鈴木望『青に、ふれる。』4

 鈴木望『青に、ふれる。』は顔に大きなアザがある女子生徒(高校生)・瑠璃子と、相貌失認という表情の識別や個人の識別に障害を抱える男性教師・神田とのラブストーリー…のようなそうでないような話である。

 

 主人公の瑠璃子をはじめ、登場人物がネガティブに起きる事態を受容したり批判したりするくだりがややポリティカル・コレクトネス的な意味で「説明的」である(つまり「いい子ちゃん」的な)ような気がしていたのだが、4巻まで読み進めてきてみて、むしろ思い切ってそっちに振り切れており、それはそれで学ぶものも多いなと思い直して読者として付き合っている最中の作品である。

 例えば4巻。

 

 修学旅行に来ている瑠璃子たちは宿で女子トークになる。

 そのとき、先生が言った「悪気のない一言」についての話になる。

  • スッピンがいい、という言葉がメイクの否定に聞こえる。
  • 美人の先生が「素敵」「かなわない」というのは上から目線に聞こえる。

 瑠璃子がいう。

相手がポジティブな意味で言ってくれたのに自分がネガティブに捉えちゃうことってあるよね

 そのとき、気持ちをどう対処すればいいのか。

 顔にアザがあるという瑠璃子はそうしたケースに遭遇することが実に多い。だからそんなときの対処法について次のようにいう。

でもそんな自分を責めたりしないで イラっとしたとか モヤっとしたとか 自分の感情をまずは大事にする…でいいんじゃないかな

 ぼくは、これを聞いたときは「ええ〜? そうかなあ〜?」と思ってしまった。

 それだと自分を客観視できなくて、自分の感情の奴隷になってしまうんじゃないの? と思ったからである。

 だけど、瑠璃子は本当にいろんなことを小さい時から言われる。その例がマンガには

書かれている。

  • 女の子なのにかわいそうにね
  • どうしてレーザー治療しないの
  • 堂々としてえらいね
  • 大事なのは笑顔
  • 内面を磨く努力!!

などである。

 うん…こうして書かれると、「相手の意図を尊重する」を優先しすぎて自分の感情を抑圧してしまうといちいち振り回される気がする。本気で疲弊しそう。

 ゆえに瑠璃子はこういう考えを持つに至る。

どう受け取るか あたしが決めていいんだって ずっと自分に言い聞かせてきた…のかも

 

 しかし、これは瑠璃子の身の処し方、考え方であるように思われる。

 言った側の「そんなつもりで言ったんじゃなかったんだけど…」という問題は残る。

 白河という女性教師は、瑠璃子を評価する言葉を同僚の神田に言おうとして、「アザがあるのに」「普通に友達が多い」「でも良かった」などのワードを入れてしまい、疑問を抱かれてしまう。

 白河は素直な言葉、しかも前向きな評価の言葉を口に出しているつもりなのに、なんとなく妙な特別視をしたり、場合によっては差別的とも取れるニュアンスを生んでしまう。そのために白河は瑠璃子についての評価の言葉が紡げなくなってしまうのである。

 そしてその話を瑠璃子(青山瑠璃子)本人に伝える際に、

今まで周りに青山さんみたいな人いなかったからどうしたらいいのか…

とつぶやくのだが、言ったそばから白河は

あ 青山さんみたいな人って…

と自分の発言が瑠璃子をまたしても、奇妙な取り扱いをしているのではないかと不安になる。しかし、瑠璃子はすぐに伝える。

大丈夫です わかってます 答えてくれたことも嬉しいし 伝えてくれてありがとう…って思います

 つまりコミュニケーションしか解決策はない、ということである。

 瑠璃子が空気を読んで自分の感情を抑えていたことについてそれは孤独に陥ってくる罠であることに気づき、まずは自分が何を感じているかを自分に伝えてあげようというトレーニングをしているのだと白河に伝える。その際、白河は、

青山さんは 

強いね!

と満面の笑顔で悪気なく言う。しかし、瑠璃子はすかさず

あたし “強い”って言われるの嫌です

と述べ、白河が褒め言葉を述べてくれたことを了解していると言いつつ、自分のモヤりを素直に伝えたのである。

 白河はすぐにその意図に気づき、「あっ」と声をあげ、

伝えてくれてありがとう

と答えた。瑠璃子はうまく伝わったと明るい表情をする。

 

 面倒くせえな、と正直に言えば思う。

 リアルな自分の近所・職場を思い浮かべて「今の発言、ぼく的にはモヤりましたよ」と伝えてもトラブルの種になるだけじゃないのか? とは思う。

 また、ネット社会を見ていると、誰かのツイートとかに、「自分の素直な気持ち」を即レスしてしまうことが何かプラスになるようにも思えない。

 だけど、たぶん瑠璃子が言っているのはもう少しダメージの大きい発言についてなんだろうと思うし、ネットのような顔も見えないし、信頼関係もないような関係を想定して瑠璃子はモノを言ってるんじゃないよな、とも思う。

 これだけ感情を表現することが微細な領域まで発達している世の中では、コミュニケーションにはコストがかからざるを得ない。そう言えばネガティブに聞こえるだろうが、丁寧にコミュニケーションをすれば相応の相互理解を得られる、ということに他ならない。

 

 この問題は、ヤマシタトモコ『違国日記』8でも取りざたされていた。

 

 

 親を失った高校生(女子)・朝の親友・えみりは女性である。えみりには同性の恋人がいる。それを初めて朝に打ち明ける。えみりは、朝が行ったことも含めてこれまで自分が言われてきて傷ついたことを思い出す。

 それについて、朝は何か反論しようとするが、やめる。そしてこうつぶやく。

えみりが何で傷つくかは……

…えみりが決めるんだ

…あたしじゃなくて

 えみりは傷ついたことを伝えざるを得ない。えみりが「えみり」になるために。

 えみりは、顔を手で覆いながらつぶやく。

…あたしはただ

あたしでいたい

なりたいあたしに

なりたいだけ……

 いろいろあっても、これがフェミニズムの原点であり、そのための障害物と闘争としようという思想なのだろうとぼくは理解している。

 だけど、傷ついた自分がいて、人としての尊厳が侵されている、つまり人権が侵害されていると感じたとして、世の中ではそのすべてが自明なこととして通用するわけではない。こうかくと語弊がある。その8割くらいはたぶんまっとうな主張なんだろう。だけど2割は自明ではない。行き過ぎだったり、他の人の権利を今度は押さえつけたりする。

 だから、ぼくらが暮らす生活圏においてはコミュニケーションが必要になってくる。

 不快さを伝え、相手と議論する。相手が納得する。もしくは譲歩する。あるいは相手は折れなくても、意思を伝えたことで尊厳を守る。ないしは、自分の主張の「横柄さ」を知るときもあろう。

 だが、まずは言葉に出してコミュニケーションをしろ、というのは、やはり正しい。少なくとも生活圏においては

 

 しかし、広い社会に漕ぎ出してみれば、どうだろうか。

 「マイクロアグレッション」のようなことに、違和感や不快感を抱いたら、声を上げるべきだ、という考えはあろう。そして、基本的にぼくは、例えば女性が生きていく上での違和感や不快感は表現すべきだと思っている。

 例えば「性的に見られることの不快感」については、ずっと前からそういう意見をぼくは知らなかったわけではない。だけど、それほど過大視してこなかったから、ここ数年で大きな声としてネットや一般社会であげられるようになって、自分の過去の言動も含めて、相当な不快感を与えていたし、自分にはそういう自覚が薄かったなとは思った。

 ただ、次に、そこから進んで「保護されるべき人権・法益」のようなものとして、表現を規制したりするところまでいくのには、少なくとも現時点ではぼくは同意しない。

 「マイクロアグレッション」という言葉を使うとき、問題を提起し運動を起こす側としては「問題の所在」を明らかにする上ではとても便利な概念だとは思うのだが、そこから直ちに問題を提起した側の提起が正当化されて法律で保護されるべき利益になるわけではない。例えば「この表現は女性の尊厳を貶めるものであり、女性の人権を侵害する表現だから、この表現は撤回されるべきだ」というふうに。

 

 広い社会でコミュニケーションを取り合って相互理解に達するのは相当な困難があるから(あきらめるべきではないとは思うが)、表現や言論の自由を前提に棲み分けるしかない。*1

 

 具体的にはどうするのか。広い社会において、例えば「女性を性的な対象とだけ見るような表現は不快である」ということを、表現の規制によらずに、粘り強く伝え続ける・声をあげ続けるというのは、意味があるということだ。そういう中で人々の意識が変わってくるからであり、それが「表現の自由市場」の大切さなのだ。

 

 

 

 

*1:ゾーニングしろという意味ではない。

井上圭壯・藤原正範『日本社会福祉史』

 「○○主義について話してほしい」という珍しい依頼を若い人たちから受けた。

 資本主義とか社会主義とか科学的社会主義とか新自由主義とか、「主義」ばっかりいっぱい出てきてよくわからない、というわけである。

 ただ、よく意図を聞いてみると、基本的には資本主義と社会主義の違いがよくわからないということなので、資本主義の中に新しい社会=社会主義の萌芽が育っていく、その萌芽を見つけて育てる(社会の発展法則を見つけてそれを促進する)のが科学的社会主義である、ということを話そうと思い、資本主義の中に生まれる社会主義の芽について話そうと思った。

  • 社会保障制度
  • 労働時間の短縮
  • 経済の合理的規制

の3つが特にそうだ、というのがぼくの話の核心。

 資本主義と社会主義を全く別物だと感じている人が多かった。

 しかし今取り組んでいるいろんな運動は未来の社会のパーツを作っているようなものなのだ。そこを実感してほしかった。

 この核心は伝わったようで、学習会そのものは大変好評だった。とにかくわかりやすく最初に20分だけ話して、あとは質問を受け付けて答えるようにした。

 それでその学習会の準備のために、資本主義日本の中で社会保障がどう育ってきたかを自分なりに整理しようと思い、何冊か本を読んだ。もちろんそういうことを学習会でそのまま話すわけではない。実際この本で学んだことはほとんど学習会の中では話さなかったが、自分なりに問題を整理する上で役立ったので、メモとしてここに書いておく。

 主に、井上圭壯・藤原正範『日本社会福祉史』(勁草書房)のノートのようなものである。

 

 

 

明治初期の慈善事業

この時期は、明治初期の近代国家の形成期から明治20年代の産業革命期頃までの時期に当たる。「慈恵慈善事業」と呼ぶこともある。生活困窮者は、家族や親族、近隣や地域社会の自助努力や相互扶助によって救済すべきであること、救貧制度は国家の社会的責任において行う性格のものではなく、富裕層や篤志家等による慈恵的な事業である、などが強調された。(p.1)

 「生活困窮者は、家族や親族、近隣や地域社会の自助努力や相互扶助によって救済すべき」って、自民党の政治家の頭の中はこの頃のままなんか…。

 1874年に「恤救(じゅっきゅう)規則」が制定される。幕府・諸藩の慈恵策を天皇制国家が再編したもので1931(昭和6)年まで「わが国の唯一の公的扶助法として存続した」(p.2)。「恤」とは「あわれむこと」。

一、極貧の者独身にて廃疾に罹り産業を営む能はさる者

一、同独身にて七十年以上の者重病或は老衰して産業を営む能はさる者

一、同独身にて廃疾に罹り産業を営む能はさる者

一、同独身にて十三年以下の者

 給与米の給付による救済。救済率は1911年で0.05パーミル(救済人員で2718人)。今の生活保護の受給率は1.64パーセントだから16.4パーミル。328倍。

 地租改正やったり伊藤博文が初代首相になったりと、まだ近代的な中央集権国家を作っている最中だな。

 

産業革命期の慈善事業

明治20年代は、わが国の産業革命期に当たる。国の社会福祉に対する消極的な姿勢から、1890年12月の第1回帝国議会に、「恤救規則」に代わる救貧法案として「窮民救助法」案が提出されたものの立法化までには至らず、公的救済政策は「恤救規則」体制が続いた。この時期の特徴として、宗教家や篤志家による民間の慈善事業が児童施設を中心に広がったことが挙げられる。(p.3)

 国家による救済制度をつくろうとして失敗し、引き続き、ごくごくごくごく一部の人しか救済しない「恤救規則」での「救済」が続いたということだ。事実上、何もやっていないと言える。

 この時期は、日清・日露戦争の頃まで。都市では資本主義化が進み、農村では寄生地主制が確立。都市でのスラムの出現と、農村の窮乏化。横山源之助『日本之下層社会』もこの頃(1899年)。

 ただし、日清・日露戦争があったので軍人には「下士兵卒家族救助令」が出て、出征軍人に限り国の公的扶助が義務付けられた。

 

明治末期の感化救済事業

この時期は、日露戦争後の1905年頃から、1920年頃に成立する社会事業までの間である。明治末期、政府は、高まる社会問題や社会運動に対応するために、天皇制国家体制を強化し地域の再編によって乗り切ろうとした。感化救済事業に、社会運動の防波堤の役割を期待し、善良な国民づくりのための感化訓育を測ろうとした。それまでの民間の慈善事業は次第に国家の統制のもとに組み込まれ、国の救貧行政を代替した。(p.4)

 日露戦争で大量の死傷者も出て、いよいよ貧困は大きな社会問題となり、社会運動が起きてくるんだが、大逆事件(1911年)のように弾圧をもって迎えるわけだ。で、民間にあった慈善事業とかを国家の影響下において「感化」事業にする。現在の更生事業ではあるが名前からして、非行するような奴らの思想を直そうという姿勢が前面に出ている。「正しい」道に導き、それを慈善事業やボランティアでの助け合いでなんとかしようとしたわけだな。思想教育+地域の助け合い。

 

1908年、政府は「国費救助ノ濫費矯正方ノ件」と題する内務省地方局長通帳を発したが、貧困や社会問題に対し社会的原因を認めず、救貧政策において国費救助を抑制しようとするもので、公的救済の放棄を意味した。代わって、「隣保相扶ノ情誼」を強め、共同体での相互扶助と地方自治体に救貧責任を転嫁した。(p.5)

 うぉーい! これもどっかで見た光景だわ!

 「そいつの性根を直して、助け合わせればなんとなる!」っていうのは、日本のブルジョアジーに抜きがたい発想なのだなあ。

 

大正期の社会事業

1920年頃から社会事業の名称が一般に用いられた。1918年の米騒動は、わが国の初めての本格的な民衆運動となったばかりか、原敬内閣を成立させ、それまでの専制政治に代わって政党政治が始まるきっかけをつくった。国民は民主主義と生存権への願いを強めた。社会福祉の思想においても公的扶助義務の考えが現れた。すなわち、貧困問題を個人の責任に帰することだけではなく「社会貧」と見て。その解決には「社会的連帯責任」の必要性を認識するに至った(『社会事業』第5巻第1号、1921年)。これまでにはなかった「社会改良」「労使協調」などをうたった新しい社会事業が展開された。(p.5-6)

 やっと…。そして、米騒動という民衆運動が事態を動かしていることがわかる。

 「社会的連帯責任」というのとさっきあげた「隣保相扶ノ情誼」=「助け合い」は似ていると思うのだが、前者は貧困の責任が社会にあることを見て、その流れで社会連帯を説くのに対して、後者は徹頭徹尾自己責任のもとにあり、思想を善導するという中での助け合いなのであろう。いわばベースは「愛」=慈善である。

 この時期はいろいろ前進面が多い。

(1)工場法(1916年)

 弱点はあるけども、初めての労働者保護法である。

(2)社会事業その1:経済保護事業

 なんのことかわからないと思うけど、都市の貧困層の生活困難への対策である。具体的には公設市場、公益質屋、公営住宅だ。

 公営住宅はわかる。

 「公設市場」って何か。「食料品や日用品を廉価に供給することを目的とした施設」(p.66)。米騒動で価格が釣り上げられたことが強く意識されている。ぼくの学生時代に、京都で大学の近くに「公設市場」があった(どうも2006年に市の条例が廃止されているようだ)。

 「公益質屋」ってなんだろう。「社会福祉事業の一環として設置される非営利的な庶民金融機関。私営質屋と比較すると、低利率であること、流質期限が長いこと、公売剰余金の返還など、質置主本位の制度となっている」(小学館日本大百科全書(ニッポニカ)』)。2000年に公益質屋法は廃止されている。

 このほか、失業保護として、職業紹介事業、公共土木事業が生まれた。はあ、なるほど。この頃に生まれた事業なのか。

(3)社会事業その2:乳幼児・児童・母子保健事業

 今の事業はわかるけど、この本では当時(大正期)どんな事業をやっていたのかは詳述されていない。

(4)社会事業その3:国民一般を対象とした医療保護事業

 これも大正期の記述としてはあまり他に詳しく書かれていない。

(5)方面委員制度

 「この制度は、知事が地域に住む民間の篤志家等に、その地域住民の救貧活動を委嘱するというもので、今日の民生・児童委員制度の源となった」(p.6)。「この時期に誕生した方面委員制度は特筆される」「個人の生活援助を内容とする社会事業の推進において地域委員の役割は大きいものであった」(同前)とあるように当時としては非常に重要な役割を担ったのであろう。

 やはり「地域に住む民間の篤志家等」=地元の名士に頼むのが民生委員の源流であったから、一種の名誉職的な意味がもともとあったわけだ。「顔役が面倒を見る」という感じの制度で、まあ、原始的な福祉としては機能したけど、このフレームでは今日厳しいよなと思う。あくまでも相互扶助的なもの。

 しかし、この制度の積極面がこの本では大きく評価され、行政と連携して救護される人の調査と救済方法の探求を一生懸命やっているという実をあげている。

方面委員は行政の事業を肩代わりする役割を担ったが、地域の相談活動も展開した。(p.7)

 

昭和恐慌期の社会事業

 昭和の初め(1927年頃)〜1937年頃。昭和恐慌、満州事変、日中戦争という時期。

 小作争議が高まり、無産者診療所、無産託児所なども開かれたが、弾圧。

 「恤救規則」では貧困層を全く救えずにこの体制が破綻。

 内務省の諮問機関が、対象を広げ、国・地方公共団体の公的扶助義務を明確にした「救護法」を答申するが、実現が頓挫しかかる。

1930年、全国の方面委員らが中心となって実施期成同盟会が結成され、議会への実施要望の陳情などの活動を展開し、天皇への上奏までを決意した。その甲斐もあって1932年1月から実施された。…地域において直接生活困窮者と接していた方面委員が組織的に活動を継続し、ついに政府を動かしたことは画期的なことであった。(p.8-9)

 救護人員は1931年で1.8万人、1936年には22.5万人に達した。

しかし、前年の1935年、方面委員が援助対象者として登録した数は206万人であったので、救護を必要とした人の1割しか適用を受けられなかった。(p.9)

 今生活保護は200万人だから、その10分の1。それでも「恤救」制度に比べれば大前進だなあと思う。間接的には労働運動・農民運動、そして直接的には方面委員の陳情が政府を動かした。戦前においても声をあげることで政治が変わる。

「救護法」が定めた日救護者は、「一、六十五歳以上ノ老衰者、二、十三歳以下ノ幼者、三、妊産婦、四、不具廃疾、疾病、傷痍其ノ他生活スルコト能ハザルトキ」は、本法によって救護する(第1条)としている。労働能力のある者は救貧制度より除外した。また、被救護者は選挙権が停止された。救護の種類を「生活扶助、医療、助産、生業扶助」まで拡大し、救護費は市町村の負担とし国庫が「二分ノ一以内」を補助することを定めた。(p.9)

 選挙権停止! まさに二級市民扱い…。

 しかし、こういうひどい中身を持ちながらも、歴史はまだら模様のようになって、あるいはジグザグに、時にはトンボ返りしながら前進する。そのことを如実に示すのは、次の日中戦争、太平洋戦争期になり、国民を戦争に総動員する体制の中で、逆に戦時厚生事業が整備されるという事実だ。

 

日中・太平洋戦争期の戦時厚生事業

1938年4月には「国家総動員法」が公布され、あらゆる国民生活は戦時体制へ組み込まれた。1938年7月から「社会事業法」が施行され、私設社会事業に対する公的な補助が制度化された。そこでは、私設社会事業の範囲を定め、政府が予算の許す限り補助することができることなどを規定した。「救護法」の委託施設になった場合、委託費の需給によって事業費の負担軽減にはなったものの分配額はわずかで実効性が乏しかった。同年には「国民健康保険法」も制定され、「健康保険法」の対象にならない国民を対象とした。皮肉にも、戦時下の社会事業は限定主義、劣等処遇をこえて普遍主義を採ることとなった。(p.10)

 優秀な兵士を確保し、人的資源を保護育成しようとする政府の意図が、国民皆保険社会保障整備の核をつくっていく。

 しかし「だから戦争は社会を発展させる」と結論づけるのは早計で、「予算制約をせずに強力に推進すれば社会は発展する」というのが正解である(「戦争は科学技術を発展させる」という誤りも同じ)。

 

 

 

 

 

「やってる」感だけの空手形

 …っていうタイトルのエッセイを「日本とコリア」第252号(2021年10月1日号、日本コリア協会・福岡発行)に掲載していただきました(「これでいいのかニッポン!」というコーナーです)。

 日本政府は2050年までに温室効果ガス排出実質ゼロを打ち出していますが、福岡市はそれより10年早く2040年ゼロを打ち出しています。

 これは画期的なことだと思うんです。

 問題は中身ですよね。

 本当にやれるの? やる気があるの?

 …というのを、書いています。

 中身はぜひ同号を読んでほしいんですが、関連してお知らせしておきますと、同じく福岡市の気候危機への対応問題で、堀内徹夫市議(共産党)が10月6日の午後1時50分から決算特別委員会総会で質問を行います。堀内市議によると新事実をもとに追及するということであり、どういうやりとりになるか、大変楽しみです。

 

 このハナシ、別の角度からいうと、自治体は「計画」をまじめにやっているのか? という問題なのです。

 自治体は、市政運営の基本を長期の視点で定める「総合計画」をはじめ、たくさんの計画を策定します。

 今回問題にした気候危機打開は、福岡市では「福岡市地球温暖化対策実行計画」というものに定められています。

 しかし、これはとてもいい加減で、今の計画は2016年に策定されていますが、それ以前の計画では福岡市で温室効果ガスを総量でいくら削減するのかさえ決めていませんでした。2016年の計画でようやく総量でどれだけを規制するのかという目標値が入ったのです。しかしそれとて、2030年度に2013年度比で28%削減、2050年度に80%削減というものでした。

 

 さらに問題なのは、目標を定めても、それを本気でやれる仕掛けになっているのだろうかという問題があります。

 この「福岡市地球温暖化対策実行計画」というのは、「福岡市環境基本計画」の部門計画、つまり下のクラスの計画でしかありません。

 じゃあ「福岡市環境基本計画」というのは最高の計画なのかといえば、これまた「福岡市基本計画」という計画の環境パートという位置付けでしかありません。下請けの下請け、みたいな感じです。

 

 気候危機対策、とりわけ温室効果ガス排出実質ゼロなんていう目標の達成は、正直生半可な決意ではできません。生活・経済全般にわたる社会システムの大改革が必要です。おおごとなわけです。2050年の達成だってなかなか厳しい。それなのに、福岡市はそれを国よりも10年早くやろうというのです。

 野心的なのは結構ですが、実際の手立てが伴わなければ何の意味もありません。

 グレタ・トゥンベリに「なんだかんだ言っているだけで何もしていない」「空虚な言葉や約束は沈黙より悪い」って言われても仕方がないのです。

www.youtube.com

 開発計画や交通計画、経済政策が変わらなければ、しかも大きく変わらなければ、およそ達成などできません。

 「達成できる」と高島宗一郎・福岡市長はおっしゃるかも知れませんが、それならそれでいいんです。達成できるという根拠や数字を市民の前に出していただき、あまたある福岡市の計画・施策すべてを、「2040年排出ゼロ」と整合的なものにできるのであれば。

 このあたりが堀内市議の質問で暴かれると思います。

 

 斎藤幸平じゃありませんが、「福岡市地球温暖化対策実行計画」って、もし本気でやろうと思ったら、それ1本だけで社会を全分野にわたって大改革する政権、ひょっとしたら社会主義政権ができてしまうんじゃないかっていうくらいスゴイものだと思います。あくまで本気やろうとしたら、ですけど。

 「温暖化対策実行計画」だけじゃありません。

 例えば、子どもの貧困対策法に基づいて市町村は「子どもの貧困対策計画」っていうのを策定することになっています(努力義務)。

www8.cao.go.jp

 

 もし本当に子どもの貧困をなくす、いや一定の削減をするための目標を掲げ、そのための施策をやったとしましょう。そうなると、地域経済全体を底上げしつつ、実際に家計への所得が増え、しかも低所得層に回るように政策を取らねばなりません。加えて、現金などの直接支援が抜本的に増やされる必要があります。実際に貧困を削減する相当大胆な社会改革となるでしょう。

 しかし実際には、「学習支援をします」「朝ごはんを提供するNPOを支援します」程度のものだけでお茶を濁されることが多いのです(いや、それ自体は大事ですよ。それしか行わないという政策レベルを問題にしています)。

 

 こんなふうに、「計画」の目標を真剣に考え、市民とともに策定し、その達成に本気で、まじめに取り組めば、実はものすごい成果が得られるはずなのですが、おおもとの国政自体がそのような構えをとっていません。その流れを受けるほとんどの自治体で、同じように“諸計画を本気でやらない病”が蔓延しているのです。

 

 「月刊ガバナンス」2021年10月号は、「コロナ禍の自治体計画」を特集しています。

 

 ここで今井照・地方自治総合研究所主任研究員が紹介していますが、自治体が策定する計画が激増しています。これは近年、福田紀彦・川崎市長が「問題」にし、国へ要望書をあげています。

https://www.pref.saitama.lg.jp/documents/151337/08-kawasaki3.pdf

 

 下記は今井の論文にある表です。その増加ぶりはわかると思います。

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今井照「国法による自治体計画策定要請の現状と対処法」/「月刊ガバナンス」N0.246所収、ぎょうせい

 今井は

計画策定要請が唐突に「降ってきた」ら、できるだけ手を抜くことも選択肢としてありうる。(p.19)

と露骨に言っています。現状の枠内で考えればそうなってしまうんでしょうね。

 

 同じ号で、高崎経済大学教授の佐藤徹は「行政計画あるある」という3つの特徴を書いています。これ、けっこう「あるある」なんですよね。

第1に、総じて行政計画の参照頻度はさほど高くはない。自治体では「計画のインフレ」状態にあると言われるほど、実に多種多様な行政計画があふれている。〔…中略…〕策定後は時間の計画とともに計画の存在感が希薄になっていく。計画を所管している部署の職員でさえ、異動になってはじめて当該計画を見たという職員も少なくない。計画に対する職員の認識でさえ、このような状況であるから、お世辞にもその計画は住民にとって身近な存在だとは言い難い。(p.24)

 実際の行政では参照されていないというわけです。

 さらに、

第2に、おかしな成果指標が設定されている。

 ぼくは、福岡市の男女共同参画基本計画を見ましたが、「あらゆる年代・性別で男女共同参画意識が浸透した社会 」というのを「基本目標1」として立てているのです。「意識が浸透」という目標自体が微妙ですが、その成果指標はどうなっているかといえば、「『男性は仕事、女性は家庭』という考え方に否定的な人の割合」を現行の男性68.2%、女性76.5%から「男性80%、女性80%」に引き上げるというだけなのです。女性なんかたった3.5ポイントですよ? しかもなぜ意識調査?

 5つある目標のうち3つまでは「理解度」「認知度」など意識調査のパーセンテージをあげるという成果指標になっています。客観的な現実をなぜ変えようとしないのでしょうか。それは「やってる」感がでないからでしょう。

第3に、目標値の設定根拠があまり知られていない。

 これがまさに今回の「温暖化対策実行計画」見直しです。

 なぜ2040年にゼロ? どうやってゼロに? というあたりが不明なのです。

 

 この「月刊ガバナンス」では何人かの識者が自治体の計画をどうするかについて論文を書いているのですが、率直に言って「現実主義」の名のもとに「現状の枠内での微調整」にとどまる話ばかりでした。なるほど、計画が多すぎ、不要・不急なものがあれば、それは手をつけなかったり、統合したりすればいいとは思います。

 しかし、問題はそこじゃないと思うんですよね。

 仮に策定しなければならない計画数が減ったとしても、国の意向に沿った「ほどほど」の計画しか立てられなかったり、コンサルや原局の「作文」で終わったりしたら意味がないわけです。

 特に今回のような気候危機打開という、社会システムの大改革をやらねばならないような問題は、自治体としてどう向き合い、計画をどう策定し、実際にどう実行するのかを真剣に追求しないといけないと思うのです。

 「やってる」感だけの空手形はもう要らないのです。

 

松田舞『ひかるイン・ザ・ライト!』1

 「漫画アクション」で真っ先に読む作品の一つ。

 「歌がうまい」という中学3年生がアイドルをめざす話。

 

絵柄

 この作品に惹きつけられた第一の理由は、やっぱり絵柄。シンプルでかわいいんだよ。

 手や指がいいね。表紙もそうだけど、1巻では主人公・荻野ひかるの近所の友だち(少し上級生)で、かつ、人気アイドルグループにいた西川蘭からアイドルの世界に来ないかと誘われるシーンで示される手と、ひかるがオーディションで審査員に見せる手のカットが印象的。

 

才能をめぐる物語 自分=ぼくが重なるのか?

 第二は才能をめぐる物語だから。

 ぼくはこの物語をどういう視点で見ているのか少し不思議になる。

 先に、矛盾する要素を並べてみよう。

 ぼくはひかるを応援する立ち位置で基本的にこの作品を読んでいる。「ひかる、ガンバレ!」と。だからオーディションで受かるかどうかハラハラするし、審査の言葉をドキドキしながら「聞いて」いる。

 だけど、ひかるは全く自分とは別の存在ではない。ひかるのドキドキは自分=ぼくのことであるかのようだ。

 変だな、と思う。ひかるの家では、祖父がやっている銭湯でひかるは掃除の時に美しい歌声を響かせ、それは小さい頃から蘭をはじめ近所の人たちを魅了している。おそらく相当な才能であろうことは、オーディションの様子を見てもわかる。だけどぼくにそんな歌の才能は微塵もない。だから、いわば「天才の萌芽」に自分を重ねることなどないはずなのだ

 じゃあ、なぜひかるを自分=ぼくに重ねてしまうのだろう?

 でもひかるは踊りはそんなに上手くないんだよ。それだけじゃなくて、アイドルが必要とする武器をまだほとんど持っていない。

 だけどそれを自覚して、ひかるは少なくとも1巻では努力を始める。

 じゃあ、先天的な「才能」はなくとも後天的な「努力」ということが重なるのだろうか。

 実は、ダンスだって体幹がしっかりしていないといけないのだが、作品ではひかるの日常がそれを鍛えるという基礎を持っているかも知れないと予感させるコマやセリフがちょいちょい入る。ここでも、「自分とは違う基礎を持っている」と思ってしまう要素がある。

 だけどどうして、やっぱりひかるに自分=ぼくを重ねがちなのだろうか?

 とまあそんな具合にいろいろ考えてみたんだけど、自分に自信がある「根拠地」「基地」というものがスタート地点として自分の中にある、というのがとても大事なことではないかなと思った。ひかるの場合はそういう根拠となる「歌」の才能が「天才」に近いものなんだけど、ぼくも「自信」を持っている領域というものは確かにある(豆粒のようなものだが)。そこを根拠地にしながらも努力によって、さらに成長しようとしているひかるの姿に、「理想化されたぼく自身」あるいは「こうなりたいぼく自身」を見るのではなかろうか。ひかるが扱うテーマが抽象化され、ひかるほどは大層なもんじゃないけど、自分=ぼくのところにも「降りて」くるのである。

 

 この「ひかるとぼくが重なるか重ならないか」という話題に関連して、1点。

 アマゾンのカスタマーズレビューのトップ(2021年10月3日時点)に

これが一般の女生徒のラブコメや日常物なら問題のない絵ですけど「何の変哲もない普通の子をアイドルに仕立て上げるのはもうやめよう」と言って「特別な子」を選出するオーディションなのに主人公をはじめヒロインたちに特別感がまるでない(笑)。本作は仮にアニメやゲームに展開してもこんな地味っ子たちでは売れないでしょうなあ。

とあるのは、一理ないわけではないが、「特別な子」が自分と地続きであるということをどこかに残すべき設定にしておくべきであれば、むしろ現在のグラフィックはベストだと言えよう。

 

苛酷な世界のはずだけど

 第三は、オーディション=生存競争という環境が、ぼくたちの生きている世界の濃縮版だから。

 自分は「特別な人」になろうとするひかる。そしてそういう世界の選別のオーディションで「絶対に生き残る」と強い決意を示す。

 ほのぼのとした絵柄とは対照的に設定されている世界は苛酷だ。

 「一緒にアイドルになろう」と手を差し伸べてくれた蘭と一緒にオーディションを受ける。だけどそれは「共同」ではない。蘭からダンスを教えてもらうけど、ひかるはすぐにそれを甘えだと思って独りで乗り切ろうとする。得意にしていた銭湯で歌うことも、それを居場所とする「甘え」をすっぱりと断つ決意をしてしまう。

 自分は他と違う「特別な人」になる。

 まわりで理解を示したり、支えたりする合図を出してくれる人はいるけども、ひかるの生存競争はとても孤独である。

 ある種のスポーツマンガでも同じようなことは言えるけども、自助と自己責任の空気が強い。不安の中で、凭れかかることができるのは自分しかないということが1巻ではいつでも強調される。

 左翼のぼくが政治のステージでたたかっているものはまさにこれなのだが、だからと言って本作やそういうスポーツマンガが直ちに不快なわけではない。むしろぼくらが暮らしている世界の濃縮であり、ヒリヒリするような焦燥は世界のリアルだ。

 評価され、「特別な人」になり、そのために誰の力も借りずに、自分の才能と努力で、苛酷な生存競争を勝ち抜きたい——こう並べると「どんな新自由主義的世界観だよ」と笑い出したくなるが、そこにリアルさを感じ、自分中に沈殿している欲望をかき回され、ドキドキしているぼくがいることも確かなのだ。

 この作品は、最後まで一人の力が強調されるかも知れないし、何かリアルな共同ということが示されるかも知れない。それは楽しみにとっておこう。

 

 ぼくは久遠まこと・玉井次郎『ソープランドでボーイをしていました』を評した時、『神聖喜劇』について触れ、こう述べた。

 賃労働として賃金が保証される側面と、個人事業主的な扱いで労働法の保護が及ばない側面が同居している。
 これは、現代の労働世界の縮図であり、典型化された形象である
 ふつうはモノがいえない、ベテランとして職場の不可欠の一部となってはじめて交渉力が生じる、という世界だ。
 この職場で「労働法を守らせる」ということの言い出しにくさは、一般の企業でそのことを言い出しにくい空気とほとほとよく似ている。
 軍隊の生活を描いた大西巨人の小説『神聖喜劇』は、軍隊を一般社会から隔絶された特殊な無法地帯として描く野間宏『真空地帯』への批判を意識している。
 『神聖喜劇』の主人公・東堂太郎が、軍隊内の生活マニュアルである「軍隊内務書」の

兵営生活ハ軍隊成立ノ要素ト戦時ノ要求トニ基ヅキタル特殊ノ境涯ナリト雖モ社会ノ道義ト個人ノ操守トニ至リテハ軍隊ニ在ルガ為ニ其ノ趨舎ヲ異ニスルコトナシ

を引用し、軍隊生活と一般社会が地続きであることをしばしば強調する。
 同じことだ。
 ソープランドのボーイの「モノの言えなさ」は、ぼくらの職場での「モノの言えなさ」そのものなのである。

  同じである。この作品はアイドルを描きながら、この世界そのものなのである。

 

M・葉山のこと

 ところで作品の中で、一貫して審査員をつとめ、ひかるを論評するM・葉山の、時に冷たく、時に希望に満ちた言葉は、この作品世界では絶対の位置を与えられており、いわば神の言葉である。

 いわゆる「オネエ」言葉で語られる「神の言葉」は、アイドルの論評にニュートラルな印象をもたらし、その神々しさを一層際立たせている。

 よい。

消費税減税政権だ

 これはすごい、と素直に思う。

 歴史的な合意だ。

www.jiji.com

衆院選後に立民中心の政権が樹立された場合の共産との関わり方について、枝野氏は「消費税減税」や「安全保障法制の違憲部分の廃止」など、民間団体「市民連合」と合意した政策の実現に限定した閣外からの協力を提案志位氏は「全面的に賛同する」と応じた衆院選での選挙協力を強化していくことでも合意した。(強調は引用者)

 「市民連合」との野党共通政策が合意された9月8日の段階では、政権合意も、選挙協力合意もなく、単に各党がそれぞれ「市民連合」と確認しただけのものでしかなかった。志位和夫はこれを称して「この合意によって市民と野党の共闘の政策的な旗印が立派に立った」と言祝いだものの、逆に言えばただの「旗印」だった。極端なことを言えば、各党がそれぞれてんでバラバラに競い合ったとしても、この政策部分ではどの党も努力しているというほどのものであり、いわば「野党各党の公約の最大公約数」を意味するにすぎなかった。

 それがここにきて共産・立憲という政党間の政権合意、選挙協力合意へと明確な形をとり、共同で国民に責任を持つ約束へと変わったのである。

 

 

 他でもない、冒頭の時事通信の記事でも注目されているように、この政権は消費税減税を明確に打ち出すことになる。

 いわば「消費税減税政権」である。

 

所得、法人、資産の税制、および社会保険料負担を見直し、消費税減税を行い、富裕層の負担を強化するなど公平な税制を実現し、また低所得層や中間層への再分配を強化する。(野党共通政策より)

 この点では野党共通政策に加わらなかった国民民主も同じ旗印である。

 野党はそろって、堂々とこの旗を立てて、自民・公明と対決できる。

 

 ぼくは常々、安倍内閣をはじめ自民・公明政権の支持率が高かったのは、魅力的なオルタナティブがないせいだと言ってきて、早く野党が連合政権の合意をつくるべきだと述べてきた。

kamiyakenkyujo.hatenablog.com

 だから、政権を追及する重要性は理解するものの、政権合意がなければこの状況は根本的に打開できないと考え、合意をつくる方向で訴えもしてきたし、自身のささやかな政治活動でも努力をしてきた。

 それがついにこのような形で実ったわけである。

 画期的であるし、慶賀にたえないというしかない。

 全くもって素晴らしい。

 もちろん、こうした合意ができたから、明日からすぐ風向きが変わるというものでもあるまい。これからの地道な努力で「うん、どうもこちらの方がいいみたいだし、政権が取れそうな現実味があるぞ」と思ってもらわなければならないのだが。

 しかし、貴重な一歩を踏み出したということである。政権合意があるのとないのとでは天と地ほどの開きがある。政権合意はできたのである。

 

 

歴史上なかなか例を見ない民主主義の挑戦

 政策項目を限定しての閣外協力ということだから、

  • 共産党は閣僚にはならない。
  • 共産が協力するのも野党共通政策部分だけ。
  • それ以外の点は立憲民主がつくる政権としての決定には関与できない。
  • だが、共産党として責任を持つ野党共通政策の実現を実行する装置として、立憲民主がつくる政権はその成立に協力する。

ということになるのだろう。すごく機械的に言えば。

 国民投票法改定案とか、コロナ特措法改定案とか、そういうものでは立憲民主と共産の対応は割れた。例えば共産党にとってみれば「それはマズイよ」というようなものは手が出せないし、通ってしまうわけである。

 しかし、野党共通政策は実は幅広い。

 例えば、コロナ特措法を改定して罰則を設ける、というようなもの(もう通ってしまっているわけだが)は全く共産党は閣外でモノが言えないかというとそうでもない。

 野党共通政策には、

  • 従来の医療費削減政策を転換し、医療・公衆衛生の整備を迅速に進める。
  • 〔中略〕
  • コロナ禍による倒産、失業などの打撃を受けた人や企業を救うため、万全の財政支援を行う。

という条文がある。

 “罰則導入は、こういう条項に反するではないか”という介入をすることはできる。

 ただ、明文でないから弱いわけだが。

 …とまあそういうやりとりが考えられる。

 どうせなら、国民民主も共産と同じように「限定的な閣外協力」をやってみてはどうだろうか。

 こう考えてみると、「限定的な閣外協力」というやり方は、なかなか味のある、そして日本の歴史上はなかなか例を見ない民主主義の挑戦だということになる。

 

 どっちにしたって、「消費税は当分いじらない」と公言する「岸田政権」と「消費税減税、賛成か反対か」で大いに勝負したらいい。実に楽しみだ。*1

*1:財源問題では、共産党法人税を安倍政権前に戻すなどを掲げている。立憲民主党は、消費税減税は5年の時限なので国債でまかなう方向のようだ。ただし税制については法人税累進課税化も挙げている。そう考えると共産党との間に大きな方向では一致もあるが、違いもある。そこは議論していけばいいだろう。

英語の授業が変わった?

 日経新聞2021年9月28日付の「受験考」の欄に「ついていけず悩む生徒」という題名で次のような記事があった。

 中学の英語についていけなくなった中2のA子が塾で中1段階の文法の基礎から丁寧にやり直してどうにか持ち直してきた矢先、中3になって再び状況が一変した。

英語の先生は同じ人だが、授業スタイルが大きく変わったという。

 同じ先生が、生徒が戸惑うほどの変わりようを見せるものだろうかと思い、興味深く先を読み進める。

 学校の授業の流れはまず英語の歌を歌い、英単語ビンゴをする。そしてチャット(2人1組で決まったフレーズを言い合うが、細かな発音指導などはしない)。さらに教科書本文の音声を聞き、簡単な和訳を教師が言う。これで授業終了。

 教科書本文はおろか受動態や現在完了形といった文法の丁寧な解説はない。しかも授業自体が英語で行われるので、A子はついていけなくなった。

 思い当たるフシがぼくにもあるのだが、娘に授業の変化を確認していないのでよくわからない。しかし、教科書を見せてもらった時、会話だらけで、文法の記述を探すのが一苦労だった記憶がある。いや、しかしそれは今年の変化だっただろうか。はっきりと覚えていない。

 

 

 つれあいは、「娘のテスト結果を見ると、厳格な語順などを要求されている。しかし、もしコミュニケーションだけを重視しているなら、おかしい」と首をひねっていた。

 確かに2学期頭の娘のテストは英語が芳しくなかった。

 間違っている箇所をみると、うっすらと文法の基礎が理解できていないような感触、崩れかけている印象がある。

 

 思い過ごしであろうか。

 確認してえ…。

アーロン・バスターニ『ラグジュアリーコミュニズム』

 ぼくらが将来について話をするとき(ぼくら自身の将来でなくても子どもや孫たちの将来について話をするときでもいい)、たいていは「暗い」未来予想図で話す。

 あろうことか、革命(選挙による政権獲得)をめざしているぼくの周りの左翼でさえ、「はあ…20年後、この子たちはまともな職にありつけるのかね」とか「年金なんかもう出ないだろうね」「地球環境とかめちゃくちゃになってると思うよ」「世の中みんな年寄りばっかりになって…社会が維持できないような状態になってるよね」などと。おいおい、お前は自分が情熱を傾けているはずの社会変革の未来をあんまし信じてないのかよ?

 日本でのこのテの未来予想は経済・生活・家計にかかわるものが多い。だけど、ヨーロッパでは、特にヨーロッパの左派の中では、日本よりもはるかに環境に関わる未来予想とかが多いんだろうね(なんの根拠もなくて、あくまでぼくの想像に過ぎないけど)。

 日本でも斎藤幸平などは、

〔気候変動を本当に止めるための〕その際の変化の目安としてしばしばいわれるのは、生活の規模を一九七〇年代後半のレベルにまで落とすことである。〔…中略…〕もちろん、こうした生活レベルを落とす未来のビジョンが、なかなか魅力的な政治的選択肢にならないことは、百も承知だ。だが、困難であるからといって、その事実から目を背けて、選挙で勝つために、受け入れられやすい「緑の経済成長」という政策パッケージに固執することは、それがどれだけ善意に基づいていても、環境配慮を装うグリーン・ウォッシングと言わざるを得ない。(斎藤幸平『人新世の「資本論」』集英社新書、KindleNo.1019-1022、強調は引用者)

と言ってるわけだし。

 本書はその暗い未来予想図を打ち砕こうとする。 

 

 

 いま進んでいる技術革新は、完全自動化で労働の欠乏をおぎない、再エネなどでエネルギーの欠乏をおぎない、宇宙開発で資源の欠乏をおぎない、遺伝子をいじって老いと健康の欠乏をおぎない、新しいタンパク食の開発などで栄養の欠乏をおぎなう…などなど、まあ異論はあろうけど、おおむねバラ色の未来を開く。

 本書の多くの部分は技術革新のバラ色を描くことに割かれている(3部構成のうちの第2部)。

 じっさい、ぼく周りの左翼の中には、こういう技術革新の未来にあまり関心がなく、どちらかといえば、そういう技術革新が現在の社会に入り込んでくることへの警戒の方が強いという人が時々いる。

 いやまあ必要な警戒はしたらいいんだけどさ。

 例えばデジタル化によって監視国家や資本による全人格的把握が進行することには必要な警戒が払われるべきだとは思う。しかし、他方で、デジタル化がもたらす恩恵や社会変革については、それなりに認識がないと、口では「デジタル化自体は必要なことです」などと言いながら、思想の根本は本当に「反デジタル」みたいな態度になっちゃうからね。

 本書が紹介する技術革新の数々は、ぼくのような門外漢にとってはまことに興味が尽きぬもので、これだけでいろいろ酒飲みの場で肴にしてみんなで盛り上がれそうである。

 本書でこの第2部が読んでいて一番読み応えのある部分、心を躍らせて読む部分である。少なくともぼくの場合。だけどそれだけだったら、まるで技術革新の紹介本みたいなことになってしまう。ビジネス書でもそんなものはたくさんある。「コミュニズム」を冠する名前の本にはできないはずだ。すなわち本書の本当の意味での意義はこの部分ではない。

 

ハンドルを左に切れ!

 技術革新がもたらす莫大な恩恵。しかし、その恩恵は、そのままでは受け取れない。その受け取りは「避けがたい未来」として自然にやってくるものではないのだ。

 選ばなければならない。選び取る政治が必要だ。

 その政治が「完全自動のラグジュアリーコミュニズム」(FALC)だ。

 こうした技術革新を無邪気に喜んで、「すばらしい未来が待ってるよ!」だけというのは、「Society5.0」であり、ぼくのいる福岡市では高島宗一郎市長がいろんなところで吹聴している方向だし、また現にそう考えてナイーブに進めている政治の中身でもある。「社会システムとしては資本主義しかないんだから、資本主義で行こうよ、この方向を加速させるだけだ」という、本書で言うところの「資本主義リアリズム」であり、「加速主義」である。

 本書は、資本主義が進める技術革新の方向を喜ぶ。そこから逃れて・逸脱したりして、別の理想社会を構想したりしない。あるいはこの動きを壊したり反動したりしない。その意味では「加速主義」の一味である。

 しかしそうやって進んでいく技術革新のハンドルを左に切る。「このまま行こう。しかしハンドルは左に!」というわけである。

 どうやってハンドルを左に切るのか?

 ここが実は本書の変革方向部分のキモである…とぼくは考える(第9章)。

 それは次のようなものだ。

  1. 選挙・投票で変える。
  2. グローバリズムに対しては国民国家という装置を使ってコントロールに参加しろ。

ということである。

 「え…当たり前じゃない?」と思う人。それでいい。

 どうしてかといえば、左派の中には往々にして「選挙では変わらない」という考えがあり、選挙による政治変革を脇に置いてしまった上でのローカルな行動や実験・実践などに「のみ」走る傾向があるからだ。著者・バスターニは、いろいろ不十分でも選挙で世の中変えようぜ、とする。

 そして、グローバリズムへの対抗をインターナショナリズムにおく。つまり、国民国家という縛りを軽視しない。国民国家をコントロールし、そこから世界の問題に関与するのである。左派の中でありがちな、国民国家への侮蔑、それはもう役に立たなくなったガラクタだ、という偏見を乗り越える。

 もちろん、バスターニのこの見解の中には、実は政党という枠組みへの批判が入っているなど、ぼくから見てそいつはおかしいんじゃねえのか、政党という中間項を否定したら人民は無力になっちまうぜ、という要素も含まれているんだが、選挙と国民国家を抜き出して擁護したのはとても正しい。そこが狂うとダメだとぼくも思うからだ。

 第10章ではFALCの根本原理、第11章では資本主義国家の改革方向が示される。いや別にそんなに難しいもんじゃない。新自由主義への対抗を意識して、次の3点に要約される。

  1. 進歩的な調達と自治体による保護主義を通じた経済の再ローカル化
  2. 金融の社会化と地方銀行のネットワーク化
  3. ユニバーサル・ベーシック・サービス(UBS)の導入による国民経済の大部分の公有化

 この3つだ(p.283)。

 この3つをバラバラに見てしまうんじゃなくて、あるいは本書に書かれている個々の案についていちゃもんをつけるんじゃなくて、共通している思想方向を感じ取るのが大事だろう。この3つが言いたいことは、経済のコントロールをできるだけローカルなものにおろしてこようという態度である。そこはぼくも共有できる。

 えっと、別の言い方をしよう。本書を批判する際に、第3部のFALCの個々の対案を批判して「ゆえにFALCには同意できない」としてしまわないことが大事だと思う。

 FALCが提起している点で大事だと思うのは、以下の2点である。

  1. 資本主義が進めている技術革新の方向には明るい未来があり、左翼としてそこは大いに進めていこうぜ、とはしゃいでいいと思うのである。左派加速主義である。
  2. だけど、技術革新がいくら進んでも、政治が変わらないとその恩恵は巨大資本が独り占めをして、どうかすれば我々を丸ごと支配し抑圧する間違った方向に使われだけになるから、政治——選挙で国政を変える、そしてできるだけローカルなコントロールを取り戻す、そういう政治をつくろうぜ。

 こういうシンプルな視点を得ることが本書の醍醐味なのだ。ぼくは左翼として、技術革新のもたらす豊穣を学び、それを生かす政治の方向を示せた点に本書の最大の長所を見出す。

 

「訳者あとがき」にみる本書への3つの批判を考える

 なお、本書の「訳者あとがき」で翻訳者である橋本智弘が本書に対する批判点3点を紹介している。

  1. 技術革新の将来に楽観的過ぎない?
  2. 選挙を特別視し過ぎていて、階級闘争を忘れてない?
  3. 「贅沢な(ラグジュアリー)コミュニズム」っていうけどその「贅沢」が何を意味するか、あんまりハッキリしてないんじゃない?

 2.は斎藤幸平が行なっている批判だとも橋本は言っている。

 ぼくなりにそれらについて言っておけば、1.は「そうだね。ちゃんと(技術の反動的利用・資本主義的利用ではなく)技術自体が内包しているマイナス面もよく考えないとね」というくらい。だけど技術革新そのものを徹底的にポジティブに書くことのインパクトは本書の魅力なのだ。

 2.は、そんなふうに言う奴こそ、選挙の大事さを忘れてない? と言いたい。選挙を通じて革命をすることが現代では大道なのだ。

 3.は、技術革新でもたらされる余剰を余暇時間の増大に回し、自由時間を増やし、そのことで人間が全面的な発達を遂げる——これが共産主義がもたらす「贅沢」の本質じゃないか? と言いたい。

 

UBSかUBIか

 さて、本書における小さな点について、最後に触れておく。

 本書ではUBI(ユニバーサル・ベーシック・インカム)とUBS(ユニバーサル・ベーシック・サービス)の比較を行なっている。

 UBIは魅力的な選択肢には違いないが、この間、ベーシックインカム竹中平蔵や維新の会が持ち出して、いわば「福祉を削るための方便」「雀の涙の手切れ金」扱いになっていてどうにも評判が悪い。うんまあ、BIは新自由主義者も左翼もどちらも肩入れできるものだから、そうなるのはしょうがないんだけどね。

 だから本書では、UBIよりもUBSに軍配をあげる。

ただたしかなのは、それ〔UBI〕がどんな結果を生むのかは、導入される政治環境に左右されることだろうということだ。進歩的あるいは社会主義的な政府のもとでは、きっとUBIは一般庶民に力を与え、より高い賃金を求める能力を人々に授けてくれるだろう。反対にそれは、福祉国家の市場化を完遂するための有力な手段とも十分なりうる。——つまり、新自由主義への代替ではなく、完全な降伏である。UBIは、解放をもたらしうる一方で、サッチャリズムの強化版にもなりうるのだ。(p.304)

だからこそ、UBSのほうがより望ましいプログラムなのだ。(p.305)

 UBSとは、医療・教育・住居・食料などといった人間の生活に不可欠で基本的なサービスを公共体が提供する政策のことである。本書ではユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンの世界繁栄研究所(IGP)の報告書を紹介する形で次のように書いている。

NHS〔イギリス政府が運営する国民保険サービス〕やイギリスの医療モデルに近い形へと再構成すべき公共財として、医療の他に六つを挙げている——教育、民主主義、司法サービス、住まい、食料、交通、情報の六つである。(p.291)

 この範囲は固定的・決まったものではない。何をベーシックなものとするかは、政策的判断による。日本では立憲民主党がその部分版を基本政策として打ち出している。

 バスターニは、これらを地域の労働者協同組合が運営するモデルを考えている。

地域の労働者協同組合が、住宅、病院、学校を建設し、食事の提供、整備、清掃、支援サービスなどを行うに際し、国家の役割は極めて重要になる。(p.294)

 げー、そんなものを国有化・公有化・協同組合化するつもりかよ、と思うかもしれない。まあ、ぼくもその形態・範囲については、いろいろ思うところはある。

 だけど、日本でもまず田舎で始める場合は、こういうのは全然アリじゃない?

 つまり自治体が「公社」になってこういうサービスを完全に引き受けてしまい、そこに地元民を大量に雇用するのである。まあ、協同組合化してもいい。税金も投入する。そうなれば田舎で生活するメドもたつんじゃないかと思うんだけど。そしてコントロールしやすいので、経済の循環、エネルギー・食料の地産地消も成り立ちやすいと思うが。どうかな。