ジェニファー・エバーハート『無意識のバイアス――人はなぜ人種差別をするのか』

 リモート読書会は、ジェニファー・エバーハート『無意識のバイアス――人はなぜ人種差別をするのか』(明石書店、山岡希美訳、 高史明解説)。

 

 

 著者・エバーハートの主張する「無意識のバイアス」のメカニズムを正確に理解することがまずは必要だ。

  1. 格差社会(差別社会)の中で大量の格差・差別的現象に触れることによって
  2. 脳の器質的なしくみ・構造によって引き起こされる

…というものだとぼくは理解した。

 大量の差別現象の中で起きる脳の構造によるものである以上、そういうバイアスを持ってしまうのは、その人が思想的な差別主義者だからではない。あるいは心の奥底に差別意識を持っているからではない。誰にでも起こりうることなのだ、とエバーハートは言う。

潜在的なバイアスは人種差別主義の別名ではない。実際、潜在的なバイアスの影響を受けるのに、あなたが人種差別主義者であるかどうかは関係ないのだ。潜在的なバイアスは私たちの脳の構造と格差社会がつくり出した歪んだレンズのようなものである。

(ジェニファー・エバーハート『無意識のバイアス人はなぜ人種差別をするのか』KindleNo.123-125) 

 ぼくは、この本を読んで、表題から想像される「バイアスが引き起こされる自然科学的なメカニズム」のようなものにはあまり関心を持たなかった。

 一番ぼくにとって「驚き」だったのは、米国の黒人を取り巻く状況が、依然差別的なものであるというエバーハートの説明、彼女が説く米国における黒人の状況、というものに一番「驚いた」のである。それが本書を読んでのぼくの最大の「収穫」だった。

 ぼくなりに読み取ったのは次の4点である。

  1. 黒人は依然として米国社会で警察から不当な扱いを受け、一瞬で殺されるかもしれないという危険にさらされた意識を持っている。
  2. 刑事司法においても不利に扱われ、長い拘留で借金を背負うかも、失業するかも、親権を失うかも…という不安にさらされるあまりに、それを回避するために、してもいない罪を認める「自白」をしてしまう。
  3. コミュニティや教育において依然として実質的な隔離が行われている。
  4. ビジネスや採用の場面において、黒人差別は事実上行われている。

 え? お前、つい最近起きて全米・全世界が震撼したジョージ・フロイド殺害事件やその後に起こったBLM運動をまさか知らないの? と言われそうだけども、1.〜4.をとトータルに聞くことで、黒人への差別・抑圧構図が依然として、黒人の日常的な意識を支配し規制するほどに強力なものだという認識が構成された。逆に言えばそういう認識がなかったのである。つまり早い話が、「差別はもうだいたい終わったのではないか」。これだけ衝撃を受けている、ということはぼくは結局その程度の認識をしていたということなのだろう。

 これは日本ではたぶんポイントになる点で、本書の解説でも、黒人社会の差別の現状への認識が「BLM運動への冷笑」を生んでいると述べている。

 ぼくは福岡で行われたBLMを叫ぶデモにも参加した。

 しかし、あらためて米国の黒人差別の状況の皮膚感覚について問われるなら上記のような有様なのだ。

 読書会参加者のPさんは米国で暮らしていたことがあり、黒人が暮らしている区画の状況やたいていの黒人の子どもが処世術として警察への態度を親からどう教えられるかなどについて話があった。

 もう一人の参加者Qさんは、荻上チキが本書を紹介していたのを聞いて、この「無意識のバイアス」の解決策に興味・関心を持って本書を読んだことを紹介した。

 Qさんは、本書の中で「賢明なフィードバック」という介入に注目していた。

 単なる日記を書かせたグループと、自分のアイデンティティや価値観に関わることをふりかえらせる日記を書かせたグループとでは後者の方が「明らかに高い成績を収めていた」。

この研究は特に、早い段階での学力不振に対し、より大きな心理的脆弱性を示す黒人の学生において、心理状態と学習過程の関連性を裏づけている。肯定感の利点は、平均以下の学力で最も苦しんでいる成績の低いアフリカ系アメリカ人の子どもたちの間で最も顕著であった。彼らにとって、早い段階で受ける落第点は「他の子たちほど頭がよくない」「学校ではよい成績がとれない」というステレオタイプを確証するものとして認識される恐れがある。価値観の肯定課題によって、自らの妥当性に対する感覚を回復させ、心理的ストレスを軽減させ、成績不振へ至る悪循環を断ち切ることができた。(前掲書KindleNo.3375-3380)

 さらに同じような介入として「賢明なフィードバック」がある。

 白人の教師から同じように作文の課題を与えられた黒人の生徒群と白人の生徒群をつくり、批判的なコメントをつけながら「もっとできるはずだ」というメッセージを送ると、再提出の割合が黒人群で大きく伸びた。内容も優れていた。これは黒人群ではそういう明示的な安心感・信頼感を渇望している、という解釈ができるのだと言う。

 Qさんは、「これって生活綴り方運動みたいだと思った」と述べた。自分にとって忘れがたい体験となった小学校のクラスでは先生が作文を書かせて自分の生活を見つめなおさせていた。生活を客観的に捉えさせ、そこに必要な教育的介入を与えることで、得難い体験をクラスとしてした、今でもそのクラスのことは忘れない、とQさんが述べた。

 実は、Pさんもエバーハートが刑務所で囚人たちに作文を書かせてそこに批判的なコメントをつけて激励したところ、ものすごく熱い反応が返ってきた箇所に心を打たれていた。

 PさんもQさんも、こうした差別問題に与える教育の介入というものの力に強い感動を覚えたのである。

 ただ、ぼくはそこには少し距離があった。

 それらのエピソードは、差別されている側、つまり打ちひしがれ、尊厳を失わされている人たちにとって教育は大きな力を発揮するという証明ではあるが、差別する側のバイアスを正す力に果たしてなるかどうかは疑わしい。仮になるにしても、そうした丁寧な教育や啓発によって変えられる部分は、限られている上に、なかなか手間がかかる。いや…確かに特効薬はないのだから、手間がかかるし、初めは限定的なものなのだろう。それを倦まず弛まずやるしかないのかもしれない。

 

 ぼくは、解決策として注目した部分についていえば、多様な人たちとの交流は、交流自体では偏見の除去の解決にはならず、逆に偏見を強化してしまう恐れもある、という本書の主張であった。

当時、人種バイアスは一般的に無知の産物であると考えられていたのだ。そこで、人々を互いに交流させるだけで、誰もが大まかなステレオタイプを個々の名前、顔、事実に置き換えることができ、敵対的な人種的態度を和らげることができると考えられていた。バイアスの壁が緩和されれば、社会的統合は少数派の台頭を可能にするであろうと。……

しかしながら、バイアスへの解決策を約束した学校の人種的統合は、主唱者たちが予想していなかった障壁をもたらすことになった。結局のところ、ただ単純に同じ教室に座っているというだけでは、時代遅れの偏見はなくならないのだ。……

他の人が信頼する権威のある教師から、日常的に軽蔑されることで、不平等の規範が支持されているのである。……

交流は衝突を改善するのではなく、悪化させる可能性があることを発見した。

(前掲書KindleNo.3138-3163)

 

 エバーハートが紹介する「単なる交流」の中で起きていた教師による差別は相当に露骨なものである。今日これほどの差別が許容されているとは思えないのだが、エバーハートが別のところで書いているように、「無意識のバイアス」はちょっとした表情やしぐさの中に現れ、それは社会的に伝染してしまう。だから、この部分は解決策を書いているというよりも、「交流により解決する」という「解決策」のナイーブさを指摘している箇所として読んだ。

 それは、黒人の話ではないが、例えば、日本で「同じ偏差値のような人々だけでなく多様な人がいる学校やクラスの方がいい」という主張が一理ある反面で、かえって差別感覚を助長してしまう難しさについても考えてしまった。そこにはやはり意識的な教育介入がなければ、偏見を強化してしまう危険があるのだろう。

 

 という具合に、ぼくは本書に何か解決策を見出した、という読み方をしなかったし、できなかった。差別についての現状、起きる仕組み、解決の難しさについてむしろ思い知らされるような一冊となった。

 

 リモート読書会、次回は坂口安吾『戦争と一人の女』『堕落論』である。 

「地域と人権」誌2021年4月号で紹介されていた『かわた村は大騒ぎ』が読みたい

 「地域と人権」誌2021年4月号(No.444)をめくっていて、冒頭の丹波正史(全国地域人権運動総連合代表委員)「全国水平社創立百周年 部落解放運動100年の歴史 第3回」にあった『かわた村は大騒ぎ』という聞き書きの部落史の紹介に興味をもった。

 

 ここで紹介する『かわた村は大騒ぎ』と題する書籍は稲田耕一氏が書いたものである。私は以前からこの書籍の存在を知っているが、今回の『100年史』の関係で読ませていただいた。久しぶりに胸が熱くなる思いで一気に読んだ。この内容は脇田修氏が書いているように「稲田耕一さんが、村の古老やご両親などから聞かれたこと、また若い日々の体験をふまえて書かれた部落の民俗誌・生活史である」と言ってよい。舞台は現在兵庫県宍粟市一宮町である。ここで紹介するのは、当時の村の獣類処理の仕事、「賤称廃止令」などを受けて村全体の意思として弊牛馬・獣類処理をしない取り決め、差別された村の人びとが、それにも負けず生きる姿、死牛の引き取りと他村の冷たい目線、皮多権放棄の波紋は他村から圧力をまねき弊牛馬処理に従事する人をどうするか、それに手を挙げた家族に対する村からの排除など、その時の部落の人びとの喜び、誇り、決意、矛盾が臨場感をもって語られている。(丹波前掲p.17)

 

 丹波の論文の本文で引用されているのはそのごく一部だ。次の箇所である。

 

 明治四年の三月に、斃牛馬並びに獣類の自由処理の布告を受けて、村では何回も村寄合の結果、何百年の伝統ある仕事ではあるが、皮多と呼ばれる屈辱から解き放たれる喜びを夢見て、一切の皮多権の放棄を四十部落へ通告した。年末には「解放令」を受けて、他村に先走って廻り、「皆様方と同一同格の身分であるとは主張しませんが、世間一般が同一同格になるにもかかわらず、私の村のみが今まで通り一段下の身分の者である、と申す訳には絶対に参りません。世間同様、同一同格の者として付き合わして貰います」と宣言し、各自がこのことによって、どのような無法が起きようと、覚悟のうえ署名捺印し、徳蔵庄屋宛の連判約定書をさし出した。(略)

 署名捺印の瞬間から、我も人間なりと熱いものが胸にこみ上げ、涙する者もあった、と当時この署名に立ち合った古老から私は聞いた。そして家に帰ると、家族の者に、明日から道を歩くに胸を張って歩け、と話したそうだ。

 しかしこの二つの決議が、附近の村々に大きな刺戟をあたえたことは想像以上であった。それもそのはずで、何事によらず皮多は下におれ、芝居見物に行っても「皮多おとおり」で無料ではあるが、便所近くの見え難い所に押し込まれ、大きな声も出せずに見物したものが、今後は木戸銭は払うがどこにでも座れる。何か用事があっても、相手が「おはいり」と言わなければ、戸口から入れなかったのが、これからは戸を開けて入りもすれば、下段にもかけられる。これで我々も人間になれるのだと思うと、胸がふくらむのも無理がないが、一方、よそ村にすれば、いちいち気にさわる。それより牛馬の大事が起きたらどうするのか。この国の人は何百年の昔から、牛馬の大事に手を出したことがない。又猟師達も野山で自由に獣を捕ったが、その処理は何も知らず、ただ皮多の人に重さいくらで売り渡したが、今後は自分達で買主をみつけるか、それとも皮を剥いで処理するか以外にない。関係村々でも、寄合を開いて協議したが名案は浮かばなかった。(稲田耕一『聞きがき 部落の生活史 かわた村は大騒ぎ』部落問題研究所、1995年)

 

 なるほどこれは面白い。「その時の部落の人びとの喜び、誇り、決意、矛盾が臨場感をもって語られている」(丹波)。

 丹波自身も改めてこの本に感動したのであろう。本文の引用とは別に「読書案内『かわた村は大騒ぎ』」として2ページを割いて同書の抜粋を多数載せている。

 これはぜひ読んでみたい、と思ったものの、なんと福岡県内の公立図書館には1冊も置いていない。同じシリーズである『聞きがき 部落の生活史2 極貧の村のくらし』はわずかに県内に1冊あった。

 

 

 なんとかして読めないものかなあ…。

佐久間薫『カバーいらないですよね』

 中1の娘がどんな大人になるのか知らない。どうせ子どもの「65%は、大学卒業時、今は存在していない職に就く」んだから、あれこれ悩んでもしょうがない。

 佐久間薫『カバーいらないですよね』は書店で働く主人公の「書店員あるある」を描いたコミックだ。

 

 ぼくはこれを読んで「あー、娘もこんなふうに書店で働けたらいいな」と思った。

 「あのなー、書店労働ってどんだけ大変だかわかってんの?」という声が聞こえてきそうだけど、確かに他の書店員マンガってそのあたりの大変さ・過酷さが描かれている。どんなにお気楽そうに、あるいはギャグを交えた作品であっても。

 ところが、この作品が、書店労働の「ゆるさ」しか流れてこない。書店労働でありがちな大変さとしてはこの作品では返品の本を縛る労働の話が出てくるけども、それさえも途中で職務を放り出して腕相撲をし始めてしまう「ゆるさ」がある。

 この書店の中で一番厳しそうなのは主人公の先輩にあたるメガネをかけた男性の「泉氏」であるが、その泉氏のイライラやオラオラでさえ、愛すべきキャラの一つでしかなく、たぶんぼくは彼と一緒に働きたいと感じている。

 客から問い合わせられた「アズミノ」の所在地も漢字もわからない主人公は、「でも私高卒なんで」と言い訳をしようとするが、泉氏から「十分だ」と批判されて漢字を勉強するよう指導される。主人公は律儀にも漢字ドリルを(おそらく自費で)買って帰るのだが、自宅で少しやり始めたかなと思ったらすぐに飽きてテレビを見始めてしまう。「それ、まんま、うちの娘やん…」と思わずにはいられなかった。

 「ゆるさ」を伝える作品は、そのまま現代では「楽しさ」に結びつくことが多い。そこでは労働は「やりがい」や「社会的意義」「自己実現」よりも、「ゆるさ」があって「楽しい」ことの方が大事だ。

 この書店では、労働そのものではなくて、労働を通じて働いている人たちとキャッキャッと戯れている感じがモチーフになっている。彼女(娘)が高卒で社会に出て、もしこんな職場があれば、それは幸せなのではないかという思いを抱いた。そして「さらに働きながら、自分が描いたマンガをこんなふうに刊行できたらいいな」とも思った。

 そういう意味ではこれはまあ一種のユートピアなのかもしれない。ユートピア文学。

中野晃一「意思決定の場に女性をどう増やすか」

 「前衛」2021年4月号に掲載された特集「森喜朗氏の女性差別発言が示すものは何か」のうち、中野晃一「意思決定の場に女性をどう増やすか」に興味をひかれた。

前衛 2021年 04 月号 [雑誌]

前衛 2021年 04 月号 [雑誌]

  • 発売日: 2021/03/08
  • メディア: 雑誌
 

  特集名で大体どういう話題かはお分かりになると思うが、中野は、「みんなの職場には“森”はまだいる」というミクロな男性権力の話にせずに、

どこにでもよくある問題という形にしてしまう前に、あの問題はあの問題として重要な意味があるということをとらえておく必要があると思っています。(p.43、強調は引用者、以下同じ)

としている。ただ、「あの問題として」というのは非常に狭く「オリンピックやアスリートの分野で」というほどに限定してしまうのではなく、「意思決定の場に女性がいないという問題」(中野)としてとらえよ、という提起である。

 

 中野はわざわざこの問題を、

社会の問題以前に政治問題として認識しなければいけないと思います。(同前)

と書いている。

 中野の言う「政治問題」というのは、どういうことだろうか。

 中野は次のように書いている。

男性のボスがいて、いつまでたってもその人に忖度し、追随する。そのボスは、男たちをはべらせて、居続けるということが続いていて、いつまでも公職をわがものとして続ける。ある意味でわかりやすい日本版家父長制の権力の使い方が露わになった政治問題だと思っています。(p.43-44)

 もう少し詳しくこの問題を中野は言い換えている。

彼らは、わきまえる人たち——まつろう人たち、つまり、既存の権力秩序に服する人たちだけを相手にし、それが政治、それをもって統治することだと思っているのです。異分子を排除し、黙らせるということを、「以って和となす」と思っている。内輪の和を乱したことに対して腹を立て、その収拾をつけなければいけないと思っているだけで、発言の内容が何が問題だったかについては、わからないままで、わかるわけがないと思います。(p.44)

 これを中野が「政治問題」だとするのは、まずもって政治の分野でこのような状況がまかり通っているという意味であろう。

 しかし、中野は「社会の問題以前に政治問題として認識しなければいけない」といいながら、問題を政治分野だけでなく、社会全体に敷衍する。

…政権与党も、五輪の組織委員会JOCも、あるいは多くの会社や組織においても、実際には、多様に開くことに逆行する現実があります。政治や社会のいろいろな意思決定の場で、男性しかも中高年の男性だけでものごとを決めていくことを、変えていかなければならないということに、市民社会の側でも認識を新たにしていく必要があると思います。(p.45)

  その上で、

どんな組織体であっても、——場合によっては社会運動などにおいても——、一定程度ピラミッド型になっています。(同前)

としている。

 うむ。

 これはなかなか意味深長な発言の構造ではないのか。

 中野の発言はある意味でわかりにくい。

 いいですか、これは社会問題という以前に政治の問題なのですよ、と「政治」にまず問題を向かわせる。オリンピックという「社会」の問題であるにもかかわらず。そして再びその問題を政治と社会両方に振り向け、市民社会や社会運動の側にも注意を促している。

 中野は、市民団体や共産党にもそういう問題がないですか? と警告しているのではなかろうか。

 共産党は別にそう警告されたからといって、キレる必要はない。(キレないからこうして中野のインタビューを自分の機関誌に載せているのだろう。)なぜなら共産党はわざわざジェンダー平等の問題で「自己改革」を大会決定として提起しているからである。

 もちろん、共産党だけではない。中野は、女性を意思決定の場に増やしていることについては「共産党がどの政党より頑張っている」(p.46)と高く評価している。

 

 中野の提起は、よく見るとジェンダーという領域を超えている。

 異分子を意思決定の場から排除するな、というさらに広い提起だからである。

 

 ただし「市民団体や共産党だって異分子を排除しているんだろう」というこれまで言われてきたような、どちらかといえば左翼叩きを自己目的にして本気で多様性を追求しない議論とは違う。

 民主主義というシステムは、社会の構成が多数であれば自動的にその構成が反映されて参加が進むという建前があった。中野も、団体や会社では、選挙や実績で、意思決定の場に参加する代表を決めるので「公平だ」とする建前があることを認めている(p.45)。

 しかし、どうもそうはなっていないというわけである。

 女性が半数世の中にいても意思決定の場には入り込めない。

 若者が、困窮者が、あるいはメインストリームに反対の人たちが。

 そうした人たちが自動的に入り込めないのは、意思がないからではなく、入り込むために何らかの障壁があるからだろうと考えるのである。

 中野は次のように言う。

入り口のところで参入障壁がないのかを注意深く見つめ、議論し続けて、より平等に参加できる機会をつくっていく。そのうえで。次はより責任のあるポスト、あるいは役職についてもらう。そういうときに、何が障壁になっているかをきちんと調べて変えていくことも重要です。(p.46)

そういったことを経ていかないと、最終的に持続できるような状態で意思決定の場に女性がいないという問題を根本的に解決することはできません。お飾り的に女性をどこかから連れてくることによってごまかしをするという、実際に意思決定を牛耳っている人たちからすれば何も怖くないことがおこなわれてしまいます。(p.46)

 これを例えばアファーマティブ・アクション、「ゲタをはかせる」という制度で解決することもあるだろうが、それは一つの選択肢に過ぎない。そのやり方は良い点も悪い点もある。

 他の方法もいくらでもあるわけだ。

 例えば、PTAで「任意参加であることを会員に周知しよう」という人はPTA会員(親と教職員)にその意見を主張する場は年に1回の総会しかなく、そこに会員はほとんど参加せず(委任状の山)、発言時間も数分しかない。そのような異分子の意見が通ることもないし、役員になる機会(当選する可能性)も事実上ない。

 そうした時に、例えば多様な意見を、普段から見聞きできる場所を保障することで、この問題をクリアすることもできる。

 よく言われるように、長時間残業ができることが会社にとっては幹部の資質として考えられるのであれば、長時間残業という現実を変えるか、短時間で現場で働いている人を幹部として多数入れる制度をつくるか、様々な方法がある。

 いずれにせよ、「参入障壁がないのかを注意深く見つめ」それを取り除くようにしないと、それは「意思決定の場に女性や多様な存在を入れる」という改革にならない…こう中野は言いたいのである。

 

 現実の多様性を反映するよう、障壁を人為的に取り除き、公正な競争ができるシステムに改造せよというのである。経済において独占を排除するようなものだ。言論や表現ではこうした過保護は危ういが、そうではなく現実の格差を是正して公正な競争を確保する改革については、原則的にぼくは賛成である。

アキヤマヒデキ『ボクらはみんな生きてゆく!』1

 ほぼ毎号読んでいるマンガ雑誌スペリオール」の中で、アキヤマヒデキ『ボクらはみんな生きてゆく!』は楽しみなマンガの一つである。そのことは過日も書いた

  「ボクらはみんな生きてゆく!」は、主人公が田舎での生活を始める話だが、今農作物を荒らすシカを駆除するために、免許を取得しようとしている。

 シカを撲殺しようとするがなかなか一撃で殺せずに、何度も何度も叩いてやっと死なせるという、まことにむごい様が描かれている。急所を知らない上に、非力なのである。自然に対して技術的な意味でダメさが、なんだかぼくによく似ていて他人事ではないと思った。

 今回は箱罠にかかったシカを刺殺するシーン。シロウト的な目線がとてもいい。

https://kamiyakenkyujo.hatenablog.com/entry/2020/10/11/170306

 

 

 

 「狩猟」を扱ったマンガとしては『山賊ダイアリー』があるが、同作と比べると『ボクらは…』の第1巻は、動物との知恵比べといった印象が強い。なかなか罠にかからないシカとの知恵比べをして、試行錯誤するシロウトっぽさが読ませる。

 

 …と、さっきからぼくはアキヤマを「シロウト」扱いしてばかりいるが、作中で彼の幼少期を見ると自分の工夫でスズメを獲ったり、魚を捕まえたりと、岡本健太郎と似たような「動物採集」の素養を持っていて、たとえばぼくなどと比べると実際にはおよそ「シロウト」ではない。相当の工夫家である。

 

 『ボクらは…』1巻で興味を持ったのは、村民が狩猟者に対してかけている期待や注文の温度だ。シカの被害で困っているのに、駆除死体が動物に掘り返されると大騒ぎしたりする。

 シカを1頭駆除すると県から5000円もらえるが、アキヤマが駆除したのは月に7頭。それだけでは生活できないので、さらに1頭あたり1000円を「村」から助成してもらえないかと「村の会合」で持ち出すのだが、「村の年寄り」に怒鳴られるのである。

お前 アホか!

1頭につき県から5千円貰おとるやろ!

  それでは足りない、罠の部品・破損のコストからすると逆に赤字なのだ、とアキヤマが窮状を訴えるのだが、

そういうことはな、村のみんなに鹿肉でも配って、ちゃんと根回ししてから言えや!

いきなりそんなこと言うてカネが出るわけないやろ!

 とさらに怒鳴られる。

 なんだこの理屈は。

 その「年寄り」の言うところの「アホか」の「アホ」とは、一体何を指して「アホ」と言っているのだろうか。少なくともアキヤマの描写を見る限りでは、「鹿肉でも配って、ちゃんと根回ししてから」言わなかったことが「アホ」だというのである。

 なんのために「会合」をしているのか。

 大事なことは全て「会合」とは別の「鹿肉でも配って」もらったメンバーへの「根回し」によって決められていて、それを何一つ隠すことも恥じることもなく大声で喚く、この村のセンスに絶望する。

 最近もそうした、“大事なことが会議ではなく別の場で決まる”という話をどこかで聞いたような気がする。五輪とか、ナントカ新社とかで。

 

動物がうまく描けなくても作品として面白い

 グラフィックにおける動物の描写レベルについて一言。

 別に「うまい」というわけではない。

 というか、ダイナミックさがなくて「ヘタ」と言えるかもしれない。

 無機質な目。人形っぽくさえある。

f:id:kamiyakenkyujo:20210316213811j:plain

アキヤマヒデキ『ボクらはみんな生きてゆく!』1、小学館、p.51

 だけど、それでなんの問題もない

 『山賊ダイアリー』もそうだけど、よりによって動物の狩猟を描いているマンガであるが、写実性を基準にした巧拙はこういう作品においてほとんど問題にならない。むしろそうした描写にかけるコストは余計なのではないかとさえ思わせる。

 

作者の自画像

 作者アキヤマはぼくと同じくらいの年代であろう。

 ほうれい線が入ったり入らなかったりする。

 入れると途端に老けて見える。入れないと20代くらいに見える。

f:id:kamiyakenkyujo:20210316214358j:plain

同前

f:id:kamiyakenkyujo:20210316214423j:plain

同前

 その中間を表すグラフィックがこの絵柄ではなかなか開発できないのであろう。(これは他の作品でもぼくはしばしば述べているが)

 

 

 

花津ハナヨ『情熱のアレ 夫婦編 夫婦はレスになってから!』

 夫婦の間のセックスやセックスレス、不倫を描いたマンガがいろいろあるんだけど、花津ハナヨ『情熱のアレ 夫婦編 夫婦はレスになってから!』に出てくる会話や温度感覚が自分にぴったり照準が合っていて、なんども読み返してしまう。

【おまけ描き下ろし付き】情熱のアレ 夫婦編 ~夫婦はレスになってから!~ 1 (Love Silky)

 主人公の美雨と、パートナーの直太朗の夫婦(幼稚園に通う娘が一人いる)の物語で、この夫婦にはすでに4年間セックスがない。

 思ったことを3つほど書く。

 

手作り工作としてのセックス

 一つは、「セックスレスを超えて5年ぶりに夫とセックスをしたら、それはもう自分と夫が作り上げたセックスではなくなっていた」件。「浮気」確定だと美雨に悟られてしまうのである。

 直太朗は美雨と付き合い始めた当初は自信なさげで、どうやったら快感を得られるのか、というか、お互いにとってどこが気持ちいいのかを手探りで作り上げていく共同作業としてセックスができていた。

 ところが、5年ぶりに再開させたセックスは

私たち二人が作ったものじゃなくなって

彼が他の人と作ったものとなっていました

 という。

 うわー、そりゃホラーだ、と思う一方で、セックスというのは本来そういうもので「ハンドクラフトとしてのセックス」であることが普遍的なのだと改めて感じた。

 特定の相手とのセックスというのは、ミリ単位の微細なズレを修正して作り上げていく精巧な工作に似ている。だから出来上がったフォルムというのは、いかに「一般的な姿」、例えば映画やビデオで見るようなものと比べると奇妙奇天烈な形になっていても、それがそのカップルに合っているのなら、そのカップルに十二分にカスタマイズされた姿なのであって、そこでは「一般性」は何の意味も持たない。

 一夫一婦制のもとでのセックスって、このようにいつでも手作り工作みがあるわけだが、そこには、その特殊なセックスのあり方、つまりある種の「狭さ」を批判する材料がないのだとも言える。他から学んできて自分たちのセックスはもっとこういうふうに改善できるのではないか、ということが基本的にないからだ。

 昔つきあった人たちのセックスと比較して、現在のパートナーとのセックスを批評的に考えることはできるだけども、せいぜいその範囲である。

 不倫や風俗によって日常的に比較の材料を得ることができる条件があれば別だが、一夫一婦制のもとでは基本的に禁止されている。

 あとは、知識として仕入れてくるくらいになる。

 そういう本はいろいろある。ネットにもそうした知識が出ている。だけどそれを積極的に取り入れて実際の改善に結びつけるというのは、相当な意識的努力が必要なんじゃなかろうか。しかも性的なタブーが世の中にはあるから、そんな努力をしている人は稀有ではないのかと思う。

 「いや、別に改善なんかしなくても、そのカップルが二人で(文字通り)手探りで作ってきたセックスがあればそれでいいのでは?」という結論になるわけだけど、不幸にしてその工作物が不具合であったら、(ふーん、セックスってこんなもんか…あんまり面白くないね)ってな感じでそのままセックスレスになるってこともあるんじゃないのだろうか。セックスレスになってもそれでカップルが続いていけばそれでいいけど、セックスがないことによって失われる円滑さもあるんじゃないかとも思うのだ。

 

 美雨の場合、セックスが回復したことでいろいろうまくいくようになった夫婦仲や家族関係というものがまさにそれだと思うのだが、美雨は「じゃあセックスを我慢して受け入れていればよかったのだろうか…」と悶々とする。それに対して、幼稚園のママ友から、そういう努力している美雨の姿、トライ&エラーを繰り返す美雨の姿は「好きだ」と言われ、結びつきが強くなった美雨・直太朗のカップルの姿を賞賛される。「正解ってひとつじゃないよね」と言われるのである。

 

 ぼくはセックスを改善する機会を得たいと思う派である。

 本作では美雨のママ友(マキ・王子)カップルが得難い話し相手になる。このカップルは実は前作『情熱のアレ』の主人公カップルの「その後」なのであるが、少なくとも1〜2巻までは美雨・直太朗夫婦の問題をあぶり出すための、ある種の理想モデルのように扱われている。(「王子」はあだ名。「王子様」の意味)

 マキ・王子夫婦は、セックスグッズを扱う会社で働いているから、ある種の「専門家」であるし、そういう話題にも慣れている…っていう設定である。

 性の話題を振っても引かれない。フランクに性が話題になる。

 そしてテキトーではなく、専門的で、公正な意見が返ってくる。

  あ〜こういう友達が欲しい〜と思ってしまった。

 

セックスする権利

 二つ目は「セックスする権利」について。

 その王子・マキ夫婦が珍しくケンカをするのだが、その原因がセックスなのである。

 王子はストレートにマキに次のように要求する。

f:id:kamiyakenkyujo:20210314052859p:plain

花津ハナヨ『情熱のアレ 夫婦編』2、白泉社、kindle95/207

 このコマだけ見ると、王子の表情といい、自信を持った断定調といい、何だよ何様だよお前はパートナーに「セックスする権利」を主張できると思ってんのかよと思ってしまうコマである。

 しかし、よく読めば必ずしもそうではない、単純にそうとも言えないことがわかる。

 王子の要求はできれば毎日セックスがしたい、だけど妥協して週1回にしているのだという。

 マキによれば王子とのセックスは「フルコース」のようなもので、美味しいけど毎日食べるのは…というものである。その上、マキの昼間の仕事が繁忙期で体力を温存しておきたい。 王子もそれをわかっているからずっと何も言わなかったのだが、ついにトラブルになったのだという。

 いわば、王子はセックスについて粘り強く交渉を続けてきたが、ついに爆発させてしまって、上記のようなキツい表情のコマになったということなのである。王子は傷ついていた、ということである。

 

 アムネスティ日本が、買春に関して金銭を払ったからという理由で「権利としてのセックス」を要求することを批判している

いかなるセックスも同意がなければならないということだ。権利としてセックスを要求することは、誰にも許されない。

 これは買春に関わってのテーゼだけども「誰にも許されない」とあるように、たとえ夫婦間であっても事情は同じだろう。夫婦であるという理由でセックス権があらかじめあるわけではない。

 だから、このコマを最初に見たとき、「あっ、これは『セックスする権利』じゃねーの!?」と思ってドキリとした。しかしよく読めば、王子の爆発の、やや不公正な表現であったわけである。

 奇妙なもので、王子のこのセリフ自体は、マキに対する交渉としてはアリだとぼくは思う。つまり「セックスの回数が少ないから考慮してほしい」と表明すること、そして「あなたが応じる気がないなら、あなたが合意しさえすれば『外』で自分は満たしてくる」と表明することは。

 どちらも相手の判断や合意を無視して、自分の権利として主張し行使してしまうと全く誤ったものになる。それくらい微妙なセリフだと思う。

 逆に言えば、こうした王子とマキの交渉はぼくから見て非常に理想的なものである。本来セックスの回数についてこうした公然たる交渉が行われるべきではないだろうか。

セックスのことで話し合うって発想なかったな…

とこの王子・マキの話を聞いた直太朗がつぶやくのは、非常に重要な気づきである。

 

「女として扱われたい」

 三つ目は「女として扱われたい」という言葉。

 2巻で、美雨は、バイト先のマッサージ店の店長の飲み会に合流して、全く知らない男女、しかし気さくな人たちとセックスについての話をする。

 ためていることを吐き出すためにもらった時間で、美雨はその飲み会参加者にこんなことを告白する。

「さっき要さん(飲み会の参加者)に『赤塚さん(店長)に手ェ出されてない?』って言われたのがうれしかった」

 そして告白中に自分で気づく。

「だってもうそういう対象として見られることないって思ってたから……  あ」

「ん?」

「私“お母さん”になったから自分で女の気配を消していたくせに 女扱いされたかったんだな…」

 

 「女扱いされる」。

 ここでは必ずしも自分のステディである直太朗に「女扱い」=性的対象として見られることに限定されていない。

 女性を性的対象としてとらえることには、特に最近厳しい風潮がある。

 拙著『不快な表現をやめさせたい!?』でも述べたけど、女性のさまざまな人格の側面のうち、性的な側面だけを取り出して、モノのように扱うことは女性を二級市民として扱う風潮を助長させるだろう。*1

不快な表現をやめさせたい!?

 

 しかしだからと言って、「性的な対象として見られたくない」「性的な存在として扱われたくない」というわけではない人もいる・シチュエーションもあるのである。「性的な自分もいるよ」と声をあげたいのである。

 「はっ! 性的に見るなって言ったり、見ろって言ったり、一体どっちなんだよ!」という声が聞こえてきそうだが、「性的にだけ見るな。だけど性的な一面もある全面的な人間だっていうことも知ってほしい。そういう当たり前の気持ちなんだよ」と反論されるだろう。

 美雨はそう告白して涙を流してしまうのだが、性的な自分をどう表現したらいいかわからない、むしろ過重とも言える性的表現へのストレスが美雨を追い詰めている。

 

ちょうどいい温度

 以上である。

 セックスレスや不倫を扱うマンガ作品はいろいろある。そこには必ず「恋愛」的な要素が入り込むので、どうしても主人公が陶然となったり、逆にロマンチックにシリアスになったり、あるいは真面目な文脈で深刻になったりしてしまう。

 もちろん、読者としてそこにハマれば、そうした感情を深く沈みこませる描き方に共感できる。実際ぼくはそのようにして楽しんでいる。しかし、読者によっては、そこから少しでもズレてしまうと、自分にはどうでもいい他人の恋愛や家庭事情を見ているような気になってしまう場合もある。

 「勝手にやってろ」と。*2

 

 ところが、本作の花津の作風はどこかしらギャグっぽい。マヌケなコミックエッセイのようなゆるさがあって、いつも一歩引いて見ているような視線で読めるのである。万人にとって「読みやすい」のではないかと感じる。

*1:と言ってもその本で書いたように、そうした表現を規制することには必ずしも賛成しない。

*2:韓国ドラマ「ロマンスは別冊付録」を見たとき、主人公の女性〔イ・ナヨン〕の労働実態や女性の地位、あるいは出版社としての物語には大いに興味をそそられたのだが、その女性と男性〔イ・ジョンソク〕との恋愛のイチャイチャ描写には自分でもびっくりするほど関心が持てなかった。『僕の心のヤバイやつ』の男性主人公の暗さ・僻みっぽさはそのまんま自分を投影できて、主人公がクラスの女子といい関係になるたびに「ふぉぉぉぉ…」と心が踊ってしまうのだが、イ・ジョンソク自身、およびその役柄くらいハイスペック(イケメン・作家・大学教授・出版社編集長)になるとたぶん(ぼくと)違いすぎて(ぼくが)全然入り込めないんだと思う。

田川建三『イエスという男』

 リモート読書会では田川建三『イエスという男』を読んだ。

 

イエスという男 第二版 増補改訂

イエスという男 第二版 増補改訂

  • 作者:田川 建三
  • 発売日: 2004/06/10
  • メディア: 単行本
 

 

 もちろんなんでもハイハイと言う「イエスマン」のことではなく(笑)、キリスト教の始祖とされているイエスのことである。

 どういう本か。

 イエスを神の子でありまた宗教家であるとするイメージを一方の極とすれば、他方でイエスをローマ支配と闘った社会革命家とするイメージの極があり、この両極のイメージを排して、イエス像を打ち立てようとしている。

 当時イエスが活動したパレスチナユダヤ教が支配している土地であり、政治・経済・宗教が一体となっていた。「イエスの活動はやはりユダヤ教批判を本質としていた」(p.167)とある通り、イエスは当時のユダヤ教を批判するのだが、それは、宗教が生活のこまごましたところまで支配をしていたからである。イエスはその支配に反対して、叫びをあげる。

 しかし、その支配への反対(反逆)は、宗教だけでなく、政治や経済へのおかしさへの反逆となってくる。このために、宗教批判を中心としながらも、社会経済構造への反逆ともなって現れてくる。

 他方で、支配への反対は、その支配にかわる、首尾一貫した新たな宗教や政治経済の体系を提示するわけではなかった。あくまでもイエスの反対は鋭い斬り込みをするものだが、あくまでも反対にとどまるものだった。いわば「逆説的反逆者」だったのである。

 

 イエスの言動から新たな宗教を組み立てようとした原始キリスト教団は、イエスの宗教支配への批判を、「ユダヤ教批判」へと読み替え、ユダヤ教を批判して新たな普遍的宗教を作り出したのがイエスだとする。こうしてイエスは「キリスト教の先駆者」であるという扱いを、キリスト教内部で受けていく。

 そして、イエスが行なった社会経済構造への批判は骨抜きにされて、宗教的な説話として読み替えられてしまう。

 

 田川建三は、こうしたキリスト教側のイエスの歪曲に逆らって、「イエスキリスト教の先駆者ではない。歴史の先駆者である」(p.11)という規定を行う。「歴史の先駆」とは、宗教・社会経済などが一体となった抑圧体制への批判者だったという意味であろう。

 しかし、イエスが社会革命家であったという議論にも田川建三は与しない。

 イエスをローマ支配に反対した社会革命家と描くのは、無理がありすぎるというのである。

 

 イエスキリスト教の宗教家とみなす考えも、社会革命家として描く考えも、どちらもイエスを無矛盾の、論理一貫した、体系的考えの持ち主として前提しすぎていると田川は批判する。1世紀の思想が、あるいは人間の思想がそもそもそんな無矛盾の、論理一貫した、体系的なものであるはずがなく、後からこじつけるのはやめろ、といいたのだ。

 

 ラストの章は、「ふーん宗教批判したのがイエスだと言いたいわけ? じゃあ、イエスには宗教的要素、宗教的熱狂は全くなかったの?」という問題、田川自身の立論(イエスは宗教家ではない)が招く矛盾の検討にあてられている。

 

 ぼくは田川のイエス解釈が妥当かどうか、何の素養もないので判断はできなかった。

 だけど、面白くはあった。

 例えば冒頭に、「祈り」について書かれている。

 当時のユダヤ教が支配していた社会では専門の宗教学者たちがいて、そいつらはお金もある、労働もしない暇人なので、生活の実態を無視してやたらに長い祈りの文句を考え出して、宗教儀式=法だと言って押しつけてくる。それに対してイエスは、「だいたい祈りは神との対話なんだろ? 他人に見せびらかすもんじゃないよ。そもそもお前らの押し付ける祈りは長すぎるぜ」と言って

「父さん、お名前が聖められますように。あなたの国が来ますように」

でいいじゃん、ってことでたった二つに縮められてしまった。さらに、「我々の毎日のパンを今日も与えてほしい」って付け加えるといいよ、としたのである。

聞いている者たちは唖然としたに違いない。聖なる神を讃美する祈りを、俗語もまじえて、ぎりぎり最小限まで縮めてしまったあげく、こともあろうに、「今日食うパンをほしい」などと付け加えたのだから。(p.24-25)

しかし、何を祈るといって、当時の民衆にとって、ローマ帝国の間接支配、ヘロデ王家の支配、宗教的貴族層の収奪と、二重三重の収奪に喘ぐ民衆にとって、そして周期的に必ず押し寄せてくる飢饉によって生命も危険にさらされる民衆にとって、無事にその日その日のパンがほしいというのは切実な気持ちだっただろう。(p.25) 

 イエスの場合、「祈り」というものが設定されるユダヤ教社会全体の様相に対して、またそこでなされている実際の祈りに対して、皮肉に、批判的に、言葉をなげつけていっている。それは皮肉な批判でありがなら、同時に、生活する者の叫び声でもある。(p.25、強調は引用者)

 逆説的反抗者であり歴史の先駆者であるというのはこういう意味だ。ユダヤ教の批判者であるが、社会革命を叫ぶのではない。生活の実感を込めて現状を厳しく批判する、それがイエスなのである。

 そして、キリスト教側がこれをどう歪曲して「付け加え」をやって、無害な宗教に変えてしまう(ユダヤ教支配と同じような方向に戻っていく)かも、田川は記述する。

この場合、ルカ〔ルカ福音書〕はまだイエスの発言を言葉としてはかなりそのまま伝えているが、マタイ〔マタイ福音書〕になると、「天にまします我らの父よ」となり、「御国を来たらせ給え」のあとに、それでは短すぎて不満だったのだろう、「御旨が天にて実現しているのと同様に、地上でも実現しますように」とつけ加えてしまう。(p.25-26)

 ここには田川の主張のエッセンスがだいたい顔を出している。

  それほど興味もないジャンルなのに、とにもかくにも400ページもの大部にも関わらず読み通せてしまった。文体やロジックは間違いなく面白い。読み物として優れているのである。

 

ぼくの中のキリスト教像が変わった

 ぼくが読んで一番興味深かった点は、実は本書の主張よりももっとずっと手前のところ。

 え、そんな初歩的なところ? と驚かないでほしい…。

 田川によれば、聖書学ではイエスが言った言葉はどれで、どの部分が後から加わったか、福音書を書いたマルコとかマタイが付け加えたのか、ということがまあだいたいわかるんだよ、ということだった。また、福音書を書いた人によって、当時の教団が主張していたことの何を強調しようとしたかもわかる。

 イエスの言ったことが断片的にまずある。

 次にマルコが20〜30年後にそれを福音書にする。またQ資料(現在は失われている)というイエス語録ができる。

 50年くらいしてから、Q資料からマタイ福音書とルカ福音書ができる。

 ルカ福音書は1人の著作者による月並みなイエス観。

 マタイ福音書ギリシア語を話すユダヤ人の教会の学派的作業。

 こういう潤色を逆に遡って剥いでいくと、最後に「客観的にイエスの発言を確定しうる」(p.29)。「ある程度以上に本格的に福音書研究にたずさわった学者たちの間では、どの伝承がイエス自身にさかのぼるかという点では、非常に多く一致している」(同)。

 ただ、言葉は残っても、それがどんなシチュエーションで発せられたかは、記録者の色が出ているので、解釈が違ってくる。

 こうして見た時に、田川は、イエスは「愛」などという言葉はほとんど使っておらず、マタイやルカがあとで付け加えたんだと言う。同じく「神の国」とか「原罪」とかいった、ぼくらがキリスト教の根本概念だと思っていることも福音書で付け加えられたものだとする。

 これが本当か嘘かはわからない。

 だけど、こうした田川の聖書学についての話を聞いていると、なんとなく「イエスのもともと言ったことを、20年後、50年後の人たちや教団が、ある種の意図をもって再解釈したり、教義体系に組み直したんだな」というイメージができてくる。

 ぼくはキリスト教というのは、聖書を中心に教義や解釈がはじめからわりとしっかりしていて、非常に細かいところを学派的に争っているのかと思っていたのだけど、田川のいうようなイメージでとらえると、イエスの活動と、その後の福音書を書いた人たちや初期の教団との間にはだいぶ溝があって、むしろ福音書や初期教団のプリズムによって、イエスの言動、あるいは「キリスト教」を見させられているんだなと感じた。

 仏教では、シャカがそもそもどんなことを言ったのか、何を考えたのかということは、『ブッダのことば』のような本で読むことはできる。しかし、もはや現代日本仏教徒である日本人が「新約聖書」のような形で手にすることはない。

 

ブッダのことば-スッタニパータ (岩波文庫)
 

 

 「大乗非仏」説のように、日本に伝わった仏教が相当大きな解釈の変更を受けたことに似ていると感じた。日本で最大の信者を誇る浄土真宗や浄土宗など浄土系の仏教は、“個人が真理に覚醒して精神をコントロールする”というもともとのシャカの教えの姿(一種の無神論である)からかけ離れて、「阿弥陀如来」という一種の神様にひたすら祈るという、キリスト教イスラム教に似た一神教の姿に変わり果ててしまった。

 キリスト教にそういうイメージはなかったのだが、田川の本を読むと同じような変容を遂げているのだという感想を持った。

 まあ、改めて考えてみると、『新約聖書』についてイエスの言行録+伝記とも言える「福音書」だけでついついぼくのようなシロートはイメージしてしまうんだけど、実際には手紙(書簡)類がいっぱい入っていて、例えば「コリント人への手紙」を読むと初期教団が分裂騒ぎを起こし、それに対してパウロが「お前らなあ…」とモノを言っている中身になっている。つまりイエスではなくパウロの思想に基づいて書かれていることになる。

 法然の有名な「一枚起請文」も、自分が死んだ後、教義をめぐる分裂が起きるんじゃないかという懸念をもって、「いやー、ひたすら念仏を唱えるっていうのが根本であって、それ以外になんか秘儀みたいなものはないよ」という法然の教え(浄土宗)のエッセンスを書いている。でもそれはシャカの教えとはもはや何の関係もない。それって、法然版の「コリント人への手紙」じゃないのか、と思う。

 

 そんなふうに、やっぱりキリスト教といえども、イエスの言動とは実はそれほど近い存在ではなく(田川はむしろ正反対だとさえ考えている)、のちの教団による解釈、その積み重ねで宗教ができているんだなと思い至ったことが、ぼくにとっての本書の収穫であった。

 

田川=イエス

 参加者の一人(Aさんとする)は、田川の解釈に否定的であった。宗教的立場から否定的なのではなく、文献解釈学としてイエスの言ったことやそれがどんなシチュエーションで言われたかは結局わからないのだから、田川の描くイエス像が正確かどうかもわからないではないかと言うのである。なぜそんな正しいかどうかもわからない、いわば田川の「主張」に付き合わなければならんのか、と。

 田舎の公民館で、市民向け歴史講座をやった時に、講師の大学教授の講義が終わった後に、やおらオーディエンスの一人である80歳くらいのおっちゃんが「質問です」と称して手をあげて、「結構な話をありがとうございました。しかし、私の考えるところではですな…」と言って無根拠な持論を展開する、アレに似ているのだと。

 Aさんは、「田川は根拠が乏しいくせに、イエスの言動と解釈について『これが正しいのだ』と語りまくる。こんな分厚い本になるほどに。どうしてよくわからないことをこんなにも断定的に、しかも他人の解釈にケチをつけ続けることができるのか。それは、きっと田川の解釈したイエス像が田川そのものだからだ。田川=逆説的反抗者=イエスなのだ。イエスの言葉を田川が書くとき『何言ってやがんでえ、安息日だからって、良いことをやるのにいちいちけちな文句をつけるんじゃねえ』(p.206)って絶対田川がこんなふうにしゃべるんだよ。まちがいないね。歴史のイエスのことはわからない。だけど、自分のことならよく知っている。だから田川はこんなにもおしゃべりにイエスを論じることができるのだよ」と力説していた。

 「田川=イエス」論は上出来だと他の参加者から笑われていた。

 

 次のリモート読書会はジェニファー・エバーハート『無意識のバイアス 人はなぜ人種差別をするのか』(明石書店)だ。

 

無意識のバイアス――人はなぜ人種差別をするのか

無意識のバイアス――人はなぜ人種差別をするのか