ヴィトルト・ピレツキ『アウシュヴィッツ潜入記』

 まもなくアウシュヴィッツが解放された記念日(国際ホロコースト記念日)である1月27日である。 

私はアウシュヴィッツで危険なゲームをやっていた。いや、この文章は現実を正しく伝えているとはいえない。実際、私の経験は世間の人々が考える危険をはるかに超えるものだったのだ……

 本書の冒頭に掲げられている著者ヴィトルト・ピレツキの言葉(本文p.145に登場)である。

 本書を二度読み直して、この本をどういうものとして伝えようかと考えた時、確かに「私はアウシュヴィッツで危険なゲームをやっていた」という規定がしっくりきた。

 

アウシュヴィッツ潜入記

アウシュヴィッツ潜入記

 

 

 

 なぜか。

 

「危険なゲーム」

 本書の著者ヴィトルト・ピレツキは第二次世界大戦期のポーランドの将校(大尉)である。同国は独ソに分割され消滅してしまっていた。ピレツキは抵抗組織に身を投じ、「地下運動からあたえられた任務を遂行するため」(本書xlvii)、その任務に志願し、「みずから進んで身柄を拘束され」(同)アウシュヴィッツに囚人として潜入したのである。*1

 「地下運動からあたえられた任務」とは、収容所に組織をつくり、

  1. 外部からのニュースと物資をその組織員に届ける
  2. 収容所の情報を外に報告する
  3. 武装蜂起の準備をする

という3点である(xli)。そして1940年に投獄され、1943年に脱走する。つまりアウシュヴィッツの内情を探り組織をつくるために、自分から拘束されてアウシュヴィッツに入り、脱走するのだ。

 ちょっと考えただけでもわかる。

 数百万人が殺害されたあの収容所に、自分から捕まって潜入し、脱走しようとするなど正気の沙汰ではない。いくら抵抗運動のための目的があったとはいえ、もっと効果的で効率的な方法があったのではないか。それはまさに「危険なゲーム」としか言いようがないのである。

 なるほど、ピレツキの精神と肉体の強靭さは驚くべきものがある。なおかつ、初期の頃は人種の絶滅を目的としたものではなく(ガス室もガスによる大量殺害もなかった)、ピレツキはユダヤ人ではなかった。だから、ある種の「アドバンテージ」があったとも言える。

 しかし、それでも本当にすぐそばに死があったことは本書を読めばすぐにわかる。

 例えば初期の頃、脱走者が1人出るたびに10人の収容者が銃殺された。(p.147)

 その選別はどうやら脱走者が出たブロック(棟)から行われるようなのだが、「10人」の選別の基準は全くわからないものだった。

 ポーランドのかつての祝日には「やや多め」に銃殺対象が選ばれた。ピレツキの組織の同志の一人もそうやって突然選ばれた。

 三〇分後、朝の点呼の場で、ほかの大勢の者の名前とともに彼の名前が読み上げられた。

 彼は私に温かく別れを告げ、母親には自分が意気軒昂なまま死んでいったと伝えてくれといった。

 数時間後、彼は死んだ。(p.150)

  これはほんの一例だ。そんなふうに自分がすぐ死ぬかもしれず、しかもそれはそれを避けようとする自分の努力とは関係なく押し付けられるのである。「危険なゲーム」ではないか。

 ピレツキがアウシュヴィッツに自ら飛び込んでいったのだから、ピレツキが収容所で味わった苦痛や恐怖には(その不条理が他の囚人たちに押し付けれたことには心が痛むが)あまり同情できない。

 …と言いたくなるほど、2021年の日本に生きるぼくにはこの行為(自ら志願して潜入すること)の意味は理解しがたい

 だが、別の考え方もある。

 

「危険なゲーム」を冒す理由

 そもそもピレツキがアウシュヴィッツに潜入したは抵抗運動のためである。ナチスドイツがポーランドを侵略したからピレツキは抵抗運動に立ち上がらざるを得なかったわけであり、抵抗運動という危険に追い込んだのはピレツキの責任ではなく、ナチスドイツの責任である。もちろん「いや、抵抗運動の中でもなぜほとんど死地とも言えるアウシュヴィッツに飛び込むのか。あまりにも非合理な判断だ」という批判はできよう。

 しかし、それは後知恵かもしれない。潜入して初めてわかったのかもしれない。

 また、後世のぼくらから見たらわからない事情がまだあるのかもしれない。

 あるいは、「ならば、国内に残って軍事的抵抗をすることは収容所に入るのと同じような危険ではないのか? なぜ国外に亡命してそこで戦わず、あまりにもリスクの大きい道をすき好んで選んだのか?」という批判もありうる。収容所に入ることはダメで、国内で抵抗運動をすることはOKだとは言えまい。

 ぼくには直ちに理解はできないのだが、アウシュヴィッツに潜入するという目的への違和感は、当時を生きておらず、侵略者との生死をかけた闘いを何ら経験していない後世のぼくが今の段階で審判できることではない。むしろ侵略者への抵抗の一つとして、ピレツキの意識的潜入をきちんと理解すべきことなのだろう。

 本書への、この最大の違和感については、このように納得しておくしかあるまい。

 本報告の最後にあるピレツキの言葉を、読者であるぼくはとりあえず胸に刻むしかないのだ。

 私がこれまで数十ページかけて描いたものは重要ではない。スリルを味わうためだけにこれを読む人々にとってはとくにそうだ。だが私はここで、遺憾ながらタイプライターのどの文字よりも大きな字で強調したい。きっちりと分けられた髪の下には、役立たずのおがくずしか入っていないすべての愚か者たち。そのおがくずが染み出るのを止める形のいい頭骨をあたえてくれたという唯一の理由で母親にまちがいなく感謝できそうな能なしの輩ども。彼らに少しの時間、自分の命について考えさせよう。周囲を見まわすようにうながし、自力で闘いを始めさせるのだ。有意義であり真実であり、さらには大いなる大義ですらあるかのように巧妙に見せかけた虚偽、嘘、利己主義との闘いを。(p.380)

 

(1)アウシュヴィッツの客観的記録として読む

 このようにして、「潜入」という行為への違和感をとりあえず納得というか留保した後で、この記録を以下の3つの角度で読むことができる。

 一つは、アウシュヴィッツで起きたことの客観的記録としてである。

 アウシュヴィッツは1940年の当初はドイツの占領地ポーランド政治犯の収容施設であり、ピレツキはそこに収容されたのだが、その施設目的が全ヨーロッパのユダヤ人絶滅施設へと変わり、ピレツキは1942年にその変貌を目の当たりにする。

 そしてその変貌を遂げる過程で、ソ連軍の捕虜が収容され、国際法規に反して大量に殺戮されていく状況も記録されている(p.182)。

 初期は管理者による原始的な暴力が蔓延していた。

 例えば過酷な体操(大きな練兵場をカエル跳びで回る)をさせ、できないものは殺された(p.44)。あるいは「懲罰隊」といって、懲罰のための過酷な労働を与えられた者には、点呼の際に整列で前に出過ぎた者、後ろに下がりすぎた者に対して、班長は怒りを爆発させ、

その男の胸の上に馬乗りになり、腎臓のあたりや急所を蹴りつけ、またたくまに命を奪った。われわれはそれを見ながら、黙っているしかなかった。(p.34)

 点呼は殺人の方法なのである。

 ところが、このような原始暴力の蔓延は、ユダヤ人の絶滅のための施設建設が始まり、減っていく。

 前述の脱走者への大量報復もなくなり、収容者を殴ることを禁じる命令が出たりした。

 …いずれにせよ、もう殴られることはなくなった。

 少なくとも、中央収容所にいるわれわれの状況はそうだった。

 四〇—四一年の収容所の印象と比較すると、おなじ壁のなかでおなじ顔ぶれが残っているが、以前はあんな状況だったことがにわかに信じがたかった。(p.321)

一部の「暴君」たちが君臨した収容所初期の光景がもはや適切でなくなったため、収容所当局者はクランケンマンやジグドロを含めて多くの囚人班長を別の収容所に移すことにした。(p.188)*2

 そしてこのような原始的暴力が後ろに退いた代わりに、「スマート」な大量殺人システムが前面に出てくる。

 最初の何年かは一日に三回も点呼があった。ほかの残酷な方法でひどく原始的な殺害方法に加えて、点呼と長い懲罰も、われわれを死にいたらしめる静かな方法だった。

 その後、殺害方法に変化があった……より文明化された方法がとられるようになったのだ……ガス室やフェノール注射で毎日数千人が殺害された。(p.320)

 1942年に点呼は廃止される。

 アウシュヴィッツで行われていた暴力は無数に記述されているが、絶滅収容所となった1942年秋にピレツキが知った「人体実験」の記述は強烈で、朝日新聞書評で本書を取り上げた藤原辰史もそれについて触れている

 人種的絶滅を目指す実験であろうが、不妊にするために外科手術をし、生殖器放射線をあてる。その上で、生殖機能が失われるかどうかを確かめるために精子を(道具で)女たちに注入する。妊娠が判明したために、放射線量をさらに増やす。当然性器が焼けただれ、女性たちは苦しみながら死んでいく。実験が成功しても失敗しても、被験者の男も女も全員殺された。

実験にはあらゆる人種の女たちが参加させられていた。ポーランド人、ドイツ人、ユダヤ人、そして後半になるとジプシー〔ロマ、シンティ〕がビルケナウから移送されてきた。ギリシャから連れてこられた数十人の若い女たちもこの実験の犠牲となった。(p.292)

  驚くべきことに「ドイツ人」も入っている。

 ここでは「二級市民」とカテゴライズされた「民族」「人種」、人間には何をしてもよい、という思想が行動となってはっきり出ている。差別を構造化してしまうとここまで行き着いてしまうのだ。

 ヘイトスピーチや差別的言辞は言論の分野で起きている問題だが、「何をしてもいい」という精神構造を作り上げていく一つの有力な手段はまさに言論である。

 ヘイトスピーチはじわじわと、あるカテゴリの人間を「人間扱いしなくていい」として丸ごと捨象していくことに恐ろしさがある。そう考えると、街頭でわかりやすく「ゴキブリ」「出て行け」と叫ぶヘイトスピーチだけでなく、通常の言論の皮をかぶって「〇〇の人はどう扱ってもいい」という差別の思想を頭の中に構築していくことこそが実はステルスであり、恐ろしいと言える。そういう人が例えば道で倒れていても「なんだ〇〇の人か」として見捨てるような精神構造である。

 ぼくはその規制にはきわめて慎重だが、それらがもたらす凄惨な結果について学べばやはり絶対的に規制してはならないということにはならないだろう。

 

(2)ピレツキという人間の精神の強靭さ

  この本の二つ目の読み方は、ピレツキという人間の精神の強靭さについてである。

 収容所に入ってすぐにピレツキは次の体験をする。

 私はここで前歯を二本折られた。この日の〈浴場監督〉が命じたとおり、収容者番号の書かれたカードを歯でくわえるのではなく、手に持っていたからだ。

 重い棒であごを殴られた。

 私は二本の歯を吐き出した。もちろん、血も少し混じっていた…。

 この瞬間から、われわれはただの番号になった。(p.20)

 他に残酷・過酷な体験は無数にあるがこれがとりわけぼくの心に重くのしかかってしまうのは、いかにも自分の身の上に起きそうな、想像可能な暴力である上に、永久歯という回復不能な身体器官がたちまち欠損させられるからであろう。入所すぐにこんな暴力でやられてしまえば、ぼくなどはたちまち精神を支配されてしまうだろう。 

 このような収容所に入れられて、そもそも正常な精神、人間らしさを保っていられるのか。それらは『夜と霧』をはじめ『アウシュヴィッツは終わらない』など数々の記録で問われているテーマでもある。

 しかし、ピレツキの場合は、そうした「一般」状況を超えている。

 いかに彼が自覚的にここに潜入したとはいえ、精神と肉体を保って広範な組織を作り、やがて脱出までしてしまうというのはまったくぼくの意表に出ている。

私はやがて、肩を寄せ合って立つポーランド人たちのあいだに一つの考えがかけめぐり、最後には全員がおなじ怒りと復讐心で団結するのを感じた。私は、自分の仕事を始めるのに最適の環境だと感じ、心のなかに幸福感にも似た感情がわき上がった。(p.35)

 「幸福感」…?

 そのとき、私のなかで反撃の意欲がむくむくと頭をもたげてきた。

 それは強烈な闘争の目覚めだった。(p.51-52) 

 「反撃の意欲」? 「強烈な闘争の目覚め」?

 ピレツキというキャラクターをどう理解すればいいのか?

 それは、「政治に携わる、ぼくと同じ人間」としてどう理解するか、という意味である。

 正直に言えば、ぼくは彼を「手の届かない超人」のように今眺めている。こんな精神の在りようは到底無理だ。

  しかし、だからといって異星人を眺めるほどには隔絶してはいない。

 遠く、距離がかけ離れていても、やはり同じ政治闘争をする人間としてピレツキをみる。

 生き延びて任務を遂行する、ということをピレツキは鋭く考える。

 まず生き延びる。そのために欲望に負けず、不要なことを排除する。

 例えば、朝コーヒーもどきのお湯を求めて多くの収容者が争う。しかし顔と足にむくみが出ている仲間を見て、それが「水分の取りすぎ」だと知る。「水分しか摂取せずに肉体労働で体を酷使した結果だ」(p.28)と判断したピレツキはそのような「コーヒーもどき」争いには加わらず、煮出汁とスープだけを摂取するようにする。

 そして、当面の任務のための必要なことを考える。

 脱走は利己でしかないから絶対に加わらないものの、すでに収容所に残ることは組織化にとって意味がないと理解した瞬間に、ピレツキは脱走の計画に集中する。

 このように目的を明確にしてそのために無駄なことを削ぎ、状況が変われば鮮やかに、こだわりなく転換する、政治機械とも言えるピレツキの行動は惚れ惚れする。

 政治闘争に身を置くぼくとして、ピレツキは、異星人ではなく、遠いけれど「憧れ」なのである。

 

(3)他の記録との比較

 三つ目の読み方として、一つ目と二つ目の裏返しではあるが、他の記録との比較である。それは精神のあり方としても比較したし、また、収容所の客観的な描写としても比較した。

 他のアウシュヴィッツの収容者の記録を読むときに、こうした収容場所、収容時期、「人種」(区分)に注意する必要がある。

 例えば、『アウシュヴィッツは終わらない』(新訳『これが人間か』)を書いたプリーモ・レーヴィアウシュヴィッツに収容されたのだが、ではピレツキと全く同じかというとそうではない。

 レーヴィはポーランド人ではなくイタリアで抵抗運動をして捕まったユダヤ人である。そして彼はピレツキが脱走した直後の1944年1月に入れ替わりのように入ってくるのである。

 「アウシュヴィッツ」といっても広義にはアウシュヴィッツ収容所が管理する一連の収容所全体を指すこともあるし、狭義には「アウシュヴィッツ収容所」にも第一から第三までまでがある。ピレツキがいたのは第一収容所(中央収容所)だが、レーヴィが入っていたのは第一収容所ではなく、モノヴィッツ(第三収容所)である。

 

 こうした違いから、記録の客観的記述、そして強制収容所というものへの感じ方が相当隔たりを持ってくることがある。

 

 ぼくは本書を読んでからさしあたりレーヴィの本だけを読み直したのだが、ピレツキの記述と重なることももちろん多い。「回教徒」「カナダ」「組織化(オルグ)」などの言葉はもとより、収容所で起こる事件に対する感じ方についてもだ。

 例えば、労働に全力をあげてはならないこと。

 ピレツキは一輪車を押す際にも筋肉や肺をどう休ませるかを考えてずる賢く手を抜くことを考えねばならないという趣旨のことを書いている(p.37)。

そう、われわれは過酷な選別のプロセスをくぐり抜けているのだ。(同前)

 そうと知らずに全力で真面目に労働してしまうものは選別されてしまう。つまり死ぬ。

 レーヴィの本にも「ヌル・アハーツェン」のエピソードとして似た話が登場する。

  囚人番号018(0=ヌル、18=アハーツェン)。

彼は命令されたら、すべてを実行する。…彼は、完全に消耗する前に働くのをやめるという、荷車引きの馬さえ持っている初歩的なずるさを持ちあわせていない。彼は力の許す限り運び、押し、引く。そして何も言わずに、その濁った悲しげな目を地面から上げもせずに、不意に崩れ落ちる。(レーヴィp.45)

 まるでブラック企業の労働のようだ、とぼくは思う。

 そしてブラック企業で過労死に追い込まれる者も、「ヌル・アハーツェン」のように、「荷車引きの馬さえ持っている初歩的なずるさを持ちあわせていない」として「責められる」のかもしれない。しかし、よく考えればそこはアウシュヴィッツなのである。アウシュヴィッツでそのような労働をさせているという状況を捨象してぼくらは「ヌル・アハーツェン」を「責める」が、それはお門違いなのである。

 アウシュヴィッツは逃れられないが、ブラック企業は逃れられる?

 同じである。

 なぜ「ヌル・アハーツェン」は「荷車引きの馬さえ持っている初歩的なずるさ」を発揮して手を抜かなかったのか? 「ヌル・アハーツェン」が死んだのは「自己責任」なのだ——そういう言い分が成り立ってしまう。

 

 他方で違いはいろいろある。

 生活状況についての違いは「興味深い」ところではあるが、ここで注目したいのは心持ちである。

 レーヴィにとって収容所とは個々人が生存のために競争し闘争する場所なのである。

ここで生き抜くには、全員が敵、という戦いに、昔から馴れている必要がある(レーヴィp.45)

 そして、ソ連軍が迫り収容所の管理が崩壊し、パンを分かち合うという収容者同士の共同が始まった瞬間にレーヴィは、収容所(ラーゲル)は死んだ、と規定する。

一日前だったら、こうした出来事は考えられなかっただろう。ラーゲルの法とは、「自分のパンを食べよ、そしてできたら、隣人のパンも」であり、感謝の念などはいる余地がなかった体。ラーゲルは死んだ、とはっきり言うことができた。(レーヴィp.198)

 これに対して、同志をつくりその組織化に成功したピレツキにとっては収容所は共同の場である。

ここで生きていく唯一の方法は、友情を結んで協力しながら作業すること……たがいに助け合うことだった。(p.139)

 実際、ピレツキはいつもで同志たちに助けられる。例えば、突然SSがきて病棟ごとごっそりガス室に送られることがあった。ピレツキがチフスにかかって高熱を出した時、ピレツキはその心配をする。しかし、仲間がなんども助けてくれる。

私が衰弱しているあいだ、患者全員がガス室送りにされそうな事態が起きると、友人たちは一度ならず私を屋根裏部屋に運んで隠す準備をしてくれた。(p.259-260)

 ピレツキが有利な仕事につけるようにする手立てをはじめ、この報告書の随所に同志の協力が登場する。

 レーヴィにはそうした条件がなかったのかもしれないが、共同を目的意識的に追求しているピレツキにとって、収容所という地獄さえも、違って見えたのではないかと想像する。前述の通り、ピレツキが収容所に「幸福感」を覚えたのは、自己洗脳ではなく、強力な外的圧力によってポーランド人たちが愛国的団結をする可能性があるからなのだ。

 ポーランド人たちを和解させるためには、連日のようにポーランド人の死体の山を見せなければならなかった。現実世界でのたがいのあいだにあった相違や敵意の向こうには、さらに大きな現実があるのだと悟らせる必要があった。すなわち、合意を形成し、共通の敵に対抗する共同戦線を組むことだ。そのような敵は常に相当数いた。

 そのため収容所では当時もそれ以前も、合意と共同戦線のチャンスは常にあった。(p.162)

  外の世界では、〔左派の〕ドゥボイスが喜びとともに〔右派の〕リバルスキの言葉に耳を傾け、おたがいに温かい握手を交わせただろうか?

 ポーランドでは、そのような合意の光景はどれほど感動的か? そしてどれほど困難か?

 だが、ここアウシュヴィッツではのわれわれの部屋では、双方が進んで話をした。

 なんという変わりようだ!(p.174) 

 ピレツキの動機は愛国主義であり、そのための共同である。

 彼がこの共同を必死で追い求め、それがまさに(死体の山がすぐそこにある)収容所だからこそ可能だったのであり、だとすればピレツキがここに入りたがったことも理解できるし、「幸福感」を抱いたというのもわかるのである。

 ナチという強大な敵と闘うために共同をつくりだすことは政治的に正しい正しい目的を持った人間の共同は、人間を強くするということではないか

 

スターリン体制ともたたかう

 他にも個々に論じたいことはたくさんあるが、きりがないのでこれくらいで。

 最後に、ピレツキのその後であるが、戦後ソ連の力でスターリン主義的な政権ができ、ピレツキは再投獄されて死刑にされる。逮捕されポーランドの秘密警察から拷問を受けるが、ピレツキは当時面会した親族に次のように語っている。

ソ連式の訓練をうけたポーランド人にうけた仕打ちに比べれば、アウシュヴィッツは子供の遊び(igraszka)だったと語っている。(liv)

 ナチとたたかい、スターリン体制とたたかったピレツキの生きざまは、左翼のぼくの「憧れ」である。

 

*1:本書の中には解説を含めこれ以上詳しい経緯がない。誰の指令なのかという点がぼんやりしている。裏表紙には「当時ロンドンのポーランド亡命政府は、新設のこの収容所の目的を探っていた。志願したピレツキの主な任務は…」という記述がある。

*2:クランケンマンは前述の整列を乱した者を馬乗りになって殺した班長だが、ナチ(SS)は「クランケンマンに復讐しても罰を与えない」としたために、クランケンマンは囚人たちに殺されてしまう。ナチは自らの手を汚さずに始末したのである。

「鬼滅の刃」についてインタビューを受けました

 「しんぶん赤旗」日曜版2021年1月17日号の「『鬼滅』旋風どう見る」という『鬼滅の刃』特集でコメントしました。インタビューをまとめてもらったものです。

 

鬼滅の刃 1 (ジャンプコミックスDIGITAL)

鬼滅の刃 1 (ジャンプコミックスDIGITAL)

 

 

 この作品は、マンガがすでに完結しています。また、テレビでアニメとして放映されています。そして、今回テレビで放映された続きの部分の一部が映画になりました。

www.youtube.com

 作品について語ってほしい、ということだったので、マンガを語るのか、テレビ版を語るのか、映画を語るのかが微妙なわけですが、「なぜこんなに大ヒットになったと思うか」を作品の内容に関わって論じるという角度からのご依頼でした。

 マンガがすでに人気があったのですが、社会現象として火がついたのはテレビ版、映画はそこからの延長、という認識があったので、「多くの人が動員されるきっかけとなったテレビ版を語る」という態になりました。テレビ版だけを見た人がどういう印象を受けるか、という角度になっています。

 

 ジェンダーや暴力の表現に関しては、質問があったので、記事に書いてある通りに述べたのですが、これは本作に限らず、虚構作品の多くに共通することではあります。

 

 昨年12月の初旬に西日本新聞には「鬼滅考」として連載で何人かの識者の『鬼滅』考察が載っていました。

 同月3日付は評論家・藤本由香里で「負け戦、世相とシンクロ」。傷つき寿命もある、厳しい限界性を持った人間個人がとうてい勝つことができないものに挑む姿から、コロナと格闘する世相とのシンクロを論じています。

 これ(個人の限界性)は、マンガ版全体と、映画の後半の上弦の鬼・猗窩座との戦いでは強く意識させられるテーマなのですが、逆にテレビ版だとあまり意識させられません。

 ゾンビ学・岡本健は「排除ではなく、優しさを」。恐ろしい他者として排除したい誘惑と戦い、自分がなりうる地続きの存在として「鬼」をとらえます。これはぼくの論考と重なります。

 エッセイスト・犬山紙子はキャラクター造形で「推し」ができやすい構造について語っているのですが、ぼくの「推し」も善逸です(笑)。善逸が常に弱気なのは犬山の言う通りですが、だからといって「男らしさの対極」にはいないと思います。なぜなら結局「かっこよく戦う」ことには違いがないのですから。普段と違いすぎる戦闘の姿――ぼくの中では「ギャップ萌え」なんだと思います。

 善逸が情けない日常の姿から「雷の呼吸」の使い手に変わる瞬間(テレビ版ではそこに至るまでの時間が本当に長い!)は、「待ってました!」と言いたくなるような、あたかもぼくが幼少期に見ていた「ウルトラマン」のごとく、ようやくハヤタが変身をする瞬間を見るような、そんな原初的なカタルシスがあります。

 文筆家・はらだ有彩は「“共助”で鬼に立ち向かう」。わざわざ今物議を醸しているタームでなくても「共同で」でいいやんと思ってしまうのはぼくがサヨクだからでしょうね。鬼舞辻の組織を論じ、幹部の無謬性から手下を粛清する様子はどこかのブラック企業のよう。鬼舞辻のパワハラを見て、「あーこの会社はダメだわ」と思いました。

 能楽師・林宗一郎は「伝統芸に通じる型と呼吸」。呼吸や瞑想を軸にこの作品に注目してみると、まあ『ジョジョの奇妙な冒険』を思い出してしまいますが、それよりも昨今の「マインドフルネス」ブームをすぐに想起しました。時の首相が国会で「全集中の呼吸」と言ったり、福岡市ではとうとう事業まで始めてしまったのですからね…。

mindful-leadership.jp

 西洋仏教における「瞑想」の隆盛にみられるように、個人が「手軽」にできる(ように見える)精神コントロールの技術として「マインドフルネス」、そして「呼吸」は、考えてみれば極めて現代的です。そして、子どもでもそれを「真似」することができます。

kamiyakenkyujo.hatenablog.com

 

 マンガ版については、先ほども述べましたが鬼の無限性に対して、個人の限界というものがものすごく意識づけられます。逆に言えば人間が共同することの意義のようなものです。

 

鬼滅の刃 23 (ジャンプコミックスDIGITAL)

鬼滅の刃 23 (ジャンプコミックスDIGITAL)

 

 

 これを「特攻隊」的なもの、つまり「悠久の大義に個人が身を委ねる」、個別の肉体は滅んでも民族としては続く的な欺瞞のように感じることもできますが、それは特殊に見過ぎ。マルクス主義的に、個々人は限界があるが分裂ではなく人間が共同し、自然や社会の難問にあたる的にとらえることもできるわけで、社会や自然の難問に対する個人の限界性についてはふだんぼくらが根底で感じていることなのだと言えます。

 とにかく個人にはいかに限界があるかということが叩き込まれます。

 そういう点では上述の藤本由香里の論点が重なると思います。

 

(追記)

 例えば、下記のブログは「集団戦バトル漫画としての傑作」という把握をしています。

huyukiitoichi.hatenadiary.jp

1vs多で強大な一匹の的に立ち向かうという構図は、モンスターハンター的なおもしろさでもあり、同時に欠損表現をはじめとした、のちの戦線に復帰することが不可能な「不可逆のダメージ」描写がメインキャラクターに対して頻発するので、ファイアーエムブレムをプレイしている時のような「このあとの巨大な敵を倒すためには主力を残す必要があるから、そこまでの戦力ではない自分はここで捨て石になろう……」というゲーム・プレイヤー的な目線をすべての登場人物が持っているシミュレーションRPG的なおもしろさもあり、やっていることは王道ながらも各種演出には毎話驚かされ続けてきた。

 

 確かに「集団戦バトル」をやっているんですが、ぼくは『鬼滅』については上記で指摘されているような意味での「集団戦バトル」という印象は弱く、あくまで「個人の限界」という角度だけが強烈に浮かび上がるのです。

 上記ブログが指摘した「集団戦バトル」というのは、この記事のブックマークに寄せられたコメントにあるように、やはり葦原大介ワールドトリガー』のランク戦のような描写だと思うのです。

 

 

 

基本的な事実を知らせる努力――共産党の政権参加について

 田中信一郎千葉商科大学基盤教育機構准教授)が共産党の政権参画についての課題を整理している。

webronza.asahi.com

webronza.asahi.com

 

 田中は、「同党の綱領等の基本文書を読み解き、政権参画の課題を分析する」としている。*1

 これ自体はとてもまじめな努力だと思う。公開されている共産党の「基本文書」をていねいに読んで、いわば一般市民ができる努力の範囲で、誠実に課題や疑問を書いたものだと思えるからだ。

 

 田中の主張の中心は、

  1. 共産党は「基本文書」で自衛隊違憲としているが、連合政権に参画したらその理論的な整合性はどうなるのか。また、現実にどう対応するのか。その整理が必要だ。
  2. 共産党は「基本文書」で安保条約を廃棄するとしているが、連合政権に参画したらその理論的な整合性はどうなるのか。また、現実にどう対応するのか。その整理が必要だ。
  3. 共産党は組織原則を民主集中制にしているが、共産党が送り込んだ閣僚が共産党の方針と違った対応をしたらどうなるのか。

というものだ。

 結論から言うと、少なくとも1.と2.について田中は基本的な事実、つまりホームページなどで公開されている共産党の基本的な見解をふまえずに書いていると感じた(あとで述べるように、それは田中の責任とばかりは必ずしもいえない)。田中が「基本文書」をじっくり読んだことはまちがないない。だが「基本文書」を読んだだけではこうなってしまうのか、というぼく自身の驚きでもある。

 

自衛隊は「合憲」として扱うし、安保条約は発動する

 1.および2.について、共産党は次のように回答しており、ホームページでも公表している。

 まず自衛隊である(朱色による強調は引用者)

 日本共産党の立場……憲法9条にてらして自衛隊違憲だと考えるとともに、憲法自衛隊の矛盾の解決は、国民の合意で一歩一歩、段階的にすすめ、将来、国民の圧倒的多数の合意が成熟した段階=国民の圧倒的多数が自衛隊がなくても日本の平和と安全を守ることができると考えるようになる段階で、9条の完全実施に向けての本格的な措置に着手します。

 連合政権としての対応……現在の焦眉の課題は自衛隊の存在が合憲か違憲かでなく、憲法9条のもとで自衛隊の海外派兵を許していいのかどうかにあります。連合政権としては、集団的自衛権行使容認の「閣議決定」の撤回、安保法制廃止にとりくみます。海外での武力行使につながる仕組みを廃止する――これが連合政権が最優先でとりくむべき課題です。

 「閣議決定」を撤回した場合、連合政権としての自衛隊に関する憲法解釈は、「閣議決定」前の憲法解釈となります。すなわち、自衛隊の存在は合憲だが、集団的自衛権行使は憲法違反という憲法解釈となります。

*2

 志位和夫はごていねいにも、国会で閣僚になってどう答弁するかまで決めている。

志位 政権としてはそれで対応する。私たちが、その政権に閣僚を送った場合に、閣僚として「自衛隊違憲か、合憲か」と問われれば、閣僚としては当然「合憲だ」と答えます。ただ、違憲だという党の立場は変えません。

  次に安保条約である。

 日本共産党の立場……日本の政治の異常なアメリカ言いなりの根源には、日米安保条約があると考えており、国民多数の合意で、条約第10条の手続き(アメリカ政府への通告)によって日米安保条約を廃棄し、対等平等の立場にもとづく日米友好条約を締結することをめざします。

 連合政権としての対応……安保条約については「維持・継続」する対応をとります。「維持・継続」とは、安保法制廃止を前提として、第一に、これまでの条約と法律の枠内で対応する、第二に、現状からの改悪はやらない、第三に、政権として廃棄をめざす措置はとらない、ということです。

 連合政権として日米関係でとりくむべき改革は、すでに野党間で合意となっている日米地位協定の改定、沖縄県・名護市の新基地建設の中止などです。これ自体が、異常なアメリカ言いなりの政治をただすうえで、大きな意義をもつ改革になると考えます。

 

 こちらもごていねいに、「中国が尖閣諸島に軍事侵攻したら、新政権のもとで安保条約を発動して米軍出動を求めるのか?」との問いに次のように答えている。

 中北 尖閣の問題はどうですか。

 志位 これは私たち野党連合政権をつくった場合に、安保条約にどう対応するかについて答えを出していまして、それは2015年につくられた安全保障関連法を廃止して、前の法制に戻るということです。ですから、集団的自衛権の行使はやらない、憲法解釈では(集団的自衛権が)違憲というところに戻す。前の法制(に戻る)という点でいえば、仮に日本が有事という事態になった場合は、安保条約第5条で対応する

 中北 米軍に出動を求めることに、共産党も賛成する?

 志位 政権としては(第5条での)対応を求めるということです。

 

 実践的にはほとんどこれで問題はないだろう。

 これらを要約した基本的な立場は

日本共産党は、さまざまな点で、他の野党とは異なる独自の政治的・政策的立場をもっています。わが党は、党としては、それらの独自の主張を大いに行っていきますが、それを野党連合政権に持ち込んだり、押し付けたりすることはしません。

である。

 

 これらは党首(志位和夫)が語った形で、明らかにされている。

www.jcp.or.jp

 憲法上の規定が問題になるのは自衛隊だけではない。

 例えば共産党政党助成金憲法違反だとしてその廃止を訴えている。

 しかし、共産党政党助成金を野党連合政権の課題にするつもりがないことは、野党連合政権での実現を共産党がめざそうとする「5つの提案」のなかに入っていないことからも明らかである。

 共産党閣僚が国会で「政党助成金違憲か」と質問されたら、「合憲です」と躊躇なく答えるということだ。

  だから、共産党の閣僚は国会で自衛隊違憲かと問われれば、「合憲である」と答えるし、共産党議員団は安保条約を前提にした地位協定改定に賛成するのである(実際、地方議会で共産党の地方議員・地方議員団は何百回・何千回とそのような改良を求める、安保条約を前提とした国への意見書に賛成している)。

 

 もし田中が“そんなことはとうに知っている。それでは不十分だ。連合政権といえども基本政策を一致させなければいけないのだ。共産党は党の基本政策を変えるべきなのだ”という意見の持ち主であれば、話は別である。

 まさかそんなことはなかろうが、一応それについても述べておこう。

 どの民主主義国家でも党としての基本政策を留保して一致点で連立を組むのは「屁理屈」でもなんでもなく、当たり前のことである。日本で言っても公明党自民党は少なくとも憲法の全面改定を目指す自民党と、現行憲法の部分改定を目指す公明党ではまるで憲法観、すなわち国家の基本像が違う。*3しかしそこを留保して彼らは連立をしているのである。

 基本政策まで一致させたら同じ政党になってしまう。

 多様性の中での統一をはかるには、共産党でなくても、近代政党ならこういうやり方以外にはほとんど考えられない。

 

 閣僚として閣議で問題提起するが多数派にならねば閣議決定に従う

 次に、3.であるが、これは確かにわかりにくかろう。

 ただ、統一戦線のもとでは一致点で共同するということが共産党綱領上の基本原則だから、原理的にあまり難しく考える必要はない。

 田中の問いを具体的に考えるなら、「共産党員として共産党の方針で閣僚会議に臨み、そのことを議論して閣僚の合意になればいいが、議論して合意にならなければ閣議決定に従う」ということになるだろう。

 新しい問題が出てきたときも同じ原則になるが、重大な逸脱、例えば集団的自衛権行使を容認するような法改定を新政権がしようとして、共産党の閣僚がやめろと言っても受け入れられなければ、共産党は連合政権を離脱するのであろう。

 つまり、少なくとも田中が懸念している問題についていえば、民主集中制の原則がどうのという話ではないのである。*4

 とはいえ、共産党のホームページを探せばそのような見解は出てくるかもしれないが、それを田中に探せというのは酷なものである。だから3.については共産党がきちんとまとめて答える必要がある。

 

 今回、田中の記事を読んで思ったのは、田中のように野党共闘による政権交代を熱心に考えている学者にさえ、これほど基本的なことを共産党は知ってもらえていないということだ。それは田中の落ち度とは言い切れない。「基本文書」をていねいに読んだ田中がそれを読み取れなかったのだから。共産党側がもう少し努力して知らせていかないといけないことなのではないかと感じたのである。

 

野党連合政権をつくるうえでの課題は

 田中の提起した問題は理論的にはすでにカタがついているものだと思うので(先ほどのべたように、共産党でなくても連合政権に加わる政党ならだれでもそのように答えを出すしかない)、あまりそこを掘り下げても建設的なものはこれ以上出てこないだろう。

  それよりも新しい政権をつくるさいに考えるべき課題は別にある。

 そもそも野党はまだ政権合意そのものが出来ていないから、それをするのが先であるが、いまその議論をするなら、やはり以前ぼくが書いたような問題こそ議論されるべきだろうと思う。

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 先ほど紹介した共産党の「新しい日本をつくる五つの提案」は、「党としての提案ですが、それを最大限、野党の共通の政策になるように努力をしていく、新しい政権が取り組む内容になるように努力していく」ものである(2中総での結語)。その中にはたとえば「核兵器禁止条約の署名・批准」が入っているし、「思いやり予算の廃止」が入っている。ぼくなどは「それって合意になるの?」と心配するほどである。

 野党連合政権ができても何でもできるわけではない。

 何ができて何ができないのか。

 むしろそうしたことが議論されていくべきだろう。

 

 これ↓とか完全に核兵器禁止条約批准へのけん制・妨害だろ…。

news.yahoo.co.jp

 

*1:「基本文書」とは「同大会で改定された『綱領』と採択された当面の活動方針である『第一決議(政治任務)』『第二決議(党建設)』に加え、党規約である」とする。他方で「本稿も、ホームページでの公表情報のみに依っている」とあるが、田中が、基本文書だけを読んでこの記事を書いたのか、それ以外の「ホームページでの公表情報」も参照したのかは判然としない。田中が「ホームページでの公表情報のみ」ということを繰り返しているのは、党員ならば「学習」によって公表情報とは違う「基本文書解釈」を施されているかもしれないという可能性を考えたせいであろう。

*2:田中は、共産党自衛隊違憲論というのは、昔の社会党が言っていたような「違憲状態」論(軍事力としては大きすぎるので適正な装備まで縮めれば合憲になる)なのか、自衛隊の存在自体が憲法9条とは合致しないと考えているのか、どちらなのかと聞いているが、この答えから見てもわかるように、共産党自衛隊の存在自体が9条と矛盾すると考えているのだ。共産党綱領のいう「9条の完全実施」とは違憲である自衛隊の解消である。そして共産党は、そういう「完全実施」は国民が納得するまでやらず、国民が不安だと考えるうちは、ずっと「2015年以前の自民党政府の憲法解釈でいい」、つまり自衛隊は存在して、そして必要なら防衛出動して全然かまわないと考えているのである。それが共産党の「段階的解消」論なのである。なぜそんな考えが出てくるかといえば、共産党にとっての日本の安全保障上の最大の危険は、アメリカの戦争に巻き込まれることであって、武力一般を日本国がもつこと自体はあまり問題視していないからである。

*3:もちろん同じ新自由主義政策ではないかという政治批判はありうるのだが、そういう「同じ穴の貉だ」というタイプの政治的実質のことをここでは問題にしていない。形式上の問題なのだ。

*4:というか、民主集中制の原則をやめたら、例えば共産党も参加する新政権は「消費税を5%にする」と決定しても、地方組織は「5%はダメだ。0%にせよ」とか「10%のままでいい」とかバラバラなことを言い出すので、有権者から見ると共産党は一体どういう主張をしているのか、わからなくなるだろう。そのようにして派閥をたくさん作って国民の多様な意見集約をするシステムの政党もあっていいと思うが、それは一長一短ある。どうしても承服できないなら、政党を別に作った方のが、国民から見ればわかりやすい。

『逃げるは恥だが役に立つ』11巻

 『逃げる恥だが役に立つ』を新春のドラマでやっていて、観るともなしに観てしまった。

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 当然原作マンガとドラマは違うわけであるが、原作で第二部的に始まった10巻と11巻においては、ドラマでは省かれてしまった雨山のエピソードがぼくのお気に入りである。

 

 

雨山からの恋愛相談

 雨山は、平匡が妻帯者とも知らずに好きになってしまい、そのことを胸に秘めたまま、あるきっかけでその事実を知り、勝手に失恋する平匡の同僚女性である。

 平匡は鈍感なのでそのことに全く気付かないのであるが、みくりが分娩室に運ばれてから“平匡が職場同僚に恋愛相談を受けている”という事実を平匡自身から聞き及び、“それはどうもおかしいのではないか”といぶかるのである。

 それで陣痛の間隔が短くなるまでの間、何とみくりが平匡に成り代わって、スマホで雨山の「恋愛相談」に乗ってしまい、そうとは知らない雨山から感謝までされてしまうのである。

 みくりが不審を起こしている表情がぼくはとても好きなのだが、一体なぜこの一連の表情が好きなのか、自分でもよくわからなかった

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海野つなみ逃げるは恥だが役に立つ』11巻、講談社、p.146

 

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同前p.149

 たぶん、とても決然としているからであろう。

 「夫が浮気をしているかもしれないことを疑う女性」として、世の中でしばしば描かれる際の弱さや暗さがまるでない。パートナーのスマホを取り上げてタイムラインを見た挙句、失礼なコメントまでするというのは、明らかに「やりすぎ」感があるが、それもふくめて、このみくりにものすごく魅力を感じる。上がり気味の眉といい、理路整然とした明瞭な推理といい、ここには知性的な強さがあるのだ。

 こういう平匡への質問などは、何というか、平匡を追い込もうとか、詰問しようとかというのではなく、純然たる知的好奇心というか、今この状況の理性的な最適解を出そうという態度がよく表情に出ている。この表情もすごく好き。

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同前p.148

大沼田会

 ドラマでは「大沼田会」もかなり省略されてしまったのだが、原作で展開される「コミュニケーション道場」である同会(飲み会)では、集まったメンバーがお互いについての本音を自由に言い合う(人格攻撃は罰金)。

 灰原課長は、体育会系もしくはスクールカースト上位のノリを持つ男性であり、ここでも「男同士はいじって笑いをとるコミュニケーション」をしたことを、夫婦に持ち込んでやったために離婚を切り出された経験を持つ。そのために、「女性はサゲずに褒める」ように行動を変えたのだという。

 しかし、それは雨山から「居心地が悪い」と批判される。雨山がどう具体的に批判したかは作品を読んで欲しいのだが、実はぼく自身としては、灰原的な「いじり」をやってしまいがちなのである。

 娘とか、同僚とかをそうしてしまう傾向がある。

 ホモソーシャル的なメンタリティがぼくの中に蟠踞しているのである。

 灰原は平匡の1ヶ月育休を批判したマッチョなタイプなので、8ヶ月も取得した自分とは一見最も縁遠いように思ってしまうのだが、「内なる灰原」がいそうで自分的には大変恐ろしいシーンなのである。

 

 

イララモモイ「推しという免罪符」

 バイト先の同世代男性(郡山くん)に、女性である主人公(新名栞)が恋愛感情とは言い切れないが、すっごいライトな性的な関心をもっていて、そのことをバイト先の女性たちとの間だけで会話する際に「推し」という言葉で表現しているという設定。

 

 素敵な彼氏もいる主人公・新名は心の中で

あくまで目の保養的な存在で

決して付き合いたいとか恋愛感情はないんですけどね

 と自分に言い訳をする。

 「推し」というカテゴリーにしてしまうと恋愛感情が混入していてもわからなくなってしまう。このワードで同性仲間の間でだけ自由闊達に喋れるように共有化できてしまうのである。

 しかし、「推し」だからいいだろうということで恋愛感情要素が不透明になってしまうのは、新名自身もそうであって、4/7あたりの、彼氏とテレビを見ている最中に「郡山」出身の歌手を思わず写真に撮って郡山くんのラインに送ってしまい、激しい葛藤と、妄想が広がってしまうくだりが悶絶するほどいい

 八重歯の郡山くんのビジュアルも中性っぽくて、「萌える」。いや、それこそ、ぼく自身が郡山くんを見る目の中に性的要素が入っていると思う。

 

 ぼくはラインとかメールとか個別会話とかを、「馴れ合い」モード異性とやりとりする際に、相手が同性代くらいの誰であったとしても、どうしてもそこに親密な空気が発生しているように思えて、「この親密感を楽しんでると相手に思われてないか?」と不安になり(しかし他方で本当にウキウキしている自分もいるのだが)耐えきれずに早々に打ち切ってしまう。

 

 だから新名のこのどうでもいいクソ葛藤がすごくよくわかってしまう。

 郡山くん側から見た作品もある。

郡山くん視点の推しの話www.pixiv.net

 そしてやはり郡山くん視点で見るとやっぱり新名は謎行動をやっている人で「ちょっとこわい」んだな…と、あらためて自分のキモさを自覚する。

 

 

スポーツの本質的暴力性とどうつきあうか

 リモート読書会は、川谷茂樹『スポーツ倫理学講義』を取り上げた。

 この本についてはすでに2005年に書評を書いている。

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 例えば写真は、今年11月28日付の西日本新聞夕刊の記事であるが、柔道の1984年五輪における山下・ラシュワン戦を振り返り、怪我をしていた山下の「右足は狙わないと決めていた」とするラシュワンの言葉を載せ、「その高潔な精神は世界で評価され、国際フェアプレー賞を受賞した」とする。1面のほとんどを使って、相手の弱点を狙わないことを「フェアプレー」として称揚している。

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西日本新聞夕刊2020年11月28日付(6面)

 川谷は、この山下・ラシュワン戦を冒頭に題材にとり、「相手の弱点を狙わないことはスポーツマンシップに悖るのか」という問いを立てている。

 川谷は、勝敗の決着こそがスポーツの内在的目的であり、それがスポーツのエトスだとする。少なくとも対戦型競技では弱点を攻めることが勝利のためには絶対に必要なことであり、弱点を攻めてはいけないというのは、スポーツの外側から持ち込まれたものに過ぎないことを明らかにしていく。

 したがってスポーツはもともと勝利至上主義たらざるをえず、敗北という害悪を相手に与えようとする意味で本質的に暴力的であるとする。

 このようなスポーツは元来勝利至上主義という本質を持っていることを暴くことは、例えば「しんぶん赤旗」のような左派的良識からすれば、驚くべき結論になってしまう。同紙で川口智久(一橋大名誉教授・スポーツ社会論)は日大アメフトの規則違反などの問題を次のように説明する。

元来、スポーツにおける競争が、相手を尊重し、習得した技術の交流によって互いに人間としての豊かな高まり、人間らしい生き方を追求することが目的であることからすると、起こってはならない非合理な事態が生じたことになる。/そして、その根本的な原因は勝利至上主義の思想にあり、今回のケースはそれを当然視する指導者と受け入れざるを得ない競技者の主従関係が最大の問題であったといえよう。(川口/しんぶん赤旗2018年6月5日付、強調は引用者)

 川谷のスポーツ観とは正反対のものが見て取れるだろう。ぼくも左翼としてはどちらかといえば、川口のような論理に日常接している。

 しかし、川谷が緻密な論理によって、スポーツがどのような論理構造を持っているかを暴く様は実に見事で、その時ぼくは、この本をスポーツ論という以上に「哲学をすることの愉悦」として捉えのであるた。

 当時の記事でぼくはこの本について次のように書いた。

 ぼくらの思考はふつうは常識のなかにどっぷりと浸かっていて、それをいったんぬぐってみたとしても常識や日常道徳は思考にふかくこびりついているものである。いや、こびりついているなどという程度のものではなく、それから逃れることはなかなかできない。
 ところが、哲学という装置を使い、物事を徹底的につきつめていったとき、バキバキバキバキと大きな音をたてて固まったドロのようにこびりついていた常識が割れて剥がれ落ちていくのがわかる。あるいは常識という小さくて排除できない害虫が哲学という薬品を噴霧して残らず殺すような残酷な徹底性がある。また、常識をあざやかに反転させる爽快感は、徹底した思考をしたものだけが得られる特典だ。
 これは、哲学をするということの愉悦である。

 川谷のこの本を読んでいると、哲学をすることの楽しさが伝わってくる。

 今もこの点がぼくにとっては本書評価の基本である。

 川谷は、哲学の議論に、常識、道徳、民主主義的多数感覚を持ち込もうとする企てを厳しく批判する。「本書を読み進めるにあたって、倫理学/哲学の素養は特に必要ない」(まえがき)のである。

 また哲学上の碩学の言葉を借りて議論する態度についても厳しく批判する。

 ボクシングが暴力的かどうかを、J.S.ミルを味方につけて論じようとする学者の態度を「おもしろくない」と川谷は言う。

 

それでは、どうすればおもしろくなるでしょうか。簡単なことです。事柄そのもの(Sacheselbst)を、もっと突き詰めて考えればよいのです。「事柄そのもの」とはこの場合、ボクシングです。先ほどの論争は、ボクシングの周辺をぐるぐる回っているだけで、ボクシングそのものについて何も明らかにしていない。だから、つまらないのです。(川谷p.111-112)

 

 読書会では、参加者の一人が、川谷の議論に反発した。

 その参加者Aは、ソチ・オリンピックでのスケートの浅田真央の態度を例に出していた。

 同冬季五輪スケート1日目のショートプログラムでボロボロだった浅田を見て、Aは「もう浅田は2日目(フリープログラム)を棄権するのではないか」と思ったという。もはや優勝はおろか、何らかのメダルさえ絶望的であり、常人から見ればこれ以上出ることは、自分の経歴やプライドを傷つけるものでしかない状況だったからである。しかし、それでも出場し、しかも見事な演技を披露した浅田を見て、見ていた自分(A)も涙を流して深く感動したし、浅田自身も泣いていた。

「勝利だけがスポーツの目的であればあんな光景はあり得なかったし、あの感動もなかったはずだ」

というのがAの言い分である。

 川谷はこうした議論を予想しており、競技概念を超えた絶対的な強さの追求を競技者がやることがあるという指摘をする。例えば試合の勝敗などどうでもよくなり、時速250kmのボールを投げられるかどうかだけを追求する野球選手のようなものだ。別の箇所では、「求道者」としての広島カープ前田智徳をあげ、彼が「一番の思い出の打球」としてあげたのが「ファウル」であったことを紹介する。チームの勝敗も、個人のタイトルすらもなく、自分の惚れた打球を、試合にとっては無意味な「ファウル」に求めるのであるから、その瞬間、確かに前田は勝利至上主義を超えているのである。

 小山ゆう『スプリンター』のラストも、読みようによっては競技概念を超え、記録さえも超えた、何か「神の領域」に入ったかのように思わせる展開になっている。

 

  しかし、川谷の本を読んだ後では、それはやはり競技による勝敗をめざすというスポーツのエトスの上に成り立つ、あくまで「派生的」なものである。

 ごく稀に生まれる「勝利を超越した求道」ではなく、勝負事ゆえの常軌を逸した熱さ、そして勝者と敗者のコントラスト、敗者に敗北を与えるという暴力こそがスポーツの本質であるという川谷の主張でこそ、世の中に蔓延するスポーツ界における暴力・体罰・支配をよく説明できるし、「企業社会では体育会系が重宝される」という神話がはびこるのも、スポーツの本質に根ざすものであると考えれば理解しやすい。

 

 これに対して「いや、それは特殊日本的な現象だろ?」という批判がある。

 例えばサンドラ・ヘフェリン『体育会系 日本を蝕む病』(光文社新書)では

私が育ったドイツではスポーツは体罰と全く結びつきません。(同書p.64)

という。ドイツのスポーツ事情が実際にどうなのかは別として、問題はスポーツがいつでもどこでも暴力的であるということではなく、スポーツが本質的暴力性を抱えた危険なものであるという自覚でスポーツと付き合うのか、ということなのだ。

スポーツは本質的に勝負事(agon)であり、人間は勝負事になると簡単に常軌を逸します。……勝負事は私たちに大いなる娯楽を提供してくれますが、同時に扱い方を誤ると大変危険な代物でもあります。時にその暴力的本性をむき出しにするスポーツと、穏健で最大公約数的な常識道徳との間には、常に緊張関係が存在します。……ですから、子供の教育の場面にスポーツを導入するのは、本来よほど慎重な配慮が求められるべきでしょう。そのことも含めて私たちにできることは、スポーツのこの本質的な危険性を熟知し、それといかにうまく付き合うか知恵をしぼることなのではないでしょうか。(川谷p.172-173)

  川谷の本でもしばしば引用される永井洋一は、『少年スポーツ ダメな大人が子供をつぶす!』の中で次のように書いている。

 

 N・エリアスとE・ダニングは『スポーツと文明化』の中で、近代スポーツは前近代社会にあった非科学性、暴力性からの脱却という大命題のもとに成立した、としています。近代スポーツが成立する一九世紀以前のイギリスで行われていたスポーツ的な活動は、怪我人、時には死者さえも出る粗暴なイベントであったフットボール(サッカー)、あるいは素手で相手をとことん打ちのめすまで闘われたボクシング、さらには動物の殺し合いの行方を楽しむ賭けなど、血なまぐささを残す野蛮なものでした。そうした前近代的な要素を改め、スポーツを近代社会を具現する合理的、科学的なものとして整備するために、統括団体の組織、統一ルールの作成、公式大会の開催などが推進されました。その結果、現在、私たちが親しんでいる近代スポーツの形態が整ったのです。その意味では、近代スポーツにはもともと暴力性の抑止が使命づけられているのです。

 私たちがスポーツに潜む暴力性、あるいは指導者、選手、愛好者に潜む支配性、攻撃性をいかに巧みにコントロールするかという部分に、エリアスらの言う「文明化」の程度が示されているといえるかもしれません。(永井洋一『少年スポーツ ダメな大人が子供をつぶす!』朝日新聞出版、KindleNo.290-300)

 

 つまり、もともと暴力的本質を持っているスポーツの、その暴力性を自覚して抑制とコントロールをすることこそが近代スポーツの使命であるのだから、その自覚と管理に成功している文化と成功していない文化がある、ということになるだろう。

 これは「スポーツの本来の性格から逸脱した勝利至上主義」という把握とは正反対のものである。危険なものであるという厳しい覚悟に立ってスポーツと付き合うことが求められているのである。

「ぼくは娘の保護者になれない」

 「ぼくは娘の保護者になれない」というエッセイを日本コリア協会・福岡の「日本とコリア」誌第243号(2021年1月1日号)に寄稿しました。「これでいいのかニッポン!」というリレー連載のコーナーです。

 

 夫婦同姓の強制によって、事実婚ではどのような不利がもたらされるのかということを書いています。

 事実婚共同親権にならないので、父親であるぼくには親権がありません。そのために学校教育法で定める「保護者」にはなれないのです。

 さらに、「名前を変える」ということについて書いています。

 「千と千尋の神隠し」や中野重治「ヒサとマツ」を思い出したので、そのことを書いてます。

 

湯婆婆は相手の名を奪って支配するんだ。いつもは千でいて本当の名前はしっかり隠しておくんだよ

 

 「ヒサとマツ」はごく短い短編小説だ。奉公に出される子どもが、奉公先のおかみさんと名前が同じになってしまうので、まず最初に名前を変えさせられる話である。

 

 目たたきするほどのあいだヒサは迷った。承知しても、ほんとによかろうか。母親のつけてくれた名ということが頭にちらりとした。

「ヒサという名はおっかさんがつけたんじゃ。」それは何十ぺんも聞いて育ってきた。それは、ヒサという名に結びつくヒサ全部が母の手でつくられたということのようだった。母親の愛情と権威、それが「ヒサ」だった。それが今消える、手軽に……

「わかったの……」といったおかみさんの言葉が耳でひびいている。ヒサは、悪事をはたらくようにおどおどしてうなずいた。声は出なかった。(中野重治『五勺の酒・萩のもんかきや』所収)

 

 

五勺の酒・萩のもんかきや (講談社文芸文庫)

五勺の酒・萩のもんかきや (講談社文芸文庫)

  • 作者:中野 重治
  • 発売日: 1992/08/04
  • メディア: 文庫
 

 

 名前を変えても平気な人ももちろんいます。

 しかしアイデンティティが奪われるように感じる人もいるのです。