新語・流行語大賞トップテン「ご飯論法」受賞でのスピーチ

 『現代用語の基礎知識』選、ユーキャン 新語・流行語大賞トップテンに「ご飯論法」が選ばれ、ぼくは、上西充子教授と共同受賞させていただきました。

 その時のぼくのスピーチを下記の記事から転載しています。書き起こしありがとうございました。

note.mu

 ぼくは、今年の重大なニュースの一つが、森友問題に関わる公文書改ざんの発覚だったと思っています。民主政治の危機です。そのことに関わる言葉としてスピーチできたのは意義のあったことだったなと思っています。

 なんども言ってますけど、この論法についての発見は上西さんによるものでした。論法として問題を提起することで、相手がすり替えようとしているものが見えてきました。

紙屋高雪のスピーチ(書き起こし)

 ブロガーの紙屋と申します。今日、選んでいただきまして、どうもありがとうございます。


 今日、話を聞くと、他の国語辞典(大辞泉)でも(「新語大賞」の「次点」として)この「ご飯論法」を選ばれたっていう話を聞いてて、ちょっと私自身もびっくりしています。

 といっても私自身は、上西さんの話をツイッターで「ご飯論法」と名前を付けただけなんですけども、ただ聞いた時にですね、初めて「あ、これ森友の問題でも、加計の問題でも、すごくよく見る論法だよね」と。政権全体にこれが広まってるんじゃないかと、すごくビックリした記憶があります。

 例えば、森友問題で佐川さんっていう財務省の局長だった人がいますね。あの方が「文書は、捨てたことは確認しました」という答弁をしたんです。その時に、その後文書が出てきちゃって、「あなた、確認したって言ったよね」と証人喚問で追及されちゃったんです。その時に佐川さんが「いや、確認したっていうのは、文書を1年で捨てるという、そういうルールを確認した、そういう意味なんですよ」っていう言い訳をされたわけですよ。つまり「私、一般的なルールを確認しただけであって、実際に文書を捨てるところを目で現認したわけじゃありませんよ」という、そういう開き直りをやったわけです。

 これ、典型的な「ご飯論法」だなというふうに思いました。「ご飯」という言葉をすり替えてやるのと同じように、「確認する」という言葉をすり替えてやるっていうやり方ですから。調べてみると官房長官もやっているし、首相秘書官も、さっきもありましたけれどもやってるし、政権全体に広がっているわけですよ。

 昨日、ちょうど M1グランプリがありましたけれども、その言葉のすり替えでコントやってるみたいなもんなんですね、これ。政権全体がコントやってるみたいな。だから、もともと昔から官僚っていうのは、あいまいな答弁とか、ちょっと小難しい答弁をするっていうのはやってたんですけれども、そういう「わかりにくい答弁」じゃなくて、言葉をすり替えて「嘘を言う」、「フェイクを言う」、そういうやり方だと思うんです。

 だから国会の答弁というのは、民主政治の基礎になっているので、それが、フェイクが積み重ねられていっちゃうとですね、政治全体がフェイクになっちゃう、そういうふうに思います。なので、そういうところの危機感が、「ご飯論法」と聞いたとき、最初笑われる方もいらっしゃると思うんですけども、「実はそれは笑い事じゃないんだな。恐ろしいことなんだな」という、そういう危機感が今回、こういう形で選ばれたり、受賞につながったのかなというふうに思っています。

 どうもありがとうございました。

『ポプテピピック』を一言で紹介できんかった

 テレビにインタビューされる機会があり、「何を読んでいるんですか?」と言われ、ちょうど電子書籍で『ポプテピピック』を読んでいる最中だった。

 

 「それはどんなマンガですか?」と問われ、返答に窮した

 喘ぐようにやっと絞り出した一言が「……シュールなギャグの4コマです」。

 くわー、情けねえ

 何が「マンガ評論家」だ。

 しかも、小5の娘とセリフの掛け合いをやって遊んでいますと言ったもんだから「じゃあ言ってみてください」と言われ、悩んだ挙句、

 「もしもし ポリスメン?」……。

 伝わんねえ。全然伝わんねえよ。

 その前の3コマのセリフも言おうと思ったけど、いっそう訳わかんねえ。

 そのあと、「はいクソー」「二度とやらんわ こんなクソゲー」のやつも紹介して、俺が「はいクソー」というだけで、後の3コマのセリフと所作を娘がやるのが、面白くてたまらんと思っているんだが、そんなニッチな親バカ事情、心底どうでもいいわと全視聴者が思うだろうなと心が震えた。

 

 『ポプテピピック』の紹介は難しい。

 ハイコンテクストな笑いなのだ。

 本質を一言で言わなくてもいい。

 一般の人に、面白さの一端がわかるように伝えるにはどうしたらいいかということだ。

 あなたも『ポプテピピック』の短い紹介を考えてみよう。

 

 結句ぼくが考えたのは、

主人公がサンリオのキャラクターみたいなかわいい顔をしているんだけど、その表情が全く変わらずに、かわいい絵柄のまま、グロいことを言ったり、野蛮なことを言ったりする

というものだ。

 どうかな。

 ダメか。

 

宮崎賢太郎『潜伏キリシタンは何を信じていたのか』

 潜伏キリシタンは、潜伏しているうちにその教義の本質がわからなくなって、民間信仰などと融合してしまったのではないか、というのが本書の趣旨である。というかそもそもキリスト教への改宗自体が領主の方針変更であったに過ぎず、住民はよくわかっていなかったというところが出発点だったとさえ主張している。

 

潜伏キリシタンは何を信じていたのか

潜伏キリシタンは何を信じていたのか

 

 

 ニューロック木綿子『そのとき風がふいた ド・ロ神父となかまたちの冒険』(オリエンス宗教研究所)には、江戸末期に開国後にやってきたキリスト教の神父(プティジャン)が鎖国前から伝えられてきた『どちりなきりしたん』というキリスト教の平易な教理書が正確であることにおどろくシーンがある。

 

 

 そして何よりも依然禁教下であるにもかかわらず、潜伏していたキリシタンたちがプティジャンを訪れ、「ワレラノムネ アナタノムネトオナジ」と信仰の秘密を表明するシーンが前半の山場として描かれている。

 『そのとき風がふいた』で主張されていることは、禁圧されていた日本のキリスト教は、キリスト教の教会体系と再び出会うことを待ち望んでいたということであり、それはとりもなおさず、キリスト者としての信仰の本質を失っていなかったということである。

 もし、信仰の内実を失って土着化していれば、このようなエピソードはありえなかったのではないか、と。

 

 他方で、『潜伏キリシタンは何を信じていたのか』を読むと、個々の儀礼や信仰イベントがいかにも形骸化しているようにも感じられた。

「お札様」も、生月と平戸にのみ伝わるもので、カトリックの「ロザリオの十五玄義」 に由来している。お札様は、キリストとマリアの生涯の主な一五の場面の意味を短く小木片に墨書したものである。「御喜び様」五枚、「御悲しみ様」五枚、「グルリヤ(栄光) 様」五枚の計一五枚に、ごあん様・おふくろ様・大将様・朝御前様などと呼ばれる「親札」が一枚加えられ、 一六枚一組となっている。お札様は典型的なカトリックの信心用具であるが、本来の使用目的がわからなくなり、三種類の記号と、一から五までの数字が札に書かれているところから、いつの頃からか運勢を占う「おみくじ」として使用されるようになった。表面的にはカトリック的な姿を残しながらも、本質的にはきわめて日本的な民俗宗教らしい素朴なものに変容しており、カクレキリシタン信仰の実態を如実に示す好例となっている。

宮崎賢太郎『潜伏キリシタンは何を信じていたのか』(角川学芸出版)KindleNo.2553-2560

 どちらが本当なのか。

 ぼくの実家は浄土宗だが、般若心経を読んでいる。浄土宗ではあまり使われないお経だと聞いている。そして、そもそもうちの父母は浄土宗がどんな宗教なのか知っているのか。いや、それどころか、仏教とはどんな宗教だと思っているのだろうか。

 ぼくが「般若心経を現代語訳したものを読もうか」と提案したとき、「いやお経というのは意味がわからないからありがたいのだ」と平然と述べたのが父だった。

 そして、父母が仏壇の前で毎日お経を唱えるのは、祖先信仰の気持ちからであってそれ以上でもそれ以下でもない。

 だとすれば、わが父母は仏教徒ではないのだろうか?

 

 中園成生『かくれキリシタンとは何か』(弦書房)では、神道や仏教と並存していた点を指摘している。これは日本人に今でも広くある宗教的態度で、仏壇を拝んでいた人が神社に初詣に行き、クリスマスを祝うというようなものである。

 

かくれキリシタンとは何か《オラショを巡る旅》FUKUOKA U ブックレット9 (FUKUOKAuブックレット)
 

 

 しかし、中園はキリスト教信仰の本体部分自身は、かなり忠実に継承されていたという旨を書いている。これは、プティジャン神父が『どちりなきりしたん』を読んで中世の教理がそのまま保存されていることに驚いたことに符合する。

 宮崎は、キリスト教信仰の本体が変容してしまっていると指摘するから、ここでは中園との主張の間に齟齬があるように思われた。

 中園はおそらくこうした禁教期変容論を意識して次のような批判をしている。

かくれキリシタンの定義から考えた時、ひとつ大きな問題としてあるのは、変わった記号や文字が刻まれた墓とか、異形の石像とか、由来が分からない陶磁器製の慈母観音像を、十分な根拠もなく、かくれキリシタン信仰に関する証拠として取り上げていることがあります。これらの資料の存在の前提になっているのは禁教期変容論です。……現存するかくれキリシタン信者が、そうしたものをかくれキリシタン信仰に用いた事は確認できません。これらはとどのつまりは、現代人の印象のみが根拠となっていて、学術的な裏付けを欠いています。(中園前掲p.52)

 ぼくは、別に学術的な議論をする力もないので、読んだ上での印象を以下に記そう。

 結論からいえば、禁教期にキリスト教の本義が忘れられて土着色が強くなった信仰エリアは存在するのであろう、ということである。だけど、だからと言って、それはキリスト教でもなんでもない、と言っていいかというと、うちの実家のように現場の宗教感覚なんてそんなものだろうから、もともとの教義・教理にまでさかのぼって「そんなのはキリスト教じゃない!」とまで否定するのはどうなのかなと思う。

 他方で、プティジャン神父の前に信仰を告白しに現れたような信者などは、相当に教義本体を守り続けてきたんじゃないかという印象があった。

 潜伏キリシタンは禁教期終了後、カトリックの教会の体系に復帰した部分と、独自の信仰を続けていった部分(後者を「かくれキリシタン」と呼ぶ)に分かれたが、大ざっぱにいえばそのような差となって現れたのではないか。

 

ティリー・ウォルデン『スピン』

 この作品を読もうと思ったのは、(2018年)4月15日付の読売で、朝井リョウが書評をしていたからだった。

 

スピン

スピン

 

 

 

 22歳の著者は5歳からスケートをはじめ、スケーターになるつもりだったが、それがかなわぬものとなるまでに起きた出来事を描いている。

 

 朝井はこう書いた。

 

主人公が同性の友人と初めて唇を重ねる場面がある。その直後の心情が表された頁を見たとき、私は瞼を閉じた。いま両目を満たした予想外の表現を、世界を見つめる新たな視点として体内に染み込ませるために。(朝井前掲記事)

 

 ぼくもそこに興味を惹かれて読んだ。

 ここからネタバレがある。

 

 

 

 

 ただ、朝井が「予想外の表現」としてそのネタバレをわざと伏せているのは、絵画表現を含んだものだと思うから、筋だけは追わせていただく。どんなふうに表現されているのかは、ぜひ実際に読んでみてほしい。

 

覚えているのは

スリルでも自由な感覚でもなく――

恐怖だった(本書p.203)

 

 恐怖だというのだ。

 テキサスで同性愛者でいるということは恐怖である、と。

 少女が恐怖を覚えた理由は、YouTubeで見たヘイトビデオやヘイトの存在だった。

 でも主人公は、その気持ちを「おさえこんで」、「ただこの子と一緒にいたいだけ」という気持ちでまたキスを繰り返す。

 そこにあるのは、高揚じゃないのか?

 ヘイトがあるといってもそれを超えて高まる恋愛感情に身を委ねる「スリル」じゃないのか? 「自由な感覚」じゃないのか?

 違う。作者ティリー・ウォルデンは、わざわざそれらの感覚を否定して「恐怖」だと書いている。

 

 それほどまでに同性愛に踏み出すことは、この地では恐ろしいのか。

 でも、読んでいてぼくにはその恐怖は、そのコマ以外には伝わってこない

 むしろ、相手に出会え、ずっといられることに対する高揚が伝わってくるのだ。しかもその高揚には見覚えがある。大人になってからのセックスを介した関係ではなく、ただベッドの上で無駄話をしたりゲームをしたりじゃれあったり抱き合ったりキスをしたりする、友達なのか恋人なのか境目がない、子どものような関係。

 見覚えがあるというのは、子どものときに同性の友だちとキスはしなかったけど、じゃれあって、ずっとそんな感じで過ごしていたな、という感覚だ。

 だから、ぼくは朝井の言うことには半分同意するけども、半分は同意できない。

 朝井はそこを想像したのだろう。これが恐怖の上に成り立つ関係だと。

 だからこそ朝井にとっては、このコマの表現は、「世界を見る新たな視点」とまで言い切れるのに違いない。

私は、物語を読む歓びの一つに、世界を見つめる視点が増えること、があると思う。性別、国籍、世代、文化、様々な立体物である世界を多角的に見つめられるようになる。その行為は時に思いやりや想像力という名で、自分自身や自分ではない誰かを肯定する豊かさを形成する。(朝井前掲)

 ぼくにはここまで「新しい視点」を獲得することは、できなかった。ぼくは自分の中のノスタルジーでこの本を読んでしまったのである。

 だから、主人公がやがて訪れる「恋人」との破局に出遭うシーンも、それが「恐怖」に取り巻かれた「もろい」関係の結果だったという想像にはあまり立てなかった。同性愛関係を知った相手の母親が二人の仲を引き裂き、それを告げるためにかかってきた恋人からの電話の「問答無用さ」にぼくはまたしても見覚えがあった。

 抗議しようと思っていたが、なんの抗議もできず、大人の「問答無用さ」に押し切られる自分の無力さに見覚えがあったのだ。

 だからこの電話シーンの最後のコマで、別に大ゴマでもなんでもなく、連写された一つのコマの片隅で涙を流しながら電話を流す主人公に、無力のリアルさを見た。

 ここでも、ぼくは「恐怖」を想像するのではなく、自分の思春期に重ねて読んだ。

 

 読後に改めて朝井の書評を読み返し、ぼくは自分に驚かざるを得なかった。

 それは、何度も言うようだが、ぼくはこの本を思春期の無力さやあがき、自分へのいたたまれなさ、浮き沈み、そういう自分に重なるものとして読んだのである。なので、自分が十代に戻ったかのような読書時間を過ごすことになったのだが、朝井は「世界を見る新たな視点」とまでいっており、あまりにもそれとかけ離れていることに驚いたのである。

 

 あなたは本書をぼくのように読むか、それとも朝井のように読むのか。

 

 

アパートの家賃値上げに応じないと立ち退きか

 アパートの家賃値上げに応じないと立ち退きか――こういうタイトルの電話相談と回答が今日(2018年10月10日)付の「しんぶん赤旗」に出ていた。

 

 前、この話は聞いたことがある気がする。

 だけど、忘れていた。

 実は、今借りている家の老朽部分をまとめて改善を要求しようと思っているんだが、もし「じゃあ家賃を値上げする。嫌なら出ていけ」みたいに言われたらどうするんだっけ? と疑問に思って調べた記憶があるのだが、忘れてしまった。

 あと、1年前に契約の更新があって、その時も「家賃を上げたい」と言われたらどうするのかと思って調べたような気がした。でも忘れてしまった。

 今日の電話相談は、忘備録的に大事だと思うので、書いておく。

 アパートに35年すみ、大家からの書状には次の更新時に20%引き上げると書いてある。パートで暮らしていて払えないのでどうすればいいかという相談だ。

 回答しているのは平井哲史弁護士。

居住用に建物を貸している場合、建物の賃貸借契約の更新を拒絶することは、正当な事由がなければできないのです。(裁判例や旧借家法1条の2、現在の借地借家法28条)……借り手側に家賃の滞納などがなければ更新は認められます。

 相談者は「次の更新のときはどうすればいいか」と尋ねる。

 従来の契約条件で更新したいと要求できます。増額後の家賃を示されても「納得できないので払わない」と言ってください。

 もし家賃を上げないなら契約更新をしないと言われても、法定更新といって当然更新するので、これまで通り家賃は納めてください。……家賃の受け取りを拒まれた場合は法務局に家賃を供託する必要があります。必ず供託してください。 

 

 ただ、更新時でない場合の「正当な事由」というものがどうなるのかは議論があるでしょう。そこもこの相談は回答していますが、要するに、大家側から「近隣の相場と比べて低すぎる」などの証拠を示して裁判所などに調停を申し立て、協議しないといけないようなのだ。

 つまり家賃値上げは一方的なものではないのである。

MAAM、サンドロビッチ・ヤバ子『ダンベル何キロ持てる?』


 昨年の10月に筋トレを始めて、約1年になる。
 この記事を書いてから10ヶ月だ。
http://d.hatena.ne.jp/kamiyakenkyujo/20171218/1513606602


 インフルエンザの時以外、週に1日だけ休みをおいて、ほとんど毎日欠かさずやっている。もちろん、その時書いたように、毎日トレーニングする部位を変えている。内容は色々工夫して筋肉が慣れてしまわないようにした。NHKの例の動画も参考にしてな!
 そして、トレーニングの後に、プロテインを飲むようにした。
 自分の実感としては見た目に筋肉がついた。変化がわかるのは自分だけだが……。つれあいや家族は「……そう……?」みたいなうっすい反応


 この前保育園の卒園した同じクラスの人たちと旅行に行ったときに、一部のパパたちと筋トレ話でむちゃむちゃ盛り上がり、彼らの「いやー紙屋さん、体つきが違ってたと思いましたよ、ホント」という、こちらの押し売り質問に対する「お……おう」的な当惑返答にも最大限に気をよくして、日夜トレーニングを続けている。


 「自重筋トレはすごくいいですよね」とホメてもらいつつも、「週に一度ジムに行くとさらにいいですよ」ともっとホメて伸ばすかのごとくの他のパパたちの反応。


 筋トレにハマる人がいるというのもわかる気がした。
 確かに「筋肉は裏切らない」ように思えてくる。鍛えただけ体が対応力を高めたり、見た目に筋肉がついたりすると、嬉しくなるのだ。



 さて、そこで本作である。
 筋トレをする女子高生の話で、「筋トレについての知識披露を、女子高生のビジュアルでやったらいいんだろ?」というエロ目線で発想されたようにも思うのだが、個人的にはそこには全然反応しない。
 ガチに筋トレの知識を得るつもりで読んでいる。
 例えば、2巻に出てくるレッグカール。
 脚の太ももの裏側の筋肉をどうしたら鍛えられるかと思っていて、前の記事の比嘉一雄の本では「スティッフド・デッドリフト」を勧めていてそれをずっとやっているのだが、プッシュアップをやった後のようなじんじんくる感じや「追い込まれた感じ」がないので、いまひとつここが鍛えられている実感が弱いのである。
 そこにレッグカールである。ハムストリングスを鍛えるにはこれがいいと書かれている。

 「き……きっつ…! 見た目より全然きついわ…」という登場人物の一人(立花里美)のキツそうな描写に、逆に「おお、これは効きそうじゃん」という垂涎を覚えてしまう。


 3巻で出てくる「猫背」も気になっていた。
 結局猫背を治す特効薬的なもの(どこかの筋肉を鍛えれば自然に治る……的な)はなく、

猫背を解決するには、日常から胸、肩甲骨のストレッチを行い、筋肉を動かすように心がけましょう。単純ですが、生活習慣を改善することが猫背解消の近道です。

とあり、逆にこれに大いに納得した。というのも、結局胸を張ったり、肩甲骨を寄せたりするしかないのかなと思っていたからである。


 4巻の「わき腹」を鍛えるサイドベントは、器具がなくてもできる上に、これまで鍛えていたのとは違う部位の筋肉だし、買い物袋とかを負荷にしてできそうなので、参考になる。
 ここでも登場人物の一人、愛菜るみかが、

こ、これ…! 見た目より全然キツいかも…!

と汗ぐっしょりに言うのが、たまらない。あー、効きそう、とか思ってしまう。



 てな具合に、日常に実際に筋トレで使う知識として本書を読んでいる。

筋トレを続けるコツ

 まだ1年しか経っていないのに、「筋トレを続けるコツ」などとドヤ顔で言うのもアレだが、言う。言わせてもらう(ドヤ顔)。
 「疲れた時はプッシュアップ1回でもいい」。
 これだね。
 これはスティーヴン・ガイズ『小さな習慣』(ダイヤモンド社)に学んだものである。つうかパクリである。

 ガイズが言うには、習慣にしてしまうには、モチベーションに頼っていてはダメで、とにかくやり始めてしまうことが大事だということ。小さな習慣にしてしまえば、少しはやるようになるからである。「プッシュアップ1回だけ」でもいいのであれば疲れ切ったときでもプッシュアップしようと思う。そしてやり始めしまったら「……まあ、1セット(15回)やっとくか」と思い、1セットやってしまえば3セット行ってしまうのである。
 でも、あくまでそれは副産物であって、決して欲張ってはいけない。
 「1回でもいいんだ」ということを自分に言い聞かせて習慣化させるのである。

ロバート・ライト『なぜ今、仏教なのか 科学の知見で解く精神世界』


 仏教は、湧き上がる不安や欲望――つまり「煩悩」をどうコントロールするのかという無神論の精神管理技術じゃねーのか、ということをブログでもくり返し書いてきたんだけど、
http://d.hatena.ne.jp/kamiyakenkyujo/20151025/1445776901
http://d.hatena.ne.jp/kamiyakenkyujo/20180224/1519454846
http://d.hatena.ne.jp/kamiyakenkyujo/20180403/1522728098

それは別にぼくオリジナルの大発見とかいうわけではなく、すでに初期仏教の核心だけを取り出して現代化した「西洋仏教」ではフツーの解釈(無神論であり瞑想を中心とした宗教)なのだとこの本を読んで今さらに知った。


なぜ今、仏教なのか――瞑想・マインドフルネス・悟りの科学 本書(熊谷淳子訳、早川書房)はこの立場をさらに徹底している。
 ダーウィンの自然選択とか、心理学上の成果をちりばめながら、欲望や不安を解釈し、その管理技術として、仏教の世界観と瞑想技術はまあ役に立つよ、ということを書いている。
 しかも本人は「俺は悟りを開いたぜ」「瞑想の天才だよ」的なドヤ顔トークがまるでなく、むしろダメ瞑想参加者、悟りとは程遠い人間として語っていて、逆にぼくのような「無宗教現代人」が読んだ時に宗教書としての説得力は格段に大きくなっている

日経の書評を読んで読もうと思った

 もともとこの本を読もうと思ったきっかけは日経(2018年9月1日付)の書評だった。本書の核心部分がとても短い言葉ですぐれた要約がなされているので紹介する。

 私たちの心はいくつもの「モジュール」でできており、それらが常時主導権を奪い合っている。また何かを知覚するときに善しあしの価値判断を抜きにすることはできない。人間の心はそういう挙動をするようにできたシステムであり、それを制御する方法が瞑想だという。

https://www.nikkei.com/article/DGKKZO34832190R30C18A8MY7000/

 もう少し詳し目の要約は本書の巻末につけられた「仏教の真実一覧」とした12のテーゼでわかる。


 著者ロバート・ライトによれば、認知科学や心理学の成果では、ぼくらが思っているような「自分」を統御する単一の主体(ライトのふざけた言葉でいえば「CEO自己」)というものはない。心の中にある「モジュール」(構成単位、部品)の争いでしかない、という。
 この発想が仏教の「無我」に違いことはすぐわかるだろう。


 人間が今のような文明社会を築くはるか前に、自然選択によって生まれたもので、例えば砂糖がけのドーナツを物欲しそうに次々求めてしまうような甘いもの好きはそうした方がカロリーを集め生きるために有利だったからで、しかも「あま〜い、おいし〜」という満足感の報酬が長く続かないのは、いつまでも満足してもらっていては生存戦略上困るからだという。「ああ、もっと甘いものはないかな」といつも不満足に甘いものを求めていないと生き延びられない。
 しかし、現代の文明社会ではこれは余計なものになってしまっている。
 過剰なカロリーを取り、健康を損ねるからだ。
 だから、人は何か欲望したこと、理想としていたことが満ち足り続きはしないという。いつも不満であり、飽き足りないと。


 では、こういう欲望を「自己」が統御できるかというと、そんなことはないとライトはいう。モジュール同士の争いであり、闘争して勝利して報酬をえたモジュールは力をつけるので、次もまた勝ちやすい。
 瞑想の一つのタイプは、このモジュールの動きを否定しようとするのではなく、モジュールが動き出す様をじっくりと眺めてみてはどうかというのである。自分の中で欲望が駆動してくるのを、あたかも他人のように眺め続けるのだ。
 自分では制御できないモジュールがあって、それは自分じゃねーんだよ、ということを受け入れて眺め続けるしかない。
 しかしそうやってまるで他人事のように自分の中の衝動を眺め続けた結果、ひょっとしたら、その衝動を自分ではない他人のように眺められることもある……かもしれない……とライトは気弱にいう。自分の小さな成功体験をそこで控えめにいう程度なのだ。いつも成功するわけではない。


 ぼくは仏教を精神のコントロールだと言ってきたが、むしろ仏教は、感覚や意識のありようがコントロールできない部分があることを受け入れることから始めると言える。

ブッダが言っていたのは、基本的に「いいかい、あなたのなかに自分の思いどおりにならない部分があって、それがあなたを苦しめるのなら、悪いことはいわないから、それを自分と同一化するのをやめなさい」ということだ。(p.94)

自己がコントロールをにぎっていないこと、そしてある意味で自己が存在しないかもしれないことを受け入れれば、自己(あるいは自己のようなもの)にコントロールをにぎらせることができるかもしれないという矛盾だ。(p.118)

 自分の感覚に固執しない、つまり感覚が絶対固定のものだと見なさないこと自体が、感覚を「空」(くう)だととらえることになる。
 しかもそれだけではない。
 対象となっている客観物でさえ、ぼくらは固定した本質を持っていると思いがちだが、そもそも客観物自体(そしてそれを眺めてている「ぼく」=自我さえも)が相互に依存するものから成り立っているのであり、決して不変固定なものではない。
 だとすれば、客観物や「私」に備わっていると考えていたものに執着したり、固執したりすることもおかしなことではないのか――これが仏教でいう「縁起」(相互依存)であり「無色」(弁証法的運動)である。まさにヘーゲル

怒りや欲望をなくすのではなく明晰に見えるようになる

 では、瞑想によって、欲望、渇望、不安、怒りなどに打ち勝って、平安無事な境地――涅槃(ニルヴァーナ)にいけるのか?
 ライトは、いやそんなことはないなあ、少なくとも自分はね、とまたしても控えめにいう。

私は悟りを求めてはいるけれど、悟りを境地ととらえるかわりに、過程ととらえている。……ゲームの目的は、少し遠い未来に真の解放や真の悟りにいたることではなく、それほど遠くない未来に少しだけ解放され、少しだけ悟ることだ。(p.304)

 悟りは境地ではなくプロセスだという。
 欲望や渇望、不安を否定せず、明晰に見る。
 見えるようになることでその付き合い方が生まれるということだ。それは感情がなくなるというのではない。
 このことは、ライトの次の文章でぼくには腑に落ちた。

一つ例をあげると、私は過去二〇年間のアメリカによる軍事介入のほとんどがあやまちであり、脅威に対する過剰反応とそれによる深刻化の実例だと考えているし、軍事介入を強く支持してきた人たちには腹が立ってしかたがない。そして、ある程度はこのまま腹を立てていたいと思う。瞑想の道を突き進んでニルヴァーナに近づきすぎ、闘争心がなくなってしまうのはごめんだ。完全な悟りにいたることが、どんな種類の価値判断をするのもやめ、改革を要求するのもやめることなら、私を抜きにしてもらいたい。しかしそのような地点までたどりつく危険性は、少なくとも私にとっては間近に差し迫ったことではない。とにかく、設問は、そうした人たちとのイデオロギー闘争を賢明かつ誠実に展開できる地点まで私がたどりつけるかどうかだ。それはつまり、私の自然な傾向より客観的に、ある意味でより寛大にその人たちを見ることができるかどうかだ。(p.310-311)

 これは本当にすばらしい態度だ。
 理想と言ってもいい。


 仏教がもしも欲望や煩悩を「なくして」しまうものであるなら、そう、まさに政治の世界の闘争心を奪ってしまうものなら、ぼくもご遠慮こうむりたい。しかしそうではない、とライトはここで明確に述べている。
 相手への怒りで前が見えなくなる、公正な判断ができなくなるほどの曇りようをするのではなく、明晰にそれを見ること、その感情と受け入れること、そして逆に自分に不利な材料への不安を受け入れることでもある、とライトはいう。
 ネットでそれぞれの陣営が怒りのままに我を忘れて相手を罵り合うという問題への処方箋そのものである。なんという現代性。
 もちろん、それだけでなく、例えば子どもを失った悲しみとか、激しい性欲とか、そういう問題にも応用が可能なものだろう。

 本書の特徴をまとめた日経の次の部分にも圧倒的に賛同する。

神秘的な仏教の概念を、普通の人に理解できる言葉で説明したところが本書の手柄だろう。/認知科学や心理学の知見に基づく記述とユーモアあふれる語り口が、本書を一味違った仏教の入門書にしている。

https://www.nikkei.com/article/DGKKZO34832190R30C18A8MY7000/

ぼくの田舎で信仰されている世俗仏教との差

 さてここまで仏教の現代性を見てきた上で、いまぼくの田舎の実家で進行しているような「仏教」のありようとの差について最後に考えて見る。


 もともと、仏教は(自分あるいは肉親の)「死」の恐ろしさ、悲しみ、苦しみとどう向き合うかということから生まれたものであり、葬式・法事は肉親の死への悲しみに対する一つの向き合い方だった。直後の悲しみに付き合いながら、次第に忘れていくような儀式装置だ。
 実家の父親や母親たち(そして多くの仏教の世俗信仰者)は、それを素朴な祖先信仰と結びつけている。死者はあの世に行って、お盆に帰ってくる。そのような連綿と続く「家(イエ)」の一員として、「イエ」を受け継いでいくこと、歴史のリレーをすることに自分が生きる存在意義を感じている。だからこそ、ぼくの父母にとって墓や仏壇や、それらを管理する寺は重要なものなのである。


 このような日本の世俗の「仏教」と、ライトが描いた、そして西洋で興隆する瞑想を中心とした精神管理技術としての仏教とは、共通点もあるが、かなり隔たりがある。
 「イエ」を軸にした従来の日本の世俗の「仏教」は少なくともシステム(特に寺を軸にした檀家制度)としては維持できまい。
 ただ、そのシステムのうち、葬式と先祖供養というか、死の悲しみの受容、それの一定期間での回顧、そして自分のルーツに関わる部分を管理したり偲んだりする部分はこれからも必要とされる。
 西洋仏教的な精神コントロールとしての現代性を軸に若い人を獲得しながら、「死」の管理、つまり葬式・法事・先祖供養を思い切って合理化・統合することに成功すれば、世俗仏教(の界隈の産業)は生き延びられるのではないかと思う。ただしそれは相当なリストラ、スリム化が必要になるだろうけど。