GWに「未来少年コナン」を観た

 NHK総合で「未来少年コナン」の第一話を観た。

 つれあいと2人で、まるで昔、楽しみなテレビ番組が始まるのを待っていそいそと「ブラウン管」の前に座っていた子どものように。wktk

 つれあいはリアルタイムで観ていて、「アニメ=漫画」のようなものはふだんは見せてもらえない「教育者」の家庭で育ったものの「NHKのアニメは観てよい」との家庭方針のもと、その時間を圧倒的に楽しみにしていたという。*1*2

 ぼくの家はそんなことはまったくなく「見放題」だったのだが、小さかったぼくはつれあいとは対照的にNHKのアニメ(「ニルスのふしぎな旅」「スプーンおばさん」など)や子ども向けドラマ(「大草原の小さな家」)は「つまらない」と思っていたので当時ほとんど関心を寄せていないかった。

 観る機会があったのは、学生の終わり頃にレンタルビデオでいろんな名画やアニメを集中的に観ていた時期があって、そのときに初めて「未来少年コナン」に接し、「なんて面白いんだ!」とびっくりしたのである。典型的な「食わず嫌い」だったのだ。

 ただしぼくが観たのはその一度きりである。今回、ほとんど予備知識もなく、断然うろ覚えの記憶の中で再度観ることになった。 

 つれあいは観終わるなり「小さいときに観て感動したものだったから、アラフィフになって観なおしてつまらなかったらどうしよと思っていたが、あまりにも面白くてびっくりした!」と述べた。

 ぼくもまったく同じ感想である。だからなぜそう思ったのかをここに、素朴な感想をつれづれなるままに書いておく。

 設定のディティールやデフォルメが、少なくとも「1970年代の元・子ども」の冒険心をくすぐった。

 つれあいは「廃棄された宇宙船で暮らしているというのがロマンを感じる!」と言った。その窓から足を出して寝ているなんていうのは、なんて素敵なの! と。小さい頃、家の近くの空き地や畑には廃車になったバスとか乗用車が捨ててあり、ぼくもその中に入って遊んでいたが、そこで生活することを一再ならず妄想した。「朽ち果てていくものの中で暮らす」というのは「1970年代の元・子ども」の「ロマン」であった。

 そのロマンを支えるディティールとして、コナンがおじいに言われてラナのために水を汲みにいくシーンが映る。

 あんなのは汲んできた水をラナに渡せばそれでいいはずなのに、わざわざコナンがコックピットであろうか、水が溜まっている場所にまですばやく降りていって水を汲むシーンを忍び込ませている。

 「ああ! 水は雨水か何かをためておくんだ!」と小さく感じる。(絶海の孤島において)「朽ち果てていくものの中で暮らす」ことの、何か「リアル」なものを感じてしまう。

 そして、海に潜って「ハナジロ(鼻白)」というサメをコナンが狩るシークエンス。息を止めて長時間潜る様子も、罠として仕掛けられた無数の岩石が落下する様子も、サメがまるで「不審な大人の尾行者」のようにゆっくり追ってくる様子も、そして、狩ったサメをまるでぬいぐるみのように担ぎ回る様子も、今度は一転して全く「リアル」ではない。

 むしろ「1970年代の元・子ども」の冒険的な想像=妄想のロマンであった。

 しかしむしろそのような「リアル」さを排除した、妄想に奉仕する動きの方が、「1970年代の元・子ども」としてはここは断然楽しめるのである。

 もちろん、どう考えても間に合わない時間なのに、間一髪でコナンが飛行艇に飛び乗り、そのまま翼の上にしがみついているのは第1話の妄想の圧巻でありこれが「引き」というのも、なんともしびれる演出ではないか。どうしたって次回を見たくなってしまう。

 

 そして、これは知らなかったが、初登場のラナの描き方に対して宮崎駿が死ぬほど後悔しているという話。

 

 

 一般的に宮崎の「美少女」への欲望はすでに周知のことだ。

これほどあからさまなペドファイル(幼児性愛者)保因者の排泄物を、それにもかかわらず見事な物語として食べさせられ続けること。それは果たして不幸なのか幸福なのか。…最新作『千と千尋の神隠し』はどのように好意的に見ても「少女のセクシュアリティ」をライトモチーフにしている。それは自覚されないものだけに、いっそう効果的に表現され得るだろう。…宮崎駿ペドファイルだ。…しかも彼は不能ペドファイルだ。もちろん彼の欲望は、これまでも一度も実現されたことはない筈だし、おそらくこれからもないだろう。そのおかげでわれわれは、現代にはほかに類例のないような欲望の昇華物、すなわち彼の作品群を享受することができる(斎藤環「倒錯王の倫理的出立」/「ユリイカ」2001年8月臨時増刊号所収)

 

 その上で、当時もそうだったし、今見てもぼくもラナの「顔」にばかり見入ってしまう。「女の子は神秘的だ」という歪みも含めて、ぼくはラナを見続け「ラナってきれいな・かわいい女の子だなあ」とぼんやり思いつづけるのである。視線がそこに釘付けでも誰にも邪魔されない。

 明らかにぼくはラナという「美少女」を見にきているのである。

 

 そして最後に倫理観。

 モンスリーとおじいが論争するシーン。

「お前たちはまだこんなことをやっているのか。あの大変動から何も学ばなかったのか」

「戦争を引き起こしたのはあの時大人だった、あんたたち。私たちはまだ子どもだった。子どもが生き残るのにどんな苦しい思いをしたのか、あんたに分かる?」

  「コナン」が放映されたのは第二次世界大戦終戦から33年後。ちょうど「コナン」の物語世界で「破局」(2008年ですよ!)が起きた後の時間(20年後)と似た尺度であり、今からいえばバブルを振り返るような時間感覚だ。

 制作者たちは後者だが、どちらの倫理観にも身を置いてきたに違いない。モンスリーのセリフは反論として胸に迫るものがあるのだが、論理的には成り立っていない。

 戦争の破局を反省して再軍備を否定する論理とともに、戦後の苦しい中を必死で生きてきて「軽武装・日米同盟」という「ハームリダクション」をやってきた論理との対立を見るかのようである。

 おじいが正当防衛とはいえ兵器という軍事力によってモンスリーたちに反撃をし、失敗することに一つの古い思想を見る気もする。

 そして、「娘が小さい頃いっしょに観ていたアニメでこんな感動は味わえなかったよな…」という感慨もよぎった。単純な世代論、「昔はよかった」語りのような気もするのだが、まあそういう感傷も許してくれよ!

*1:義母は左派系の教員「活動家」であった。当時新日本婦人の会などの女性団体が「低俗」なアニメや番組を批判する運動を展開していて「健全」で大人も子どもも共有できるようなアニメの制作を提案していた。その成果としてNHKのアニメの枠があり、「コナン」がある…と1990年代後半に、ある新日本婦人の会の大物幹部を取材した時に聞き、資料を見せてもらったことがある。

*2:追記:これこれ。「しんぶん赤旗」1998年5月23日・24日付に掲載された「子どもとテレビ」。これであります。

https://engeishamrock.hatenablog.com/entry/2020/05/09/042556 「井上 コマーシャリズムに走らない、よいアニメを放送してほしいとNHKに要望して、78年にNHKで初めてのアニメ「未来少年コナン」が誕生しました。/有原 こちらの「コナン」は、未来の地球を舞台に主人公のコナンが仲間と出会い、さまざまな冒険をしていきます。宮崎駿さんらが演出しました。」

日Pの「9月入学慎重」要望書を考える

 大塚玲子のこの記事。

 

 「9月入学は慎重に」という要望書をPTA全国協議会(日P)が出したが、これは全国の「PTA会員に意見をたずねたことがあるのでしょうか」という問題、「意見が割れている話ですから、もしある程度意見を聞いていたら、このような要望は出せなかったのではないか」という問題だ。

 

 これは難しい問題だ。

 二つ大きなテーマがある。

 

どこで決めたのか

 一つは、どこで決めたのか、という問題だ。

 日Pは、事業計画を総会で決定しており、中心的な活動である「公益目的事業」の一つに「広報事業」があり、その中に、「また、適宜、関係府省庁・機関等に対して協力要請、要望活動等を行う」という項目が入っている。

http://www.nippon-pta.or.jp/about/rkra7f0000000f8z-att/2a9af891f630413a674969a70bd0e548.pdf

 

  上記は2014年度の事業計画だ。要望の中身は具体的に書いていない。

 2018年度は具体的な記述がある。しかし「等」が入っていて、どうとでも受け取れるものだろう。

http://www.nippon-pta.or.jp/about/rkra7f0000000f8z-att/apleht0000000vwe.pdf

 

 日Pはこれにもとづいて毎年度いろんな要望を行なっている。

 例えば、2014年2月(2013年度)には「大雪災害に対する緊急要望について」という要望書を提出しているが、これなどはたぶん突発的なものだったに違いない。

 2019(令和2)年度と2020(令和2)年度の事業計画はどこでも見られないが、おそらくこのような「適宜、関係府省庁・機関等に対して協力要請、要望活動等を行う」的な、内容を特に限定しない要望活動が定めてあるのだろう。どこで決めたのか。すなわち事業計画にそって、理事会が決めたのであろう。

 したがって、いわゆる定款や総会決定に違反しているという角度での問題は生じていないとぼくは思う。

 

 その上で問題となるのは、「適宜、関係府省庁・機関等に対して協力要請、要望活動等を行う」のように要望の中身を明らかにせず理事会にゆだねるようなやり方は正しいのかという点だ。

 要望書そのものを具体的に定め、総会で議決に付すのが一番いいのだろうが、そうでなくても「事業計画」にあるような「基本方針」(および「綱領」)に沿ったもので、理事会の権限で要望書をつくる、ということであればそれ自体は無理があるとは言えない。

http://www.nippon-pta.or.jp/about/rkra7f0000000f8z-att/apleht0000000vwe.pdf

 

  しかし、「9月入学は慎重に」というような要望が例えば「子どもたちの心身ともに健全な成長を図るため、社会の変化に対応した教育改革等に主体的に取り組」むという「基本方針」に沿ったものだ、ということは、まあ言えるには言えると思うが、それって広すぎない? という疑問は起きる。

 しかし、言わせてもらえば「こんなガバガバな広い基本方針で承認されているんだから、『「9月入学は慎重に」は基本方針の範囲だ』という主張には逆らいにくい」という気がする。*1

 

決め方は

 もう一つは、決め方だ。

 日PはPTAの全国の連合体なのだから、構成している単Pの構成員(つまり一人ひとりの保護者・教員)の意思を確認すべきではないのか? ということだ

 日Pは定款第5条で都道府県・政令市のPTA協議会・連合会を「正会員」としている

http://www.nippon-pta.or.jp/about/rkra7f0000000f8z-att/6d5ee3711f65eb3c38fe2a416177e48d.pdf

 

 概念的に言えば、日Pのもとに全てのPTA会員を束ねている全国単一の組織ではなく、日Pは各地方P協の合議体でしかない。だからその方針を決めるのに、いちいち全国の各学校にいるPTA会員にいちいち意思を確認する必要はないということになる。*2

 決め方はどうだったかという問いに対する答えは、「定款に従って事業計画を正会員に諮って(総会で)決めた」ということになるのではなかろうか。

 逆に言えば日Pの意思表示は「全国のPTA会員の総意」ではない、ということである。

 

いい要望活動をしているとは思うが…

 日Pの要望活動は、すべてを肯定できないけども、いいなと思うものも少なくない。例えば、「教職員定数削減に反対する緊急要望書」のようなものである。

www.nippon-pta.or.jp

 

 

 実は、個人的な感情を言えば、「9月入学は慎重に」というのはぼく個人の気持ちではある。だからそれを支持したいという感情がないとは言えないのだ。それは公平のためにここであらかじめ言っておこう。

 しかし「いいことをやっているんだから、民主主義的手続きはいい加減でいいだろ」というのは、まさにPTAの任意加入をめぐって起きている問題なのだから、ぼくがそういう論理に与するわけにはいかない。

 じゃあ厳密に手続き上不備があるかと言えば、上記で見てきたように非常に杓子定規に言えば、ルール的な(定款上の)問題があるとまでは言えないのである。

 

このモヤモヤした気持ちをどう解決すべきか

 だが…どうにもモヤモヤした気持ちが残る!

 「全国のPTAの代表のような名前をつけておいて、私たち会員には一言も確認しないで『要望』というのはいかがなものか!?」という気持ちだ。

 そこで解決策・反省点として次の2つを提案しておきたい。

  • 「慎重にせよ」という要望は、相当に意見が割れているテーマだということを配慮して、問題点を列挙する形、つまり事実上「弱い反対」として表現するのではなく、問題点にはまったく触れずに「賛成も反対も会員(保護者と教員)の中にあるので、今拙速に決めないで」というロジックのみを使うべきであった。*3
  • 実際に簡易な調査をやるべきであった。何しろ日Pの定款第4条に日Pがやるべき事業が列挙されているがそのトップが「社会教育、家庭教育…に資する…調査研究」なのだから。すでに意見が割れていることは予想できそうなものだったのであり、それくらいの調査をしてから要望書を出した方がいい。

*1:例えば労働組合の議案書はものすごく「詳細」である。 

https://www.jichiroren.jp/archive/wp-content/uploads/2019/07/h-06.pdf

*2:各会員=地方P協が代議員として自由委任なのか命令委任なのかという問題は残る。

*3:これも程度問題だ。あくまで「配慮」程度の問題である。なぜなら、全国の保護者・教員の意見が一人残らず「同じ」になるような問題はどこにも存在せず、子どもたちの根本利害に関わるような緊急におきた問題について少数意見に配慮した上で執行部=理事会が定款や事業方針(総会決定)の条文・項目・精神に従って何かを決断し行動するのは止むを得ないし、決定執行を委ねられた執行部の当然の権限であるから。

活字で国会パブリックビューイング——コロナ問題での志位質問を読む

 活字で「国会パブリックビューイング」をやるっていうのは大変なんでしょうかね。

 この記事でも少し書きましたけど。

kamiyakenkyujo.hatenablog.com

 

 映像は利点も多いけど、デメリットとしてはやっぱり「速い」ってこと。

 考える時間もなく過ぎていってしまいます。仮に考える時間や解説時間を設けたとしても、それでも映像の流れる時間に厳しく制約されています。まあ、動画ならストップすればいいわけですけど。*1

 国会討論が難しいと感じる人は、制度や用語に不慣れで、質問と答弁がどうかみ合っているのかがわからないと思っているんですね。そこを一つひとつ説明しながらやるのが一番大事なことなんじゃないかと思います。

 そこで、共産党志位和夫の質問を使って、「紙上国会パブリックビューイング」をやってみます。いや「紙」じゃありませんけど。

 これ。

www.jcp.or.jp

 

 じゃあ、ちょっとやってみます。

 

検査センターをつくるための支援予算は計上されているか?

 志位和夫委員長 日本共産党を代表して、安倍総理に質問します。

 冒頭、新型コロナウイルス感染症でお亡くなりになった方々への心からの哀悼とともに、闘病中の方々にお見舞いを申しあげます。

 医療従事者をはじめ、社会インフラを支えて頑張っておられる方々に感謝を申し上げます。

 新型コロナ危機に対して、いま政治は何をなすべきか。わが党の提案を示しつつ、総理の見解をただしたいと思います。

 

 まず、医療崩壊をいかにして止めるかについてであります。

 私は、そのための一つの大きなカギは、PCR検査の体制を抜本的に改善・強化し、必要な人が速やかに検査を受けられる体制に転換することにあると考えます。

 現状は、PCR検査数があまりにも少ない。総理は、検査数を1日2万件まで増やすと言われますが、実施数は1日8000件程度にとどまっております。「発熱やせきなどコロナを疑わせる症状が続いているが検査が受けられない」などという悲鳴がうずまいております。

 なぜそうなっているのか。パネル(1)をご覧ください。

 

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 このパネルの左側の流れ――これまでの検査方式では、感染が疑われる人は、まず「帰国者・接触者相談センター」に相談しなければなりません。しかし、それを担っている保健所が、能力の限界を超え、疲弊しています。そして、検査を実施するのは「帰国者・接触者外来」ですが、ここも能力の限界が来ています。

 全国どこでも「保健所の電話がつながらない」「保健所が検査が必要と判断しても、実施まで5日かかる」という事態が続いています。多くの国民が、検査が受けられない状況が続くもとで、市中感染が広がり、各地の病院で院内感染がおこり、医療崩壊が始まりつつあります。検査が遅れた結果、重症化が進み、命を落とす方があいついでいます。

 そうしたもとで、わが党は、パネルの右側の流れを新たにつくる――感染が疑われる人は、保健所を通さずに、かかりつけ医に電話で相談し、PCR検査センターで検査する仕組みをつくることを提案してまいりました。

 総理も、17日の記者会見で、「各地の医師会の協力も得て検査センターを設置します。かかりつけ医のみなさんが必要と判断した場合には、直接このセンターで検体を採取し、民間検査機関に送ることで、保健所などの負担を軽減します」と表明されました。遅きに失したとはいえ、これまでの検査方式の転換を表明したことは前進だと思います。

 そこで総理にうかがいますが、政府として検査センターの設置を推進するために新たな予算措置をとったのでしょうか。端的にお答えください。

 

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 ここはそんなに難しくないと思います。

 PCR検査を増やすというのは、もうだいたいどういう立場の人でも一致していると思うし、検査センターをつくるべきだというのもまあ一致しているでしょう。そのための予算が今度の補正予算には入っていますか? という質問ですね。

 

 加藤勝信厚生労働相 新たな検査センターは、これはいわゆる「帰国者・接触者外来」の一形態です。したがって、それが基本的に検査センター、検査機能をもつ。検査と言っても、(検体を)ぬぐうという意味であって、実際の検査は、例えば民間の検査会社にお願いするということです。今回の補正予算の中にも、設置についての費用、運営に関する費用は計上されています

 志位 いま言われた、補正予算のなかの「運営に関する費用」というのは、これはPCR検査の本人負担の減免のための措置です。補正予算案は、総理がPCR検査センターをつくると表明した前につくられたものです。ですから補正予算案のなかには、PCR検査センターの費用は1円も入っていない。(検査センターの設置は)後から表明したものですから。

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 ここは見事にかみ合ってますね。

 加藤大臣は、“補正予算の中に「運営に関する費用」は入っています”と受け取れる答弁をしました。

 しかし志位議員は“「運営に関する費用」が入っているって言うけど、それは本人が検査を受けるときに費用があまりかからないようにする手立てですよね?”とツッコんでいます。ふつう「運営に関する費用」でイメージするのは、建物をつくったり、そこにはりつける医療スタッフの人件費をみたりとか、そういうのですよね。それは全然入ってないじゃん? というわけです。

 そしてそもそもこの補正予算案をいったん作ったに、安倍首相が“やっぱPCR検査センターつくることにしたわ”って表明したんだから、そもそも入ってないよね、と言うのが志位議員のもう一つのツッコミです。

 「設置についての費用」という場合、意味が限定されていないので、あたかも入っているように聞こえます。ウソはついていない。「ごはん」といった場合「食事」なのか「米飯」なのか、どちらともとれるのに似ています。さすが加藤大臣、元祖「ご飯論法です。

 

 志位 政府の方針転換を受けて、全国の自治体では、PCR検査センターをつくる動きが始まっています。長野県では、24日に発表した県の補正予算案で、PCR検査センターを県内20カ所に設置する予算を10億3000万円計上しました。1カ所平均5000万円。札幌市も、24日に発表した市の補正予算案で、PCR検査センター設置予算を8600万円計上しています。東京都では医師会が主導して最大47カ所でPCR(検査)センターをつくる動きが始まっております。

 1カ所平均5000万円として、全国で数百カ所つくるとなれば、200億円程度が新たに必要になってきます。

 ところが、総理が「PCR検査センターをつくる」と方針転換を表明したにもかかわらず、補正予算案にはPCR検査センターの体制整備のための予算はまったく含まれていない。方針転換前に閣議決定した予算案のままです。

 先ほど(加藤厚労相は)「(帰国者・)接触者外来の一形態だ」と言われましたが、(PCR検査センターという)検体を採取することに特化した機関をつくるというのは新しい方針じゃないですか。前のままの予算案では国の本気度が問われるのではないですか。

 総理、「PCR検査センターをつくる」と表明した以上、その体制整備のために新たな予算措置をとるべきじゃありませんか。今度は総理がお答えください。

 厚労相 PCRセンターは特別なものとおっしゃっていますが、そうではないのです。これは診療所です。そこで診療をし、そしてぬぐうのも診療行為です。これまで「帰国者・接触者外来」でやってきた事業を、特に別建てにつくってやる、プレハブつくってやる、これまでもそれはできたわけです。さらに、それを積極的に支援するために今回は補正予算にものせているということで、今、お話があったそれぞれの地域でそういう取り組みがあれば、それの設置にかかる費用、また運用費については国の負担する分についてはこの補正予算で見させていただきます。

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 志位議員の方は、あまり難しくありませんよね。センターをつくるのは1か所5000万円かかるから、新たにたくさんつくろうと思えば、もっと予算をつけないとダメじゃないかといっているわけです。

  これにたいして、加藤大臣はどう「反論」しているか。

 “センターは診療所の一種だからこれまでも予算はつけてきた”というわけです。つまり一般的に診療所をつくるのと同じだから、そのための予算はコロナであろうがなかろうが、すでにあるんですよ、と言いたいのです。

 そして“それに加えてさらに今回の補正予算では支援のための予算をつけました”と反論しています。

 これに対して、志位議員はどう再反論するんでしょうか。もう少し見てみます。

 

 志位 これまでも(予算は)ついているというけれど、検査センターという検体をぬぐうのに特化した機関をつくるというわけです。そして各県では、そのための予算を補正予算案で計上しているわけです。

 全国の医療関係者にお話をうかがいますと、PCR検査センターをつくる努力が各地で開始されておりますが、困難が多いと聞いております。たとえば地域の医師会の協力を得ようとすれば、輪番で検査に当たる医師に対する手当てが必要になります。診療所を休止にするための補償も必要になります。多くの医療関係者は、強い使命感を持ってコロナに立ち向かっておりますが、使命感だけでは進みません。先立つものがなければ進まない。政府の強い財政的な後押しが必要です。先ほど49億円の話(「運営に関する費用」)をされましたが、ちょっと計算しても200億円くらいかかるじゃないですか

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 さっき志位議員は「運営に関する費用」は実は設置や運営のためじゃなくて、検査を受けにきた人の費用をまけるための予算だよね、と反論したんですが、ここではちょっと反論の角度を変えています。

 仮にそれは「運営に関する費用」だったとしても、49億円しかない、200億円必要なんだから額が少なすぎるよね、という反論をしているのです。

 これに対して安倍首相が反論します。

 

 志位 政府はこれまで検査を絞ってきた。しかし絞ってきた結果、市中感染がまん延し、院内感染が多発し、医療崩壊が始まっています。この事実に直面して、総理自身がPCR検査センターをつくって大量検査を行うと方針転換を表明されたわけです。新しい方針をあなた自身が表明した以上、既存の予算の枠内で対応するのではなくて、それを実行するための新たな予算措置をとるのはあたりまえじゃないですか。それをやってこそ国の本気度が自治体に伝わって、PCR検査センターの設置が前に進むのではありませんか。総理いかがでしょうか。

 安倍晋三首相 すでに加藤厚労大臣から答弁させていただきましたが、PCR検査センターを設置して、地域の医師会等へ委託する形で運営することで、あるいは歯科医師のみなさんにも検体採取にご協力いただくことなどの取り組みを推進することによって、これまで検査に従事されてきた方々の負担軽減をはかるとともに、検査拠点の確保をはかっていくこととしています。

 このほか、感染管理の専門家による実地研修や感染管理の体制整備等を行うことで、「帰国者・接触者外来」を設置する医療機関を創設することも都道府県に対し依頼しております。

 そうしたものに対しまして、政府としては補正予算において1490億円を計上し、緊急包括支援交付金を新たに創設しました

 そして、こうした取り組みを都道府県が推進することを強力に支援するとともに、また地方創生臨時交付金の活用によって、実質全額国費で支援をしていく、対応することも可能になっております。

 そしてまた、これらの交付金とは別に地域のPCRセンターの運営等、運営等に要する費用についても補正予算にも計上しております。ですからそこのところはしっかりと見ていただきたい。われわれはその費用は補正予算に計上しているということです。

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 安倍首相の反論は、“緊急になんでも使えるお金(緊急包括支援交付金)を1490億円用意したんですよ”というものです。これはかみあってますね。聞いた方は、ああそうか政府はちゃんと用意しているんだな、と思います。

 そして、その「緊急になんでも使えるお金」とは別に、さっきの「運営に関する費用」をみるための予算はつけていますよ、と言っています。こちらはかみ合っていません。志位議員が“それは運営のためのものじゃないでしょ?”と批判していることに応えていないからです。

 

 

 志位 まず運営等の予算はつけているんだとおっしゃったけど、これは患者さんの本人の負担の減免のための49億円です。(検査センターの設置とは)別の予算です。それから「(緊急)包括支援交付金」を1490億円とおっしゃったけど、これはPCR検査センターをつくる前に決めたメニューです。その後に決めたのだから新しい予算措置をとれといっております。

 これは総理、自治体まかせ、医師会まかせでは進まない。政府として新たな予算をつけて、「これだけの予算を積んだから、安心して進めてほしい」と言ってこそ、「プッシュ型」でやってこそ、前に進むということを強く述べておきたいと思います。

 

f:id:kamiyakenkyujo:20200502123606p:plain さっきも言った通り、49億円は「運営に関する費用」じゃなくて「患者さんの本人の負担の減免のため」のものだということに、結局政府は反論できないままです。ここは勝負がついたというべきでしょう。

 他方で、志位議員が“200億円かかるじゃないか”と言ったことについては安倍首相は“なんでも使える緊急包括支援金1490億円でまかなえばいいじゃん”と反論していますが、志位議員は“それは昔決めた話でしょ”と再反論しています。ぼくは一応安倍首相の反論は理屈が成り立っていると思います。すれ違い、という感じでしょうか。

 

 そして、テーマが次の問題に移ります。

 

コロナ患者受入のための病院支援は十分なのか?

 志位 検査と一体に進めなければならないのが、感染者の治療、隔離と保護です。

 重症や中等症の患者さんに対しては、コロナ患者受け入れ病院を確保しなければなりません。全国の医療関係者の方々にうかがいますと、患者さんの治療のために献身的な奮闘をされておられますが、病院がコロナ患者を受け入れるには、大きな財政的負担がかかるという切実な訴えが寄せられております。


 パネル(2)をご覧ください。

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 これは新型コロナ患者受け入れによる病院の減収要因がどのようなものになるかについての概略です。全国の医療機関から聞き取り調査を行いました。

 まずコロナ患者の受け入れベッドを空けておかなければなりません。

 医師・看護師の特別の体制をとらなければなりません。

 特別の病棟や病室を整備しなければなりません。

 一般の診療や入院患者数を縮小しなければなりません。

 手術や健康診断を先延ばしすることも必要になってまいります。

 これらによる減収に対する財政的補償がないままでは、対策を行うことはできません。

 先日、私は、医療現場のみなさんに状況をお聞きする機会がありましたが、首都圏のある民間病院では、コロナ患者さん15人を受け入れるために、病床を41減らしています。別の民間病院では、コロナ患者さん20人を受け入れるために、病床を47減らしています。すべて病院の減収になっております。「このままでは夏までに資金がショート(不足)する」という切実な訴えも寄せられました。

 そういうなかで東京都杉並区は、区内の四つの基幹病院について、新型コロナ患者の受け入れによる減収額を試算しています。「1病院あたり月1億2800万円から2億8000万円」――平均月2億円という数字が出てきています。

 区長さんは、「コロナウイルスとのたたかいに献身的に挑めば挑むほど、病院が経営難になり、最悪の場合、病院の崩壊を招きかねない」と述べ、減収分の全額を助成する方針を打ち出しています。

 総理、本来これは国がやるべきことではないでしょうか。新型コロナ対策にあたる病院に対して、「コロナ対策にかかる費用は、国が全額補償する」と明言すべきではありませんか。

 

f:id:kamiyakenkyujo:20200502123606p:plain ここは、“コロナ患者を一般の病院が受け入れるとむちゃくちゃ収入が減るんだけど、そのための支援の予算を補正予算の中に入れるべきじゃないのか?”、“ぜんぶ国が面倒みるよ、と言え”という質問です。

 加藤大臣の答弁と志位議員の反論はどうなっているのか。

 ちょっと整理するために、便宜的にぼくが(A)(B)(C)(D)と要素に分けてみました。

 厚労相 パネルについてですが、(A)まず空きベッドについては確保するための費用はすでに措置をさせていただいております。(B)それから医師・看護師の特別体制をする、例えば病床を集めて、そうするとそこに手厚い看護が必要になってくる。当然そこには医師や看護師の配置も増えてくるわけであります。そうした場合には特定集中治療室管理料が算定できるように特例の扱いをし、かつその基準も、先般2倍以上の水準にあげる診療報酬の改定もさせていただきました。(C)また特別の病棟・病室の整備については、今回の(緊急包括支援)交付金を使って、たとえばですね、別途整備をする場合には、それを支援するこういう費用ものせています。加えて診療報酬の全体としての減収を抱えておられるところには、よく事情を聴きながら、その状況状況を踏まえながら必要な対応をしていかなければならないと思っております。

 志位 (B)診療報酬を2倍にしたといわれました。これ自体良いことだと思うのですが、重症患者の治療だけです。それ以外の中等症患者の治療にはわずかな加算だけです。そして、診療報酬というのは、治療行為が行われた後に支払われるものであって、病院がコロナ患者を受け入れる場合のさまざまな減収――たとえば先ほどあげた一般の診療や入院患者数の縮小――こういう減収を補填(ほてん)するものではありません。

 (C)それから「緊急包括支援交付金」のことをまた言われました。しかし現在、「帰国者・接触者外来」等として、コロナ患者受け入れ先となっている医療機関は、全国で約1200病院あります。コロナ対応病院がこうむる減収額が、先ほどの杉並区の例で月2億円としますと、全国のコロナ対応病院の減収分を補填するには月2400億円かかります。半年で1・4兆円です。「緊急包括支援交付金」1490億円では、桁違いに足らない。ここでも抜本的財政措置をとることを強く求めたいと思います。

 

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 (A)はコロナ患者のために病院のベッドを空けて待っていたらその分、病院の収入が減ってしまうけども、それをカバーする措置をした、というのが加藤大臣の答弁です。これは志位議員から再反論がありませんでした。

 (B)は、コロナ患者を受け入れたら、医師や看護師に特別な体制が要るよね、というわけですが、加藤大臣は、“そのために病院に国(保険)から払う報酬を2倍にしました”と述べ、胸を張っています。しかし、志位議員は“いや、それ、重症の人だけだよね?”と再反論しています。とても足りない、というわけです。

 (C)については、コロナ患者を受け入れたら特別の病室が要るよね、という話ですけど、加藤大臣は“それはなんでも使える交付金で面倒をみます”と返しています。しかし志位議員は再び反論して“何でもかんでもその交付金を使えって言うけど、まともに病院の減収に対応したら1.4兆円かかるよ? 1490億円じゃぜんぜん足りないと思うけど?”とツッコんでいます。

 

「お金のことは心配するな」とは言えない

 志位 もともと、政府の医療費削減政策によって、多くの病院は日常からギリギリの経営を余儀なくされています。さらにコロナ禍によって、深刻な受診抑制が起こり、経営を圧迫しています。そこにコロナ患者への対応を行えば、倒産は必至だという悲鳴が全国から寄せられております。

 コロナ患者の検査と治療のために懸命の取り組みを行っている、ある首都圏の民間病院の院長からは次のような訴えが寄せられました。総理、お聞きください。

 「日本という国は、高度な医療と素晴らしい健康水準を達成していると言われてきましたが、こういった問題が起こると、ほとんどの病院が経営的にも人材的にもギリギリのところでやっていて、たちまちに崩壊モードになってしまうことがよく分かりました。それでも医療従事者は、強い使命感をもって、命がけで頑張っています。そのときに、政府が『お金のことは心配するな。国が責任をもつ。だから医療従事者は結束して頑張ってください』という強いメッセージを出してほしい。それがないと乗り切れない」

 「お金のことは心配しないでやってほしい」。このメッセージを総理の口から言っていただきたい。いかがでしょうか。

 首相 先ほど厚労大臣から答弁をさせていただきましたが、まさに最前線で感染と背中あわせの大変な努力をしていただいていることに改めて感謝申し上げたい、敬意を表したいと思います。

 

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  ここはわかりやすいですね。

 “お金のことは心配するな”という政治メッセージを出してほしい、という質問です。しかし、安倍首相は一般的な感謝の言葉にすり替えてしまいました。

 あーあ。

 感謝の拍手をしたりとか、ねぎらいの言葉を言ったりとか、そういうことを政治家がするかどうかは、ぼくはどうでもいいと思うんですね。ぶっきらぼうでムスっとしていても、お金をつけてくれるなら、そっちのツンデレ政治家の方が、1000倍いいんじゃないですか?

 んで、安倍首相の答弁の続きです。便宜上、先ほどの(A)(B)…の整理区分をまた使います。さらに増えています。

 

  首相  そのなかで、各病院の経営を圧迫している、われわれも十分承知をしています。そこで先ほど厚労大臣から答弁させていただいたように、(C)緊急包括支援交付金として1490億円を計上しておりまして、(D)また地方創生臨時交付金の活用によって全額国費による対応も可能としているところでありますし、(B)あわせてある程度の評価をいただきましたが、向き合う医療従事者の処遇改善に資するため重症者治療への診療報酬を倍増しているところでございます。また新型コロナウイルス感染症によって、経営に影響が出ている医療機関への支援も重要でございまして、(E)今般の緊急経済対策において無利子無担保を内容とする経営資金融資による支援を行っていきます。

 (F)また、経営が厳しい医療法人や個人診療所に対しては今般の持続化給付金の対象とした上で、医療法人は200万円、個人診療所は100万円を上限に現金給付を行うこととしています。もちろんこれではまだ十分ではないかもしれませんが、その給付をさせていただきたいと思います。(A)さらに空きベッドの確保の支援については病床を空けておくための経費として1床あたり定額の補助を実施しているところでございます。引き続き医療の現場を守りつつ、感染拡大防止にむけて、われわれも全力で取り組んでいきたいと思っております。

 志位 いろんなこと言われました。(C)「緊急包括支援交付金」とおっしゃいましたけれど、1490億です。(コロナ対応病院の損失補償には)1・4兆円かかるのです。(F)「持続化給付金」と言われた。100万、200万です。いま1億、2億という単位の赤字が問題になっているのです。

 

f:id:kamiyakenkyujo:20200502123606p:plain はい、まさに「いろんなこと言われました」ね(笑)。

 新しく出てきたのは(D)(E)(F)です。

 (D)は、地方自治体になんでも使えるお金としておろしている予算のことです。

 (E)は、病院への支援っぽく言ってますが、このコロナ禍で中小企業一般が困ったときに借りられる融資のことです。つまり借金できますよ、ということです。

 (F)は、これも病院への特別な話じゃなくて、やはりこのコロナ禍で売上が半分になっちゃった中小企業一般がもらえるお金のことです。

 志位議員が反論したのは(C)と(F)だけですね。(B)はすでに反論しています。

 (C)、なんでも使えるお金(緊急包括支援交付金)については、さっきからいっている通り“少なすぎる”という反論です。これはかみ合っています。額が少ないということには安倍首相は反論できていません。

 (F)は、もらえるいっても、1回こっきりでしかも100万円とかそんなもんで、今1億、2億足らないって話をしてるんだけど? と反論しています。ここもかみ合っていますね。安倍首相はそこには反論できていません。

 ちなみに(E)は志位議員の反論はありませんが、まあ借金ですからね…。病院が何億円もの赤字出してそれで借金したら後で返せんのかよって話です。

 

 とりあえずこれくらいにしましょうか。

 こうしてみると、この質問で次のことが浮かび上がってきます。

  • 安倍政権はコロナに対する検査拡充や病院支援のメニューは一応用意したけど、お金がケタ違いに少ない。
  • だから国会ではメニューとして用意しているかのような答弁をして「やってる感」を演出しているけど、現場の悲鳴からすると金額はまったく用意されていない。

 これをどう判断するかは、ぼくら国民一人ひとりが考えることです。

 「仕方ない」と思うのか、「もっと増やすべきだ」と思うのか。

 ただ、その手前「なんだ政権もよくやってるじゃん」とメニュー表だけ見てごまかされないようにしてほしいと思います。

 「仔牛のカツレツ ボローニャ風」ってメニューにあって、「うわっ! うまそう!」って注文すると2センチくらいのものがやってくるみたいな感じです。

*1:追記:書き忘れてしまいましたが、映像を街頭で流して解説するのは、もちろん大きなメリットがあります。それは多くの人に、ある意味で「強制的に」見る機会を設けられる、つまりこれまでリーチできなかった人たちに問題を届けることができるという点です。ネットでは強い指向性が働くので、この記事も大半はおそらく興味のある人・文字を読むのが苦痛でない人にしか届きません。それじゃあマスターベーションでは? と言われると弱いのですが、まあごく少数であっても、やはりニュートラルな人が読んで考えを変えてくれるかもしれないなと思って書いているのです。

『映像研には手を出すな!』について「EX大衆」で書きました

 雑誌「EX大衆」2020年5月号で『映像研には手を出すな!』について「本作が『部活モノ、女子高生モノ』である必然」について書いています。

 

 もともと編集の方からの依頼では、「女子高生の部活モノ」というカテゴリではなかなか珍しい絵柄であるということを前提に、「漫画版のキャラの絵」について『けいおん!』以降の絵柄の流行を踏まえつつ、この作品の特徴を書いてほしいということでした。

 

 

 難しいけど面白そうな依頼だなと思い、お引き受けしました。

 

 まず、ビジネスとしてのアニメ制作現場にしなかったのはどうしてだろうかということを考えました。頭に浮かんだのは『アニメタ!』と『西荻窪ランスルー』という2つの作品でした。ただ、拙稿では紹介していません。

 

アニメタ!(1) (モーニングコミックス)

アニメタ!(1) (モーニングコミックス)

 

 

西荻窪ランスルー 1巻 (ゼノンコミックス)
 

 

 次に、「女子高校生の文化部的活動」作品との比較をしてみる必要があるなあと思ったので、次の2作品、『菫画報』と『それでも町は廻っている』を例にあげました。

菫画報(1) (アフタヌーンコミックス)

菫画報(1) (アフタヌーンコミックス)

 

 

  この2作品は、妄想と現実がときどき交錯するという点で似ている点があります。これが「文化部」的なものとどう重なっているのか、という視点です。

 

 妄想の紹介の仕方として、このあたりも紹介しました。『宮崎駿の雑想ノート』や『大砲とスタンプ』の兵器紹介などです。

 

宮崎駿の雑想ノート

宮崎駿の雑想ノート

  • 作者:宮崎 駿
  • 発売日: 1997/07/01
  • メディア: 大型本
 

 

 

 

 

 そして「女子高生」であるということ。

 評論する側としては、作者(大童)のこの発言は踏まえるべきだが、とらわれすぎるべきではないとも思いました。

 拙稿では「女子」であること、「女子高生」であることを重ねて考えてみました。

 「中身おっさん、外見美少女」という天才的発明として、『苺ましまろ』があります。『自分がツインテールのかわいい女の子だと思い込んで、今日の出来事を4コマにする。』(拙稿で紹介しませんでしたが)なんかもそうですが、この系譜の子孫がマンガの世界では一種の隆盛を迎えていますが、大童的な戦略とはまったく別の路線です。

苺ましまろ(1) (電撃コミックス)

苺ましまろ(1) (電撃コミックス)

 

 

 

 まあそんな一文です。

 この文章も、やはりふだんは辛口の我がつれあいから、「作品名がたくさん出てきてひどく(昔の)オタクくさい」と笑われながらも「面白い」と言ってもらえたので、ひとり悦に入っております。

 

上西充子『国会をみよう 国会パブリックビューイングの試み』

選挙演説は誰に向けてやっているか?

 選挙活動を応援することが多い身として思うことは、選挙での演説は「自分の立場に近くて、投票を迷っている人、投票行動をしそうな人」に向けてしゃべるのが目的だということだ。これを「投票迷い層」と名付けよう。

 逆にいうと「政治に全く無関心」という人は対象になっていない。これを「完全無関心層」と名付けよう。

 選挙活動などに応援に来てくれる人のうち、これまでそんな活動をしたことがない人からときどき出される意見として、候補者のビラや演説などが難しいとして、もっと関心のない人にも知ってもらうような中身にしようというものがある。

 選挙では時間がないので「投票迷い層」に向けて訴えることが基本になっている。「完全無関心層」に関心を抱かせてしかも自分や自分たちの党派を選択してもらうまでに至るには手間とコストがかかりすぎるので、対象外にしてしまうのだ。

 例えば、「投票迷い層」に向けて「消費税を5%に減税を!」というビラや演説はできる。しかし、そもそも「政治に全く無関心」な人にまず自分たちの話すことに耳を傾けてもらうには、もっと手前のアプローチが必要になる。

 貧弱な知恵で申し訳ないんだけど、例えば路上で「完全無関心層」の若い人に話を聞いてもらうためには、よく「ブラック企業の演説とかをしてだね…」的なアイデアが出されると思うんだけど、それで「完全無関心層」の足が止まるかどうかは微妙じゃないだろうか。むしろ、バケツドラムの「大道芸」でも見せた後に、集まった人にチラシを配ったり、一言「訴え」をしたほうがいい。「完全無関心層」にとっては、「政治宣伝」も、「大道芸」も、他の刺激的な娯楽も、まったくフラットに扱われているのだから。

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 もちろん、「完全無関心層」をめがけてボールを投げ、広い層がごっそり投票してくれるということもある。だから、こういう戦略区分は固定的なものだと考えてはいけない。

 しかし、「投票迷い層」と「完全無関心層」の間に、もう少し別の層が存在するのも事実である。

 本書、上西充子『国会をみよう 国会パブリックビューイングの試み』(集英社)は、そのような別な層をめがけているような気がする。

 

国会をみよう 国会パブリックビューイングの試み

国会をみよう 国会パブリックビューイングの試み

  • 作者:上西 充子
  • 発売日: 2020/02/26
  • メディア: 単行本
 

 

国会パブリックビューイングとは

 国会パブリックビューイングは、簡単に言えば、街頭で国会質問と答弁の様子をそのまま切り出し、簡単な解説を加えて、視聴者に国会のありようを見て、考えてもらおうとする試みである。

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 「そのまま切り出し」と書いた。

 一種のダイジェストであることは間違いないのだが、インパクトのある短いシーン(答弁や質問)を「切り取る」のではなく、あるテーマについての質問側と答弁側のやり取りをそのまま「切り出す」のである。

 めちゃくちゃな答弁を「切り取る」ことはインテーネットやテレビなどでもよくされているけども、上西はこの方式をとらない。なぜかと言えば、一つはそのカットの仕方が「恣意的」だと思われてしまうから。もう一つは、短時間すぎる「切り取り」は、見ている人から考える時間を奪ってしまうからである。

 一つのテーマについてのやり取りそのものを手を加えずに「切り出し」て、考えてもらおうというのだ。

 

運動論としての本書

 本書の第2章から第4章までは、そのような方法をなぜ採用するのか、どこにこだわってどんな層に訴えかけようとするのか、といういわば運動論である。

 

 ……国会審議映像の前後に挟んだ私の説明のなかでも問題点を指摘しているが、できるだけ評価の押し付けにならないように努めた。

「こういうものだから危険だ」というメッセージを投げかけるのではなく、映像から自分で読み取ってもらう――そのほうが、受け取る中身は、より主体的につかみ取ったものになり、より深く受け取ってもらえる。(本書p.88)

 

けれども、渋谷の場合、あまりにも人通りが多すぎて、立ちどまって見てみようと思う人がいたとしても、後ろから歩いてくる人の妨げになるために、立ちどまりにくいような状況だった。そういう場所でとにかく多くの人に一瞬でも目を向けて見てもらうことと、この松本駅前の街頭上映のようにじっくり見てもらうことの、どちらが大事だろうか。私たちは、後者だと思ったのだ。(本書p.90)

 

 上西は、文字になった「議事録」ではなく、映像によって豊かに伝えられる細部があるのだと主張する。言い淀みや言い直しによって、政府(答弁側)がどのような印象操作をしようとしているかがわかる。あるいは、嘲笑を入れることで、議員側の質問をバカにしようという細部も読み取れるのだとする。

 裁量労働制の拡大の審議の際に、森本真参院議員(民進党)が「過労死を考える家族の会」の声を紹介して質問をした時、加藤厚労大臣は、次のように答弁する。

あの……ま……どういう認識、どういう認識のもとで(笑)ですね、お話になっているのかということがあるんだと思いますけど

 上西はこの「どういう認識のもとで(笑)」を取り上げる。

本来、笑いをまじえて語るような内容ではない。にもかかわらず、加藤大臣は、「どういう認識のもとで(笑)」と笑いつつ答弁した。偏ったデータに依拠して偏った認識をお持ちの方々だ、と言わんばかりの笑いだった。……私たちは厚生労働省の調査データによって、より正しく現実を見ているのだ、という印象を与えることが目的であるかのように、「どういう認識のもとで(笑)」と笑いをまじえて答弁したのだ。(本書p.78-79)

  実は、加藤の答弁は、のちに「深くお詫び」するハメになるデータをもとにしたもので、政府側こそが偏った恣意的データを使っていたことが明らかになった。

 だが確かに裁量労働制の拡大という具体的なテーマからすれば、のちに「お詫びする」ことになったデータを持ち出した部分こそ問題なのだが、答弁における詐術というか印象の操作がどのような「きめ細かく」行われるかを実感するのなら、まさに加藤の笑いの部分、「どういう認識のもとで(笑)」の部分こそが広く国民に知ってもらいたい部分なのだ。

 

どのような層をターゲットにしているか

 上西が国会パブリックビューイングでターゲットにしたい層というのは、扇動で行動するのではない層、全く無関心というわけではない層であり、そのなかでも、「政治にある程度の関心は持ちながら、自分の頭でよく考えて物事を決めたいと考えている層」なのではないか。これを仮に「中間層」と呼ぼう。

 今ぼくは「中間層」について、「自分の頭でよく考えて物事を決めたいと考えている」としたが、それは必ずしも自覚的なものではない。上西の本の中に、テレビの国会中継を見ているけども頭にきてチャンネルを変えてしまう人がこの国会パブリックビューイングを視聴していった話が出てくる。国会中継をいったんは見ようとするほどには政治に関心を持ちながら、その関心がうまく満たされないような人なのだ。つまり「自分の頭でよく考えて物事を決めたいと考えている」と当人があらかじめはっきりと意識しているわけではない。でもそんな層が上西のターゲットにする「中間層」、国会パブリックビューイングに足を止めて見入ってくれる層だと思っているのではなかろうか。

 

 これは「投票迷い層」と「完全無関心層」と無関係なことではない。

 はっきり投票行動には行くけども、「雰囲気」でそれを決めてしまうような人たち、あるいは「強い言葉」に押されて決めてしまう人たちは、実は、民主主義にとって本当は危険なのかもしれない。右であろうが左であろうが。

 熟議を基盤とするように民主主義を深化させるには、国会の議論をじっくりと見て、自分の頭で考えて結論を出せるような人を育てなければならないだろう。

 いや、その「育ててもらう対象」にはぼくも入る。

 昔ぼくが入っていた平和運動メーリングリストで、必ず法案の全文を読もうとする人たちがいた。自分たちが反対している法案を読みもしないのに「反対」などできないではないかと。まことにその通りだろう。じゃあ、ぼくが今国が出している法案を全部読んでいるか、少なくとも大きな社会問題になっている法案を読んでいるかといえば読んでいない。そして国会審議にも目を通してはいないのである。

 

国会審議の解説が求められている=本書のキモ

 ぼくは映像かどうか別にして、国会や地方議会の議事録というのは、いい質問の場合は、それを読むだけでも「面白い」と考えている。

 だからこそ、今度出したぼくの本でも1章まるまる地方議会での議事録を使った。議事録を「切り出し」て少しだけ解説を加えた。まさに「紙上パブリックビューイング」である。

 編集者も面白がってくれたし、何より質問した本人に献本したら「いやー、解説がついたら、こんなに面白い質問を自分はしてたんだなあって気づいたわ」と「汝の価値に目覚めて」いただいた。

 

不快な表現をやめさせたい!?

不快な表現をやめさせたい!?

  • 作者:紙屋 高雪
  • 発売日: 2020/04/06
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

 国会や地方議会の議事録っていうのは、実は「面白さ」の宝庫である。しかも著作権法第40条*1によってどんどん利用できる。これを使わない手はない。

 本書の中で上西が次のように述べていることが、実は本書のキモではないかと思う。

街頭上映を続けてきて、新たにわかったことがある。それは、国会審議の解説が求められているということだ。(本書p.171)

 上西自身が解説を加えるだけでなく、国会の運営についても詳しい人に解説を入れてもらったりしたようだ。

 スポーツの中継で実況者や解説者がいるようなものである。

 この機能が、今の日本には圧倒的に不足している。

 池上彰のような立ち位置とでも言おうか。

 専門家(研究者)でその機能(啓発・教育)を持っているのが一番いいのだが、わかりにくいことが少なくない。そこをわかりやすく解説できる人が民主主義の基盤を固める役割を担えるのではないか。

 国会審議をわかりやすく解説する、という点にこそ、ぼくは国会パブリックビューイング運動の最も大事な点、本質があると考える。

 

結局上西は、そしてぼくらは、国会をどうしたいのか?

 上西は、「ご飯論法」に象徴されるめちゃくちゃな安倍政権の国会答弁を監視していく重要性を説きつつも、

仮に政権が交替して、いまのような国会審議の状況が改善されたとしても、私たちはやはり、「国会におまかせ」であってはいけないだろう。国会を正常化し、社会をよりよくすることに、少しずつでも関与し続けることが大切だろう。(本書p.214)

とする。

 つまるところ、上西は、そしてぼくらは、いったい国会をどうしたいのだろう?

 すべての法案をすべての国民が深く読み、関われるわけではない。そんなことは無理だ。

 上西は、憲法12条を引きながら、次のようにその意義を書いている。

主権者は私たちであり、私たちが不断の努力によって、憲法が保障する自由や権利を守り続けなければいけないのだ。誰かが自由や権利を保障し続けてくれるわけではない。憲法が保障すると言っても、その自由や権利が侵されているときに、それを回復する努力をするのは私たち自身なのだ。(本書p.215)

  この見解が間違いというわけではないし、大きくは賛同できる。

 ただ、失われてしまう自由や権利を不断の努力によって守る、という課題として国会パブリックビューイングがあるか、というと少し違うような気がする。その意義づけはあまりに切迫感がありすぎるのだ。

 自分が関心を持っている具体的な問題で、国会(地方議会)パブリックビューイングをやってみる、議事録を読んでみる、というような運動は、自分の頭で考えて結論を出せるような人を一人でも増やしていく、もっと地道な、長期的視点での運動ではなかろうか。別の言い方をすると、安倍政権の詐術を暴き、それを見抜く人を多数にしていくというような当面の運動にはひょっとしたら迂遠すぎるかもしれないのだ。そのような効果も期待しつつ、熟議を基盤とするように民主主義を深化させていく、もっと気の長い運動であるような気がする。

 

 

*1:「公開して行われた政治上の演説又は陳述及び裁判手続……における公開の陳述は、同一の著作者のものを編集して利用する場合を除き、いずれの方法によるかを問わず、利用することができる。」

室井大資・岩明均『レイリ』

(ネタバレがあります)

 

 武田家滅亡の甲府を舞台にして、家族を惨殺された少女レイリが武田の部将に剣豪として育てられ、武田最後の嫡子・武田信勝の「影武者」となっていく物語である。

 

 

 一読して、岩明均『剣の舞』を思い出した。

 

雪の峠・剣の舞 (KCデラックス)

雪の峠・剣の舞 (KCデラックス)

  • 作者:岩明 均
  • 発売日: 2001/03/21
  • メディア: コミック
 

 

 戦争終了後の兵士たちの略奪、農民家族の皆殺し、性暴力に晒される少女、剣豪としての成長……。しかし、1巻の原作者あとがきにも、最終巻の原作者あとがきにも、『剣の舞』への言及はない。

 山本直樹は虚構によって連合赤軍事件を描こうとした『ビリーバーズ』では果たせず、実録に徹した『レッド』を描いた、というのがぼくの考えなのだが、同じように岩明は『剣の舞』で果たせなかったことがあったから『レイリ』を作ったのではないか。

 

 岩明は本作の1巻のあとがきで

 「こういう破滅型の、少々イカれた少女が描きたい」として生まれた物語、というのでもない。

 私は「キャラクターが描きたい」ではなく「出来事が描きたい」という所から物語を書き始める。

と書いている。

 このあとがきを「信じる」なら、『剣の舞』は新陰流の創始者上泉信綱や疋田景忠が物語の起点だし、その契機となった「出来事」は武田に滅ぼされる側の史実である。そして、『レイリ』では土屋惣三であり、滅ぶ武田側の史実がその契機である。つまりまるで違う「出来事」なのだ。

 しかし、ぼくは作者(原作者)のいうことをそのまま信じない。

 似た少女を配置して、その展開と結末を変えさせたのは、やはり前作で果たせなかったことを新作で果たそうとする欲望があったに違いない。*1

 

 『剣の舞』では主人公の少女・ハルナは性暴力を受け、家族を皆殺しにされる。結末としてハルナは復讐を遂げるが、殺されてしまう。ハルナが武力を得ようとするのは、家族への復讐のためである。ハルナは復讐相手を見つけた際に、再び性暴力の記憶によって蹂躙されかけながら、新たな愛の対象となった疋田の教えを思い出し、性暴力を加えた相手を最終的に粉砕する。復讐は遂げられ、愛は「実り」、性暴力は敗北した。

 『レイリ』では、一刻も早く死にたがるというレイリは、最終的に変わっていく。

わたし 「死にたがり」は やめました

 自分のまわりで人が死ぬのは、自分以外の誰かのために死んでいるのであって、自分のやろうとしていることはそれらの人々の行為を無にすることだと思い直して「死にたがり」をやめるのである。自分を大切にしたいという思いを吐露してからレイリは惣三への自分の気持ちに気づく。また、レイリは性暴力をなんども受けかけながら、いずれも回避している。恋心を抱いた惣三は戦死する(信綱や景忠は生き残る)。

 

 

 『剣の舞』が暴力と復讐に全てを収斂させているのとは正反対の結論になっている。

 これは原作者が単に短編に合わせた結末と長編に合わせた結末を二つ用意しただけなのだろうか。それとも、前作で果たせなかったものを新作で果たそうとしたためだろうか。

 ぼくは後者のように思える。

 原作者がそのように考えたとする証拠はないし、ひょっとしたら全く別のことを言っているインタビューとかがあるかもしれないのだが、作品は社会に放たれた途端にもう作者の独占物ではないのだから、ぼくとしては本作をそのように評価するわけである。

 そしてなぜ後者のように思うかといえば、家族と性暴力のための復讐のために少女の人生があった、という結末は、たとえ愛が「成就」したといっても凄惨な悲劇であることに変わりがないからである。もちろん「凄惨な悲劇」である作品が優れた作品であることはよくあることなんだけど、主観的に幸福そうに死ぬハルナが客観的に見るとあまりにみじめなのだ。

 だけど。

 うーん、やっぱり、「みじめ」に死んだハルナの方が印象に残ってしまう。どちらの作品も抜群に「面白い」のだから甲乙をつける話じゃないんだけど。

 

 

 思ったことを断片的に言ってみる

 その上で、思ったことをいくつか。断片的に。

 一つ目。『剣の舞』でハルナが疋田に「わたしのこと……きらい?」と聞くシーン。豊田徹也『アンダーカレント』で主人公の女性が謎の男・堀と二人で自動車に乗っているときに明後日の方角を見ながら疲れたように「堀さん あたしのこと好き?」と聞く(堀は無言)シーンをすごく思い出す。ぼくが女性にそうやって言われたいのだと思う。主体性のない男性としてのぼくは、好きな人がそうやって言ってくれるのを待っているのである。

 

アンダーカレント  アフタヌーンKCDX

アンダーカレント アフタヌーンKCDX

  • 作者:豊田 徹也
  • 発売日: 2005/11/22
  • メディア: コミック
 

 

 二つ目。レイリがいったん「弱い女」になろうとした瞬間に、眦を決して男たちを殺して回るのは爽快であるが、その直後に惣三に抱きしめてもらうのは、なんだか結局「弱い女」に戻ってしまったかのようで力が抜けてしまった。抱きしめてもらわない方がよい。

 

 三つ目。レイリが家康を後ろから刃物で脅すシーン。3回出てくるけど、『レオン』の冒頭でレオンがナイフで脅し、メッセージを告げた後に暗闇に消えていくシーンを思い出す。

 

レオン 完全版 (字幕版)

レオン 完全版 (字幕版)

  • 発売日: 2013/11/26
  • メディア: Prime Video
 

 

 四つ目。歴史のパズルの解けぶりは見事だった。信勝が撒いた種(明智光秀への偽書簡)が信長という勢力を分解させる力となったことが一つ。もう一つは、穴山梅雪本能寺の変の後に帰路で殺されること。山岡荘八徳川家康』を原作にした横山版のそれを読んだ時に、穴山梅雪が伊賀山中で殺されるシーンはなぜだかぼくの心に残っており、あの謎の死はこういうふうに「説明」されるのかと思った。

 五つ目。室井大資の絵。スプラッタな戦闘シーン(いや、むしろ岩明のそれは体液が飛び跳ねないことが特徴だが)で岩明は背景が真っ白であることが多く、それがむしろ「静止」しているかのような独特の強調の効果を与える。室井の絵柄は簡潔なのに描き込みがしてあって、岩明のような効果をもたらしつつ、同時にリアルさを保ち続ける。ふさわしい絵柄だと思った。ただ、どうしても読んでいる最中『秋津』が思い出され、レイリや信勝を「ことこ」「いらか」みたいに思っちゃうんだよね…。

 

 

 

 

 

*1:ひょっとしたら原作者インタビューのようなものがどこかにあるかもしれないが、探せなかった。

すでに明らかなことを本に書く気はない

 拙著が家に届きました。

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 今日あたりから書店に並ぶと思います。「不要不急の外出自粛」が呼びかけられている地域も多い中であり、まあ「必要であり急ぎである買い物」と位置付けてもらって……とは申しませんが、何かの折にぜひお読みください。あまり初刷りはありませんので、かなり大きな本屋でないと、取り寄せない限りないんじゃないかと思います。こういう時こそ本を読んでぜひご感想をください。

 家ではつれあいが読んでくれました。だいたい何事にも辛口なことが多いつれあいなのですが「面白い」と言ってもらい、しかも具体的にここがというのを的確に指摘してくれたので、身内の評ながら1週間ぐらいハッピーでいられました。

 

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 この本は「表現の自由」を扱った本ですが、例えば「あいちトリエンナーレ」の事件にさいして「政府からの圧力は表現を萎縮させるものであり、表現の自由を脅かすものだ」ということは、少なくともぼくにとってはかなりクリアなことです。クリアだからこそ、共感を呼ぶ社会運動になっているわけですが、ぼく自身としてはそのことを「本」という形にする意味はあまりないような気がしていて*1、ぼくとしては、一般の人が疑問に感じていながら実はあまりよく知らされていないことを明らかにするところに、本を出す意義を感じています。*2

 

表現の自由謳歌したいなら行政の支援を受けるな」

 例えば、「行政の支援を受けているものには表現の自由はない。好きな表現は支援を受けずに、どこかで自費でやれ。それなら干渉されないぞ」という意見をどうみればいいのでしょうか。

 ぼくはこの意見を左翼的な若い人たちが集まる場所で、酒を飲みバーベキューを食べながら、まさに左翼的な若い人から聞かされました。

 行政でも例えば福岡市の高島市長がしている次のような発言はこの若い人と同じ意見だと思います。

◯市長(高島宗一郎 表現の自由は、当然認められるものと思いますので、いろいろな催事を行えばいいと思います。ただ、福岡市の後援を要るというのであれば、それは当然、ルールがあります。(2015年9月11日福岡市議会での答弁)

  本書では、この意見をどう考えればいいか論じています。

 

「あいちトリエンナーレ」事件とは結局どういう事件であったのか

 「あいちトリエンナーレ」事件というのは、結局何が問題だったのでしょうか。事件に関するさまざまな本、論評は出ていますが、一般の市民としては、「端的に言えば結局なんだったのか」という評価が必要ではないかと思っています。

 ぼくもブログで書きはしましたが、その後の事態の発展によって、実は事件の表見は大きく変わっています。(さらに言えば本書が刷り終わってのちに政府による補助金不交付決定の撤回がありました。)そこを本書では明らかにしています。

 

「政治的なものは芸術ではない」「〇〇はおよそアートではない」

 つい最近、浦沢直樹が「アベノマスク」というタグをつけて描いた安倍首相の似顔絵が炎上しました。

 浦沢は例えば『MASTERキートン』ひとつとっても相当に「政治的」だと思うんですが、「あれは原作者がいて浦沢は単なる絵師として機械的に作業しただけだ」とでも思っているんでしょうか。

  それはともかく、この議論は理屈の上ではあまり大して解明は必要ありません。

 それよりも、実際に出展されている現代アートの多くが「政治的」であり、またはぼくらが考える「美術作品」の常識からは外れていることを、実例で見ながら示していこうと思いました。

 そして、それがわかりやすいように、専門家の解説を簡単につけながら。

 

「政治的に偏った作品への支援は行政の中立性を損なう」

 「政治的に偏った作品への支援は行政の中立性を損なう」という理屈を行政がしばしば口にするようになりました。ぼくが表現の自由に対する本質的な危機感を抱いたのは、実は公民館だよりに憲法9条のことを描いた俳句の掲載を拒否されたいわゆる「九条俳句事件」でした。

 福岡市で起きた「平和のための戦争展」での「後援拒否・取消」事件もその一つでした。やはり当の高島市長は次のように述べています。

◯市長(高島宗一郎 市民の表現活動につきましては、憲法の保障する表現の自由のもと、公序良俗に反する場合などを除いて自由に行うことができるものでありまして、これは福岡市の後援の有無によって制限を受けるものでもありません。一方で、市民の活動に福岡市が後援を行う場合は、これは行政の中立性を確保する必要がございます。(2016年9月12日福岡市議会での答弁)

 これも行政が口実にしているので、市民にもそれなりに浸透している理屈の一つであり、これをどう考えればいいのかを最高裁の判決や議会の議事録などを参考に考えています。

 

不快な表現をなくす方法?

 そして「宇崎ちゃん」献血ポスター事件です。

 つれあいは、拙著のこの問題の箇所を読んだ時、「あなたの説明はわかりやすかったけど、問題が複雑だということもよくわかった。そして不快なものの存在を許容しなければならないというところに常識感覚からするとモヤモヤが残ってしまうけども、それが表現の自由ということなのだとわかる」と言ってもらったときはわが意を得たりという気持ちでした。

 しかし同時に、実はぼくの本で、「表現の自由を守りながら、自分にとって不快な表現をなくしていく方法」についても書いています。こう書くと非常に「不穏当」なのですが。

 そして、それはとても根気のいる活動なのです。本来ぼくたち左翼はそのような忍耐強い活動をしてきたはずなのです。

 また、言論の自由を比較的穏当に発揮しあった結果、双方が納得して、ある表現が消えてしまう(撤去されてしまう)ことがあります。そうした事件をモデルケースとして取り上げ、それは果たして正しいのか、間違っているのかを論じています。

 

規制することはできるのか

 憲法第21条にはこうあります。

集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。

 「一切」ですよ、「一切」。これはすごいことではないでしょうか。

 しかし、表現はどんな場合であっても規制できないということはありません。ではどんな場合にできるのか? 規制ができるようになるためのロジックを本書で簡潔に明らかにしています。とくに、志田陽子教授のインタビューはそれをわかりやすく示してくれていると思います。

 

「ポルノがどうしていけないの?」

 本書は、編集者との対話の中で生まれたものです。

 本書の編集者は、実はぼくの学生時代の知り合いでもあるのですが、学生時代から女性の権利についての運動に関心を持っていた方でしたから、ぼくが「宇崎ちゃん」ポスター事件で、どちらかといえばポスター表現の擁護をしていることに違和感を持っていました。

 「宇崎ちゃん」ポスター事件の発端になった太田啓子弁護士の批判ツイートは批判としてはあまりに「雑」でした。

 女性を性的対象としてみるような絵、性的モノ化・性の商品化をするポルノ、そうした作品はなぜ「問題」なのでしょうか。

 考えてみると、そのことをきちんとわかりやすく論理化したものを、ぼくはあまり見たことがありませんし、日常でも聞いたことがありません。「ジェンダー平等」などと昨今声高に言われながら、いやむしろ言われているだけに、「ポルノがどうしていけないの?」と口にしにくくなっているのです。

 それで、ぼくなりにそのことを「理屈」として書いてみました。

 関連して「労働力は商品化やタレントは人格が商品化されているのに、性の商品化だけが問題なの?」「セックスをするときはいつでも相手を性の対象と見ているのではないの?」など素朴な疑問への答えを書いてみました。

 これらは表現の自由そのものとは確かに直接関連がありません。

 しかし、レッテルばりの批判にならないような、根源のところでのわかりやすい議論こそ、表現の自由を豊かにするものだと思い、その実践の一つとして書いてみたのです。

 

「ポリコレ棒」と表現

 ぼくの本の目次に「ポリコレ棒を心の中に」とあるのをみて、「ポリコレ棒」という、リベラル・左派にとって“敵性用語”を使っているからこんな本は読む価値なし、と言っているコメントを見ましたが、まさに「読まずに語る」典型として興味深く拝見しました。

 「政治的公正」という基準を使って、作品を論じることは作品批評を貧しくするのかどうか、また、表現の自由とどう関わるか、という問題をここで論じています。

 

 「あとがき」で東山翔の作品をぼくが「愛好」していることなどを書きました。いわばポルノに対する立ち位置を明らかにしています。東山のような作品自体の「存在」が許されることが表現の自由であり、その存在の擁護は、いかにも「ポルノを楽しみたい人間、女性の犠牲の上に快楽を享受したい人間の自由だ」という批判が返ってきそうな問題です。

 

不快な表現をやめさせたい!?

不快な表現をやめさせたい!?

  • 作者:紙屋 高雪
  • 発売日: 2020/04/06
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

 どの問題も、例えばぼくの身近にいる人に聞いても明瞭な返事は返ってこない問題ばかりなのです。だからこそ、ぼくは本にする意義があると思いました。

 実際に読んでいただいた批評をもらえるとうれしいです。

 

 

 

 

*1:もちろんあくまで「ぼく」についてです。社会的にそこに意義を見出す人がいることは全く否定しません。

*2:「明らかにする」というのはぼくが世界で初めて解明したという意味ではないし、新聞・雑誌や専門書などで論じられてこなかったという意味でもありません。そういうものを引っ張ってきてわかりやすく示すこともここでいう「明らかにする」という意味です。