対行為と言うほかなく、唯一の被爆国である我が国としては断じて看過できない。

 よって、福岡市議会は、ロシアによるウクライナ侵攻を厳しく抗議し、ロシアに対し、軍を無条件で即時に撤退させることを強く求めるとともに、日本政府が国際社会と緊密に連携し、ロシア軍の撤退が早急に実現するよう毅然とした対応を取ること及びウクライナに滞在する邦人の保護に全力を尽くし、人道的な観点からウクライナの人々に対する必要な支援に取り組むことを強く求めるものである。

 以上、決議する。

 予算議会の最中でもあり、地方議会で同様の決議が広がっている。

www.jcp.or.jp

www.sankei.com

 党派を超えて、あるいは日本国憲法に対する態度の違いを超えて、ロシアの行動に反対する1点で共同が広がっていることは、一つの自治体を代表して声をあげる行為なのだから、地味な話だが大事なことだと思う。

 このブログを読んでいる人も、すぐできる行動として、自分の市町村の議員に働きかけるといい。

 

 

 他方で、ウクライナの事態を受けて「憲法9条は無力だ」という批判があるそうだ。

 これは9条を完全非武装論と解釈した場合の話だろう。

 単純に「9条のもとで個別的自衛権を発動する必要最小限度の実力たる自衛隊が存在し、その解釈で2015年まで戦後ずっとやってきたのだから、急迫不正の主権侵害を受ければ9条のもとで自衛隊が活動するのでは?」と思う。

 9条のもとで自衛隊を使えばいいではないか。

 共産党でさえ、現行憲法下での自衛隊活用を認めている(5ページ)。

https://www.jcp.or.jp/web_download/202202-JCP-gimon.pdf

 そして、現時点(3月6日時点)では、集団的自衛権にもとづく軍事対決ではなく、経済制裁や外交など非軍事的手段によるプーチン政権の包囲が進められている。

www.sankei.com

www.bloomberg.co.jp

www.jiji.com

 「デモや国連、非軍事のやり方などなんの役にも立たない」という主張こそ、立場を失っているように見える。

 もちろん、直ちに軍隊が手を引く効果を生み出さないから、ある種の「じれったさ」が伴う。また、最終的にうまくいくかどうかもまだ保障されていない。

 しかし、現状ではこれが取りうる最善の手段と世界は考えている。

 

 いわば個別自衛権行使と非軍事手段による包囲が、憲法9条の現実における運用であるから、このような運用は、今眼前に展開しているウクライナの事態に、(全面的ではないが)ある一面をのぞかせているのではないだろうか。

 

 ぼくが9条擁護派なのは、個別自衛権専守防衛にとどまるべきだと考えるからである。

 9条改定は現在の自衛隊の単なる承認(追認)ではない。それなら現状で問題ないはずだ。

 9条改定が執拗に狙われるのは、現状を超えようとしているからだ。

 端的に言えばフルスペックでの集団的自衛権行使と海外派兵の容認である。

 9条の改定は、例えば自民党憲法改正案にのっとったばあい、自衛隊は「国防軍」となり、「自衛権の発動」を認めてしまうので、個別的自衛権の範囲を超えて集団的自衛権行使も認められてしまう。

constitution.jimin.jp

 そうなれば、自国が攻撃されてもいないのに「同盟国の危機だから」という理由で戦争に出かけることになる。また、従来の政府の軍事に関する法解釈がリセットされるために公然たる核保有(核の共有を含む)にも道を開く。

 つまり9条の改定は、「ウクライナにならない道」ではなく「日本がロシアになる道」ということではないだろうか。

 

 この点で松竹伸幸(ジャーナリスト、「自衛隊を活かす会」事務局長)の次の指摘は頷ける。

 だから、昨日の講演で重視したのは、いまのウクライナの事態を目の前で体験している日本国民にとって、9条を守るという立場をただ非武装だということに限定してしまうと、国民から遊離してしまうということだ。でも、いまのウクライナ国民のように、侵略に対して軍隊が抵抗するし、国民も抵抗するということは、9条を守るということと矛盾しないし、それどころか9条の思想からすれば、そういう抵抗に共感できるのだという立場に立つべきだ、そうすれば現在の局面は「困ったな」ということにならず、逆に「今こそ9条」ということになるのだと述べてきたのだ(この講演内容は、現在の複数の連載が終わったら、大連載します)。

 

日本の地名の発音

 英語を勉強している…というほどではないが、毎日英語の簡単な記事を読んでいる。読んでいるという程度で、話したり聞き取ったり書いたりする努力は、ほとんどしない。

 なので、今のところ、ある単語をどう発音するか・されているか、はあまり気にしていない。

 

 それでも電車のアナウンスとか駅の表示・観光案内とかは「聞けるか」「読めるか」程度に自分に小さくテストしてしまう。

 正直、観光案内や注意表示などの読み取りは時間をかければできる感じだが、アナウンスの方は聞き取れないことが多い。

 

 福岡市には、地下鉄からJRに乗り入れている路線がある。

 市営地下鉄の空港線からJR筑肥線がそれである。

 どちらも英語のアナウンスが流れるのだが、市営地下鉄は地元の地名を日本語と同じ感じで読む。ところが、JRのエリアに入ると途端に「英語系外国人が読みあげる地元の地名」っぽくなる。

 地下鉄とJRの接点になっている姪浜駅は、市営地下鉄の終点でやってくると「メイノハマ」だが、JRの終点としてやってくると「メイノゥハマァ」と案内される。

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芥屋の大門

 

 「筑前前原」(ちくぜんまえばる)は、JR風だと「ティッゼンマグロゥ」となる。「筑前目黒」だとばかり思っていた。「bound for Chikuzen…」とアナウンスされていたので、なんとなく「ああ、この路線の遠く先に筑前目黒っていう駅があるんだな」と思っていた。

 中学生の娘に「東京をどう発音している?」と聞いたが「トウキョ」と、ちょっとばかり「英語系外国人が読みあげる地元の地名」だった。ぼくが中学生の時は「トキオゥ」みたいな感じで教わっていたが。

 相手に伝わればいい・伝わることが大事、という感じなのだろうか。

 アジア系や非ヨーロッパ系の人にも英語で伝える機会はあるはずだと思うが、その人たちにとっては日本の地名をどう発音して伝えることが誤解を生まない伝え方になるのか。たぶんすでにどこかで議論されているのだろうが、ネットでちょっとググっただけでは見当たらなかった。駅名にせず「JK1」などの記号にして併記しているのはその努力の一つなのだろう。