日野雄飛『理想と恋』

 ある仏教書を読んでいると、次のような章・節タイトルに出会った。

「生命を生かしているもの」

「だれに生かされているのか」

 仏教の本を読んでいて、このタイトル。

 誰がどう考えてもこの章には、「宗教」じみた、「説教」くさい話が書かれているのだろうと考える。

 ところがこの著者は、「神さまでしょうか、なにか外部の存在でしょうか」と問いかけながら、次のように書くので、笑ってしまう。

 

わたしたちを生かしているものは、「不満」なのです。不満が、わたしたちを生かしているのです。/不満が「ああしなさい、こうしなさい」と命令して、わたしたちの生きるパターンを形づくっているのです。不満は、エンジンのようなものです。ジェット機が動くためには、エンジンが必要でしょう。いくら大きな両翼がついていても、エンジンがなければ一ミリたりとも動きません。(A・スマナサーラ『わたしたち不満族国書刊行会p.44-45、強調は原文)

 

 さすが仏教書!

 無神論としての、そして精神コントロールの宗教としての、面目躍如である。

 

わたしたち不満族―満たされないのはなぜ?

わたしたち不満族―満たされないのはなぜ?

 

 

 その上、「スリランカ初期仏教長老」の肩書を持つこの著者は、「満足は『死』を意味する」として、

「生きることに満足した」なら、生きることができなくなり、生きることが終了します。人生に満足したということは、人生が終わったということです。やることもないし、がんばれなくなります。/これは冗談ではなく、ほんとうに停止するのです。つまり「死」なのです。すべての機能がストップするのです。(スマナサーラ同書p.38) 

「満足すること」と「生きること」は敵同士です。(同p.42)

と説く。

 

 ちなみに、最も原初的な欲望、例えば食べてもまた食べたくなる、セックスしてもまたセックスしたくなる、というのは、動物として生き残った人間(ホモ・サピエンス)というものの自然選択の結果であり、バグではなく仕様なのだ、というのはロバート・ライト『なぜ今、仏教なのか』(早川書房)で読んだ(以下の引用に出てくる「章」は同書の章)。

 

 人間は目標を達成することで、長続きする満足が得られると期待しすぎる傾向がある。この錯覚とそこから生じるあくなき欲望という心の傾向は、自然選択の産物と考えると納得がいくが(1章を参照)、かならずしも生涯にわたる幸せの秘訣ではない。(ライト同書p.329)

ドゥッカは、普通に生きていれば容赦なくくり返しやってくる人生の一部だ。ドゥッカを従来どおり純然たる「苦しみ」と訳すだけではそれを実感しにくいが、「不満足」という大きな要素を含めて訳すとよくわかる。人間をはじめ生物は、自然選択によって、ものごとが(自然選択の観点から)「よりよく」なるような方法で環境に反応するように設計されている。つまり、生物はほとんどいつも、楽しくないこと、快適でないこと、満足できないことを探して地平を見渡しているようなものだ。そして満たされないことは必然的に苦しみをともなうため、ドゥッカに不満足が含まれると考えることは、結局、苦しみという意味でのドゥッカが人生に浸透しているという思想の信憑性を高めることになる(1章、3章を参照)。(ライト同前)

四聖諦で明らかにされるドゥッカの原因――タンハー(「渇き」「渇愛」「欲望」などと訳される)――は、進化を背景にすると納得がいく。タンハーは、どんなものに対する満足も長くつづかないように自然選択が生物に植えつけたものといえる(1章を参照)。(ライト同前)

 

なぜ今、仏教なのか――瞑想・マインドフルネス・悟りの科学

 

 何かコンプレックスを抱えていたり、それを人生の「欠損」だと考えたり、そうした広い意味での「不満」を抱えていることは、実は特殊なものではなく人間にとって当たり前のことであって、こうしたある種の仏教系の本にかかれば、むしろそれこそが逃れがたい人間の本質なのだとさえ言えるのだ。

 仏教は、もともとはこのような気持ちを、すなわち「渇き」を受け入れ、出家者にはその消滅(まさに「涅槃」に入る)、世俗の者にはそのマイナスの気持ちへの対処・軽減を教えようとする宗教であった。

 

 足りないものを埋めようとして、埋められずにもがいたり、かつえたり、苦しんだりすることは、初めから矛盾を抱えた概念とも言える。だって、それは「愛する人を失った」とか「才能がない自分に絶望した」というような最大にマイナスの感情から、「必死で工夫して新しい道具を作った」とか「愛する人の愛を得た」とか言ったような最大にプラスの感情までをも含むものだからである。不満は絶望の原因であるととともに理想や進歩のテコでもある。

 

 百合マンガ、日野雄飛『理想と恋』(KADOKAWA)に所収の短編連作「れんげがさいた」には、「普通の人」になりたいと願う主人公・新垣真由子(まゆこ)が登場する。バイト先でもらったチケットで見に行った劇に出ていた大門留梨(るり)の演技に強く惹かれて、そのアマチュア劇団に入団までしてしまう。(以下、ネタバレがあります)

理想と恋

 

 平日は居酒屋でバイトをして帰ったら寝るだけ。実家のご飯を食べ、休日はだらだらとテレビを見て過ごす。仲の良かった高校の友人たちはみんな大学に行ってしまった。それがまゆこの日常である。

 「満足」というのか、例えば貧困から抜け出そうというような意味の必死さもなく、まさに生きる意味において「死」を迎えているかのように描かれているのが、まゆこの生活なのだ。満足のように見える生活は根本的な不満を抱えている。

 そこに全く新しい刺激としての、るりの属している劇団(百花)の生活が新鮮に登場してくる。別人のようにアクティブに動くまゆこが描かれる。

 まゆこは同性愛者である。

 同性愛者である自分を隠し、それを負い目のように受け取り、なおかつ、生活において根本的な不満を抱えている。だからこそ、まゆこは、「普通の人」になりたいとるりに打ち明ける。

 まゆこは、るりとの二人劇を通じて、そしてその劇のための観察を通じて、誰もが不満を抱え、コンプレックスを抱え、欠損を抱えて、それを埋めようとしていることに気づく。

 「普通の人」とは、欠損やコンプレックスや不満がなくなった人、マイナスではないゼロ値のような人としてまゆこにはイメージがあったに違いない。だが、そんなものは「普通」ではなかった。

 まゆこが気づいたかどうか知らないが、そんな意味での「普通の人」というのは、「不満でない人」であり、それはすなわち劇団をやめ、まゆこの元の日常に戻ることである。また、同性愛者であることをやめてしまう(というか厳密に言えば「やめる」ことはできないから、その点に関して他人には閉じてしまう)ことでもある。さらに、るりという愛の対象を諦めることでもある。

 まゆこは結論として「普通でない人」を生きることによって(実はそれこそが本当の意味での「普通の人」なのだが)、仏教が言うところの「渇き」の中に放り出され続ける。しかし、それは見方を変えれば、進歩や理想を求める生き方を選ぶことであり、愛を追い求める生き方を選ぶことでもある。

 

 るりがまゆこにつぶやく才能論がある。

 

人より楽にできることがあって――

それを磨く努力を継続できるなら

それを「才能」って言うと思う

 

 

 それは「素質」ではないか、とも思うが、続けてるりが

 

それに「ある」って思わないと

やってられないでしょ

なんでも

 

 

と言っていることに絡めて言えば、自分や他人を励ます言葉としての「才能」なのかな、とも思う。

 ぼくは年に1回だけ娘の保育園時代のクラスの家族たちと旅行に行くのだが、小6の今年が最後で、子どもたちの「将来の夢、もしくは、いまがんばっていること」を聞く機会があった。

 総じて、どの子もまだ「才能」と呼べるようなものはまだ何もないのだが、ここにあるるりの唱える才能論を足がかりにしてみれば、子どもたちはこれから「自分の才能」というものを「根拠」にできるのかもしれないなと思った。るりの語る「才能」は、萌芽にある人たちをエンパワーメントするための言葉だ。

 

 ぼくはまゆこを眺めるとき、性的な対象である女性としての要素で多少見つつも、むしろ自分とある程度ダブらせて読んだ。自分を変えていこうとする姿に、ぼくもこんな前向きな気持ちで自分を変えられたらいいなと感じたのである。少し眠たそうな目と、コンプレックスを抱える姿が、この女性の謙虚さや弱さを示していて、ぼくの中の似た部分にすっと入ってきた。

 すなわち、まゆこのようになりたいな、と思ったのである。