「鬼滅の刃」についてインタビューを受けました

 「しんぶん赤旗」日曜版2021年1月17日号の「『鬼滅』旋風どう見る」という『鬼滅の刃』特集でコメントしました。インタビューをまとめてもらったものです。

 

鬼滅の刃 1 (ジャンプコミックスDIGITAL)

鬼滅の刃 1 (ジャンプコミックスDIGITAL)

 

 

 この作品は、マンガがすでに完結しています。また、テレビでアニメとして放映されています。そして、今回テレビで放映された続きの部分の一部が映画になりました。

www.youtube.com

 作品について語ってほしい、ということだったので、マンガを語るのか、テレビ版を語るのか、映画を語るのかが微妙なわけですが、「なぜこんなに大ヒットになったと思うか」を作品の内容に関わって論じるという角度からのご依頼でした。

 マンガがすでに人気があったのですが、社会現象として火がついたのはテレビ版、映画はそこからの延長、という認識があったので、「多くの人が動員されるきっかけとなったテレビ版を語る」という態になりました。テレビ版だけを見た人がどういう印象を受けるか、という角度になっています。

 

 ジェンダーや暴力の表現に関しては、質問があったので、記事に書いてある通りに述べたのですが、これは本作に限らず、虚構作品の多くに共通することではあります。

 

 昨年12月の初旬に西日本新聞には「鬼滅考」として連載で何人かの識者の『鬼滅』考察が載っていました。

 同月3日付は評論家・藤本由香里で「負け戦、世相とシンクロ」。傷つき寿命もある、厳しい限界性を持った人間個人がとうてい勝つことができないものに挑む姿から、コロナと格闘する世相とのシンクロを論じています。

 これ(個人の限界性)は、マンガ版全体と、映画の後半の上弦の鬼・猗窩座との戦いでは強く意識させられるテーマなのですが、逆にテレビ版だとあまり意識させられません。

 ゾンビ学・岡本健は「排除ではなく、優しさを」。恐ろしい他者として排除したい誘惑と戦い、自分がなりうる地続きの存在として「鬼」をとらえます。これはぼくの論考と重なります。

 エッセイスト・犬山紙子はキャラクター造形で「推し」ができやすい構造について語っているのですが、ぼくの「推し」も善逸です(笑)。善逸が常に弱気なのは犬山の言う通りですが、だからといって「男らしさの対極」にはいないと思います。なぜなら結局「かっこよく戦う」ことには違いがないのですから。普段と違いすぎる戦闘の姿――ぼくの中では「ギャップ萌え」なんだと思います。

 善逸が情けない日常の姿から「雷の呼吸」の使い手に変わる瞬間(テレビ版ではそこに至るまでの時間が本当に長い!)は、「待ってました!」と言いたくなるような、あたかもぼくが幼少期に見ていた「ウルトラマン」のごとく、ようやくハヤタが変身をする瞬間を見るような、そんな原初的なカタルシスがあります。

 文筆家・はらだ有彩は「“共助”で鬼に立ち向かう」。わざわざ今物議を醸しているタームでなくても「共同で」でいいやんと思ってしまうのはぼくがサヨクだからでしょうね。鬼舞辻の組織を論じ、幹部の無謬性から手下を粛清する様子はどこかのブラック企業のよう。鬼舞辻のパワハラを見て、「あーこの会社はダメだわ」と思いました。

 能楽師・林宗一郎は「伝統芸に通じる型と呼吸」。呼吸や瞑想を軸にこの作品に注目してみると、まあ『ジョジョの奇妙な冒険』を思い出してしまいますが、それよりも昨今の「マインドフルネス」ブームをすぐに想起しました。時の首相が国会で「全集中の呼吸」と言ったり、福岡市ではとうとう事業まで始めてしまったのですからね…。

mindful-leadership.jp

 西洋仏教における「瞑想」の隆盛にみられるように、個人が「手軽」にできる(ように見える)精神コントロールの技術として「マインドフルネス」、そして「呼吸」は、考えてみれば極めて現代的です。そして、子どもでもそれを「真似」することができます。

kamiyakenkyujo.hatenablog.com

 

 マンガ版については、先ほども述べましたが鬼の無限性に対して、個人の限界というものがものすごく意識づけられます。逆に言えば人間が共同することの意義のようなものです。

 

鬼滅の刃 23 (ジャンプコミックスDIGITAL)

鬼滅の刃 23 (ジャンプコミックスDIGITAL)

 

 

 これを「特攻隊」的なもの、つまり「悠久の大義に個人が身を委ねる」、個別の肉体は滅んでも民族としては続く的な欺瞞のように感じることもできますが、それは特殊に見過ぎ。マルクス主義的に、個々人は限界があるが分裂ではなく人間が共同し、自然や社会の難問にあたる的にとらえることもできるわけで、社会や自然の難問に対する個人の限界性についてはふだんぼくらが根底で感じていることなのだと言えます。

 とにかく個人にはいかに限界があるかということが叩き込まれます。

 そういう点では上述の藤本由香里の論点が重なると思います。

 

(追記)

 例えば、下記のブログは「集団戦バトル漫画としての傑作」という把握をしています。

huyukiitoichi.hatenadiary.jp

1vs多で強大な一匹の的に立ち向かうという構図は、モンスターハンター的なおもしろさでもあり、同時に欠損表現をはじめとした、のちの戦線に復帰することが不可能な「不可逆のダメージ」描写がメインキャラクターに対して頻発するので、ファイアーエムブレムをプレイしている時のような「このあとの巨大な敵を倒すためには主力を残す必要があるから、そこまでの戦力ではない自分はここで捨て石になろう……」というゲーム・プレイヤー的な目線をすべての登場人物が持っているシミュレーションRPG的なおもしろさもあり、やっていることは王道ながらも各種演出には毎話驚かされ続けてきた。

 

 確かに「集団戦バトル」をやっているんですが、ぼくは『鬼滅』については上記で指摘されているような意味での「集団戦バトル」という印象は弱く、あくまで「個人の限界」という角度だけが強烈に浮かび上がるのです。

 上記ブログが指摘した「集団戦バトル」というのは、この記事のブックマークに寄せられたコメントにあるように、やはり葦原大介ワールドトリガー』のランク戦のような描写だと思うのです。

 

 

 

基本的な事実を知らせる努力――共産党の政権参加について

 田中信一郎千葉商科大学基盤教育機構准教授)が共産党の政権参画についての課題を整理している。

webronza.asahi.com

webronza.asahi.com

 

 田中は、「同党の綱領等の基本文書を読み解き、政権参画の課題を分析する」としている。*1

 これ自体はとてもまじめな努力だと思う。公開されている共産党の「基本文書」をていねいに読んで、いわば一般市民ができる努力の範囲で、誠実に課題や疑問を書いたものだと思えるからだ。

 

 田中の主張の中心は、

  1. 共産党は「基本文書」で自衛隊違憲としているが、連合政権に参画したらその理論的な整合性はどうなるのか。また、現実にどう対応するのか。その整理が必要だ。
  2. 共産党は「基本文書」で安保条約を廃棄するとしているが、連合政権に参画したらその理論的な整合性はどうなるのか。また、現実にどう対応するのか。その整理が必要だ。
  3. 共産党は組織原則を民主集中制にしているが、共産党が送り込んだ閣僚が共産党の方針と違った対応をしたらどうなるのか。

というものだ。

 結論から言うと、少なくとも1.と2.について田中は基本的な事実、つまりホームページなどで公開されている共産党の基本的な見解をふまえずに書いていると感じた(あとで述べるように、それは田中の責任とばかりは必ずしもいえない)。田中が「基本文書」をじっくり読んだことはまちがないない。だが「基本文書」を読んだだけではこうなってしまうのか、というぼく自身の驚きでもある。

 

自衛隊は「合憲」として扱うし、安保条約は発動する

 1.および2.について、共産党は次のように回答しており、ホームページでも公表している。

 まず自衛隊である(朱色による強調は引用者)

 日本共産党の立場……憲法9条にてらして自衛隊違憲だと考えるとともに、憲法自衛隊の矛盾の解決は、国民の合意で一歩一歩、段階的にすすめ、将来、国民の圧倒的多数の合意が成熟した段階=国民の圧倒的多数が自衛隊がなくても日本の平和と安全を守ることができると考えるようになる段階で、9条の完全実施に向けての本格的な措置に着手します。

 連合政権としての対応……現在の焦眉の課題は自衛隊の存在が合憲か違憲かでなく、憲法9条のもとで自衛隊の海外派兵を許していいのかどうかにあります。連合政権としては、集団的自衛権行使容認の「閣議決定」の撤回、安保法制廃止にとりくみます。海外での武力行使につながる仕組みを廃止する――これが連合政権が最優先でとりくむべき課題です。

 「閣議決定」を撤回した場合、連合政権としての自衛隊に関する憲法解釈は、「閣議決定」前の憲法解釈となります。すなわち、自衛隊の存在は合憲だが、集団的自衛権行使は憲法違反という憲法解釈となります。

*2

 志位和夫はごていねいにも、国会で閣僚になってどう答弁するかまで決めている。

志位 政権としてはそれで対応する。私たちが、その政権に閣僚を送った場合に、閣僚として「自衛隊違憲か、合憲か」と問われれば、閣僚としては当然「合憲だ」と答えます。ただ、違憲だという党の立場は変えません。

  次に安保条約である。

 日本共産党の立場……日本の政治の異常なアメリカ言いなりの根源には、日米安保条約があると考えており、国民多数の合意で、条約第10条の手続き(アメリカ政府への通告)によって日米安保条約を廃棄し、対等平等の立場にもとづく日米友好条約を締結することをめざします。

 連合政権としての対応……安保条約については「維持・継続」する対応をとります。「維持・継続」とは、安保法制廃止を前提として、第一に、これまでの条約と法律の枠内で対応する、第二に、現状からの改悪はやらない、第三に、政権として廃棄をめざす措置はとらない、ということです。

 連合政権として日米関係でとりくむべき改革は、すでに野党間で合意となっている日米地位協定の改定、沖縄県・名護市の新基地建設の中止などです。これ自体が、異常なアメリカ言いなりの政治をただすうえで、大きな意義をもつ改革になると考えます。

 

 こちらもごていねいに、「中国が尖閣諸島に軍事侵攻したら、新政権のもとで安保条約を発動して米軍出動を求めるのか?」との問いに次のように答えている。

 中北 尖閣の問題はどうですか。

 志位 これは私たち野党連合政権をつくった場合に、安保条約にどう対応するかについて答えを出していまして、それは2015年につくられた安全保障関連法を廃止して、前の法制に戻るということです。ですから、集団的自衛権の行使はやらない、憲法解釈では(集団的自衛権が)違憲というところに戻す。前の法制(に戻る)という点でいえば、仮に日本が有事という事態になった場合は、安保条約第5条で対応する

 中北 米軍に出動を求めることに、共産党も賛成する?

 志位 政権としては(第5条での)対応を求めるということです。

 

 実践的にはほとんどこれで問題はないだろう。

 これらを要約した基本的な立場は

日本共産党は、さまざまな点で、他の野党とは異なる独自の政治的・政策的立場をもっています。わが党は、党としては、それらの独自の主張を大いに行っていきますが、それを野党連合政権に持ち込んだり、押し付けたりすることはしません。

である。

 

 これらは党首(志位和夫)が語った形で、明らかにされている。

www.jcp.or.jp

 憲法上の規定が問題になるのは自衛隊だけではない。

 例えば共産党政党助成金憲法違反だとしてその廃止を訴えている。

 しかし、共産党政党助成金を野党連合政権の課題にするつもりがないことは、野党連合政権での実現を共産党がめざそうとする「5つの提案」のなかに入っていないことからも明らかである。

 共産党閣僚が国会で「政党助成金違憲か」と質問されたら、「合憲です」と躊躇なく答えるということだ。

  だから、共産党の閣僚は国会で自衛隊違憲かと問われれば、「合憲である」と答えるし、共産党議員団は安保条約を前提にした地位協定改定に賛成するのである(実際、地方議会で共産党の地方議員・地方議員団は何百回・何千回とそのような改良を求める、安保条約を前提とした国への意見書に賛成している)。

 

 もし田中が“そんなことはとうに知っている。それでは不十分だ。連合政権といえども基本政策を一致させなければいけないのだ。共産党は党の基本政策を変えるべきなのだ”という意見の持ち主であれば、話は別である。

 まさかそんなことはなかろうが、一応それについても述べておこう。

 どの民主主義国家でも党としての基本政策を留保して一致点で連立を組むのは「屁理屈」でもなんでもなく、当たり前のことである。日本で言っても公明党自民党は少なくとも憲法の全面改定を目指す自民党と、現行憲法の部分改定を目指す公明党ではまるで憲法観、すなわち国家の基本像が違う。*3しかしそこを留保して彼らは連立をしているのである。

 基本政策まで一致させたら同じ政党になってしまう。

 多様性の中での統一をはかるには、共産党でなくても、近代政党ならこういうやり方以外にはほとんど考えられない。

 

 閣僚として閣議で問題提起するが多数派にならねば閣議決定に従う

 次に、3.であるが、これは確かにわかりにくかろう。

 ただ、統一戦線のもとでは一致点で共同するということが共産党綱領上の基本原則だから、原理的にあまり難しく考える必要はない。

 田中の問いを具体的に考えるなら、「共産党員として共産党の方針で閣僚会議に臨み、そのことを議論して閣僚の合意になればいいが、議論して合意にならなければ閣議決定に従う」ということになるだろう。

 新しい問題が出てきたときも同じ原則になるが、重大な逸脱、例えば集団的自衛権行使を容認するような法改定を新政権がしようとして、共産党の閣僚がやめろと言っても受け入れられなければ、共産党は連合政権を離脱するのであろう。

 つまり、少なくとも田中が懸念している問題についていえば、民主集中制の原則がどうのという話ではないのである。*4

 とはいえ、共産党のホームページを探せばそのような見解は出てくるかもしれないが、それを田中に探せというのは酷なものである。だから3.については共産党がきちんとまとめて答える必要がある。

 

 今回、田中の記事を読んで思ったのは、田中のように野党共闘による政権交代を熱心に考えている学者にさえ、これほど基本的なことを共産党は知ってもらえていないということだ。それは田中の落ち度とは言い切れない。「基本文書」をていねいに読んだ田中がそれを読み取れなかったのだから。共産党側がもう少し努力して知らせていかないといけないことなのではないかと感じたのである。

 

野党連合政権をつくるうえでの課題は

 田中の提起した問題は理論的にはすでにカタがついているものだと思うので(先ほどのべたように、共産党でなくても連合政権に加わる政党ならだれでもそのように答えを出すしかない)、あまりそこを掘り下げても建設的なものはこれ以上出てこないだろう。

  それよりも新しい政権をつくるさいに考えるべき課題は別にある。

 そもそも野党はまだ政権合意そのものが出来ていないから、それをするのが先であるが、いまその議論をするなら、やはり以前ぼくが書いたような問題こそ議論されるべきだろうと思う。

kamiyakenkyujo.hatenablog.com

 

 先ほど紹介した共産党の「新しい日本をつくる五つの提案」は、「党としての提案ですが、それを最大限、野党の共通の政策になるように努力をしていく、新しい政権が取り組む内容になるように努力していく」ものである(2中総での結語)。その中にはたとえば「核兵器禁止条約の署名・批准」が入っているし、「思いやり予算の廃止」が入っている。ぼくなどは「それって合意になるの?」と心配するほどである。

 野党連合政権ができても何でもできるわけではない。

 何ができて何ができないのか。

 むしろそうしたことが議論されていくべきだろう。

 

 これ↓とか完全に核兵器禁止条約批准へのけん制・妨害だろ…。

news.yahoo.co.jp

 

*1:「基本文書」とは「同大会で改定された『綱領』と採択された当面の活動方針である『第一決議(政治任務)』『第二決議(党建設)』に加え、党規約である」とする。他方で「本稿も、ホームページでの公表情報のみに依っている」とあるが、田中が、基本文書だけを読んでこの記事を書いたのか、それ以外の「ホームページでの公表情報」も参照したのかは判然としない。田中が「ホームページでの公表情報のみ」ということを繰り返しているのは、党員ならば「学習」によって公表情報とは違う「基本文書解釈」を施されているかもしれないという可能性を考えたせいであろう。

*2:田中は、共産党自衛隊違憲論というのは、昔の社会党が言っていたような「違憲状態」論(軍事力としては大きすぎるので適正な装備まで縮めれば合憲になる)なのか、自衛隊の存在自体が憲法9条とは合致しないと考えているのか、どちらなのかと聞いているが、この答えから見てもわかるように、共産党自衛隊の存在自体が9条と矛盾すると考えているのだ。共産党綱領のいう「9条の完全実施」とは違憲である自衛隊の解消である。そして共産党は、そういう「完全実施」は国民が納得するまでやらず、国民が不安だと考えるうちは、ずっと「2015年以前の自民党政府の憲法解釈でいい」、つまり自衛隊は存在して、そして必要なら防衛出動して全然かまわないと考えているのである。それが共産党の「段階的解消」論なのである。なぜそんな考えが出てくるかといえば、共産党にとっての日本の安全保障上の最大の危険は、アメリカの戦争に巻き込まれることであって、武力一般を日本国がもつこと自体はあまり問題視していないからである。

*3:もちろん同じ新自由主義政策ではないかという政治批判はありうるのだが、そういう「同じ穴の貉だ」というタイプの政治的実質のことをここでは問題にしていない。形式上の問題なのだ。

*4:というか、民主集中制の原則をやめたら、例えば共産党も参加する新政権は「消費税を5%にする」と決定しても、地方組織は「5%はダメだ。0%にせよ」とか「10%のままでいい」とかバラバラなことを言い出すので、有権者から見ると共産党は一体どういう主張をしているのか、わからなくなるだろう。そのようにして派閥をたくさん作って国民の多様な意見集約をするシステムの政党もあっていいと思うが、それは一長一短ある。どうしても承服できないなら、政党を別に作った方のが、国民から見ればわかりやすい。

『逃げるは恥だが役に立つ』11巻

 『逃げる恥だが役に立つ』を新春のドラマでやっていて、観るともなしに観てしまった。

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 当然原作マンガとドラマは違うわけであるが、原作で第二部的に始まった10巻と11巻においては、ドラマでは省かれてしまった雨山のエピソードがぼくのお気に入りである。

 

 

雨山からの恋愛相談

 雨山は、平匡が妻帯者とも知らずに好きになってしまい、そのことを胸に秘めたまま、あるきっかけでその事実を知り、勝手に失恋する平匡の同僚女性である。

 平匡は鈍感なのでそのことに全く気付かないのであるが、みくりが分娩室に運ばれてから“平匡が職場同僚に恋愛相談を受けている”という事実を平匡自身から聞き及び、“それはどうもおかしいのではないか”といぶかるのである。

 それで陣痛の間隔が短くなるまでの間、何とみくりが平匡に成り代わって、スマホで雨山の「恋愛相談」に乗ってしまい、そうとは知らない雨山から感謝までされてしまうのである。

 みくりが不審を起こしている表情がぼくはとても好きなのだが、一体なぜこの一連の表情が好きなのか、自分でもよくわからなかった

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海野つなみ逃げるは恥だが役に立つ』11巻、講談社、p.146

 

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同前p.149

 たぶん、とても決然としているからであろう。

 「夫が浮気をしているかもしれないことを疑う女性」として、世の中でしばしば描かれる際の弱さや暗さがまるでない。パートナーのスマホを取り上げてタイムラインを見た挙句、失礼なコメントまでするというのは、明らかに「やりすぎ」感があるが、それもふくめて、このみくりにものすごく魅力を感じる。上がり気味の眉といい、理路整然とした明瞭な推理といい、ここには知性的な強さがあるのだ。

 こういう平匡への質問などは、何というか、平匡を追い込もうとか、詰問しようとかというのではなく、純然たる知的好奇心というか、今この状況の理性的な最適解を出そうという態度がよく表情に出ている。この表情もすごく好き。

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同前p.148

大沼田会

 ドラマでは「大沼田会」もかなり省略されてしまったのだが、原作で展開される「コミュニケーション道場」である同会(飲み会)では、集まったメンバーがお互いについての本音を自由に言い合う(人格攻撃は罰金)。

 灰原課長は、体育会系もしくはスクールカースト上位のノリを持つ男性であり、ここでも「男同士はいじって笑いをとるコミュニケーション」をしたことを、夫婦に持ち込んでやったために離婚を切り出された経験を持つ。そのために、「女性はサゲずに褒める」ように行動を変えたのだという。

 しかし、それは雨山から「居心地が悪い」と批判される。雨山がどう具体的に批判したかは作品を読んで欲しいのだが、実はぼく自身としては、灰原的な「いじり」をやってしまいがちなのである。

 娘とか、同僚とかをそうしてしまう傾向がある。

 ホモソーシャル的なメンタリティがぼくの中に蟠踞しているのである。

 灰原は平匡の1ヶ月育休を批判したマッチョなタイプなので、8ヶ月も取得した自分とは一見最も縁遠いように思ってしまうのだが、「内なる灰原」がいそうで自分的には大変恐ろしいシーンなのである。

 

 

イララモモイ「推しという免罪符」

 バイト先の同世代男性(郡山くん)に、女性である主人公(新名栞)が恋愛感情とは言い切れないが、すっごいライトな性的な関心をもっていて、そのことをバイト先の女性たちとの間だけで会話する際に「推し」という言葉で表現しているという設定。

 

 素敵な彼氏もいる主人公・新名は心の中で

あくまで目の保養的な存在で

決して付き合いたいとか恋愛感情はないんですけどね

 と自分に言い訳をする。

 「推し」というカテゴリーにしてしまうと恋愛感情が混入していてもわからなくなってしまう。このワードで同性仲間の間でだけ自由闊達に喋れるように共有化できてしまうのである。

 しかし、「推し」だからいいだろうということで恋愛感情要素が不透明になってしまうのは、新名自身もそうであって、4/7あたりの、彼氏とテレビを見ている最中に「郡山」出身の歌手を思わず写真に撮って郡山くんのラインに送ってしまい、激しい葛藤と、妄想が広がってしまうくだりが悶絶するほどいい

 八重歯の郡山くんのビジュアルも中性っぽくて、「萌える」。いや、それこそ、ぼく自身が郡山くんを見る目の中に性的要素が入っていると思う。

 

 ぼくはラインとかメールとか個別会話とかを、「馴れ合い」モード異性とやりとりする際に、相手が同性代くらいの誰であったとしても、どうしてもそこに親密な空気が発生しているように思えて、「この親密感を楽しんでると相手に思われてないか?」と不安になり(しかし他方で本当にウキウキしている自分もいるのだが)耐えきれずに早々に打ち切ってしまう。

 

 だから新名のこのどうでもいいクソ葛藤がすごくよくわかってしまう。

 郡山くん側から見た作品もある。

郡山くん視点の推しの話www.pixiv.net

 そしてやはり郡山くん視点で見るとやっぱり新名は謎行動をやっている人で「ちょっとこわい」んだな…と、あらためて自分のキモさを自覚する。

 

 

スポーツの本質的暴力性とどうつきあうか

 リモート読書会は、川谷茂樹『スポーツ倫理学講義』を取り上げた。

 この本についてはすでに2005年に書評を書いている。

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 例えば写真は、今年11月28日付の西日本新聞夕刊の記事であるが、柔道の1984年五輪における山下・ラシュワン戦を振り返り、怪我をしていた山下の「右足は狙わないと決めていた」とするラシュワンの言葉を載せ、「その高潔な精神は世界で評価され、国際フェアプレー賞を受賞した」とする。1面のほとんどを使って、相手の弱点を狙わないことを「フェアプレー」として称揚している。

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西日本新聞夕刊2020年11月28日付(6面)

 川谷は、この山下・ラシュワン戦を冒頭に題材にとり、「相手の弱点を狙わないことはスポーツマンシップに悖るのか」という問いを立てている。

 川谷は、勝敗の決着こそがスポーツの内在的目的であり、それがスポーツのエトスだとする。少なくとも対戦型競技では弱点を攻めることが勝利のためには絶対に必要なことであり、弱点を攻めてはいけないというのは、スポーツの外側から持ち込まれたものに過ぎないことを明らかにしていく。

 したがってスポーツはもともと勝利至上主義たらざるをえず、敗北という害悪を相手に与えようとする意味で本質的に暴力的であるとする。

 このようなスポーツは元来勝利至上主義という本質を持っていることを暴くことは、例えば「しんぶん赤旗」のような左派的良識からすれば、驚くべき結論になってしまう。同紙で川口智久(一橋大名誉教授・スポーツ社会論)は日大アメフトの規則違反などの問題を次のように説明する。

元来、スポーツにおける競争が、相手を尊重し、習得した技術の交流によって互いに人間としての豊かな高まり、人間らしい生き方を追求することが目的であることからすると、起こってはならない非合理な事態が生じたことになる。/そして、その根本的な原因は勝利至上主義の思想にあり、今回のケースはそれを当然視する指導者と受け入れざるを得ない競技者の主従関係が最大の問題であったといえよう。(川口/しんぶん赤旗2018年6月5日付、強調は引用者)

 川谷のスポーツ観とは正反対のものが見て取れるだろう。ぼくも左翼としてはどちらかといえば、川口のような論理に日常接している。

 しかし、川谷が緻密な論理によって、スポーツがどのような論理構造を持っているかを暴く様は実に見事で、その時ぼくは、この本をスポーツ論という以上に「哲学をすることの愉悦」として捉えのであるた。

 当時の記事でぼくはこの本について次のように書いた。

 ぼくらの思考はふつうは常識のなかにどっぷりと浸かっていて、それをいったんぬぐってみたとしても常識や日常道徳は思考にふかくこびりついているものである。いや、こびりついているなどという程度のものではなく、それから逃れることはなかなかできない。
 ところが、哲学という装置を使い、物事を徹底的につきつめていったとき、バキバキバキバキと大きな音をたてて固まったドロのようにこびりついていた常識が割れて剥がれ落ちていくのがわかる。あるいは常識という小さくて排除できない害虫が哲学という薬品を噴霧して残らず殺すような残酷な徹底性がある。また、常識をあざやかに反転させる爽快感は、徹底した思考をしたものだけが得られる特典だ。
 これは、哲学をするということの愉悦である。

 川谷のこの本を読んでいると、哲学をすることの楽しさが伝わってくる。

 今もこの点がぼくにとっては本書評価の基本である。

 川谷は、哲学の議論に、常識、道徳、民主主義的多数感覚を持ち込もうとする企てを厳しく批判する。「本書を読み進めるにあたって、倫理学/哲学の素養は特に必要ない」(まえがき)のである。

 また哲学上の碩学の言葉を借りて議論する態度についても厳しく批判する。

 ボクシングが暴力的かどうかを、J.S.ミルを味方につけて論じようとする学者の態度を「おもしろくない」と川谷は言う。

 

それでは、どうすればおもしろくなるでしょうか。簡単なことです。事柄そのもの(Sacheselbst)を、もっと突き詰めて考えればよいのです。「事柄そのもの」とはこの場合、ボクシングです。先ほどの論争は、ボクシングの周辺をぐるぐる回っているだけで、ボクシングそのものについて何も明らかにしていない。だから、つまらないのです。(川谷p.111-112)

 

 読書会では、参加者の一人が、川谷の議論に反発した。

 その参加者Aは、ソチ・オリンピックでのスケートの浅田真央の態度を例に出していた。

 同冬季五輪スケート1日目のショートプログラムでボロボロだった浅田を見て、Aは「もう浅田は2日目(フリープログラム)を棄権するのではないか」と思ったという。もはや優勝はおろか、何らかのメダルさえ絶望的であり、常人から見ればこれ以上出ることは、自分の経歴やプライドを傷つけるものでしかない状況だったからである。しかし、それでも出場し、しかも見事な演技を披露した浅田を見て、見ていた自分(A)も涙を流して深く感動したし、浅田自身も泣いていた。

「勝利だけがスポーツの目的であればあんな光景はあり得なかったし、あの感動もなかったはずだ」

というのがAの言い分である。

 川谷はこうした議論を予想しており、競技概念を超えた絶対的な強さの追求を競技者がやることがあるという指摘をする。例えば試合の勝敗などどうでもよくなり、時速250kmのボールを投げられるかどうかだけを追求する野球選手のようなものだ。別の箇所では、「求道者」としての広島カープ前田智徳をあげ、彼が「一番の思い出の打球」としてあげたのが「ファウル」であったことを紹介する。チームの勝敗も、個人のタイトルすらもなく、自分の惚れた打球を、試合にとっては無意味な「ファウル」に求めるのであるから、その瞬間、確かに前田は勝利至上主義を超えているのである。

 小山ゆう『スプリンター』のラストも、読みようによっては競技概念を超え、記録さえも超えた、何か「神の領域」に入ったかのように思わせる展開になっている。

 

  しかし、川谷の本を読んだ後では、それはやはり競技による勝敗をめざすというスポーツのエトスの上に成り立つ、あくまで「派生的」なものである。

 ごく稀に生まれる「勝利を超越した求道」ではなく、勝負事ゆえの常軌を逸した熱さ、そして勝者と敗者のコントラスト、敗者に敗北を与えるという暴力こそがスポーツの本質であるという川谷の主張でこそ、世の中に蔓延するスポーツ界における暴力・体罰・支配をよく説明できるし、「企業社会では体育会系が重宝される」という神話がはびこるのも、スポーツの本質に根ざすものであると考えれば理解しやすい。

 

 これに対して「いや、それは特殊日本的な現象だろ?」という批判がある。

 例えばサンドラ・ヘフェリン『体育会系 日本を蝕む病』(光文社新書)では

私が育ったドイツではスポーツは体罰と全く結びつきません。(同書p.64)

という。ドイツのスポーツ事情が実際にどうなのかは別として、問題はスポーツがいつでもどこでも暴力的であるということではなく、スポーツが本質的暴力性を抱えた危険なものであるという自覚でスポーツと付き合うのか、ということなのだ。

スポーツは本質的に勝負事(agon)であり、人間は勝負事になると簡単に常軌を逸します。……勝負事は私たちに大いなる娯楽を提供してくれますが、同時に扱い方を誤ると大変危険な代物でもあります。時にその暴力的本性をむき出しにするスポーツと、穏健で最大公約数的な常識道徳との間には、常に緊張関係が存在します。……ですから、子供の教育の場面にスポーツを導入するのは、本来よほど慎重な配慮が求められるべきでしょう。そのことも含めて私たちにできることは、スポーツのこの本質的な危険性を熟知し、それといかにうまく付き合うか知恵をしぼることなのではないでしょうか。(川谷p.172-173)

  川谷の本でもしばしば引用される永井洋一は、『少年スポーツ ダメな大人が子供をつぶす!』の中で次のように書いている。

 

 N・エリアスとE・ダニングは『スポーツと文明化』の中で、近代スポーツは前近代社会にあった非科学性、暴力性からの脱却という大命題のもとに成立した、としています。近代スポーツが成立する一九世紀以前のイギリスで行われていたスポーツ的な活動は、怪我人、時には死者さえも出る粗暴なイベントであったフットボール(サッカー)、あるいは素手で相手をとことん打ちのめすまで闘われたボクシング、さらには動物の殺し合いの行方を楽しむ賭けなど、血なまぐささを残す野蛮なものでした。そうした前近代的な要素を改め、スポーツを近代社会を具現する合理的、科学的なものとして整備するために、統括団体の組織、統一ルールの作成、公式大会の開催などが推進されました。その結果、現在、私たちが親しんでいる近代スポーツの形態が整ったのです。その意味では、近代スポーツにはもともと暴力性の抑止が使命づけられているのです。

 私たちがスポーツに潜む暴力性、あるいは指導者、選手、愛好者に潜む支配性、攻撃性をいかに巧みにコントロールするかという部分に、エリアスらの言う「文明化」の程度が示されているといえるかもしれません。(永井洋一『少年スポーツ ダメな大人が子供をつぶす!』朝日新聞出版、KindleNo.290-300)

 

 つまり、もともと暴力的本質を持っているスポーツの、その暴力性を自覚して抑制とコントロールをすることこそが近代スポーツの使命であるのだから、その自覚と管理に成功している文化と成功していない文化がある、ということになるだろう。

 これは「スポーツの本来の性格から逸脱した勝利至上主義」という把握とは正反対のものである。危険なものであるという厳しい覚悟に立ってスポーツと付き合うことが求められているのである。

「ぼくは娘の保護者になれない」

 「ぼくは娘の保護者になれない」というエッセイを日本コリア協会・福岡の「日本とコリア」誌第243号(2021年1月1日号)に寄稿しました。「これでいいのかニッポン!」というリレー連載のコーナーです。

 

 夫婦同姓の強制によって、事実婚ではどのような不利がもたらされるのかということを書いています。

 事実婚共同親権にならないので、父親であるぼくには親権がありません。そのために学校教育法で定める「保護者」にはなれないのです。

 さらに、「名前を変える」ということについて書いています。

 「千と千尋の神隠し」や中野重治「ヒサとマツ」を思い出したので、そのことを書いてます。

 

湯婆婆は相手の名を奪って支配するんだ。いつもは千でいて本当の名前はしっかり隠しておくんだよ

 

 「ヒサとマツ」はごく短い短編小説だ。奉公に出される子どもが、奉公先のおかみさんと名前が同じになってしまうので、まず最初に名前を変えさせられる話である。

 

 目たたきするほどのあいだヒサは迷った。承知しても、ほんとによかろうか。母親のつけてくれた名ということが頭にちらりとした。

「ヒサという名はおっかさんがつけたんじゃ。」それは何十ぺんも聞いて育ってきた。それは、ヒサという名に結びつくヒサ全部が母の手でつくられたということのようだった。母親の愛情と権威、それが「ヒサ」だった。それが今消える、手軽に……

「わかったの……」といったおかみさんの言葉が耳でひびいている。ヒサは、悪事をはたらくようにおどおどしてうなずいた。声は出なかった。(中野重治『五勺の酒・萩のもんかきや』所収)

 

 

五勺の酒・萩のもんかきや (講談社文芸文庫)

五勺の酒・萩のもんかきや (講談社文芸文庫)

  • 作者:中野 重治
  • 発売日: 1992/08/04
  • メディア: 文庫
 

 

 名前を変えても平気な人ももちろんいます。

 しかしアイデンティティが奪われるように感じる人もいるのです。

藤森毅「少人数学級の根拠の在り処」

 福岡市の高島宗一郎市長が、11月末の時点で福岡市をGoToトラベル事業から対象除外すべきかどうかを問われて、その必要はないと答えた。その後そのことを議会で問われ、次のように答弁している(2020年12月10日)。

11月末時点において他都市で第3波と言われます感染者数の急増が見られる中、福岡では大きな増加は見られず、特に重要となる重症者の病床稼働率も低い水準で推移しておりました。こうした感染者数の推移と宿泊者数の動向から考えると福岡市においてはGoToトラベルと感染者数に相関関係は見られなかったものと考えます。

GoToトラベルと感染者数の関係について議論がなされている中、福岡市においては第三次産業が9割を占めており、市民の生活にも大きな影響を与えることから、エビデンスに基づく冷静な分析が必要であり、感染者数の推移と宿泊者の動向についてデータに基づく事実関係をお伝えしたものであります。

 「エビデンス」。

 ここで髙島市長が言う「エビデンス」とは、どうも「GoToトラベルと感染者数に相関関係は見られない」というデータのようだが、確かに福岡市では、11月末の時点では、両者の間に「相関関係」(一方が増加すると、他方が増加または減少する、二つの変量の関係)はないと言ってもいい。

 だけど、感染者数に影響を与える様々な因子があるのだから、それらの影響を取り除いてみないと、「エビデンスに基づく冷静な分析」にはならないはずである。

 まあ、でも髙島市長のその認識の当否をここで今問題にする気はない。ひょっとしたら、もっと豊富な「エビデンス」を他の場所であげていたり、あるいはぼくの読み違いだったりするかもしれないし。

 

 とにかく「エビデンス」が大流行りだということだ。

 「少人数学級をやらない」根拠としてこの「エビデンス」は盛んに使われた。財務省がまさにそうである。

 一見中立をうたう新聞社でも、財務省の主張を「一理ある」ものとして対等に扱うことで、事実上財務省エビデンス論に肩入れしてきた。例えば「読売」の10月31日づけ社説は「国や教育委員会は感染対策と学習効果を両立できる環境の整備に取り組んでほしい」と両論を並べ、実際には「エビデンス」を要求してきた。

 

 共産党の理論機関誌「前衛」2021年1月号で、藤森毅が「少人数学級の根拠の在り処」と題して「財務省の『エビデンス論』を批判する」というサブタイトルの論文を載せている。 

 

前衛 2021年 01 月号 [雑誌]

前衛 2021年 01 月号 [雑誌]

  • 発売日: 2020/12/08
  • メディア: 雑誌
 

 

制約や限界を踏まえれば役立つが

 “少人数学級の教育効果は不明であるから少人数学級に予算を使うべきではない”という財務省(や一部の論者)から出ている意見は、医学の「根拠にもとづく医療(EBM)」に淵源がある。藤森は、「筆者(藤森)はエビデンス論一般を否定するものではありません」と冒頭に断り書きをつけているが、この手法の特性、そこからくる制約や限界を踏まえた上で用いるのであれば有効な手法となる。

 計量経済学から教育政策の効果を測ろうとする経済学者ヘックマンの考えを次のように紹介する。

ヘックマンは、従来の就学以降の貧困対策(学校の教員増、犯罪者更生プログラム等々)に対立させる形で、就学前の幼児教育のほうが経済効果が高いことを強調します。これは「限りある予算のもと、他の分野の貧困対策を減らして、就学前の幼児教育に充てたほうが良い」という“選択と集中”の論理ともなりえます。というのは、計量経済学は、人々の生活と権利にかかわる政策を抽象し、いくら投資して、いくらリターンがあるかという経済指標に還元し、よりリターンの多い方にシフトしようという投資の論理という側面を持つからです。 (p.88、強調は引用者、以下同じ)

 藤森は、就学前教育が貧困対策にとって意義があるということはその通りだし、そこへの投資をしぶる為政者を説得するためにこの理論が使われるのは「意味がある」としている。

 しかし、ここでは初めから「予算は限りがあるもの」だとされていて、その制約内でどう優先順位をつけるのかという話に過ぎない。その制約自体を問い直すことは許されていないのだ。

 また、例えば貧困層の生活支援のためのお金を配ることは、その人たちが「尊厳ある生活」を営むためには必要なものだが、それが他の施策と比較して高い経済効果を生まない可能性はある。ヘックマンの論理に従えば、「経済効果が低いのだからそこに投資すべきでない」となるが、経済効果が低くてもその人の「尊厳ある生活」を保障するためには投資が必要になることを藤森は主張する。

しかし政策で大事なことは、すべての個人を、年齢・性別・経済的な地位その他にかかわりなく尊厳と基本的人権(とくに社会権)をもつ存在として捉えることです。そこには投資の論理で割り切ってはならないものがあります。政策は基本的人権の保障としてあるという見地が欠落すれば、「なぜ貧困対策の予算がこんなに少ないのか」「そもそもなぜ貧困が広がっているのか」という根本的な問い——資本主義の矛盾と改革についての問い——がでてきません。(p.89)

 

 つまり、エビデンス論は、ある制約や限界をつけて用いるなら役に立つが、その制約や限界をわきまえずに使うと間違うことになる、と藤森は警告するのである。その一つとして、経済効果だけで政策を考えてはいけないということがある。

 

教育は未だ数値化できない部分が大きい

 藤森が次に主張するのは、教育という営為はそもそも効果を未だ数値化できない部分が大きいという問題があるのではないかという点である。

ランダム化比較試験は結局のところ、ある政策の影響という「複雑な現実」=「現実におきていること」を、数値という抽象に落とし込んでいく作業です。問題は、どんなモノサシを発見・考案して、現実を測定するかです。このモノサシの設定が「複雑な現実」の重要な部分を切り取れていればいいのですが、そうでない場合、他の影響の排除をいくら巧みにおこなっても、現実の重要な部分を捉えたことにはなりません。このモノサシの設定に、「エビデンス政策」の根本的な制約あるいは陥穽があります。(p.90)

 

 「学力なら比較可能だろ」という意見についても次のように批判する。

  比較的計測しやすいといわれる子どもの学力でも容易ではありません。

 たとえばA圏では全国学力テストの平均点をあげるための直前の一定期間子どもたちをドリル漬けにしています。そうすると二、三点、テストの点があがります。逆にB県ではそうしたテスト対策をやらないとします。少なくとも数年前までそういう県はありました。「出された問題に短い時間で正しい答えをだす子どもたちでなく、話し合いながら問題をつくれる子どもたちを育てるのがわが県の誇り。そのほうが子どもたちは勉強好きになり、今は点数が他県より低くても将来伸びしろがある」という考え方が浸透していたのです。

 全国学力テストの点数をモノサシにすれば、A県の学力が上でB県の学力が下になります。学習の時どのように話し合っているのか、間違ったり遠回りして自分らしく学ぶ過程を楽しんでいるのか、そうしたことは捨象されます。(p.90)

 

 藤森はユネスコ学習権宣言が述べるような社会を動かす主体となるものが「学習」=学力ではないのかと提起する。

「読み、書く権利であり、質問し、分析する権利であり、想像し、創造する権利であり、自分自身の世界を読み取り、歴史をつづる権利であり、教育の手立てをえる権利であり、個人および集団の力量を発揮させる権利である」(ユネスコ学習権宣言)という学習の力量をどうやって測れるのか、まだまだ探求の途上だと思います。(p.90)

 

 そして、教育は学力だけが目的ではない。学級規模は学力向上だけを基準にしていいわけではないのだ。その点を藤森は次のように述べる。

 ましてや、教育の目的は子どもは一人ひとりの「人格の完成」=子どもの人間的成長全体です。それは、認知能力だけでなく、自分への信頼、他者への信頼、やさしさや厳しさ、労働、自主的な判断能力、人権感覚、芸術、スポーツなどきわめて多様かつ個性的な世界です。さらに、教育の影響はそこで勉強したことをすべて忘れてなお、その人の中に形成されるという長期的なものという面もあります。

 そうした「複雑な現実」を数値化できる一つあるいは複数のモノサシというものがあるでしょうか。少なくとも現時点では存在しているとは思えません。そして、数値化自体がそもそも可能かという問題が横たわっています。

 教育についての計量的調査は、相当の困難と制約を背負っていると言わなければなりません。(p.90)

 

数値のエビデンスがないことは客観的な効果がないこととイコールではない

 また、藤森は、

  ここで間違えてはいけないことは、数値のエビデンスが得られないことと、現実に効果がないことは、イコールではないことです。(p.92)

 という点にも注意を向ける。

 エビデンスの計量手法は、人間の感覚の代わりに温度や湿度や空気濃度などを数値で測るセンサーに似ています。ただし、現在の教育エビデンスのセンサーはすでにみてきたように、あまりに未完成で感度不足です。それだけに、そのセンサーがうまく反応しないからといって、その現象が起きていないとは言えないのです。

 現実にどんな効果が生じているかは、客観的に存在している現実です。これに対し、エビデンスのセンサーは、その現実をなんとか数値の形で映し出そうとする一つの抽象です。

 学問に携わるものは、“灰色の理論”が“緑なす現実”の合理的な抽象となることを望みます。そして、その望み通りになるかどうかは、ひとえに“灰色の理論”のでき次第なのです。教育効果の計量化という理論枠組みは、まだまだこれからという段階ではないでしょうか。(p.92)

  藤森の論文は、少人数学級について現時点で認められている「効果」にはどういうものがあるかを紹介し、さらに、総合性を持っているセンサーとして現時点で役に立つのは教師の意見、つまりヒューマンセンサーではないのかという問題を提起する。その部分はぜひ藤森論文に直接あたって確かめてほしい。

 

 「エビデンスがないからお金は出せない」というのは、行政が最近よく言う切り捨ての口実である。少人数学級もそのような切り捨てに遭ってきた。藤森はこのようなやり方を「財務省のブラック・エビデンス論」として2点に渡って批判している(これも詳しくは読んで欲しい)。

 行政のほうも、そう言っておけば防御したような気になっていると思うが、全然そんなことはない。限界と制約をわきまえなければ、役に立たない議論だ。

 行政の中には、時々どこで合意されたのかわからないような方法論が持ち込まれることがある。PDCAとかKPIとかもそうである。そういうものが不用意に持ち込まれ、国民の要求を切り捨てる方便に使われることがしばしばある。