平野啓一郎『本心』

 リモート読書会は平野啓一郎の小説『本心』であった。

 

本心

本心

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 この作品のテーマの一つが「自由死」である。

 ある時期が来たら自分の意思で死を選ぶということである。この小説の世界では、それが強制ではなくあくまで権利としてではあるが、希望すれば実現するよう制度化されている。

 主人公の母親は「自由死」を望む。最期を息子に看取られて死にたいというのである。しかし息子である主人公は猛反対する。同意が得られないまま時間が過ぎていき、不慮の事故で母親は亡くなる。

 主人公の青年・朔也は、人間が死を自主的に選ぶことはありえず、「自由死」とは結局社会に追い詰められて死を選ばされている結果であろうと考える。

 朔也の考えはぼくに近い。

  前回題材になった小説『老乱』を読書会で議論した際に読書会参加者Bさんの知り合いの話が出た。

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 このことにかかわって、Bさんが、自分の知り合いの話をしていた。

 Bさんの知り合い、Cさんは、夫が認知症になった。その姿をみて、Cさんは夫が亡くなった後、密かに自死を決意し、2年ほどかけて身辺を整理し、自ら死を選んだという。亡くなった日の午前中に、Cさんは自分の親しい人に渡すためのほうれん草を茹でて、冷蔵庫への収納箇所まで指示してあったという。

 このCさんの話は、あまりに衝撃的だった。

 Cさんについては個別の事情もあろうから、Cさんの死をぼくが評価することはできない。

 しかし一般的な話として、尊厳を守る」ということが「人様に迷惑をかけない」ということの裏返しとしてある、という問題を考えないわけにはいかなかった。

 

 生きるということは社会に依存して生きるということであり、人様に迷惑をどこかでかけ続けることである。完全な意味での「自立した個人」などというものは存在しない。

 そのことを社会観のベースに置く必要がある。

  まさにこの問題である。

 ふだんからリベラル系の発言が多い平野啓一郎のことだから、「自由死とは畢竟追い込まれての死だ」という論調なのかと思いきや、むしろその考えを揺さぶるように小説が書かれている。

 例えば、読書会参加者はあまりそう思わなかったらしいが、母親の自由死を承認した医師・富田の

「そうですよ。基本的に、まずは十分に話を聴いて、考え直すことを促すんです。生き続ける可能性がある限りは、そちらを選択すべきだよな。けれど、本人の意思が固いとわかった時には、それを尊重すべきじゃない?あなたにだって、お母さんの個人の意思を否定する権利はないんだよ。お母さん自身の命なんだから。」

「あなたはさ、お母さんの生涯最後の決断を信じないの?」

といったような、横柄でいやらしい言い回しは、ぼくを揺さぶる。

 平野へのインタビュー記事にはこう書かれている(東京新聞2021年5月30日付)。

「もう十分生きた」「いつ死んでもいい」。平野さんは若いころ、年配者にそう言われるたび反発を覚えてきた。「『もっと生きたい』と思いながら死ぬ人だっているのに」と。しかし人生の折り返し地点を過ぎたころ、考え方に変化が表れた。「誰しも家族に囲まれ、幸福な状態で死を迎えたい。自分で死に方をデザインしたいという欲求に、社会はノーと言えるのか」

 「本心」というタイトルをつけながら、その結論ははっきりと出されていない。

 読書会参加者のAさんは「結局どっちなの?」とイライラしながら言っていた(笑)。

 小説の後半では、朔也の出生をめぐる秘密が明らかになる。

 朔也は母親を失った喪失感に耐えられず、亡くなった母親の生前のデータを集めてヴァーチャルに蘇らせる「VF」をつくる。VFを補強し、完成させていく作業、間違えたらセーブポイントまで戻る仕組みなどは、朔也の了解・許容範囲内で「母親」のヴァーチャルが作られていくことを意味する。

 ところが、出生の秘密とともに次第に明らかになる母親は、自分の全く知らない母親であった。そしてそれはにわかには了解しがたい存在として朔也に対峙することになる。

 作品の後半で出てくる「最愛の人の他者性」という問題である。

 一番自分が好きな人が、理解不能な「自由死」を選ぶこと自体がまさにそれであるが、母親自体に大きな他者性があることがわかる。他者なのだから理解し尽くせると思う方が傲慢なのだろう。しかし、それでも理解へ向けて無限に近づこうとする。結局他者性は克服されず、問題はスッキリとは解決しない。しかし、それこそが文学なのだと平野は考えている

アポリア(行き詰まり)のない小説は文学として書く意味がないと思うんです。どこかにアポリアを内在させていて、その矛盾に向かって言葉が熱を帯びていくのが文学じゃないか」

 いや、だまされるな、と思う。

 もっともらしいけど、そうじゃないだろ。

 例えば、現在でも緩和ケアのようなものは一種の死を選ぶことに近い。病気がもたらす耐えきれない苦しみという明確な原因に対して、人間の尊厳を守るためにあえてそうした選択をすることはありうると思う。

 その選択はぼくでも、そして第三者でも理解できるものだろう(理解できない人がいるかもしれないが)。

 しかし、一見して不可解な理由、他人にはすぐには理解できないような理由で死を選ぶということはあり得るのだろうか。それはやはり何かに追い詰められた不本意な結果ではないのだろうか。そうであるに違いない、というのがぼくの考えたことである。

 

 次回のリモート読書会は、ヴィトルト・ピレツキ『アウシュヴィッツ潜入記』である。(ぼくは三島由紀夫金閣寺』を推したんですがね…)

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山本健太郎『政界再編』

 立憲民主党本多平直議員(辞職)の件についてぼくが書いたことに、松竹伸幸が批判的激励?を書いていた。

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自民党の異論の吸収方式

 ぼくが政党の内部議論は非公開とした上で自由な発言が保障されるべきだとしたことについて松竹は

いまどき、上から下まで一枚岩を誇るような政党は、絶対に国民から受け入れられることはない。これは間違いのないことである

として、

だったら、何よりも大事なことは、それを基準にして政党の運営ルールを定めることではないだろうか。個々人の考え方は大事にしてもいいし、外に向かって表明してもいいが、「政党としてはこうだ」と説明するということだけは守るということである。

という原則を対置している。これなら政党の考えがどこにあるかという混乱も起きないし、どこまで政党人が「自由」に発言していいのか、その境界線をめぐって神経を尖らせ、詳細すぎる内規(これはダメ、あれはOKなど)作りのようなものに熱中しなくて済むというわけである。

 これはこれで一つの考え方ではある。

 今この議論にあまり深く立ち入るつもりはない。

 ただ、この点については、松竹の意見を聞いても、なおぼくとしては依然として同じ考えである。

 いくら「政党としては消費税増税反対です」と言明しても、所属の国会議員が消費税増税賛成を街頭で説いて回り、運動を煽っていたら、やはりそれはどうなのかということになる。耐えかねるのであれば新たに政党を作って、トーンを細かく分けた方が国民にはわかりやすい。

 しかし、松竹の主張を聞いて、ぼくが全く動じないわけではない。実際松竹の言っていることは一理ある。

 松竹の言っていることを少し組み込めば、国会議員については厳格に適用し、それ以外の党員については「運用としてゆるくやる」ということしかないと思う。「そんなのは指導部の温情頼みで、客観的なルールに基づく運営・統治に反するではないか」と言われそうだが、一般社会ではないのだから、どこまで詳細なルールを設けても、解釈の余地などどうにでもなる。同じ目的を達成するために結ばれた結社においては、完璧なルール・調停制度を望むことは難しく、結局指導部を信頼するかしないかということであって、それを組織内選挙で表明するしかない。

 さて、その議論は一旦おくとして、この問題にかかわって最近読んだ山本健太郎『政界再編 離合集散の30年から何を学ぶか』(中公新書)に次のようなくだりがあって興味を引いた。

 

 

 山本は自民党の「強さ」を書いているが、その中で、異論をどう調整し、吸収するかを書いている部分があるのだ。

自民党には、異論を吸収して、規律を保つ仕組みが日常的に埋め込まれている。その最たるものが、法案の事前審査制における全会一致原則である。政調会の部会、政調会、総務会と進む審査で、全会一致原則が貫かれていることで、異論が強ければ前に進めず、逆にいえば拒否権が強力であるがゆえに少数派はどこかで矛を収め、多数派に倣うという仕組みになっている。ひとたび矛を収めれば、全会一致なのだから党議拘束をかけることが正当化され、規律は保たれることになっている。〔…中略…〕規律を維持する仕組みとしてみれば、実によくできた制度である。(山本前掲書p.209)

 これによって選択的夫婦別姓制度の導入、LGBT関連法案がどのような扱いを受けているか、われわれはよく知っているわけだし、実体として本当にこうなのかはぼくにもわからないところがある。

 ただ、もしこれが実際にそうであれば、党内民主主義という点だけからみれば、興味深いことではある。

 この仕組みを応用すれば、松竹のいう「党内での議論を公開で自由にする」ことのメリットを容れながら、ぼくが懸念する問題をクリアできる可能性はある。

 もちろん詳細を詰めたわけではないので、あくまでいまのところのぼくの第一印象に過ぎないのだが。

 

政界再編史のハンドブックとしての価値

 本書『政界再編』は、戦後政治全体、しかしその中でもサブタイトルにあるように、小沢一郎自民党を飛び出していく90年代からの政界再編の動きとその中心ロジックを簡潔に追った本である。

 80年代末までの記述は、いわば自民党社会党という55年体制のロジックをおさらいしているわけで、それがなぜ政権交代として機能せず、90年代に入って政界再編・政権交代として機能したかを振り返るための前提に過ぎない。

 本書への評価はいろいろあっても、「政界再編史」としてのハンディな一冊という価値は揺るがないであろう。冒頭に「政党変遷図」が載っているが、これだけ多くの政党が離合集散を繰り返したのかという思いが湧いてくる。

 実はウィキペディアにも似たような政党の系譜・変遷の図はあるのだが、山本という政治学者の解釈が加わっていることは一つの価値であろう。例えば「日本を元気にする会」はウィキペディアの図では無視されている。だが、山本はこれをみんなの党の解党後の組織として図に位置付けている、などである。

 

「よりよき統治」としての野党共闘=異質なもののの組み合わせという実験

 内容については太いところで賛成の点と異論がある。

 山本は、90年代以降の政界再編のポイントを

外交・安保政策や経済政策といった伝統的な政策領域についての理念は無理に一本化しない代わりに、別の団結可能な理念で代替する形をとってきた。それが、自民党政権と比較して「よりよき統治」を目指すという方向である。(山本p.223)

としている。

 理念を大きく変えてしまう政権交代ではなく、「よりよき統治」、つまり「よりましな政権」というわけである。政策や理念は少しだけ左右にずらす、というほどのものであろう。

 山本は言う。

最も多くの有権者は中道の穏健な政治を好む。(山本p.226

 前原誠司らが小池百合子とともに目指した「希望の党」騒動で、あそこで目指された政治は「自民党よりやや左の中道保守」(同p.229)であり「政策位置のことだけを考えればこれは至って合理的な選択である」(同)と山本は考える。

 

 この目線から見て、現在の共産党を含む野党共闘路線はどう評価されるのか。

共産党を含めた野党共闘では、個別の政策では共闘を組む政党間での違いが目立ち、共通項を見出すのが難しい。(同p.231)

のだと言う。そして、

野党共闘を重んじるあまり、中道の有権者を引き付けられなくなってしまっては本末転倒である。共闘の構築は中道の有権者を引き付けることが前提とならなければ、持続可能なものにはなりえないと思われる。ゆえに、共産党からの選挙における一方的な協力を期待しつつ政権構想の共有というところまでは踏み込めない状況が続くのではないか。(同p.232)

というまことに(共産党から見ると)「虫のいい」結論になる。

 

 過激な政策をとると思われている共産党は、すでに政権参加について問題を整理している。要するに一致する範囲でしか政権の政策にしないのだ。安保条約も発動するし、自衛隊もなくさないし大いに使う。国民の7割が望んでいる核兵器禁止条約参加すら、共産党にとっては野党連合政権ができたら実践してほしいと願っているテーマだが、野党間では一致を見ない。一致しなければ、いくら野党連合政権ができても「条約には参加しない政府」ができるのである。

www.jcp.or.jp

 国民の現時点での印象は脇に置いとくとして、政策の中身でいえば、これはまさしく山本のいう「よりよき統治」すなわち「よりましな政権」である。理念はほんの少しずれる程度であろう。山本曰く「最も多くの有権者」が好むという「中道の穏健な政治」であり、せいぜい「中道左派」程度のものでしかない。

 ぼくからみた、現時点での共産党の野党連合政権における役割とは「急進的な左派政策の方向に政権をひっぱる」ことではなく、「起きる問題に対して連合政権として民主的手続き上正しく・論理的・整合的に対応する」役目、つまり仕切り役としての役割だろうと思う。沖縄基地問題や消費税問題など、民主党政権はこれを間違えて破綻した、というのがぼくの見立てである。

 そういう名仕切り役、理屈と手続きにうるさく、整合性のある対応ができるのは、良くも悪くも「正論家」である共産党の役割が大きいと思う。ま、それは単にぼくのつぶやき。異論もあるだろうが、別に構わない。

 本題に戻る。

 ぼくからみれば、90年代の非自民連立政権、2000年代の民主党政権は、連立政権ではあったが実質的に同質の政党の集まりであった。同質の政党の間での調整などそれほど大した課題ではない。

 今回もし野党連合政権ができれば、共産党という異質の政党が加わる可能性がある。

 野党連合政権は、「異質なもの」が「よりよき統治」という小幅修正のためにどう団結できるかという実験であり、そこがまさに試されているのだと言える。そんなことは日本の戦後政治でやったことがないのである。

 「中道の穏健な政治」をつくるために立憲民主・国民民主・社民・れいわ・共産は組めるはずなのに組めないことの方がむしろ謎だと言える。その鍵になっているのは「反共」であろう。

 

 山本は本書で、野党共闘を阻んでいる「反共」についてもう少し考察すべきであり、当為論として「異質なものの連合によるよりよき統治という実験」について考察すべきであった。

 

 

 

谷口菜津子『教室の片隅で青春がはじまる』

 つくりごとの、そらぞらしい、窮屈で不自由な、我々の日常を取り巻く人間関係を壊してみる、その第一歩を踏み出せば、世界は変わる。人間解放の革命である。

 谷口菜津子『教室の片隅で青春がはじまる』は『教室の片隅で革命がはじまる』としたほうがいい。

 

 高校と思しきクラスが舞台である。そこにはごく少数だが宇宙人や宇宙人との混血の生徒がいるというSF的な設定も入っている。

 主人公のまりもはクラスで浮いている。「個性的」であろうとして常にスベりつつづけ、とうとう誰からも相手にされなくなっていたのである。

 物語はまりもはもちろん、クラスの人たち、特に上位カーストにいる人たちが自分を取り巻く人間関係に違和感を抱いていて、それが壊れたりあふれたりする瞬間をとらえていく。

 『教室の片隅で青春がはじまる』で断然爽快感があるのは、やっぱりそれぞれの登場人物が日常の人間関係を壊して一歩を踏み出すところなんだな。それは自分の世界を創造的破壊をするという意味で、本当に小さいことなんだろうけど、革命なんだよ。世界が本当に変わる。その世界が変わる感じをこの作品はグラフィックでよく表していると思う。

 宇宙人の生徒・ネルは上位カーストに入っているもののアイコンのような扱いをされていて、しゃべったり行動したりしようとすると逆に笑われたりウザがられたりする。ネルは阻害されて、まりもと出会う。まりもがネルと初めて公園の雑木林のようなところで「コーラ・メントス」をやったときの、あるいは、まりもの家でコーヒーや鮭やイモの話、つまりお互いの話をするときの、あのキラキラ感を谷口はまことに「キラキラ」した躍動で描いている。孤独だった二人が、お互いの言葉がするすると染み込んでいく快感が伝わる。

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谷口菜津子『教室の片隅で青春がはじまる』KADOKAWA、kindle65/268

 本当は女子トークのモテやメイクにはなんの興味もない美少女ニカは、カースト上位グループにいるのがツラく、逆にオタクコンテンツにハマっているために、こっそりオフラインで会った同じ同好の士はクラスのカースト下位のオタクグループの一員だった。オタクグループをバカにする上位カーストについに耐えかねて、オタクの価値を高らかに称揚するニカ。「めっちゃ かっこよかった」のである。

 

 谷口菜津子の短編集『彼女は宇宙一』のラストに「ランチの憂鬱」という作品があって、クラスや家庭の息の詰まる関係を最後に解放するカタルシスがあるのだが、『教室の片隅で青春がはじまる』はそれをうんと広げたような作品である。

 あるいは『彼氏と彼女の明るい未来』も、欺瞞的であった二人の関係を創造的に破壊する結末を持っており、これもやはり同じ流れなのかもしれない。

 

 

 

 

 しなしながら、本作のテーマは実はそうした点にはない。

 主人公のまりもに照準を合わせてみれば、誰かの友達になることと創作を届けることは似ていて、それが有名になろうがなるまいが、誰からの心に届いて誰かを小さくでも変え続けているということ。それが創作をする者には励みなのだ。

 自分が書いたものや創ったものは、ベストセラーになる必要はない。誰かに届いて誰かを励ましたり誰かの足しになってくれていれば、それは作家冥利につきるというものではないだろうか、ということが貫かれている。

 「カメラに写し続けられる人生」というのは、自分は個性的で特別である、というプライドの裏返しである。

 有名になってちやほやされる、ということを、あえて空虚に表してみるエピソードがある。まりもが小学生の時、くだらない作文だなと思いながら適当にデッチ上げた文章がコンクールで最優秀賞を受賞し学校の中で異様に注目を浴びてしまったことがある。「ちやほやされて」「尊敬された」のである。

 しかし、それは嘘であることがバレて、帳消しになってしまった。みんなから軽蔑されて、だが時間とともに元に戻った。

 「有名になりたい」ということは、その「ちやほやされて」「尊敬された」ことを取り戻すことなのだろうかとまりもは自問する。

 そうではない。

 そこで浮かんできたのはネルの顔だった。

 ネルに届けたいと思うから創作をするのである(まりもの場合は動画作り)。

 創作は友達に似ているのである。

 

 

「常任委員会」をどう訳すか

  地方自治法第109条には

普通地方公共団体の議会は、条例で、常任委員会、議会運営委員会及び特別委員会を置くことができる。

とある。この「常任委員会」というのは例えば「経済振興委員会」とか「総務財政委員会」などと呼ばれていて、福岡市では5つに分かれて、全市議会議員がどこかの常任委員会に所属している。

 この「常任委員会」を英語でなんというかといえば、standing committeeである。

 つまり「常設の委員会」という意味だ。

 これは、常設でない委員会=特別委員会(special committee)と対置的に使われている。特定の事件を審査・調査するもので、必要がある場合に限り設けられる。

 

 ところで、団体の中で「常任委員会」というものを置いているところがある。

 うらみつらみはございやせんが、渡世の義理で紹介いたしますと、浜松市立北浜東部中学校PTAには「常任委員会」という機構がある。同会の規約第10条には

常任委員は、常任委員会を組織し、本会の企画運営に当たる

とあるように、この「常任委員会」は、いわば執行機関の幹部集団である。

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 日本共産党にも都道府県委員会や地区委員会には「常任委員会」がある。

 役員は数多く選出されているが、日常的にその人たちが全員、会の実務をさばけるわけではないので、役員のうちそれができる人を「常任委員」にし、その人たちが集団を構成しているのである。

 経団連には幹事会があって常任幹事会があるが、まさにその「常任幹事会」と同じものだろう。経団連の「常任幹事会」はexecutive boardである(常任幹事会会議はexecutive board meeting)。

 

 議会ではなく、このような、団体の特別な幹部集団である「常任委員会」を「standing committee」と訳していいのだろうか?

 

小山田圭吾の件について考える

 小山田圭吾の件を今さら書く。

 ぼくは、フリッパーズ・ギターを友人の影響で聴き始め、中毒になり、デートで車に乗ればいつもかけて、自分としてはそれ以外に買ったことのないクリップビデオまで買い、自分の結婚式(会費制の「結婚を祝う会」)で入場と退場において流した*1ほどにはファンであった。

 小山田と小沢健二がソロになってからはそれとなく追ってはいたが、フリッパーズ・ギターがなくなった時点で興味は失せてしまったいたのだと思う。ぼくのなかからはフェードアウトしていった。小山田や小沢個人に入れ揚げるということはなかったのである。

  現時点で、フリッパーズ・ギターを聞くことはあまりないけども、それでも思い出したように年に数回くらいは聴いてきただろうか。

 

作品は独立したものであり、したがって作品と作者は別なもの

 ぼくは、作品というのものは、作者のものだけでも読者のものだけでもなく、社会に解き放たれた段階ですでに独立した存在だと考えていて、作品の評価は客観的に定めることができるという立場である。したがって、「作者しか本当のことはわからない」とか「読者一人一人の中にしか答えはない」とかいう立場は取らない。

 ということは、作者と作品は別なものなのである(関連はあっても)。

 だから、作品の価値は、作者がどういう人であろうと、基本的に(あくまで「基本的に」だが)独立した問題なのである。

 ちょっと留保を書いておけば、全然関係ないわけではない。作品で描かれた価値が、作者のどういう動機、意図、性格から紡ぎ出されてきたかを導き出すことはできる。しかし、それだけだ。それが色濃く出てしまう作品もあるし、そうでない作品もある。作者の意図と反対の評価を受ける作品もある。

 

 ゆえに、フリッパーズ・ギターの作品がいいと思ってきたし、いいと思っている人は、小山田が何をしてきたかにかかわりなく、これからも聴けばいいのではなかろうか。

 ある作家が家庭内暴力をしてきた人だからといって、その作家が書いた小説や戯曲の価値が基本的に変わることはない。

 ある作家が、巨大な暴力である日本の侵略戦争の一コマを絶賛した詩を書き、侵略戦争に賛成をしてきたからといって、その作家のすべての作品が否定されることもない。

 「小山田圭吾」の問題として語れるのは、ここまでである。

 

人物の起用に基準はあるか

 さて、今回のオリ・パラにおける焦点は作品そのものではなく、作家の起用である。

 何らかの問題がある作家を起用して、その作家を外したりすることに何か問題が生じるだろうか。

 私企業や民間団体の場合は、結社の自由がある。

 私企業や民間団体が自分たちの基準で、誰を採用し採用しないか、またその人を途中で外すかは、その私企業や民間団体の自由である*2

 たとえ誰かを降板させる理由が、不当な風評に対して、「企業イメージを悪化させないため」という逃げ腰のものであっても、私企業には降板させる権利があるだろう(もちろん、世論はそれに抗議する権利もあるが)。

 では、公的な団体、例えば地方自治体の場合はどうか。

 これは住民の意思やそれを反映した法令に基づかねばならないので、首長や担当者の勝手な思惑で行われたら、それに対して批判するのには道理がある。つまり自由とは言えない。

 ではオリンピック・パラリンピックはどちらなのだろうか。

 ぼくは今のところ判断がし難い。

 国家や自治体が深く絡んだプロジェクトだから、おそらく公的なものに準じる団体でありイベントだと考えていいだろう。ただ断言はできない。*3

 しかし仮にオリ・パラが公的な団体・イベントだとしてもそれは何に則るべきなのか。たぶん五輪憲章なのだろうが、それでいいのかどうか、よくわからない。

 従って、あくまで推論で言えば、「五輪憲章に反する人物の起用は認め難い」ということが暫定的な結論にはなる。一般論だが。*4

 しかしすぐにその「暫定的結論」は揺らいでしまう。なぜか。

 この「五輪憲章に反するものは認め難い」という基準は、それならば、厳格に他にも適用されるべきことになるからだ。様々な角度から「五輪憲章に反する」という人物や事態は洗い出されることだろう。それを徹底するのであれば、それはそれで一つの理屈ではある。

 だが、例えば、巨大な人権抑圧をしている国でオリ・パラを開催することは妥当なのか、あるいはそのような抑圧をしている国で抑圧に加担しているかもしれない人物を開会式や閉会式に関与させていいのか、などの問題にまで発展していくことになる。これは相当な徹底を覚悟しなければならない。

 だから、小山田圭吾小林賢太郎を実際どうすべきだったのかは、今のぼく個人では何とも判断しようがないなというのが正直なところなのである。そのために、具体的問題の是非としては語ることはできず、あくまで推測に基づいて一般的な原則を確認することしかできない。

 

オリンピック・パラリンピック中止のために共同を

 オリンピックが始まった。

 始まったが、感染を拡大するこのお祭り騒ぎは、どう考えても感染拡大防止に逆行するメッセージになっている。そして国家や都市の資源をこのイベントのため集中させてしまっている。始まってしまったが、今からでも遅くはない。やめるべきである。

 小山田圭吾小林賢太郎や開会式の評価はいろいろあろう。

 また、メダルが取れてよかったね、感動したという人もいよう。

 それは今、まったく構わない。

 感染をこれ以上拡大させないために、途中であってもオリンピックを中止させるという一点で力を合わせようではないか。

 あきらめないで声を上げていきたい。オンラインでもいいし、オフラインでも。

*1:入場は「Colour Field/青春はいちどだけ」、退場は「HAPPY LIKE A HONEYBEE/ピクニックには早すぎる」。

*2:雇用はまた別の問題が生じる。ここではあくまで委託のような対等な契約を想定する。

*3:ちなみにオリンピック憲章第2章冒頭は「IOC は国際的な非政府の非営利団体である」と規定している。

*4:オリンピック憲章第1章2にはIOCの役割と使命として「オリンピック・ムーブメントに影響を及ぼす、いかなる形態の差別にも反対し、行動する」と規定されている。

党内の自由な議論を根拠に処分されるべきではない

 立憲民主党本多平直議員の問題。

https://digital.asahi.com/articles/ASP7F3JHWP7FUTFK008.html

本多氏は5月、刑法で性行為が一律禁止される年齢(性交同意年齢)を現行の「13歳未満」から引き上げることを議論する党の「性犯罪刑法改正に関するワーキングチーム(WT)」に出席。外部から招いた有識者に対し、「例えば50歳近くの自分が14歳の子と性交したら、たとえ同意があっても捕まることになる。それはおかしい」と発言した。

 この話は、いくつもの問題が重なっている、というか未整理のまま積み重なって議論されてしまっている。

 特に、立憲民主党によって設置された第三者機関「ハラスメント防止対策委員会」が本多議員や関係者にヒアリングしてまとめた調査報告書をぼくも読んだが、最終的に発言とその扱いをめぐる問題ではなく、「毎回、高圧的に語気を強めて意見したり、考え方を否定し、心身共に疲労した」など、本多議員によるハラスメントを問題の中心に置いている。

 もしハラスメンがあったとすればそれは処分されるべきだ。

 そしてそれ自体にはそれほど複雑な問題はない。ぼくがここで何か新たに問題を解明すべく、記事にするほどではないのである。

 しかしもともとは、「50歳と14歳が同意性交して捕まるのはおかしい」という本多議員の党内のワーキングチームでの議論が厳しい批判を呼んだもので、「党内議論として行われた言論で組織的処分を受けるべきなのか」という問題として立てられていたはずである。

 だから、ぼくは、本多議員の問題としてではなく、政党はどのように議論をすべきなのかという一般論として論じたい。

 

一般論として考える「政党内部の議論」

 今のところのぼくの考えは、政党内部の議論では自由な発言を保障すべきだ、というものだ。(境界線上の問題や、対抗意見は後で検討する。)

 政綱や綱領、理念に反する、つまりそれを変えることも含めて議論されていい。自由に議論できない集団では発展がないからである。だから、自由であるべき発言を根拠に組織的な処分、つまり罰を与えてはいけない。

 そして、それはあくまで内部議論とすべきである。

 近代政党として統一した見解を国民に示すのが責任だと思うからだ。

 党員Aは「消費税を上げるべきだ」といい、党員Bは「消費税は現状を維持すべきだ」と言い、党員Cは「消費税を下げるべきだ」と言うのでは国民はどう判断していいかわからなくなるではないか。

 これは逆にいうと、内部議論だから非公開ということになる。

 そして、非公開であるはずのものが漏れてしまうことがある。

 その場合、例えばその漏れてしまった意見・政策案に反対の一般市民(当該政党の外の人たち)は抗議や批判の声を上げることになる。これは、市民の言論活動としては健全なことである。例えば消費税減税を訴えている政党において、党内部の会議で「消費税を上げる政策に変えるべきだ」と発言したD議員がいたとして、中小業者の団体が抗議するのは当然だし「Dについては、議員を辞めさせろ」という、Dの地位にまで及んだ要求をするのは全く自然のことわりである(これは漏れてしまった=公にされてしまった以上、当該政党ではない他の政党からそういう意見が上がることも「自然」だと言える)。

 しかし、それでも党の指導部は、やはりDの処分をすべきではないだろう。

 「消費税は上げてもいい」と思っているような「レベル」の議員がいること自体が、「消費税減税」で売っているその政党のイメージダウンになることは、誰でもわかる。火消しのためにDを処分してしまいたくなる。「あ、もうDは飛ばしましたんで。もうあんなこと言うような奴は今はおりません。ビックリさせましたね。ええ、これからは大丈夫でございます」。

 だが、党の指導部は党内の言論環境の管理責任者である。「政策論議のために自由にモノを言っていいよ」と約束しながら、漏れてしまったからDを切るというのは、おかしい。むしろ漏れてしまった責任を党指導部が負わなければならないだろう。消費税減税が党のスタンスだと念を押し、理解を求めつつ、自由な政策議論をすることでよりよい環境を中小業者のためにも準備できるんだということを、市民に訴えるしかない。

 指導部がその責任を放棄してはいけない。

 ぼくがこの記事で言いたいことの基本はこれで終わりである。

 以下は反論への考察、もしくは付属的な議論。

 

政党の議論はできるだけ公開すべきという意見について

 内部議論を自由だけど非公開にするのは、政党のあり方としてこれは古臭いのではないか、という議論はありうる。

 議論は全て(もしくは出来るだけ)公開すべきであり、個々の党員・議員は党の決定に反する意見であっても一般社会で自由に言ってよい、とする組織のあり方だ。

 派閥や中央・地方での違いをわざと公開して、グラデーションの支持を得ていくという戦略をとる。その政党の中央本部は消費税を上げる政策を持っているが、地方支部は地方議会で消費税を下げる意見書に賛成したりするようなことは、普通によくある。その方が国民の意見がキメ細かく反映できるのではないかという議論はなくはないだろう。

 ただし、そのあり方になれば、なおいっそう、何かの意見を表明したことをもって、政党が個々の党員や議員を処分することはできなくなるだろう。

 そして、その政党は結局消費税を上げたいのか、下げたいのか、よくわからなくなってしまう。党の本部としては消費税を下げるということが公式政策です、とはいうものの、個々の議員がバラバラに発言していたのでは、その「公式政策」はあまり信用できなくなる。

 

 まあ、このような政党のあり方が魅力的なのもわかる。

 現在、東京オリンピックパラリンピックの開催をめぐって自民党公明党が開催に固執していることが大きな問題になっている。まさに「固執」であって、これだけの世論があり、現実がありながら、「開催」から動こうとしない。

 そこで世論としては、反対運動や抗議運動を続けるのだが、その中でもし政権党の党内議論のようなものが可視化されて、本部の決定に逆らって「私は中止した方がいいと思っている」と言いだす議員が出て、それが見えた方が、民主主義的に健全に感じるはずだ。

 

 政党が自分の政策に反する意見をどう受け止めているか、そのことを市民にどうわかりやすく表現し可視化させるのか、という問題である。これは「政党政治が機能していない」という不信を招きかねないので、結構大きな問題だとぼくは思う。政党はこの課題にきちんと向き合う必要がある。

 現時点では、「反対意見にていねいに反論する・応える」ということでその課題に応えられるのではないか、とぼくは考えている。説明責任というやつである。

 反対意見の論点に応えることによって、本体の政策はより豊かになっていくはずである。もしくは多面的になっていくはずである。そのやりとりのプロセスを見て、国民・市民の意見の反映と熟議の深まりを感じてもらうしかない。

 消費税減税派の政党が「消費税を上げるべきだ」という意見を受けたら、財源についての考えを示すことで、政策全体が豊かになる。「消費税のような庶民増税ではなく、大企業や富裕層への課税強化をすべきだ」という政策で豊かにする。それでさらに批判が来ればそれに対応した政策に発展する…というような循環である。

 

 共産党は2010年の参院選で後退し、その時、消費税増税反対の論戦があんまりよくなかったという反省をして、

その大きな原因の一つは、「生活からいえば反対、でも…」という人々に対して、「消費税増税反対」の主張と一体に、「政治をこう変える」というわが党の国民要求にもとづく建設的な提案を押し出すことが、弱かったことにありました。

とくに菅首相の「消費税10%」発言以降の論戦は、「消費税増税反対」が前面に押し出される一方で、国民の新しい政治への探求にこたえ、展望をさししめす建設的な提案は、語ってはいたものの、事実上後景に追いやられる結果となりました。

ということで、どういう課税や財源、経済政策にすべきかというプランをそのあと打ち出したのである。

 このプランがいいかどうかは措くとして、そういう弁証法的な発展といおうか、世論を受け止めた反省の相互作用で政策を豊かにしていくというのが、今のところ近代政党が世論を可視化する道ではないだろうか。

 これはもう10年も前の話で(そこに出てくる「菅首相」は「かん首相」のことである)、今ではSNSが発達しているから、一つ一つの反対意見に即応的に、より丁寧に応えていくことは可能である。まあ、現実のツイッターが往々にして「罵詈雑言合戦」の場になって、建設的な議論にはなりにくいという批判はあろうが、やろうと思えば可能だということだ。

 

党内意見で「人を傷つける」発言はしてもいいのか?

 党内議論は非公開だとしよう。

 しかし、その党内議論で、「人を傷つける」発言はしていいのだろうか。

 「その発言は私が傷つきます」と言えばわかってもらえるというのが常識的な市民間のやり取りである。

 だが、そうならないシチュエーションが組織内といえども生じるのが事実だ。

 上司・部下の間のパワハラ

 仲の悪い同僚からの名誉毀損

 こういったことは、一般社会でも言論の自由に制限を加えられる。これに準拠するのがよかろう。その程度には制限されるのである。

 逆にいえば単に「私が傷つくから」という理由だけでは、発言を制限できないとも言える。例えば「死刑廃止という政策を採用すべきだ」という意見は、「私の親族に酷く殺された被害者がいます。『死刑をやめろ』なんて、私が傷つきます。そんな意見を言うのはやめてください」という意見で封じられるべきかといえば、封じられるべきではないからである(その人に配慮はすべきだが)。

 「私が傷ついた」ということはどんな言論にでも適用されてしまうので、事実上無基準であり、それを根拠に言論を制限してはならない。

 一般社会で言論を差し止められるほどでないものは、「自由」に発言する権利があるといえよう。

 軍隊を特殊社会と描いた野間宏『真空地帯』に対して、軍隊は一般社会との地続きであることを強く意識した大西巨人神聖喜劇』で、主人公・東堂太郎は、自分に対しての上官について、さらに上の上官に向かって発言するとき敬称を省くのは、一般の会社でよその会社の人に「A専務はご出張中です」と言わないのに似ているという例を持ち出して、「軍隊内務書」を使い次のように言う。

「内務書」の「綱領」十一「兵営生活ハ軍隊成立ノ要義ト戦時ノ要求トニ基ヅキタル特殊ノ境涯ナリト雖モ社会ノ道義ト個人ノ操守トニ至リテハ軍隊ニ在ルガ為ノ趨舎ヲ異ニスルコトナシ」はここにも深くかかわっているにちがいありません

 一般社会と同じ程度に社会道義を守ってもらうのである。

 そして、それは組織内のルールとなり得るし、それに反した場合は処分の対象になることはあろう。

 *   *   *

 なお、ぼくは本多議員の意見には反対であり、性交同意年齢の引き上げに賛成する。

久坂部羊『老乱』

 80を超える父母が旅行したいと言い出したので宿の手配などした。ぼくは参加せず、父母だけが行ったのである。

 帰る日の前日になって「新幹線の切符が取れないか」と電話で依頼された。

 それを受けてぼくがネットで取ったものの、予約した新幹線の時間、号車などの確認を、電話だけで父母と行うのが一苦労だった。父母はラインやメールをきちんと扱えないので、電話一本槍なのである。

 ぼくが電話口で情報を読み上げ、父がメモをするという作業をした。

 予約条件を途中で変えてきたので、一度キャンセルした。これが事態を複雑にさせた。

 乗り換えが必要になるのだが、確認して復唱してもらうときに、父は乗り換える前の電車の到着時間をすっ飛ばす。そして、すでにキャンセルした電車の時間を混入させてきた。

 「じゃあ復唱してみて」「正解。その通りです」「違います。抜けてます」などのやりとりの末に、予約含めて電話の対応が2時間くらいかかった。

 一応伝達は終えたのだが、不安しかない。

  結局、宿にメールをしてプリントアウトしたものを父母に渡してもらうことに。二人は無事乗り換えができたようである。やれやれ…。

 いまのところ、父母は認知症であるという判定はされていないが、新しいことをインプットできないのは認知症の特徴である。その兆候は少しくらいあるかもしれないと思った。もし認知症であればやってはいけないような、プライドを傷つけかねない確認作業ばかりさせることになった。認知症を描いた久坂部羊の小説『老乱』で、主人公・幸造の息子のパートナー、すなわち「嫁」がやってしまっている対応そっくりのことを、自分がやっているような気がした。

 横で電話を聞いていたつれあいから「あんたの伝える情報には、余計な情報が多すぎる」と批判された。こっちはだいぶ情報を精選して伝えた気がしていたが、客観的に見ると相当難しいことをさせていたのかもしれない。

 

「この前、教えた両手ジャンケン。練習してくれましたか」

 曖昧にうなずくと、「じゃあ、やってください。右手がいつも勝つように」と急かす。幸造は両手を握りしめ、ジャンケンしようとするが、手が思うように動かない。

「ぜんぜんダメじゃないですか。ジャンケンの仕方、わかってます?これに勝つのは何ですか」

 嫁がグーを突き出す。恐る恐るパーを出す。なぜこんな子ども騙しのようなことをしなければならないのか。

「じゃあ、これは」

 次はパーを出す。チョキだとわかっているが、指が震えて形にならない。嫁の表情が険しくなる。早くしないと、またため息を聞かされる。そう思う間もなく、「はあーっ」と露骨なため息を浴びせられた。

 「どうしてできないかなぁ。ジャンケンくらい幼稚園の子どもでもできるのに」

久坂部羊『老乱』朝日文庫、KindleNo.2344-2351)

 

 

「人様に迷惑をかけない」ことと「尊厳」は同じか

 リモート読書会で久坂部羊の小説『老乱』を読む。

 

 

 関連して読んだ『マンガ 認知症』の感想は次の通り。

kamiyakenkyujo.hatenablog.com

 先ほども書いたが、『老乱』は一人の男性が認知症になり、それが進行していく様子と、それをめぐる家族の様子を描いた小説である。

 この小説を、読者であるぼくは二つの視点から読んだ。

  1. 一つは、自分が認知症になるという視点。
  2. もう一つは、家族が認知症になったらどうするかという視点。

 読書会参加者も、どちらの視点もあった感想が続いたが、印象として、1.の視点に話の重点が置かれた。

 認知症になったら人間としての尊厳が失われるのではないか、という問題である。

 『マンガ 認知症』の中で、佐藤眞一はこう述べている。

「老い」はプライドとの闘いです
老いて弱くなっていく情けない自分
人生を強く生き抜いてきた誇り高い自分
二つの自分の間で揺れ動き不安がつきまといます

 認知症は、この矛盾が劇的に表面化する。

 特に、排泄は、その最大の分岐だろう。

 前述の 『マンガ 認知症』の中で、佐藤眞一は

認知症になるのが怖いと思っている方たちも

この理由*1が大きいのではないかと

とのべ、この佐藤のセリフの周りに、

  • 子どもに迷惑をかけたくない
  • プライドを傷つけられたくない
  • シモの世話までされたらおしまいだ

というつぶやきを配置している。

 ぼくの場合は、セクハラではないのか、と思う。

 『老乱』で、認知症になる主人公・幸造が、家にきてくれるヘルパーの女性への性衝動を抑えられなくなる描写の箇所、戦慄しながら読む。

それからしばらくの間、幸造は自分が何をしているのかよくわからなくなった。頭がしびれたようになり、何かに衝き動かされるように家の中を歩きまわった。こんなことをしていいのかという思いが浮かぶが、すぐに消えてしまう。強姦や殺人に駆り立てられる人は、きっと同じようになるのだろう。自分を止められない。破滅に向かっているとわかっていながら、目の前にはまばゆい楽園が待っているように感じるのだ。(久坂部前掲No.2190-2194)

 認知症では、前頭葉の機能が障害され、抑制機能が低下する場合がある。

 性衝動を抑制していたかつての自分は失われ、性衝動のままに周りの女性にセクハラをするという心配である。

 その場合、何よりも女性が深刻な被害に遭うことが最大の問題だ。

 同時に、ぼく自身の人格への評価について考える。それが認知症に起因することであっても、「ああ、あれが本当の紙屋の姿なのね」と。

 参加者の一人、Aさんは現在知的な職業についているだけに、また、日頃自分の人生を自分で切り開いてきた自負をベースに語っているだけに、この矛盾をひどく恐れていた。

 このことにかかわって、Bさんが、自分の知り合いの話をしていた。

 Bさんの知り合い、Cさんは、夫が認知症になった。その姿をみて、Cさんは夫が亡くなった後、密かに自死を決意し、2年ほどかけて身辺を整理し、自ら死を選んだという。亡くなった日の午前中に、Cさんは自分の親しい人に渡すためのほうれん草を茹でて、冷蔵庫への収納箇所まで指示してあったという。

 このCさんの話は、あまりに衝撃的だった。

 Cさんについては個別の事情もあろうから、Cさんの死をぼくが評価することはできない。

 しかし一般的な話として、尊厳を守る」ということが「人様に迷惑をかけない」ということの裏返しとしてある、という問題を考えないわけにはいかなかった。

 

 生きるということは社会に依存して生きるということであり、人様に迷惑をどこかでかけ続けることである。完全な意味での「自立した個人」などというものは存在しない。

 そのことを社会観のベースに置く必要がある。

 

認知症の人の尊厳を具体的にどう考えるか

 しかし、認知症という(少なくともぼくにとって)新しい事態に直面してみれば、そのことはもっと具体的に考えられなければならないだろう。

 『老乱』では、幸造はいよいよ周囲の状況が判断できないほどに症状が進んでいくのだが、息子夫婦が考えを変えたことで、状況はわからないけども漠然とした安心感に包まれて生活を送ることになる。

今、自分がどこにいるのか。幸造はわからないし、わかろうとも思わない。身体が弱り、自由がきかず、何か困ったことが起こっているようだが、それもどうということはない。ただ静かに時間が流れているだけだ。(久坂部前掲No.4188-4190)

今はいやなことをされることもなく、焦ったり、がんばったり、慌てたりする必要もない。叱られたり、怒鳴られたり、ため息をつかれることもない。ただ言われるがままになっていればいい。それでいいのかどうかもわからないが、みんな笑っているから、きっといいのだろう。今はつらいことも心配も何もない。(同前No.4195-4198)

 まず、認知症になる側は、このような地点に自分の尊厳の照準を合わせればいいのではないだろうか。介護する側も、認知症になった人をこのような状態にまで持っていくことが、その人の人権を尊重するということになるのだと思いさだめることである。

 『老乱』に出てくる和気という医師が講演でこう述べる。

さあ、ここなんです、認知症介護の一番の問題は。いいですか。介護がうまくいかない最大の原因は、ご家族が認知症を治したいと思うことなんです。(同前No.3477-3491)

 健常に「治して」それを尺度に人権を考えるという罠に引っかからないようにするのだ。

 読書会では「シモの世話」についても議論になった。

 幸造の息子・知之もその配偶者(「嫁」)・雅美も「幸造への恩返し」というつもりで介護と「シモの世話」を考えるようになる。

  これはこれで重要な発想だが、読書会参加者からは「介護する家族としてシモの世話は無理だ」「介護される側になったとしてもやはり家族にさせるのは耐えきれない」という声が上がった。 

 それでいいのだろう。無理に「恩返し」などと思う必要はない。

 つまり、ヘルパーや施設という専門家、「社会」の手を、躊躇なく借りるのがいいのだろう。

 Bさんから『恍惚の人』との比較が出た。

 『恍惚の人』そのものが現代でも十分にリーダビリティの高い小説として賞賛されたが、同時に、息子である夫の役割の大きな違いがその際に注目が集まった。つまり、『恍惚の人』から『老乱』に到るまでにジェンダー平等が推進され、夫が介護に加わり、施設が利用されるようになったという社会の進歩がそこにはある。

 こういう読書会の議論を聞いて、また、この小説を読んで、次第次第に認知症になった自分、家族をどう受け入れていくのか、ふさわしい観念やモデルが出来上がっていくのだろうという楽観を得た。もちろん自分自身が学んでいくことを前提としてだが。

 

 リモート読書会、次回は平野啓一郎『本心』と決まった。

*1:排泄の処理を家族にさせるのが自分のプライドを根底から傷つけるということ。