『家系図を作ろう!』

 ぼくも家系図を作るのにハマっている。

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 ぼくが参考にしたのはこの本。『家系図を作ろう!』。

 

家系図を作ろう エイムック

家系図を作ろう エイムック

 

 

 120ページほどでイラスト・図が多い本だ。知りたいことが簡潔にわかる。冒頭で紹介した記事でも書いてある通り、役所に行って「系図を作りたいのでさかのぼれるだけ戸籍・除籍簿*1がほしい」というとたいてい担当者が親切に教えてくれる。

 ハンコと身分証明書、そして手数料のためのお金を持っていけばOKである。あとはその場で記入する書類だけだ。

 郵送でもできるが、詳しくはこうした類の本を買ったり借りたいして調べてほしい。

 

 除籍簿の文字は最も古いものが明治に書かれたもので、少し読みにくい。ただ、数人の分をじっと見て記述のパターンを覚えてしまうとあとはスラスラとわかった。

 

戸籍でたどれる一番古い人はマルクスと同じ頃

 父方の方は完成した。

 除籍簿に記されたもっとも古い戸主は「嘉永5年」=1852年だった。

 A三郎としておく。

 A三郎には父・B兵衛がいて、それが「前戸主」として小さく載っている。しかし、B兵衛の生没年はどこにも書いていない。

 残念!

 ところが、B兵衛の妻(A三郎の母)・C子は「文化13年」=1816年生まれと書いてある。これが除籍簿に載っている最も古い年である。

 C子は「明治元年」=1868年に亡くなっている。

 ということは、B兵衛もほぼ同じ頃の生没年だろう。

 伊能忠敬の「大日本沿海輿地全図」が完成した頃、あるいはカール・マルクスと同じ頃に生まれて、明治維新の頃に死んでいる。

 ぼくの「おじいさんのおじいさんの父親」がB兵衛、その妻がC子。

 これがわが紙屋家でたどれる一番古い夫婦である。

 

 ぼくの家の除籍簿を調べても、「隠された大いなる秘密」のような特別なものはなかった。

 戸籍の中にはいわゆる「戦死者」さえも一人もいなかった。

 それでも、戸籍(除籍簿)には、人の不思議な運命がいろいろ書かれていて、ぼくは昨年のちょうど今頃から夏にかけてこの「ミステリー」の読解に深々とハマっていた。

 

父親が亡くなり一家がバラバラに

 例えば曽祖父(ひいおじいさん)の弟・D治郎の子ども4人は、D治郎が30歳で亡くなると、養子に出されたり、戸籍を抜けずに遠くに行ったりしている。

 長男のE雄は父D治郎の死から6年後に名前を変えている。どうも紙屋家の戸籍を抜けないまま、隣の県に住んでいて、20代でその隣県で死亡している。死亡を「同居人」が届け出ているのだ。これは推察に過ぎないが、結婚せず改名して遠くにいるというのは、寺に入って僧侶になったのではないだろうか。

 二男のF男は戸籍を抜け、遠くの島(F島)へ、養子にもらわれていく。少なくともF島に親類がいるとは聞いたこともないし、F島に行ったこともなく、存命の父も何も知らない様子であった。養子先の名字(J山)も初めて聞く名字だった。

 三男のG郎は、父D治郎の死から20年経って25歳で結婚し、他家の婿養子として迎えられ、紙屋家の戸籍から抜けていく。

 四男のH夫は、父D治郎の死から6年後に、近隣の村に養子に出されていく。

 

 曽祖父が紙屋家の「戸主」だったわけだが、その家のどこかに住む形で曽祖父の弟・D治郎一家は暮らしていたと思われる。

 しかし、D治郎の死によって、この「居候」的な一家は解体し、妻は里帰り、子どもたちは次々養子に出されていく。

 ただし、紙屋家に長く残った子ども(三男・G郎)もいた。

 三男・G郎が結婚するよりも前にぼくの父が紙屋家で生まれており、父に「G郎を知っているか」と聞いたら「知っている」と答えた。しかし父は「遠くの親戚としてのG郎」を知っているだけで、「G郎がかつて紙屋家にいたということは知らない・記憶にはない」と答えたのである。

 

 その時の雰囲気はどういうものか知らないのだが、戸籍(除籍簿)から読み取れることは客観的に見れば「一家離散」である。

 ぼくはしんみりしてしまった。

 そして、あろうことか、この二男のF男が養子にもらわれていったF島を訪ねてしまう。

 F島は小さな島であるから、墓誌などを見て回ったりした。すると養子先と同じ「J山」という名字はいくつかあった。F男と同じ名前、つまり「J山F男」の墓誌もあったので思わず宿泊先の民宿に事情を話してしまったら、親切にもその民宿が知り合いの「J山」さんやその近隣の「J山」さんに電話までしてくれた。

 すると、つながった電話に出た一人の話によれば「確かに養子で来たF男という人は覚えているが、F男はもう亡くなったし、子孫はだいぶ前に島を出ていってしまった」ということであった。ああ。

 まあひょっとしたら突然現れた「遠縁を名乗る中年男性」を警戒して嘘を言ったのかもしれないが、もうF男の痕跡はこの島にはないのだなと、とりあえずあきらめるしかなかった。(会ってどうしたかったのか、と問われれば困ってしまうのだが。)

 

写真の整理

 家に眠っていた古い写真も掘り起こし、できる限り顔・名前が一致できるようにさせた。一番古いのは、A三郎の妻(1852〜1915年)の写真であった。

 

 世話になっている寺の過去帳についても、他の家の個人情報が侵されない形で閲覧させてもらった。除籍簿よりも古い情報が出てくるのではないかと思ったからだが、除籍簿以上の情報は出てこなかった。

 

 祖父の兵歴についても調べようとしたが、該当する資料は保存されていないようであった。

 

 

 今、母方の系図づくりに取り掛かっている。

 また、系図づくりとは別に、80を超えた父と母からライフ・ヒストリーについて聞き書きをしている。祖父が亡くなっていろいろなことがわからないままになってしまい、ひどく後悔しているからだ。

 

 自分のルーツを何らかの形で知っておきたい人は、祖父母・父母の聞き取りと合わせて今の時期にやっておいてはどうだろうか。

 

 差別問題と戸籍

 ただし、自分のルーツなど知りたくもない人、思わぬことを知ってしまうのが嫌な人には当然オススメしない。

 また、差別問題については、前述『家系図を作ろう!』には次のような記述がある。

最初の近代的な戸籍は、この年〔明治5年〕の干支(えと)をとって「壬申戸籍(じんしんこせき)」と呼ばれました。しかし、これには差別問題につながる記載があったことから、昭和44年以降、閲覧禁止となり、除籍謄本…などの交付も行われていません。つまり現在では誰も見ることができないのです。(『家系図を作ろう!』p.50)

 

 

(紙屋家についての記述は一部事実を変えて記載しています。)

*1:戸籍に記されている家族が死亡・婚姻・離婚などで全員除籍になった「ぬけがらの戸籍」のこと。戸籍簿から除かれて閉じられ保管されている。

小学校の運動会は要らないなと思った理由

 この記事を読んで思ったこと。

news.yahoo.co.jp

 

 特にこの点。

●運動会の目的と目標がきちんと明確になっていない。
 関係者のあいだで(保護者だけでなく、おそらく教職員の間ですら)腹落ちしていない。

●その目的、目標に照らして適切な手段となっているかが十分に検討されていない。

 

 ところが、なんと、指導要領には一言も「運動会」という言葉は出てこない。この事実を教職員は知っているだろうか?

 正確に言うと、特別活動の学校行事のひとつとして、「健康安全・体育的行事」という記述はある。この体育的行事のひとつの例として、運動会はある。(指導要領の本体ではなく、解説には運動会との文言は出てくる。)

 極端な話をすると、「うちは運動会はしません」という学校があってもよいわけである。

 

 運動会が目的に合ったものなのか、そもそもマストではないはずだ、という指摘は大事だ。

 なぜなら、ぼくはつい先日小学6年生の娘の運動会を見てきたのだが、6年間ずっと運動会を見てきて、「本当に必要か?」という思いを強くしていたからである。そこへきてこの記事だったので、この記事は大変時宜を得ていた。

 なお、ぼくは途中で引越しをしたので、同じ市内の2つの小学校しか見ていない。その観測範囲でのものだけど。

 

保護者=観客目線で見ても面白くない

 小学校での運動会が「不要では?」と思った直接のきっかけは、まずは観客=保護者目線でのことだった。700人〜1000人ほどの子どもがいて、自分の子どもの出番が一瞬である上に、親が運動場にテントを林立させて群がっていて(ぼくもその一人)、競技フィールドに近づけないために子どもは遠くから豆粒のようにしか見えず、それをカメラに収めようとすると直接肉眼でろくすっぽ見ることもできずに終わってしまうからだった。しかしまあこれはあくまで親目線。

 

保育園時代と比較してみる

 最大の違和感は、自分が娘を通わせていた認可保育園での運動会との差だった。

 そのA保育園では、例えば5歳児クラスには20人しかいなかった。いまの30人台後半で、しかもそれが学年あたり3〜6クラスもあるような小学校とは子ども一人一人の存在感がまるで違う。同じクラスの子どもの顔をすべて知っている保育園のクラスでは、たとえ自分の子どもでなくても「へえ、あの子が…」と注目できたし、保育園側は「自分のお子さんだけにフォーカスするんじゃなくて、そのまわりの子どもたちとの関係もよく見てください」と繰り返し親に話してきた。

 つまり、自分の子どもはもちろん、クラス全体の取り組みが「集団」として保護者にも見えているし、さらにバラバラの個体としても自分の子だけでなくまわりの友達、友達との関係が「成長」「抗争」「葛藤」「協力」などとして見えてくるのだ。

 ただ、この点については、ぼくがもっと小学校の地元の保護者たちとのつきあいをディープにしていたら、他人の子どももよくわかっていて、もう少し見えていた風景は違ったかもしれない。

 

 子どもたちにとってはどうなのか。

 保育園で例えば5歳児(年長)クラスだった時は、数ヶ月かけて自分で縄を綯い、それを使って走りながら縄跳びをする競技があった。また、(1)登り棒(2)板の飛び越え(3)跳び箱などを組み合わせた一種の障害物競走があった。

 これは「競争」=勝敗のゲーム=スポーツではなく、全て自分に課した課題をきちんとクリアできるかどうかが問題となる。たとえば登り棒は登りあがるのがやっとの子どもがいる一方で楽々と登っていって、頂上にあるタンバリンを足で鳴らして観客たちを驚かせる子どももいる。

 そして、運動会の準備は数ヶ月前から始まっているので、その課題がクリアできたかどうかは、保護者への一人ひとりのノート(お便り帳面)、クラスの保護者を集めた際の懇談会などで話される。

 保育園の先生からだけでなく、保護者は子ども(ぼくの場合は娘)から自分が登り棒ができるようになったかどうか、板の乗り越えのどこで苦しんでいるか、どんなすごい友達がいるか、などを毎日聞かされることになる。さらに娘から「早く行って園で練習したい」と言われたり、日常的に友達に教えられたり、教えたりする様子が自発的に親に伝えられる。友達の指摘を無視して縄を綯う順番を間違えて、完成直前に気づき、泣く泣くそれを解いて自分で作り直した子どももいる。

 親は手伝わない。園からも「日曜日とかにこっそり親が手伝って練習とかさせないでください」と釘を刺される。

 

 そういう課題設定や苦労が日常的に保護者にも共有されている。

 運動会は非日常ではなく、日常の取り組みの延長であり、そのディスプレイに過ぎない。保護者もそれをよく知っている。だから、見るのが楽しみだった。この方針はA保育園では他のイベントにも共通していて、例えば「学芸会」は存在せず、「生活発表会」であった。竹馬に乗る姿を披露するのは、日常の遊びの延長であり集大成だからそれを披露するのである。ものすごく高い竹馬に乗ってくる子どももいる一方で、やっと竹馬に乗れるという子どももいる。そうかと思えば、竹馬ではアレだった子どもが、リズム体操ではものすごくキレのある動きをしたりする。

 だから、A保育園は運動会で何をしようとしているのか(障害物のクリアをゴール=目標にする。それをたまたま保護者にも見せる)、そのプロセスはどうなっているのか、がきわめて明快だった。

 

勝敗を真剣に競わない

 ところが、小学校の運動会にはこうしたプロセスは全くなかった。

 6年生はソーラン節を踊った。

 実は保育園でもソーラン節を踊る機会はあったが、これはいかにも楽しみの一つであった。保育士も保護者も一緒になって踊った。

 ところが小学校の場合は、ただのマスゲームである。

 一糸乱れぬように踊らせる「美」を誇るわけだが、仮にそれを目標としているとしても結果は全くグダグダで、学年全体(100人)が一斉に、レベルの低い踊りを踊っている様を見てもほとんどなんの感興も催さない。

 そして、綱引きとリレー。

 どちらも勝敗を決するというスポーツの本質を取り入れている。

さしあたり、「勝敗の決着による強さの決定」、これをスポーツの内在的目的と考えることができます。ある倫理学者に倣って――といっても用語を借用するだけですが――、これをスポーツのエトス(ethos)と呼ぶことにします。(川谷刺激『スポーツ倫理学講義』ナカニシヤ出版p.75)

 先ほどスポーツの本質=「勝敗の決着による強さの決定」を運動会に取り入れることは全く反対しない。

 しかし、それは、きちんと設計しないとうまく作用しないことをよく考えるべきだと思う。

 どういうことか。

 娘の通う小学校は、だいたい1学年3〜4クラスあるので、「1組」「2組」「3組」などの縦割りで「ブロック」を構成する。*1このブロックの対抗として「勝敗の決着」を行うのである。

 しかし、ほぼクラスによって初めから分けられたブロックには、最初からかなりの能力上の優劣差が存在する。

 それを覆し「ジャイアント・キリング」を起こすところにスポーツの楽しさの一つがあると思うのだが、始業式のバタバタがあって運動会の準備をしてから本番までわずか1ヶ月しかない。その期間に目的に沿った合理的な鍛錬をして能力差を覆すのは至難であると見る方が自然だろう。

 だから、クラスで縦に分けられた集団=ブロックには初めから超えがたい能力差が存在し、それは短期では全く覆りそうもない。リレーで多少早く走る努力をしてもあまり関係ないのである。綱引きも同じだ。

 だから、娘のクラスでは勝敗に対してのアパシーが起きていた。「どうせやっても勝てないでしょ」的な。

 教師たちにも苦悩の跡があった。

 リレーでは、3人1組で走るのだが、「遅い人たちの組」「速い人たちの組」がまとめられていて、スタート(バトン継承地点)位置が明確にズレていた。しかし、そういう工夫をしても、機械的にわけられたブロックごとの総合タイムの差は歴然としており、埋めようがないのである。「遅い人たちの組」「速い人たちの組」という工夫は、スポーツの勝敗とはあまり関係なく、個人が恥をかかないためにだけある。

 

 たぶん勝敗のために真剣になっている子どももいると思うのだが、それはその競技が得意な子どもだけなのではなかろうか。

 

スポーツの本質的暴力性

 勝敗によって強さを決めるエトスを持つスポーツというものは、勝敗という明確な基準で勝者と敗者のコントラストを浮かび上がらせ、敗者に敗北という害悪を与えるという点で「本質的暴力性」(川谷前掲書p.124)を持っている。

 「だからスポーツを学校で教えてはいけない」というつもりはぼくには全くない。むしろその勝負事としての暴力性ゆえに、我を忘れて興奮するほどののめり込むを生むわけで、スポーツの楽しさはそこにある。ただ、逆にその教育への導入には慎重で考え抜かれた設計が必要なのだ。

 最近書いた記事、『僕はまだ野球を知らない』に出てくる強豪校の「格下見下し意識」はその副作用である。

kamiyakenkyujo.hatenablog.com

 

 他方で、スポーツを教育の場に導入しながら、「勝敗に対する無関心」を起こしてしまう設計は、逆の失敗をしていることになる。

 勝負事において勝敗にこだわらない態度は、スポーツの本質を失わせている。スポーツへの冒涜といってもいい。

 前述の『スポーツ倫理学講義』の著者・川谷が次のように「あとがき」で述べていることは実に示唆に富んでいる。

 

スポーツ倫理学講義

スポーツ倫理学講義

 

 

 私がこれまでの人生で最も日常的にスポーツをしていたのは、九州の田川というさびれた炭鉱街の小学生だった頃である。

……最後の年、チームの中心にはYという同級生がいた。四番・サードで実質的には監督も兼ねていたYは、きれいごとではない、ほんとうのスポーツマンシップを全身で表現していた。一言で言えばそれは、「なりふりかまわず勝ちにいく」という精神である。たとえちょっとしたお遊びの試合でも、負けるとグローブを地面に叩きつけて悔しがるYの姿や、それに気押されて敵も味方も静まりかえる校庭の空気感を、今でも鮮明に思い起こすことができる。

 ……私は、勝つとそれなりにうれしいけど、負けてもYほど悔しくなかった。……自分さえ楽しければ負けてもかまわないという私の態度は、明らかにスポーツマンシップに反している。Yのおかげで私は、スポーツとは何よりもまず勝負事であるという根本的な事実を学んだと同時に、勝負事にそれほど情熱を傾けられない自分の個性も否応なく悟った。……

 だから私には「スポーツはほんとうは勝負事なんかじゃない」ときれいごとを言いたくなる倫理学者=大人たちの気持ちが、手にとるように分かる。もしそのきれいごとが正しければ私も自分の態度を正当化できるのだけれど、残念ながらそんな子どもだましは、真剣かつ純粋にスポーツをやっていたあの頃の子供たちには全く通用しない。(川谷前掲書p.251-252)

  ぼくはスポーツ=勝負事に真剣になれない自分のことを、この本のこの記述とともによく思い出す。

 谷川ニコ私がモテないのはどう考えてもお前らが悪い!』15巻には高校の球技大会・体育大会においては「女子の球技大会は男子と違って空気を読み 楽しくやることが暗黙の了解」(谷川ニコ前掲書、15巻、126ページ、スクウェア・エニックス)だという登場人物の内語が出てくる。そんな中で全く「空気を読まず」に毎回「本気の」セーフティバント、カット打法からのフォアボールなどで確実に出塁するキャラ(小宮山)が描かれる。勝負事に本気にならない=スポーツとしてエトスを破壊することに抗することがここでは、クラスの空気を読まないことと重なって、絶妙なギャグとして立ち現れている。

 ひょろひょろだまを投げる素人女子ピッチャーにクールな「マジ顔」(メガネの半分が光っている)でバントする小宮山、可笑しすぎる。

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谷川ニコ前掲書、15巻、126ページ、スクウェア・エニックス

 このギャグは、運動会におけるこの落差を見事に暴いている。

 

 もしも本当にスポーツを運動会に真剣に導入したいなら、例えば各個人の50m走の平均タイムを合計して、ほとんど同じになるようにブロック分けすべきであろう。一人ひとりの努力でブロック全体が勝利を得られるという意欲を引き出すために「設計」するのである。しかもその設計は「遅い人たちの組」「速い人たちの組」のように可視化されない。簡単に言えば「シラけない」のである。

 教育においてスポーツを導入するとは、子どもたちから勝敗への熱烈なこだわりを引き出すことであり、その本質的暴力性を召喚することなのである。

 

他の行事では代替できないのか

 「運動会の意義はスポーツ=勝負の決定だけではないはずだ」という人もいるかもしれない。

 例えば、以下はある小学校の校長がまとめた運動会の4つの意義である。

http://www.sch.kawaguchi.saitama.jp/aokikita-e/tusinkoutyou/tusin14.pdf

 

  1. 集団で勝敗を競う体育的行事である。
  2. 集団行動を多く伴う体育的行事である。
  3. 高学年の児童が会の運営に関わる行事である。
  4. 地域や家庭に広く公開する行事である。

 

 

 ただ2〜4は果たして運動会でなければ実現できない目的だろうか。

 2は保護者の前でやらなくてもいい。集団行動は何かの必要があって(例えば避難訓練など)その必然性において行うべきものであって、保護者の前で披露すべきものでもあるまい。マスゲームのようなものは、やりたい人だけやればいい。やりたくもないものに無理に合わせることはそもそも苦痛である上に、「集団には従うべきもの」という間違った観念さえ植えつけるに違いない。

 3は例えば他の行事で十分代行可能である。

 4はこれまでA保育園の例を書いてきたが、クラスレベルのもので十分だ。一人ひとりが主人公になれないものをぼくは見る気もない。

 

 というわけで、ぼくは今のような運動会であれば、やらない方がいい。あるいは(普通の授業と同様に)保護者が来ることを制限・禁止してもいいと思う(なぜなら昼食時に保護者・家族と食事をするという「体裁」のためだけにぼくは行っているからだ)。

 

 スポーツ(勝敗決定)ではなくA保育園のような個人・クラスごとの課題設定をした方がやりやすいと思うし、そのプロセスを保護者と共有した方がいい。「教師は忙しくてそれどころじゃない」というのであれば、別に多忙化を加速させる気はない。イベントそのものをリストラすべきである。

 

*1:学年によっては分割する。

西餅『僕はまだ野球を知らない』4

 勝敗の明暗を残酷な形で示すスポーツというものは、どうしても「格下」と相手を見る意識が生まれるものなんだろう。

 

僕はまだ野球を知らない(4) (モーニング KC)

僕はまだ野球を知らない(4) (モーニング KC)

 

 

 データにもとづく徹底した科学的な分析で高校野球ジャイアント・キリングを起こそうとする西餅の『僕はまだ野球を知らない』は第4巻で強豪チームの露骨な差別意識が描かれている。

 

「ま 何にせよ せこい変則P(ピッチャー)には変わりない

 格下相手にこんなしょぼい点差で終わったら俺らBチーム

 監督にアピールできねえよなー

 あの四番手 あいつがたぶんエースなんだろ

 あいつボコって一気に突き放そうぜ」

 

「こういうピッチャーって

 ほんと意味わかんね

 能力ないのに なんで投手にしがみつくんだろう」

 

 

 中学時代に軟式テニスの前衛をやっていて3年生最後の試合で、よその中学と対戦した時、ぼくが穴だとすぐ見抜かれ、どんどん横を抜かれて、あっさり負けた。「はっ、こいつが穴じゃん」と思われたわけである。

 いや全くその通りなんだよ。

 そしてそれがスポーツなんだよ。

 弱点を徹底して攻める。残酷なまでに。

 それで勝敗を決めるというのがまさにスポーツなわけだ。

 

 でも本当にムカつく。

 どうしたらいいんだかわからない。

 圧倒的な差があってその間を埋められない。そのために何もできない。

 そしてスポーツにおいて能力がある人間は、どうやらそうでない人間を「格下」に見ていいようなことになっている(面と向かって言ってはいけないとしても)。

 つまりスポーツの場面では、ただ自分は「格下」であり続けるしかない。

 その圧倒的な差の壁の前で絶望するしかないのである。

 

 その壁を少しずつでも崩していこう、一矢報いようではないか、というのがこのマンガの面白さだとみた。データとそれに基づく科学で説得的にそれをやろうというのである。

FLOWERCHILD『イブのおくすり』

 このマンガを何度も読み返してしまうのは、興奮する中身だったから。しみじみ、今自分は百合にエロしか求めていないなと思った。

 

 特に中学生の衣舞と養護教諭とおぼしき由仁とのカップリング。

 最終話では、教師という指導的立場にあったはずの由仁と、ペット的な存在だった衣舞の力関係が、欲望を媒介にして完全に等価になってしまう。というか逆転してしまう。

 全体的にそうだけども、特に最終話のセックスシーンは、「気持ちいいと思う部位を探り合う」という描写にまみれていて、欲望とは愛情とまったく同じものだというテーゼが見事に立ち上がってくる。

 セックスをすること、快楽を与え合うことが愛情なんですよ、という世の中ではおよそ相手にされない、しかしぼくのような男性の中にあるファンタジーを刺激してやまない作り込み方、本当に好き。

 

 さらに、中学生の永南とその先輩・馨、そして志摩コーチの3者が絡むエピソードは、さらに歪んでいる。

 永南は自分が憧れていた馨が実は志摩コーチと恋仲、というか性的な玩具であることを知り、今目の前で自分が失恋しているにもかかわらず、性的快楽を与えられる機会に抗えずにその行為の中に誘われるままに入っていってしまう。

 お前は根っからの性的な存在なんだ、と思い知らされるわけである。

 「気持ち悪い!」と怒鳴りながら快楽に溺れたり、馨先輩がおもちゃにされてると嘆きながら自分がその流れに乗っかってしまったりする描写には、ある種のコミカルささえある。

 

 人間が性的な存在でだけあるはずがない……が、あたかも性的な存在としてのみ描いている。いやこの場合、「人間」のところは「女性」にしたほうがいい。とりわけ1グラムも性的な存在であってはならない、学校という空間で「性的存在」であることをさらけ出してほしい。そしてもちろんそれは妄想であり虚構であるが、説得力を持って成立するのが本当に素晴らしいと思う。

 

大門実紀史のMMT論

 共産党大門実紀史議員がMMTについて質問をしていた。

www.jcp.or.jp

 えっ、共産党が? MMT

 というので、質問が議事録になった機会に全文を読んでみた。

 なんで関心を持っているのか。

 ぼくは薔薇マークキャンペーンに賛同をしていて、薔薇マークの趣意書のうちの例えば「5.   (4)の増税が実現するまでの間、(2)の支出のために、国債を発行してなるべく低コストで資金調達することと矛盾する政策方針を掲げない」についても賛成している。

 

rosemark.jp

 

 ただ、薔薇マークキャンペーンの理論的支柱である松尾匡の反緊縮のための金融緩和政策については判断を保留しているのだ。「保留」というのは「反対」というわけではない。態度を決めかねているのである。

 

 その時に、大門の質問(参議院財政金融委員会2019年5月9日)を知った。

 大門が言っていることは、自分の思いとかなり重なるので、ここに全文を紹介しておく。(著作権法で「政治上の演説」は利用が原則自由である。)

 自分用のメモの意味もある。

 前提として、知っておくといいと思うのだが、「日銀が引き受けた国債は借り換えの時期がきてもそのままにしておけばよい。だから借金とはみなさくてもいい」という理屈について土居丈朗が(批判的に)説明している記事がある。

toyokeizai.net

 上の記事はMMTそのものの説明ではないのだが、日銀が国債を引き受けるということについてわりとわかりやすく解説しているので、下記の質問の理解に役立つと考える。

 その理屈を知った上で、以下の文章を読むとわかりやすいのではないかと思う(強調は引用者)。

 

大門実紀史 大門です。
 既に今日も議論ございましたけれど、今話題のMMT、現代貨幣理論について、日銀の政策にも関係いたしますので質問したいというふうに思います。
 今資料を配っていただいておりますが、既にいろんな方に使ってもらっていますけど、一枚目が朝日新聞の資料でございまして、MMTとは何かということが左上に書いてございますが、朝日は金融理論になっていますが、貨幣理論の方が的確ではないかなとちょっと若干思いますけれども、要するにどういう主張かと申し上げますと、政府は通貨発行権を持っているから通貨を限度なく発行できる、自国の通貨建ての国債が返済不能になることはない、したがって財政赤字が大きくなっても問題はないというんですね。で、インフレは起こらないとはおっしゃっていませんで、インフレが起こるだろうけれども、ある水準に達するまではさっき言った財政支出は幾らやっても構わないというんですね。仮に、ハイパーとは言いませんが、高インフレになっても簡単に抑えることができると、国債を売る売りオペとか増税すればいいというようなこと、もう一つは中央銀行による国債の直接引受け、財政ファイナンスもやっていいんだと。
 これは、ニューヨーク州立大、ケルトン先生の記事でございます。この中にもありますけれども、過去の世界の歴史で起きたハイパーインフレ、日本の、先ほどありましたが、戦後直後のハイパーインフレも含めて、ハイパーインフレが起きたのは中央銀行による財政ファイナンスのせいではないんだと、戦争とかいろんな特別な危機の下で、つまり供給が需要に追い付かない、いろんな生産設備が破壊されますので、そういう物の供給不足からインフレになったので、中央銀行の債務や信用拡張とは関係ないということですね。ですから、財政ファイナンスをやっていいと、ハイパーや悪性インフレ、高インフレは起こらないと、起きても制御できるというふうな、そういう理論でございます。
 MMTそのものはそもそも、ちょっと調べてみましたら、私も専門ではありませんけれど、通貨とは何かという純粋な貨幣学説であって、特に何か急に出てきた話ではないということで、ただ、今まで余り注目されてこなかったのが、今、日本とアメリカで大変話題になっていると。
 そのきっかけは、昨年のアメリカの中間選挙で史上最年少の女性下院議員に当選したオカシオコルテスさん、民主党のサンダース派の、民主的社会主義者とおっしゃっているグループの方ですね、このオカシオコルテスさんが、女性議員ですけど、MMTを支持するということで一気に注目をされてきたということでございまして、これは今のところ、出どころからいえば左派の理論なんですね。日本では右派が注目しておりますけれども。
 資料の二枚目に、先ほどございましたけれど、このMMTについて、アメリカのFRBの議長さん含めてそうそうたる、本当にそうなんです、これ何枚も続くんです、著名な学者がみんなMMTを批判をしております。これ財務省の資料で、後でこの問題点も言いますけれど、非常に過剰反応じゃないかと思うくらい、もうことごとくこれは駄目だというふうに批判しているわけですね。
 余りに批判されますので、このケルトン教授というのは、今言いましたMMTの急先鋒の学者さんであって、先ほどのコルテスさんですね、サンダースさんのときもそうですが、コルテスさんのとき、民主党の左派のブレーンみたいな方ですけど、そういう批判が猛烈にされましたので、このケルトン教授は、資料一に戻りますけれども、そのいろんな批判された反論として、日本でやっているんだと、日本で成功しているんだと、実例があるじゃないかということでいろいろおっしゃっているわけですね。だから、もう理論的にも実証されているんだということで、そういう議論があったので、この議論がアメリカから日本に飛び火をして、日本の日銀も含めて今いろんなことになっていると。
 それで、財務省が、要するにどんどん借金しても大丈夫だよというような理論なので、慌てて火消しに躍起になって、財政審で、この三枚目から六枚目の資料ですね、こうびっしり出して、これも過剰反応ではないかなと私思いますけれど、出してきているということですね。
 資料の三枚目に西田さんの有名な決算委員会での質問の答弁が載っているわけですが、これ私、西田さんに大変失礼だと思うんですよね。西田さんの質問を載っけないで答弁だけ載っけているんですよね。面白い、何ですか、天地創造ですか、あっ、天動説か、地動説ね。ああいうのを載っけないで、この答弁だけ載っけて反論だけに使っているというのは、大変議員の質問に対して失礼じゃないかと思いますけれど、非常に過剰反応ですよね、過剰なんですね。
 このMMTの理論の中身は後で触れたいんですけれど、まず、なぜこういう主張が欧米で力を増してきたのかということをやっぱり私たちは考えるべきじゃないのかなと思うんですよね。一言で言いますと、緊縮財政、緊縮政策に対する反発、もうたまりにたまった不満が爆発してきたのではないかと。これは日本でも言えると思います。
 要するに、この二、三十年、日本では二十年ぐらいですかね、新自由主義的なグローバリゼーション、規制緩和、小さな政府、緊縮、財政規律、社会保障を抑制して、増税して、我慢しろ我慢しろと。こういうふうないわゆる緊縮政策に対して、もういいかげんにしろと、政府は国民のためにお金使えと、場合によっちゃ借金してでも国民の暮らしを守れということなんですね。今まで政府が言ってきたような、日本の政府もそうなんですけど、財政規律とか緊縮というのが一体誰のための緊縮だったのかと。
 要するに、小さな政府論があって、富裕層とか大手資本が海外に逃げないとかいろんな、そのために緊縮財政を押し付けてきたんじゃないかというようなことがだんだん分かってきて、そういうことも含めてこういう反発が起きて、ですから、私はこれ、不満の歴史的な爆発というふうに捉えるべきではないかと思うんです、政治的に言えば、歴史的に言えばですね。
 ですから、欧州の左派、イギリスの労働党のコービンさんとか、スペインのポデモスですか、新興左派ですね、で、アメリカのさっき言ったサンダース、オカシオコルテスさんというような人たちが一様にこの緊縮に対する反発、反緊縮という言い方されておりますけど、そういうものとして、対抗軸として出てきたのではないかと思うわけであります。
 実際にこのMMTの理論をどういうふうに政策として採用するのかは、今言ったいろんな国のいろんなやり方がありますけれど、大きなバックボーンとしてこのMMTがあるということではないかと思います。
 ただ、正確に言いますと、コービンさんなんかの政策を見ると、社会政策の方は税制改革でと。つまり、富裕層に増税を求めてとか、歳出の中でやるものは増税、税制改革。で、緩和マネーでやるのは公共インフラ、公共住宅の建設。そこで雇用を生めと、雇用も生めという意味ですけどね。そういうふうにありますけど、いずれにせよ、緊縮財政への反発が歴史的な背景にあるといいますか、あると。
 そこで、日本について考えますと、この財務省の過剰反応も含めて思うんですけれども、日本の緊縮財政の本丸が財務省だというふうに思われているから、西田さんも財務省を主要の敵の本を書かれるわけですよね。そういうことが広がっているわけ、いろんな方からね。
 そういうふうに考えますと、財務省はこれ、ただ過剰反応するんじゃなくて、自分たちがやってきたこと、やろうとしていることをもうちょっと謙虚に反省すべきじゃないかと、まず。このMMTは日本にずっと波及しますよ、財務省が今の姿勢のままですと。
 要するに、財務省は一貫して財政再建至上主義、借金が大変だ大変だと危機感あおって、プロパガンダやって、もう社会保障は削るしかないと、増税しかないんだというようなことをずっとやってきたわけですね。四月の財政審なんかも、あれもう夢も希望もない、国民にとっては。もう気持ちが暗くなるだけの、そんなものばっかり出してきているから景気も悪くなって、マインドも冷え込んで良くならないということになっていると思うんですよね。
 ですから、財務省に聞きたいのは、緊縮財政にこんな過剰反応するんじゃなくて、今の財務省の緊縮政策そのものがもう歴史的に日本では問われていると、そういう認識をまず持つべきではないかと思うんですが、いかがでしょうか。

 

副大臣鈴木馨祐君) 今いろいろと御指摘をいただいたところでありますけれども、例えば、今、高齢化がこれから進んでいくような状況を考えれば、やはり医療の高度化も伴って社会保障全体の費用というのはこれからどうしても増えていく傾向があると、そういった状況があります。さらに、やはり今の景況感、景気の状況を考えたときに、どこまで公助でしっかりと支えていかなくてはいけない状況なのか、これは当然、その時々の景気状況によって我々の打つべき政策変わってくると思います。
 そうした中で、どこに最適解があるのかということを考えて、今しっかりとそうした財政の必要なところ、必要なところをしっかりと対応していくということで今政策を進めているところであります。

 

大門実紀史 そんなことばっかり言っているから、財務省がもう主要な敵になっちゃうんですよね。副大臣財務省出身だから仕方がないのかも分かりませんけれども。
 私は、このMMTの理論の中身というよりも、欧米の場合は左派が多いわけですけれども、こういう政治家の方々の心情というのは、国民の気持ちを代弁していて大変理解できるところはあるわけでございますし、大変共感するところはもちろんあるわけです。当たり前ですよね、目の前で困っている人がいたら借金してでも助けろと、それは政治の役割ですよね。これは当たり前のことでありましてですね。
 あと、財務省にちょっと一言言っておきますと、何でこんな過剰反応するのかなと。私、このMMTの理論は、一つの知的なシミュレーションとしてちゃんと参考にすべきところは参考にして、何も全面否定、こんな全面否定する必要ないんじゃないかと思うんですよね。西田さんが言われた信用創造の話も、先ほどもありましたけれども、当たり前の話をされているわけで、銀行が万年筆マネーで数字書けばそれでお金が生まれるわけですから、それは一つの当たり前の、実務的には当たり前の話をされているわけですね。それを延長するとちょっといろいろ言いたくなるというのは分かりますけれども。
 ただ、いずれにせよ、物事というのはそういう面もあれば違う面も見ると、からも見るということであって、これは一つのシミュレーションとして、この信用創造論、別に新しい話と私思わないんですけれども、天動説、地動説ほどの話だとは思わないけれども、これは一つの考え方とこのMMTの人たちも言っているわけですね。そういうふうに捉えればいい話で、何もむきになって否定する必要ないと思うんですよね。
 統合政府まで、これ、わざわざよくこんなもの資料作ったなと思いますけれども。これ何枚目ですかね、統合政府は資料五枚目ですかね。何でここまで一々やる必要があるのかなと思うんですけれども。要するに、政府と日銀が一体だと考えるとどうなるかということを一つのシミュレーションとしてMMTの人はかたがた言っているわけでありまして、これは要するに、財務省が借金大変だ大変だと言うから、違う考え方もありますよと、こうやって見ればちょっと違う絵柄が見えるでしょうということのシミュレーションであって、何も本当に統合しているわけでもありませんし、当座預金は負債で残りますからね。それをこんな、何か非常に過剰反応する必要は何もないんじゃないかと。財務省の脅しに乗るよりはよっぽど、この統合政府論をいつも描いておいた方がよっぽどいいなと私は思うんでありまして、何もこれもそんな否定するような話じゃないと。財務省が余りにも今まであおり過ぎるからこういう考え方が出てくるんではないかと思いますし。
 先ほどもちょっとありましたけれども、六枚目のシムズ理論、FTPLですね、これも何で一々こんなこと書くのかなと思いますけれども。これも一つの知的シミュレーションで見ればいいんじゃないかと思うんですよね。要するに、これ言っていることは、政府が財政支出を行う、借金して行う、だけど将来増税しませんよ、歳出のカットもしませんよということをコミットしたら人々はお金を使うだろう、景気は良くなるだろう、物価は上がるだろうと。これ一つのシミュレーションで、私は本当にこのとおりいくと思いませんよ、人々の気持ちというのはいろいろありますからね。このとおり動くとは思いませんが、一つの学者さんの意見として、理論として参考にすればいいだけで、シミュレーションとしてですね、こんな一々反応する必要はないんじゃないかというふうに思います。
 ですから、ちょっと過剰反応し過ぎじゃないかなと思うわけですけれども、一つだけ私が思うのは、なかなかMMTの主張に同意できないといいますか、思うのは、やはり中央銀行が財政ファイナンスをしても大丈夫、高インフレは起こらない、日銀はもう既に財政ファイナンスやっているからインフレにもならない、金利も低いんだと。やっているけれどもインフレにならない、金利も低いんだ、だからこれからも大丈夫と。これだけはちょっと違うのかなというふうに大変思っているところでありまして、ここからは西田さんと意見が分かれてくるわけでございます。
 これはもう長いこと、私もう二十年近くそういう議論しているんですけれども、先ほども黒田総裁にMMTどう見るかという質問ございまして、要するに、ちょっと一般的な今までの答弁と同じで、みんなが批判しているし、少数の主張だし、オーソライズされていないということだけでしたけれども、このケルトン先生がおっしゃっているのはそういうことではなくて、実態として。目的じゃないんですね。日銀はそういう目的でやっていません、財政ファイナンスなんか考えておりませんと。それはそういう目的じゃなくて、事実この六年やってきたことは間接的なファイナンスで、しかも巨額の国債保有をしている、しかしインフレ起きていないじゃないか、金利もゼロに張り付いているじゃないかと、この部分がケルトンさんはMMTと、今までのところですよ、少なくとも、同じではないかということをおっしゃっているわけですね。それはもう藤巻さんと私は同じで、同じじゃないかと思うんです、そこはと思うんですね。
 あえて違うと日銀がおっしゃるとしたら、日銀は、この先も絶対高インフレは起こらないとか、財政ファイナンスに発展しても大丈夫だとは思っていないということならば違いますよということになると思うんですけれど、その点はいかがですか。

 

参考人黒田東彦君) 先ほど申し上げたように、MMTの理論自体が必ずしも体系化されておりませんので、なかなかこの評価が難しいということは申し上げたいと思いますが、その上で、この基本的な考え方の、自国通貨建て政府債務はデフォルトしない、したがって財政政策は財政赤字や債務残高なんか考慮しないで景気安定化に専念する、しかも、その際、国債中央銀行引受けで幾らでもやってもハイパーインフレにならないということも言っている人がいるわけですけれども、御承知のように、戦後のインフレの多くが、確かに生産設備が破壊されて供給力が落ちたところに、戦後に、戦争中に抑制あるいは抑圧されていた消費需要がばっと出てきてインフレになったという面があることは事実なんですけど、他方で、やはりその際に巨額の国債をため、それをファイナンスしてきたと。
 御承知のように、アメリカ自体もそういう下で中央銀行が長期国債金利を上げないようにずっとしていたわけですけど、景気がもう良くなっているのにやったということが失敗だったというので、それは五〇年代にやめているわけですけれども。
 いずれにせよ、ハイパーインフレは戦後のそういう時期だけでなくて、途上国ではそこらじゅうでハイパーインフレは起こっています。これは別に戦争があった結果ではなくて、ラテンアメリカとかアフリカとかでいっぱい起こっていますし、アジアでも起こっています。
 ですから、MMTの理論が、財政政策はもう幾らやっても大丈夫で、しかもそれを中央銀行ファイナンスしたら大丈夫、ハイパーインフレなんてほとんどならないというのは実際間違っているわけでして、そこは学者の人がみんな批判する一番大きな理由だと思います。
 それから二番目に、ケルトン教授ほかの人が、日本はMMT理論を実行しているじゃないかということを言われるんですが、私はそういうふうに思っておりません。
 ケルトン教授の理論というのは、要するに、財政はもうどんどんむちゃくちゃ拡張して、それを全部中央銀行引受けで国債を買ってやれればいいんだと言うんですけど、それを日本がやっているかと言われると、むしろ委員が御指摘のように、景気対策ということはやってきましたけれども、やはり財政の健全化あるいは持続可能性を強化するということは歴代の内閣でも、今の内閣でもそうですけれども、重要なことであると考えていますし、それは私は間違っていないと思いますので、ケルトン教授が言っているように、日本はMMTを実行して財政を大拡張して、それを中央銀行が引き受けてうまくいっていると、ハイパーインフレになっていないという議論は、日本がそういうことをやっているわけではありませんので、そのMMTの理論の、何というんですか、正当化するための、実例があるというのは間違っていると思います。
 なお、シムズ教授の理論、議論については私もよく存じておりまして、実際にシムズ教授が講演して話されたのはもう大分前ですけれども、五、六年前ですか、その場におりまして、シムズ教授と話したこともありますけれども、この理論自体はしっかりした理論で、別におかしくはないんですね。ただ、その前提がちょうど満たされるような状況かと言われると、そういう状況になっているところは余りないということでして、前提をきちっと受け入れるときちっとした結果が出てくるということは間違いないので。
 シムズ教授はたしかノーベル経済学賞もらって、期待とかマーケットの話について非常に詳しい人ですけれども、全く理論として間違っていると思いませんし、それはそれで考慮すべきものであると思いますが、MMTについては理論もしっかりしていないし、それから、確かに今委員御指摘のような政治状況の中でアメリカでかなりもてはやされてはいますけれども、アメリカの学者自体がまずほとんど、デモクラットでもリパブリカンの学者でも受け入れていないというのは、やはり言っている、主張していることが理論的に正しくないということがあって言っているんだと思います。
 一方で、委員御指摘のような財政政策に関するリベラルな人たちの不満とか、現に民主党の大統領候補の方々はグリーンニューディールということを唱えて、それを実際にちゃんとインフレとか財政破綻なくできるということを言うためにこのMMTというのを使っているんだと思いますけれども、そういう政治的な、あるいは社会的な背景があるということは委員御指摘のとおりだと思いますけれども、ただ、この理論が正しいとか、あるいは日本がそれをやっているとか、それはちょっと当たらないというふうに思っております。

 

大門実紀史 私、このケルトン先生好きなんですよね。何といいますか、心情的にね、人々を救わなきゃいけないというところからいくとですね。だからこそ、財政ファイナンスしても大丈夫だとおっしゃる根拠は何だろう、何だろうということでいろいろ見てみたんですけれど、はっきり大丈夫だと言える根拠が示されていないというのが今のところ、私の勉強不足かも分かりませんけれど。
 まず思うのは、国債直接引受けと間接引受けはまず大きく違うと思っているんですね、そもそもこの日銀の議論の最初からですけど。銀行から日銀が国債を買うときというのは、既に銀行が国から買っているわけですね。そのときは、銀行は民間の、自分の判断として国債のリスクなりあるいは償還の可能性とかいろんなものを検討した上で市場価値を測って、その値段で買うなら買う、買わないなら買わないと、こう裏付けがあるわけですね、一定、市場のですね。
 ところが、直接引受けになりますと、それとは関係なく、もう政府が発行したら買わなきゃいけないと、こういう仕組みになりますから、市場の裏付けの価値のない国債、つまり通貨も発行することになりますからインフレになると。もうこれ当たり前のよく分かる話で、それがありますから、どうして財政ファイナンス、直接引受けしても大丈夫だと、事実やっているから直接引受けやっていいんだと、ちょっと違うと思うんですけど、その議論もなかなか、どこにも書いてないですね。
 何よりも、ちょっと私分からなかったんで、この新聞記事にあることなんですけど、戦後の、今おっしゃいました戦争とかクーデターでハイパーインフレは起きたんじゃなくて、物不足で起きたんだというようなことなんですね。もちろん、それは物不足もあったと思うんですよ。ところが、それだけなのかということが逆にあって、今言った直接ファイナンスもあるんですけど。
 それで、国会図書館に、このケルトンさんがおっしゃっている、何を根拠にこうおっしゃっているのか、世界各国ではというのを国会図書館に調べてもらったら、この根拠になっているのはアメリカのCATO研究所のワーキングペーパーで、五十六か国におけるハイパーインフレに関する調査というのがありまして、その文言の中に、戦争、政治的失敗等の極端な状況の下で発生したと、ハイパーインフレはですね。で、それしか書いてないんですよね。
 もちろん、その戦争の意味ともう一つ政治的失敗の意味の中に当然直接引受け、ファイナンスがあったんではないかと、時の政府の圧力によって、軍部の圧力とかで国債買わされるわけですからね。ですから、ケルトンさんは別にその文言だけ持ってきて戦争とか何かだとおっしゃっているだけで、中央銀行の信用膨張が関係ないんだという実証は何もないということが分かったんですよね。
 あと、もう一つ気になるのは、これ、民主的な政府ならば、民主的な政府では起きないと。実は、第一次世界大戦の後のドイツでハイパーインフレ起きましたよね。あのとき、ワイマール共和国ですよね。世界で最も民主的と言われた国でしたよね、当時ですね。だから、その意味は分かりませんけど、これは恐らく、理想的な政府、非常に賢い人たちが運営する理想的な政府で、しかも統制経済的な運用ができる、その世界ならばハイパーインフレを起こさず、あるいは起きても止めることができるというようなことの意味かなというふうに善意に解釈して思うところでございます。
 あともう一つは、ちょっといろいろ疑問点あるんですが、いずれにせよ、こういう方々がおっしゃっている意味、最初申し上げましたけど、今の緊縮財政そのものがやっぱり根本的に問われていると。やっぱり税制改革含めてもっと人々のためにお金を使うような、税制改革含めてやらないと違う話になってきて、私がそれともう一つ思うのは、このMMTの理論がこれから、今までの日本を思うとどう影響するかというと、本当に人々のための財政支出、例えば社会保障とか生活予算とかに財政支出が回ることに使われるんだろうかと。ひょっとしたら、要するに、もっと借金していいですよと、あと百兆、二百兆大丈夫ですよと、ここだけが、都合のいいところだけが利用されて、結局新幹線造ろうとか公共事業もっとやっていいとか、そちらの方に使われてしまうんじゃないかと、MMTの理論は、善意としても。(発言する者あり)社会保障は、やっぱり私、社会政策だから、歳出の範囲で税制改革をやるべきだと思っておりますので。
 で、公共事業を全部否定しているわけではありません。重要な公共事業もあります。必要な新幹線もあるでしょう。住民のための公共住宅の建設だって必要ですよね。あと、投資、収益、効率を見てですね。否定するわけじゃありませんが、この理論が、結局今の安倍内閣の下では、財務省だけの責任じゃありませんで、安倍内閣の下では結局はそちらに使われて、国民のための、だって社会保障ずっと削ろうとしているじゃないですか。(発言する者あり)と言う人もいるんですけど、全体はそうなっていないですよね。だから、そういうふうに危険に、何というのかな、危なく使われる可能性があると。だって、今までのリフレ理論も、いろんなこと言っていましたけど、結局株価上げるために使われたんじゃないかと私は思っておりますので。
 政治の場というのは大変怖いものがありまして、学者さんたちの知的なシミュレーションとかいろんな研究のいいところだけ切り取って使うというのはこの国会の常でございますので、そういう点は非常に警戒をしているわけでありますが、こういうふうに日本もMMTをやっていると言われるぐらい、やっぱり日銀の政策というのは行き詰まっているし、逆に言うと、出口に向かうなと、向かわなくていいためにこういう話が出てきているというふうにも思うわけですよね。
 ここはしっかりと、何度も提案しておりますけど、量的緩和、正常化の道にきちっと踏み出すべきときにやっぱりこういう面からも来ているんじゃないかと思いますが、黒田総裁、いかがでしょうか。

 

参考人黒田東彦君) 現時点で、展望レポート等にも示されておりますとおり、二%の物価安定の目標に向けたモメンタムは維持されていますけれども、それまで、達成されるまで、従来考えていたよりも少し時間が掛かるということでありますので、現時点では、この長短金利操作付き量的・質的金融緩和の枠組みの下で強力な金融緩和を引き続き続けていくということになるということであります。
 ただ一方で、二%の物価安定目標が実現すると、そういうような事態に近づいてきた場合には、当然出口について政策委員会でも議論しますし、私どもからもその出口への具体的な考え方についてはコミュニケーションを取っていきたいというふうに考えております。

 

大門実紀史 終わります。

 

黒木智子のどこがいいのか

 『私がモテないのはどう考えてお前らが悪い!』の主人公・黒木智子はずっと一人ぼっち(「ぼっち」)であることをネタにしてきたマンガ作品だが、ここへきて奇妙な形で次々と友人ができはじめる展開になっている。その様は「コミュニケーションの牢獄」である高校生の教室空間において、一種の人間関係のユートピアともいえる状況を呈していて、感動を覚えずにはいられないというのが正直なところである。

 

 

 

 虚構なんだから設定の中の「現実」についてまじめに考えてもしょうがないとは思うんだけど、どうして黒木のまわりに人が集まりだしたのだろうか。

 

 例えば、ネモがゆりに自分のことを嫌いなのかを正直に聞くシーンがある。

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谷川前掲書、p.105

 上図の通り、ネモは嬉々として(というか興味津々で)それを聞いているのである。「普通の答えじゃないね」とネモが言っていることからもわかるように、ネモが黒木周辺の人間関係に惹かれるのは「普通じゃないから」である。

 「普通じゃない」ことはネモにとって「面白そう」なのである。

 例えば下図でもネモはそのように告白している。

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谷川前掲、p.30

 アニオタで声優志望であることを隠してきたネモは、空気を読んで本音を隠しあうグループを「普通」であると感じ、それを「面白くない」退屈な集団だと思い始めたのだろう。15巻には、中学時代に人間関係で傷ついて疲れてきた歴史が描かれ、高校に入ったらそういう目に遭わないために空気を読んでうまくやろうと決意するエピソードが描かれている。

 

 13巻では黒木が少女マンガ批評をするシーンがある。少女マンガにありがちな展開を批判することがそのまま現実の教室の友情道徳批判になっている。下図の通り、その批評は、普段滅多に反応しないはずのゆりが同意をわざわざ表明するほどの鋭いものとして映った。

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谷川前掲、p.123

 ここのコマの運び方の雰囲気が決して真面目すぎるトーンではなく、どちらかといえばギャグっぽく描かれ、黒木のセリフもまったくしんみりせず、ニュートラルな印象を与えている。それが可笑しみとともに、冷静さをぼくらに印象づける。

 黒木は腐りきった(いろんな意味で)クズであるような側面も持つけども、それはクールな観察眼、相手への容赦のない批評性の裏返しであったりもする。

 14巻で、人の性格をじっくり見ながら本を勧める黒木の姿にぼくは驚いた。

 あっ、こいつ気遣いをしている……という驚きでもあるが、オタクとして自分の得意領域ではついつい黙っていられなくなり、親切心のようなお節介を発揮してしまう調子がよく出ている。そして下図の通り、黒木の顔はドヤ顔でもないし、にやけ顔でもないし、むしろやや真面目寄りの価値中立的な表情をしている。

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谷川前掲14巻、p.39

 黒木の周辺に「普通じゃない人」=「面白い人」が集まってきたのは、そのコアに黒木のクールで、時に陰湿な批評眼があるからじゃないのだろうか。それが人をラクにさせたり、楽しくさせたりする。

『響』と『月と六ペンス』

 天才的な高校生の小説家を描いたマンガ、『響』について、つれあいは「たかが高校生に芥川賞はともかく直木賞を取れるような文章が書けるはずがない」「しかも本人に社会性がなく、経験もない。世事に疎そうだし」という批判をした。

 

 

 

 

 年齢については一見説得力のあるところだが、朝井リョウ直木賞を受賞したのは23歳だそうだから、高校生が受賞することはそれほど無理な話とも思えない。

 

 こうしたつれあいの批判以外にもAmazonのカスタマーズレビューにも批判はたくさん上がっていて、例えばこうだ。

2巻まで読みましたが、駄目ですね。
肝心の、主人公の少女の書く小説がどう凄いのか読んでもさっぱりわからないので反応に困ります。グルメ漫画で例えると、変わり者のシェフがこしらえた料理の、絵も一切書かず、どんな味なのかも説明せず、ただひとこと「美味い」とだけ言うようなものですからね。

https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R1BEWT12U8MG84

 そのこと〔本が作られるまでの苦労――引用者注〕に敬意を払わず、自分の感性とやらにのみ従って暴言を吐き暴力行為で物事をすすめようとする響には虫唾が走るだけで全く魅力を感じない。どうせなら人間性に多大なる問題があったとしても、本だけは愛するという信念をもっていてほしかった。

https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R123N0X70RAPVW/

才能があれば何をしてもいいのだ!!!というのなら、その才能の片鱗でも見せてくださいよね。思いつかなかったのでしょうが。

https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R1R9XU16TJXUHW/

 

 「天才の片鱗(小説の中身)を示せ」という批判、性格がひどすぎるという批判が多い。

 しかし、こうした批判は、天才画家の生涯を「私」と称する作家の目を通して描く、モームの『月と六ペンス』を最近読んだばかりのぼくとしては、「いやこれはぜんぶストリックランド(モームが同作で虚構として描いた天才画家)の描写に当てはまるよね?」という反論を思い浮かべてしまう。

 

月と六ペンス (光文社古典新訳文庫)

月と六ペンス (光文社古典新訳文庫)

 

 

 

 まじめ一徹で無骨で無趣味な株の仲買人だったはずのストリックランドはなんの前触れもなく妻子を捨てて出奔。「私」が探し出して問い詰めても、人が変わったようになり、意に介する様子もない。

「ご婦人を無一文で放り出すなんて、とんでもないことですよ」

「なぜ」

「奥様はどう暮らしていけばいいんです」

「十七年も食わしてやったんだ。そろそろ自力でやってみてもいいと思わんかね」

「無理です」

「やらせてみるさ」……

「奥様がどうなってもいいんですか」

「いいとも」(モーム前掲書、p.81-82、土屋政雄訳、光文社)

 

 絵の描写はあることはある。しかし、これはAmazonのレビュアーたちが求めていたような「天才の成果物の描写」と言えるだろうか。

 ストリックランドの絵の天才性を知る数少ない一人、売れっ子だが凡人の画家・ストルーブの言葉だ。

 

「すごい絵だった。大傑作だ。ぼくは打たれた。もう少しで恐ろしい罪を犯すところだった。もっとよく見ようとして近づいたとき、何かが足にぶつかった。見たらスクレーパーで、身が震えた」

 ストルーブの感動の一部が私にも伝わってきて、不意に別世界に連れていかれたような不思議な感覚にとらわれた。そこは価値観の異なる世界だ。見慣れたもののはずなのに、引き出される反応がまったく違う。土地不案内の私は、ただ途方にくれて立ちすくんだ。ストルーブは絵のことをしきりに話してくれたが、言葉は支離滅裂で、何を言いたいかは私が想像するしかなかった。そして自分自身を見つけた、とも言った。いや、そんな手垢のついた表現では間に合わない。そうではなくて、思いもよらぬ力を持つ新しい魂を発見した。大胆に単純化されたデッサンからは、豊かで得意な個性が見て取れる。だが、それだけではない。色使いは肉体に情熱的なまでの官能性を与え、奇蹟的なまでの何かをとらえ得た。だが、それだけでもない。中身の詰まった肉体は圧倒的な重量感で迫ってくる。だが、それだけでもない。そこには、見たこともない、心を騒がせる精神性がある。それは見る者の想像力を思わぬ方向へいざない、薄暗い虚空へと導く。永遠の星明りで照らされるだけのその虚空で、人の魂は赤裸となり、新しい神秘を見つけようと恐る恐る足を踏み出す……。(前掲書p.249-250)

 正直、モームがこの作品で絵を形容するくだりは、こんな調子だ。「舞い上がった表現」「三文小説的表現」と自嘲気味に書いている通り、少しでも条理のある描写は期待できない。

 だけど、それでいいのである。

 『月と六ペンス』という小説を読んで「天才の絵画」そのものを見たいわけではないのだ。むしろストリックランドという天才と呼ばれている人の凡人との距離を見たいのである。

 絵についていえば、『月と六ペンス』には、お金に換算するエピソードが随所に出てくる。生きているうちにはまったく評価されなかったストリックランドの絵だが、死後莫大な高値がつく。そのことをすでに知っている現在の「私」は、後で高値がつくとも知らない絵を、ストリックランドを取り巻く世間の人々が二束三文で取り扱おうとする皮肉を、その時の値段の比較によって表すのだ。その通俗性こそ、痛快なのである。

 

 ちょうど『響』における鮎喰響の天才が、小説の言葉ではなく、数々の賞、世間的評価、群がってくる金銭話によって表現されるのに似ている。

 そして、人格の欠片すら見出せない傍若無人なストリックランドと、自分の尊厳に対して異様にセンシティブでその侵犯に対して極端な暴力で反発を表す響とは、どこか通底するものがある。

 

 ただ、『月と六ペンス』と『響』はやはり違う。

 『響』のどこが面白くて読んでいるのかといえば、響その人というよりも、響によって照らし出される凡人たちの凡才ぶりであり、天才という狂気に群がる金銭欲の通俗ぶりなのである。主人公はむしろ響ではなくその周りにいる人々だと言える。

 そこそこ才能があり、本当ならもっと注目されていいはずのリカが響に抱く劣等感やコンプレックスが、ぼくにとっては特に興味を引く。あるいは、受賞ができるかどうかという次元で悩んでいる作家たちと、ただ小説というものをひたすらに突き詰めようとしている響との差。天才の周辺を照らす役割としての天才――それこそが『響』の魅力ではないのか。

 『月と六ペンス』では売れっ子だが、平凡極まる絵を描いているストルーブの存在がそれに似ているが、あくまでそれはストリックランドの引き立て役でしかない。主人公はあくまでもストリックランドなのである。