斎藤幸平のSDGs論を西日本新聞の対談で読む

 16日付の西日本新聞で斎藤幸平が江守正多(国立環境研究所・地球システム領域副領域長)と対談していた。

 斎藤幸平は、『人新世の資本論』の冒頭で

SDGsはアリバイ作りのようなものであり、目下の危機から目を背けさせる効果しかない。

とはっきり述べ、

SDGsはまさに現代版「大衆のアヘン」である。

と断言した。これを読んで頭にきた市民活動家や左翼も少なくなく、ぼくの知っている左派雑誌も斎藤幸平とは名指ししないものの、明らかに斎藤のこの発言を念頭に“SDGsには意義がありますよ”特集を大規模に組んでいた。

 しかし極論を言って読む人の反応を引き出すのは斎藤の「手法」のようなもので、あまりそういうこの人の言葉尻にかかずり合わない方がよろしい。前にも書いたけど、斎藤は自著でボロクソに書いているバスターニの『ラグジュアリーコミュニズム』の推薦文を(ライバルとしての立場から)書いているような人で、そのへんは「いい加減」、文字通り「適切な加減」なのである。

 

 その思いをこの西日本の対談を読んでますます強くした。

 斎藤は対談でこう述べている。

 

経済界が熱心な持続可能な開発目標(SDGs)にしても、社会経済の抜本的な変革が必要だとの根本にある精神を無視し、経済成長、金もうけの手段にしようという形での議論の盛り上がり方に懸念を抱いている。

 

 ちゃんとSDGsの根本精神は「抜本的な変革」だと述べているのである。

 さらに斎藤はこの対談で、

温暖化対策を求めるグレタさんらの運動の中にも、成長にブレーキをかけて別の形の経済を回そうという脱成長の考えがある。SDGs「それを使って成長しましょう」ではなく、そういう動きの第一歩にすべきだ

とも述べている。SDGsの根本精神は斎藤の「脱成長論」と整合的であるという立場を表明しているのだ。

 現状では、自民党政権SDGsを前面に立てて、浪費的経済成長や監視型資本主義を煽っている。

 あらあら、まあまあ、うふふふ。

 その現状からいえば、現状としては「SDGsはまさに現代版『大衆のアヘン』」という一面がまかり通っているのだと言えよう。そこにあまり目くじらをたてる必要はない。

 

 むしろ、前もぼくが書いたことだけど、斎藤のいう「脱成長」は発達した資本主義国での成長を基本的に否定してるかどうか、それは公正な結論なのかを気にかけたほうがいい。

 また、この対談では対談相手の江守が

資本主義の下で、市場の力を使って、排出を減らす技術を普及させることがないと、限られた時間の中での脱炭素は実現しないのではないか。

と述べているように、資本主義と市場経済との混同が見られる。これは広範囲に見られる混同であり、この混同こそが資本主義を手放せない限界を世の中で生み出しているのだと言える。

 斎藤はこの江守の発言に対して、「市場への介入が必要」という趣旨の発言しかしていない。ぼくが懸念したように社会主義とは市場の廃止なのかどうかを斎藤は明確に答えるべきなのだ。ぼくは資本主義の克服と市場経済の廃止は別の問題であり、市場経済を活用した社会主義こそ必要なのだと考える。

 そこを整理することの方が、より重要な左翼(マルクス主義者)の役目だと思う。

 

 

伊藤砂務・はのまきみ『学習まんが 世界の伝記NEXT  渋沢栄一』

 『資本論』入門講座の学習会に講師として呼ばれて話したが、その後、ゆくりなく「渋沢栄一についてどう思いますか」と質問された。当然今やっている大河ドラマの主人公なのであるが、すぐに頭に浮かんだのは「国立第一銀行」ということだった。

 しかし…「国立第一銀行」ってなんだったっけ? いや「第一国立銀行」だったっけ? それを「創立」したんだっけ? 

 うろ覚えすぎた。

 要するに何も知らないのである。

政府は、1872(明治5)年渋沢栄一を中心に国立銀行条例を制定し、商人・資産家・華族などによびかけ、紙幣の発行ができる国立銀行を民営で各地につくらせ、資金を貸しつけたさせた。(五味文彦・鳥海靖編『新・もういちど読む山川日本史』山川出版社、p.247-248)

 

 仕方ないので、個々の資本家の評価はいろいろあるが、マルクスのいう「資本家」は「資本の人格化としての資本家」でしかない、という話を一般的にするしかなかった。

 

 終了後、何も知らないままではいかんと思って、少しネットを見る。

 『論語と算盤』を読もうと思ったが、それよりはまず渋沢の生涯を知らねばと思った。

 公益財団法人渋沢栄一記念財団のホームページをみる。

 「近代日本資本主義の父」と大きく出る。

そのスタートは「第一国立銀行」の総監役(後に頭取)でした。栄一は第一国立銀行を拠点に、株式会社組織による企業の創設・育成に力を入れ、また、「道徳経済合一説」を説き続け、生涯に約500もの企業に関わったといわれています。栄一は、約600の教育機関・社会公共事業の支援並びに民間外交に尽力し、多くの人々に惜しまれながら1931(昭和6)年11月11日、91歳の生涯を閉じました。

https://www.shibusawa.or.jp/eiichi/eiichi.html

 

 渋沢の伝記でも読むか、とは思ったが、そこまで労力をかけるものだろうか、とも思い直し、手っ取り早く伝記マンガを読むことにした。

 渋沢史料館監修、伊藤砂務・はのまきみ『学習まんが 世界の伝記NEXT  渋沢栄一』(集英社)である。

 

 Kindleで購入したのだが大政奉還されるのは66%読み進めようやくだった。

 第一国立銀行設立は82%。

 テンポが遅すぎるのでは…? という思いは拭えなかったのだが、その分、渋沢という男の前半生の「定まらなさ」が印象的だった。

 尊王攘夷の倒幕思想・運動に身を投じ、死を覚悟した蜂起を目論見ながら直前で計画を中止。投獄が身近に迫ってくると激しく動揺。投獄された仲間を救うためという口実もあってなのかどうなのかいまひとつ理屈が不明なのだが、一橋慶喜の家臣となり、慶喜の将軍就任と同時に打倒するはずだった幕府の一員、「幕臣」になってしまう…。という人生を数奇と考えればいいのか、見通しのなさと考えればいいのか、時代に翻弄される一個人の運命と考えればいいのか。

 そして、よしながふみのせいで、「徳川慶喜は頭が固く、持っていた知性を反動的にしか利用できなかった後ろ向きな人物」とつい見てしまう。しかし本作では怜悧で聡明な人物として描かれている。大河の方は、どうなっているのか知らんが。

 

大奥 コミック 1-18巻セット

大奥 コミック 1-18巻セット

 

 

 肝心の「500もの企業の創設に関わった」という部分は、マンガではなく、解説記事として一覧にまとめてあり、「抄紙会社(現・王子ホールディングス)」の設立が一例マンガで紹介されているだけである。

 それが渋沢の業績の中心では…?

 そういう疑問が拭えなかったのだが、渋沢の積極的な行動の側面として本書で面白かったのは、第一に、慶喜の弟・昭武とともにヨーロッパに行った時に様々な近代資本主義のシステムを見聞して刺激される部分、第二に、明治政府に抜擢され、様々な改革に挑戦しながら、大久保利通大隈重信らと対立して結局政府を辞めてしまうくだり、であろうか。

 「第二」に関しては大久保が悪役になっておるなあ。

 下記の図のように、これくらいトンデモ人物扱いされているのは、本書で大久保しかいない。

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前掲『渋沢栄一』kindleNo.105/137

 渋沢が明治政府で「改正掛」にいた時に着手した事業に「前島密」出過ぎ。

 

 なんで幕府が倒れるまでのところをこんなに長い尺でとったんだろうか?

 シナリオの設計ミスでないとすれば、 「伝記」を「立志伝」として捉え、青年期の苦労にフォーカスすることを方針としたのかもしれない。しかし、青年期の渋沢、ふらつきすぎだろ…。

宿直は英語でなんというか

 英語を勉強していると言った。

 どうでもいいことだが、英語で手帳をつけてみようという本はいくつかあって、そのうちの一つを読んで、無理のない範囲でやっている。

 ぼくは「宿直」をする時があるのだが、「宿直」は英語でなんというのであろうかと思い辞書を引く。

night duty

であった。

 いやいやいや…と思った。なんかの間違いでは。しかし例文はどれを見てもnight dutyばかりである。

 night shiftというのもあったが、これが昼・夜勤があってそのうちの夜勤というような意味だから、違う。

 え、いや…しかし…night dutyですか。

 night duty…。

 night dutyをためらってしまうのは、dutyに「義務」という語義の印象が強いからである。

 「夜の義務」…。「夜のおつとめ(はぁと)」みたいなニュアンスになっちゃう。

 が、それは完全に中二病

 「服務」「任務」という語義があって、「夜間服務」という感じに解すれば「なんでもない」のである。

英語を勉強しているんだが

 英語を勉強している。

 なんのために?

 いや…別に…意味もなく。

 『超訳マルクス*1をやった時には、辞書を引き引きという具合だった。

 

 サラサラ読めたらカッコいいかな、くらいに。

 

 しかし英語というものはいったん始めたら日課にしないといけない。

 筋トレと同じである。

 筋トレは週1日の休みを入れて毎日続いている。2017年の秋頃からだからもう3〜4年になる。だいたい30分あればできるほどのメニューだからだ。

 ここに英語など入れることができるだろうか。

 たぶんできないと思う。

 日課を増やすと、一つ一つは小さくて、面白いことであっても、やはり「やらねば」という義務感が多少混じるので、下手をするとそれがいつか積もり積もって爆発してしまう。「あー、もー面倒くせえ!」ってなるのだ。だから日課を増やすことは慎重でなければならない。さしたる目的もないのに日課にするなどということは時間という資源の浪費である。

 しかしそれでも迂闊に始めてしまった。

 まさに「迂闊に」。まだ3ヶ月ほどだ。いつやめても「三日坊主」と言われるだろう。

 

 英語をやりたい、というのは20代の時にも起きた熱情で、この時は結局挫折してしまった。あの頃はバックボーンにしていた方法論がよくなかった。

 「浴びるように聞く」「ドラマを聞き流すだけで身に付く」などの勉強法が当時流行った。

 そこで教材のカセットテープを買ったものの、「シャドーイング」のような方法を知らなかったのでただ聞くだけである。1回聞いたものを何度も聞くのは意味がないのではと思いあまり聞かなかった。今のようにインターネットがあるわけではないから、「どんな単語を話していて、どんな意味の文章になるのかわかる英語の音」などというものはお金を出さないとそう簡単に入手できない。ラジオやテレビの英会話講座があったが、聞き取れないし、面白くなくて日課にならなかった。

 好きな文章を丸暗記するのはどうだろうと思ってやってみた。左翼的文書を英語にしたものを、東京の町田から静岡の三島まで歩く間に暗記するということをやってみた。それはそれで面白かったのだが、だからと言って英語が聞き取れたり、英字新聞が読めたりするようにはならなかったので、あまり意味がないのかなと思い、これも途中で放り投げた。

 要するに、学んでいることもつまらなかったし、上達したような気持ちにもならなかったので続かなかった。

 そして、今思うといろいろと方法論的に間違っているような気がしてならない。

 別に今英語が堪能なわけではないけども、あの頃は方法論についてあまり深く考えていなかったために無用の混乱を起こしたのだと思っている。

 

 今、いろんな英語の勉強本を読むと、書いている人によって方法論が様々である。千差万別だ。仕方ないので、数冊読んでみて自分にとってしっくりいったものを取り入れようと思った。

 その中で一番しっくりいったのは関正生『世界一わかりやすい英語の勉強法 カラー改訂版』(KADOKAWA)であった。

 

 

 その中でもぼくが全くその通りだと思ったのは、関が示した英語トレーニング順序のピラミッドである。一番基礎が「単語力」、次が「文法・リーディング力」、その次が「リスニング力」、最後(頂点)が「ライティング力」である。

 同じ図が下記の記事にも出ている。

president.jp

 ここで「単語力」を「筋力」として捉えている、その発想が目からウロコだった。

 ぼくは受験英語をずっとやってきて、感覚的にはずっと語彙があるかないかが大事だという実感があった。しかし、世の中は「英会話」や「使える英語」のようなものが花盛りで、辞書を引いて単語を暗記するようなものは古い受験英語の感覚ではないかという思いが抜けなかった。

 これは関に限らず、最近の英語の勉強本がだいたい指摘していることだが、受験英語のようなメソッドは否定されるべきではなく、文法をしっかり学んだり、辞書を引いて単語を暗記したりすることは、ネイティブでない人間が英語に到達するための確実な近道である。

 そして、「聞き取れて」「話せる」ということが実際には難しく、そういうものがごちゃ混ぜに「英語」として考えてはいけないのである。

 この本を読んだ時、「あ、単語を一生懸命覚えていいんだ」と気が楽になった。

 

 そして、一番大事なことは、「目標をどこに置くか」ということだった。

 リスニングやスピーキングができればそれは理想なんだけど、そのためには、かなりの時間を割かねばならない。だとしたら「読めればいい」というところに照準を合わせたらどうだろうか、と思った。

 関も上述の記事で

英語の基礎体力(単語力、文法・リーディング力)を、まず徹底的に鍛える。

と述べている。

 西澤ロイ『頑張らない英語学習法』(あさ出版)でも

 英語の主な動作は4つあります。「話す」「聴く」「読む」「書く」です。

 この中で「読む」が最初に鍛えるべき重要かつ基本的なスキルです。(p.25)

 としている。

 

頑張らない英語学習法

頑張らない英語学習法

  • 作者:西澤 ロイ
  • 発売日: 2010/04/08
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

 「日本の学校の英語は読むことに偏重している」「これからは使える英語=英会話」という見解に心のどこかで縛られていて、「リスニングもスピーキングも当面やらない」「読むだけ」という方針にふんぎれなかった。

 これらの本は、そこを明確に回答してくれたのである。

 まず読むだけでオッケー、と。

 

 そして、ひとは自分に関心のない分野は、仮に日本語であったとしても、そもそも言葉も知らないし、そこで話されている中身もわからない。

 だとすれば、ぼくにとっては政治のニュースとか左翼関係のニュースを、報道の言葉で読む、ということができればそれが「目標」になるのではないか、と思った。要するに「英字新聞が読める」程度のことである。

 関は次のようにいっている(強調は原文)。

 英字新聞で多くの人が失敗するのは、気合が入りすぎて難しそうな記事まで読もうとするからです。

 男性の場合、なじみがあるスポーツ欄から攻める人も多いのですが(高校時代のボク)、専門用語連発で確実に挫折します。

 英字新聞はとにかく気楽に。難しそうな記事をムリに読む必要はありません。1部200円前後で英語の勉強ができれば、たったひとつの記事でも読んだら「モトは取った」と思っていいでしょう。(関p.104-105)

 

 それで英字新聞などは買わず(笑)、ネット上にある無料の英文記事を毎日少しだけ読んでいる。その中には「赤旗」記事を英訳しているJapan Press Weeklyなどもある。それを読むと「あ、『野党統一候補』ってJoint opposition candidatesって表現するのか」とか「温室効果ガスの削減を政府に強く求めたって言うときはurgeを使うのか」などという具合に、自分が身近にやっている活動に引き寄せてかなり強い関心で読める。

 ぼくがかつて挫折した20代の頃、Japan Press Weeklyはお金を出して買わないといけないものだったから、1号買ったらそれを後生大事に長い間読むようなものだった。だから自分がやっている左翼的活動、政治活動をどうやって表現するのかは気軽にわからなかったのである。

 これは辞典を引くような時も同じで、今ネットで簡単に調べられる。

 そうすると、例えば「主張する」をどういう単語で言えばいいのかが、数多くの例文を目にすることでおぼろげながら分かってくる。学生の頃や20代の頃は「主張する」と丸暗記していたので、単語の「ニュアンス」がよくわからないままだったのだ。

 

 こうやって1つの記事を読むとわからない単語が10くらいでてくる。多いときには20くらいでてくる。それを調べて単語帳に書いて覚えるのである。これをスマホのアプリなどでやれるのかもしれないが、書くというプロセスと、使い勝手がいいので、単語帳でやっている。

 ただし関は単語のカード化には否定的で、「時間が膨大にかかるので、やらないほうがいいです」(p.56)としている。

 西澤の前掲書では、逆に単語カードを強く勧めていたので始めた。

 単語帳はどうも自分に合っているようだ。

 カードをつくるのは、筋トレのインターバルの1分間くらいにやることが多い。それで終わらないときは筋トレ終了後に引き続き作成を続ける。職場の待機時間などに作ることもある。無理はしない。それで時々思い出して眺めるのである。

 作らない日もあるし、作っても2、3枚という日もある。気にしない。

 単語帳はまだ5冊しかできていないから、3ヶ月で新たに400〜500程度しか覚えていないことになる。関は1日200単語を5セットで1000と言っているので全然追いつかないペースである。しかしまあ気にしない。関のいうのは受験英語だから、と思って読んでいる。

 西澤は前掲書で「市販の単語帳が役に立たない」(西澤p.52)と言っている。西澤は「なぜその単語を覚えたいのですか?」という問いを立てているが、これはまことにその通りで、ぼくは「政治・左翼ニュースを読みたい」し、それで興味を感じているから覚えているので合って、それと関係のない単語など無理に覚える必要は全くない。

 例えばcompensationは「補償金」であるが、これがJapan Press Weeklyには頻出してすっかり覚えてしまった。コロナで補償が十分かどうかが焦点だからである。

 覚えるべき単語、知りたい単語はむちゃくちゃ偏っている。しかしそれでいいのである。どこで使うんだよという左翼用語こそ覚えたいではないか。「半封建的地主制」ってthe semi-feudal landlord systemって言うんだぜww

 

 英文が「なんとなく読める」というのは意外とハードルが低い。

 「年収40万ドル未満の人々」を英語で言ってみろというとなかなか言えないのだが、バイデンの演説で「people making less than $400,000 a year」って書いてあったらなんとなくわかる。

 関も英単語の覚え方について「president→社長」「社長→president」どっちの順で覚えればいいかについて「president→社長」のほうが断然ラクでありそちらを勧めている。また、日本語から覚えようとすると4倍時間がかかるというデータを紹介している。

 日々覚えている単語と、高校までのうっすらとした文法が頭にあると、なんとなく読めるのである。そうすると調子に乗って続くのである。

 

 文法については、ぼくの場合大学受験で得たものがあり、すでに四半世紀を経てかなり錆びついているが、「なんとなく読む」程度には使える。おまじない程度に文法の本を手元に置いているが、時々思い出したように見る程度である。

 

核心のイメージがわかる!英文法キャラ図鑑

核心のイメージがわかる!英文法キャラ図鑑

 

 

 本当はリスニングやスピーキングもできれば相乗効果もあるのかもしれない。

 だけど、例えばリスニングをやるとなると、相当時間を取られることになる。

 行き帰りの通勤電車でやればいいのではないか、とか思うのだが、毎日そんなことを義務のようにやりたくないし、本も読みたいからせっかくの通勤時間が必ずリスニングで潰れてしまうと思うと気が重い。

 そして、ぼくはスマホを持っていないので、リスニングのための時間を取ることは結構面倒臭いのである。筋トレのためにジムに通うようなもので、時間をわざわざ作らないといけない。あ、こりゃ続かないなと思ってすっぱりあきらめている。

 とにかく単語とリーディング。これだけをひたすらやっているのである。

 

 関が前掲書のはじめの方に述べているのだが、「大事なのは『英語をキライにならないこと』」(p.20)である。

 ぼくの場合、「キライになる」とすればそれは義務感に押しつぶされることだろう。

 だから、「1日で英字新聞の記事1段落を読むだけでいい」と考えている。それすらできない日もある。だけど気にしない。筋トレは1日できないと気にするけども、英語は「できない日もある」と決めてかかることだ。

 そして、「結構長いこと英語を勉強しているのに、英語を話す外国人に会って、全然喋れなくても・聞き取れなくても落ち込まない」——ここ、非常に大事なところであるww

*1:驚かれるかもしれませんが、『超訳マルクス』で扱った文献はすべて、イギリスに本部のあったインタナショナル関連の文書・インタビューばかりなので、マルクスが執筆していてもドイツ語ではなく英文なのです。 『超訳マルクス』の最初に載せた「国際労働者協会創立宣言」だけは英語版とドイツ語版という2つの原文があります。

https://kamiyakenkyujo.hatenablog.com/entry/20131007/1381072909 

藤丸篤夫「ハチという虫」/『月刊たくさんのふしぎ』

 今月(2021年6月号)の『月刊たくさんのふしぎ』は藤丸篤夫「ハチという虫」。ハチを進化の角度で切り取っていて、大変わかりやすく、読み応えがあった。

 ハチのイメージが変わった。

 

ハチという虫 (月刊たくさんのふしぎ2021年6月号)

ハチという虫 (月刊たくさんのふしぎ2021年6月号)

  • 作者:藤丸 篤夫
  • 発売日: 2021/05/01
  • メディア: 雑誌
 

  「ハチはもともと、刺す虫ではありませんでした」というところから始まり、腐った木の中に卵を産み付ける産卵管の発達、植物食から他の幼虫を食べる肉食への転換、寄生、腹部の第1節目と第2節目のくびれ…など。

 全体として、「寄生」するというイメージを強く持った。「寄主の行動をコントロールしてしまう」という話はよく聞くけど、ハチにおいてはこんなに事例が豊富なのかという印象を持った。

 アメンボの卵に寄生して、ほとんど乗っ取ってしまい、水中で成虫が羽化する写真は圧巻であった。

 

 もともと祖母(ぼくの義母)が契約し娘のために送ってきてくれていたものだけど、肝心の娘はあまり興味を示さず、ぼくとつれあいばかりが読んでいる。トホホホ。

GWは『オーイ! とんぼ』

 連休中は『オーイ! とんぼ』を全巻読み直す。

kamiyakenkyujo.hatenablog.com

 「ゴルフは、さっぱりわからないのに楽しむ」というスタンスだったが、やっぱりキツい。1巻からわからない言葉を1語も逃さずネットで検索しながら読むという異常な読み方に挑戦! コーチ動画なども見てイメージをつかんだりもする。

 3巻くらいまで面倒臭がらずに読むと…読める、読めるぞ!

  全然違った感じに読める。

 

 

 クラブの種類と飛距離、どの場面に使うか…ということがおぼろげにわかるようになった。詳しくわからなくても、常識的な対応関係があって、とんぼがそこから大いにずれているということだけがギャラリーの反応でわかればいい(そんなレベルなのかよ…と呆れないでほしい)。

 「ボールをすくいにいくという意識がとんぼにはまるでない」という話もよく出てくる。ボールの赤道に対して、リーディングエッジをどう当てるのか、当てないのか、とかそういうことも繰り返し出てくるが、これは感覚的になんとなくわかる。

 「フェースが開く」という話もよく出てくる。意味はわかるのだが、こちらの方は、これをやるとボールがどうなるのかというのが、感覚的によくわからない。

 言っている意味もわからないし、感覚的にもつかめないのが「アウトサインドイン」とか「インサイドイン」とかいうスイングの話である。動画も見たが違いがよくわからないのである。

 兄がゴルフにハマっているので、ぼくがゴルフを一切何もやっていないのに、知ったかぶりして会話に参加して驚かせたい

 そんなチンケな野望を抱いている。(たぶん5秒くらいで馬脚をあらわす)

不破哲三『激動の世界はどこに向かうか』ノート

 先日『資本論』について講師を務める機会があった。

 その時、社会民主主義政党の見方やヨーロッパの到達の見方について質問があった。

 ぼくなりの答えをその時はしておいたけど、以下は日本共産党の幹部の一人である不破哲三はどのように見ているか、ということを知る上で役にたつだろう。

 

激動の世界はどこに向かうか―日中理論会談の報告

激動の世界はどこに向かうか―日中理論会談の報告

  • 作者:不破 哲三
  • 発売日: 2009/09/01
  • メディア: 単行本
 

 

 不破哲三『激動の世界はどこに向かうか 日中理論会談の報告』(新日本出版社、2009年)についてのメモ。強調は引用者=紙屋。

第二の反独占民主主義の内容を、党綱領では、「ルールなき資本主義」の現状を打破し、国民の生活と権利を守る「ルールある経済社会」の実現が柱だとしています。…この目標は、ヨーロッパではかなりの程度まで実現していることで、資本主義の枠内で実現可能であることが、すでに証明ずみだといえますが、ヨーロッパが資本主義政権のもとでこれを実現してきたのに対し、日本ではそれを、革命の課題として、人民の政権、国民を代表する民主的政権のもとで実現しようと言うわけです。ここでは、同じような形の「ルールある経済社会」であっても、当然、より根本的に、より合理的に、より徹底した内容で実施できるはずです。(p.130-131)

 つまり、現在のヨーロッパの現状を、日本共産党が民主主義革命としてめざしている「ルールある経済社会」が「かなりの程度まで実現している」と見ている。

 

もう一つは、その西ヨーロッパで、とくに七〇年代以後に、「ルールある経済社会」を形成する過程がすすんできた、という条件です。多くの国で、「ルールある経済社会」づくりの担い手となったのは、社会民主主義の政党でした共産党は、これを作る原動力である労働者・人民の闘争では大きな役割を果たしたはずですが、その闘争を背景に、その成果を「社会のルール」化する仕事は主に社会民主主義の政党がにない共産党の方は、受け身の立場にとどまったようです。(不破同前p.134)

 この「ルールある経済社会」形成の担い手を、社会民主主義政党の政権の仕事の結果だと見ている。共産党はその背景となる闘争には貢献したが、政治として実現するという点では主体的な位置を占めなかったと見ている。

 

社会民主党は、ヨーロッパの現在の「ルールある経済社会」をつくる上では、政権党として一定の役割を果たしました。最大の問題は、社会民主党にとってはこれが終着駅であって、それから先の目標も展望もないのが社会民主主義だという点です。つまり、資本主義の改革で“事終われり”になるという党だということです。(不破同前p.150)

 

 「じゃあ、社会民主主義の政党でもいいのでは?」という疑問が生じる。

 一つは、資本主義の枠内で終わりが社会民主主義で、それを越えた社会を展望するのがマルクス主義だという規定。もう一つは、二つ前の引用にあるように、同じ資本主義の枠内での革命であっても「より根本的に、より合理的に、より徹底した内容で実施」できるとする。

 

しかし、マルクスは、パリ・コミューンの意義と業績を評価するとき、そこで活動した指導的メンバーの顔ぶれなどを問題にしませんでした。…このマルクスの態度には、マルクス主義者やその党が指導しないかぎり、革命はありえないとか、社会主義の意義ある前進は起こらないなどといった独断的な前提は、みじんも見られません。…私たちがいま生きている時代は、マルクスの時代よりも、もっと激動的な時代です。共産党がいないところでも新しい革命が生まれうるし、科学的社会主義の知識がなくても、自分の実際の体験と世界の動きのなかから、さまざまな人びとが新しい社会の探求にのりだしうる時代です。(不破同前p.156-157)

 この不破の発言には、ラテン・アメリカの社会主義を標榜する政権の経験が反映しているが、それらはその後複雑な結果で終わっている。しかし、パリ・コミューンから議論を起こしているように、もともとマルクス主義を掲げる政党が入っているから革命が起きるとか起きないとかいう問題ではないと見ていることがわかる。

 

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 このように不破は、ヨーロッパで、日本が革命によって目指すべきであるような「ルールある経済社会」が形成されているとみなしている。ではなぜ日本でそれが形成されてこなかったのか、ということについて不破は次のように述べている。*1

まず第一に、日本は、一九四五年の戦争集結まで、労働者・人民の権利がまったく抑圧された、専制政治が支配する社会でした。…世界の資本主義が、「社会的ルール」の確立と発展の二つの節目——十月革命と人民戦線——を経験した時期に、日本社会が、国民の権利を圧殺する戦争と暗黒の道をひたすら突き進んでいたという歴史は、現在にたいへん大きな影響を残しています。(不破p.102)

 国民が運動で勝ち取ったという貴重な経験を、日本は戦前してこなかった、というわけである。

 では戦後はどうか。

戦争が終結して、日本に「民主化」の時代が始まりましたが、この民主主義は、自分の身につくまでにはかなり時間がかかりました。…その後れた状態を突破する使命をもっていたのが、戦後再建された労働組合運動の任務でしたが、戦後の日本は、アメリカの占領体制の支配下にあり、戦後の社会的激変のなかで発展した階級的な労働組合の運動は、占領軍の強圧でつぶされました。(不破p.103)

 不破のこの論建ては、「占領軍のお仕着せ民主主義だ」とまでは言っていないが、戦後の民主主義も国民が「自分の身につくまでにはかなり時間がかか」ったというものだ。しかも、階級的労働運動が弾圧され、闘争によって経済社会改革が進められるという道は困難なものになったという。

 そしてもう一つの理由をあげる。

日本社会の労資関係で、「社会的ルール」のこの後れをなにが補っていたのか、というと、日本独特の「生涯雇用」の制度が、一定の役割を果たしました。…これは、企業単位の労資強調主義の基盤になりましたが、日本資本主義の「社会的ルール」の弱さを、ある程度おぎなう役割を果たしていました。(不破p.104)

 もともとルールが弱い上に、そのルールが新自由主義のもとで崩され、さらにこの企業単位の制度も一掃されたために、ますます「ルールなき資本主義」になった、というのが不破の説明である。

 

 こうした説明に異論がある人もいよう。

 まあ、それはそれである。

 何れにせよ、「日本共産党の幹部である不破はこう考えているのか」という参考になればと思い、ノート的に記した。

 

補記

 志位和夫も次のように述べている。

質問 共産主義社会主義社会が実現した場合、北欧型の福祉国家との違いはどのようなものでしょうか。)

 ……どこかの国をモデルにするわけにはいかないけれど、北欧諸国で達成しているような暮らしと権利を守るルールある社会は、資本主義の枠内でめざすべき社会としては、日本共産党のめざすべき社会と、かなり共通点の多い社会だと思っています。……

 そうしたことも含めて、私は北欧社会には学ぶべきものがたくさんあると思っているのですけれど、それでも資本主義の枠内です。資本主義に固有の矛盾、たとえば格差がなくなっているかというと、なくなっていない。格差の拡大は続いています。そういう問題から自由になってはいないのですね。

 「利潤第一主義」という資本主義のいちばんの問題からくる矛盾は、北欧社会にもありますから、そこは北欧社会を、私たちのめざす社会主義共産主義とイコールというわけには、もちろんいきません。(志位和夫『学生オンラインゼミ 社会は変わるし、変えられる』、民青同盟中央委員会、2021年、p.74-75)

 

*1:これらは同じ共産党の幹部・志位和夫も『綱領教室』で述べている。