大久保ニュー『15歳、プロ彼女 元アイドルが暴露する芸能界の闇』


 大久保ニューのマンガを久しぶりに読む。というか、待っていた。2000年代初頭に『薔薇色のみっちゃん』や『ニュー・ワールド』を読んで「もっと読みたい!」と思いながら、店頭でなかなか出会えず、正直なところ、次第に忘れて行ってしまったのだ。


15歳、プロ彼女〜元アイドルが暴露する芸能界の闇〜 1巻 (女の子のヒミツ) 本作は、元ネタがあってそれをマンガ化したもの。
 「プロ彼女」というのは、本作第1話によれば、「財力と権力を持った男性だけを狙う」女性集団のメンバーのことで、「狙う」とは「結婚する」という意味である。主人公・メイの述懐の体裁をとっていて、メイは15歳の売れないアイドルだった。
 展望の見えない下っ端アイドルグループの行く末に絶望を感じていたメイが同じグループのコにTVプロデューサーや芸能人が参加する「ヤリコン」(乱行パーティー)に誘われたこと、そして、ふとしたことで女優が主催する「金持ちと結婚する会」(のようなもの)に参加したことをきっかけにして、有名俳優、スポーツ選手、政治家、コンサル、医者などとのセックス体験、それをめぐりカネと仕事がどう動いたかを「実話」形式で描いている。


 率直なところ、これが本当の話かどうか、あるいは芸能界のすべてではないにせよその一端の真実を表しているかどうか、ぼくには判断する材料がない。もちろん自分に経験のない、あらゆる「ノンフィクション」はそういうものだろうが、せめて関連する本を少しでも読んでいれば多少の嗅ぎ分けはできるだろう。でもこの分野はまったくぼくは知らないのである。


 それでもこの本に惹きつけられたのは、二つ理由がある。
 一つは、自分の容姿(カラダを含む)を武器にして「安定」「カネ」「名声」を獲得しようとする、男権社会下での、ある種の女性の気分をむき出しに、そしてクールに描いているからである。
 同じアイドルグループのコたちからは「枕(有力者とセックスして仕事をもらう「枕営業」のこと)」「枕ちゃん」などと陰口(というか公然とした攻撃)を言われたり、体を露出させてテレビに出るメイを軽蔑するような、興味があるような矛盾する目で追う一般クラスメートの視線を感じたりする。
 そのたびに、メイは自分の中で対抗する論理をつぶやく。
 あるいは、メイのまわりの女性たちが公然と反撃する。
 例えば、「金持ちと結婚する会(仮)」の男性たちとの食事会でメイが物事を知らないふりをして注目を集める手口をとることに、同席の女性たちから不満が出る。しかし、主宰者である女優(冬月麻美)はメイを擁護する。

私達は仲間だけれど 仲良しグループじゃないのよ?
私だって15歳の隣りに座るのは怖いわ
でもその分エステの回数を増やすことにした
キレイでいるための刺激にしているの
メイちゃんは悪くない
だって彼女がしていることは 正しいことだもの
男を喜ばせて男からむしり取る
それが私達の目指す姿でしょ?
「ビッチなお姫様」
メイちゃんは完璧よ
妬むヒマがあったらメイちゃんから勉強することね

 ぼくの知り合いで、インテリゲンチャ(大学の研究者)の女性がいるが、ある種の女性が容姿を武器にすることを軽蔑している。
 彼女の考えはこうである――「容姿」と「仕事的才能」という二つに分けられる人生の武器があるとして、どういう天賦の武器があるにせよ、結局「仕事的才能」を持たぬ者の末路は悲惨だ。
 両方あればそれに越したことはない。
 「仕事的才能」だけならそれを武器に世渡りできる。
 しかし「容姿」だけに頼ることは、早めに「いい男」を「捕まえて」それに依存=寄生する生き方であり、危険極まりない、と。
 この人生観は別にそう珍しいものではない。
 この種の人生観をじっと眺めてみると、とにかく「仕事的才能」さえあれば生きていけるということに尽きる。「容姿」を人生の武器にする、ということが一体どういうことなのかを戦略的に突き詰めて考えた様子はない。
 エンゲルスは階級社会の一夫一婦制について、「一方の性による他方の性の隷属化として、それまで先史時代全体をつうじて知られていなかった両性間の抗争の宣言」であり、財産の相続を動機とした「打算婚」であり、売春と姦通(不倫)によって補足された制度だと指摘した。
 つまり、基本的には男の支配であり、女はそれと抗争をせざるを得ず、そしてお金の打算として結婚があり、お金のためのセックスがあり、「正規」の婚姻以外のところでのセックスがあることを特徴づけたのだが、メイの行動と論理はこの指摘を先鋭化させたものであることがわかる。
 有名芸能人の家で輪姦されるエピソードも出てくる。
 その自分を冷徹に観察し、どう対処するか計算するメイが描かれる。その苛酷さは、支配と抗争と打算の縮図である。
 ただ、大久保がそのシーンを描くトーンは、必ずしも「悲劇」ではない。起きていることは苛酷なのであるが、むしろそれに抗おうとするメイの「したたかさ」のようなものが読む者に伝わってくる。
 そう、全体として、メイは「強い」存在として、ぼくらに迫ってくるのだ。


 本作に惹きつけられたもう一つの理由は、有名人や有力者とのセックスをやはり冷静に、そして理屈っぽく観察しているからである。
 メイは「15歳のセックス好き」という設定だから、ぼく自身の中にこの作品をポルノ的に消費しているところがあるのかなと思った。もちろん多少はあると思うのだが、大久保ニューの絵柄はポルノとしての物語を駆動させる形では働いていないように感じられた。
 むしろ、メイがセックスする相手を観察し、それを言語化するクールさを興味深く読んでいる自分がいた。
 例えば、ある有名俳優は、いとも簡単に旅館の備品を盗む。平気で灰皿を車外に捨てる。「育ちが悪い」のだとメイは観察する。
 あるいは、概して政治家は、年齢がいっているのに、セックスのテクニックが全く未熟。
 逆に、相撲取りは「低学歴で頭が良くない」というイメージだったのに、そうではなかった……などである。
 別にメイのこうした人間観察の結論を肯定するつもりないし、その材料もぼくは持ち合わせていない。
 しかし、客観的に自分のセックス相手を眺め、それを言葉にしていく作業は、「容姿」を戦略的武器に使おうとする女性の中心問題の一つなのだろう。カネや権力で女を抱こうとする人間の品性が一つひとつていねいに観察され、暴かれていく様をみるのは、痛快だ。


 さっき、ぼくの知り合いの女性が「容姿を武器にする女性は危うく、もろい」という類の印象を持っていることを述べたが、全体としてメイの印象は逆である。したたかであり、痛快なのだ。だが、それでも知り合いの女性は、おそらく「本人の主観、生き方はそうであっても、さらにその人生をメタに眺めればやはり危うく、もろい」と言い張るであろうが。

今野晴貴『会社員のための「使える」労働法』

ブラック企業から身を守る! 会社員のための「使える」労働法 類書はたくさんある。
 だから、正直「今さらまたこのタイプの本か」というような気持ちで手にとった。
 だが、つい終わりまで読んでしまった。そして読み終わると思いを新たにしたことがある。

知らなかった知識もある

 一つは、そうは言ってもやっぱり知らなかったこと。
 基本的なことだけど、傷病手当と、労災と認めてもらってもらう休業補償給付の違い。その違いに着目してググればそう難しい違いではないのだが、そもそもその違いに頭を向かせること自体が、あまりない。


頼ってはいけないもの

 二つ目は、頼ってはいけないものを教えていること。

自分で弁護士を探しても、多くの弁護士がハズレだ。(p.28)

手頃なのが、会社にある労働組合。企業ごとに作られている労働組合である。/でも、これはぜんぜん使えない場合が少なくない。(p.87)

社会保険労務士産業医たちは基本的に「経営者側」なので、労働者が相談をするとひどい目にあうことが多い。(p.29)

 厚労省の出先である地方労働局の「総合労働相談コーナー」でどういう人が相談者として雇われているかを聞いたことがある。職員は「例えば社会保険労務士の方ですとか……」と答えた。本書にも労基署の「総合相談窓口」の職員は「社労士や労務関係者のアルバイトが対応する」(p.45)とある。
 まあ、そういうことだ。


 労基署については駆け込むことを本書では推奨しているが、「労働基準監督署は、確実に解決しそうなケースしか動こうとしない」(p.43)と述べ、証拠固めなど3つのポイントを示し、それをやった上での相談(正確には「申告」)を勧めている。


「自分がどうすべきか」という視点

 三つ目は、「ルールの解説」というより、「自分がどうすべきか」という視点。そして最終的には一人ひとりが主張することでルールや道徳が決まるという、市民社会というアリーナでの生き方を考えるもの。
 これが本書を読む一番大事な意義ではないかと思う。

 国家が決める最低限の法律はある。しかしその権利は使わないとどんどん薄められ、改悪されてしまう。「どんどん労働法が改正されて、解雇しやすくなってきたのは、争う人が少なくなってきたというのも理由の一つなんだ」(p.165)。


 法律の基準自体が動く。
 あるいは法律を超えてどこまでが「守られるべき労働条件のレベル」なのか?
 それは、自分たちがたたかって決めるしかない、と本書は言う。
 8時間働いたら帰ることは正しいのか? 正しくないのか? 法律には8時間までと書いてある。でもそんなものを守っている職場は本当に少ない。

 本来、「これが正しい」なんてものは、この世の中には存在しない。
 だけど、一人ひとりが交渉したり、主張したりしていくことによって、世の中の道徳やルールが決まってくる。これが市民社会なんだ。
 そういう意味で、労働法というのは、まさに、市民社会のアリーナなんだ。
 だから、話し合ってみる、争ってみる。それによって、いろんな可能性が出てきて、よりよい道徳が生まれてきたりするわけだ。
 個人のレベルだったら裁判、もっと社会的なレベルだったら、労働組合
 それらによって、ルールを作り変えていこう、ということだ。(p.166)

 「アリーナ」はもともと階段状の客席に囲まれた闘技場・劇場を意味する言葉だけど、参加者が意見を戦わせながら合意形成をしていく場所というようなイメージで使われている。


 大勢に逆らう意見を言うことは、ネガティブにいえば、「もめごとを起こす」ことである。
 「当事者たちの努力」という範囲を超えてその環境や条件を問い直す。そうした意見をいうことは、まさに職場や集団にとっては「もめごと」である。
 別に職場でなくてもいい。
 PTAだっていい。
 一人ひとりに強制しないで、任意を前提でやって見てはどうでしょう?
 言わないと始まらない。あれこれ意見が出て変わっていく――というふうにならないのだ。

自治体のブラック企業規制条例

 前も今野晴貴の著書を論じたところで書いたが、もしブラック企業規制条例を自治体でつくるとなると、このような中身になるのではないか。
http://d.hatena.ne.jp/kamiyakenkyujo/20151020/1445281623


 どこかの市だけ労働法の規制を強めるのではなく(そもそも労働法は全国一律が望ましい)、市民の中に無数に相談が受けられる場を作り、また市民の中に「ブラック企業対抗ワクチン」とも言うべき労働法の知識、権利を使いこなす感覚を育て、できれば労働組合をあちこちにつくらせていく、つまり市をあげて市民の中に「ブラック企業への対抗力」を育てる――このようなことに資する行政をつくることこそ、自治体が定めるべき「ブラック企業規制・根絶条例」になるのではなかろうか。

山本直樹『分校の人たち』 「ユリイカ」での『レッド』論にも触れて


ユリイカ 2018年9月臨時増刊号 総特集◎山本直樹 ―『BLUE』『ありがとう』『ビリーバーズ』『レッド』から『分校の人たち』まで― 「ユリイカ」2018年9月臨時増刊号「総特集=山本直樹」で「猟奇からエロを経て人間的なものへ――『レッド』小論」を書いた。


 連合赤軍事件は、事件そのものとしてサブカル的な「面白さ」を持っている。
 だから『レッド』論ではなく連合赤軍事件論になってしまわないように、山本直樹の『レッド』という作品を評するように心がけた。


 とはいえ、『レッド』は当事者の記録に山本なりに忠実に描いた、いわゆるノンフィクションであるから、その「面白さ」は、連合赤軍事件そのものがもっている現実の豊かさに根拠がある。だから連合赤軍事件そのものが持っているサブカル的な興味としての「面白さ」を排除することはできず、むしろある部面ではそこを積極的に論じる必要があった。
 しかし、やはり『レッド』の中でのその「面白さ」の表現は、山本がこの事件のどこを切り取ってセレクトし、どのようにグラフィックにしたかということに依存している。
 だから作品としての「面白さ」と事件としての「面白さ」が、切り分け難く、糾える縄のごとく現れる。
 そのあたりを苦労しながら、しかし自分なりに描き出してみたつもりでいる。無理に『レッド』論にもしないし、かといって無理に連合赤軍論にもしない。作品を読んだ時に感じる『レッド』の「面白さ」、そのような「自分の感想」という特殊性・個別性の中にある普遍性を浮かび上がらせる作業をした。
 機会があればお読みいただきたい。


 「ユリイカ」で永山薫らが書いているが、森山塔として登場した山本の鮮烈さの記憶・位置付けは、ぼくの中にはまったくない。時代がもっと後だからである。ぼくが最初に山本直樹を読んだのは、「スピリッツ」で連載されていた「あさってDANCE」だった。そして『YOUNG&FINE』である。
山本直樹『YOUNG&FINE』 - 紙屋研究所

 永山たちの世代やエロマンガをこれでもかと読んでいる人たちとは別に、なぜぼく自身が山本の作品をエロいと思っていたのか、あるいは山本のエロさ(例えば『ビリーバーズ』や『フラグメンツ』のいくつかのシーンなど)をいつまでも記憶しているのかは、自分の中での謎であった。上記の『YOUNG&FINE』についての感想はそれを自分なりに解き明かそうとする一つの試みであった。


 最近描かれた『分校の人たち』はフラットに他のエロマンガと比べても、(少なくともぼくにとって)相当にエロいな、と思う。
 中学生と思しき(明示されていない)男女3人(女ドバシ、男ヨシダ、転校生の女コバヤシ)が、好奇心で裸で抱き合ったり性器を触りあっているうちに、ペッティングやセックスに及んでいき、やがてのべつまくなしセックスをしているという身もふたもない話だ。
 東京都の青少年健全育成条例の規制に挑戦するかのように、未成年(と思しき男女)の性行為の描写が、そして「汁」=体液のほとばしりが、ページの割合分量も気にせずえんえんと描かれている。あるいは、『レッド』でほとんど封じたエロ(山本によれば『レッド』はエロからの「出向」でありエロを禁じられた「下獄」である)を解き放つかのように念入りに描写している。
 反権力的で挑発的だからエロい、と感じたのでは全然ない(それはそれで別の立派さではある)。
 純粋にエロい。オカズとしてエロいのである。
 「ユリイカ」で多くの論者が述べているように、山本直樹が当事者に没入しない距離を保ち、クールに、突き放したように眺める視線が、『分校の人たち』でも十二分に生かされている。
 『YOUNG&FINE』でも『BLUE』でも『ビリーバーズ』でもエロの描写は物語の中のごく一部である。しかし『分校の人たち』では、服を脱がして、性器や乳首に触り快楽を得るまでの描写が細々と分解されて本当にずっと続く。
 ドバシは興味のないふりをしながら、あるいは小さく怒りながら、溺れこんでいく。コバヤシは積極的に性に関心を向けてまるで自然の観察でもするかのようにハマっていく。二人の少女の視線がまさに「クールに、突き放したよう」であるくせに、少女自身は恋愛的な感情を一切持たず、快楽のためだけにそこに没入していく。作者・山本はそれをもう一段外から「クールに、突き放したように」眺めている。
 ヨシダには恋愛的な感情が見られない。どちらかといえば性欲に突き動かされている少年である。そして、一見主体性ありげに二人の少女の体を求めるけども、それはどちらにも拒絶されないという十分に安心な環境のもとで見せる能動性にすぎない。80年代的な、男性主体である。

森山塔は情熱的ではない。少なくとも情熱をむき出しに迫るようなことは描かない。森山塔のセックス描写は即物的で、まるで生物学者が、とある生物の生殖行為を冷静に観察しているようにすら見える。(永山薫「身も蓋もなくエロス」/「ユリイカ」前掲p.38)

山本直樹の『分校の人たち』を読んだ時、「ああ、森山塔が帰ってきた」と感じた。……そこにあるのは性器というより泌尿器であり、即物的に反応する敏感な粘膜である。(永山前掲p.40-41)


 「少年と少女が遊んだりふざけあっているうちに、性を知り、そこにハマってしまう」というのはエロの中でもよくあるシチュだし、ぼくも好きな設定である。
 このシチュエーションが最大限に生かされるように、山本の淡々とした、突き放した視線が少女二人のキャラ設定を生み、没主体的な男性主体を生み、そして生物観察のような細かく長いエロ描写を生み出した。
 「よくある設定」だけど、それが山本の視線によって徹底的に・最大限に強化されているのである。
 他のエロマンガが、(今回の「ユリイカ」の特集でも言及されているが)性交時の擬音のうるさいほどの記述や、ページの制約で(比較的)あっさり絶頂に至ってしまうのに比べてなんという贅沢なつくりであろうか。
 「そうそう、こういうものを読みたかった」と読みながら思った。

『はだしのゲン』は核均衡論の味方か


 マンガ評論家である呉智英氏が「週刊ポスト」(2018年8月14・27日号)のインタビューでぼくの近著『マンガの「超」リアリズム』(花伝社)にふれ、ぼくについて言及してくれています。

 ……実は核アレルギーに代表される感情的反核論の世界的広がりこそが核均衡論の基礎に必要なのである。『ゲン』がその重要な一翼を担っている。
 そう書いたのだが、共産党系のマンガ評論家紙屋高雪は、四月に出た『マンガの「超」リアリズム』で、「『ゲン』を高く評価するはずの呉は、驚くべきことに」「核均衡論を肯定的に紹介」と批判する。この批判の初出誌は民主教育研究所の「人間と教育」である。
 いや、まあ、なんと言おうか。この人たちは、ねぇ。

https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20180806-00000020-pseven-soci&p=2

マンガの「超」リアリズム これだけ読んでも分かりにくいかもしれません。
 朝日新聞が最近核抑止力論を特集し、核抑止力が平和を生み出してきたという「真実」を事実上、「良識派」たる朝日新聞がついに語り始めたと呉氏は喜んでいるのです。
 そして、呉氏が1996年に書いた『はだしのゲン』解説で、『はだしのゲン』が核抑止力論のバリエーションである核均衡論のベースになっているという主張が今にして思えば勇気のいるものだったと述懐します。
 この文脈の中で、呉氏が「共産党系」だと指摘する紙屋なる評論家が、最近の著作でもこの呉の認識に憤っているのですよ、と皮肉を言っているのです。ぼくが「共産党系」と規定され、ぼくの文章が「人間と教育」という雑誌であることを示すことで、ぼくの言説が旧式の「進歩的知識人」というか「既成左翼」の一環であることをほのめかしているわけですね。


 ぼくの考えを述べる前に、まず率直に呉氏にはお礼と感謝を述べておきます。
 他に適当な例がなかったせいもあるでしょうが、呉氏のような「大家」がぼくのような場末のブロガーの意見をわざわざとりあげて紹介してくれたことに、まず感謝したいのです。皮肉でもなく、本気で。ありがとうございます。
 さて、その上で、こっから先は、別に攻撃するためじゃなくていつもの通り、ニュートラルな意味合いで呉氏を呼び捨てしたいと思います。(これをことわっておかないと、「こいつ、呼び捨てにしている! どんだけ無作法なやつだ」と本気で思う人がいるのです。さすがに呉氏はわかってくれるでしょうが。)

「ぼくはこの呉の評価に近い」

はだしのゲン 1 最初に言っておきますと、ぼくはこの本の中で呉の『はだしのゲン』評を全体的には高く評価しているんですね。
 ぼくが『ゲン』について書いたのは、「『気持ち悪い』『グロイ』という『はだしのゲン』の読みの強さ」という章です。子どもたちの中で『ゲン』を読んだ人は多いんですが、彼らの感想に「気持ち悪い」「グロイ」というのがけっこうあります。それは悪いことじゃなくて、実は作者の中沢啓治が強く望んだ読まれ方であって、「気持ち悪い」「グロイ」ことが原爆被害の本質であり、そういう露悪的とも言えるリアリズムこそが強いんだとぼくは思ったんです。
 しかし、戦後民主主義は、戦争は「聖戦」ではなくむごい侵略戦争であったという露悪のリアリズムを発揮していた戦後直後は生々しかったんですが、次第に「平和」や「民主主義」というタテマエから現実を裁断するようになって形骸化が生じるようになります。
 呉は60年代後半以降の戦後民主主義批判の潮流の中に出現して、その流れから『ゲン』を戦後民主主義的なタテマエで評価するむきに痛撃な批判を加えたのです。
 呉は『ゲン』を「平和を希求する希求する良識善導マンガ」として評価することを強く批判し、『ゲン』は民衆の中にあった怨念、原初的な家族愛を描いた民話(フォークロア)として評価します。

ぼくはこの呉の評価に近い。その素朴な怨念や原初的感情が、意図せざる露悪のリアリズムとなって、戦争の本質を衝くのである。(拙著p.56)

 てな具合です。
 もともとぼくの文章は、そういう呉評価の文章であることをわかってほしいのです。

呉のポジショントーク

 その上で、ぼくは呉への批判も書いているんですね。
 その批判の箇所こそが、呉がとりあげて皮肉を書いている部分なのです。
 呉は「『ゲン』は反戦反核を訴えたマンガである」(政治思想の道具としての作品)という読み方に反対し、反戦反核という思想が本当に正しいのか、という問いを立て、その中で反戦反核の対極にあると考えられる「核兵器の恐怖の均衡が戦後の平和をもたらした」という核均衡論を肯定的に紹介します。


 だけど、誰がどう読んでも「『ゲン』は反戦反核を訴えたマンガ」だと思うんですよ。それが「平和」とか「民主主義」とかいうタテマエからじゃなくて、原初的な感情や怨念から強いほとばしりとなって表現されているので、立場をこえて心を打つわけです。別に「反戦反核」に同意していない人であっても、面白がれるんです。
 そういう意味では原初的な感情や怨念と反戦反核は、中沢啓治において癒着しているんですね。離れがたい。
 そこを呉が無理に引き剥がそうとするので、呉の言説のその部分はかなり見劣りするなと書いたわけです。
 はっきり言えば呉のポジショントークです。
 戦後民主主義的良識を反発的・機械的に批判しようとするあまり、無理筋な立論をやっちゃっているのです。
 もう詳しく見てみましょう。


 呉は今回のインタビューでこう言っています。

『ゲン』の中に一貫して流れる原爆への原初的恐怖と怒りこそこの作品の大きな価値であり、また、これは核均衡論の重要な基盤でもある、と。もし、核兵器の威力が大したものでないと誤解されていたら、すぐに核の撃ち合いが始まるからだ。……だとすれば、実は核アレルギーに代表される感情的反核論の世界的広がりこそが核均衡論の基礎に必要なのである。『ゲン』がその重要な一翼を担っている。(強調は引用者)

https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20180806-00000020-pseven-soci&p=2


 もとの中公文庫の解説では、『ゲン』と核均衡論を直接に結びつけずに、「核はいやだ、理屈抜きに原爆はいやだ、という観念的な平和主義や核アレルギーが実は核均衡論を支えているのである」(呉「不条理な運命に抗して」*1)というふうに「核均衡論の根底には、核への恐怖がある」という一般論を述べていました。
 ところが、今回のインタビューでは呉はふみこんで、「核アレルギーに代表される感情的反核論の世界的広がりこそが核均衡論の基礎に必要なのである。『ゲン』がその重要な一翼を担っている」とまで書いています。『ゲン』が広がったからこそ、原初的恐怖が煽られ、核均衡論の基礎がつくられた……というふうに具体的な因果として読めます。

史実的につじつまがあわない

 第一に、これはそもそも史実的に無理があると思うのです。
 核均衡論は核抑止力論の一変種ですが、呉も書いているとおり、中でも米ソの核均衡に着目した考え方です。ソ連が崩壊するのが1992年で、『ゲン』が翻訳されて国際的に広がって言ったのは2000年代からですから*2、「感情的反核論の世界的広がり」を基礎として「核均衡論」があり、その「重要な一翼」を『ゲン』が「担っている」というのは明らかに言い過ぎです。
 そして、『ゲン』が国際的に広げられていった2000年代を契機に、むしろ「核兵器の非人道性」を強調する国際世論が強まり、2013年には「核兵器の人道的影響に関する国際会議」が開かれ、ついには核兵器禁止条約へと結実しました。
 因果関係がどれくらいあるかは別にして、歴史的に起きている流れは逆ですよね。『ゲン』が国際的に広まっていない間は、核均衡論が強く、『ゲン』の国際的受容とともに廃絶論が勢いを増した、っていうことですから。

「原初的恐怖」ではなく理屈上の恐怖

 第二に、先ほどのコロラリーでもありますが、米ソの世論においては、「原初的恐怖」ではなく「理屈上の恐怖」がゲームとしての核均衡論を支えた、と考えた方が理解しやすいんじゃないでしょうか。
 「原初的恐怖」というほどの恐怖を体験した人は、常識的に考えて、見るのも触るのも嫌なはずで、自国が「核均衡」というようなゲームの道具に使う政治を支えるでしょうか、と思います。
 例えば性暴力を「原初的恐怖」で受けた人は、性暴力を利用する手法に賛成するでしょうか。なるほど、性暴力の「原初的恐怖」を脅しに使うことで相手を支配する(抑止する)ことはできると思いますが、「核均衡」は自国の政府がその手法を使うことへの支持が含まれていますから、それは支持されないと考えるのが常識的な理屈の流れじゃないですかね。
 むしろ「原初的恐怖」ではなく、理屈の上での「恐怖」から編み出されたものがゲームとしての「核均衡」であるように思われます。
 アメリカなどで被爆者が広く講演をしたりしてその実相を明らかにするのは、戦後もかなりたってからです。「原初的恐怖」を民族的・個別的な体験として持たないアメリカなどで、それを経験し子孫が日常的に教育されている日本とは核被害についての認識に大きな落差があったのは当然です。拙著『マンガの「超」リアリズム』でも「クリーンな言語」で戦争を「ゲーム」のように語るアメリカのシンクタンクの人たちの話(竹田茂夫の『ゲーム理論を読みとく』の冒頭)を紹介していますが、極端に言えばああいう感覚ですよね。ゲームにおける行動の動機となるような、理屈の上での「恐怖」。


日本の戦後の特殊性をうまく説明できない

 第三に、呉の議論では、核被害と戦争被害を味わった日本国民*3が「あんな怖い思いは二度と嫌だから強力な軍備を持とう」「核武装をしよう」という意識・選択にならなかった歴史をうまく説明できません。戦後の日本は、憲法9条を変えず、核兵器廃絶を曲がりなりにも民族的要求として掲げてきたわけですから。*4
 呉が好んで使っている「核アレルギー」という言葉は、米国高官がこのような日本世論の特殊性に呆れ果てて使った言葉がきっかけだとされています。

この言葉〔核アレルギー*5〕が使われるようになった契機は、一九六四年夏に起こったアメリカの原子力潜水艦シードラゴン号の佐世保寄港受け入れ問題であった。寄港反対運動が起きるという予測が強まるなか、日本の世論の反応を楽観しているというアメリ国務省高官の声が報じられた。新聞記事は「米側をもっと信頼してもらいたい、ということ、それに時間をかければ日本の『核兵器アレルギー』はおさまるだろうということがあるようだ」と推測していた(『朝日新聞』夕刊、一九六四年八月二九日)。(山本昭宏『核と日本人』p.100-101)

 この経緯を調べた山本昭宏は、「アメリカと日本政府の核戦略に沿わない世論が目立つときに『日本人の核アレルギー』という言葉がアメリカ高官や日本の政治家の口から発せられる傾向にあったのである」(山本前掲書、p.102)と述べています。


 歴史の歩みで見てみると、『ゲン』のような核被害の「原初的恐怖」があまり知られておらずブッキッシュな一般論として核の「威力」が考えられていた国際環境では核均衡論が勢いがあったけど、『ゲン』をはじめ被爆者の証言などで「原初的恐怖」が広く国際的に知られる中で核均衡論や抑止力論にかわり核兵器廃絶の潮流が大きく育ってきた、ということになります。
 そして、核への「原初的恐怖」を民族的体験として持っていた日本だけは、はじめから日米支配層がいうところの「核アレルギー」と言われるほどの拒絶感を持っていたというのが歴史の現実じゃないでしょうか。


 核均衡論や核抑止力論が「現実的政策」かどうかを今ぼくは問題にはしていません。『ゲン』がその「重要な一翼を担った」マンガだったなどという横車を押すのは、やりすぎだということです。
 『マンガの「超」リアリズム』でも書いた通り、戦後民主主義の形骸化した部分への批判者として、呉には歴史的な役割が確かにありました。しかし、その身振りが石化してしまい、逆の硬直を生んでしまっているんじゃないかと思います。

*1:中沢啓治はだしのゲン』中公文庫7巻所収。

*2:1970年代後半にごく限られた翻訳はあります。

*3:もちろん日本は侵略戦争や植民地支配の加害をしてきたのですが、日本人の多くに「戦争は嫌だ」「核兵器は嫌だ」という意識が広がった現実について述べています。

*4:米軍の駐留を容認し、米国の核の傘にいたではないか、という反論はあり得ますが、米軍は沖縄へ集中され、核兵器の持ち込みの現実は「核密約」にされ、いわば日本人多数が日常的に意識しないところに隠されていったからではないでしょうか。

*5:引用者注。

LGBTを「趣味」「生産性」で論じることはいけないか

LGBTは趣味」発言を理解しようとしてみる

 私がAさんを好きか、Bさんを好きかは個人の趣味の問題である。
 国家が口を出すことでもないし、補助金をつけてAさんが好きな気持ちを助成しようというのもおかしな話である。AさんとBさんは「結婚」してもいい。勝手に式でもなんでもすればいいんじゃないか。もちろん、「AさんはキレイだけどBさんはキモいよね」「Bさん好きになるやつは頭がおかしい」とかは言ってはいかん。キビしく叱るべきだ。

 これが「LGBTは趣味」発言の政治家の気持ちではないか。そしてそれは、この範囲ではそんなに間違っていないと思う(「趣味」という言葉については後から述べる)。なお、上記の「引用」囲みは何かの引用ではなく、ぼくが頭の中でできるだけ筋道が立つように考えた理屈である(以下同じ)。

 しかし、AさんとBさんの結婚を法律的に認め、相続とか減税とか公営住宅入居とか、そういう「優遇」までするのはどうなのか? そこまでする必要があるのか?

 Aさんとの法律婚はよいがBさんとの法律婚はダメというわけである。*1
 これは差別ではないのか。そして(理由は別にして)「Aさんとの法律婚はいいが、Bさんとの法律婚はダメ」としているのは、別に杉田水脈や谷川とむだけでなく、現在の自公政権そのものである。
 ここにおいて、問題は「趣味みたいなもの」ではなくなる。法律や制度の問題だからだ。

 しかしそもそも「Bさん」は、絶対に誰でもいいというわけでもないぞ。そもそも「Bさん」が子どもだったらダメだろ。市松人形でもハトでも「南ことり」でもダメだろ?
 つまり法律婚で認めて社会的に一定の「優遇」をするのは無条件じゃない。線引きがあるんだ。
 そして、どうして法律婚夫婦には「優遇」をするかと言えば、社会の再生産を担う経済単位であることが期待される(子どもを産み育てて社会の縮小を防ぐ)からだ。
 そういう意味で同性同士は勝手にカップルになる分には構わないけど、法律婚まで認め、そこに税金を一定使うのは、やりすぎだ。
 「好き・嫌い」といういわば恋愛の間は、趣味なので勝手にやってればいい。しかし、同性同士の法律婚を認めろというのは趣味に税金を使うものであり、そこまでやる必要はない。

 「趣味」「税金」「人口」というキーワードで「LGBTは趣味」という政治家の理屈を体系立てればこのようなものになるはずだ。*2

「社会の再生産のために税金を使う」という論だて

 この理屈のキモ(でありアキレス腱)は、「どうして法律婚夫婦には『優遇』をするかと言えば、社会の再生産を担う経済単位であることが期待される(子どもを産み育てて社会の縮小を防ぐ)からだ」という部分だろう。杉田の「LGBTは生産性がない」という発言もここに位置づけられる。


 「税金を使う」という理屈にのみつきあって、ここを考えてみよう。
 例えば、福岡県大川市には新婚世帯への家賃補助制度がある(家賃の半分、ただし月1 万円が上限)。
 その目的は市の交付要綱に従えば次の通りである。

少子化対策として、若者の結婚に伴う新生活スタートの支援及び経済的理由で結婚に踏み出せない若者負担を軽減し、安心して子どもを産み育てることができるよう支援するため、…

 なるほど、ここでは、「子どもを産み育てる」ことを政策目標にして、新婚世帯に税金を使っている。このような場合、確かに同性婚の新婚世帯に家賃補助をすることは「目的」から外れるかもしれない。


 しかし、法律婚は「子どもを産み育てる」ことを前提に税金での優遇制度がすべて設計されているわけではない


 例えば、茨城県石岡市にも新婚世帯への家賃補助があるけど、こっちの目的は「新婚世帯の定住化の促進を図るため」である。
 ここでは、子どもを産み育てるかどうかではなく、「夫婦というユニットになることで、生活基盤が安定し、定住性が高まる」という考え方がベースにある。定住することで、そこで働き、何らかの富を生み出すという想定があるのだろう。それが税金を投入するのに値する、というわけである。*3



 新婚世帯の公営住宅の入居促進はどうか。
 例えば大分県の県営住宅では、子育て・新婚世帯の入居を優遇している。その政策目的としては「大分県は『子育て満足度日本一』を目指しており、経済的な負担の重い子育て世帯やこれから出産を控える新婚世帯の入居機会の拡大を図る」とやはり「子育て」「出産」を目的にしているが、この目的に「加え」、「若い世帯の入居促進を通じたコミュニティ形成により、高齢化の進展によるコミュニティの弱体化の懸念が解消され、安心・安全な住生活ができる」としている。


 つまり若いやつ入ってこい、若いやつでも定住しそうな奴が入ってきてコミュニティを若返らせてくれ、団地自治会を支えてくれよ、ということである。これは子どもを産むことが前提とされていない目的だと言える。若けりゃいいんだから。(しかし単身者は想定されていない。長くそのコミュニティには居着かないだろうと思われているのだ。)



 所得税配偶者控除はどうか。この控除は法律婚でなければ受けられない。
 しかし、子どものいない異性婚夫婦は配偶者控除を受けられるのだから、もしこれが「社会の再生産をする人を優遇するためのもの」でしかなければ、理屈は成り立っていない。「今後子どもを産むかもしれないからだ」というかもしれないが、それならば子どもが生まれたことを控除の要件にすべきであり、やはり理屈が立たない。
 ここでも背後にある理屈は、子育ての単位であるかどうかではない。
 一方が会社で働き、他方が家事労働という分業をするユニットとして経済活動に参加している、という想定がそこにはある。そういう分業で「効率的」に経済価値を社会に生み出してくれている、だから税金をまけてやるのだ、と。*4


 法定相続は税金を使うものではないが、この流れでつくられている制度と言えるだろう。ある人の財産を配偶者は法定分だけ優先して相続するように法律が作られている。それは、夫婦というコンビでその財産を築いたからであって、たとえば会社で働いていたのは本人だけかもしれないが、パートナーのサポートなしには働くことは無理だったんじゃねーの? という理屈で優先的に遺産を分けてもらえるのである。


 こうしてみると、確かに、「子どもを産み育てるから税金を投入する」というロジックを使っている場合も少なくないが、他方で子どもを産み育てるかどうかではなく、子どもを産まなくても「夫婦である」という事実だけで経済単位として評価され、税金を使って支援するに値するとみなされている行政制度がたくさんあることがわかる。*5

生産性で評価して税金投入をする政策

 「人間を生産性・経済性で評価してはいけない」というのはまったくその通りであるが、生産性・経済性で評価して費用対効果を考えて税金を投入している政策が少なからずあるのもまた事実である。
 しかし、そのロジックに従うとしても、「子どもを産まないから生産性がなく、税金を使うべきではない」という理屈は破綻している*6


 「人間を生産性・経済性で評価してはいけない」という問題はもう少し丁寧に言っておきたい。
 例えばハンセン病療養所入所者には補償金=税金が支払われているが、これは生産性・経済性を考慮したものでは微塵もない。入所者の人権と尊厳が奪われてきたことに対して国の責任を認めるがゆえに税金を原資にした補償金を支払うのである。
 奪われた尊厳(マイナス)を回復する(ゼロにする)ために税金を使うのだ。
 他方、夫婦に税金を使う、夫婦に税金をまけてやるのは、生産性・経済性が考慮された制度である。同性婚カップルは現在その制度から外されている。あくまで税金を使うかどうかについてだけいえば、異性婚カップルが受けている生産性・経済性にもとづく優遇を、同性婚カップルにも受けさせてくれ、というものだ同性婚カップルを異性婚カップル以上に税金を使って特別に優遇しろ、ということではない*7

オタクやSMにも「支援」?

 よく「同性愛を『支援』するなら次は差別されているオタクやSMも『支援』しないとな」という皮肉があるけども、もしオタクやSMであることを理由に例えば法律婚から排除されているとすれば、それは「支援」されねばならないだろう。つまり法律婚を認められるべきである。


 結婚の問題を別にして、LGBTであることを理由に、いじめられたり、就職できなかったりする問題はどうか。
 もちろんいけないに決まっている。
 では、例えばオタクであることを理由にいじめられたり、就職できなかったりしたらどうか。
 SMはどうか。やはりいけないに決まっている。SMであることと就職はなんの関係もないし、いじめられてよいものではない。個人の「趣味」は自由だ。
 では、それを学校や公民館で講座を開いたりして教えるべきだろうか。LGBT差別はいけない、そしてオタクやSMの差別はいけない、と。
 結論から言えば、本当にそれが深刻であれば、教えるべきだ。
 だいたい自治体ごとに「人権教育推進計画」とか「人権教育・啓発基本計画」というものが定められていて、教育や啓発の内容の柱が定められている。*8
 例えば新潟県柏崎市で言えば「様々な人権課題」の一つに「性的志ママ向と性自認に悩む人」という柱がある。
https://www.city.kashiwazaki.lg.jp/gikaijimu/shigikai/inkai/jonin/katsudo/documents/jinkenkeihatu01.pdf
 他方福岡市には、その柱はない。「同和」が太い柱になっている。
http://www.city.fukuoka.lg.jp/data/open/cnt/3/774/1/jinkenkihonkeikaku110921.pdf

 そして、どちらにもオタクやSMの人権については書いていないが、例えば福岡市の計画で言えば「一人ひとりの尊厳が大切にされる社会、つまり人権が尊重される社会の実現」ということの中に含まれているのである。理屈からいえば、オタクやSMの差別が深刻であるなら、「女性」「高齢者」と同じように抜き出して柱にして「オタク」「SM」と柱立てすべきだろう。*9
 

LGBTを「趣味」「嗜好」としてはいけないか

 さて、LGBTを「趣味」とする表現について最後に一言だけ。
 LGBは「性的嗜好」だと言われることがある。そして「嗜好」を辞書で見ると、「たしなみ、好むこと。趣味。特に、飲食物についての好み」(大辞林)とある。つまり「嗜好=好み=趣味」だということになる。
 「私はAさんが好きです」と言ったとき、「えー、あんなのが趣味なんだー」と言われたりする。「趣味」を辞書で引けば「2 どういうものに美しさやおもしろさを感じるかという、その人の感覚のあり方。好みの傾向」(大辞泉)とあり、そういう意味で「趣味」なのである。


 この部分に関して、ことさら「LGBは性的嗜好preferenceではなく性的指向orientationである」として反論する向きがある。反論しようとするあまり、LGBは生来的なもので、変えようがないものだという側面だけが強調されてしまうこともある。


 性的指向といった場合、性愛の方向がそういう性に向いているか、という大きな方向性の意味であるのに対して、性的嗜好といった場合、誰の、どんな特徴を好むのか、というまさに対象そのものの意味であるといった違いがある。言い方を変えれば、「指向」は性別について方向を示すのみで、分類のためのニュートラルな表現であるのに対して、「嗜好」は「Aさんは好きだけどBさんは好きではない」といった具合に個別性が強くなる。そのような意味で「指向」を使ったほうが、ニュアンスを交えずに中立的に表現ができるように思える。
 しかし、LGBの人の性愛のありようを「Aさんは好きだけどBさんは好きではない」という「嗜好」の一つだといって何も問題はないのではないか?
 「Aさんという個人をかけがえのない人として好きになったが、それがたまたま同性だった」という場合、方向付けを表す「性的指向orientation」よりも「性的嗜好preference」で表現した方がむしろしっくりくる。
 LGBが生来的なものか、変えようがないものかどうかに至っては、二の次の問題ではないのか。自分の同性愛が生来的なものだと決めつけることもできないし、逆に後天的なものだと決めつけることはできないだろう。将来のこともわからないから、変わるかどうかなんて誰にも変わらない。杉田水脈の言うように、同性愛は人生上の一過性のものであるかもしれないが、他方で、一過性であるとは決めつけられないのもまた事実である。


 「嗜好」「趣味」という言い方は、「特に、飲食物についての好み」と辞書にあったように、例えば今日はカレイにするか、サンマにするか、というほどのニュアンスに聞こえる。自分の気持ち一つで変えられるのだ、と。
 そういう恋愛もないとは思わない。
 他方で、「Aさんをやめて代わりにBさんを愛しなよ」と言われて、「はいそうですか」と代替できない場合があることもまた事実である(というか、統計的にはおそらくその方が多い)。趣味として、好みとしてAさんが好きだったとしても、Bさんに替えられるわけではない……という人が事実として1人でも存在する以上、「同性愛とはいつでもどんな場合でもサンマかカレイかのように選択の入れ替えが自由なものだ」と決めつけることは不可能である。
 ゆえに「嗜好」や「趣味」だから軽いというわけではなく、「嗜好」や「趣味」に基づく感情・性愛であっても個別の、代替不可能な、かけがえのなさを含んでいることはあるのだ。
 だから、「性的嗜好」と表現することや「趣味」と表現すること自体に、ぼくはあまりかみつく必要はないと思っている。


 タイトルの問い(LGBTを「趣味」「生産性」で論じることはいけないか)の(ぼくなりの)答えをまとめて言えば、「趣味」「生産性」で論じることはありうるのだ。
 言いかえると、
(1)LGBTは「趣味」である人も、「趣味」でない人もいる。しかし「趣味」であるからといって法律婚が認められないのはおかしい。LGBT法律婚から排除するかどうかの問題は、少なくとも「趣味」の領域ではない。
(2)生産性がない人というものは存在するけど、生産性がないからといって尊厳が奪われていいわけがない。生産性の有無で尊厳を論じるのは間違いだ。他方で、性的少数者の多くは経済的な生産性があるのに「ない」と言われているのはおかしいのではないか――
となる。

*1:法律婚そのものではなくてもそれに準じる制度でもよしとすればとりあえずは「ダメ」の範疇には入らないだろう。例えば自治体でやっているような「パートナーシップ宣誓制度」のようなもの。

*2:自民党議員である谷川とむの発言も読んだ。ガチャガチャして分かりにくいが、整理すればこうなるんじゃないか。 「日本の伝統的な家族形態に反するから」という理由もありうるが、その理由づけだと「税金」「人口」を使って体系立てて説明することが難しい。

*3:ちなみに、政府は結婚新生活支援事業費補助金というのを始めている。年所得300万円以下の新婚世帯の新居費用に18万円の補助を出す事業を自治体がやったらそのうち3分の2は支援しましょう、というものだ。これは明確に「少子化対策」が目的で、自治体が移住支援でやる場合、「少子化対策」であることもうたえば、国が補助してやろうと書いている。大川市のケースなら応援するけど、石岡市のようなケースは応援しない、というわけである。 https://www.zennichi.or.jp/wp-content/uploads/2016/11/79b9013da1f78bcb91ffe2649a1956be.pdf

*4:配偶者控除などの所得税控除は生産性や経済性ではなく生存権の観点から生じたものだという意見があることは承知している。しかし、「なぜカップルの一方は病気や障害でない場合に働かずに専業主フをしているのか?」という問いへの答えとして経済性や生産性を答えにしても差し支えないように思われる。

*5:この理屈で言えば、例えば5人くらいの友達同士が長く同居して家事を支え合ったりするような「家庭」も優遇を受けるべきことになる。ぼくは何らかの要件を設けてそういう「家庭」も認めていいと思う。

*6:ただ、ぼくは「生産性」という議論の枠に乗っかって、そのロジックの中で議論する危険性については恐れがある。西口克己『小説蜷川虎三』にある次の一節が思い出された。「最初、このままではダメだ、いまの軍部のやり方ではダメだと思い、そう思うことによって、よりましな政策を模索するようになる。模索するということは、しかし、すでに政府の大きな枠内に取りこまれていくことでもあった。いいかえれば、冷静な『外在的』批判の目をしだいにくもらされて、『内在的』批判に向かうようになり、そのことは当人が好むと好まざるとにかかわらず、政府に協力することになるのである」(p.88-89)。

*7:アファーマティブ・アクションの文脈で、そういう「ゲタはかせ」の制度が「絶対にない」とは言えないが。

*8:ぼくはこのようなほとんど私人間の差別問題に「人権」を解消するような人権把握は人権の矮小化だと思っている。ブラック企業と人権、学ぶ権利の侵害としての高学費、などのような内容を柱にすべきだ。とは言え、他人の人権を傷つけないよう教育や啓発をすること自体は悪くない。

*9:ただ、教科書やテキストの厚さ、受けられる啓発の量は一定しかないのだから、何を柱にして何を柱にしないかは、啓発・教育の場合は、あくまで相対的なものである。例えば同和問題は人権侵犯事件のうち0.5%ほどしか占めておらず、「教えるな」とは言わないが、福岡市のような最重要の柱にするのは明らかに偏りがあると思う。

一瀬文秀『潮谷義子聞き書き 命を愛する』


 憲法には

地方公共団体の組織及び運営に関する事項は、地方自治の本旨に基いて、法律でこれを定める。

とある。この「地方自治の本旨」とは何か。憲法学者小林直樹

この言葉は、日本国憲法のなかで、最も不明瞭で把えにくい概念のひとつ(小林『憲法講義』p.772、強調は引用者)

と述べてきた。


 この件で、馬奈木昭雄の講演を聞く機会があった。
 馬奈木は水俣病じん肺諫早開門など、住民のたたかいの先頭に立ってきた弁護士だ。
 彼の考える「地方自治の本旨」はつまるところ「住民自治」であり、住民による徹底した話し合いと討論によって合意をつくりあげるという姿にその本質があると見ている。
 そこでは、行政はどっちつかずの中立者ではない。
 住民(国民)の基本的人権を保障するという立場に行政側が立つことだ。しかし住民の主張を鵜呑みにするのではなく、行政側が賛成・反対の幅広い意見に耐えうる情報提供を行い、住民が主権者として判断できるようにしてその合意を促すというイメージを馬奈木はあげた。*1


 その例として、馬奈木は熊本県知事だった潮谷義子が川辺川ダムをどうするかについて行った「住民討論集会」をあげた。
http://www.pref.kumamoto.jp/kiji_4555.html

川辺川ダム事業をめぐる論点について、県民参加のもと国土交通省、ダム事業に異論を主張する団体等並びに学者及び住民が相集い、オープンかつ公正に論議する場を提供します。


 原則的に論点に制限を設けず、時間の制限も設けない。
 よくもこんなことをやろうと思ったものだと感心する。

住民自治としての住民討論集会

潮谷義子聞き書き 命を愛する ぼくは馬奈木の話を聞いて、潮谷に興味を持った。
 潮谷に聞き書きをした『命を愛する』という手記を読んだ。
 キリスト者であり、社会福祉を学び行政の福祉主事をへて、乳児ホーム(現在児童養護施設)で働き、そこの園長を務めてきた。
 潮谷は自民・公明が推して誕生した知事ではある。
 だが、彼女が知事時代の話としてあげている3つの大きな話題は、

であるように、本書を読むとそこに良心的な人間が行政のトップになったことによる素直な苦悩を、左翼のぼくでもストレートに感じることができた。
 潮谷が朝日茂を訪問したときに感じたことや、知事になる前から親しくしていた住民運動側の人たちにつらい、もしくは今思えば不十分な決定を押しつける羽目になったことを赤裸々に書いている。


 住民討論集会で賛成派が討論に不満なため一斉に帰ろうとする際に、止める様子が『命を愛する』にも書かれている。以下は公式記録に残された潮谷のアナウンスである。

知事です。退場なさる皆様達にお願いします。この論議はまだ終わっていないと私は思っております。退場なさる皆様達は、今、議長の方が、皆様に何時までいたしましょうかということを問いかけている時に、背を向けてお出になる方々がいらっしゃいますけれども、それでよろしいのでしょうか。ぜひ、留まっていただきたいと思います。司会者も、4時間に亘る長い間に、混乱があったり、皆様方の思いに沿わないところがあるかも知れません。それは、推進者の方にとっても、反対者の方にとっても、生じている現象であるかも知れません。でも県は、フェアな公正な立場を確保したい。そういう思いの中で、この会をいたしているところです。 私から提案をいたします。この会を7時半で終結をさせていただきますが、いかがでございま すでしょうか。よろしゅうございますでしょうか。

http://www.pref.kumamoto.jp/common/UploadFileOutput.ashx?c_id=3&id=4555&sub_id=1&flid=1&dan_id=1

 潮谷は、自民・公明の推薦という、ぼくにいわせれば反動的な政治の枠組みの中で県政の舵取りをせざるを得なかった。
 しかし、潮谷は国の関係者を駆け回ったり、住民運動のリーダーたちと議論を重ねたりして、「合意」を必死につくろうとしてきた。その様子が『命を愛する』でよく伝わってくるのだ。*2
 潮谷県政の実際はそのような甘いものではないかもしれないし、全体の評価をした上での感想ではないが、先ほどあげた3つの問題では手記を読む限り、潮谷のきまじめさがわかる。*3


 知事時代の思い出を語るなら、もっと見栄えのいい、どこそこに何を作ったとか、どういう新しい制度を作って住民が喜んだとか、そんな手柄話をドヤ顔で書くというのが政治家の「回顧録」というものではないのか。
 あえて自分の一番苦悩したであろう3点を、苦悩のままに書くという真摯さに胸を打たれる。こんな真面目にやっていれば、3期目はなるほど「バーンアウトしてしまう」(潮谷の言葉)ことになったであろう。


 ぼくは町内会やその連合体の幹部を、行政側が手なづけて、あるいは煙に巻いて、「文句が出なかったので住民合意完了、一丁あがり」というやり方をしている様を各地で見てきた。住民の意思をくみとるために本当に努力している町内会もあるが、総じて行政が「住民合意」を振りかざすために都合よく使える道具として町内会は機能している。
 そのようなお手軽「住民合意」とは正反対の、「地方自治の本旨」として住民合意がここには描かれている。

団体自治の見本としての蜷川府政

地方自治の本旨」とは、要するに、人権保障と民主主義の実現という点にあり、このためには、「住民自治」が不可欠であり、住民自治を実現するための「団体自治」も不可欠となる。(浦部法穂憲法学教室』p.574)


 団体自治は、いわば国に唯々諾々と従うのではなく、自治体としての自分たちのことは自分で決めることである。時には国に逆らって。
 国策実行の道具であった戦前の地方制度が戦争と破滅を導いたという反省のもとに取り入れられたといえる。
 今日、例えば福岡市の高島市政は、一見国とは違うような「先進的な」動きをしているように見える。しかし、高島のやっている政治は、国家戦略特区といい、観光呼び込み路線といい、「配る福祉から支える福祉へ」といい、国策路線の先取り、単に「露払い」「尻叩き」でしかない。


小説蜷川虎三 (西口克己小説集) 団体自治は、今沖縄県と国との闘争に典型的に見られるが、ぼくが最近印象深く読んだのは京都府蜷川虎三知事(知事1950-1978年)についての小説であった。
 西口克己の『小説 蜷川虎三』には、蜷川が「地方自治の本旨」を考え抜くくだりが出てくる。

いったい、地方自治の本旨とは、なにか。虎三はつづいて〈地方自治法〉を精読した。その結果、虎三なりにいくつかのポイントをつかんだ。第一条には「……地方公共団体における民主的にして能率的な行政の確保を図るとともに、地方公共団体の健全な発達を保障する」とある。そして地方公共団体のうちの普通地方公共団体都道府県及び市町村なのである。第二条には「地方公共の秩序を維持し、住民及び滞在者の安全健康及び福祉を保持する」とある。また、「……その事務を処理するに当っては、住民の福祉の増進に努める」とある。つまり――と虎三は考えた――地方公共団体とは、住民の暮らしの組織であり、その本旨とは、結局住民の暮らしを守ることではないか、と。(西口前掲書p.142)


 蜷川府政が終わった時に毎日新聞は社説でこの府政を「三十年近くにもわたって『住民の暮らしを守る』地方自治の精神を貫き通してきた」「“地方自治灯台”であったと評価してもよいのではないか」(1978年3月5日付)と書いた。


 中小企業の「ひき舟政策」、無担保無保証人融資、京都食管、老人医療費助成など(現在これらの制度には様々な評価があるだろうが)、「住民の暮らしを守る」ことを基本に中央の政策とは別の路線での団体自治の在りようを掲げ続けた。


 結局「地方自治の本旨」とは、今ぼくが理解していることをまとめれば、住民の基本的人権を保障する(つまり「暮らしを守る」)ことを目的に、住民が住民自身で賛否含めとことん話し合って決める(住民自治)ということ、その際に国の干渉も受けないし、国とは独自に考える(団体自治)ということ……になるだろうか。

党派を超える瞬間

 議院内閣制の現場は政党間の力のぶつかり合いである。
 もちろん、いわば大統領である自治体の首長選挙だって大きくは同じである。しかし、やはり大統領であるから、本来は党派を超えた包容力がそこに生まれなければいけない。そこは政治家個人のキャラクターによるところが大きい。ただし、馬奈木はそういう陳腐な結論にせずに、大きくはその背後にある住民の運動こそが自公推薦知事であったはずの潮谷を動かしたのだという史的唯物論的な確信を述べていた。
 そのような馬奈木の意見にも敬意を払いつつも、やはりぼくは首長のキャラクターというものを考えざるを得ない。
 潮谷の人生の歩みを読むと、社会福祉キリスト教的慈善の精神が、あのような誠実な苦悩を生み、党派を超えてぼくの心を動かすのだと思う。


 蜷川は、府政晩期は共産党単独推薦で立候補をしていたが、もともとは吉田内閣の中小企業庁長官であったし、社会党員になったし(形ばかりだが)、自民党から推薦状が送られてきたがゆえに共産党対立候補(河田賢治)を立てたこともあるような政治家だった。
 経歴を見てもその幅広さがうかがえる。
 そして、政敵・野中広務は次のように述懐する。

自民党府議として蜷川府政後半の一二年間、彼と対決した野中広務は「蜷川さんが二十八年間も知事の座にいたというのは、イデオロギーの問題ではなく、彼自身の魅力があった。それは、イデオロギー武装しようと思っても滲み出てくる日本人の精神とでもいおうか、彼はいわば生粋の明治人だった」と人柄を評価する。(岡田一郎『革新自治体』p.26-27)


 首長は大統領であるがゆえに、その社会統合の象徴として党派を超える魅力がなくてはならない。「党派を超える」というのは単に八方美人ということではなく、与党だけでなく野党の論理を取り込むような、アウフヘーベンするような、より高い包括性が必要になるということだ。

批判とは、なにかものを外部からたたくというのではなく、いままで普遍的だとおもわれていたものが、じつはもっと普遍的なものの特殊なケースにすぎないことをあきらかにすることです。そのものを普遍的なものの一モメントにおとし、没落させる、これが批判ということです。(見田石介『ヘーゲル大論理学研究 1』p.6-7)

 相手の批判が十分に取り込まれ、意識された、もっと大きな体系になっている。だから討論は意味がある、ということになる。*4
 革新であろうが保守であろうが、首長になる人にはそのような資質が必要なのだ。

*1:手元に正確な記録がないので、ぼくが聞いた「うろ覚え」の理解。

*2:この本は商業的にいうとタイトルで損をしている。いかにも説教くさい。しかし潮谷の立場はまさにこういう要約となるのだろう。自分の人生を正面に提示しようと思えば妥協なく真摯にこういうタイトルにしたのではないか。「売れるな〜」とか考えずに。

*3:住民討論集会にも様々な評価があることは、この『聞き書き』を読んでいてもわかる。

*4:首長ではないんだけど、安倍政権はこの点でホント落第だと思う。また、福岡市の郄島市長は木下斉が著書で述べているような“全員合意指向=「みんな病」の批判者”、“100人の合意より1人の覚悟”を地でいく典型的な「独創的実業人」タイプだ。一見「独創」的なアイデアを(その実、国策のトレンドに従属して)バンバンやっていくやり方であり、社会合意をていねいに積み上げていく「地方自治の本旨」とは遠くかけ離れた人であろう。

『“町内会”は義務ですか?』引用体験談のOさんからのメール


 拙著『“町内会”は義務ですか?』(小学館新書)を読んだ方(そしてぼくが引用している体験談を書かれた方)からのメールが届きました。

 興味深い内容であり、ご本人の許可を得て、公開させていただきます。

 突然のメールで失礼します。


 ご著書『“町内会”は義務ですか?〜コミュニティと自由の実践〜』の第2章「昔ながらの同調圧」で駄文を引用していただいた島根県のOと申します。友人が「本を読んでいたらお前の名前が出ていたのでその雑誌を買ってみた」と教えてくれて知るところとなりました。もとより、自分の書いた文章が活字(これも古風な表現で実状にあいませんが)になった時点で、このような形で引用されてしまうのは致し方ないことと考えますし、ムキになって異議申し立てなどするつもりはありません。


 ただ、「全然違うんだけどなぁ〜」という感じで一言申しあげたくなった次第です。


 この「季刊地域」は、特集が「むらのお葬式」でありましたので、編集者の要望にお応えする形で葬式を通じたつながりについてのみ書かせていただいたのですが、実際にはご指摘の「同調圧」なるものは蹴飛ばしながらこの地域で暮らしている。


 ただ、この場で求められているテーマでなかったから触れなかっただけで、この土地に住み始めた当初は、どの自治会に参加しようとしても拒まれ、どの水利組合に頼んでも水道水を分けてもらえないという状況の中で、半年間水道のない暮らしをし、それでも「うちはうちで(家の裏に広がる)西の原のキツネやタヌキを集めて自治会を作ろう」と笑いながら蹴飛ばして来た者です。そのうち「見ておられない」と声をかけてくださる方の仲介もあってメデタク自治会も水道もやって来た(こういうのを村入りと言うものか・・・)。


 自治会に入ったとたん、順番だからと、お手並み拝見と言わんばかりに自治会の役員をやらされ、最初に出て行った役員会で目にした予算・決算書にある「神社費」の項目に食い付いて、こんなモンが本会計に入っているのはおかしいと憲法まで引き合いに出してクレームを付け、居合わせた司法書士を業とする役員に「言われてみればそうだ」との「同調」意見を得て、以後神社関連の会計は全く切り離す、その数年後にはその神社から届く「お伊勢さんのお札」も「うちは浄土真宗ですから」とお断りし、やがて地域の中で「無理に受け取ることはないもの」である空気を作りあげてきた。地域で公害問題が生じれば真っ先に抗議文を作って行政に突き付けて企業を入らせない。そういうことを続けたうえでの「いいものだ」という感慨なのです。


 紙屋さんのおっしゃる「同調圧」など屁でもないと思っています。だからこそ、35年住んだ今でも「よそ者」であり続けているのです。それでけっこう。「よそ者」が田舎で暮らす心得として夫婦で確認していたことがあります。100パーセント受け入れてもらおうなどと最初から望まない。だからと言って対抗・対立の関係にもならない。「よそ者の割にそこそこやっている」という関係で充分という態度でいこう、と。


 まあ、どこかのらりくらりしているようで、言うことだけは言わせていただく。守るべきところは守る。
 それでも、「いいものだ」と思えるのが、私にとっての地域なのです。
 そこんとこわかってちょうだいよ、というのが私の正直な感想です。


 地域を相手に少々の「実践」をしたところで、後ろから撃たれることはありません(これまではありませんでした)。
 以上、ほんの少し鼻で笑われているような感覚を味わいましたので、自分の中で「スーッとしたい」だけの理由で申しあげました。

 ぼくは『“町内会”は義務ですか?』のなかで同調圧力おそるべしというニュアンスで書いたので、この方もまるでこうした圧力を恐れているかのような印象を与えてしまったのですが、当人としては「屁でもない」、それなりに覚悟と処し方があるのだ、ということです。