拙著『マンガの「超」リアリズム』が大東文化大学の一般入試に

 拙著『マンガの「超」リアリズム』(花伝社)の『この世界の片隅に』評が大東文化大学の2019年度一般入試「国語」の問題文として出題されました。私の町内会系新書はこれまでも入試・模試などに使われたことがありましたが、マンガ評からは初めてです。

https://www.daito.ac.jp/cross/admissions/pasttest/file/exam_general_0206.pdf

 

www.daito.ac.jp

 これは呉市立美術館での講演を出発点にして、「ユリイカ 詩と批評」(青土社)2016年11月号で発展させて書いた文章を加筆・補正したものです。

 

マンガの「超」リアリズム

マンガの「超」リアリズム

 

 

 そう言えば、「しんぶん赤旗」7月25日付のコラム「潮流」は、

はずかしい話ですが受験から数十年たっても、入学試験の夢を見ることがあります。

 で書き出しされていた。

 ぼくも、中学・高校卒業、受験から数十年たっても、いまだに「数学の課題ができていない」「入試の数学に何も備えていない」という夢をくり返しくり返し見る。どんだけ苦しめられてたんだよ、と思う。

 

大木毅『独ソ戦 絶滅戦争の惨禍』

 専門家でもない、当該問題のシロートであるぼくは何を期待してこの本を手にしたのか。

 

独ソ戦 絶滅戦争の惨禍 (岩波新書)

独ソ戦 絶滅戦争の惨禍 (岩波新書)

 

 

 

シロートであるぼくが本書に期待した3つのこと

 一つは、独ソ戦の概略が知りたかったという理由である。いわば独ソ戦入門書としての役割だ。

 本書は新しい研究の到達がどうなっているかに目配せした記述が多い。だが、シロートのぼくにはそのようなことは二の次の話であって、とにかく「ざっくり独ソ戦が知りたい」と思っていた。

 ふだんはそういう際に、まず戦史を扱ったビデオとかDVDを探してそれを観て大雑把な地理感覚を得るのだが、あいにくそのような適当なビデオ(動画)がない。

 そこで本を探したのである。

 その点で、本書に入門書としての期待を込めた。

 

 二つ目は、ぼく独自の問題意識に応えてくれているかどうかであった。

 例えば「スターリンは開戦期に意気消沈したのかどうか」という問題だ。これは不破哲三スターリン秘史』を読んで、それとドイッチャー、横手慎二、そして山崎雅弘がどうそれぞれを記述していたのかをみてきたので、たまたま興味を持った問題だったからである。

 

 あるいは、「ソ連はなぜ独ソ戦初期にあれだけ派手にやられたのに、体制が崩壊せず、しかも勝利できたのか」という問題である。これは「スターリンおよびスターリン体制は国内で支持されていたのか」という問題にもつながってくる。

 もうひとつあげれば、「スターリンはドイツの侵攻になぜ備えられなかったのか」という問題である。これは論者によって様々な意見があるので、これも期待を持っていた。

 他にもいくつかあるが、このような問題に応えてくれるかどうかという期待をもって本書を手にした。もちろんこのような「期待」はぼくの勝手な期待でしかない。

 

 三つ目は、本書を読み始めて気づいた、本書の独特の問題意識への期待である。

 本書の問題意識は、ソ連側の死者2700万人、ドイツ側の死者、戦闘員444〜531万、民間人150〜300万人*1とされる犠牲を出した「人類史上最大の惨戦」(本書ⅳ)となったのは、「戦闘のみならず、ジェノサイド、収奪、捕虜虐殺が繰り広げられた」(同前)からであり、「こうした悲惨をもたらしたものはなんであったか」(同前)ということで貫かれている。

 この点で、著者・大木毅はドイツ側がこの戦争を「世界観戦争」とみなしたこと、そして世界観戦争とは「『みな殺しの闘争』、すなわち絶滅戦争」を意味したからであるという指摘している(本書ⅴ)。また、対するソ連側が「大祖国戦争」という位置付けをして、その報復感情を正当化したこともあわせて指摘している。

両軍の残虐行為は、合わせ鏡に憎悪を映した蚊のように拡大され、現代の野蛮ともいうべき凄惨な様相を呈していったのである。(本書ⅵ)

 この点をどのように論証していくのかについて興味を持った。

 そして、読み終えてみてこれら3つの、いわばぼくの勝手な期待がどうなったかを書いてみる。

 

 (1)独ソ戦の入門書としてはどうか

 まずひとつめの、独ソ戦の入門書としての役割である。

 ビデオがないので、本を探した。

 最初に見つかったのは、山崎雅弘『新版 独ソ戦史』(朝日文庫、2016)である。

 

[新版]独ソ戦史 ヒトラーvs.スターリン、死闘1416日の全貌 (朝日文庫)

[新版]独ソ戦史 ヒトラーvs.スターリン、死闘1416日の全貌 (朝日文庫)

 

  山崎の本には、最新の到達がどこまで反映されているのかを別として、この「入門」という目的に照らして大変参考になったが、それでもまだ山崎の記述は現地の地理に多少とも心得がないと、両軍の動きが把握しにくい。

 ぼくが本書(大木本)より前に山崎の本を読み始めた段階で、独ソ戦において重要な地名となる「クルスク」「ハリコフ」「スターリングラード」「レニングラード」「キエフ」「スモレンスク」「モスクワ」の位置関係すらよくわかっていないかった。

 分厚い独ソ戦の本を手に取ると、地図もないままこうした地名と部隊の名前が大量に書かれていて全く読める気がしなかったのである。開くなり「無理!」と思ってしまうものが多かった。

 山崎の本は、地図がかなり加えられていて、だいぶ助かったのだが、それでも本文の記述と地名を照合させるのが一苦労で、照合していない部分(書いていない部分)もあって、地理を知らない者には煩雑だったことは否めない。

   この点で、本書(大木本)はどうだったか。

 大木本では、山崎のような詳細な地名や部隊の動きが大胆に省略されている。

 この点だけでも、「入門書」としてはありがたかった。

 そんなことがと笑われるかもしれないが、初心者にとっては至極重要なことで、初学者がこのテーマに近づく上では欠かせないことだった。

 本書(大木本)のアマゾンのレビューには次のようなものがある。

 

スターリングラード攻防戦」や「クルスク戦車戦」等の個々の戦役や、アウシュビッツ等の絶滅戦争の側面を詳細に記した高価な(研究)書籍は存在する一方で、「第二次世界大戦史」のタイプの書籍では数ページしか記述がなく、価格を含めて手軽なテキストが存在せず不満でした。中間を埋める事に成功している書籍です。〔強調は引用者〕

https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R39VP8LDF4UT0L/

 

 ああ、これこれ、と思った。「中間を埋め」てくれたわけですよ!

 

 

 (2)ぼくのいろんな疑問に答えてくれるものか

 二つ目の「ぼく独自の問題意識に応えてくれているかどうか」について。つまりぼくのいろんな疑問に答えてくれるものかどうかということ。いわばぼくの一方的で勝手な期待である。

 まず、「スターリンは開戦期に意気消沈したのかどうか」。これは全く記述がなかった。まあ、しょうがない。

 次に「ソ連はなぜ独ソ戦初期にあれだけ派手にやられたのに、体制が崩壊せず、しかも勝利できたのか」問題。

 これは第3章第四節からの記述が対応している。

 本書にも書かれているが、ヒトラーが「ソ連軍など鎧袖一触で撃滅できる」(本書p.32)と考えており、「純軍事的に考えても、ずさんきわまりない計画」(同前)を立ててしまったように、スターリン支配のもとで国はボロボロだろうと思われていたわけである。

 ところが、頑強に抵抗し、ついにはドイツを倒してしまった。

 この点では、本書は、「おおかたの西側研究者が同意するところ」(p.114)としてスターリニズムへの拒否意識があったがゆえに緒戦では数百万の捕虜を出したが、ドイツ側の残虐が明らかになるにつれ民衆も反ドイツになっていたという紹介をまずしている。しかし、これは大木がツッコミを入れているように、多くの人がドイツとの戦争に志願している実態と合わない。

 ぼくも、本書「文献解題」で「一読の価値がある」として紹介されているスヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ『戦争は女の顔をしていない』(岩波書店)を読んだ時、ソ連の女性兵士たちがどのような経過で志願していくのかを注意深く読んだ。彼女たちはドイツ軍の蛮行を目の当たりにするよりも前に、開戦と同時に志願している場合が多い。共産主義的な動機もあれば、祖国防衛というナショナリズムの感情もあるし、家族を守りたいという素朴な感情もある。しかし、総じて、今の日常と体制を支持している感情から、熱烈な志願を行なっているように読めた。

 

戦争は女の顔をしていない (岩波現代文庫)

戦争は女の顔をしていない (岩波現代文庫)

 

 

 本書(大木本)では、アメリカのソ連研究者、ロジャー・R・リースの説明を紹介して、内的要因(「内発的要因」というべきだろうか)と外的要因(「外在的要因」というべきだろうか)に分け、前者について、

自らの利害、個人的な経験から引き起こされたドイツ人への憎悪、スターリン体制の利点に対する評価、先天的な祖国愛(p.116、強調は引用者)

 と書いている。

 「大祖国戦争」という命名に象徴される「ナショナリズム共産主義体制の擁護が融合された上に、対独戦の正当性が付与」(p.117)という規定を大木は行なっている。

 「大祖国戦争」という形でナショナリズムに訴えた宣伝が功を奏したことはぼくから見ても間違いないとは思うのだが、ぼくが気になっているのは、リースがあげている「スターリン体制の利点に対する評価」という点なのである。

 スターリン体制によって成し遂げられた工業化はベースのところでソ連国民によって支持されていたのではないか? と思うのだ。前述の『戦争は女の顔をしていない』で出てくるインタビューには、露骨な体制支持やイデオロギー支持はそれほど多くないが、守るべきものとしての日常、例えばそれは夢のある進路のようなものも含まれるが、そういう日常を支持している庶民が、志願をしている。つまりそれは「スターリン体制の利点に対する評価」があったのではないかと推測できるのである。

 加えて、ソ連側が初期にあれほどの打撃を受けているのに、なぜ次々と戦車や弾薬を補給できたのかは極めて大事な問題だ。それはスターリン体制が工業化を達成したことと不可分の話ではないだろうか。

 さらに加えておけば、本書はそもそも「ソ連の人的・物的優位」は「勝利の一因」として認めつつも、「作戦術にもとづく戦略次元の優位」(p.224)という原因を提示している。本書の新たな「意義」という側面からすれば、この点の指摘の方が実は重要なのだが(ぼくにとってはそれほど関心を持てない点でもあった)。

 何れにせよ、この「ソ連はなぜ独ソ戦初期にあれだけ派手にやられたのに、体制が崩壊せず、しかも勝利できたのか」問題については、対応する記述が本書にはある。その点をどう評価するかは、読む人がそれぞれ判断すればいい。

 

 そして「スターリンはドイツの侵攻になぜ備えられなかったのか」問題。

 ドイツが攻めてくるぞという情報が山のように寄せられていたのに、なぜスターリンは準備をしなかったのか、という問題である。

 これは歴史上大変有名な問題なので、諸説ある。

  これについても、本書(大木ほん)は第1章第1節「スターリンの逃避」で書いている。7ページにその結論ともいうべき部分を書いているのだが、ぼくは全然納得できない。これはまあ、どんな結論が書いてあるかはここでは明かさないので、それを含めて本書を読んで、皆さんが考えてみてほしい。

 ちなみに先に紹介した山崎本ではこの問題は「独ソ戦史における最大の謎」(Kindle 位置No.694)とされている。山崎のいう一つの「可能性」の指摘はこうである。

謀略に長けたスターリンが、実体のよくわからない一連の政治的事件や、諜報機関から寄せられる情報を「深読み」しすぎた結果、事態を必要以上に複雑に解釈してしまい、その結果として史実のような不可解で非合理的な振る舞いを見せたという可能性は、きわめて低いにせよ完全に否定することはできない。(山崎前掲書、Kindle 位置No.749-752)

 「待てあわてるな これは孔明の罠だ」状態。

 不破哲三の場合は、スターリン覇権主義的な本質ゆえに、ヒトラーの「4国(独ソ日伊)による世界再分割」構想に惑わされ続けた結果、というものである。

 

(3)なぜ独ソ戦はこれほどの惨禍をもたらしたのか問題を考える

 三つ目。本書を読み始めて気づいた、本書の独特の問題意識への期待。つまりなぜ独ソ戦は地上戦としての最大の惨禍をもたらしたのか、ということだ。

 本書はこの理由について世界観戦争=絶滅戦争という性格を持っていたからだという説明をする。

 本書はこの角度からドイツ側がソ連軍・ソ連住民に対して行った絶滅戦争・収奪戦争の性格を明らかにする。それが本書第3章だ。また、それが戦争の終盤になってどのように変化したかを第5章でも追っている。

 特に第3章は「なぜ独ソ戦は地上戦としての最大の惨禍をもたらしたのか」の回答として、入門者としては学ぶことが多かった。

 なお、戦争の末期に世界観戦争(絶滅戦争)・収奪戦争・通常戦争という3要素のうち、通常戦争の要素が後退して「絶対戦争」化するという大木の規定については、問題の理解をかえって難しくしてしまっているのではないかと感じた。

 というのは、相手を絶滅させるという戦争の仕方が実はクラウゼヴィッツの「絶対戦争」のカテゴリーに当てはまっていると規定した大木の本書での提案よりも、要は通常戦争ができなくなり、絶滅戦争・収奪戦争としての性格だけが残ったと考えた方が理解しやすいからである。ヒトラーの戦争中盤以降の軍事的非合理な戦争指導は絶滅戦争への固執ゆえに起きたとする大木の論述にはあまり説得力を感じなかった。

 シロート考えで言わせてもらえば、ヒトラーの戦争指導の非合理化というのは、ドイツの支配層の意思でもなく、ナチの意思でもなく、ただヒトラー個人が非合理になったという話ではないのだろうか。つまり戦争の性格から説明されるべきものではなく、個人の誤りとして説明されるべきだということ。

 本書にも記述があるように、ドイツ軍周辺でヒトラーの暗殺計画が繰り返し企てられていることは、通常戦争を戦おうとする意思がドイツ軍やその周辺にあり、ヒトラーの無謀な戦争指導への反抗・反逆の力が働いていたと見るべきだ。つまり戦争中盤以降ヒトラーの個人的な戦争指導の誤りが累積していき、それに反抗する運動はあったが、是正(暗殺)が間に合わなかった、ということである。

 大木は、こうした軍周辺の反ヒトラーの動きとは別に、絶望的な戦況になってもドイツ全体が抗戦を続けた理由を「近年の研究」(p.211)の成果として第5章で書いている。一言で言えば、ドイツの占領・併合地からの収奪によって特権的な経済水準を得ていたドイツ国民全体がナチ体制の「共犯」であったがゆえに敗北必至となっても戦争以外に選択肢がなかったというのである。

 しかし、大木自身が、ドイツ国民がその共犯性について「意識していたかどうかは必ずしも明白ではないが」(p.212)と留保をつけているのに、その結論はおかしくないだろうか。しかもそれが「今日の一般的な解釈」(p.212)なのかいなとちょっと驚いた。いや本当にそういうものが通説なのかもしれないけど、そこの理屈は残念ながらよく見えなかった。

 「なぜこんなに(ドイツ側)犠牲者を増やしてしまったのか」という点についての、ソ連側に関する説明もやはり3章と5章で行なっている。一言で言えば、イデオロギーナショナリズムを融合させることで、無制限の暴力を発動させたからだ(p.211〜212)。特に報復感情をそのままナショナリズム、というかショービニズムに結合させて、憎悪を煽った手法を指摘している。

 作家イリア・エレンブルグの扇動文は本書(大木本)で2度も引用されている。前述の『戦争は女の顔をしていない』でもエレンブルグの文章については「誰もが読んでいた。暗記したものさ」という女性兵士の証言が載っている(同書p.175)。ついでに言えば、ドイツに攻め入ったソ連軍の女性兵士は「見よ、これが憎むべきドイツだ!」という札があちこちに立てられているのを見たという複数の証言が『戦争は女の顔をしていない』の中で登場する。ソ連軍が憎悪を掻き立てるために意図的に行ったのではないか。

 まあ、いろいろ書いてきたのだが、「なぜこんなに史上類を見ない惨禍をもたらしてしまったのか?」ということについて、ドイツ側については「絶滅戦争」という観点から、ソ連側はイデオロギーナショナリズムを融合させた報復感情の正当化という観点から説明する。

 これは批判するにせよ賛同するにせよ、ぼくのような独ソ戦についての入門者・初学者にとっては大事な出発点になりうる。

 

 以上、シロートであるぼくの勝手な三つの観点からの本書の感想である。

 関連してであるが、最近ある新書についてその記述の正誤が取りざたされ、それで評価を著しく下げるという話が世の中で出ている(もちろん本書の話ではない)。一般論として、専門家の目から見るとそうなのかもしれないが、ぼくのような初学者からすると、新書に期待していることは「問題の骨格」がわかることであって、その骨格を得れば、それに新しい研究成果などを付け加えたり組み替えたりしていけばいいのだから、「細かい正誤」というものはあまり気にならない。あえて語弊があるように言えば「多少間違っていても、わかりやすく骨格が理解できる方がいい」程度の思いがある。だから最新研究の反映かどうかも、あまり強い関心はない。いやまあ、わかりやすくて、なおかつ正確で、さらに最新研究が反映されていれば言うことなしですけどね!

 本書について言えば、上記でいろいろ異論や納得できない点を書いたけども、それはある意味「細かい話」であって(むろん「間違っている」という指摘をぼくのような初学者ができるわけはない)、初めてこのテーマを学ぶ人が骨格を得るためにはとても役に立つ本だと感じた。

*1:本書ⅳ、ただしドイツ側は他の戦線も含む。

有間しのぶ『その女、ジルバ』

 「しんぶん赤旗」日曜版2019年7月28日号で今年連載している、もしくは刊行が完結した「戦争マンガ」を書評した。

 以下の4作。

 

 有間しのぶ『その女、ジルバ』は不思議な作品である。その不思議さについては、同紙の方で書いたので、ぜひ読んでほしい。

 40になってデパートの売り場から「姥捨て」と言われる倉庫係に異動させられた主人公が、超高齢のホステスしかいないバーで夜のアルバイトを始める物語だ。

 1巻37ページに次のようなコマがある。

f:id:kamiyakenkyujo:20190727155553j:plain

有間前掲書、1、小学館、37ページ

 「なんで生きてる限り『もうこれで大丈夫』ってことになんねえのかな?」と語る客の一人は表情を見せない。見せないことでこのセリフに普遍性が生まれる。

 直接にはおそらく福島であろうが、原発事故によって年老いた両親が暮らせなくなったことが暗示されている。

 しかし、このセリフは、単に原発事故だけではなく、その右下で主人公(アララ)が自分の境遇に引き寄せた共鳴をしているように、いろんなことが仮託できる。

 ぼくは年金のことを直ちに思い出した。

 老後のために2000万円貯める必要がある、というレポートが話題になったが、これをめぐって「年金だけで暮らせるわけないじゃないか」という意見も出た。

 実際日本の高齢者の働く率は高い。

 

f:id:kamiyakenkyujo:20190727161405j:plain

 働くことは社会とつながる方法であり、好きで働く人はそれでいいのだが、働かないと生きていけないという人たちにとって、なかなか過酷なことだと思う。

 前に都留民子『失業しても幸せでいられる国フランス』を紹介したことがあるが、その中に「フランス人にとって定年・リタイアは?」という節がある。

 

 これはね、フランスの退職者に対するカードです。訳すと、こう書いてあります(一部省略)。

 

 退職年金の時!

 

 自由な君がいる。

 自由と時間を支配する君が

 自分の時間を費やす君が

 フルタイム生活の君が…

 

 いつも二十歳(はたち)

 永遠の春のまっただなかの生活

 風が吹くまま時の流れに身をまかせる時…

 退職・自由・ルネッサンス

 君のために、すべてが再生する。

 そこは、快晴! 定刻どおり、それを享受したまえ!

 獲得したのだ、君は…

 ずっと…

 

 「ルトレット」って退職っていうこと、年金をもらうことになったね、おめでとうって。こういうカードをみんなが贈るんです。

 カード屋さんでいろいろな種類のカードを売っています。

 もっと素敵なものもいっぱいあったんですけど、みんなにあげたの。〔…中略…〕

 フランスでは定年退職が非常な喜びなんです。定年後再就職なんて聞いたことがありません。日本だったら定年後どうやって暮らしていこうとか不安がいっぱいじゃないですか。〔…中略…〕

 フランスでは65歳過ぎて働いているのは、1.3%しかいません。*1管理職、それも社長とか副社長、それに政治家かしら。働いていない人はみんな悠々自適ですよ。(都留前掲書p.80-83)

 老後になったら、もう年金だけで悠々自適に暮らしたい、と思うことはぜいたくだろうか。 貯金が尽きる心配をしながら、働くかどうしようか迷う日本社会のことを思い、「なんで生きてる限り『もうこれで大丈夫』ってことになんねえのかな?」というセリフを噛み締めるのである。

 

 戦前のブラジル移民の過酷な人生と、現代のアラフォー女性である主人公・アララ(笛吹新)の人生は重ならないように思える。しかし、例えば、この客のセリフ「なんで生きてる限り『もうこれで大丈夫』ってことになんねえのかな?」を媒介にして物語を見直し、人生というものを見直すと、そこに奇妙な重なりが生まれてくる。

 その「妙」を味わう作品である。

*1:これは2010年の本なので、今は上記グラフのようにもう少し上がっている。

えっ、「野党5党派で政権交代を目指す」!?

 これホントに言ったの?

立憲民主党枝野幸男代表は21日夜、野党共闘について「3年前に(参院選で)初めてこういった形を取った時よりは、いろいろな意味で連携が深まっていると思っている」と評価した。そのうえで「この連携をさらに強化して、次の総選挙ではしっかりと政権選択を迫れるような状況を作っていきたい」と述べ、立憲民主、国民民主、共産、社民、衆院会派「社会保障を立て直す国民会議」の野党5党派で政権交代を目指す考えを示した。

https://www.asahi.com/articles/ASM7Q00R4M7PUTFK016.html

  っていうか、直接それを示す文章がないけど、「野党5党派で政権交代を目指す考えを示した」っていう含意で解釈していいの?

 いや、批判しているわけじゃなくて、これはなかなかスゴいことだと思う。

 共産党が加わっての政権協議が始まれば、それは歴史的なことだ。

 

 今回の選挙は改憲に必要な3分の2を割らせたし、野党共闘をした1人区で3年前とほぼ同じ10の区で勝利した。それはそれで大事な成果である。

 ただ、現状では限界があることも確かである。

 自公を少数にできていないのだから。なぜか。

 

 前からずっと言ってきたことだけど安倍政権が続いている一番大きな原因は、野党側が「政権」という形のオルタナティブを示せていないからだ

 ある意味で、安倍首相が言う「安定か混迷か」「当選したらまたバラバラ。あの混乱の再現」という野党批判には「道理」がある。

 それができてこなかったのは、野党内に「共産党が入った政権」を嫌がる向きがあって、話が進まなかったのである(ゆえに2017年総選挙直前に「共産党外し」をして野党共闘を壊す「希望の党」騒動が起きたのだ)。

 ところが、今回の枝野の言明は額面通りであれば、これを乗り越えるものだ。画期的。すばらしい。

 

 

 野党は、まず「共通した代替の政権像」を示せて初めて政権交代の第一歩を踏み出せると思う。

 逆にいうと、これが示せていない段階で「若者が安倍支持をするのは……だからで〜」とか「リベラル・左派がしょうもないのは……だからであって〜」的な意見にあまり過剰に付き合う必要はない(もちろん、聞くべき点はあるし、それはそれで参考にして改善すればいいとは思うが、とらわれすぎないほうがいい)。そんなことより、まず政権合意をつくるほうが先だ。確かな代替案が見えないから安倍政権支持が続くことが主要な問題であって、示せれば状況は変わると思う。

 

 実は、今回の参院選で、市民連合を通じた「共通政策」は合意されている。

shiminrengo.com

 

 「まだ具体的ではない」という意見もあるとは思うが、これは、自民党公明党が政権を奪取した時の政権合意と比べても、具体性にそれほど遜色があるとは思えない。

https://www.jimin.jp/policy/policy_topics/pdf/pdf083.pdf

 

 しかし、これは政権合意ではない。あくまでもこの選挙での候補者が今後6年間どう活動するかということの縛りでしかないのだ。

 しかも、前述の通り、野党に対する「混迷」「バラバラ」という安倍・自公の批判には一定の「道理」があり、国民の意識(不安)が反映していることはしっかり見ておくべきで、細かいことをあれこれ詰めるのではなく、次のような原則や戦略方向がきちんと確認されておくべきだ。

 

 (1)政権の戦略・イメージ

 まず、政権の戦略・イメージである。

 要は、松竹伸幸が指摘する「どういう未来を見せられるか」問題だ。

 もともと野党連合政権は、「安保法制廃止・立憲主義の回復」から出発した。いわば「暫定的政権」「緊急避難的政権」が議論のスタートだった。つまり、「基本政策はぜんぜん一致しないけど、安保法制をなくし、現憲法下での集団的自衛権の行使を再び禁じるまでとにかく戻すということで緊急避難的に政権つくろうぜ」という性格の政権(構想)だったのである。

 しかし、もはやそういう緊急避難的政権をとりあえずつくろうという話ではなくなっている。「安倍政権に代わる政権をどうつくるか」っていう話に発展しているのだ。だとすれば、それはすでに経済、外交・安全保障、民主主義など全般にわたる「本格政権をどう作るか」という議論でなければならない。

 「共通政策」は消費税増税中止などを盛り込んでいてけっこう問題の根幹に触れているものの、一体その野党連合政権は何を目指しているのか(どんな日本を作ろうとしているのか)、は今ひとつである。それを国民にわかりやすく示さなければならない。

  それは一言で言えば、国民民主党が掲げている「家計第一」、つまり、安倍政権が大企業サイドの歪んだ成長を追求しているのに対して、野党政権側は、分配と持続的成長を対置する…などの方向ではなかろうか。

  「薔薇マーク」キャンペーンなどが指摘するように、経済についての戦略方向を鮮明にしてそこをメインにした政権イメージを示すべきだと思う。

 市民連合との「共通政策」で言えば「消費税増税中止・原発再稼働中止・改憲中止の緊急政権」的な打ち出しになってしまうかもしれないが(この3テーマはもちろん国政上の根幹をなす政策だから、決して瑣末なものでないことは確かだが)、狭い左翼業界はそれで良くても一般国民からはそれが一体どういう日本を目指している政権であるのかはわかりにくい。

 ただ、これだって単純にはいくまい。なぜなら、安倍政権は曲がりなりにも「最低賃金のアップ」「幼児教育の無償化」「大学の無償化」「相対的貧困率の改善」などを進めているからだ。もちろんそれへの批判はある。が、まだ政権を担当していない側が、その批判を込みで、説得的な対案として示せるかどうかが次の問題なのだ。

 「一致点にもとづくことが大切であって、無理に政権イメージまで共有させる必要はない」という意見もあろう。もちろん「一致点にもとづく共闘」という原則を壊す必要はないし壊してはいけない。しかし、政権が何を目指すのかというイメージが簡単かつ効果的に伝えられない場合は、自公を超える評価を得ることは難しいのもまた事実ではないだろうか。できればそこまで進んで欲しい。

 

(2)財源の大きな方向性

 次に財源の大きな方向性についての確認が必要だ。

 国民はこのことを気にしている。そしてそれは健全な心配だ。野党はそれぞれなりに対案を出しているが、問題は、それを一致した方向性の合意にできるかどうかだ。

 例えば、国民民主党の政策というのは、経済政策を見るとぼくなどはかなり納得できるし、ぼくが選挙に出た時に打ち出した政策とすごく近いなと思って見ていたが(家賃補助とか家計第一とか)、財源論で急に不安になった。「こども国債」の発行だからだ。

 今合意されている「共通政策」には「所得、資産、法人の各分野における総合的な税制の公平化を図る」しかない。このあたりは大企業・富裕層への課税方向を明確にするなどのもっとしっかりした確認がいる。

 例えば立憲民主党枝野幸男)は次のような踏み込みをしている。

「過去最高の利益をあげている企業が法人税を十分に払っていない。法人の所得税、金融所得、こうしたところへしっかりと課税をして、まず払える人から払っていただく」

http://www.jcp.or.jp/akahata/aik19/2019-07-11/2019071101_04_1.html

 しかし国民民主党は必ずしもそうではあるまい。そこはどうするのか。

 

(3)安全保障はメインではないが不安を解消すべき

 先述の通り、野党共闘はもともと「安保法制廃止・立憲主義の回復」から出発しているので、ついそれをメインに打ち出したくなるが、しかし、「国民が強く望んでいること」との関係ではメインとは思われない。もちろん、政権構想の中にはきちんと入れる必要はある。あくまで「食いつき」問題である。

 ただし、安全保障分野は、野党に対する国民の「不安」の中心点であり、メインに打ち出す話とは別に、その不安を払拭できるようにしっかりと原則を確認しておく必要はある。

 例えば、共産党は安保条約廃棄や自衛隊解消・違憲論は取らないことをすでに明確にしているが、そのことを再確認すべきだろう。

 しかし、それだけでは十分ではない。

 国民が本当に心配しているのは、松竹伸幸らが指摘しているが、自衛隊や安保をきちんと運用できるかどうかなのだ。例えば核兵器禁止条約一つとってみても、核抑止力論への賛否が絡んでくるので、野党内で合意ができなければ、新たにできる野党連合政権はこの条約を批准をしないことになる。そこを国民に説明できねばならない。

 「安保条約廃棄をしない」とは安保条約を「凍結」することだが、「凍結」とは動かさないことではなく、現政権(安倍政権)と同じ運用をするということだ。新政権内で合意できる改善(例えば思いやり予算の削減など)はすればいいが、それすら合意にならない場合は、安倍政権と同じ方針で運用することを正直に国民の前に言っておく必要がある。

 ただ、共産党は前々からそのことは言っている。

安保条約の問題を留保するということは、暫定政権としては、安保条約にかかわる問題は「凍結」する、ということです。つまり安保問題については、(イ)現在成立している条約と法律の範囲内で対応する、(ロ)現状からの改悪はやらない、(ハ)政権として廃棄をめざす措置をとらない、こういう態度をとるということです。

https://www.jcp.or.jp/jcp/yakuin/3yaku/FUWA/fuwa-iv-0825.html

 「現在成立している条約と法律の範囲内で対応する」とは安保条約を使うということである。 

 

(4)戦略が合意できないなら変えないことも

 安全保障に限らず、合意できないものは変えてはいけないのは当然である。

 しかし、仮に野党内の合意ができても、問題によっては戦略(大きな方向)が合意できない場合には、いたずらに動かすべきではないものもある。

 例えば年金問題はその一つだろう。

 共産党マクロ経済スライドの廃止を掲げ、財源論として高額所得者優遇の保険料是正などを掲げた。これに対して立憲民主(枝野)は次のように述べている。

「年金制度は、どういう制度に変えていくにしても、幅広い与野党の協議が必要。志位さんのおっしゃっている提案は、まだわれわれは精査できていませんが、一つのアイデアだと思っている」

http://www.jcp.or.jp/akahata/aik19/2019-07-06/2019070605_02_1.html

 あくまで検討課題に過ぎない。国民民主も同じだろう。

 つまり、未だこれは合意ではないのである。

 「共通政策」の中にも年金はない。

 だとすれば、年金は動かさない方がよい。年金のようなものは、野党として共通して確認できるビジョンがあるなら切り替えてもいいと思うが、中途半端な部分合意で動かすのは確かにあまりよくないからである。

 動かさないということは、マクロ経済スライドすなわち共産党のいう「減る年金」を野党連合政権になっても続けるということだ。

 金融緩和も同じである。野党内でこれをどうするかについて合意ができなければ、黒田金融緩和の方向は続けるしかあるまい。

 

 もちろん、共闘は一致点に基づいて行うものだから、一致できないものを無理に一致させることはできない。

 しかし、上記の4点については原則をどうしておくかよく確認しなければ、国民の不安には応えられまい。超具体的に言えば、テレビ討論で安倍にツッコミを入れられるのは間違いない。

 

*     *     *

 

 総選挙は政権を選択する選挙になる側面を必ずもつ。

 それは決して遠くない。

 そうだとすれば、政権合意をつくって国民に示し、それに基づいて小選挙区の統一候補を決め、活動を浸透させていくことを考えると、残された時間はあまりない。

 共産党も入れて協議を開始すると決めたのなら、いち早く協議に入るべきだ。もちろん「れいわ新選組」も基本方向に合意できるなら、一緒にやっていった方がいい。

 1回では変わらないかもしれない。だが、まずは政権協議を始めることだ。

 

*     *     *

 

 以下は余談。

 今回の参院選挙でぼくが自分の直接関係する選挙区以外で注目していたのは、高知・徳島選挙区の松本けんじであった。

 松本はもともと共産党候補であったが、野党統一候補となって、合意によって無所属となった候補である。それが今回40%得票したのに正直驚いた。

 「共産党出身」でも、統一候補としてここまでやれるんだという意味で、なのだが、それだけではない。

 演説は(音楽の)ライブに似たところがあり、いい演説には、人が立ち止まったり振り向いたりする。中身だけでなく、声質とか口調とか見た目とか、そういう総合的なもので決まる。

 ぼくはネットで見ただけだったが、演説がぼく好みなのだ。こういう感じで訴えたいものである。

  中身についても、安倍政権の「働き方改革」について、それ自体は反動的な性格を持っているのに、同時にそれが世の中の進歩の表現だと把握する見方(12分14秒あたり)に深く同意する。

www.youtube.com

 

オカヤイヅミ『ものするひと』

 あるテレビ番組に出演したとき、自分の肩書きを「作家」と紹介されたことがある。

 事前に「肩書きは何にしましょうか?」と問われ、著作の名前を挙げて「『……を書いた紙屋高雪』ではどうでしょう」と提案したのだが、相手は「ご著書は紹介するんですけどね…」と「今ひとつ」感を隠さなかった。

 そして「作家」を提案してきたのである。

 「ライター」なども対案として出してみたけど、結局「作家」という肩書きになってテロップが出た。もちろん、最終的には承諾したわけだから、ぼくの責任なんだけど。

 おそらく名だたるタレントがいるところにゲストとして呼ぶので、「ライター」という「軽い」感じの肩書きでは「なんでコイツ呼んでんの?」的な不釣り合いさが出てしまうため、番組側がいろいろこだわったのではないかと今になって推測する。

 しかし……。

 「作家」ですか……。

 拭えない違和感。

 

 『大辞泉』にはこうある。

芸術作品の制作をする人。また、それを職業にする人。特に、小説家。

 いやいやいやいや、「芸術作品」は制作していない。小説も書いていない。

 『旺文社国語辞典』では

詩歌・小説・戯曲・絵画など、芸術作品を創作する人。特に、小説家。

とあり、やっぱり「芸術作品」だ。やってません。

 しかし、一縷の望みが『大辞林』にある。

詩や文章を書くことを職業とする人。特に、小説家。 「放送-」

 あっ、これならイケる。「文章」だもん。

 「職業」を規定している辞書とそうでない辞書があるようだが、少なくともぼくはお金を得ているので「職業」と言っていいだろう。全然メイン収入じゃないけど。

 辞書は何かのお墨付きではない、と叱られそうだが、世の中の言葉の使い方の一つの観察結果には違いない。うんうん、俺は嘘は言ってないよね。作家だ作家。とまあ、「風が吹けば桶屋が儲かる」的なアクロバティック極まる「定義の綱渡り」を使い、「作家」という船の端っこに潜り込んで密航した気分であった。

 

 肩書きに偉ぶらなさを出そうとしたり、規定の枠を越えようと意識しすぎたり、従来のイメージを拒否しようとしすぎたりして、「まちあるきアナリスト」とか「政治経済ソムリエ」とかみたいな、謎肩書きになってしまうのもどうかとは思うが、本当に新しい肩書きを用意するしかない時に「珍奇」さを避け過ぎようとするのも逆に「高二病」っぽくてアレである。

 飯の種、すなわち「ライス・ワーク」の職業上の肩書きはなんの外連味もなく紹介できるのに、こういう副業感溢れる仕事の肩書きにはどこかしら面はゆさが残る。

 

 

ものするひと 1 (ビームコミックス)

ものするひと 1 (ビームコミックス)

 

 

 オカヤイヅミ『ものするひと』の主人公スギウラは小説家である。

 小説家。

 ちゃんといい肩書きがあるじゃん、とは思うけど、純文学の新人賞を取ったほどで、締め切りがあるというわけでもなく、バイトで生計を立てているスギウラにとっては「作家」という肩書きには違和があるようだ。

 本作を批評した富永京子は「生計を立てる活動を仕事と見なす感覚は、私たちに深く根付いてもいる」*1として、スギウラの次の逡巡に注目する。

今 事件をおこしたら「東京都中野区30歳アルバイト」かな

賞をとったら? 雑誌に載ったら? 本を出したら? 生活できたら? 「職業/作家」ですか? 

 しかし、「たほいや」という辞書を使った遊びを楽しみ、ネオンの文字を見て物思いにふけってしまうその主人公の所作を、富永は本作で注目し、次のように評している。

それこそが、彼が毎日「言葉のことを考え」、「書いて読まれる仕事」をしている他ならない証左でもある。

  富永が指摘するように、本作は最後まで読んでもスギウラに明確な「作家」の自覚が訪れるわけでもなく、はっきりしたオチがあるわけでもない。

 

ものするひと 2 (ビームコミックス)

ものするひと 2 (ビームコミックス)

 

 

 作家という「普通じゃないもの」と「普通のもの」との線引きの曖昧さを「ゆるやかに揺るがす」(富永)だけなのである。

 「ものするひと」というタイトルの秀逸性はそこと関連している。

 「ものする」は、辞書(大辞林)で引けば、

文章・詩を作る

 という意味もあるが、

何らかの動作・行為や存在・状態を、それを本来表す語を用いずに遠回しにいう語

 でもあり、それは「何かの動作・行為をする」ことであったり「移動する」ことであったり「存在する」ことであったり、要はまことに茫漠としている。この言葉自体が、文章にたずさわるという特殊性(普通でなさ)と、世の中の行為全般を曖昧に指す一般性(普通さ)とを一語で体現しているのだ。

 

ものするひと 3 (ビームコミックス)

ものするひと 3 (ビームコミックス)

 

 

 だけど、「作家」などという肩書きをあやふやに持ち込んでいる、五十近いオジサンであるぼくは、この物語をゲヘヘとか思って読んでいる。

 スギウラみたいになりたいな、という欲望として。

 一つには主人公スギウラがそうした世俗的な「作家」自意識から超然としていることである。言葉にだけこだわってつい目が向いてしまうなどという姿って、カッコよすぎじゃないですか? 

 そして、もう一つは、女子大生でシロートのアイドル活動などもしている(つまり「かわいい」のである)ヨサノがそうしたスギウラに惹かれていくくだりである。自意識が全くないわけではないスギウラだが、やはり基本は俗世から距離を置いている。言葉のことを考え続ける「普通でなさ」がヨサノには魅力に映る。家に来て、スギウラを押し倒そうとしちゃうんだぜ……?

 結局は、スギウラにあこがれながらコンプレックスを抱いている、マルヒラあたりが自分の似絵にはちょうどいいだろう。まさに「スギウラみたいなものになりたいな」と思いながら、スギウラになれはしない自分がそこにいる。

 

*1:朝日新聞2019年7月8日付夕刊。

山本章子『日米地位協定』

この参院選でも日米地位協定は争点

 日米地位協定って、実は今回の参院選挙でほとんどの政党が重点公約にかかげてるんだよな。

 

自民党

米国政府と連携して事件・事故防止を徹底し、日米地位協定はあるべき姿を目指します。

https://jimin.jp-east-2.storage.api.nifcloud.com/pdf/manifest/20190721_manifest.pdf

公明党

日米合同委員会合意に基づき運用されている凶悪犯に関する起訴前身柄拘束移転の日米地位協定明記の検討や、基地周辺自治体と基地司令官等の定期協議の開催、また日本側の基地への立ち入り権の確立などを推進し、日米地位協定のあるべき姿を不断に追求していきます。

https://www.komei.or.jp/campaign/sanin2019/_assets/pdf/manifesto2019.pdf 

立憲民主党

在日米軍基地問題については、地元の基地負担軽減を進め、日米地位協定の改定を提起します。

https://special2019.cdp-japan.jp/rikken_vision_05/

国民民主党

日米地位協定の諸外国並みの改定を目指すとともに、辺野古基地建設を見直します。

https://www.dpfp.or.jp/election2019/answer/12

日本共産党

日米地位協定を抜本改正します。

https://www.jcp.or.jp/web_policy/2019/06/2019-saninsen-seisaku.html

日本維新の会

普天間基地の負担軽減と日米地位協定の見直し

https://o-ishin.jp/sangiin2019/common/img/manifest2019_detail.pdf

社会民主党

米軍、米軍人・軍属に特権、免除を与え、基地周辺住民の市民生活を圧迫している日米地位協定の全面改正を求めます。

http://www5.sdp.or.jp/election_sangiin_2019 

れいわ新選組

真の独立国家を目指します〜地位協定の改定を〜

https://v.reiwa-shinsengumi.com/policy/ 

市民連合と5野党・会派の「共通政策」

日米地位協定を改定し、沖縄県民の人権を守ること。

https://shiminrengo.com/archives/2474

 

「あるべき姿をめざす」ってなんだ?

 ほとんどが「改定」「改正」をめざしているのに、自民党は「日米地位協定はあるべき姿を目指します」となっている。公明党にもこの文言が出てくる。

 あ……あるべき姿……?

 これについて衆院議員・本村賢太郎民進党時代に出した質問主意書で「安倍総理は、(2016年)五月二十五日に行われた日米首脳会談において、『地位協定のあるべき姿を不断に追求していきたい』と述べているが、必要であれば抜本的な見直しも行うと解釈してよいのか」と尋ねたのに対して、答弁書では、

日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約第六条に基づく施設及び区域並びに日本国における合衆国軍隊の地位に関する協定(昭和三十五年条約第七号)は、合意議事録等を含んだ大きな法的な枠組みであり、政府としては、同協定について、これまで、手当てすべき事項の性格に応じて、効果的かつ機敏に対応できる最も適切な取組を通じ、一つ一つの具体的な問題に対応してきているところであり、引き続き、そのような取組を積み上げることにより、同協定のあるべき姿を不断に追求していく考えである。

 と返している。

 なんだかぼくらシロートにはわかんねー話なんだが、要するに「取組を積み上げる」こと、つまり協定を変えるのではなく、「運用の改善」でやっていくという話なのである。*1

 

 地位協定を明文で改定するのか、それとも運用改善でいくのか、が争点になる。

 

 沖縄タイムズは「不平等性が強く指摘される日米地位協定では、自民以外の全政党が改定を掲げた」という見方をした。

www.okinawatimes.co.jp

 「今の地位協定でいい」という人は自民党、改定を望む人は他の党に投票しよう。 

 

密約としての合意議事録

 昔から日本共産党がいってきたことであるし、最近では矢部宏治とか前泊博盛なんかも書いていることだけど、日弁安保条約や日米地位協定の歴史というのは、基本的に占領の、形を変えた継続なのである。条約や協定の明文では、改定によって占領の継続であることを「否定」しつつ、実際には密約や非公開の合意などによって「占領の継続」を保障するというものなのだ。

 

 本書・山本章子『日米地位協定』(中公新書)も、これに近い把握をしている。

 

日米地位協定-在日米軍と「同盟」の70年 (中公新書)

日米地位協定-在日米軍と「同盟」の70年 (中公新書)

 

 

 日本政府の言うように、日米地位協定は、すでに条文として他国並み=NATO並みになっているのかもしれない、と山本は言う。

だが、日米地位協定が「NATO並み」だという主張は、条文の文言については当てはまるが、実際の運用については当てはまらない。(「はじめに」ⅳ)

 あっ、それなら、運用改善のほうがいいんじゃないの……と思うかもしれない。しかし山本はその理由についてこう続ける。

日米安保改定の際に日米両政府が別途作成し、長らく非公開だった「日米地位協定合意議事録」では、日米行政協定と変わらずに米軍が基地外でも独自の判断で行動でき、米軍の関係者や財産を守れる旨が定められているからだ。

 日米地位協定は、条文ではなくこの合意にもとづいて運用されてきた。ここに最大の問題がある。

 日米地位協定への批判は、より対等な改定の要求へと結びついてきた。だが、二一世紀初頭まで非公開だった日米地位協定合意議事録に従って運用されてきた事実は、日米地位協定の改定によって問題は解決されないことを意味する。(同前)

  山本は、合意議事録の撤廃により、協定を明文の通りに厳格に守らせれば「不完全ではあるが協定が抱える問題の大部分は改善されるだろう」(p.211)とする。山本の提案は地位協定改正でもなく、運用改善でもなく、その「中間」のような形をとっている。

 山本は合意議事録が一種の「密約」だから、正統性を持ち得ず、国会審議もされていないので政府間合意とは言えないとしている。つまり、改定・交渉しやすいというのが山本の意見である。

 だが、「日米地位協定」とは「合意議事録等を含んだ大きな法的な枠組み」(先の質問主意書への政府答弁)だ。合意議事録の撤廃は、ほとんど協定の改定、というか協定の本質をいじることになる。山本が「協定の改定ではなく合意議事録の撤廃という形であっても、米国の同意を得ることが困難であることには変わりはない」(p.211)と認めるように、こういう角度から攻めたとしても、闘争がやりやすくなるわけではないだろう。

 

 ただ、本書を読むとよくわかるが、これまで秘密だった(現在は公開されている)合意議事録を完全に撤廃することは、確かに“本文の明文によって正体を隠し、合意議事録でこっそり付け足しをする”という地位協定の本質に触れることになってしまう。だとすれば合意議事録を撤廃することと、地位協定本体を改定することをどちらも追求すればいい。

 特に野党は内容にはあまり詳しく踏み込まずに「地位協定の改定」というのを公約しているのだから、逆に言えば、そこまで進めていくことはできる。

 

 

アメリカが引き揚げてしまうことを「恐れる」がゆえに

 本書を読むともう一つ示唆的なのは、ソ連崩壊以後、安保の意味を見失った日本の支配層が、部分改定を提起したら結局アメリカが引き揚げてしまうのではないか、ということを本当に恐れていることだ。

 そして、NATOでは改定に応じても日本については改定に応じないのは、良くも悪くも憲法9条がある限り、対等で双務的な軍事同盟など期待できないために、アメリカは地位協定の改定には応じないと山本は見ている。日米安保条約とは、軍事同盟とはいうものの、本質的には「基地協定」なのだと山本は指摘している。

同盟条約と基地協定を分離する日本の要望はすべて米国から全面的に拒絶されてきた。このため、在日米軍の撤廃はそのまま同盟関係の解消を意味し、冷戦終結後には日米同盟関係の維持について外務省の不安を著しく煽り、日米安保の再検討につながる一切の動きを自主規制させたのである。(p.172)

 最近、トランプが「安保条約やめよっかなー♪」と言ったと伝えられたが、あれが現実になることを本当に恐れているわけである。

 山本は「日米安保条約を支持する立場」(p.214)である。

 しかし、日米地位協定の現状に批判的な気持ちを持っている。

 日米安保体制を壊さずに、地位協定の見直しを図る道を模索した山本が出した結論は、地位協定本体には手をつけずに、付属している合意議事録の撤廃だった。

 しかしこれはあまりに無理筋である。

 結局、日米地位協定の改定は、安保体制(日米軍事同盟)そのものの見直しにまでいくことを覚悟して進むか、さもなくば、いまトランプが求め、安倍政権がそれに呼応しようとしている「憲法9条を改定して、アメリカとともに戦える双務的な関係に変える」ところにまで突き進むしかないのである。

 本書はどちらかの覚悟が必要であることを教えてくれる。

 

 例えば、これは先の話だが、野党連合政権ができたとして、日米地位協定の改定を提起することはできるだろう。その時、アメリカが拒むに違いない。さらに「これ以上は応じられない。さもなくばもう引き揚げる」と言い出した時に、どういう対応を取るのかという問題になってくる。

 ぼくとしては、その時にアメリカとの軍事同盟をやめていく道を説くのが左翼の役目だと思っている。まあ、今はそこまで心配する必要はないのだが(共産党の役割は、そこに見通しを持っていることだと言えるだろう)。

 だが、沖縄の苦しみの解消だとか、米軍基地をなくしていくという地元自治体の切望(例えば福岡市だって高島市長や自民党を含めてオール福岡で基地返還を推進している建前になっている)だとかに応えようとすれば、ゆくゆくはそこは避けてとおれない。

 

 日米軍事同盟を抜け出す選択肢もあるんだよ、という道を説得的に示せるかどうかが、沖縄の米軍基地問題、本土の米軍基地返還の展望を(左翼的に)切り開くことになる。

 

 

本書を読んで他に知ったこと・感じたこと

 さて、最後に、本筋とは別に、本書で知ったこと、感じたことなどについて簡単にメモしておく。

  • 第二次世界大戦後の日本では「アメリカの占領の継続という状態をいかに避けるか」ということが大きな課題であり、少なくとも保守政治家たちはその体裁や世論をずいぶん気にしていた。そして反基地闘争は実際に政治を動かした。戦後日本の骨格はこのような闘争とそれへの配慮によって出来上がっている。
  • 逆に言えば、今の日本には「別にアメリカに占領されていても、守ってくれるのならそれでいいのでは」という意識が増えてきていないか、と思った。
  • 日米合同委員会には合意を決定する権限はなく、そこで密約が生まれることはない。
  • 思いやり予算の区分について勉強になった。また、その公式の語源は、1978年6月29日の参院内閣委員会での金丸答弁だった。
  • 日米地位協定24条に照らして米軍の移転費用を日本政府が負担することは協定違反だという声があるが、これに対して、新築でない代替施設の建設は24条を逸脱しないという「大平答弁」によって24条違反でないと強弁するようになった。これは個人的に、今福岡空港の滑走路拡張で米軍の倉庫を移転する際に、そのお金を支出すべきなのはもともと誰なのかという論争が、議会で行われたのを見たので、興味を持っていた。

*1:公明党のは、すでに運用しているとされている「凶悪犯に関する起訴前身柄拘束移転」についてのみ「明記」を求めるものであるが、これを改定というかどうかは微妙である。

ヤマシタトモコ『違国日記』

 祖父母・父母・兄弟の6人で暮らしていた田舎の実家を「暮らしにくい」と思ったことはその当時なかったが、家を出て一人暮らしを続け、やがて家族を持つ身となってみて、今あの実家に戻りたいかといえば、やはりもう戻って生活する気はない。つうか、もうできんだろ。

 ぼくが実家で生活をしていた頃、父はよく遠くへトラックで出かけていたし、戻ってきても夜中までお客さんと飲みに出ていた。つまりぼくの私生活とはほとんど交わらなかった。母は父の仕事を手伝うのに忙しく、ぼくの生活態度への指導とか注意は細々としたことを機関銃のようにしてぼくに伝えたが、ほとんどそれはホワイトノイズと化していた。要するに聞き流していた。だから、ぼくが実家で生活してた頃は、父母からのうんざりすような介入がなく、「こんな家にいたくない!」などとはほとんど思うことはなかった。

 しかし、ぼくが家をいったん出て、遠くから相対するようになった両親からは、ぼくに理解できない価値観がだしぬけに突きつけられるような場面にしばしば遭遇することとなった。

 こういうことがあった。

 ある日、突然母からぼくに電話がかかってきた。全くの普通の日。平日の昼間のタイミングである。しかし電話口で母はややかしこまった口調である。何事であろうかと話を聞いてみると、お前が実家に帰るときに持ってくるお土産の「安さ」に、本当は腹わたが煮えくりかえる思いがしているという、思い詰めた電話であった。

 そのとき、よく「めんべい」の数百円程度のものを買って実家に帰っていたのであるが、そのような土産は両親への軽侮であり侮辱であり、人を人とも思っていないやり口であり、社会人失格のクズのような態度だと密かに思われていたのである。それが爆発しての電話だった。

 これまでも父母が贈り物の多さを誇り、ぼくらにもよく贈り物をしてくれているのは感謝していたが、まさかそんな気持ちを抱えていたとは夢にも思わなかった。むしろ「贈り物が多すぎて腐っちゃう」と言っていたことを真に受けて、日持ちのするものを、軽く渡すことは、両親への配慮のようなつもりでいたのだが。

 ぼくは一応謝った。次からは帰省のたびに数千円の土産物を渡すように切り替えた。しかし、ことほど左様に、両親が本当に考えている礼儀やら道徳とやらのいくつかはぼくには理解できない「違国」のものであり、その「違国」で再び暮らしたいとはまるで思わないようになっていた。

 

 実家に戻ることはもう想像もつかない。

 代わりに、自分がそこを出て、つれあいや娘と築いてきた今の家庭での、メンバー相互(夫と妻、父と子、母と子)の距離感とか、そこでのルールとか、自分たちなりにこれが最適だと思うように仕上げてきた文化なので、ここから離れることこそ、もはや到底考えられない。

 

 だけど、小学生の娘にとってはどうなのかしら。

 ぼくら夫婦は「国定哲学」を押し付けたり、強圧政治をしたりするようなことがない「寛容な民主国家」のつもりでいるのだが。

 

 もし彼女が今わが家を出て、他の家に行くようなことがあったとしたら、元のわが家の文化や価値観はなんと偏狭なものだったのかと呆れることもあるのだろうか。

 

 

 

 ヤマシタトモコ『違国日記』は、突然両親を失った中学生・朝(あさ)が小説家をしている、独身の叔母(32歳)・高代槙生(こうだい・まきお)に引き取られて暮らすことになる話である。

 朝が、突然違う文化と生活に放りこまれる様は、「違う国」=「違国」に来た人のようである。

 しかし、率直に言って、ぼくは槙生が示す共同生活の距離感はまことにすばらしいと思った。ここはユートピアですか? とさえ思う。一緒に(結婚)生活を送りたいくらいだとさえ感じた。

 槙生自身が内省的・思索的・知的である。だって、自分に湧き上がってくる欲情でさえ理知的に眺めて、それを制御しようとするんだぜ?

 自立していて、それで同居人=子ども=朝への介入にわきまえがある。自分の一言が子どもを縛ったり、のちのちまで影響を与えてしまう「呪い」になったりするのではないかと恐れている。それはとってもとっても大事なわきまえではないだろうか。

 食事などの用意について「生活ができればいい」という構わなさは、ぼくとよく似ている。特にあの、昼食!

 レンチン米に大和煮の缶詰と茹でたほうれん草(夕べの残り)を食べるなんて、お前は俺か、とさえ思った。*1

 

 

 人に生き方を押し付けないが、倫理や正義、責任についての線引きがある。子どもを誰が引き取るかなどという無遠慮な会話の中に放置しない、両親の遺体の確認を子どもにさせないなどといった線引きが。

 家族であった姉への憎しみは、特別と思えるほどのこだわりがあるのだが、それを槙生は自覚してよく飼い慣らしていると思う。だからこそ、その感情を脇に置いてその姉の娘を引き取ったのである。

 朝の友人・えみりが家族から「いずれ(誰でも)結婚するんだから」と言われたことに違和感を覚えたことを、槙生は解いてしまう。朝にとっても、えみりにとっても、その家の文化に長いこととらわれていて、それを覆せないでいるのだが、槙生の家・槙生の言葉という「違国」はそのナショナリズムを解毒してしまうのである。

 なんという開明的な君主であろうか。

 4巻で、元の恋人だった笠町とラインをしながら笑うところの表情がとてもストイックでいい。

 まさしくユートピアだと思う。

 その心地よさゆえに何度も読み返したくなる。

 

 4巻において、槙生が職業としている小説=虚構=物語というものは、「初めての違う国に連れていってくれるような……」と形容されている。それは「かくまってくれる友人」とも比喩されていて、「違国」が、槙生の人生において必要欠くべからざるものとして肯定的にとらえられていることは疑いない。

 

 

 「違国」は、現実の呪いを解き、相対化してしまう。この作品の中で積極的に素晴らしい土地として示されている。

 

砂漠

わたしにさみしく

見えた彼女の砂漠は

わたしには蜃気楼のように

まぼろしめいて遠かったが

本当は豊かで潤い

そしてほんのときどきだけ

さみしいのかもしれない

 とは4巻における朝による、槙生=「違国」イメージである。

 しかしながら、3巻ではまだ、

久しぶりの

たぶん両親をなくして

以来はじめての

おだやかな

いうなれば 幸せな夜だったように思う

わたしだけが 知らない国にいるのだと

いうような心地で眠らないのは 久々だった

 と朝の心情吐露を読んで、ぼくはびっくりしてしまった。

 えっ! 3巻だよ!? ここで「はじめて」!? おだやか!? 幸せ!? それまではそうでなかったのか!

 

 

 

 家族という共同体には、本当はこういう「違国」のような距離感やわきまえが必要なのではないか。「毒親」のような呪いができてしまう親密な空間を一旦なかったことにしたいと多くの人が思っているからこそ、この物語に憧れる人、心地よさを感じる人が少なくないのだろう。

 

*1:いつもだいたいぼくの昼は、レンチン米or夕べの残りのご飯、鯖缶、納豆、残りのサラダである。